ダーク・ファンタジー小説
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- 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている
- 日時: 2026/02/03 21:36
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
かなり長編(になる予定)のやつです。前から執筆をしていたものですが、まだ完結していません。
結末はまだどうなるかはわかりませんが、毎朝出す予定(今回こそ)なのでぜひチェックをお願いします。順番がめんどくさいことになっているので、このページの目次から移ることをお勧めします。
第一部 忘却の監獄編 >>1-15
第1章 春の砂塵 >>01
第2章 完璧な教室 >>02
第3章 清められた傷跡 >>03
第4章 親切な包囲網 >>04
第5章 静寂の鱗粉(りんぷん) >>05
第6章 カチ、カチ >>06
第7章 1986年の放課後 >>07
第8章 垂直の闇 >>08
第9章 腐食する日常 >>09
第10章 11月14日の黒板 >>10
第11章 朝の境界線 >>11
第12章 白い診察室 >>12
第13章 幸福な監獄 >>13
第14章 夕暮れの図書室 >>14
第15章:深淵への選択 >>15
第二部 前書き >>16
第二部 1986年の残響編 >>17-30
まだ目次は作成途中です。これからどんどん増えていくと思います。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.8 )
- 日時: 2026/02/02 14:17
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第8章:垂直の闇
「――下りるって、ここを?」
ハルの声は、旧図書館の湿った空気に吸い込まれ、驚くほど力なく響いた。 シノが指し示した漆黒の穴。それは、かつてこの学校が「機能」していた時代に、地下のボイラー室と図書室を繋いでいた廃棄物用のダストシュートだった。口を開けた闇は、冷たく、重たい油の匂いを吐き出している。
「飛び込むんじゃない。『委ねる』んだ」 シノは表情一つ変えず、真鍮製のレバーに手をかけた。 「追っ手はすぐにここへ着く。彼らに捕まれば、君たちの意識は『再フォーマット』される。……今の君たちが君たちであるうちに、ここを離れる必要があるんだ」
廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくる。それはもはや教師たちの優しい歩調ではなかった。床を削るような、硬質で、執拗な金属音。
「如月君……」 ユキがハルの制服の裾を、白くなるほど強く握りしめた。彼女の震えが、ハルの体温を奪っていく。 ハルは、自分の右手のひらを見つめた。 皮膚の中に沈み込んだ「黒い砂」が、心臓の鼓動に合わせてチリチリと熱を帯びている。それは警告ではなく、まるで「帰ってこい」と誘う呼び声のようだった。
「……行こう、ユキさん」 ハルは、自分でも驚くほど静かな声で言った。 彼はユキの細い肩を抱き寄せ、シノに続いてその闇の淵に足をかけた。
一歩。 重力に身を投げ出した瞬間、世界から色が消え、音が消えた。
視覚が死んだ世界で、ハルの神経は異常なほど研ぎ澄まされた。 肌を撫でる風は、上へ向かうのではなく、下から突き上げてくる。落下しているはずなのに、まるで深い水の中へ沈んでいくような、不思議な浮遊感があった。
シュートの内壁からは、時折、パチリという放電のような音が聞こえた。 「――途中で『壁』を触るな」 シノの警告が頭をよぎる。ハルは空中で体を丸め、ユキを庇うように腕に力を込めた。 壁の向こう側から、奇妙な音が漏れ聞こえてくる。 それは、何百人もの人間が、一斉に紙をめくっているような音。 あるいは、遠い夏の日に、誰かが泣き叫んでいた声の残響。
このダストシュートは、単なる階層の移動手段ではなかった。 それは、40年という時間の堆積(たいせき)を垂直に貫く、時空の傷跡だ。
ドサッ。
衝撃は、肺の中の空気をすべて吐き出させるほど重かった。 ハルたちは、数え切れないほどの古い紙束の山に叩きつけられた。 舞い上がる埃。古いインクと、煤(すす)と、そして微かな「火薬」の臭い。
ハルは、咳き込みながら顔を上げた。 視界が白く霞んでいる。それは埃のせいだけではなく、ここにある空気が、現代のそれよりも密度が濃いせいだと思えた。
「……ユキさん、怪我はないか?」 「ええ……なんとか。でも、ここ、どこ……?」
ユキが立ち上がろうとして、足元の紙束を崩した。 ハルはその一枚を手に取る。それは茶色く変色し、縁が焼け焦げた出席簿の断片だった。 1986年度。ハルの父親ですら、まだ子供だった頃の記録。 そこに記された名前のいくつかは、乱暴な黒線で塗りつぶされている。
「ここは、学校の『盲腸』だ」 暗闇の中から、シノの声が響いた。 彼は燐光を放つ石を床に置き、周囲を照らし出した。
そこは、新校舎の設計図には存在しないはずの「中層階」――1階と地下1階の間に生じた、歪な空間だった。 天井からは、のたうつ蛇のような配管が幾本も垂れ下がり、そこから漏れ出る黒い液体が、コンクリートの床に不気味な模様を描いている。
ハルはふと、自分が着地した紙の山に、一枚の新しいプリントが混ざっているのに気づいた。 それは、数日前に行われたはずの「入試問題」だった。 けれど、その紙は、まるで40年の歳月を経たかのようにボロボロに朽ち果てていた。
「……どうして、僕たちの試験問題が、こんなところに?」 「時間は、ここでは一定じゃない」 シノは、配管の影に消えそうなほど薄暗い通路を指差した。 「君たちが昨日受けた試験も、40年前の爆発も、ここでは同じ『現在』なんだよ。……ほら、聞こえるだろう?」
ハルは耳を澄ませた。 コンクリートの壁の向こう側。 遠く、遠くの方で、大勢の生徒たちが一斉に走り回る足音が聞こえる。 それは、今の生徒たちではない。 40年前、この場所で、出口を求めて絶望的に走り抜けた少年少女たちの、消えない足音だ。
ハルは、自分の右手の痣を見た。 そこからは、先ほどまでの燐光とは違う、どす黒い熱気が立ち上っていた。
「……戻れないな、もう」 ハルは、独り言のように呟いた。 背後にあるダストシュートを見上げても、そこにはただ、出口のない闇が重く蓋をしているだけだった。
「ようこそ、聖ヶ丘の『真実』へ」 シノの言葉と共に、通路の奥から、シュルシュルと何かが這い寄る音が響き始めた。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.9 )
- 日時: 2026/02/02 16:56
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第9章:腐食する日常
中層階の回廊は、静まり返っていた。 先ほどまで聞こえていた這いずるような音も、今は止んでいる。だが、その静寂こそがハルたちの神経を鋭利に削り取っていく。
「……ねえ、ハル君。これ、変だよ」
ユキが、自分の肩に手を置いて立ち止まった。 彼女の指先が触れているのは、自分のブレザーの生地だ。ハルは足を止め、自身の身なりに視線を落とした。
異変は、静かに、しかし決定的に進行していた。 つい数時間前まで、最新のポリエステル素材で仕立てられた、光沢のある紺青色だったはずの制服。それが今、見たこともないほど厚手で、ざらりとした手触りのウール生地に変質している。色味はくすんだ濃紺に変わり、胸元に輝いていたはずの現代的な校章は、いつの間にか、古い真鍮製の重々しいボタンにすり替わっていた。
「……40年前の、制服?」 ハルはそのボタンを指先でなぞる。指先に伝わるのは、金属の冷たさと、積年の埃を吸い込んだ布の重みだ。
「空間が君たちを『定義』し始めているんだ」 前を歩くシノが、振り返らずに言った。彼の声は、コンクリートの壁に吸い込まれて反響しない。 「この場所において、君たちが『現代の生徒』であるという根拠は、君たちの記憶の中にしかない。けれど、この空気、この匂い、この湿度が、君たちの身体を『1986年の住人』として塗り替えていく」
「そんな……。じゃあ、私たちの記憶も、いつか塗り替えられちゃうの?」 ユキが自分のこめかみを押さえ、必死に何かを拒むように首を振る。 「私の名前、住所……お母さんの顔……。まだ、ちゃんと覚えてる。でも、さっきから、知らないはずのメロディがずっと頭の中で鳴ってるの」
ユキが呟いた言葉に、ハルもハッとした。 言われてみれば、耳の奥で、微かな、けれど執拗な音が鳴り続けている。 それは、古いシンセサイザーが奏でるような、どこかチープで切ない旋律。1980年代の放課後に、校内放送で流れていたような、甘酸っぱくて退廃的なBGMだ。
ハルは、意識を保つために右手の拳を強く握った。 手のひらに沈み込んだ砂が、肉を噛み切るように鋭く疼く。その痛みが、唯一、彼を「今」に繋ぎ止めるアンカーだった。
回廊の脇に、放置された古い手洗い場があった。 タイルはあちこちが剥がれ落ち、そこには茶色く濁った水が溜まっている。鏡があったであろう場所には、もはや何も映らないほどに汚れた煤けた板が嵌め込まれていた。
ハルはふらふらと、その手洗い場に近づいた。 「……見ちゃダメだ」 シノの声が聞こえたが、遅かった。
ハルは、煤けた板に映る「自分」を見てしまった。 そこにあったのは、今のハルの顔ではなかった。 前髪の分け方が少し違い、眼鏡のフレームは野暮ったい黒縁に変わっている。そして、何より――その瞳の奥に宿る「絶望」の色が、15歳のハルが知るはずのないほど、深く、濃い。
「これは……僕じゃない」 ハルが後ずさりすると、煤けた板の中の「ハル」も同じように動く。だが、板の中の彼は、ハルが口を動かしていないのに、微かに笑ったように見えた。
『――脱出、できなかったんだね』
声が聞こえた気がした。 耳からではなく、背骨の芯から直接響いてくるような、呪詛に近い囁き。
「……っ!」 ハルは蛇を振り払うように、手洗い場から飛び退いた。 心臓が激しく波打ち、視界がチカチカと点滅する。周囲のコンクリート壁が、まるで呼吸しているかのように膨らんだり、凹んだりして見えた。
「落ち着け、如月」 アキトが(いつの間にか彼もダストシュートを下りてきていたのか、それとも最初からいたのか、ハルの記憶は混濁していた)ハルの肩を強く掴んだ。 「それはお前じゃない。ただの『過去の残像』だ。……見ろ、俺たちを」
アキトの姿もまた、変質していた。 短く切り揃えられていたはずの髪は少し伸び、耳元には当時流行していたような安っぽいピアスが光っている。 けれど、その目は依然として鋭く、現代の「阿久津アキト」として、この狂った空間を睨みつけていた。
「俺たちは、あいつらの思い通りにはならない。制服が変わろうが、顔が歪もうが……この腹の底にあるムカつきだけは、俺たちのものだ」
アキトの乱暴な言葉が、ハルの意識を辛うじて現実に繋ぎ止めた。 ハルは深く息を吐き、煤けた手洗い場に背を向けた。
「……シノさん。この『中層階』は、どこまで続いてるんですか」 「距離の問題じゃない。君たちが、自分を失わずにどこまで歩けるかの問題だ」 シノは燐光の石を掲げ、さらに奥へと続く暗い階段を指差した。
「この先には、1986年の生徒たちが『立てこもった』現場がある。……彼らが爆弾を仕掛けた、最初の場所だ。そこには、君たちが探している『砂の味』の答えが落ちているかもしれない」
階段を下りる足音が、重く、鈍く響く。 ハルの身体は少しずつ、けれど確実に、40年前の闇に馴染み始めていた。 制服の重みが、もはや違和感ではなく、必然のように感じられ始めていることが、何よりも恐ろしかった。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.10 )
- 日時: 2026/02/02 21:54
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第10章:11月14日の黒板
階段を下りるたび、空気の層が目に見えて厚くなっていくのが分かった。 それは埃のせいだけではない。何百人もの人間が、極限状態で吐き出した熱気と、言葉にならなかった悲鳴が、数十年の時を経て重油のように澱(よど)んでいるのだ。
「……着いたよ。ここが、彼らの『司令部』だった場所だ」
シノが立ち止まり、錆びついて半分朽ち果てた引き戸に手をかけた。 キィィ……と、耳の奥を削るような音が響き、扉が開く。 そこにあったのは、先ほどまでハルたちがいたはずの「1年A組」だった。
だが、そこには新校舎の清潔な光沢も、人間工学に基づいた椅子も、全面タッチパネルのデスクもない。 並んでいるのは、無骨な木製の机と椅子。天板には落書きが深く刻まれ、長年の学生たちが流した汗とインクの匂いが染み付いている。 窓硝子はすべて激しい爆風で内側に飛び散り、サッシだけが牙のように剥き出しになっていた。
「……これ、私たちの教室?」 ユキが呆然と呟き、教室の中に足を踏み入れた。 足元で、粉々に砕けた硝子がジャリ、と音を立てる。その音は、ハルが手のひらに抱えている「砂」の音と、酷似していた。
ハルの視線は、教室の正面にある大きな黒板に釘付けになった。 そこには、チョークで書かれた文字ではない「何か」があった。
1986年11月14日。 爆発の瞬間に発生した凄まじい熱線が、黒板の表面を焼き焦がし、そこに書かれていた文字を「反転」させて焼き付けていたのだ。
『我ラ、此処ヨリ脱出ス。記憶ノ残滓ヲ、未来ノ同胞へ託ス』
その力強い筆致は、まるで今書かれたばかりのように生々しい。 そしてその下に、殴り書きされた一文があった。
『第一関門:時計台の針を逆さに回せ。第二関門:砂を喰む者の影を追え。第三関門――』
「……これ、入試の課題だ」 ハルは、喉の奥がカラカラに乾くのを感じた。 「僕たちが『脱出試験』で解かされた問題と、一言一句同じだ……。でも、どうして? 40年前の生徒たちが書いた立てこもりの宣言が、どうして今の入試問題になってるんだ?」
ハルは、自分の右手の痣が、黒板に刻まれた文字に呼応して激しく発熱するのを感じた。 痣に浮き出た「地図」のような紋様が、今、黒板の焦げ跡と重なり、一つの回路を形成している。
「ハル、見ろ。黒板の隅だ」 アキトが、暗闇を指差した。 そこには、熱で溶けかかったカセットレコーダーが、教卓の上に鎮座していた。第7章で聞いたテープの「本体」だろうか。レコーダーの横には、小さな、しかし異様なほど存在感を放つ「容器」が置かれていた。
それは、透明なアクリルケースの中に収められた、一握りの「黒い砂」だった。 ハルが手のひらに持っているものと同じ。だが、ケースの中のそれは、銀色の微小な火花を散らしながら、生き物のようにうごめいている。
「それが、この学校のエネルギー源であり、呪いの正体だ」 シノが、ケースに近づき、憐れむような目でそれを見つめた。 「量子化された思念体。……40年前、生徒たちが『脱出』を試みた際、その強い意志が爆発の衝撃で物質化したものだよ。学校側はこれを『砂』と呼び、生徒たちの記憶を管理するための触媒として利用している」
「じゃあ、僕の体の中にあるこの砂は……40年前の誰かの『心』だって言うんですか?」 ハルの問いに、シノは答えなかった。
代わりに、教室の窓の外で、異変が起きた。 夜の闇に沈んでいたはずの校庭に、突如として「太陽」が昇ったのだ。 いや、それは太陽ではなかった。 40年前のあの日、この場所で起きた「爆発」そのものだった。
無音のまま、巨大なオレンジ色の光が地底から噴き出し、校舎を飲み込んでいく。 現代の新校舎が、紙細工のように燃え上がり、剥がれ落ちていく。 ハルたちの周囲の景色が、激しく明滅し始めた。
「……っ、来るぞ! 空間の再構築(リビルド)だ!」 シノが叫ぶ。
教室の黒板が、溶けるように歪み始めた。 焼き付いた文字が動き出し、生き物のように壁を這い回り、ハルたちの足元を浸食していく。 ユキが悲鳴を上げ、ハルは彼女の体を強く引き寄せた。
その時、ハルの耳の奥で、はっきりとした声が響いた。 それは、テープで聞いたあの少年の声でも、シノの声でもなかった。 もっと幼く、泣き出しそうな、けれど凛とした声。
『――見つけて。僕たちが、何を「脱出」させようとしたのかを』
ハルが顔を上げると、爆風の中に一人の少年が立っていた。 旧制服を纏い、顔の半分が影に隠れたその少年は、ハルと全く同じ場所に「黒い痣」を持っていた。
少年が手を伸ばし、ハルの右手に触れた。 瞬間、ハルの脳内に、奔流のような映像が流れ込んできた。 叫び声。火薬の匂い。暗い廊下を必死に駆ける足音。 そして、自分を「如月ハル」だと認識していた確固たる意識が、砂の山が崩れるように脆く瓦解していく。
「……僕は……僕は、誰だ?」
ハルの口から出た言葉は、もはや15歳の少年のものではなかった。 黒板に刻まれた「40年前の筆致」と同じ、深く、重い響きを帯びていた。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.11 )
- 日時: 2026/02/02 22:16
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第11章:朝の境界線
「――如月君、如月君ってば!」
鋭い声に弾かれ、ハルは跳ねるように目を開けた。 視界を埋め尽くしたのは、40年前の爆炎ではなく、窓から差し込む暴力的なまでの春の陽光だった。
「……あ、え?」 「もう、入学早々居眠りなんて大物だね。昨日の疲れが出ちゃった?」
目の前でクスクスと笑っているのは、カナだった。 そこは、あのカビ臭い旧図書館でも、煤けた1年A組でもない。最新の空調が微かな音を立て、清潔な香りが漂う、1年A組の「現代の」教室だ。
ハルは慌てて自分の手を見た。 厚手のウール生地だったはずの袖は、さらりとした紺青色のブレザーに戻っている。右手のひらを確認するが、そこには「黒い砂」も、浮き出た数式も、ましてや不気味な痣すらなかった。
「……夢、か?」
ハルは呆然と呟いた。 あまりに生々しい火薬の匂いも、ユキの手を引いた感触も、今は遠い霧の向こう側の出来事のように感じられる。
「ねえ、聞いてる? 次、移動教室だよ。アキト君なんて、もうさっさと行っちゃったよ」 カナが指差す先、空席になったアキトの席が見える。彼はいつも通り、不機嫌そうに授業を受けていたのだろう。
(……ユキさんは?) ハルは隣の席を盗み見た。 そこには、ユキが静かに教科書を片付けている姿があった。彼女の横顔は穏やかで、怯えた様子も、ましてや腕に青い燐光を放つ痣がある様子もない。
「……ユキさん」 「えっ? あ、如月君。おはよう」 ユキは少し驚いたように、けれど可憐に微笑んだ。 「随分ぐっすり眠っていたみたいだけど、大丈夫? 昨日の入学式、少し長かったしね」
その笑顔には一点の曇りもなかった。 ハルは深い安堵と共に、脱力感に襲われた。 そうだ。きっと、あの「脱出試験」の緊張が、変な悪夢を見せただけなのだ。ここは安全で、光に満ちた聖ヶ丘高校。あの暗い「中層階」なんて、どこにも存在しない。
放課後。 学園は再び、華やかな部活動の活気に包まれた。 テニス部がボールを打つ乾いた音。吹奏楽部の練習するトランペットの音色。 ハルはカナと一緒に、中庭のテラス席で炭酸飲料を飲んでいた。
「やっぱりこの学校にして良かったよね。ご飯は美味しいし、先生たちは優しいし」 カナがストローを咥えながら、楽しげに語る。 ハルも頷こうとして、ふと視線を校庭の中央に向けた。
そこには、あの赤錆びた「鎮魂の塔」が立っている。 「……ねえ、カナ。あのモニュメントって、やっぱり地盤沈下の供養なんだよね」 「え? うん、パンフレットにはそう書いてあったよ。……あ、でも、さっき図書委員の子が言ってたけど、あそこ、夜になると少しだけ変な音がするって噂があるんだって。まあ、古い鉄骨だし、風のせいじゃない?」
ハルは鼻で笑った。 (何を変な噂に怯えてたんだ、僕は)
「如月君、ここにいたのか」 声をかけてきたのは、担任の佐伯だった。 彼はいつも通り、完璧なスーツ姿で、完璧な笑顔を浮かべている。 「昨日の健康診断の結果、少し貧血気味だったようだよ。放課後、保健室に寄ってサプリメントを受け取っていくように。この学校では、生徒の体調管理も教育の一環だからね」
「あ、ありがとうございます。……先生、昨日の健康診断で、僕、どこか怪我とかしてませんでしたか?」 ハルが試すように尋ねると、佐伯は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、眼鏡を指で押し上げた。
「怪我? まさか。君の皮膚はとても綺麗だったよ。……さあ、あまり遅くならないうちに保健室へ」
佐伯が去った後、ハルは不思議と心が軽くなっているのを感じた。 「ほらね、先生もあんなに優しい。変な夢のことは忘れて、これからの三年間を楽しまなきゃ」 カナに促され、ハルは立ち上がった。
保健室へ向かう廊下。 ハルは窓ガラスに映る自分の姿を見た。 そこには、清潔な制服を着た、どこにでもいる「現代の高校生」が映っていた。 黒縁の野暮ったい眼鏡でも、絶望した瞳でもない。
(……良かった。全部、夢だったんだ)
ハルは、自分の右手をポケットに突っ込んだ。 その時。 指先に、ザラリとした「何か」が触れた。
ハルは、心臓が凍りつくのを感じながら、それをゆっくりと取り出した。 指先に乗っていたのは、一粒の、黒い砂。 そして、その砂は、眩しい午後三時の太陽の下で、チリチリと青白い火花を散らしていた。
(――……逃げて)
耳の奥で、誰かの声が、昨日よりも鮮明に響いた。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.12 )
- 日時: 2026/02/03 07:30
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第12章:白い診察室
保健室は、外の世界の喧騒を一切遮断した、静謐な繭(まゆ)のようだった。 白一色の壁、眩しいほどに清潔なシーツ。そして、微かに漂うユーカリの香り。そこは「痛み」や「苦しみ」という概念が存在することさえ許さないような、完璧な癒やしの空間だった。
「――お入り、如月君。待っていたよ」
奥の診察机で、校医の安藤が柔らかく微笑んだ。彼女は白衣を完璧に着こなし、淀みのない動作でカルテを開く。
「先生、佐伯先生にサプリメントを貰うように言われて……」 「ええ、聞いています。君は入試のストレスで、少し自律神経が乱れているようね。……最近、変な夢を見たり、現実と区別がつかなくなるような感覚に襲われたりしていないかしら?」
安藤の問いは、どこまでも親身で、母親のような慈愛に満ちていた。 ハルは一瞬、ポケットの中の「黒い砂」を握りしめた。 (ここで話してしまえば、この不安を全部消してくれるだろうか) そう思いかけた瞬間、安藤の背後にある棚に並んだ、無数の茶色の小瓶が目に入った。そのすべてに、ハルのクラスメイトたちの名前が記されたラベルが貼られている。
「……いえ。昨日は少し寝不足だっただけです」 「そう。ならいいの。でも、無理は禁物よ。この学校は、君たちが『健全な精神』でいられることを何よりも望んでいるんだから」
安藤は、琥珀色の錠剤が入った小さな包みをハルに差し出した。 「これを寝る前に一錠。嫌な記憶を整理して、脳を深い休息へと導いてくれるわ。……昨日、中庭で転んだ女の子も、これを飲んで今はすっかり元気になったわよ」
昨日、中庭で転んだ女の子。 それは、ハルと共にあの「垂直の闇」を体験したはずの、ユキのことではないのか。
「……ユキ、……いえ、水瀬(みなせ)さんも、ここに来たんですか?」 「ええ。彼女、ひどく混乱して泣いていたけれど、安らぎが必要だと分かってくれたわ。今はもう、自分の教室で元気に明日の予習をしているはずよ」
ハルは、喉の奥に冷たい塊が詰まったような感覚を覚えた。 保健室を出たハルは、急いで1年A組の教室へと戻った。
教室では、ユキが数人の女子生徒と楽しげに談笑していた。 「そうなんだ! あのカフェのパンケーキ、今度みんなで行こうよ」 その明るい声。屈託のない笑顔。 数時間前、暗闇の中でハルの腕を掴み、「私の名前、忘れたくない」と泣きじゃくっていた少女の面影は、どこにもなかった。
「……ユキさん」 ハルが声をかけると、彼女は不思議そうに小首を傾げた。 「あ、如月君。どうしたの、そんな怖い顔して」 「昨日……放課後のこと、覚えてる?」 「放課後? ……あ、入学式のこと? 凄かったよね、あのパイプオルガンの演奏。私、感動しちゃった」
ハルは、目の前が暗転するのを感じた。 彼女の腕を見る。そこには、あの青い燐光を放っていた痣も、それを隠していたはずの医療用テープもない。ただ、陶器のように滑らかな、美しい皮膚があるだけだった。
「……アキトは?」 「阿久津君? さっき先生に呼ばれて、進路指導室に行ったみたい。彼、試験の成績が凄く良かったから、特別クラスに推薦されるんじゃないかって噂だよ」
ユキの言葉は、まるで完璧に調律された楽器のように響いた。 ハルは、教室の片隅で、自分の席に座っているアキトを見た。 彼はいつも通り、窓の外を眺めていた。だが、その瞳からは、あの「世界を呪うような鋭い光」が消え失せ、代わりに、深く、淀みのない「虚無」が宿っていた。
「……みんな、消されたんだ」
ハルは震える手で、ポケットの中の「砂」を強く握った。 鋭い痛みが走り、指先から一筋の血が流れる。 その痛みだけが、自分がいまだに「現実」という名の戦場に立っていることを証明していた。
廊下の角。 死角から、シノがハルをじっと見つめていた。 彼は何も言わなかった。ただ、自分の首筋に巻かれた、薄汚れた古い包帯を指差した。 『僕と君だけだ』 その瞳が、そう語っているように見えた。
ハルは、安藤から渡された錠剤を、迷うことなくゴミ箱へと投げ捨てた。 これから始まるのは、300人の「幸福な亡霊」たちに囲まれた、たった一人の孤独な脱出。
学園の時計台が、放課後の鐘を鳴らす。 その音は、もはやチャイムには聞こえなかった。 それは、ハルの正気を葬ろうとする、弔鐘(ちょうしょう)だった。

