複雑・ファジー小説

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【短編集】忘却の海原 『鋼鉄の海鷲』掲載
日時: 2015/12/24 18:38
名前: 一二海里 (ID: YohzdPX5)

 こちらで投稿させていただくのは初めてとなります、一二海里です。
 巷では「ノーティカル・マイル」などとも名乗っております。ノーチとか海里とかノーさんとか気軽に呼んでね。

 第二次世界大戦を題材したものを中心に、思い付いたものをつらつらと置いていきたいと思います。
 基本的に歴史的事実を元にしたフィクションなので、「ウチの爺ちゃん」の話はご遠慮ください。因みにウチの爺ちゃんは終戦直後に生まれました。曾祖父は地元の大隊だったので戦地行ってないです。
 一応戦記物の側面も持っているので、興味ある方は是非。ない方も是非。
 あ、勿論戦争以外のものもあります。
 普通に現代を舞台に何か書くこともあります。分けろ? 面倒くさい……冗談ですよ。分けませんけど。
 取り敢えず「思い付いたものをつらつらと置いていきたい」と思っているので、お時間があるのならば、お付き合いくださいませ。
 では、よろしくお願いします。


 ——戦争なんて怖い、知りたくない、というそこのあなた。
 「戦争」を真っ向から否定ばかりして、「何故」を学ばないでいると、逆に「戦争」があなたの背後から忍び寄ることになりますよ。



『カイツブリ』>>1-3

『犬と狼の間』>>4-6

『鋼鉄の海鷲』>>7-18

Re: 【短編集】忘却の海原 ( No.9 )
日時: 2015/12/23 04:35
名前: 一二海里 ◆d.b5UMeNLA (ID: HijqWNdI)

 4月5日。
 マレー沖海戦で旗艦の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を失い、極東の最重要拠点だったシンガポールも失陥した英国海軍東洋艦隊はインド洋セイロン島のコロンボ基地とトリンコマリー軍港に立て籠もっているという。
 日本海軍機動部隊はコロンボ基地を空襲すべく、100機以上の艦載機を発進させた。丘野の所属する小隊はまたもこの第1次攻撃隊の護衛を務めることになる。天候はあまり良くなく、視界も良いとはいえなかった。小隊長の方を見る。小隊長は自分を見る丘野に気付くと、にやっと笑って何やら喋ったかと思うと、突如増槽を捨てた。丘野は面喰って空を見回す。居た。攻撃隊を狙って敵機が襲撃してきたのだ。
「歓迎されてないな……」
 悪態をつき、丘野も増槽を捨てた。同時に戦闘機動に入る。
 増槽というのは航空機の下に取り付ける追加の燃料タンクで、主に爆撃機に比べて短い戦闘機の航続距離を延ばす為にあるが、戦闘機動には邪魔な為、これが無くてはどうしても帰れないという場合等を除いては戦闘に入ると同時に切り離して捨てる。逆に帰ることが出来ないことを覚悟の上で増槽を捨てることもあり、それはまるで武者が抜刀した時を思わせる。もう戻らない覚悟だ。
 しかし、英軍の迎撃機の練度は想像を絶する低さだった。というのも、この頃の日本海軍航空隊の練度は世界一を誇っていたとされており、その中でも異様に高い練度を持っていたのが丘野も所属する「赤城」を旗艦とした第一航空戦隊であり、その中で丘野は無自覚に世界最強の航空隊の一員として、世界的に見て一流の飛行士になっていたのだ。
 丘野は時折護衛対象の爆撃機に目をやる程の余裕を持って空戦に臨んでいた。数が少ない上に、個々が弱い敵戦闘機部隊の撃退は容易だった。丘野は自身にあっさりと後ろをとられてしまった敵機を照準器に捉え、引き金を絞る。発射された7.7mm機銃の弾丸がホーカー・ハリケーン戦闘機の主翼に吸い込まれていき、そこから火が出る。丘野の初戦果であり、初めて生きた人間が乗った飛行機に実弾を撃った瞬間であった。丘野がその一機を撃墜する間に護衛戦闘機隊によって敵戦闘機部隊は居なくなった。
「……あ、落下傘」
 黒煙を吐いて落ちていく敵戦闘機から搭乗員が脱出し、白い落下傘がぱっと開くのが見えた。ふと、自分も撃ち落とされたらああなるのかと考える。
 元々、丘野は純粋に飛行機への憧れだけで入隊した身だった。
幼い頃から飛行機が好きで、雑誌の絵を見る度、白い機体に真っ赤な日の丸を描いた飛行機に憧れた。決定的な出来事は故郷の松江から広島の呉まで軍艦を見に行き、そこで戦闘機の搭乗員と会って話をしたことか。憧れは本格的な夢となり、目標となり、適齢になった途端に海軍に入って航空隊を希望した。空を飛びたい、どうせなら自由に飛べる飛行機が良い、それなら戦闘機だ、戦闘機といえば海軍だ。そんな短絡的で無鉄砲で夢見がちな少年が、不思議なことに合格し、希望通りの戦闘機乗りとなり、厳しい訓練に耐えながら空母の精鋭となった。
 戦闘機乗りの教育は兎角過激だ。空で死ぬ覚悟であれなどと、そんなことをよく言われていた。しかし、丘野はただ空を自由に飛ぶことにのめり込み、そんなことを考えたことなどなかった。
 これまでの人生で、「空での死」など意識したことがなかったのである。たった今になって初めて、「自分が撃墜されたら」などと考えたのであった。
 第1次攻撃隊は行きがけの駄賃にソードフィッシュ雷撃機の部隊を撃滅し、コロンボ基地に居た英軍の巡洋艦と駆逐艦をそれぞれ1隻撃沈して爆撃を大成功に収めた。大きな被害もなかったが、港湾施設への攻撃が不十分と判断され、第二次攻撃隊が編成されることになった。
 帰投した丘野はまず水を飲んだ。嫌に喉が渇いていた。無性に不安だ。一度死を意識すると、そんなものを意識したことのない丘野の中で、言いようのない恐怖が生まれたのである。しかし、同時に変に嫌な予感もしていた。その予感は「赤城」に着艦した瞬間からだった。
「丘野、二航戦が敵艦を捕捉したらしいぞ」
 飛曹長に声をかけられ、はっと我に返る。辺りを見渡すと、丘野の零戦はエレベーターで格納庫に下ろされたらしく、飛行甲板には九七式艦上攻撃機ばかりが並べられていた。陸用爆弾を魚雷に換装する作業を始めていたのだ。
「我々に出番はありますか?」
「さぁなぁ」
 飛曹長は煙草に火をつけながら飛行甲板を横切って格納庫へと降りるタラップを下って行った。取り残された丘野は艦橋を振り向き、作業の邪魔にならないように飛曹長の後を追ってタラップを下った。


 4月5日にコロンボ基地を攻撃して英軍の巡洋艦と駆逐艦を撃沈し、更に退避中だった英重巡洋艦2隻を驚異的な命中率を誇る急降下爆撃で撃沈した日本軍機動部隊だったが、その後は9日まで敵を捕捉出来なかった。
 その9日に、事件は起こった。
 丘野は機体の不調により発艦出来ず、予備機を出す手間も惜しまれた為、艦橋の脇の日陰で乗組員達が忙しく発艦の準備をするのを眺めていた。しかし、それも稼働機が全機発艦すると「赤城」は他の艦と共にのんびり航行するだけになった。一応戦闘中ではあるのだが、その静けさは普段航行しているのとなんら変わりない。違うのは直掩の零戦が艦隊の真上を飛び回っていることくらいだろう。
 5日に感じた不快な死の意識も忘れ、丘野はぼんやりとしていた。時折空を見上げ、上空を通り過ぎる味方の零戦を恨めしく見つめる。自分も機体の不調がなければ空を飛んでいた。
 やがてトリンコマリー空襲から戻ってきた第1次攻撃隊が戻ってきて、今度は修理中で航空機運用能力のない英軍の航空母艦「ハーミーズ」を攻撃すべく、補給を行って攻撃機に魚雷を積み始めた。
 丘野は相変わらずその作業風景を艦橋の日陰から眺める。セイロン島沖は赤道の海だけあって4月でも日本の夏並みか、それ以上に暑い。額を流れた汗を拭い、防暑帽を被り直した時だった。
「て、敵機直上!」
 艦橋の見張り員が叫ぶ。甲板員達が石弓に弾かれたかの如く頭を抱えて甲板に飛び込むように伏せたが、丘野は一瞬のことに身体が全く反応しなかった。
 「赤城」の艦尾の右舷左舷両側に突然水柱が上がる。夾叉、至近弾。艦が揺れ、唖然と棒立ちしていた丘野はバランスを崩して飛行甲板に倒れ込んだ。直射日光を長時間浴びていた木製の板は暑い。鋼鉄製部分に触れていたら火傷くらいしていただろうか。
「なんば見よったね、こんだらが!」
 頭を抱えて伏せた甲板員の1人が大声で悪態を吐く。
 そこで漸く対空警報が鳴り響き、対空砲火が撃ち上げられ始めた。爆弾を投下されるまで、上空を飛ぶ英空軍機に全く気付いていなかったのだ。直掩の零戦隊が慌てて英空軍の爆撃機を追う。丘野は起き上がりながらその姿を見送った。
 自分もあそこに居れば。敵爆撃機をあっという間に叩き落とす味方戦闘機を見ながら、丘野はそう思った。

 セイロン沖海戦は日本の勝利に終わり、英国東洋艦隊はこの海から手を引かざるを得なくなった。
 一方で「赤城」を始めとする日本機動部隊には多くの課題が投げ掛けられた。しかし、日本軍は多大な戦果に目が眩み、問題を看過してしまった。


 5月になって、連日の出撃も落ち着いてきた頃だった。この頃の丘野はハリケーンを2機撃ち落とし、累計の戦闘機撃墜戦果3機となっていた。所属する小隊の累計戦果は10機を超えており、その殆どは小隊長のものだ。
 そんなある日のことである。丘野は整備員達に呼ばれ、航空機格納庫に行ってみると、自身の零戦と飛行小隊の面々が集まり、整備員達は航空機用の塗料を準備していた。
「一体何を始める気ですか」
 丘野が尋ねると、篠崎の代わりに来た高柳一飛兵がにっと笑って、機体に何か描くのだと答えた。何を描くつもりだろう、と思いながら飛曹長を見遣ると、その視線に気付いたのか飛曹長が苦笑する。
「何を描こうかね。丘野は何が良い」
 まさか自分に振られるとは。丘野は考え込む。派手な絵を描いて目立とうとは思わないが、多少の自己主張は良いのではないだろうか。ふと、丘野は自らの夢を思い出した。鳥だ。空を自由に駆ける鳥だ。飛行機みたいに、滑空する鳥だ。
「……鷲、とかどうでしょうか」
「鷲? 鳥の鷲か?」
 丘野は頷く。飛曹長は少し考えた後、整備員達にあれこれ指示を出し始めた。
 訓練された整備員達の迅速な作業により、その塗装はすぐに完成した。
 赤い日の丸のすぐ後ろ、細い胴体に合わせるようにしてスマートに飛ぶ鷲のシルエットと、その更に尾翼側に赤で「海鷲」の漢字が入れられたのだ。両方とも小さく、あまり目立たないが、印象は強くなった感じがした。
 すぐに同じ塗装が丘野と高柳の機にも入れられることになったが、時間と塗料の関係で2人の機には「海鷲」の漢字のみとなった。
 数時間後、飛行隊長にバレて大目玉を喰ったが、その機が駄目になるまではそのままで良い、と許された。

Re: 【短編集】忘却の海原 ( No.10 )
日時: 2015/12/23 11:36
名前: 一二海里 ◆d.b5UMeNLA (ID: HijqWNdI)

「レディ・レックスが沈んだってよ」
「マジかよ、畜生。俺達はこんなところで何やってんだ」
 「エンタープライズ」の航空格納庫で噂話をする兵員達を後目に、コリンは士官室へと歩き出した。「レディ・レックス」とは航空母艦「レキシントン」の愛称だ。余談だがこの「エンタープライズ」には「ビッグE」という愛称がある。
 1942年5月8日、ソロモン諸島の南、珊瑚海にて史上初の航空母艦同士の艦隊決戦が行われた。珊瑚海海戦である。結果は日本の空母「祥鳳」が撃沈され、空母「翔鶴」が大破、アメリカは空母「レキシントン」と油槽船「ネオショー」と駆逐艦「シムス」が撃沈され、空母「ヨークタウン」が大破するという痛み分けに終わった。特に「レキシントン」は40,000トンの排水量を持つ大型空母である。彼女の密閉式格納庫は被弾した時に漏れ出た航空燃料が気化した際、それが艦内に充満して籠ってしまうという欠陥を持っていたのだ。結果として引火爆発して大火災が発生し、最終的に駆逐艦によって雷撃処分されるという憂き目を見た。
 一方で「エンタープライズ」は、空母「ホーネット」から陸軍爆撃機を無理やり飛ばして日本本土を空襲するという無茶な作戦の為に日本本土の近海に派遣されていた。コリンは直掩のために「エンタープライズ」の上を飛んでいたが、襲来する敵機も艦船もなく、退屈な飛行となった。
 そして肝心の珊瑚海海戦は「エンタープライズ」が駆け付けた時には終結しており、またもコリンは日本軍と戦うことが出来なかった。

 ここでふと、コリンは弟のジャックのことを思い出した。これまでぽっかりと頭から抜け落ちていたが、一年遅く士官学校を卒業した少尉だ。雷撃機のパイロットで、空母「ヨークタウン」の艦載雷撃機隊の搭乗員である。
 いつの間にか読まずに置いておくようになっていた弟の手紙を読もうと思い、最も新しい手紙を手にとって封を切る。珊瑚海海戦の直後に書いたらしく、空母「ヨークタウン」とその航空隊が健在であることと細々した雑事、そして魚雷に対する不満だった。
「『ショーカク』か」
 弟の手紙には日本の空母「翔鶴」を狙って魚雷を放ったが、どうやら不発だったようで戦果にはならなかったと、アメリカの魚雷は不良品揃いだという文句が書かれていた。この頃アメリカが使用していた魚雷は不発率が異常に高く、潜水艦が日本の輸送船に魚雷を数発放ったら全て不発で、魚雷が突き刺さったまま逃げられたなどという洒落にならない笑い話もある程だ。
 兵器の不利の話はコリンも他人事ではない。コリンの搭乗するF4F戦闘機を駆るアメリカ海軍は日本の「ゼロファイター」に全く勝てなかった。否、陸軍のP38でも滅多に勝てる相手ではない。実際にゼロと交戦したパイロットが行った戦闘指南では「ゼロと積乱雲に遭遇したら逃げろ」とまで言われた。しかし、コリンは考える。
 真珠湾を襲ったのはゼロであり、一機でも多く叩き落とさねば兄に顔向けが出来ないのだと。

Re: 【短編集】忘却の海原 ( No.11 )
日時: 2015/12/23 11:43
名前: 一二海里 ◆d.b5UMeNLA (ID: HijqWNdI)

 昭和17年6月。
 空母「赤城」は艦隊を率い、ミッドウェー攻略に向かっていた。
 「赤城」の僚艦である空母「加賀」「蒼龍」「飛龍」は勿論、戦艦「榛名」「霧島」、巡洋艦「利根」「筑摩」「長良」と駆逐艦12隻、油槽艦8隻で構成される第一航空艦隊を筆頭に、軽巡洋艦「香取」を旗艦とした潜水艦中心の第六艦隊が先遣隊を務め、後方には戦艦「伊勢」「日向」「扶桑」「山城」を中心に巡洋艦や駆逐艦と油槽艦で構成される第一艦隊、戦艦「金剛」「比叡」と多数の水雷戦隊や駆逐隊、航空戦隊を複合させて攻略部隊とした第二艦隊、そして戦艦「大和」「長門」「陸奥」を中心とした連合艦隊が控えており、正に決戦の様相を呈していた。空から見ても、海に多数の航跡が曳かれる様子は壮観であり、これならどんな敵が相手でも勝てるだろうと丘野は思った。


 この時、アメリカは日本の作戦をほぼ完全に掴んでいた一方で、その対処法を殆ど見出せていなかった。珊瑚海海戦で中破しながらもパールハーバーまで戻り、3日で修理を済ませるという荒療治で戦列復帰した「ヨークタウン」や、日本本土空襲の為に陸軍の爆撃機を無理やり飛ばした「ホーネット」、そしてコリンの乗る「エンタープライズ」も参加し、日本軍を待ち伏せていたが、どの空母も威勢が良かったのは新規編成された雷撃機隊の航空兵ばかりで、他の航空隊のパイロット達の空気は暗澹としていた。まともに戦えばまず勝てない。ゲリラ戦、奇襲を行っても勝てるかどうか怪しい。
 ミッドウェー島の守備隊は更に悲壮感に満ち溢れていた。敵が上陸して来たらこの島では壮絶な白兵戦が展開されるに違いない、ここは第二のウェーク島になるかもしれない。アメリカ兵達はまだ見ぬ日本軍を恐れていた。この地上で何よりも恐ろしい敵だ。日本人はその小さな体に、世界中のどこの民族よりも大きな闘志を秘めている。それは中国方面やシンガポール方面、南方の戦場での日本軍の活躍が証明しているのだ。将校は狙い撃たれぬように階級章を毟り取られ、機密書類の類は一切処分され、ある兵士はお気に入りの曲を演奏した後お気に入りのアコーディオンを海へ捨てた。
 ミッドウェー島の航空基地にはろくな飛行機が配備されておらず、パイロット達の練度も悲惨なものだった。中には総飛行時間4時間などという本来机に向かっての勉強からやり直さねばならないようなパイロットまで居た。6月2日頃には近海を日本の艦隊が通ったという飛行艇の報告に基づいて攻撃隊が出されたが、巡洋艦と駆逐艦、輸送船で構成された輸送船団を大艦隊だと誤認し、戦艦や空母を撃沈したと誤認する有様だった。実際には1隻も大した被害を受けておらず、何もかも誤認だったのだが、それ程までにアメリカ兵達は緊張状態に陥っていた。これでは日本の精鋭パイロット達には勝てる筈がないと、誰もが神に祈っていたのだ。
 そして、6月5日の早朝。とうとうミッドウェー島に日本軍機が襲来した。

 作戦は順調に進んだ。ミッドウェー島空襲は概ね成功し、攻撃隊の「第二次攻撃ノ要ヲ認ム」という報告の元、「赤城」艦上では第2次攻撃の為に爆撃機に陸用爆弾を積む作業が行われていた。その様子は「赤城」の直掩についている丘野にも見えた。
 小隊長機が急にバンクを振る。丘野は周囲を見回した。敵だ。低空で敵機が「赤城」に迫ってきていた。雷撃機か。丘野は増槽を捨てずに雷撃機に襲いかかった。
 敵雷撃機は戦闘機の護衛も付けずに来ていた。しかも、よく見ると魚雷を抱えた陸上爆撃機が混ざっている。時折ふらつく挙動は飛ぶのがやっとといったところか。まず小型の雷撃機を零戦隊が3機叩き落とした。更に艦隊の対空砲火で2機が撃墜され、今度は爆撃機が2機撃墜された。丘野は爆撃機を追ったが、如何せん7.7mm機銃では威力不足であり、敵機を穴だらけにはしたが撃墜には至らなかった。恐らくもう二度と使えないだろうとは思ったが。しかし、この陸上爆撃機が飛んできたというのはミッドウェー島の米軍が健在な証拠だ。その後も何度か低空で雷撃機が侵入してきたが、いずれも護衛の戦闘機がなく、腕も良くなく、あっさり撃墜されていった。
 一度着艦して補給を受け、再発進して暫く経ってからだった。丘野は「赤城」の艦上で「敵空母を発見した」との情報を得ており、次に来る敵は精鋭に違いないと警戒しながら周囲の見張りを続けていた。
「また雷撃機か……」
 またも低空侵入の雷撃機だった。零戦隊と対空砲の餌食となっていく。それもまた数度続いた。数分毎に敵の雷撃機はやってきて、無様に撃墜されていく。埒が明かない。丘野はもう何機雷撃機を撃墜したか記憶していなかった。10機から先は覚えていない。あまりにも簡単に撃墜できるので、途中で数えるのも馬鹿馬鹿しくなってきたのだ。艦隊の対空砲要員達もウンザリしているに違いない。
「次は……」
 目の前を飛んでいた敵雷撃機を撃墜し、周囲を見渡す。弾薬の残量はそろそろ心許なくなってくる頃だ。次の敵を撃墜したら一度着艦して補給しよう。そう思った。
 ふと、自分を含め、直掩の零戦が皆低空に居ることに気付く。低空侵入の雷撃機ばかりを相手にしていたためか、高高度に気を張っている者はいないようだ。そのことに今疑問を持ったのは、丁度「赤城」の真上に急降下中の敵機を見た為だった。世界が全てスローモーションで見えた気がした。
 「赤城」の飛行甲板に、敵の艦上爆撃機が投下した爆弾が突入する。その直前に滑走に入っていた1機の零戦がなんとか飛び立つことに成功したのが見えた。一方、木製の飛行甲板を貫通した航空爆弾は航空格納庫の中で炸裂した様子だ。降りていたエレベーターの穴の奥が一瞬明るくなる。丘野は少し考えて、ぞっとした。
 今、「赤城」の航空格納庫の中には攻撃隊の攻撃機が多数入っており、爆弾から魚雷に換装していた筈だ。「赤城」の航空機格納庫は密閉式である。炸裂した爆弾、気化した航空燃料、そして出されたままの魚雷や爆弾。導き出される答えは単純だった。
 「赤城」の飛行甲板が一瞬浮き上がった気がした。エレベーターの穴から炎が噴き出すと同時に、爆風によって1機の零戦が甲板上で逆立ち状態となった。再び格納庫内で爆発が起こり、「赤城」は一気に炎上する。爆弾や魚雷に誘爆したのだ。
 艦上で乗組員達が慌ただしく走り回っている。丘野はふとセイロン沖海戦でのことを思い出した。あの時も、対空警戒警報が遅れ、真上から爆撃されたではないか。空母「ハーミーズ」発見の報を受けた時には随分と攻撃隊の武器換装に手間取ったではないか。全てが、あの時反省をしなかった報いのように思われた。
 兎にも角にも、最早「赤城」への帰還は不可能だ。しかし燃料も弾薬も心許ない。飛曹長と僚機にハンドサインにて別空母で補給する旨を伝え、少し高度を上げる。
「……『加賀』は……」
 高高度から艦隊を見渡し、丘野は言葉を失った。「赤城」以外の艦からも黒煙が立ち上っている。よく見ると空母だ。「加賀」と「蒼龍」も「赤城」とほぼ同時に被弾していたのだ。「加賀」の被害は「赤城」より酷いかもしれない。仕方なく、「飛龍」に向かうことにした。
 少し離れた所に居た「飛龍」は被弾していなかった。甲板も空いているようだ。着艦する旨の信号を送り、了承を得て着艦する。「飛龍」の甲板は「赤城」より狭く、艦橋が左にあるという特徴は搭乗員泣かせであったが、左艦橋は「赤城」も共通の特徴だった為、丘野は甲板の狭さだけに気をつけていれば着艦は容易だった。
「燃料と弾薬の補給だけで良い、すぐ上がる!」
 駆け寄ってきた整備員達にそう叫ぶ。整備員達は言われた通り、燃料と弾薬の補給だけをしてくれた。しかし、「発艦よし」の合図が出ない。
「早くしてくれ……!」

Re: 【短編集】忘却の海原 ( No.12 )
日時: 2015/12/23 11:49
名前: 一二海里 ◆d.b5UMeNLA (ID: HijqWNdI)

 アメリカ軍が日本の空母3隻を先に発見し、先制攻撃によって一挙に戦闘不能に出来たのは全くの偶然であった。
 雷撃機隊が無謀にも護衛戦闘機もなしに突っ込んだことは、アメリカ側からしてみれば完全な用兵ミスである。本来護衛につくべき戦闘機はミッドウェー島の上空に襲来した日本軍機への対応に全て投入されてしまい、悉く撃墜されたのだ。一方の空母は、発進した飛行隊を片っ端から日本空母に差し向けた。この戦力の小出しも戦術としては非常に不味い選択である。しかし、これらのミスは結果として日本軍側の目を低空に惹き付けた。高高度を飛んでいた爆撃機隊が、本当に偶然にも日本艦隊を発見し、そのまま攻撃に移った時、日本軍は完全に低空に注目していたのだ。
 「赤城」に最初に直撃弾を与えた「ヨークタウン」艦載の爆撃機隊は新米揃いで航法もままならず、雲が多いこの日は隊長機についていくので精一杯だった。真下に日本艦隊がいると気付いたのは隊長機のみで、あるパイロットは最初隊長機が降下したのは味方の空母に帰投しようとした為だと思ったという。

 丘野は結局「飛龍」の甲板上に足をついた。敵の空母を発見したとの報せがあった為、攻撃隊が編成された為だ。3空母が被弾し、戦闘不能に陥ったことは既に知れており、「飛龍」の乗組員やなんとか合流した航空搭乗員達は復讐心に燃えた、鬼の如き形相だった。否、鬼なのだ。この時ばかりは復讐の鬼と化していたのだ。
 第1次攻撃隊が発艦していき、続いて第2次攻撃隊が編成される。丘野はこの第2次攻撃隊に入れられ、臨時に組まれた部隊の指揮下に入った。一応空を見上げてみたが、元の小隊の機は見つけられない。
 第2次攻撃隊は第1次攻撃隊に続いて空母「ヨークタウン」を攻撃した。しかし、この時、第2次攻撃隊は別の空母を攻撃したものと勘違いしていた。「ヨークタウン」は攻撃を受けた後の復旧作業中で、火災も見られなかった為、別の空母だと思われたのだ。これは「飛龍」の司令部に米空母2隻を戦闘不能にしたと誤認させることになる。
 丘野は米戦闘機の迎撃から攻撃隊を守ることに徹した。米海軍戦闘機との交戦は初めての事だったが、やはり零戦が俄然有利であった。
 増槽を捨て、艦上攻撃機に気を遣いながら、敵の戦闘機に喰らい付く。敵機の尾翼を照準器に捉え、引き金を引いた。放たれた20mm機関砲弾が敵戦闘機の尾翼を丸ごと吹き飛ばす。撃墜した。一度艦上攻撃機を見て、次の敵を探す。味方の零戦が撃墜されるのが見えた。その零戦を撃墜した敵戦闘機が襲い来る。

 コリンの神経は燃え上がっていた。ゼロを1機撃墜し、有頂天だった。
 第2次攻撃隊の迎撃に当たったのは「ヨークタウン」の艦載機だけではない。寧ろ、第1次攻撃で被害を受けた「ヨークタウン」の艦載機より「エンタープライズ」艦載機の方が多いくらいだ。コリンはその中の1機に乗っていた。
 味方機を撃墜したゼロを発見する。コリンはそのゼロに襲いかかった。ゼロの対応は素早かった。コリンが別のゼロを撃墜するのを見ていたに違いない。
 そのゼロのパイロットは見事な腕を持っていた。後ろを取ったと思ったら、急減速と旋回でかわされた。まるで空中で静止したかのような機動だった。
「何!? どうやった!?」
 急なことに対応が遅れたが、急上昇で逃げると相手は追ってこなかった。奇妙に思ってそのゼロを目で追うと、攻撃隊の護衛に戻っていた。奴は冷静だ。コリンの中で、急激に熱が冷めていった気がした。

 「飛龍」に帰艦することは叶わなかった。それどころか、日本の航空隊は着地点を失っていた。
 空母「飛龍」は第2次攻撃隊が帰艦した後、夕方にまた攻撃をしようと準備していた。しかし、米艦載機が襲来、丘野含む6機の零戦が迎撃に向かい、最初の攻撃は凌いだが、次の攻撃は阻止出来ず、急降下爆撃によって「飛龍」は炎上した。横付けした駆逐艦も協力して消火活動を行ったが、誘爆によって消火不能となり、最終的に駆逐艦の雷撃処分となったのだ。
 丘野は暫く飛んでいたが、救助活動に一段落ついたところで駆逐艦の近くに不時着水した。風防を開け、体を固定するハーネスを外し、救助を待っていると、丘野機に気付いた駆逐艦の短艇が寄ってくる。
「無事ですかいね?」
 艇長らしき水兵長が声をかける。丘野は主翼の上に降り立つと、肯定の意を示した。水兵長はにかりと笑って手を差し伸べてくる。しかし、その笑顔にはどこか陰が差している気がした。
「よう生きちょって、間に合ぁてほんに良かったわ」
 聞き慣れたイントネーション。丘野の故郷、松江でもよく聞く出雲弁だ。
「お陰さんで」
 丘野は柔和な笑みを浮かべ、故郷の言葉で返した。

 丘野を救助したのは駆逐艦「巻雲」の短艇だった。
 「巻雲」は「飛龍」を雷撃処分した駆逐艦だ。艦としてはこの海戦が初陣であり、散々なデビュー戦となったといえる。それだけに、「巻雲」乗組員達は相当の怒りに燃えていた。
 「巻雲」艦内には退艦した「飛龍」の乗組員や、丘野と同じように救助された航空搭乗員の他、捕虜となった米雷撃機の搭乗員も3人居た。
 3人は1人ずつ艦長の少佐が尋問していたらしいが、夜になって後部甲板上に引き出されてきた。捕虜達は困惑した様子で、自分達を見つめる日本兵達を見回す。丘野は魚雷発射管にもたれかかってその様子を見ていた。
 海軍士官は英語が分かって当然だが、下士官や兵達も全員英語が使えるわけではない。捕虜達は急に言葉の通じない相手に困ってしまったようだが、兵達はそんなことは無関係に、怒りに任せて捕虜を殴り倒すと、うち2人の体にロープを括り付け、ロープの反対側にはドラム缶を括り付けた。
「Hey, you! What you doing!?」
「No, no, help!」
 パニックに陥った捕虜達は喚くが関係ない。重油が入っていたと思しきドラム缶には海水が詰められていた。そのまま甲板の隅まで引き連れていく。2人の捕虜の顔が青ざめたのが分かった。これから自分がどんな目に遭うのかを察したのだ。もう1人の捕虜は数名の兵に連れられて再び艦内に連れ込まれていった。
 1人の下士官がドラム缶を蹴落とす。足を括り付けられた捕虜は当然引っ張られ、海へと落下した。ドラム缶には海水が詰めてある為、急速に沈む。続いてもう1人もドラム缶を蹴落とされ、最早言葉にならない悲鳴を上げながら落ちていく。数秒程海面で暴れていたが、ドラム缶に引っ張られてあっという間に沈んでいった。2人の捕虜が浮き上がってくることは永遠にない。
 丘野はその光景を何も思わずに見ていた。夜空を見上げ、救助者用に支給された服の感触を枕に眠りに就く。丘野には、全て無関係に思われた。
 翌朝、もう1人の捕虜の死体が海に投棄された。浴室で蒸気をあてて蒸し殺していたのだという。


 6月20日、丘野は「巻雲」の艦上で18歳の誕生日を迎えた。
 だが、丘野自身はそんなことも忘れ、ただ「巻雲」から海を見てその日を過ごした。

Re: 【短編集】忘却の海原 ( No.13 )
日時: 2015/12/23 13:40
名前: 一二海里 ◆d.b5UMeNLA (ID: HijqWNdI)

 ミッドウェーでの勝利後、コリンはあの時戦ったゼロのパイロットのことを思い出していた。奴は本物の兵隊だ。冷静に任務を理解し、冷えた頭でそれを遂行していた。
 そんな時、ある一報が飛び込んだ。あの海戦では多数の雷撃機が犠牲になったが、その中に弟のジャックも含まれていたのだ。
 コリンは自身の中で再び復讐の炎を燃え上がったのが分かった。兄弟の仇を討つ。開戦時に胸に誓ったではないか。


 「エンタープライズ」はオーバーホールの為に1カ月程戦列を離れた後、8月7日からのソロモン諸島方面での反攻作戦支援の為に送り込まれた。海兵隊はガダルカナルなどという誰も知らない一火山島に上陸し、日本軍と死闘を演じることとなる。
 8月8日が9日に変わる頃、ソロモン諸島サヴォ島沖の海域に巡洋艦「鳥海」を旗艦とした巡洋艦と駆逐艦の日本艦隊が、文字通り殴り込んだ。夜間、揚陸作業の為に停泊していた連合軍に襲いかかったのだ。この嵐、否、荒らし屋のような艦隊は、暗闇の中最大戦速で泊地に突入し、連合軍哨戒艦隊の間をすり抜けて連合軍の艦隊を荒らしまわった後、夜が明ける頃には航空攻撃可能圏外に消えた。昔ながらの目視とサーチライトの照射を行う日本軍との夜間戦闘で連合軍艦隊は殆ど一方的に敗北、多くの重装備を積んだ輸送船は無事だったが、結局揚陸を中止して退避してしまった。アメリカ海軍最悪の敗北の一つである。
 8月24日、日本の空母部隊がソロモン諸島に襲来した。コリンは防空戦闘で1機のゼロを撃墜したが、気は治まらなかった。奴だ。奴を墜とそう。
 この東部ソロモン海戦でアメリカ海軍は日本の空母「龍驤」を撃沈し、輸送作戦も阻止して勝利を収めたが、日本の主力空母を取り逃した上、「エンタープライズ」が空襲で中破、更にその後空母「サラトガ」が潜水艦の攻撃を受けて大破、そして空母「ワスプ」が潜水艦に撃沈された為、ソロモン方面で活動可能な空母は「ホーネット」のみになっていた。

 1カ月間の修理の末、「エンタープライズ」は再び南太平洋へと戦列復帰する。
 サンタ・クルーズ諸島海戦にて、コリンはまたもゼロを1機撃墜した。日本の空母に乗っているパイロットは勇猛な航空兵揃いで、まともに戦っていればまず勝てそうになかった。しかし、コリンは敢えてゼロとの対決に拘った。敵の攻撃隊を見つければまずゼロに襲いかかる。奴はどこだ。奴と戦わせろ、とでもいうように。
 しかし、ミッドウェーで出会ったゼロと、南太平洋の空で出会うことはなかった。あの姿を思い出す。白い塗装に、赤い日の丸。細身のボディに描かれた、小さいが複雑な文字らしき記号。漢字というものが読めない為、なんという意味かは知らないが、他の機にはない特徴だった。
 この戦いで「エンタープライズ」は再び被弾し、更に「ホーネット」は撃沈され、アメリカ海軍はこの方面で使用可能な空母が無くなった。

               *

 ミッドウェーの後、丘野は暫く本土、横須賀の海軍病院で他の搭乗員達と共に軟禁状態にあった。
 外部との関わりは一切断絶され、手紙の一枚家族に送ることも許されなかった。
 そして、なんとか手に入れた新聞に書かれていたのは信じられない事実であった。米空母「エンタープライズ」と「ホーネット」の2隻を撃沈し、日本側の被害は空母1隻の喪失と空母と巡洋艦が各1隻ずつ大破とされていたのだ。あの海で見た現実と全く違う事実だった。
 海軍病院では元の小隊の隊長だった飛曹長とも再開した。高柳は「飛龍」に向かったと言い、会わなかったのかと聞かれたが、丘野は会っていないのでその旨を伝えた。

 海軍病院から解放された後、丘野は二飛曹に昇進し、故郷の島根に戻った。航空母艦「赤城」に替わる新たな配属先は山口県の岩国基地であり、一度故郷に戻ろうと思ったのだ。何より、実家の両親には言いたいことがあった。
「あだん、よう帰ってきたね。軍服がよう似合ぁて」
 玄関先でそんなことを言う母親を適当な言葉で押しのけて玄関をくぐり、靴を脱いで上がり込むとすぐ居間に入る。言いたいことの山ほどもあり、まずどっかり座った。奥から父親が出てきた。外の母の声が聞こえたのだろう。
「おお、帰ってきただかや。手紙の一つもごさんで、心配しちょったで。どげかね、海軍の航空隊は?」
 別に、と一言。そんなことより、だ。テーブルをだんと叩く。
「なして俺ん何も言わんこに結婚決めただかや!?」
 丘野の剣幕に父親は唖然とし、母親も居間の入り口で驚いて固まっている。
 原因は海軍病院から出た直後に渡された、軟禁中に送られてきていた両親からの手紙だった。そこには近所に住む同い年の少女知恵と丘野を入籍させたと書いてあったのだ。確かに知恵は見知った幼馴染であり、幼い頃からよく遊んだものだが、まさか結婚させられるとは夢にも思っていなかった。
「そげん怒ーなや、知恵ちゃんならお互いよお知っちょーし、な?」
 そういう問題ではない。丘野は頭を抱えた。
「……知恵は?」
「今出掛けちょー。夕方には帰ってくーわ」
 丘野は頷くと階段を上って久しぶりに自室に入った。丘野の自室は四畳程の小さな部屋だ。お気に入りだった飛行機雑誌や少年雑誌が本棚に並べられている。入隊の日に片付けたままだ。思えば入隊から2年、空を飛ぶことに明け暮れて一度も帰宅していなかった。知恵の顔もすっかり忘れ、手紙に同封された写真を見て最初誰だか分からない程だった。畳の上にゴロンと寝転んだ。休暇は3日間。少しくらいのんびりしても良いだろう。そう思って、うとうとし始めた。

「ユキやー、降りてこーい」
 呼ぶ声がする。母親の声だ。丘野は飛び起きた。外は真っ暗だ。少しうとうとしているうちに本格的に寝てしまい、夜になったらしい。寝過した。慌てて部屋を飛び出した。
「出てきた、出てきた」
 階段の下に立っていた母親の横をすり抜けて居間に入る。食卓には父親と知恵が座っていた。
「ユキ、久しぶーだね」
 にっこり笑う知恵。丘野は一瞬面喰ったが、すぐに頬を緩めた。「ユキ」というのは丘野の愛称だ。
「おべたがや、いきなぃ結婚なんぞ。お前もおべただら」
 丘野が言うと、知恵はクスクス笑い出した。父親も笑っている。丘野は怪訝な顔になった。
「私やちもおべたわね。話がエライとんとん拍子に進んもんだけん」
 後ろから母親が言った。聞くところによると、どうやら知恵は丘野が入隊するずっと前から彼と結婚したいと家族に言っており、彼女の家族もそれに賛同した為に、知恵の家で一方的に結婚の準備が進んでおり、機を見てそれとなく丘野家に伝えたところ、丘野の両親も賛同して結婚が決まってしまったのだ。そして、当の丘野本人はこの時海軍航空隊で飛ぶことに没頭し、ミッドウェーの敗北後は事実をひた隠しにする為に軟禁状態にあった為、完全に蚊帳の外であった。

 一階の六畳間が夫婦の部屋だ。
 並べて敷かれた蒲団のうち片方の上に寝転び、天井を見上げる。
「知恵、なして黙っちょったかや。ほんにおべたで」
 髪を梳いていた知恵の手が止まった。丘野は気付かない。
「……なしてかねぇ」
 はぐらかすような答えを怪訝に思い、丘野は起き上がろうとして、しかし止まった。いつの間にか振り向いた知恵の手が、丘野の肩に触れていた。
 いつも妹分程度に考えていた知恵が、不意に別人に見えた。
 ジメジメした夏の松江の夜は更けていく。


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