複雑・ファジー小説

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はきだめのようなもの
日時: 2019/06/16 10:32
名前: 凛太 ◆ZR4vcGLyhI (ID: aruie.9C)

好きなものを好きな時に書きます。

【ショートショート】
罪に、沈む>>1
さすれば、花が咲く>>2
鴉飼い>>3
さよならノスタルジック>>5
別離に泣く>>6
マリオネット >>8 >>17
銀の塔の魔法使い >>10
花嫁行列 >>11
月を観る人 >>12
おはよう、おやすみ >>13
渇望 >>14 >>15
美しいひと>>18
金の砂塵>>19

【短編】
つがいの星 >>4 >>7 >>9 更新中

【雑多なもの】
>>16

Re: はきだめのようなもの ( No.1 )
日時: 2016/05/05 23:15
名前: 凛太 ◆ZR4vcGLyhI (ID: aruie.9C)

 生きなくちゃいけない羽目になったのは、大体悪魔のせいだった。私が召還した、紅い悪魔。召還するにはさして難しいことなどなく、魔方陣を決められた通りに書いて、自らの血を垂らせばいいだけだ。召還魔法は始めてだった私でも成功したのだ、きっと簡単な部類に入るのだろう。

「なあ、まだ死にたいのか」

 本日十数度目かの問いかけに、私はうんざりした。

「ええ」
「死んだっていいことないぜ?」

 悪魔は机の上で胡坐をかきながら、肩をすくめた。紅蓮の双眸と、髪の毛。顔つきは若く、私と同じくらいに見える。人と違う点といえば、長く尖った耳くらいだ。褐色のローブをいつも身にまとう悪魔は、悪魔らしくない。

「でも生きてたっていいこと、ないです」
「そりゃあ、まだ二十ちょいしか生きてないからだろ」
「というか」

 思い切り机の上を叩く。私の部屋の中はよく響く。悪魔はむっとしたように、顔をしかめた。

「なんで私が死のうとするのを止めるんですか」
「だってそりゃあさ」

 悪魔は人差指をぴんと立てた。出来の悪い生徒を諭すかのような声色だ。

「お前が死んだら、俺が消滅するじゃん」
「ああ、そういう契約でしたね」
「忘れてたのかよ」
「はい」

 正直に言うと、悪魔は「そりゃあないぜ」と責め立てるような目つきでこちらを睨んだ。だってあの時は、早く死にたくてしょうがなかったのだ。いちいち契約内容など確認していられない。
 そうだ、私は悪魔に殺してもらおうと思った。自殺するのだって、考えた。しかし、私はできなかったのだ。だから他殺、悪魔に殺してもらおうと考え付いたのだ。

「俺は久しぶりに外の世界を見ているんだ、すぐに消滅したくなんてない」

 悪魔が言う。悪魔はどうやら、本に閉じ込められていたらしい。そこを私が召還術で解き放ったというわけだ。

「私はこんな世界はこりごりなんです」
「そうは言ったってな」

 悪魔は紅蓮の髪をかいた。悪魔の髪の毛は、紅蓮の中に淡い黄色が混ざっている。日に透かすと、きっととてもきれいなのだろう。

「そうやって死にたくなるような世界にしちまったお前が悪い」

 私は耳を塞ぎたくなった。そうやって都合の悪い言葉は聞こえないようにしたい。そこが、私が臆病たる所以なのだと思う。

「周りの人間がいけないんです」
「ほうら、すぐ人のせいだ」
「だって、皆私のことを利用して……」

 もう嫌だ、あの時のことは思い出したくもない。吐き気が急にこみあげて、私は口を抑えた。悪魔が慌てて私の顔を覗き込む。背中を優しくさすられた。

「お、おい。大丈夫かよ」
「え、ええ……、なんとか」
「本当にしっかりしてくれよ」

 なんとか耐えると、私はため息をついた。

「でもまあ、お前には同情すべき点があるのは確かだ」

 悪魔が言った。

「でしょう、私はこの国、いいや世界一不幸な人間なんです」
「否定はしねえよ」

 悪魔が呆れ気味の視線を送る。悪魔にしては、やけに人間味に溢れすぎているのは気のせいだろうか。

「今ある現状でどうにか満足しようってのが、人間ってもんだろ?」
「どうにか満足できませんよ、こんな世界!」

 私はついに立ち上がり、叫んでいた。それに対し悪魔は嫌味なくらい落ち着いていて、すうと目を細めた。ああ、炎より紅い眼が私を見つめている。その業火で、私を焼いてくれないだろうか。そうしたら、悪魔は私と一緒に灰になるのか。ひとりで死ぬより、ふたりで死んだほうが寂しくなさそうだな、と思った。私はどこまでも臆病だ。

「落ち着けって、なあ」

 頭をくしゃりと撫でられた。悪魔の手は大きい。髪が乱れる。

「今日はお前の好きな晩飯にしてやるよ」
「……野兎のシチュー」
「よし、任せろ。そうやって小さな幸せを噛みしめて行こうぜ?」
「そうやって、騙そうとして」

 悪魔は笑った。笑うと、悪魔に見えない。

「塵も積もれば、山となるっていうだろ」

 悪魔はなぜかは知らないけれど、料理がうまい。狩りの腕だってあるので、きっと野兎のシチューが今日の食卓に並ぶことは間違いないだろう。悪魔は、私が死ぬ以外の願いは基本的にかなえてくれるのだ。

「よし、じゃあ気分転換に散歩するか」
「したくありません、絶対嫌です」
「そう言ってずっとこもりきりじゃねえかよ。ほら、行くぞ」

 無理やり手首をつかまれて、引きずられる。ああ、ああ。絶対絶対外へ出たくない。外の景色を見たくない。

「いや! やめてよ、離して!」
「駄目だ、離さねえよ」

 やはり悪魔の力には適わない。いくら抵抗しようが、無理やり外へ連れてかれた。しばらくベッドと机、そして食堂への往復しかしてなかったので、長い時間歩くことさえ不可能だった。痩せこけた細い自分の手足を見て、私は顔をそむける。

「ほら、ついたぞ」

 とうとう、外へ出てしまった。

「その目ん玉開け、外はきれいだぜ」

 どこが。私は恐る恐る瞳を開けた。口の中に、苦いものがこみ上げる。

「どうだ、感想を言ってみろよ」
「この、悪魔」
「そりゃ、どうも。褒め言葉だ」

 眼前の光景はひどいものだった。一面の廃墟、そして頭上には鉛色の雲。建造物は朽ちてしまい、植物が浸食している。人の姿はない。そりゃ、そうだ。私が全部消してしまったから。

「己のしでかした罪の重さが、わかったか?」

 悪魔は言う。そんなのわかってる。
 この世界に生きてる人は私だけだ。数年前の戦争。それで、私は、偉大な魔女だって持て囃された私はいろんな国に利用されて、それで。それで私は怒りで、とうとう魔力を暴走させてしまったのだ。人類は病で死に絶えた。もしかしたら生きてる人がいるかもしれないけど、でも少なくともここら辺の国一帯は滅んでしまったのだ。

「だからこの狂った世界で、俺と一緒に生き続けようぜ?」

 甘い囁きだ。私はきつく悪魔を睨む。

「私を、殺せ」
「嫌だ嫌だ、そうやって罪を背負って生き続けろ」

 自殺なんてできない。私の魔力が、自然にこの身を守ってしまうから。だから私より強い存在、悪魔に殺してもらおうと思ったのに。

「ほら、罪悪感に苛まれてるお前が一番可愛いって」

 ああ、ああ、ああ。壊れた世界で、一緒に壊れていけたらどんなに楽だろうか。
 自殺もできない他殺もできない、ましてや悪魔と契約をしてしまったのだ。きっと私が寿命で死の淵に立たされたとしても、私を生かさんがためにあの手この手を尽くすだろう。
 気が遠くなるくらい永い時間、私は罪悪感に沈んでいく。この、紅き悪魔とともに。



***
2013.3.31に書いたものです。
サイトに載せていたものとしては、2作目、凛太の趣味が全開だなあ。
書いててすごく楽しかったです、こういうハイファンタジー大好きです!

Re: はきだめのようなもの ( No.2 )
日時: 2016/05/07 00:18
名前: 凛太 ◆ZR4vcGLyhI (ID: aruie.9C)

 当主は病に臥せていた。流行り病とも違う、不思議な病だ。眠りの病ともいうべきか、ふと目を離すと死んだように当主は眠るのだ。最初こそは一日で目が覚めたが、時が経つにつれて起きる感覚が長くなっていった。一日から三日、三日から一週間、一週間から一カ月。このような調子だから、最早死んでいるのか生きているのか皆目見当もつかない。当主が幾度目かの深き眠りについた時、館の者は皆部屋を出払い暇をもらった。結局残ったのは、当主とその家族、そして数人の使用人のみとなった。肝心の当主は何十という四季を巡り、そのどれもを寝台で過ごしたが、一向に目の覚めぬままに次の春を迎えようとしている。当主の好きな、花が綻ぶ春の季節だ。


「お早うございます」

 夫人はいつものごとく、寝台に横たわる当主に挨拶を告げていた。当主の顔は若々しく精悍で、それでいてどこか儚い。金の睫に閉ざされた、翡翠の瞳を見ることは、生涯叶わないのだろうか。僅かな寝息が、彼の生命の輝きであり証しでもある。夫人の手はほっそりとしており美しく、それでいて上品な年輪が刻まれていた。夫人は当主の頬を遊ぶように撫でた。

「今年も春が来ました」

 夫人の手が額で止まる。当主はやはり、規則正しく胸の辺りを上下させていた。
 窓から舞い込んできた風にふかれ、眩いまどろむような当主の金の髪がゆれた。

 当主の時は、止まっていた。老いることもなく、死ぬこともなく、変化もない。全ては数十年前、不安に瞼を瞬かせた後、倒れこむように、ゆっくりと寝台に背を預けたあの日から。たゆたうような季節を当主と過ごした夫人は、あの若き日々の面影はあるものの、そこにあるのは白磁のような滑らかな肌ではなかった。全て、あの時のことは幻ではだったのではないか。夫人は何かの拍子に、そう思うことがある。あの当主に嫁いだ日から、今までのことが。それでも、病に囚われた当主の姿を視界に捉えるたびに、ああやはり現実なのだと安堵する。
 通いの医者は、なおも月に一度は館に訪れてくれる。もう治らないのだとわかっていながら、夫人を慰めるために、あるいは当主の姿を焼きつけるために。

 夫人と当主の間に子はいなかった。そして、当主の両親も死んでしまった。夫人がここに居残る理由など、何一つないのだ。実家に戻って行ったって、世間は許してくれるだろう。悲劇の夫人と名を授けられ、静かに余生を過ごしてもいいのではないか。現に夫人の兄からは度々実家に戻れという旨の手紙が届けられた。けれど夫人はその慈愛を含んだ眼差しで、断った。全ては、当主のために。いつか、目覚めるその日を信じて疑わずに。

 陽だまりのこぼれる部屋に、もう一人現れたのはやわらかな午後のことだった。

「あら、お医者様」
「御機嫌はいかがですか、夫人」

 体格のいい、粗暴な印象を受ける男だ。彼こそが医者であり、夫人とともに眠る当主を見守り続けたその人でもある。医者は夫人の用意したいすに腰掛け、そして当主の顔を窺った。前回に訪れた時と、なんら変わりのない。それが、ある意味では当然でもあったのだ。

「話は考えてくれましたか」

 医者は真摯な瞳で問う。夫人はそれを受け、そしてやはり僅かにほほ笑んだ後首をふるのだ。

「ありがとうございます。けれど……」

 その先を聞くのは躊躇うように、医者は目を細めた。夫人もその先を紡ごうとはしない。お互いに、わかっていたのだ。流れる空気は優しさをはらみ、しかし焦がれるような熱情をうっすらと纏う。

「ええ、ええ。わかっていましたから」
「本当に、ごめんなさい」
「いやはや、貴女は驚くくらい一途だ」

 そして医者はふと、視線を窓に移した。鮮やかな庭園が見える。

「彼がこうなってしまったのも、この時期でしたね」
「もう少し詳しく言えば、あの庭園の花が咲く前でしょう」
「そうでしたっけ」
「そうですよ」

 夫人がころころと笑う。その笑い方だけは、彼の人と同じように老いを感じさせないものだった。まるで、花が綻ぶような。医者は白髪のまじった頭髪をかきながら、喉の奥から笑い声をあげる。

「私ならば貴女を幸せにできるというのは、私の思い上がりだったのでしょうね」

 夫人は目を丸くした。瑠璃色の瞳に、陰りがさす。

「そんなことはないわ、全ては私の我がままなのです」
「いいや、そんなことはない。貴女が真に幸福に包まれるのは、彼が目を覚ました時でしょう」

 医者は不器用にも笑顔をつくる。夫人は今一度、当主の寝顔を見た。はっとするほどの安らかな寝顔は、鮮やかにもあの時を思い起こさせる。夫人が、夫人と当主が、たっぷりの陽光に包まれた日々を。






 しかし、今となってはそれも遠いものなのだ。かつて、花のような笑顔だと賞賛を送り、夫人の頬に口づけをおとした当主は。そして、やわらかく顔を綻ばせた夫人の姿は、在りし日の思い出にすぎない。


***
書いてて一番好きな短編です。
大好きなweb小説があって、それに強く影響を受けて書いたもの。
透明感のある文章って、難しいなあ。

Re: はきだめのようなもの ( No.3 )
日時: 2016/05/29 21:50
名前: 凛太 ◆GmgU93SCyE (ID: aruie.9C)

「最近、鴉を飼い始めたって本当ですか」

 行きつけの茶屋の店主は、冗談混じりの口調でたずねてきた。

「あの鳥は賢い、それに羽の色は美しい」

 店主はひどく非難がましい目で私を見た。ぞんざいに運んできた団子と茶を置く。その無骨な指は、茶菓子屋の店主というより、大工のほうがふさわしい。私は苦い顔で茶をすすった。

「あんな鳥、どこがいいんですか」
「まあ、私にとってはいい鳥さ」

 店主はいまだに信じられないという風に、眉をひそめ、奥へ引っ込んだ。そこまでされると、私だって傷つくというのに。
 けれどとにかく、鴉は本当にいい鳥だ。




 月が冴ゆる夜というのは、どうにも危険だ。妖なんぞがここぞとばかりに跋扈する。だから街の男どもは娘は夜出歩かないようにと、常々言い聞かせていた。さりとて、好奇心が強い娘なんかはふとした拍子で夜の世界へ足を踏み入れてしまう。じんわりと月が辺りを照らし、風がぴゅうと頬を撫で、振り返れば妖に喰われておしまいだ。

 その日はしとしとと雨が降っていた。夕刻になればいとど雨は勢いを増して、石を穿いている。
 私はまんじりともせず、軒先に据えられた椅子に腰かけていた。茶屋の中は閑散としており、店主は頬杖をつきながら、舟を漕いでいる。店じまいも近いだろう。夜は刻々と迫っており、曇天の向こうでは一番星が瞬く頃合いだ。仕方なしにと立ち上がって、私は茶屋を後にした。

 ほうと目を細めたのは、向こう側から女の姿が見えたからだ。茜色の衣がぽつりと目立っている。
 ぽつねんと虚空を見上げ、何事かを喋っているようだ。気味が悪いが、興味を持ったのも事実で、私はふらりと近づいた。女は子供だった。遠目に見てもしやと思ったが、子供は嗚咽をあげて泣いているらしい。子供は私に気づくと、潤んだ瞳で私をきつく見据えた。

「どうかしたのか」

 試しに尋ねてみると、子供は首を縦にふった。纏う衣は継ぎ接ぎだらけだ。茜色の地に、白い花の模様が裾のほうまであしらわれている。
 不憫だ、と思った。

「迷子か」

 子供は勢いよくかぶりをふった。もう泣くまいと唇を一文字に引き締め、拳を握りしめている。改めて見れば子供の瞳は鴉のような色をしていた。あの鳥は、いい。そこらの人よりも賢い。私はこの子供に親近感を抱いた。

「口が聞けぬのか」

 まさか、そんなことはあるまいだろう。先ほどまでは盛大に声をあげて泣いていたのだ。どこかからかう気持ちで言問う。

「きけるもん」

 凛、とした声だった。例えるならば、鈴を鳴らしたような。

「何故泣いている」
「家出したの」
「そうか」
「でも、どこにも行くところがないから」

 そうしてまたつつと頬から涙が零れる。小ぶりがちの鼻に朱がさした。

「では共に来るか」

 子供は目を丸くした。些細な冗談だ。だというのに、子供は身じろぎ一つせず、私をぽかんと仰いでいる。そして控えめなくしゃみを一つした。肌を震わせる程度には寒く、このままでいれば身も芯まで冷えてしまうだろうか。この小さく脆弱な身体なら、すぐに朽ちてしまう。そうなってしまうには、惜しいと思った。頬に手を這わせる。子供がそうっと後ずさった。鴉色の瞳に、恐怖が彩る。

「い、いい」
「遠慮することはないというのに」

 出来る限りの優しい声音で言ってみたが、逆効果だった。子供の口から悲鳴が漏れだした。

「や、やだ、お兄さん怖いよ」
「このままだと寒さで凍え死ぬぞ」
「ほ、んとに、ご、ごめんなさい」

 子供が私の手を振り払って駆けだした。行ってしまう、と思った。背はどんどん小さくなる。鳥籠を用意しよう。そうして、逃げ出さないように閉じ込めなくては。私があの子供に追いついた時、あの子供が後ろを振り向いたとき、どのような表情をするのだろうか。






「妖怪退治を生業にしてる輩はそろいもそろって悪趣味だ」

 茶屋の奥で、店主は苦いものを噛み潰したような顔をしていた。店主の息子はそれをたしなめる。

「まあまあ、落ち着いてください」

 息子はちらりと後方を窺う。奇妙な格好をした女が茶を啜っているところだった。人情を感じさせない冷徹な瞳は、身が竦んでしまいそうなほど鋭い。
 店主は腕を組んで息を吐くように呟いた。

「まさか、鴉天狗を飼うなんてな」



***
そろそろ、新しいお話とか書いてみたいです。
夏を感じさせるものがいいですね。

 

Re: はきだめのようなもの ( No.4 )
日時: 2016/06/02 11:57
名前: 凛太 ◆GmgU93SCyE (ID: aruie.9C)

つがいの星
1

「俺、あと少しでいなくなるから」

遠くから、トランペットの音が聞こえた。それはとても歪でありながら、初夏の陽気のもとへ、一直線に伸びている。野球部が走り込みをする掛け声と、廊下から聞こえる女子のかしましい喋り声が混ざり合い、溶けていくようだった。

「バカ千夏、ここの問題間違ってる」

なんでもない風に、いや実際にはなんでもなかったのかもしれない。壮太くんは、緩慢な手つきでわたしのノートを指差した。そこには力の抜けた文字が、うようよとひしめき合っている。わたしは間違いに気づくと、慌てて消しゴムを握った。余りに強く力をかけすぎたのか、ノートは乾いた音を立てて、少しだけしわになってしまった。

「え、壮太くん、いなくなるって、どういうこと?」

わたしは、ノートに目線を落としたまま、口を閉ざさずにはいられなかった。 壮太くんは何も言わない。まるで、このしじまを楽しんでいるみたいにして。

「転校するの?」

私の頼りない言葉が、教室に四散して弾けた。私たちだけでは、この教室は広すぎたみたいだ。

「転校はしないよ」
「じゃあなんで」
「ばーか、嘘だよ」

壮太くんはそう言って、狐みたいに目を細め、口元をゆるやかに上げた。彼は、まるで作り物みたいなひとだ。決して華やかな顔立ちではない。けれどもよく眺めれば整っていて、凛とした清涼感があった。何よりも色素の薄い瞳が、彼を人工めいたものにさせていた。もしそれに捉えられてしまったならば、きっと抜け出すことはできないのだろう。

「びっくりしただろう」
「こういう嘘、よくないよ」

若干、強く言いすぎたかな、とおもう。壮太くんは、心外だと言いたげに眉をひそめた。そのあと、何かを思いついたようにして、瞳にきらめきが宿った。

「バカ千夏、もしかして悲しくなった?」
「そりゃ、そうだよ。幼馴染だから」
「そっか、そうだよな」

そうしてわずかな沈黙の後、彼は絞り出すようにして言を発した。

「ごめんな」

校庭の方から、歓声が湧き上がった。きっと、サッカー部に違いない。ふと窓の方に目をやると、雲ひとつない青空の向こうに、飛行機が飛んでいくのが見えた。

「千夏は、志望校どこ」
「……教えない。うんと頭のいいところだから、馬鹿にされそう」
「そっか」

そう言って彼は、手元のスマートフォンに目線を落とした。

「壮太くんは、どこいくの?」
「どこだろう」
「まだ、決めてないの」
「うん、まあ、そんな感じだ」

曖昧にぼかされた答えに、わたしはすっかり拍子抜けした。時折、彼はとても達観した表情を見せるものだから、きっと未来なんてとっくのとうに決めてしまっているものなのだと思っていたのだ。いつだって、彼は、壮太くんはそうだった。クラスメイトとは、何かが違っていた。例えばみんながどこか熱に浮かされる文化祭の時だって、彼一人だけが何も変わらない。それはきっとノリが悪いとかそういうのではなくて、落ち着いてるとか、どっしり構えているとか、そういう表現が似合うのだ。ただ、常に少しの不安めいたものが帯びていた。

「きっと千夏は、大人になっても変わらない気がする」

ぽつり、とつぶやかれた言葉が、やけに私の胸の中に響いた。何故だか、焦燥に駆られてしまう自分がいる。壮太くんは、ようやく顔を上げると、私の顔を正面から見据えた。

「きっとどこかの大学に行って、友達と遊んで、就職して、誰かと結婚して、子供が生まれて、それでも千夏は、呑気に笑ってる」
「それって結構良い未来だね」
「そうだろう、だから」

風がさあっと私たちの間を駆け抜けていった。壮太くんは一度だけ、ゆっくりと瞬きをしてみせた。

「千夏は、絶対に幸せになれるよ」

そう言って、壮太くんは静かに笑った。


***
中編です。続きます。


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