社会問題小説・評論板
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- 境界性人格障害製造過程
- 日時: 2010/08/01 22:45
- 名前: みやび (ID: pHBCaraS)
境界性人格障害と戦う私と、その私を支えてくれる私の大切な家族のノンフィクションです。
最近やっと「死神」と遠くなったので、自叙伝を書いてみたいと思って書き始めました。
幼少期から書き始めるので、長くなると思いますが、よろしくお願いします。
- Re: 人格性障害製造過程 ( No.4 )
- 日時: 2010/08/03 00:13
- 名前: みやび (ID: pHBCaraS)
C県の家は、通りから入り、U字型の行き止まりの形に八件の家が並ぶ、
小さな集落を作るような家並だった。
最初のころ、母は持ち前の明るさと美貌で、
すぐに近所の仲間入りを果たした。
そういうことに関しては、得意な人であった。
・・・しかし、すぐにその人間関係は崩れていくのである。
私は、C県の小学校に入学し、
隣家には私と同い歳の女の子と、
やはり3つ違いの妹がいて、すぐに仲良くなった。
私達は、毎日そのU字型の道路で遊んでいた。
私は記憶力のよさと、負けず嫌いで、
成績は小学校から中学まで、
授業を聞いているだけで、ALL 5や、ALL Aをとる子供だった。
両親はそんな私に、見栄を張るかのように、将来なりたい職業は
「女医さん」
と答えろと教育し、私も小さいながら、
それがステイタスなのだと感じ、周りにそう答えていた。
最初の頃は上手くいっていた。
そう・・・近所内でのもめごとは無かった。
でも家庭では・・・?
母は時間にうるさく、夕方5時を1秒でも過ぎると、
家のすべての雨戸を閉め、
私は雨戸の隙間や玄関越しに、
一時間以上「ごめんなさい」を言い続け、
見かねた近所のおばさん家に入れてもらうことが度々であった。
母は、私に本読みをよくさせた。
自分はキッチンで、私は玄関で立ったまま。
離れてる場所なので、大きな声を出さなきゃいけなかったし、
少しでも間違えたり、どもったりすると最初から読み直しで、
それは30回は有に超えていた。
いつか雪の日に、その回数の多さにあまりに耐え切れず、
私は黙って家を出た。
関東ではめずらしく大雪の日であった。
雪は私の膝以上に積もっていた。
私は、普通のスニーカーで、行けるとこまで行こうと思った。
しかし、膝まで覆いかぶさる雪に私は疲れ、
家から15分位の公園までしか行けなかった。
でも、こんな日には、いくらなんでもママは心配して来てくれるだろう・・・。
と、誰も居ない銀世界の公園のブランコに乗りながら、
私は母が探しに来てくれるのを待っていた。
しかし、母は現れなかった。
いくら待っても現れなかった。
ただ、雪に埋もれていくベンチを私は見続けていた。
そして上着も着ずに家出した私は、寒さに耐え切れず、
母に許しを乞うて家に入れてもらった。
母は妹にも本読みをさせた。
まだ私より幼い妹は、何度も間違え、いらだった母は、
「今度間違えたら火つけるからね!!」
と言った。
私は、本当にはしないだろうと思っていたが、
母は間違えた妹の口元でマッチの火を擦った。
それは背筋の凍る恐怖を感じた。
妹はその他にも、蝋燭を垂らされたりの罰を受けていた。
(これは、後に大人になってから妹に聞かされた事実である。)
母は、なんでも人のせいにした。
テーブルの端っこに置いてあったボウルに,体があたってひっくりかえしてまうと、
「なにやってんの!!」
と、怒鳴り散らし、
「だって、そんなとこに置いてあるから・・・」
などと言うものなら、布団たたきで執拗に叩かれた。
ある日の夏休み・・・。
朝ご飯にお米と昆布巻きを出された。
「このご飯、臭いよ」
「うるさい!大丈夫よ!一粒残らず食べなさい!」
私と妹は、静かに、それを食べた。
その当時、保温機能付の炊飯器など無く、
ガスでお米を炊き、真夏の暑い中、いつ炊かれたか解らないそのお米は、
そのまま放置してあったのだ。
食後すぐ、犬の散歩に行くと、
帰り道から二人とも気持ち悪くなってきた。
家に着くなり、私は洗面所で、妹はトイレで吐き続けた。
妹は1時間位でおさまった。
胃腸の弱い私は、午前中ずっと洗面所で吐き続けていた。
吐いては床に倒れこみ、冷や汗と共にまた吐き気が襲ってくる。このまま死ぬのかと思った。
それを横目で見ながら無言で、洗濯機から洗濯物を出す母。
そして数時間後、まだ洗面所に倒れている私の前に、見下ろすように現れた母・・・。
「いつまでやってんのよ!オーバーなんだから!いいかげんにしてくんない?邪魔なんだけど!」
明らかにあれは食中毒だった。
それを認めず、しかも心配もせず、仮病扱いした母。
今思えば、母は最初からおかしかったのだ。
あの人も病んでいたのかもしれない。
- Re: 人格性障害製造過程 ( No.5 )
- 日時: 2010/08/01 21:01
- 名前: ひろあ (ID: wVDXtEbh)
おもしろいNe♪
がんばってください^^☆
- Re: 境界性人格障害製造過程 ( No.6 )
- 日時: 2010/08/02 10:52
- 名前: みやび (ID: pHBCaraS)
>ひろあさん
コメありがとうございます☆
記憶をたどるのは辛い作業でもあるのですが・・(汗
客観的に書くことは、治療にも繋がるかと思い、頑張って書いていきます。
- Re: 境界性人格障害製造過程 ( No.7 )
- 日時: 2010/08/03 00:30
- 名前: みやび (ID: pHBCaraS)
父はプログラマーであった。
その当時ではめずらしい職業でもあったのだろう。
若い頃、ヘッドハンティングされて、現在の会社に入った。
そして巧みな処世術 (私にとっては、ずる賢い仮面人間としか思えない) で役員になり、
現在は、定年の歳にも関わらず、あと3年の契約で、
九州支社立ち上げの為、単身赴任でその支社の社長となり、あと1年でこちらに帰ってくるらしい。
母はテレホンアポインター(昔は電話をつなぐ際、ここを介し繋いでいた)だった。
二人は恋愛結婚で、母は父の一つ年上であった。
二人はお洒落だったらしく、昔で言う「みゆき族」だったらしい。
(みゆき族とは、銀座のみゆき通りを流行の服でたむろう若者達のことらしい。)
小学校低学年の頃から、私はふたりの釣り合いに違和感を感じていた。
ふたりとも裕福な家庭で育ってはいなかったが、
父は押入れを机代わりに、蝋燭の灯りを頼りに勉学し、
通勤では読書を欠かさず、頭がよく、行動的だった。
母は色んな趣味に手をだしたが長続きせず、
勉強に関しては、低学年の問題にも関わらず、
「パパに聞いて」
と言うばかりで、母に教えてもらった記憶が無い。
正直、頭が悪かったのだと思う。
しかし、私は父に教わるのが嫌だった。
・・・と言うより、恐怖だった。
普段は優しい父が、こと勉強のことになると、
人が変わったかのように怒りながら教えるからだ。
自分が親となった今では、その気持ちも解らなくはないが、
父の怒り方は半端ではなかった。
問題の解けない私を罵倒し、怒りながら説明をする父に
私はビクビクしながら、理解しなきゃ!
早く理解しなきゃ!
と泣きながら教わっていた。
父は私を可愛がってくれていたが、
それは優秀な私を好いていただけで、
心から愛おしいというような感情は持ち合わせてなっかたように思う。
特に今、中学生と小学生の子を持つ親となった私には、
父のそのわが子への感情と、私と主人が持つ子供達への感情との違いを痛感している。
それは、私達が大人になって、父と飲みながら、
私達に打ち明けた驚くべきエピソードからも覗える。
父はほろ酔いながら、ふいに告白した。
私が小学生に上がってから、一軒家という事もあり、
私と妹は雑種の犬を飼い始めた。
母も動物は好きで、私達は雑種ながらも賢いその犬を
とても可愛がっていた。
父はその犬を、夜中、内緒に捨てに行ったと告白した。
「夜中に捨てに行ったのに、帰ってきちゃうんだもんな〜」
と笑いながら驚愕の事実を話す父に、
私と妹と私の主人は完全にひいていた。
やっぱりこの人もおかしかったんだ・・・。
私が病を自覚してから、母だけでなく、父の異常さも感じたエピソードだった。
母は私よりも妹を可愛がっていた。
買い物や外から母が帰ってきて、一番に言う言葉は決まって
「Mちゃ〜ん?」
私の名が呼ばれたことは一度もない。
ただの一度もなかった。
それは、私が家を離れるまでずっと。
私は低学年ながらもそのことを気にしていて、
隣の子供のいない夫婦のおばさんに
「ママは私のこと嫌いなのかな?」
と聞いたことがある。
おばさんは私の頭を撫でながら
「そんなこと絶対ないと思うわよ」
と優しく微笑みながら言ってくれた。
そのおばさんは、旦那さんの両親と同居していて、
子供がいなかったせいか、私や妹をとても可愛がってくれた。
母もそのおばさんと一番仲がよかった。
母がいない時、おばさんちによく上がりこみ、
玉子焼きを食べさせてもらった。
ソースをかけて、玉子焼きを食べたことの無かった私達は、
「おいしい! おいしい!」
と、パクパク食べて、
「もう一個作って!」
とお願いし、おばさんは嫌な顔ひとつせず、
10個位の卵を使って作ってくれたと思う。
母と共におばさんちにお邪魔した時は、
おばさんのウエディングドレスを着させてもらい、
写真を撮らせてもらったりした。
私はそのおばさんが大好きだった。
しかし、そのおばさんとも話せなくなるような状況を母は作った。
ずっと、おばさんと話せていたら、
私の人生も少し変わっていたのかもしれない。
- Re: 境界性人格障害製造過程 ( No.8 )
- 日時: 2010/08/03 00:44
- 名前: みやび (ID: pHBCaraS)
母は専業主婦だった為、色々な趣味に走った。
近所の主婦達と共に、ニットの編みこみや、木目込み人形作り、籐細工等、
色んな事に手を出しては止め、
それと共に色んな主婦と仲良くなっては、
陰で悪口を言いふらしていた。
社宅での近所のいざこざが、ここでもまた起きたのだ。
U字型の家並みは、小さな集落だ。
暇な主婦の悪口など、すぐに筒抜けになり、
母は結局独りになった。
その愚痴を仕事から帰ってきた父に、
毎日のように事細かく話していた。
その頃から徐々に夫婦間はおかしくなっていった。
社宅に居づらくなったから、若くして郊外に一軒家を購入したにも関わらず、
また同じ事を繰り返し、毎日愚痴を聞かされる父は、
いいかげん母に嫌気がさしてきたのであろう。
母は昼間することも無くなり、
今度はパートに出るようになった。
それは、昼間だけの生命保険の外交員だった。
話し上手で、歳よりも若くきれいに見える母には、
その仕事は合っていたようだった。
母は自分の働いたお金で車を購入した。
家庭はうまくいっているようで、いってない不穏な空気。
何が起きているのかは解らなかったが、
確実に父と母とがすれ違っているのを、私は感じていた。
ある朝、いつものように玄関で母に髪を結ってもらっていると、
「なにこれ!?」
・・・と素っ頓狂な母の声。
驚いた父が私の頭を見て、
「なんなんだよ!なんで今まで気付かなかったんだよ!」
と怒鳴った。
私は自分の頭がどうなっているのか、さっぱりわからないまま、
かかりつけの内科に連れて行かれた。
そこの先生は穏やかで優しい、30代位の男の先生だった。
「こんな小さい子がなるなんてねー。」
と、先生は少しいぶかしげに静かに言った。
「うつる病気なんですか?同じ小学校の子とかでいません?」
と、少し興奮気味の母。
「うつる病気とかじゃないです。完全にストレスからくるものです。」
母の目をしっかり見つめながら、きっぱりと先生は言った。
そして母に見せた怖い顔を緩め、先生は優しく私に言った。
「勉強でもしすぎちゃったかな〜?」
私の頭には十円玉大のハゲが二つ出来ていたのだ。
円形脱毛症。
私には何がストレスなのか、さっぱりわからなかった。
勉強も宿題くらいしかしてなかったし。
「子供にはめずらしい病気だけど・・・塗り薬で治るからね」
先生は安心しなさいとでもいうように、優しく私に言った。
その時の母の顔は、
納得がいかない、ヤブ医者め!
と、言っているような表情だった。
円形脱毛症。
低学年ながらも家庭に漂う不穏な空気を感じていた私の、
初めての症状。
円形さんとは、この時からずっと私と長い付き合いになった。
今、現在も産毛の生えかけの円形が二つある。
しかし、このずっと後に訪れる病に比べれば、こんなもの、
とっても可愛いものだったのだ。