複雑・ファジー小説

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101の日常達
日時: 2018/12/09 20:45
名前: 雷燕03 ◆bizc.dLEtA (ID: XYGrm/hO)

こんにちは。このスレッドを覗いてくださってありがとうございます。
ライトにするかこちらにするか迷いましたが、暗い話も書く予定なのでこちらに。
短編集になります。
とんでもない遅筆なので、作品によって書いた時期にだいぶ差があります。
企画などに出したものも、企画が終了した後こちらに載せています。
それでは、この物語たちが少しでも、あなたの日々の潤いになりますように。

  ■目次
  1. >>01 水色のシュシュ
  2. >>04 この町
  3. >>05 冬の雨の日
  4. >>09
  5. >>13 夏の終わりと夜の空
  6. >>14 雪を翼に
  7. >>15 幻と再会
  8. >>16 窓の向こうの景色
  9. >>17 十か月の追憶
  10. >>18 折りたたみ傘
  11. >>19 優しさの成果
  12. >>21>>22>>25 君と共に足音を
  13. >>26 黒の女
  14. >>27 イチョウ葉と革靴

夏の終わりと夜の空 ( No.13 )
日時: 2015/08/30 23:25
名前: 雷燕03 ◆bizc.dLEtA (ID: a6RsoL4B)

夏の終わりと夜の空



 力強いドラムの音に合わせて、拳を上へ突き上げる。腹の底から声を出す。その声たちが合わさり、広くないライブハウスに響く。やがてギターを弾いていたボーカルが歌い始める。その男の声は、決して多くない観客誰もを魅了した。

 客の男女比は三対七くらいで女性が多く、見える限りでは学生しかいない。皆ステージの上の四人に夢中だ。特にボーカルは整った顔をしているから、女性達の黄色い声援を浴びていた。夏の終わり、ただでさえうだる様な暑さなのに、今この場所は今年で一番暑い。熱い。

 そんな風に観客席を眺めながら、俺も熱狂の渦に入っていく。汗でシャツをびしょ濡れにしながらステージの上で声を張り上げる男が、こちらを向いて顔を綻ばせた。近くの客がどよめく。しかしあいつは俺を見て笑ったのだと、俺は知っていた。弟は随分前から、初めてのライブには絶対に来てくれと言っていた。

 曲が終わって、拍手と喝采が巻き起こる。「ありがとうございました!」とボーカルが言うと、四人は観客に礼をしてステージの袖へ帰っていった。アンコールがどこからともなく始まった。もう一回、彼らの曲が、弟の歌が、聞けるだろうか。


「すごい盛り上がりだったじゃないか。初めてとは思えなかったよ」
「高専祭ではやったことがあるからね。でも、こんなライブハウスでおれらだけを見に来た人達に向かって歌うのはやっぱり違うね。本当に緊張した。最初だけだったけどさ。もう楽しくて楽しくて」

 そう言ってタカシは爽やかに笑った。

 ライブが終わり、タカシと同じ工業高等専門学校に通っているのであろう学生たちが興奮冷めやらぬままライブハウスを後にする中、俺はステージの裏側へ向かったのだ。

 控え室では、バンドのメンバー達が汗で髪を濡らしたまま話していた。ステージからの風景、観客との一体感。それらを今日初めて経験した彼等は全員、俺と弟が通う工業高等専門学校、略して高専の生徒である。そして弟のバンドは、いくつものバンドがある高専の中でもかなりの人気があった。ボーカルギターをやっているタカシがモテるというのもあるのだろうけれど。

 タカシは俺を見つけると、水を飲んでいた手を降ろして「兄ちゃん!」と声を出した。一応ノックはしたのだけど、聞こえていなかったらしい。他の三人も一斉に注目してので、軽く挨拶をしてからコンビニで買った気持ちだけの差し入れを全員に渡す。それから上半身裸のタカシに話しかけた。顔も髪も汗で濡れているから、今のタカシを女性ファンが見たら喜ぶことだろう。

「歌、大分練習したんだろ? 前よりずっと上手くなってた。高音の伸びが綺麗だ。それにギターが凄いよ。ソロパートなんて、俺がいくら頑張っても弾けなさそうだ」

 一応俺が先にギターを初めはしたのだけれど、今では完全に弟のほうが上手い。

「ボーカルの歌が下手じゃ話にならないだろ。でも、ギターは練習すれば兄ちゃんだって弾けるさ」
「無理だって。俺はお前みたいに才能がない」
「才能があるとかないとか、そんな話じゃない」

 タカシが俺を見据える。俺はその瞳の力強さに心の中でたじろいだ。

「真剣に練習すれば、誰だって弾けるようになる。兄ちゃんはそうやって『できない』って言ってやらないからできないんだろ?」

 タカシの言葉は、ひとつひとつが一本のナイフとなって胸の奥に突き刺さった。いつも俺を必要としてくれて、いつも俺の味方をしてくれていた弟に非難されたような気がして、つらかった。実際にタカシが言ったのは全てただの事実で、そこまで俺を責める気はなかったのかも知れないが。

「……何でもできちまうお前には分からねえよ」

 自分でも驚くような嫉妬と拒絶の声が出た。タカシが眉をひそめる。不快だというより、どうすればいいか分からないといった様子。ああ、弟を困らせてしまった。弟は何も悪くなくて、ただ俺が駄目なだけなのに。

「今日何時ごろ帰ってくる」
「打ち上げがあるから、遅くなると思う」
「じゃあ夕飯はいらないな。母さんに言っておく」

 部屋の中の静けさが息苦しくて、必要事項だけを聞いてから俺は逃げるように部屋を出た。あの場所に居続ける強さも図々しさも持ち合わせちゃいない。

 外の世界は、夕日の橙色に照らされていた。会場の中とは違った蒸し暑さが漂っている。さっきまでのライブの喧騒が、とても遠い出来事のように感じた。ステージの上で強い光を放っていたタカシは、さながら西の空で情熱的に燃える太陽の様だった。それに比べて俺は、それをただ見上げるだけの存在だ。

 帰る内に、いつの間にか太陽を眺めることすらできなくなった。今日もまた一日が終わってゆく。


 夕飯を食べ終え、風呂から出てきても、タカシは帰ってこなかった。仲間と飲んで食べて騒いでいるのだろう。さっきの俺のことなんか忘れてくれてるといいんだが。

 俺は自分の部屋にぽつんとたたずむギターを見た。俺が中学生の頃に初めて手にしたアコースティックギターだ。今ではほとんど触らない。たまにタカシが練習用に使うくらいだ。

 ……弟に対してこれほどまでの劣等感を持つようになったのはいつからだったろう。俺によく話しかけてくれて好意を持っていた異性に「弟君紹介してくれない?」と言われた中学生だったあの時か。いや、もっとずっと小さい頃からだと思う。

 タカシは俺と違ってよくできた人間だ。まず見た目のスペックが違う上、勉強やスポーツ何をしても人並み以上にこなしてしまうタイプだ。それでいて忍耐力がある。さらに明るく人柄がいいので、男子からも女子からも人気を集める人物だった。

 そんな弟は昔から、すぐに兄の真似をしてすぐに兄を追い抜いてしまう。俺が夜空に興味を持ち親に頼み込んで望遠鏡を買ってもらうと、俺よりタカシが星に詳しくなっていた。サッカーでは俺は中学時代レギュラーになれなかったが、タカシはキャプテンだった。そういえばルービックキューブを先に六面揃えたのもタカシだったっけ。

 そしてギターもそうだ。俺がギターを始めると、やはりタカシはすぐに興味を示した。そして俺が使っていないときに「弾いてもいい?」と言って練習した。案の定タカシの方が上手に弾いた。俺は自分が下手なのをタカシに聞かれるのが嫌で、そのうちギターを弾かなくなっていった。今ではただ部屋に置いているだけのようなものだが、エレキギターしか持っていないタカシは、必ず使う前に俺に言って使い終わったらこの部屋に返しに来る。

 ライブハウスで歌うタカシの姿が再び瞼の裏によみがえる。あんなソロ、俺に弾けるわけがない。ソロだけでなく、タカシはテンポの速い曲をあれ程情熱的に熱唱しながらも、難しいコードを軽々押さえていた。そもそも俺なんてあの速さであのコードチェンジができるだろうか。きっとできない。

 ——兄ちゃんはそうやって『できない』って言ってやらないからできないんだろ?

 タカシの声が頭の中で響いて、心臓が強く波打った。……よーし、ならば証明してやろうじゃないか。どうせ俺はやってもできないということを。

 ピックとギターを手にとって、ベッドに座る。えーっと確かG→Am7→Bm7→Em7って続く所があったな。まずGのコードを指で押さえて、ピックで弦を弾く。優しい音が出た。久々の感覚だ。やっぱりいいなあ、これ。いらぬ見栄を張って暫く離れていたが、俺は今でもギターが好きみたいだ。

 Am7、Bm7、Em7、とそれぞれ弾いてみる。次にゆっくりと順番に。そしてGでタカシが弾いてたのと同じリズムを取って……G→Am7→Bm7→Em7。やっぱりBm7をきちんと押さえることができなかった。ほら見ろ、やってみたってできないじゃないか。心の中で弟に言う。自分で空しくなって、乾いた笑いが出た。

「こんな時間にギターはやめなさい!」

 一階から母親の声が聞こえた。アコギは意外と大きな音が出るため、近所から苦情が出たこともある。

 「はーい」と返事こそしたが、久々にギターを鳴らした俺の腕はうずうずしていた。もっと音を鳴らしたい。この胸の中のもやもやを全て夜の中に吐き出してしまいたい。そんな衝動に駆られて、俺はギターとピックを持ち、「すぐ帰る!」と言って家を飛び出した。

 街灯が照らす道を走って、住宅地から離れていく。何も抑えることなく全てを夜空にさらけ出せる場所を求めて。コンビニやガソリンスタンドの光の中から離れ、町を外れ、海からすぐ近くの防風林へやってきた。ここならまず人も来ないだろうし、家が近くにないから迷惑をかけないだろう。

 服が汚れることも気にせず、俺はその場にあぐらをかいた。俺は尾崎豊と彼の歌が好きで、とにかく弾き語りをしたくてよく練習していた。あの曲なら多分今でも弾けると思う。コード進行を覚えているか心配だったが、始めの方をつたなく弾きながら思い出すと、その先は手が覚えていて流れで弾けた。思い切り腕を動かしてギターをかき鳴らす。雑にも程があるが気にしない。

 ギターが調子に乗ってきたら、カラオケでも出したことがないくらいの大きな声で歌い始めた。この世への反発で満ちた歌詞に思いを乗せて、口から吐き出す。なんてちっぽけで、なんて意味のない、なんて無力な——

「じゅうごのよおるうううううぅぅぅ!」

 なーんて。うだうだしてるうちに、もう十九だけどさ! うわ、改めて考えるともう来年には成人じゃないか。高専は五年制だから、もう暫くは学生だけど。

 歌の終わりにふと、さっきできなかったコード進行をやってみようと思い立った。できるだろうか? できないだろう。できてしまったらどうしよう。まあやってみよう。せーの、G→Am7→Bm7→Em7。

 ……弾けた。弾けてしまったぜ、弟よ。

 荒々しく弾き語りを一曲終えると、息が上がっていた。たったこれだけの演奏と歌でこんなに疲れるものだとは知らなかった。体を後ろにそらし腕を地面につけて天を仰ぐと、木々の間から夏の夜空が広がっているのが見える。この辺りは割と明るいからそこまで多くの星は見えないが、俺は何とも言えない感動を覚えた。夜風に撫でられながら広い闇と数々の光を見て、あの光が何億年も前のものなのだと考えると、俺と言う人間の存在の小ささを改めて痛感する。俺、何をああも悩んでたんだろう。そして、こんなに気持ちいいのに、何故ギターを弾いていなかったんだろう。

 夜空を見ながら、あれはさそり座、あれはペガスス座……なんて記憶まで引っ張り出し始めていたから、その声が聞こえてこなければ、俺は暫くただただ星を眺めていたことだろう。

「おれ、兄ちゃんの声、好きだよ。太い弦を弾いたような、落ち着く声だと思う」

 声のほうを振り向くとタカシがいた。あれほどの熱唱を、そして下手なギターを聞かれたというのに、思ったほど驚きもしなければ恥ずかしくもなかった。自分の中で何かが吹っ切れたのだと思う。

「家に帰ったら、シュンがどこかに行ったから探してって母さんに頼まれた。ここにいるかなーって思って来てみたら本当にいて、しかも尾崎を弾き語りしてたから驚いたよ」
「『ここにいるかなー』って……どうして分かったんだ?」

 タカシは申し訳なさそうに笑いながら答える。

「あー……うん、ごめん、兄ちゃん、前にここで弾いたことあるでしょ。それ、実は聞いてたんだ」
「前って……あれか!」

 恥ずかしさに、つい大きな声が出た。

 中学生の頃、タカシ目当てで近づいてきた女子のことを俺はどうしても忘れられなかった。それで、その子がタカシに告白したが結局フラれたと言うのを聞いて、勇気を出して告白して、見事に玉砕した苦い思い出だ。その晩もまた弟への劣等感や断られた悔しさやなんかでむしゃくしゃして、部活の友達と夕飯を食べるなんて嘘をついて、母親に隠れてギターを持ってここに来た。俺が今日以外にここでギターを弾いた最初で最後である。

 その後、帰るとタカシが事情を知っていたから、その子から伝わったのだろうなと察してひどく恥ずかしかったのを覚えている。慰めの会でもしてきたと思われたつもりでいたが、まさか憂さ晴らしを見られていたなんて、恥ずかしすぎる。今日のを聞かれたのは気にならなかったが、その時のことは穴があったら入りたいくらいの気分だ。

「あの時、兄ちゃんピック持ってなかったでしょ。なのにギター持っていってたもんだから、すぐに慌てて追いかけたんだ。そしたらファミレスになんか向かってなかったからどこに行くのか気になっちゃって……ごめん」
「いや、お前が謝ることじゃないよ……しかしあれも見られてたなんて恥ずかしすぎる……」
「あはは。あの状況は確かに、恥ずかしいかも」

 タカシは今度は笑った。そっちの方が、もう過去の笑い話になったような感じがしてだいぶ気が楽だった。無理にピックを使わずに弾いて弦に切られた手の、鈍い痛みが懐かしい。

「その時からずっと思ってるんだけど、兄ちゃんだって歌うまいし声がいいんだから、もっと人前で歌ってもいいと思うけどな」
「お前はな。俺を含む多くの人間はお前の歌の方が聞きたいだろうよ」
「そうかなあ……」

 少し向こうの道路では車が行き交っているのだけれど、辺りは随分と静かに感じた。ライブハウスの控え室のときとは違って、沈黙が全く苦にならなかった。

「ごめんな」

 俺はふと口にした。言っておかなければならないような気がした。タカシは何も言わなかった。今度はそれがちょっと恥ずかしくなって、「あの後、空気悪くなっただろ」と付け足す。

「いや、すぐに片付けが始まってその後は打ち上げではしゃぎつくしたから」
 本当はそんなことを謝りたかったのでは無いけれど。「母さんが心配するから、今日はもう帰ろう」とタカシは続けた。

「分かった。でも、あと一曲だけ歌わせてくれないか」
「聞きたい」

 俺は、ギターで始めて練習した曲を弾き始めた。使うコードが少なくて、意外と初心者にも弾きやすいと聞いたから。この歌も歌手も好きだったから、ギターを買ったら真っ先に弾くんだとギターに興味を持ち始めた頃から決めていた。さっきよりはずっと落ち着いて、そのバラードを歌う。前よりずっと上手く歌えたと思う。というより、自分で言うのもなんだけど、人の心に訴えかけられるというか。歌う時、気持ちってこんなに重要なものだったんだな。

 曲の途中で、気付けばタカシのコーラスが入っていた。もうすぐとんぼが飛ぶ季節になるなあなんて思いながら、歌った。本当、幸せなんてどこにいるのか分からないけれど、今ここには確かに存在している。

「おれ、やっぱり兄ちゃんの歌が好きだ」
「だからそんなのお前だけだって」

 歌が終わって、俺達は二人で家へと歩き出した。もうすぐ夏が終わる。

雪を翼に ( No.14 )
日時: 2015/08/30 23:32
名前: 雷燕 ◆bizc.dLEtA (ID: a6RsoL4B)

  雪を翼に


「『旅立ちの日に』って、あるじゃん? あの合唱曲。あれ『勇気を翼にこめて』っていうところがさ、聞いてると『ゆーきをつばさにこーめてー』って漢字がわからないから『雪を翼にこめて』かと思ってて。俺の曲だー、なんて勘違いしてたんだよね」

 と、彼が笑いながら話していたのを覚えています。彼の名前は雪乃翼。純白の素敵な名前を持つ少年です。私はこの歌を聴くとき、歌っているとき、いつも彼のことを考えています。

 最近は中学校の卒業式が近づいて、この歌をよく歌います。彼は地元の、サッカーの強い工業高校に進学するそうです。私は、自分のレベルに見合った普通科高校に進みます。彼とはほとんど会えなくなることでしょう。

 今のようにこの歌を歌っているとき、そのことを思ってしまって、胸が締め付けられます。

 歌い終わった後、ひとクラスふたクラスとひな壇から降りて行き退場して、卒業式のリハーサルが終わりました。本番は明日です。皆は、何を考えているのでしょう。高校受験は春休み中に行われますから、その事で一生懸命なのでしょうか。私のように、ひとりの異性で頭がいっぱいなんて人、いるのかしら。

 もう明日で卒業というのもあって、帰りの会で担任が色々と話していたけれど、私は中学の間さして重大な事件もなかったし、誰かと付き合ったり、そういう青春らしきことをした覚えもないので、正直明後日からここに来ないと考えても、悲しいとか、そういう感情は薄いです。口下手なのであまり多くの友達もできなかったし、仲のいい友達とは、卒業した後もまた関わりを持つことでしょう。

 ただひとつ気がかりなのが、彼なのです。彼と私が関わることのできる場所は、ここしかないのです。もしどこかで偶然会ったとしても、私は話しかけられる勇気がありませんし、彼が中学時代も話す機会の少なかった私に話しかけてくれるとも、到底思えません。

 今のうちに少しでも思い出を作っておかないと……。

 そんなことを考えて一日の最後の挨拶をクラス全員ですると、すぐ近くをちょうど彼が通りました。
 こ、こういう時に怖気ついてちゃ駄目!

「つ翼君っ」
「ん、何?」

 彼がまっすぐな目をこちらへ向けてきました。私はすぐに喉を詰まらせてしまいます。体が熱くなります。顔に出ていないかと心配になります。

「卒業式、もう明日だね……」

 何とか次の言葉を出すことができました。でも、何て返し難い発言でしょう。突然呼び止められてこんなことを言われては、相手も困るだろうに。

「だなあ。このボロい校舎から離れるのが嫌になるとか思いもしなかったけど」

 彼は何も訝しがる様子もなくそう言いました。本当に親しみやすい人なのです。私のように冴えなくて、可愛くもなくて、関わりも少ない人にだって、誰にだって、このように普通に話してくれるのです。しかし時々、それが少し寂しくもあります。私は醜い人間です。

「皆と会えなくなるんだよね。私あんまり人と話せなかったから、すぐに忘れられるんだろうなあ。あはは」

 つい自己嫌悪を人に愚痴ってしまいました。ああ、こんなだからますます自分を嫌いになるのです。人に話しかけるのが怖くて、嫌われるのが怖くて、話しかけてくれた時だって相手と自分を比べちゃって、勝手に気分を落としてしまう。こんな私が誰かのことばかり思うなんて、身の程知らずなんです。

「いやそれはないだろー」

 しかし彼は、そんな私の心の暗雲さえ笑い飛ばしてくれるのです。

「クラスにこんな可愛いやついたら忘れねえって」
「い、い、いやそれこそないでしょー」

 私は駆けるようにして教室を出ました。あんな屈託のない笑顔を誰にでも向けて、あんなこと言って、彼はずるいと思います。頬にじわあっと熱を感じました。これは確実に顔が赤くなっています。恥ずかしい。

 ……でも私は、口角が上がってしまうのを抑えることができないのです。


 次の朝は、とてもとても寒い朝でした。卒業式の日は三年生は登校時間が遅いので、私は目が覚めてしばらくの間毛布に包まっていました。いつもの様に、気がつけば来てる特別な日、気がつけば終わる特別な日。

 私が学校に着くと、多くの生徒が既に登校してきていて、友達との最後の会話を惜しみながら楽しんでいました。目の前の友達と話すのが最後ではなくても、この雰囲気の中で、このメンバーで、こんな下らない馬鹿話に笑えるのは、きっとこれが最後でしょう。

 卒業式が始まると、基本的に私のすることはただただ我慢です。あと起立のタイミングを逃さないこと。そんなもんだから、私の頭の中からは、昨日の彼の笑顔が離れないのです。昨日の彼の声が何度も再生されるのです。そのたびに顔の筋肉を制御しなければならなかったので大変でした。

 卒業式も終わりのほう。私たちは席を立って、ひな壇に並びました。今日という特別な日を飾る合唱です。保護者代表の挨拶に多くの生徒も涙を誘われていました。私はそんな体育館の様子を、画面越しのように眺めていました。皆、この三年間、色々あったのでしょう。楽しいことも、悲しいことも、あっという間に過ぎた時間も、胸を重くして耐え忍んだ長い長い時間も、あったのでしょう。

 合唱が始まりました。私は自分が音をはずしたり声を裏返したりするのが怖くて小さな声しか出せない人だから、一生懸命に皆に指示してきた指揮者さんなんかには迷惑ばかりかけてきました。ごめんなさい。あなたのように人の前に立って自分の気持ちを語れる人は尊敬します。

 白い光の中に、山並みはもえて、遥かな空の果てまでも、君は飛び立つ。……そう、君は飛び立つ。君は、私では見上げることしかできない高い高い場所へ、飛び立っていくのです。

 限りなく青い空に心震わせ、自由を駆ける鳥よ振り返ることもせず——


 体育館の外は、写真の撮影会のようになっていました。中学の制服を着て皆と写真が撮れるのはこれが最後です。誰も彼も、さっきまでの涙が嘘のように笑ってカメラの前でピースサインをしています。私はその中で落ち着きもなくきょろきょろと辺りを見回していました。すると、サッカー部の人たちが集まって写真を撮っているのを見つけました。その中に彼もいました。いつもと同じ、汚れのない輝く笑顔です。そして私には、あそこに近付く勇気がありません。

 私はこのままこのような生き方を一生続けるのでしょうか。何かを求めても、自分を卑下し続け勇気がないと言い訳し、自らのがしてゆく。そんな自分を嫌って、ますます動けなくなって。

 ……確かにちょっと嫌ですけど、私はそういう人間なのでしょう。それを受け止めることはできるのです。輝く白い翼を広げて未来へと羽ばたく彼のような人を眺めているだけで、満足してしまうのでしょう。いいじゃないですか。それはそれで、それなりに幸せじゃないですか。切ないけど、世の中が無常である以上、幸せと切なさは離れることができないのですから。

 私がそう思って家へ帰るべく後ろを振り返ったとき、後ろである女子生徒が声を上げました。

「うそっ、雪?」

 私は驚いて空を見上げました。

 私がこの町で十五年間生きてきて、三月に雪が降ったなど見たことも聞いたこともありません。しかし見上げた空からは確かに、白い小さな花びらのような雪が、ひらひらと舞い落ちてきていました。辺りはさらに賑やかさを増します。こんな日にこんなタイミングで雪が降るなんて、誰の計らいでしょう。彼を思わずにはいられないじゃないですか。

 雪を翼に、勇気を翼に。

 頭の中で呟きました。羽ばたかなければ。飛べなくていい、地べたで見苦しくバタバタと翼を動かしているだけでいい、風を起こさなければ。そうしなければ、彼に失礼な気がして。私なんかのことを「可愛い」といってくれて、笑顔を見せてくれた彼が間違ったことになってしまう気がして。

 サッカー部の面々は、突然降ってきた雪にテンションが上がったようで、ゆっくりと降りてくる雪を捕まえようとしたりしていました。彼は、口を開けたまま空を見上げています。

 私は、人ごみをかき分けるようにして彼に駆け寄りました。

「翼君!」
「——おお。雪なんか珍しいよなこの時期に」
「あの私、ずっと自分のことが嫌いで」

 また何を言っているんでしょう私は。自分語りなんかして彼は退屈なだけでしょうに。でも、私は勢いに任せて口を動かしました。

「人と話せないし、かと言って一人でいることもできないし、自分が嫌いなのもまた嫌で。だから、そ、その翼君みたいに誰とでも仲良くできる明るい人が羨ましくて。えっとあの、で、でも、昨日可愛いとか言ってくれて、とっても嬉しかったの。それで、翼君が可愛いなんていってくれるなら、私もちょっとは自分に自信持っていいのかなとか思えて、えっと……」

 あ、つ、続き何て言おう。何を言えばいいかな。この気持ち、どうやって伝えればいいかな。言っちゃえばいいのかな、『好きです』って——


「あ、ありがとう!」


 私は伏せてしまっていた目を上げて、彼の顔を見ました。彼は、私の必死の言葉を真剣に聞いてくれているようでした。

「高校に行っても、その、サッカーとか頑張ってね。応援してるから。翼君が活躍してくれると、嬉しいから」
「——ああ、分かった」

 彼はいつものように笑顔で返事をしました。でも今度の笑顔はいつもの楽しそうな笑顔とは違って、優しさに満ちたものでした。

 雪はいつの間にか、止んでいました。





メッフィーさんの指摘を受けて、若干修正版。

幻と再会 ( No.15 )
日時: 2013/01/13 07:26
名前: 雷燕 ◆bizc.dLEtA (ID: jroS/ibH)

幻と再会


 栗色の髪を肩まで下ろした彼女は、俺が小学校に上がるころに、俺の部屋の隣にある物置にやってきた。
 素っ裸で。
 そして彼女はこんなことをぬかしたのだ。
「ねえ、なんであなた裸なの?」
「いやおまえこそ!」

 彼女の姿は、俺以外には見えないらしかった。彼女にも、俺以外は見えていないらしかった。しかも彼女は、俺が宙に座っていると言う。俺は真新しい学習机に座っていたというのに。かく言う彼女は、床に散らかされた絵本の上に立っていた。正確には、絵本どころか床の存在も無視したように宙に浮いていた。俺がそう言うと、彼女は床に立っているじゃないと言った。彼女が俺に近づいてきて腕を伸ばすと、彼女の手は俺の胸を通り抜けた。
 俺たちには訳が分からなかった。
 彼女の部屋は、俺の家では物置にあたる場所にあるらしい。俺の部屋のすぐ隣である。俺の部屋は、彼女の家の外側だと言われた。ちょうど彼女の部屋からカーテンを開けて見える位置だと。
 自分の部屋にいるとき常に誰かに見られているというのはぞっとしないから、この微妙なズレは丁度良かったんじゃないだろうか。
 彼女は幽霊でもなさそうだったが、確実に同じ世界を生きている人間ではなかった。他人に見えないものが見えるなんてただ気味が悪いだけだ。小さかった俺はそれを察知して黙っておく、ということができなかったから、変な奴だと言われて育ってきた。馬鹿正直な俺は小学校も高学年になるまで主張を曲げなかった。もちろん友達は少なかった。そんな時の相談相手は、いつも真っ裸な彼女だった。
 彼女は俺よりも少し年上で、どこか達観した雰囲気を持っていた。俺が餓鬼すぎたからそう見えただけかもしれないが。俺が彼女のことを話しても誰も信じてくれないと言うと、彼女は冷たい人たちなのねと言った。彼女の母親は信じてくれたと。母親には俺が見えるのかと訊くと、見えてはいないようだと言った。それでも娘のことを信じるなんて、なんていい母親なんだと思った。それに比べて俺のは、なんて思ったりもした。
 俺は彼女と話すのが大好きだった。彼女の世界の様子は、俺の世界とはだいぶ違った。科学技術はまだ俺の周りのように発達していないらしい。誰もが自然に敬意を払い、戦うときは剣を使うというゲームとか小説にありそうな世界観。文化が違うのだから非科学的なものに対する信仰具合も違って当たり前かと納得した。
 彼女は学校には通っておらず、よく家の手伝いをしているらしい。家は喫茶店を営んでいるそうで、俺の家の一階部分でよく忙しそうにしている。接客をしている時の彼女はとても楽しそうだ。
 俺もこちらの世界のことをよく話した。あちらの世界の人からすると、俺の身の回りに溢れている科学技術は魔法並みに不思議らしい。それが嬉しくって俺は理科の授業で習ったことを自慢げに話したが、彼女が理解しているようには見えなかった。歴史についても話したし、もっとくだらない、クラスメートの話なんかもよくした。
 中学生にもなるとお互い裸というのはだいぶ気恥ずかしかったが、毎日見ていた光景だったし、何より彼女が全く気にしなかった。今更になって何を隠す必要があるのよと笑われた。
 それから楽しいことばかりでもなかった。お互い常に機嫌がいいわけでもないし、悪かったとしてもその原因が全く分からない。喧嘩だってよくした。先に謝ってきたのはいつも彼女だった。
 また、俺たちはお互いしかみえないしお互いの声しか聞こえないので、周りから強い刺激を受けた時にそれを共有するのが極端に困難だった。凄い絵を見ても、彼女にはそれが見えない。劇的なサッカーの試合を見たら、サッカーのルールから説明しなければならない。もどかしかった。伝えられるものといえば、読んだ本の内容やダンス、それから歌くらいだった。
 彼女は歌が上手だった。

「今日ね、ツォンに告白されたんだ」
 俺が家で音楽を聴きながら学校の宿題をしていると、彼女が言った。流行のロックバンドの音を小さくする。
「ツォンって誰だよ」
 このような報告は初めてではなかった。彼女は美人だし性格もはつらつとしていて魅力的だし、近所でも評判の娘のようだ。しかし男がよってきたからと言って簡単にひょいひょいと受け入れないところがまた彼女の美点だと思う。しかしツォンという名前は、今までの彼女の話で出てきた覚えが無い。彼女の身近な人間の名前なら、殆ど覚えているはずなのだが……。
「だから私に告白した人」 答えになっていない。「でも彼、いい人すぎると思うのよね。気を使われすぎてこっちまで疲れそう」
「贅沢な悩みだこと」
「あんたは全然そういう話がないわよね」 そして話を聞いていない。「学校にはたくさん女子がいるんでしょう? いい人いないの?」
「俺はお前と違ってモテないからな」
 決して嘘ではないのだが、本当の理由ではなかった。告白されたことがないわけではないのだ。それも一回ではない。しかし、俺にとって一番身近な女性は彼女だったから、どうしてもそれ以上の人格を求めてしまい、そんな女はそうそういなかった。
「そう」
 彼女の返事を聞いて、どうも様子がいつもと違うな、と思った。テンションが低い。
「何かあったのか?」
「もー、どうしてすぐ分かるのよ」
「十年も毎日毎日一緒にいりゃあデフォルトなんて完全に記憶しちまうさ」
「私、来月結婚するの」
 また彼女は俺の話を聞いてんだか分からない調子で言った。俺は数学のプリントの上を走らせていたシャーペンを止める。
「——は?」
 結婚だって?
 彼女は今まで男に告白されても断り続けてきて、付き合った男などいないはずだ。彼女が母親と話しているであろう時もそのような話題は一切耳にしなかったから、隠していた訳でもないはずだ。それなのに、どうして、こんないきなり。
 その理由も気にはなったが、俺にはそれよりも相手がどんな男かということが問題だった。彼女の目にかなった男が、いや、彼女とつりあう男がそんじょそこらにいるのか? 彼女の町の話や喫茶店に来る客の話はいつも聞いていたが、彼女が好意を持っていそうな男の話など聞いたことが無い。だとすれば、旅の途中に寄った旅人なんかに一目惚れしてしまったのだろうか。彼女の町は港町への一般的な経路での休息地だから、ないこともない。
 俺は、見ず知らずの良く分からない人間に、彼女を奪われる気がして、胸の奥で憤りを感じた。彼女のことは俺が一番知っているんだ。あ、いや彼女の母親の次に、と言っておこう。
「だ、誰とだよ」
「だから、ツォン」
「いやお前さっき、いい人過ぎるって言ってたじゃないか」
「うん、嫌いではないけど特別好きにもなれないかもね」
「じゃあどうしてだよ」 つい口調が荒くなる。「そっちではお前くらいの年齢になると皆が皆身を固めようとするものなのか? そうだとしても、お前は必要ないだろう。好きでもない相手と結婚して養ってもらう必要は無いだろう。ちゃんと説明してくれよ」
 彼女は自分の意思をしっかりと持っている芯の強い女だ。それなのに、好きでもない男と結婚なんて!
 俺は話しながら椅子から立ち上がり、扉を開けて隣の物置まで行った。彼女はいつものダンボールの上にこちらを向いて座っていた。彼女の椅子があるらしい位置においたダンボールである。俺もまたいつもの椅子に座る。彼女はここに棚を置いているらしい。見た目が気持ち悪くならないための工夫である。
「断れないの。ツォンは一ヶ月前にも一度来た貴族さ」
 ツォンという男は、国の都に住む貴族だそうだ。本来なら彼女の住む町に来ることはまず無い。そんな男が彼女とであったのは、やはり、男が港町を目指して移動中に彼女の町に寄ったからであったそうだ。そして例によって彼女の喫茶店に出向き、彼女と出会った。
 男はまず彼女の美貌に惚れ、次に接客の温かさに惚れ、酔っ払って他の客に迷惑をかけ始めた男を店から追い出した強さに惚れ、最後に喫茶店名物のワンマンコンサートで美しい歌声に惚れた、らしい。今日そう言って愛の告白を、プロポーズをしたそうだ。
 彼女の世界で貴族の存在というのは大きい。貴族が一般の人間と結婚するなど常識では考えられない。それでも男は彼女との結婚を望んだというのだから、男の思いも並みのものではないのだろう。しようとおもえば、金に物を言わせて彼女の喫茶店くらいどうとでも出来る。さらに言えば、町ひとつに大きな影響を及ぼすことだって可能だ。
 しかしツォンは優しい男だった。彼女が断れば、大人しく引き下がるつもりだったらしい。鞭を使うつもりはなかった。だから飴を使った。彼女が結婚してくれるなら、町と彼女の母親のために力を貸すと言ったのだ。
 彼女は断れなくなった。
「母さん、病気なのに無理してずっと働いてるのよ! 薬を買って、休ませてあげなきゃ! でも、私が手伝ってるのなんて接客とかせいぜい調理とか、ほんの上っ面で、仕入れすらしたことが無いの。母さんを休ませて薬代と生活費を稼ぐなんて……。そもそもまともにやっていけるかどうか怪しいわ! だから、だから、これしかないのよ」
 彼女は優しい。しかも彼女にとって母親はこの世界で何よりも大切なものだ。ここへ来たときには既に彼女は父親を亡くしていて、母と二人で常に支え合いながら暮らしてきた。俺にとって一番の心の支えは多分彼女だが、彼女にとっては母親だ。彼女の母親の前では、俺の存在なんて蟻に等しい。
 まだずっと一緒にいたいとかいう願望は、俺だけが胸の奥でぐるぐるさせておけばいい。
「自分の力の無さが怨めしいわ……」
 彼女は、顔を隠して泣き始めてしまった。俺は椅子から立って彼女の横に座る。彼女の泣き顔を見るたびに、お互いの温もりを感じることが出来ないというのはこんなに虚しい事なのかと痛感する。彼女に触れることが出来たらどんなにいいだろう。抱きしめて、少しでも苦しみを分け合えたらどんなにいいだろう。
「だから、貴方といられるのもあと少しね。都は遠いわ。馬車で五日間もかかるもの」
「それって、電車で行けばどれくらいなんだろう。二時間くらいかな?」
「分からない。そっちの交通手段は発達しすぎだわ」
 その通りだ。そして通信技術も発達しすぎた。人との別れの意味が薄くなってしまっている。仲のいい友達が引っ越してしまったところで、電波を使っていつでも意思の疎通が出来る。国内ならどこだって、年に一度の帰郷くらいわけはない。
 おれ自身そんな薄っぺらな別れしかしたことが無かったから、彼女が遠くに行ってしまうというのは受け入れがたい事実だった。
「離れてしまったら、もう一度見つけるのは不可能に近いわね。方向が分かったところで、探すには人や建物がたくさんありすぎるんだったっけ? ——私には見えもしない触れられもしないのに、ある、なんて不思議なものね」
「今までも散々話したな。お互いが幻聴を見て幻覚を聞いてるわけでもなさそうだ。それぞれがそれぞれの社会の中で生きてるのに、何故か俺たちだけはお互いが見えるし聞こえる」
「何かの手違いね。恐らく、どちらもちゃんとそこに存在するんでしょうね。でも、自分には自分の住む世界しか見えない。普通はそれぞれの世界が交わることなんて無いんだけど、ここで何かのミスが起こった。あるいは、人は皆自分の世界を持っていて、お互いを見ることは出来るんだけど、自分の世界が広すぎてすれ違ってばかり」
「おれは、同じ座標軸にいくつもの世界が重なって存在してるんだと思うけどなあ」
「座標って、誰が決めた基準なのよー」
「知らねえよ。そっちこそ世界を作る人間とその世界にいる人間の違いってなんだよ」
「知らないわよそんなこと」
 俺達はお互いに見詰め合って、それから笑った。
 その時彼女は目を赤くしながらも涙は乾いていたから、俺は安心した。彼女は疲れたから寝るわね、と言って荷物の中に寝転がった。積まれた漫画の塔と塔の間から、彼女の鎖骨が見えた。

 それからも、俺達は今までと同じ様に過ごした。見かけは、ね。俺は彼女の話ひとつひとつに今までにないくらい注意を傾けていたし、彼女も今まで以上に話が詳しかったような気がする。ひとりひとりの人間の説明をいちいちするから、なかなか進まない。
 そうこうして、彼女はある朝に「この町を出発するの、今日なのよね」と言った。一階で彼女が母親と会話している内容から想像は出来ていたから、驚かなかった。彼女の髪型もいつもより派手でしゃれていたし。彼女のいない生活とは一体どんなものなんだろうとぼんやり思った。
 学校は仮病で休んだ。彼女の知り合いたちが集まって家から少し離れた場所で、別れの挨拶をするらしい。俺は彼女について行った。彼女が立ち止まった場所は、住宅地の隙間を縫う通路だった。こんなところで一人で話していたら、俺は完全におかしい人だ。
 彼女は、見送りに来た人ひとりひとりに声をかけていった。
「リーシャ、私がいなくても泣いてばかりいちゃ駄目よ。死別じゃないんだから、絶対また会えるから。ヒューグ、捻くれてるのもかわいいけど、少しは素直になりなさいよ。そんなんじゃ……。あはは! 大丈夫、言いやしないわよ。ルーフェル、将来のために勉強をするのはいいけど、たまには日の光を浴びないと体によくないわよ。偉くなって都まで会いに来てね。ミフィア、あなたはもう少し女らしくするのをお勧めするけど、まあそんなあなたを好きな人もいるから……あはは、ごめんなさい。ゴーグ、私たちがこの町で平和に暮らせているのはあなたたちが警備してくれているおかげよ。ありがとう、これからも仕事に誇りを持って。キーマおじさん、おじさんが薦める本はどれも面白いから、つい夜更かししちゃって美容の敵だったわ。向こうに行ってもたくさん本を読んで、おじさんみたいに博識になれるよう頑張るわね。スクリアおばさん、おばさんのパンはもう、最高! 向こうに行っても無理言って頼んじゃうかもしれないわ。グリフィルおじいさん、私が生まれたときからずっと見守ってくれてありがとう。この町がまたちょっと変わるけど、おじいさんはずっと変わらず元気でいてね。それから……おかあさん」
 彼女の目が潤んでいるのが分かった。彼女は一点を真剣に見つめて、言葉を紡ぐ。
「本当にありがとう。ありがとう。何度言っても足りないわ。嫁ぐくらいしかできない親不孝な娘でゴメンね。ずっと迷惑ばかりかけてきたけど、たまには喧嘩もしたけど、大好きよ。私が変な事を言っても信じてくれて……。ごめん、もう何言ったらいいかわからないわ。本当にありがとう。元気でね。体には気を付けてね。絶対に無理しないでね。またいつか帰ってくるから」
 彼女はぼろぼろと泣きながら母親に感謝の言葉を述べる。そんな彼女を見ていると、こちらまで目頭が熱くなってしまう。彼女は本当にいい町に恵まれたと思う。国の都ってのはどんなところなのか知らないが、この町にかなわないことだけは確かだろう。向こうでもどうか変わらず幸せでいてほしい。
 周りに慰められながら(雰囲気から推測するに、だが)ひとしきり泣いた後、彼女はその場にいる人たちを見渡してこう言った。
「最後に、歌を歌っていいかしら。多分みんなが知らない歌だと思うわ」
 そんなにぐはぐしゃに泣いてて歌が歌えるのか、と茶化してやりたくなった。しかし最後の別れに彼女の歌を聴くというのはいい。とってもいい。彼女の周りには先程名前があげられた彼女の知り合いがいるのだろうが、俺にとっては、彼女の歌は俺だけのリサイタルなのだ。
 そして彼女が歌い始めると、俺は呆気にとられてしまった。
 その歌はいつも彼女が歌っている、つまり向こうの世界で作られた歌ではなく、幾分か前に俺が彼女に教えた歌だったのだ。
 彼女がよく歌っているから俺はそれを覚えてしまって、何気なしに鼻歌で歌っていたときだった。そっちの歌も何か教ええてよと言われて、恥ずかしながら俺も彼女の前で歌を歌ったのだ。それも全てフルバージョンで。流行の曲とか、メジャーじゃないけど好きな曲とかを、いくつか教えた。
 彼女が歌っている曲は、「いい歌ね」と言われたのは覚えている。しかしその後彼女がこれを歌っているところなど耳にしなかったから別に覚えていないだろうと思っていたしそれでもよかったのだが……。しかし彼女の歌は堂に入っていた。まさか、俺のいないときに練習していたのだろうか? そんな都合のいいことも思ってしまう。
「君に出会えてよかった。切ないけれどよかった」
 彼女が奏でる言葉はそのまま今の俺の心境を表していて、強く胸を締め付けた。
 彼女と出会わなければ、こんな切なさも、悲しさも、味わうことは無かったのだろう。しかし同時に、あの楽しさも、温かさも、幸せも、知ることは無かった。彼女に出会うことができて本当によかった。今では彼女のいない人生がどんなものだったろうかなんて、想像もつかない。何の偶然かはたまた手違いか知らないけど、感謝したい。
「どうか君だけに届いてほしい、永遠に」
 彼女は歌を終えて、また大粒の涙を流しだした。
 永遠の愛、か。
 陳腐でそのくせ不確かで、決して存在なんてしないんじゃないかと思えるものだけど、それはどこかにあってほしいと思った。できればここに、あってほしいと思った。歌っている間に何度も目があったと思うのは、俺の自意識過剰だろうか?
 俺は耐えられなくなった。
「リサーナ!」
 彼女が、リサーナが驚いたように俺の方を見る。
「お前、嫁になりに行くんだからそんなにぼろぼろ泣いてばかりいるなよ! でも、気が強いくせに人前で泣けるのはいいところだからな。つらいときは人を頼れよ。でも、今は笑え! お前は今から幸せになるんだから、泣いて出て行くな。それから」
 俺は矢継ぎ早に続けた。
「好きだ」
「——私も」
 彼女は頬に伝う涙はそのままに、こちらをまっすぐ見て笑顔で言った。そしてすぐに周りに「ううん何でもない」と言って、涙を拭う。じゃあそろそろ行くね、と言って空中に座った。俺からは空気椅子にしか見えないが、馬車か何かに座っているのだろう。手を振った後にドアを閉める仕草をした後に、俺の方を見つめて「じゃあね」と口を動かした。
 彼女は上下に揺れながら、住宅地の向こうへ消えていった。


「最後の別れが、そんな感じだったっけ?」
「そうそう。永遠の愛。あの歌、実は気に入ってたの」
「あんなこと言っておいて、俺も今は結婚して子供までいるがな」
「私のほうが先に嫁いで行ったじゃないの。子供も元気に育ってるわ。お互い顔に皺も増えたわねえ」
「大学に行ってからは、俺も中々こっちに帰ってこなかったからな」
「私が帰ってくるのも不定期だしすぐ都に行っちゃうから、また会えたなんて奇跡に近いわね」
「奇跡なんて今更じゃないか。そもそも始めの出会いが奇跡だし、言葉が通じたことだって、一日の周期が同じだったことだって、お前がそんなに魅力的な女だったことだって奇跡だ」
「あんた年食ってキザになったんじゃないの? 奥さんとは幸せにやってる?」
「ああ。優しくていい奴だよ。そっちこそツォンとはどうだ?」
「相変わらずいい人過ぎるくらい。若いより今くらいの年齢のほうが似合ってるかもね」
「そうかよかった。他に変わったことは無いか?」
「数年前、母さんが死んだよ。まあ寿命だろうね」
「……そうか」
「なーにシケないでよ。もう平気。つらいときは人に甘えてるから」
「それがいい。ちょっと、飯食いに行ってくる。積もる話は夜にしよう」
「そうね。いつが最後の別れになっちゃうか分からないから、話したいことはじっくり全部話さなきゃね——」




『おめでとう そしてこれから 待っている素敵な日々
 お二人で過ごす日々に笑顔あれ』

窓の向こうの景色 ( No.16 )
日時: 2015/08/30 23:50
名前: 雷燕03 ◆bizc.dLEtA (ID: a6RsoL4B)

窓の向こうの景色



 僕の部屋の東側には、大きな出窓がある。そこからは庭の木や花を眺めることができたから、お気に入りの窓だった。心地よい日差しと風も入ってくるし。家の周りには塀があって不審者が入ってくる心配なんてしていなかったから、冬でもない限り日中開けっ放しにしていた。

 危ないからと言って大人たちは僕を一人で外出させてくれなくて、基本的に僕は一日中家にいた。とはいえ学校へ行かなくなってからも家庭教師が勉強を教えにくるし、僕が寂しくないよう親はしょっちゅう人を招いてくれたから、暇で暇で死にそうなわけでもない。だから部屋でひとりでいる時間は、僕が唯一気を抜けて誰にも邪魔されない、少しだけ寂しいけど大切な時間だった。

 あ、誰にもってのはちょっと語弊があるかもしれない。僕の部屋には、大好きな猫のニコライがいたから。ノルウェージャンフォレストキャットの、毛色はクリーム寄りのレッドタビー。人間だったらきれいな金髪なんだろうなって感じのその柔らかい毛は、今では触ってもふもふして楽しむことしかできないけど。

 そんなこんなで、ニコライは部屋にいるんだろうか、それともこの出窓からどこかに出かけているんだろうかと思いながら、窓の外にぼーっと目を向けていた時。出窓から透き通った声がしたんだ。

「なあお前。ずーっと部屋にいるけど、つまらなくねえの?」

 その声はそう言った。僕はびっくりして凄く慌ててしまった。だ、だれ。何のために、どうしてここに、どうやって入ってきたんだろう。そうだよ、だってこの家の周りは塀で囲まれていて、仮に人間が登ろうとしたりなんかしたら防犯システムが本領を発揮することになるはずだったから。

 どうやって入ってきたの、と訊くとその声は、「んー? まあちょっとな。抜け道があって」と軽々しく言った。抜け道なんて。そんなものがあるとしたら、大問題だ。お父さんかお母さんに知らせないと。

——そんなことより質問に答えろよー。暇じゃねえの、お前。

 口調からして男の子なんだろう。声変わりはしていなくて、よく通る高い声。その声は、不法侵入を犯してこれから悪いことをしようとする声には到底聞こえなかった。むしろ無邪気で、僕のとことに遊びに来たような声音だ。

 暇ではないなあ。ぼんやり考え事するのもつまらなくはないし。

 僕はそう答えて、座っているベッドから出窓の方を見つめた。慣れ親しんだ動作だからできるけど、実際には世界は真っ暗で、そこから忽然と出窓が消えていても、僕はしばらく気づかないだろうけどね。

 ただ、と付け加えをする。外の景色が見れないのはちょっと寂しいかな。

「じゃあ、オレが外のこと話してやるよ。お前、目が見えないんだろ」

 少年がにやりと笑った気がした。もちろん見えないんだけど、そんな雰囲気で彼が言った。
 なぜ彼は知っているんだろう。尋ねたけど、天才だからな、なんて言われた。

 生まれつきではない。三ヶ月くらい前かな、僕がお手伝いさんの運転する車に乗ってどこかに出かけてた時。前を走ってたトラックの荷台の紐が切れて、木材が落ちてきて、がしゃーんばりーん。ガラスの破片がまぶたの上から目に突き刺さりましたとさ。

 正直、その瞬間のことはよく覚えていない。頭を打ったのか、何かがショックだったのかは分からないけど、後に聞いた話だとこんな感じらしい。幸い大きな怪我は誰もしなかった。目以外は事故の後一ヶ月も経たずに全部直ったしね。まぶたも治って普通に目を開けることはできる。でも、傷つけられた角膜だけは自力で戻ることはなくて。

 だから、彼の提案はとても嬉しかった。本当に話してくれるの? と僕が言うと、それが随分面白い顔をしていたらしい、おもちゃを買ってもらうときのガキの顔だ、と言ってにししっと笑う。そして彼は早速話を始めた。少年はよくこの町を徘徊しているらしく、近所のことは何でも知っていた。久々に心から楽しい時間だと感じた。

 彼が明日も明後日もその先も来てくれると言うから、僕は昼ごはんの後なら大体部屋に一人でいるよ、と伝えた。少年の名はクラウスというらしい。日本人じゃないのだろうか。


 それからというもの、少年はほぼ毎日僕の部屋の出窓から話をしてくれた。

 僕もこの町に住んでるわけだけど、彼の話すことは僕が全く知らないことばかりだった。子供たちが集まっていつも野球をしていた空き地にアパートが建つことになって残念だとか、彼と一緒でよく散歩しているところを見かける人がいるんだけどたまに服装が全然違って女か男か確信が持てないとか、近くを通りかかるといつでもピアノが聞こえてくる変な家があるとか、たっくんっていう子と今日はこんな話をしたとか。あるときは公園に毎日来ていたカップルが別れるまでの、日々の少しずつの変化をリアルタイムで聞いたりもしたな。不謹慎だとはちょっと思ったけど、彼の話し方や途中に挟まれる呟きがおもしろいもんだから僕も一緒に笑ってしまう。

 クラウスが話してくれる世界は、僕が自分の目で見ていたそれよりずっと鮮やかで生き生きとしていた。彼と話す時間は、その回数が増えるたびに大切なものになっていく。さすがに夜に来てもらうことはできないから、午後に外出の用事などがあるのがあまり好きではなくなった。

「えへへ。ニコライ、僕にもう一人、大事な大事な友達ができたんだよ」

 ニコライを抱きしめて首の下を撫でながら、そんなことを言った。ふわふわの毛が気持ちいい。ニコライは僕の言った意味も分からないだろうし、そもそも僕の目が見えなくなったことも知らないだろうけど、にゃあ、とかわいい声で鳴いた。

 そんな風に、味気なくなってしまった僕の世界に新鮮味を与えてくれるクラウスだったけど、彼自身のことはほとんど話してくれなかった。彼自身の事を訊くと、話せる時間は限られてるんだから俺のことなんか話してたらもったいないだろ、と全く上手く無いはぐらかし方をされる。僕は君のことも知りたいんだけどなあ。僕がずっと彼の話を聞いてきて彼について分かったことといえば、髪が金髪だってことくらいだ。近所には少ないから珍しがられると言っていた。そりゃそうだ、ここは日本の片田舎なんだから。流暢な日本語を話すけど、血筋はやはり日本人ではないのだろう。

 クラウスと話すのはとてもとても楽しかったけど、同時に寂しさはますます感じるようになった。彼はどんな顔をしているのだろう。町は前と変わっているのだろうか。僕は何も知らない。そのことがたまに恐ろしく悲しい。虚しい。一度は諦めて手放すことを受け入れたはずの、世界の色がまた欲しくなるのを感じた。

 ああ、君の見ている世界が見たい。


 そんな願望が強くなってきた矢先だったから、その知らせを聞いたときの喜びといったら、言葉では言い表せない。僕はその場でぴょんぴょん跳びはねた。お母さんも、はしゃぎすぎよ、と言いながら声が笑っている。昼ご飯が凄く美味しかったけど、何を食べたかはっきりと思い出せないほど興奮していた。

 僕は自分の部屋へ駆け込むと、ニコライの名前を呼んだ。にゃあ、という鳴き声がして足に擦り寄られる感覚を覚える。しゃがんでニコライを抱きしめる。

 やったよ、ニコライ。ついに角膜移植が受けられるんだ!

 僕がニコライの頭辺りに顔を擦り付けてそう言うと、ニコライはまたにゃあと鳴いた。もちろん猫に言って分かるはずがないけれど、とにかく誰かに報告したかった。ああ、そして早くクラウスにこの喜びを伝えたい。

 彼は間もなくやって来た。今日は、昨日から行われている地区のお祭りの話をしてくれた。近所の高校のマーチングバンドが演奏して、大学のチアリーディングなんかもあって、随分と賑やかだそうだ。どちらも見たことが無いからとても見てみたい。そうだよ、来年のこのお祭りは、彼と見に行けるんだ。

 そんな風に終始浮ついた気分で彼の話を聞いていたら、どうやらその雰囲気が伝わっていたらしい。今日はやけに楽しそうじゃないかと言われた。その通り、僕は今とても楽しい。そして、言いたくてうずうずしていたことをクラウスに伝える。

「聞いて驚くなよ。再来週に、角膜移植を受けられることになったんだ!」

 僕はクラウスが喜んで祝福してくれる様子が目に見えるように期待していた。しかし実際の彼は出窓の向こうで黙りこくっている。どうしたんだろう。彼なら、僕の目が見えるようになることをとても喜んでくれると思っていたのに。

「……カクマクイショク、って何だ?」

 ああなるほど。角膜移植をしたら僕の目が治るということを彼は理解していなかったらしい。確かに彼は僕の知らないことをたくさん知っていたけど、こと勉強っぽい事柄に関してはさっぱりだった。角膜移植のことを知らなかったのだろう。

 僕も詳しいことは知らないんだけど、手術を受けたら目が見えるようになるんだと説明をする。これでクラウスも手放しで喜ぶことだろう。……そう思ったんだけど、やっぱり彼の反応は想定外に薄かった。その手術は失敗したりしないのか、体に悪い影響は無いのかと変な心配ばかりする。変な、と言っては悪いかもしれないけど、そんな心配をする前にもっと喜んでほしかったなあ。

 僕は手術の日が楽しみで仕方なかったけれど、期待外れのクラウスの反応はちょっと気がかりだった。もしかしたら、僕の目が治ったら何か困ることでもあるんだろうか? 外の話をしてくれる友達は必要なくなるとか? まさか。そんなことは誓って無い。

 そんなことはあったけど、彼は次の日からもいつも通り来てくれて、いつも通り楽しい話を聞かせてくれた。君の見る世界の光をもう一度この目で感じるのが待ち遠しいよ。


 そうして手術の日が来た。手術は半日で終わるらしく、昼過ぎには家に帰れると言われた。非常に都合がいい。クラウスにちょっと遅めに来てもらえば、その日のうちに彼の顔を見られるということだ。前日にそう伝えたところ彼は、よかったな、やっとだな、と喜んでくれた。初めて手術のことを発表したときは、彼も事態がよく飲み込めてなかったのかな。

 麻酔から覚めて目を開けると、真っ暗だった世界はぼんやりと白かった。すぐにはっきりと見えるわけではないらしいけど、これからどこまで見えるようになってくれるのか分からないけれど、僕は嬉しくて嬉しくて腕をじたばたさせた。ベッドで寝ていて跳ねることができなかったからね。

 そして約束通り夕方になる前には家に帰ることができた。久々に見る我が家だ。酷く曖昧な輪郭しかまだ分からないけど、世界はもう一度色を取り戻してくれたんだ。廊下を走っても何にもぶつからないことが楽しかった。お父さんに叱られてしまったけど。

 僕は自分の部屋に行って、久々に見る景色を堪能した。点字を勉強した机。これからは文字を書いて勉強することができるんだ。いつも座っているベッド。シーツの端がはみ出ていることに気付いて直した。出窓で日向ぼっこをしていたニコライを抱きかかえてじゃれる。ニコライの顔を見るのも久しぶりだ。半年見てない間に大きくなった気がする。

 クラウスは早く来ないかな。まだはっきりと顔は見えないだろうけど、彼の金髪を見てみたいな。君と一緒に外の世界を歩けたらどんなに楽しいだろう。すぐにでも一緒に外へ出たいけど、お父さんとお母さんはまだ許してくれないかな。友達と一緒だって言ったら許してくれるかな。

 そんな風にクラウスがやって来るのをずっと楽しみにしてたけど、夕方になっても彼は来なかった。日が沈んでも、また日が昇っても、彼は来ない。

 出窓ではただニコライが日向ぼっこをして、たまに透明なガラスのように透き通った声で、にゃあと鳴くだけだった。





英語の長文からインスパイアされるってどうなの……(笑)
できるなら冬の雨の日並みの文字数に抑えたいんですけど、どうにも。

十か月の追憶 ( No.17 )
日時: 2015/08/30 23:54
名前: 雷燕 ◆bizc.dLEtA (ID: a6RsoL4B)

十ヶ月の追憶



 今年も、この神社の境内は見事な紅葉に包まれた。もみじにいちょうに。山の中に位置するため木々に囲まれた境内であり、一面が赤と黄色に変わる。他のどの季節よりも美しい景色が見られる時期だ。

 そして彼女は、今日もここへ来ていた。お参りをした後、お賽銭箱の横の階段に座って趣味の編み物をしている。たまに実の娘やその友達らしき子供を連れて。彼女はこの美しい境内にも見劣りしないほどの美人だ。彼女に会うためにこの神社に来る人も少なくないので、彼女おかげでここのお賽銭箱は潤っているといっても過言ではないだろう。

 そしてそんな理由で足を運んだ者が、目的を果たせずに気を落として帰ることはほとんどなかった。用事があって昼間にどこかへ行くことこそあれど、彼女は毎日欠かさずこの神社に来るからだ。

 まだ戦争が終わってそう長くない。皆生きるために働くので一生懸命な時代だというのに、彼女が何故ここまで神社に通うのか。近所の人々は「そんなに信仰心が強いのだろうか」「単に神社が好きなのでは」と不思議がっているようだが、俺はその理由を知っていた。

 彼女は待っているのだ。昔に会った放浪人を。

 まあその放浪人というのは俺で、既にこの神社に居座る幽霊となっているのだけれど。


 冬のこの境内は寂しい。見事に色付いていた葉は、その色を失わぬまま地面に舞い落ちる。その分裸になっていく木は寒そうである。この時期になると、彼女は境内に散乱する落ち葉を掃除するのが日課になるようだ。今日も、箒を持って落ち葉を掃いていた。

「精が出ますね」

 俺が声をかけると、彼女は振り向いて笑って答えた。長く美しい髪が揺れる。

「こんにちは。ここは神主さんがいないから、この時期になると地面が大変なことになるんですよ。だから冬だけでも来て掃除をするようにしてるんです」
「一人でですか? それは骨が折れるでしょう」
「でも秋の紅葉がすばらしいから、全然苦じゃないんですよ。もうちょっと来るのが早ければあなたも見られたのだけど」

 最後は長いまつげの目を伏せて、少し残念そうに言った。

 俺はどこに行く当てもないので、この神社に居座ることにした。雨風をしのぐ場所もあるし、人も少ないから。……と言いつつ、彼女に会いたかったのが本音だ。

 俺がここにしばらくいると、寒いだろうと言って彼女は自分で編んだマフラーをくれた。それをつけると、心まで温まるようだった。

 彼女の名はヒトミというそうだ。名前の通り、瞳が特に美しい。


 春は、境内を囲む林で地面一面に花が咲く。木々は新芽を出し始め、春の緑色に染まっていく。ヒトミの娘は花を摘んで花飾りを作るのに必死らしい。

 桜があればよい花見の場所になっただろうに、と俺が言うと、ヒトミは「そうですね。でも、この神社はこれでいいんですよ。春にピンクのかわいらしい花を咲かせるより、秋に力強く物悲しいオレンジに染まるほうが似合ってるんです。私の勝手な好みではあるんですけどね」と言った。確かに、と思った。

「秋のこの境内と君では、どちらが美しいんですか」
「あはは。さすがにこの神社には勝てませんね」

 彼女は自分の美しさを自覚している。しかし決して鼻にかけることはなく、「親がくれたもの」といつも感謝をしていた。心まで美しいのかと思う。

 彼女は、冬が終わって落ち葉がなくなってもここに来てくれていた。何故だかは分からなかったが、俺に会いに来てくれていたらいいのに、なんて夢を見たりもした。たとえそうでなくても、この世界で一番だと思われるこの笑顔を見られるのだから、その理由には感謝したい。


 夏のこの地域はうだるように暑いのだが、この神社は木陰に覆われるおかげで涼しさを感じられる。今日も俺は、ヒトミと二人でここにいた。娘は友達と遊んでいるらしい。

 ヒトミは前よりも痩せていた。そして、随分と疲れた顔をしていた。女が働きながら子供を育てるなど難しいし、食料も少ないから、そのせいだろう。俺は彼女に、結婚はしていないのか尋ねた。

「してるんですけど、先の戦争で死んじゃったんですよ。娘を置いて……。幸いにも親がこんな容姿に生んでくれましたので、何とか食い繋いでいるんですけど」
 彼女は冗談めかして笑うが。
「……申し訳ないことを聞きました」
「お気になさらないで下さい。最近は貴方がいてくれるおかげで寂しくないわ」

 俺は心臓が高鳴り始めたのが分かったが、彼女には悟られないよう冷静を装った。そして彼女をこれ以上悲しませてはならないと、妙な使命感に駆られた。

 しかし、それから数日経った頃だったか。俺は流行の病にかかったようだ。空腹で体も随分弱っていたのだろうか。せきが止まらず、熱が出て意識が朦朧とした。彼女にうつす訳にはいかないという考えが真っ先に浮かぶ。不幸中の幸いと言うのか、初めて症状が出たのは夜だった。俺は病が治るまでどこか別の場所にいようと思い神社を出て、裏山の奥へ歩き始めた。

 しばらくした後、俺は自分が倒れていることに気がついた。近くでは、ヒトミの娘が愛らしい顔を心配そうに歪ませてこちらを見ていた。あたりは薄明るい。朝になったのか。

「おじちゃん? どうしたの? お母さんが探してるよ?」
「起こしてくれたのか。ありがとう」

 俺はなるべく娘の方を向かないで言った。

「いいか、すぐに戻ってヒトミには俺がこう言っていたと伝えてくれ——」
 美しい彼女に対して嘘だけはつきたくなくて、働かない頭でどうにか言葉を生み出すための少しの間の後。
「『俺はまだ、生きている』。俺は行くよ。いつになるか分からないが、またな」
「あ、おじちゃん!」

 俺は全身の力を振り絞って走り出した。娘は追ってこなかった。

 しかしこうなると、病が治るのを待っていてそのまま死ぬようなことは万が一にもできない。彼女から希望を奪ってはならない。

 ……おっと、いつの間にか俺は自分のことを彼女の希望とまで思うほど自惚れていた様だ。そんなことを思いながら、林を抜けたところにある大きな川にたどり着いた。俺がどこかでのたれ死んだりしたら、彼女はいつかそれを知ってしまうかもしれない。体が回復する確証はどこにもないし、むしろ可能性は低い。そうだ、ならばいっそ、決して彼女に見つからないように消えればいいのだ。

 川は朝日に照らされてゆらゆらと輝いていた。迷うことはない。俺はその輝きの中に身を投げる。消えてゆく意識の中で、彼女が美しいと言った紅葉を見られなかったことだけが心残りだった。未練で幽霊にでもなってしまいそうなほどに。


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