複雑・ファジー小説

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【短編集】移ろう花は、徒然に。【完結済】
日時: 2020/10/02 00:09
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: XOD8NPcM)

*
——花。

 あるところに、荒れ果てた土地がありました。広大であるにもかかわらず、作物を育てるのに不向きだったその土地は、人々の悩みの種でした。
 土地が肥えていれば、食料に困ることもなかったのに。人々の声は風に乗り、小さな種が荒野に落ちました。

 そんなある日、一輪の花が咲きました。それは華やかな色で、それを見た人々は明るい気持ちになりました。
 次の日、別の花が咲きました。それは深い悲しみの色で、それを見た人々は悲しみの記憶を思い出しました。
 また次の日、別の花が咲きました。それは燃えるような色で、それを見た人々はやり場のない怒りを胸に抱きました。
 咲いた花は、どれを見ても同じ色、形、香りをしたものはありません。

——そう、物語のように。

 そして艶やかに咲いた花は、一つ、また一つと散ってゆきます。花が散ったあと、また土地には何も無くなりました。広大な土地があるだけです。しかし、荒れ果てた土地ではありません。養分をたっぷり含んだ、素晴らしい土地へと変わっていたのです。
 集まった人々はこう言いました。

 次はここに、どんな花を咲かせようか。
 また季節が変われば、色々な花が咲くだろうか。


*——目次——*

第一部

>>1 【 Sound 】
>>3-5 【 Viola farfalla 】(紫の蝶)
>>6 【 操り人形マリオネット 】
>>9 【 Sand Glass —Crash— 】(砂時計)
>>10 【 Sand Glass —Cheese— 】
>>11 【 Sand Glass —Close— 】
>>14 【 紫陽花の陰 】
>>15 【 怖がりな彼女 】

幕間
>>17 【少女の憂いと魔女の庭】

第二部

>>18 【 生命いのちの花 】
>>19 【 想い出 】
>>20-21 【 Pre-Established Harmony 】(予定調和)
>>22 【 Transparent Apple 】(透明な林檎)
>>25 【 I 】
>>26 【 感情的なBlue 】
>>27 【スカーレット・レディ】
>>28 【 Eat Me , Drink Me 】
>>29-30 【 壊 】
>>31 【 生命の木 】

終幕
>>32 【 さよならと夢に綴る 】


*——更新履歴——*

更新開始 2014.01.06
小説大会2015冬 金賞
小説大会2017夏 銀賞
終幕  2019.03.07

参照67000

*
 ——花。それは、煌めく感情の物語。
 言の葉を色に乗せ、名もなき痛みを綴りましょう。


*
 こんにちは。黒崎加奈、あるいは黒雪と申します。名前でトリップが変わりますが『.KANA』『.SNOW』など文字列が揃っているのが特徴です。
 ここでは短編を投稿しています。それぞれが独立している第一部、短編同士を繋げて中編もどきを紡ぐ第二部、という構成になっております。
 実験的に書いているお話が多いので、作品の完成度にはバラつきがありますが、どうか見守ってくださいませ。目標は、物語が観えること、文章で魅せることです。

*
 長らくありがとうございました。

Re: 【短編集】移ろう花は、徒然に。【生命の花掲載】 ( No.18 )
日時: 2016/12/08 21:54
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: jwhubU7D)

 木々の間に、一輪の花があった。暗い緑と茶に侵された空間の中で光り輝くその花は、この世のものとは思えないほど幻想的だ。
——本当に、この世のものではないのかもしれない。
 鮮やかな黄緑と、ガラスのように透明な花びら。しかしステンドガラスよりは薄く、色つきのグラスよりは濃く。花びらを通して見た世界を、ぼんやりと紅に染めてみせるほどには淡く色づいた花びらだった。

【生命(いのち)の花】


 陽が落ちかけ、昼と夜のちょうど境目ともとれる時間に、涙を零しながら走る少年がいた。
 ズボンに隠れた傷だらけの脚、手首から滲む鮮血。少年自身によって付けられた幾つもの傷は、身体を動かす度に悲鳴をあげた。

「シノ、手首の傷大丈夫? なんかで抑えたほうが良いんじゃ?」
「……え。あっ……うん、大丈夫だと思う。小さい傷だし、ほっとけばすぐ止まるよ」

 声をかけられて、はっと意識が戻ってくる。信号で止まった時、たまたま近くにいた彼女は傷に気がついたらしい。彼女に言われるまで、手首の切り傷が少しひらいて血が出ていることに気がつかずにいた。

「本当に? 手首から垂れそうだけど……ほら、これ使って。見てるこっちが痛くなってきそうだから」

 そう言って、手首をとり白いハンカチを巻きつける。赤い糸の刺繍が血を目立たなくしていた。

「あ……ありがとう」
「気にしないで。あ、いっけないおばあちゃんに怒られちゃう。じゃあね」

 少しキツめに巻かれたハンカチの締め付けは心地が良かった。
 少女は彼が誰かと喧嘩でもしたと思ったのだろう。「早く帰って消毒とかしてね」と言って去っていった。軽く手を振り、遠ざかっていく後ろ姿に「ごめんね」と小さく呟いた。
 陽が傾き、光が絞られるにつれ霧は濃くなる。視界が遮られる中で目的地にたどり着こうとするのは至難の業。彼は足の向くままに町をさすらっているのだから、そもそも目的地も何もないのだが。
 でも、すぐに分かった。足元の感触が違う。固い地面ではなく、柔らかな草花と土。
 そこは、町外れの花畑だった。
 一昔前までは、美しい花々が見渡す限り続いていたらしいが、今は昼夜を問わず霧に覆われており、その景色はない。近づけば花が咲いているのが分かる、ただそれだけのことだ。

——もう、疲れたな。

 こんなにボロボロになっても満たされない。躰は燃えるように熱いのに、冷えきった手足。どこかに大きな穴が空いていて、胸の奥から何かが抜けていってるみたいだ。こうして闇の中にいると、その大きな穴が埋まるような感覚に陥る。

——そろそろ帰らなきゃ。

 そんなことを彼は思った。こんな自分でも、帰りが遅いと心配してくれる母親がいる。でも、夜を吸った霧は方向を飲み込んでしまった。
 仕方なくその場でゆっくりと回ってみると、赤い光が見えた気がした。気のせいだろうか。いや、そうではない。少しずつ、シノは目を凝らしながら進んで行くことにしてみた。

「おや、こんなところに客人とは珍しい。どうしたんだい、坊や」

 いきなり声をかけられて、思わず転んでしまった。気がつけば夜空も見えるし、小さな家が建っているのも見える。背の高い木々が囲むように立っていた。

「え、あ、あの……」
「ははん、適当に歩いてたら迷ったか。あたしはイブ。この荒野——いや、今は花畑か——の主さ」

 頭の中に噂話の一節が不意に浮かんだ。ここは、魔女の庭……? 考えを読んだかのようにイブと名乗った女性は続ける。

「あたしは魔女ではないよ。でも、あんたらからしたら魔女なのかもしれないね。霧を出しているのも、花を咲かせたのもあたしだから。ほら、あんたが惹かれて来たのはこの花だろう?」

 そう言って一輪の花を指した。

「これが……花?」

 月明かりに照らされた空間の中で、ぼんやりとした紅い光が灯っている。それを間近で見ると花びらは薄く透き通り、ガラスのようだった。色を放っていなければ、そこに花があると認識できないのではないか、と彼は思った。

「アンズの花言葉は孤独。今の君にぴったりだろう? 何をしても満たされない、それは1人だからさ。摘み取ることはしないでおくれよ。育てるのには手間がかかる」

 そう言って背を向けて、小さな家へと歩いていく。煙突からは煙が出ていた。今まで彼女の存在に圧倒されていたが、ふと我に帰って訊ねる。

「ま、待ってください! ここから、どうやって帰れば?」
「答えはあんたが知ってるよ。ゆっくり花と考えな」

 背を向けたままイブは答える。そして今度こそ家の中へ入ってしまった。
 木々の狭間の空間に花と一人。帰り道は、どこだろう。自分でつけた傷が今さら痛む。彼女は、満たされないのは孤独だからだと言っていた。
 一人でいるのが好きだった。居場所なんてどこにもない。学校の友人とはそれなりに話もして、町の人と挨拶ぐらいは交わす。でも孤独感しか感じられなかった。放課後、遊びに行こうと誘われたことは一度もない。ケータイに届くのは必要最低限の連絡だけ。
 表面上の付き合いに疲れて自棄になれば「あんな人だったのか」と陰で言われ、自分が正しいと思う選択をすれば「その選択は間違っている」と裏から突きつけられる。
 突きつけた本人は素知らぬ顔で、何事もないかのように笑い、いつもの景色と同化する。
 だから、一人でいるのが好きだった——自分がそう思い込んでいた? 決めつけたのは、自分自身だったのかもしれない。
 手に巻かれたハンカチを見た。家で自分の帰りを待っているであろう母親を思い出した。
 こんな自分でも、誰かに心配されるのだということに、今さら気がつく。
 そこまで思うと、不思議な花に近づいてみた。見れば見るほど、輝き、美しく、神秘的な花だった。つうっと指で花びらをなぞる。指先がふわりと温かい感覚に包まれたかと思うと、久々に充実感が溢れた。花の色は明るさを増して、今や月明かりを凌いでいる。

「あっ……」

 見慣れた景色が、遠くに見えた。道を作るように霧が二つに割れ、紅い光が照らしてくれている。

「もう少し、僕は頑張ってみるよ。それでもダメだったら、また君と会うのかな」

 その言葉に応えるように、アンズの花は一度強く光った。その光に背中を押されるようにして、シノは霧の道を駆け抜けて行った——。

「やっぱり、人の感情を直接与える方が綺麗に育つんだねぇ。次は何の『生命の花』を育てようか」

 霧の奥でポツリと、イブは呟いた。


*

Image collar 虹色(にじいろ)
※七色ではありません。和色でいう赤の一種です。

Re: 【短編集】移ろう花は、徒然に。【生命の花掲載】 ( No.19 )
日時: 2016/08/19 13:23
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: Uj9lR0Ik)

 淡く、儚く、泡沫の夢の色。花火のように消えてゆく——。

【想い出】


「……今日、可愛いね」

 その言葉は不意打ち過ぎて、自分でも顔が紅くなるのがわかった。今年初めて着た特別な服。待ち合わせ場所から少し歩いて、いきなり耳元で囁かれるなんて思ってもみなかった。
——私、あなたのことがまともに見られないの。
 この日、私はあなたに恋をしました。考えるだけで苦しくて、でもそれが心地よくて、上手く言葉になんて出来ない。あなたがいるって、そう思うたびに、なんにもない普通の日でも特別になった。
 それから程無くして、私たちは付き合うようになった。あなたが笑っている横顔が、とても好き。
 いつまでも、こんな日々が続くと、ずっと信じていた。でも、それは夢だったのね。
 いつの間にか、あなたの姿は消えていた。あとで聞いたのだけれど、お医者様を目指すために留学したんだってね。あなたはいつも私に優しいから、黙っていた。そして、一陣の風のように去っていった。

「さよなら」

 そんなことも言えずに、色とりどりの記憶は空に散る。それが、一緒に見た祭りの花火みたいで、散っていく花火を見ていると涙が零れた。痛いほど儚いとよく聞くけれど、本当にその通り。すごく、すごく綺麗だった。
 私の頭を撫でてくれた手のひらも、人目を避けるように交わした口づけも、泡沫の色で私の胸を焦がしていくの。

『あなたに、もう一度会えますか?』

 聞きたい答えをくれる人は、一人しかいません。あなたは、どこにいますか。
 最後に別れたときもあなたは笑顔。笑顔で別れる術は、知らなかったわ。今日までと変わらない明日が来ると、当たり前のように思っていた。
 いるはずがないのに、いつも目で探してしまう。あなたが好きだった場所、食べ物、色……。後ろ姿を見つけては、あなたと重ねている。そんなことをしていても、あなたがいた時間は戻らないと、知っているのにね。夏がまた、あなたと会わせてくれると思っていた。

「どうして?」

 そんなことも言えずに、ただ、ひと夏の夢だけが残る。夕暮れの霧に、蝉時雨がこだまする。その鳴き声で、私の想いをかき消さないで。いつまでも泣いているのは私もだから。
 オレンジ色の空にある真っ白な筋は、ぼんやりとしか見えません。あなたのいる場所からは、綺麗に見えますか。まっすぐな雲が私の願いを乗せて、あなたのもとへ伸びていく。

『あなたに、会いたいです』

 失って初めて、気づくこともあるんだね。笑って、泣いて、喧嘩して、仲直りして。その一つ一つが、かけがえのない夢のようで、色づいている。あれから、もう一年が経ちました。あなたとの想い出が、今の私に繋がっている。

「大好き」

 あの時は恥ずかしくて伝えられなかったけれど、今なら言葉にできる。もっともっと、伝えればよかった。私の夏は、あなたという夢の色に染まったけれど、私はあなたの夏を染められたのかな。
 二人で見た花火は、なんども、何度も空に咲いていたね。今日も色のない空に、艶やかな華があの日みたいに咲いている。
 悲しい、哀しい、寂しい。そう思えば思うほど、美しく私の目には映っているの。
 ねぇ、私の想いも一緒に打ちあげて。遠いあなたにも届くように、高く、暗い空に美しく、可憐に、艶やかに咲かせてください。

『あなたが、好きです』

 懐かしい日々だった。あれは十七歳の夏。恋して、泣いて、色んなことがあった夏だった。
 あれから私は成長して、六年が過ぎた。町を出て、仕事にも少しずつ慣れてきて。そんな矢先、町に住む母親が倒れたという知らせが届いた。 急いで仕事を切り上げて、五年ぶりに町に帰ってくると、忘れていた色んなことが一気によみがえってきて、でも何かが抜け落ちてしまったような、そんな感じがした。
 久しぶりに帰る我が家は何も変わっていなくて、変わったとすれば、母親がやせ細ってしまったことぐらい。少し表面の欠けた赤いレンガに、右から三番目の瓦が無くなっている屋根。リビングに敷いてある、端っこが少し破れたカーペット。もちろん私の部屋も、出て行った時のままだった。だからこそ、その時に書いていた日記を見つけて思い出に浸りつつ、少し当時の自分を恥ずかしいなと思った。あんなに人を好きになれる自分がいたなんて、ちょっと前の自分なのに、今の自分からは考えられなかった。

「お母さん、ちょっと町の様子見てくる!」
「……気を付けてね」

 か細い声の返事がしたことを確認してから、家を飛び出す。遅刻ギリギリに家を出ていたあの頃と同じだなと思いだして笑った。
 町の景色は記憶と違った。通っていた学校も、帰り道によく行った店も、見慣れた通学路も、五年もたてば色々変わっていた。学校の校舎は建て替えられて真っ白な木の建物に、砂利道の通学路は石畳の道になった。通いなれた店は、大都市でよく見かける食料品店に。
 こんな田舎町でも変わるところは変わり、近代的になる。でも、少し町の中心部から外れるとやはり田舎だなぁと思ってしまう。まだ明るい昼間なのに、あたりには霞がかかっている。この霞、夜にはとても濃い霧となってあたりの視界を奪ってしまうほど性質の悪いものだ。

「このご時世に魔女とか言われてもね……正直バカバカしいとしか。せっかく綺麗な花畑とかあるのにもったいないわよねー」

 霧に八割がた隠れた花畑。そう、この霧の奥には魔女が住むと、昔から言われていた。荒れ果てた土地に花を咲かせ、消えない霧を作り出し、迷い込んだ人間は殺してしまう。だが、その噂に臆することなく霧の中に入ってしまう人がいるほど、霧に垣間見る花々は美しい。そして特に格別なのは夜。高いところに登って花畑の方を見下ろすと、霧の合間からキラキラと花が光って見えるらしいのだ。まるでそれは夜空に瞬く星々のようだとも評される。運よく見られた者は願いが叶うとか、そんな幻想的な話も聞いたことがあった。

——あの頃は、私もその話を信じていた。

 どうしてもあなたにまた会いたくて、言いたかった言葉をどうしても伝えたくて。
 どうしたんだっけ?
 私は、私は、あの時。

「おや。誰かと思ったらあんたか。ついこの間も見たような気がするけど、ずいぶん大きくなったねぇ」

 真横から声がした。花畑の前にいたはずなのに、いつの間にか周りは木々に囲まれた空間になっていた。白い煙のあがる小さな家。太陽の光が木漏れ日となって降り注ぎ、やわらかな緑を優しく包んでいる。

「思い出を取りにきたって感じか。あの時は感情が溢れかえっていたからね。花が吸いすぎたのかもしれない」

 この場所も、この声も、知っている。私の足元に咲く、小さな花の名前も、全部知っている。

「届かぬ……想い。それがこのエンドウの花言葉……」
「ごらん、あんたの感情を吸って、深みのある赤に咲いているだろう。本当は、こんなに赤いのは真ん中の部分だけなのさ。周りのところは薄い紫色でねぇ、今のままでも充分だけど、やっぱ本当の色合いのほうが綺麗に咲くんだよ。ほら、指で優しくなでておやり」

 真っ赤なルージュをひいた唇が弧を描く。
 あの日、あの人に想いを伝えたくて、夜の花畑に一人で出かけて行った。同じように、いつの間にかこの場所に迷いこんで、彼女に話しかけられた。イブと名乗る女性を前に、昔からの言い伝えが本当だったんだって、すごく私は驚いていたのを思い出す。ガラスのコップ越しに見るろうそくの炎みたいに、キラキラ光る色とりどりの花の中で、その花だけは透明で、透き通った花びらをしていた。
 つうっと指でなぞると、涙がこぼれ落ちるように濃い赤の色が薄くなっていった。花びらに触れている指先が、紫のネオンに照らされる。光を見ていたら、自然と泣いていた。どんどんあふれて、止まらなくて、花びらの上に、一つ——また一つと落ちていった。

「あんたの想い、取り戻したかい? 忘れてちゃいけない、大事なものだろう」

 イブが静かに問いかけた。唇の端がわずかに上げられる。

「最初はつらいかもしれない。あたしだってそうだった。でも、その思い出を無かったことにしたら、何かが物足りないんだよ。綺麗な思い出ばかりじゃないけど、自分の中に残しておかなきゃいけないのさ」

 泣きじゃくりながら、何度も頷いた。心に空いていた穴が埋まった気がして顔を上げる。辺りはすっかり夜だし、いつの間にか自分の家の前に戻ってきていた。今度は、思い出と前を向いて歩ける、エンドウの花が見守ってくれているような気がした。
 見上げた空に一輪——艶やかな花が咲く。

「やっぱり綺麗だねぇ……人の感情は強すぎても弱すぎてもなんか物足りなくなっちまう。お前さん、見事に咲けて良かったな」

 霧の奥。空と地に咲く花を見つめて、イブは満足げに微笑んだ。


*


Image coller 薄紅藤色(うすべにふじいろ)

Re: 【短編集】移ろう花は、徒然に。【想い出掲載】 ( No.20 )
日時: 2016/08/19 10:10
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: jwhubU7D)

 ゆらりゆらりと巡りゆく——。
 終わらない季節、染まる色。予定調和の世界はいつまでも、壊れたカケラの鱗片に映し出されるだけ。
 ほら、今日もあなたの手のひらにヒトヒラの瞬きが訪れる。


【Pre-Established Harmony】

--Trump Card--
 窓辺の景色が白に染まるのを、少女は眺めていた。膝の上で開かれた本には、美しい『花』と呼ばれるものや『紅葉』と呼ばれるものが載っているが、彼女の住む場所にそんな綺麗なものは存在しない。雪と、氷と、灰色の石があるだけだった。
 一年じゅう、ほぼ毎日といっていいほど、雪や雹ひどいときにはそれらが吹雪となって牙をむく。
 そんな環境下で、食物になるようなものが育つはずもなく、食べるものはすべて、もっと南のところから運んでくるしかない。着るものも、薪も、何もかも全部もっと南のところに頼ってばかり。灰色の石を削り、磨いて生まれる鉱石が彼女の生活の糧となっていた。
 そんなどこにでも転がっているような石ころに、どうしてそんな価値があるのか、少女はいつも不思議に思う。食べ物も、着るものも、体を温める火も、石ころなんか比べ物にならないほど大切なのに、と。
——綺麗なものがたくさんあるところは、綺麗なものが大切なのかな。
 ときおり本から視線を外して、想いを巡らせた。
 窓ガラスに吸い付くように落ちてきた結晶が、部屋の暖かさに舐められて、形をこわす。雪が暖められると溶けて水になるのは当たり前。窓の鍵を外して、冷たいガラスにツツツっと指を滑らせながら、凍えるような風を迎え入れる。わかってはいたけれど、部屋の温度は瞬く間に下がり、薄いワンピースにカーディガンを羽織っただけの格好では、震えてしまう。でも、彼女は体の奥深くまでだんだんと寒さが浸み込み、骨の髄から凍っていくような感覚に、身を任せるのが好きだった。自分の身体が透き通った氷の塊になればいいと、心から願いながら。

「雪と同じぐらい白く真っ白に染められて、『綺麗なもの』を見に行きたいの。雪になれば、熱で溶け、水となり、そして暖められて雲になる。そうすれば風に乗って、遠い南の地へと運んでもらえるのだから。どうすれば見にいけるかしら」

 思わず声に出ていたらしい。自分の声に少女は驚いた。そういえば、最後に言葉を発したのはいつだっけ。
 透明な氷になりたいと願いつつ、色を持った雪に染められたいと窓辺の少女は考えたことがあった。矛盾は、この予定調和の世界を壊すこと。そう頭の中に語りかける声から、いつかの時間に教えてもらった。
 カミサマという存在がこの世界には存在する。カミサマがすべて上手くいくように決めたから、彼女も、南の方にいる人たちも、みんな不自由なく暮らしていけるらしい。少女は何の疑問も持たず、ただ窓辺に座っていればいいのだ。窓辺に座って、灰色の石を時おり拾いに出かけ、窓辺に戻ってそれを磨く。すると次の日の朝には、磨いた石が置いてあったところに食料やら衣類やら必要となるものが置かれている。
 恐らくこの時のいつかの時間だろう。ずっとずっと前のことだった。あの声は、いったいどこから聞こえていたのだろう——。

「見にいけばいいじゃん。そこにあるドアは何のためにあるのさ」

 声が聞こえた気がした。開け放たれた窓の外を見ても誰もいない。記憶の中のいつかの声とはまた違う優しい声だった。
 たった二言、短くとも十分だった。少女は暖炉の隣にあったドアの存在を意識したのだから。それはまさしく彼女への答え。誰かの声を頭の中で反芻して、噛みしめて、ようやく笑顔がこぼれた。
少女は窓を閉め、暖炉の火を消す。そしてゆっくりと、しかし軽やかな足取りで、部屋を後にした。
 この世界の常。決まりきった世の理。暖めたら氷は溶ける。暖めて溶けない氷は作り出してはいけない。だから、いつも少女は頭に浮かんだ思いを吹き消して窓を閉じる。その行為もまた、カミサマによって作られた予定調和の一部だとも知らずに。

——今日は、いつもと違ったね。


--Choise?--

 鏡の中に見えた世界は、幸せそうだった。何もしなくても、全てを誰かが与えてくれる。
 少年は迷っていた。幾多もある選択肢。どれを選んでも、どれを選ばなくてもいい。その選択によって、その後の選択肢が増えたり減ったりするだけだ。選んでも選んでも正解など誰も教えてくれず、ひたすら自分で選んだ選択が正しい道なのだと信じて進むのみ。
 例えば、目の前に分かれ道があったとしよう。片方はまっすぐ進む道、もう片方は曲がりくねっていて、棘が道を塞いでいる。どちらも行きつく先は同じ。されど過程は違う。
 どの道を選んで進もうが、行きつく先は人生の終わり、『死』という終着点。ほんの少しの選択の違いで、180度違った世界が見られたかもしれない。選択を誤っていれば、終着点へまっしぐらだったかもしれない。
 だから迷うのだ。
 鏡に映った少女は窓辺にいつも座っていた。薄い素材の白いワンピースに、灰色の少しだぼっとしたカーディガンを着て、紅い表紙の——ちょうどこの鏡が挟まっていたのと同じ色合いの——本を膝の上に開いて、時おり彼女はぼんやりとした表情で視線を窓の外へやる。そして吹雪くなか窓を開け放つのだ。見ているこちらが寒くなるほど雪が吹き込んでくるのに、少女は窓を閉めようとしない。

『自分だったら、間違いなく窓を閉めるだろうな。しかし、彼女は窓を閉めないという選択をしたのかもしれない。選択をしなかった、というのもまた鏡写しの選択である。選択から逃げたいなら、誰かにすべてを与えてもらえばいい』

 鏡の中と鏡の外と、お互いがお互いを意識したわけでなく、視線が絡まる。少年はその視線に射られたが、鏡の中の少女は少年に気が付いているのかいないのか、ついっと視線を横へと流す。そして、何事も無かったように窓を閉め、また窓辺に座って本を読むのだった。
 そう、気が付かないのだ。
 鏡の外側から内側の世界を眺めることはできても、内側の世界から外側を眺めることはできない。だってそう決められているのだから。
 内側の世界から、外側の世界をのぞく術を見つけた人はいない。内側の世界と行き来する選択肢を、カミサマが作らなかったから。
 少年は、内側の世界をのぞける鏡を所有するという選択肢を与えられ、それを選んだ。
 少年はそれを自ら選択したと思っているが、はたしてどうだろうか。選択肢なんて初めからすべて与えられている。その中でどれを選ぶかなんて、決まりきったこと。
 彼が鏡を所有するのは、初めから決められた、運命という名の予定調和。少年は迷いながら今日も選択する。カミサマに決められた道を、自分が決めた道と錯覚しながら。

——どれにしようかな、天のカミサマの言う通り。

Re: 【短編集】移ろう花は、徒然に。【新話掲載】 ( No.21 )
日時: 2016/09/12 14:34
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: jwhubU7D)

--Mirror--

 少年が鏡を見つけたのは、図書館だった。調べ物をするために探していた資料が、唯一その場所にあると聞き、片道三時間の距離をわざわざ来たのだ。
 重たい扉を開くと、書物特有の紙の匂いが鼻孔をくすぐる。出版されて間もない本から、国宝級の文献記録まで、ありとあらゆるものが保管されていた。直接手に取って読むことができる本もあれば、端末上のデータでしか閲覧できないものもある。不幸なことに、彼の探していた資料はデータ上での閲覧しかできないものだった。
 書架に並べられているものは自由に閲覧ができる他、貸出やコピーなども可能であり、言うなれば資料として外に持ちだすことができる。対して端末での閲覧は、データの持ち出しが不可能だ。端末から印刷不可能なのはもちろん、管理するデータベースから直接盗み出すこともできない。端末内のデータを使いたければ、その場で書類審査を受け合格した人間だけが、図書館内で閲覧するという条件のもと、資料として使用できる。
 つまり、全ての作業を図書館内で完成させないといけない、ということだ。家の近くに図書館があるなら良いが、この距離だとそう何回も来られる場所ではない。始発でここまで来たが、全ての作業が終わったのは夜も深まり、そろそろ終電の時間を気にしなくてはいけない時間帯だった。
 少年は、こうなることを見越して近くの宿を取っていたから良いものの、宿が無かったら野宿するはめになったと、内心で冷や汗をかいていた。
 端末を返して、宿に向かおうとしたとき、何かが視界に映る。終わった解放感も手伝ってか、好奇心につられて書架の一つに足を踏み入れた。
 深緑の背表紙を指でなぞりつつ、ゆっくりと進んで行くが、あるところでその歩みが止まった。それは、深緑の中に紛れた紅の色。背表紙には『Pre-Established Harmony』と金文字で記されている。

「予定調和……?」

 そんなような意味の言葉だっただろうか。
 なんとなくその本は人が触れてはいけないもののような気がして、なのにどんな本なのかは気になるし、でも手に取ったら何か後戻りが出来なくなるのも本能で感じていた。ヘビに誘惑されたイブも似たような心境だったのだろうか。結局彼女は禁断の果実を口にしてしまい、アダムと楽園を追放されることとなった。
 やはり、少年も人間なのだ。少し躊躇はしたものの、ゆっくりと本を手に取り開いてみる——と。本から何か鈍い輝きを持つものが抜け落ちていった。
——それは鏡。覗き込んだ少年の、まだあどけなさがほんの少しだけ残る、顔が少し歪んで映っていた。本の付録か何かかと思った少年は、鏡を元の場所に戻そうとするが、その時それは鏡であって鏡でない、今までに見たことの無いものだった。

「鏡? この本にそんなものは付いていませんよ」
「そうですか……前に読んでいた人が挟んで忘れていったとかは?」
「ないと思いますねぇ。蔵書点検の際に厚みで分かるはずですし、だいたい、本の栞がわりにできるような薄さの鏡なんてあるわけないじゃないですか」

 宿の一室。備え付けのベッドに寝転んで、図書館の職員との会話を思い出していた。やけに嫌味ったらしい女性の言う通り、栞がわりにできる鏡なんて限られる。最近では薄い金属でできた栞が売られているが、鏡と呼べるほど自分の姿かたちが映るわけでもないし、ほとんどがなにか模様がついて凹凸がある。鏡ではなく、あくまでも金属なのだ。
 それに比べて、彼が見つけたものは見事だった。本に挟める薄さでありながら、宿の浴室にある鏡と何一つ映し出されるものに変わりはない。新しく発売されたのかな、そう思って鏡を裏っかえしにしたとき、目の端に何かが止まった。
 もう一度鏡を表にして、ジッと表面を眺める——映っているのは彼だけではなかった。
 慌てて後ろを振り向き、部屋には自分しかいないことを確認したのち、再び、今度はしっかりと表面を見つめる。

「嘘だろ……」

 そこに映っていたのは、うっすらと映る自分の顔と、見たことの無い部屋の中だった。まるで水面に映る自分の顔をとおして、水の中を覗いているかのような感覚だった。
 その後何度も何度も眺めていると、いくつかのことが分かった。鏡の中の世界には一人少女が住んでいること。少女は窓辺に腰掛けているか、ベッドで眠っているかで、それ以外の場所にはいかないこと。暖炉の火は薪を足さなくても、ずっと燃え続けること。少女が磨いている何かは脇に置いておくと、いつの間にか食料に変わっていること。そして時おり、窓を開けてぼんやりと過ごすこと。
 少女は殆どなにもしていない。それでも進行していく世界。何もかも自分たちでやらないといけないこの世界とは、正反対だ。
『良いなぁ。すべてが与えられている世界は。ただ座っていれば食料も現れる、暖炉の火は消えない、本を読んでいることしか、彼女はしていないじゃないか。それに引き換え僕は……あぁ、カミサマはなんて理不尽なのだろう!』
 見つけてから数カ月。鏡を覗き込んだとき、少女はあの窓辺にいた。少年が見ている前で窓の鍵をはずし、結露した窓ガラスをなぞりながら窓を開ける。
 いつものことだ。しばらくしたら彼女は窓を閉め、また本を読む生活に戻るのだろう。そう思って少年は鏡を置く——。

「雪と同じぐらい白く真っ白に染められて、『綺麗なもの』を見に行きたいの。雪になれば、熱で溶け、水となり、そして暖められて雲になる。そうすれば風に乗って遠い南の地へと運んでもらえるのだから。どうすれば見にいけるかしら」

 澄んだ声が聞こえた。初めて聞く声。置いたばかりの鏡を再び手に取った少年の目に、あるものが見えた。

「見にいけばいいじゃん。そこにあるドアは何のためにあるのさ」

 聞こえているのかは分からない。でも、咄嗟にそう答えずにはいられなかった。たぶん、そうすることが一番の正解だと思ったから。
 少女が部屋の外へ出ていった。それと同時に、少年の持っていた鏡は割れた。いくら覗き込んでも、その鏡にあの部屋と少女が映ることは二度となかった。
 でも、この半年で初めて見た少女の笑顔は、とても晴れ晴れとしていて、少年はその笑顔をもう見れないことを少し残念に思いつつ、最後に笑顔が見れたことを嬉しく思うのだった。

——本当の正解は、どっちだったのかな。


--Virtual Reality--

 カミサマは何がしたいのか。それはカミサマ一人にしかわからない。画面の中で割れた鏡をのぞきこみ、今回の予定調和も失敗だったなと、軽い反省をするだけなのだから。
 神があらかじめ決めた世界の秩序を、パソコン上の仮想空間で再現できるのか否か。予測する数値の通りに進むこともあれば、全く違うことも起こる。仮想空間上の出来事は矛盾ばかりが生じてしまう。
 予定調和を作り上げた最初の段階では、物事は何もかも予想通りに動き、予想通りの結末を迎え、予想通りの日常が続いていく。でも、何かが狂っていくのだ。予想通りに進んでいっても、仮想現実の画面の中は少しずつ予定調和が崩れていく。
 全てが予定調和のプログラム通りに進んでいるのに、どうしてある一瞬のイタズラで崩れてしまうのだろう。カミサマは一人考えた。
 しばらくそのまま動かなかったが、スイッチが入ったかのようにキーボードの上を突如指が滑る。
 きっと、感情を持たせたから狂うのだ。感情さえなければ、予定調和は再現できるに違いない。仮想上の彼らが、人間らしくある必要などない。予定調和の実現上は無視してみようか。
 カミサマは忘れていた。
 決められたプログラムに沿って動く人形など、所詮、プログラム記号で作られた、コードに過ぎないのだということを。あくまでも、仮想現実上で三次元の世界を複雑に作りあげることで、現実に近づけていたものを数字とアルファベットの羅列に戻してしまっては、何の価値もない。
 二次元のもので成功しても意味がないのだよ——と世界を創りあげた神は何処かで今日も嗤う。

——君が永遠に失敗することも、あらかじめ決めてあるのだから。


--Eve--

「はーあ。やっぱカミサマなんてあたしのガラじゃないねぇ。大体あたしがここでこんなことをやっているのも全部神のせいなんだし」

 ぱちぱちと火花が飛ぶ暖炉の前で、イブは一人愚痴る。窓の外には色鮮やかに生命の花が咲き、室内のコンピュータには『Error』の文字。
 彼女は一体誰なのか、いや、何者なのかと問いかけた方が正しいのかもしれない。姿かたちは人間そのものだが、操る能力は人間の理解を超えている。

「ねぇヤハウェさんよ。そろそろアダムに会わせておくれ。あたしは約束を守ったんだから」

 予定調和はお遊びに過ぎない。イブは与えられた能力を使い、生命の花を咲かせた。そのことを彼は見ているに違いない、されど音沙汰はなし。霧の奥で彼女は待った。待ち続けた。善悪の木の実を口にし、楽園を追放されたあの時から、ずっと。


*

Image coller 枯茶(からちゃ)

Re: 【短編集】移ろう花は、徒然に。【透明な林檎】 ( No.22 )
日時: 2016/08/19 10:17
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: jwhubU7D)
参照: http://www.kakiko.info/bbs2a/index.cgi?mode=view&no=464

——ほんの少しだけ、息苦しいな。


【Transparent Apple】


 僕はずっと見ていた。
 太陽と月が何度も交互に現れるのを。太陽は僕を赤くして、月は透明にした。それがどのくらい続いたのだろう。ぼんやりしている間に、僕の周りには『何か』がいた。『何か』は音を発しているらしい。どうやらそれで意思疎通を図っていたようだ。しばらくして、『何か』は動物という名前があることを知った。
 意思疎通に使われる音は、言葉と呼ばれるらしい。そのうち、僕も言葉を覚えた。でも誰も僕のところまで来てくれない。僕は君たちがここに来る前から、ずっとここにいるのに。誰も近寄らない。なんで?

「そんな悲しそうな顔をしないでよ。私がいるのを、忘れたの?」
「あぁごめん。君は僕の後ろ側にいるから、どうしてもうまく見えないんだ」

 後ろにいるもの——言葉を借りるなら『花』というらしい——が話しかけてきた。僕が意識を持った時から、彼女は後ろ側にいる。

「そうだったわね。私の位置からは、あなたも、他のものも、何もかもが見えるのに」
「前は眺めているだけだったのに、今はこうして会話できる。知らない間に頭の中に言葉が増やされているみたいじゃないか?」
「全てはヤハウェ様の思いのままに。あなたは『善悪の木』、私は『生命の木』という名前だそうよ。まぁ正確にいえば、『善悪の木の実』と『生命の木の花』だけど。この世界も、私たちも、あの動物たちも、みんなヤハウェ様が創ったんですって」
「あー、なんか動物たちがそんなこと言ってたな。それに、僕たちに近寄ったらいけないって言われてるんだよね」
「あなたにね。私については何も言われてないわ。私も他の人と話したりしたいのに」
「僕のせいにしないでよ。僕だって話したいのは同じなんだからさ」

 それっきり、彼女は黙ってしまった。僕は、またぼんやりとする。なぜ、僕に動物たちは近寄ってはいけないのだろう。僕、何か悪いことをしただろうか? 気になるな。
 太陽と月が、また交互に現れては消える日々が続いた。ある時、翼をもった動物が僕の近くに座っていた。

「君たち、僕に近寄ったらいけないって言われているんじゃないの?」
「あぁ、それはアダムとイブの二人だけさ。彼らは『人間』だからね。俺たちとは種類が違うのさ」
「へーぇ」
「ヤハウェ様から聞いたんだけどね、君を食べると、この世界の調和が狂ってしまうらしい。だから、その調和を崩さないために近寄るなと言っているんだって」
「僕を、食べる?」
「そうだよ、君は木の実さ。木の実は食べられるためにあるんだ。でも、君は不思議な色をしているね。他の木の実ははっきりとそこにあるのが分かるのに、君の姿は、『なにか透明なもの』に覆われて、ぼんやりとした赤い色しか見えないのさ。俺は君が美味しそうだとは思わないけどねぇ。だから誰も食べたがって近寄らないんじゃない? ま、君がこうやって言葉を話せること自体知らなかったし」
「ふーん。僕って食べることができるんだ。食べられた後の木の実はどうなるの?」

 『食べる』という行為を、僕は初めて聞いた。『食べる』と『食べられる』。自然と対義語が出てきたことに、少し驚く。
——あれ、僕は、いつからこんなにたくさんの言葉を知っているのだろう。
 『動物』『花』『人間』。知らない単語はあるのに、彼らが言葉を使う前から、僕の中には言葉があった。こうして、何かを考え、想いをめぐらせ、全てを見渡す日々の繰り返し。
 『言葉』という定義ができる前から、僕はこうして『言葉』を使っていたし、目の前にあるものが『言葉』で定義されなくても——例えば太陽や月といった——名前を知っていた。

「さぁね。でも、食べた人は『知恵』がつくらしいよ。君がどうなるか、なんて食べられてみないと分からないのに、食べた人はどうなるか分かっているのは滑稽な話だけどね」
「『知恵』?」
「俺もよく分からないさ。ここにいる人はみんな、それが良いものなのか、悪いものなのか分からない。ま、そんな得体のしれないものは触れない方がいいさ」

 そういって彼は、空を飛んで向こうの方へ行ってしまった。

「僕はどうなるか、気になるんだけどなぁ」

 そんな僕のつぶやきは、誰にも拾われなかった。否、拾われなかったと僕が思っていただけなのかもしれない。この世界の調和って、なに? いま僕が見ているものが、調和だとするなら、崩れた世界はどんなものなんだろう。
 僕の、身体の真ん中の部分で、なにかが、熱い。熱さの正体にたどり着く前に、僕に影が覆いかぶさった。

「君は誰?」
「あたしはイブ。ほら、ここにあたしの帽子が引っかかっちゃってねぇ。取りに来たら、あんたが居たってわけさ。初めて見たよ、こんな不思議な木の実」
「なんで僕が不思議なの?」
「だって、木の実なのに『なにか透明で固いもの』に覆われているんだ。木の実は食べられるためにあるのに、まるで自分を食べるなと言っているみたいじゃないか」
「そんなこと言われても、僕はここに存在しているときから、ずっとこの姿さ。君の方こそ、ここにいて大丈夫? 僕に近寄ったらいけないんでしょ」
「あたし? あ——君がその、『善悪の木の実』っていうやつなのかい」
「そうらしいね」

 イブは無言で軽く肩をすくめた。やってしまった、とでも言いたげな仕草だ。まぁ、知らなかったらそういう反応になるよなぁと僕も思う。

「ねぇ、僕を君が食べたら、どうなると思う?」
「あたしがあんたを食べる? 馬鹿なこと言うんじゃないよ。近寄ったらいけないのに、食べるだなんて」
「食べるなって言われてるわけじゃないでしょう。僕、この間そんな話をした時から気になって仕方がないんだ」

 そう、これは僕の純粋な興味でしかない。僕が食べられた後、僕はどうなるのか。なんで、僕に近寄ったらいけないのか。『知恵』とは何か。僕の周りの『透明で固いなにか』はどんなものか。
——僕は、ちょっと好奇心が強いだけなんだ。
 知りたい。ここから見える景色だけじゃなくて、もっと誰かの近くにいたい。この場所より、外の世界を見てみたい。
 僕はとっくに木の実じゃないことぐらいわかってるさ。だって、木から落ちたところを、この『透明なもの』に捕まって、僕は宙ぶらりんなんだ。木の実であって僕は木の実でない。僕が木の実であったときは、こんな物思いに耽ることもなかったし、そもそも僕に意識なんてものもなかった。

「はーん。周りにあるのはガラスか。あんたの本質を隠すための仮面ってわけだね。光の屈折であんたの本当の姿はぼんやりとしか見えない。お前さん、仮面の下で何を企んでる?」

 僕のことを、しげしげと眺めていたイブが言う。

「僕は、知りたいだけだよ。この世界の調和が狂うとどうなるのか、ただそれだけ。僕がどうなるとか、君が僕に近寄ったらどうなるかとか、そんなのは建前さ。その話が、僕の身体の中で熱く渦巻いてるんだ」
「それはあんたが本音に見せてるだけで、全部建前さ。あんたの本音はもっと別のところにあるね」
「そんなに言うなら、この僕の周りにあるっていうガラスの仮面を壊してみなよ」

 結果を言うと、僕の仮面が剥がれた瞬間、僕の中にあった果汁が滴り落ちて『生命の木』が枯れた。『生命の花』だった彼女は、小さな小さな種になって、消えてしまった。僕の果肉を食べたイブと、もう一人の人間であるアダムは、楽園を追放された。『知恵』がつく、というのは本当だったらしい! 彼らを最後に見たとき、身体を葉っぱで隠していたからね。
 でもさ、僕の仮面を剥がしたのは、イブじゃないんだよ。僕の『中身』さ。蛇が脱皮するように、外側の仮面を打ち破って中身が出てきただけなんだ。
 ふふっ。僕の本質——それは毒蛇かもしれないね。僕は、この楽園の生き物たちにとっては毒でしかない。誘惑して、堕落させることに特化した性質だからさ。純粋な感情で出来ている『生命の花』なんかは枯れてしまうわけさ。
 それにしても、外側にあった仮面がなくなるって、とてもいいことなんだね。どこか息苦しさがあったあの頃とは、全然違うや。

「蛇が林檎の中に潜んでいたとはね。これは私の誤算だったよ。だが、イブが林檎を口にするのは防げたはずだ。まして、林檎の果汁は『生命の木』を枯らしている。それを見てもなお、口にするほどの何かがあったのか……」

 僕がいた『善悪の木の実』は林檎という名前らしい。白い髭の老父が不思議そうに呟いているけど、彼の疑問の答え、僕は知ってるよ。
——人っていうのはね、好奇心に勝てない生き物なんだ。


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Image coller 深緋こきひ

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Special Thanks!
Ms.かるた 【お題提供処】はぷとぱすかる。(参照URL)
お題『林檎と毒とガラスの仮面』


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