複雑・ファジー小説
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- 七夜、八夜
- 日時: 2024/02/12 20:17
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: .tTl60oj)
画面を見て、動きがとまる。
そして僕は思った。
なんて馬鹿なことをしたのだろう、と。
□挨拶
浅葱といいます。
実質六年ぶりに当スレを動かしました。
ssを78作書くスレです。のんびり更新していきます。
□目次(6/78)
>>001 ⇒ からっぽらっぽ
>>002 ⇒ 金魚は円周率をおぼえることが出来るか?
>>003 ⇒ 僕らつぶ色の日々を過ごす
>>004 ⇒ 公園のあの子
>>005 ⇒ 紫煙に揺らるる
>>006 ⇒ あまいあめ
>>009 ⇒ 告白
>>010 ⇒ ねむれない夜のしょほうせん
>>011 ⇒ 夕嵐
□開始日20160822
- Re: 七夜、八夜 ( No.7 )
- 日時: 2022/06/09 21:23
- 名前: 緑川蓮 ◆vcRbhehpKE (ID: hi4BpH9d)
緑川蓮と申します。こんにちは。
なんて改まって挨拶をしましたが今更かな~ッて感じはしつつ。
最新分まで読了致しました。浅葱さんの素晴らしく洗練された文章はすでに馴染み深く感じます。一方で何度読んでも、色褪せない鮮やかな情景が浮かぶ。
今作の短編集も、浅葱さんにしか出せない切ない読後感を存分に堪能致しました。個人的には『公園のあの子』が好みですが、『紫煙に揺らるる』も「浅葱さん、こういう表現の幅も持っているのか……!」と目新しくて唸りました。
目新しいと言えば『僕らつぶ色の日々を過ごす』も、他の作品に比べると爽やかさが全面に出ていて、際立って居たかも。好きな爽快感です。
総評すると全部好きですね。今後も浅葱さんの作品を読んでいきたいですね。応援しております。
- Re: 七夜、八夜 ( No.8 )
- 日時: 2022/06/18 14:41
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: NeElsyZE)
観想いただいていたことに気づいていましたが、お返事遅れちゃいました許して。
読み返したけど、拙いなりに面白い短編ばっかりあるね。当時からssの方が好きだったことが伺い知れちゃうわね……。
めっきりくらーいじめーっとした話しばっかり書いているんだけれど、昔は明るい話を書いていたんだなって浅葱も驚きです。文章量の少なさで、不得意分野ってことは丸わかりですが。書いててとっても楽しかった思い出があります。いえい。
わあい。褒められるのとっても嬉しいです。浅葱も浅葱の作品を読みたいし、それ以上に紫電スパイダーも楽しみだしで、大変今後が楽しくてしょうがないです。
感想ありがとうございました。
- Re: 七夜、八夜 ( No.9 )
- 日時: 2023/11/20 16:22
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: .tTl60oj)
女はさめざめ涙を流しながら部屋の中央に置かれた椅子に腰を下ろしていた。脂をたっぷりと蓄えた黒く長い髪の毛は、蛍光灯の光を受け、てらてらと不純な照りを見せつけている。
四畳半ほどの狭い個室、ただただ嗚咽する女の声が満ちていく様は、情のない相手とはいえ胸を重たくさせるものだ。
「私、私……!」
誰も声を上げぬまま数分か、もしくは数十分が経ち、痺れを切らしたように女が声を出した。それをテーブル越しに白髪頭の初老の男が仏のような笑みで聴く。話を強要することはせず、ただ微笑みを湛えて女を見ていた。
「わ、私じゃ……私じゃないんです! 本当なんです、わっ私じゃないの! 本当なの!」
机の上に拳を置いて、震える体をずいと男へ寄せるが、すぐに何かに気づいた面持ちで今度は小さく縮こまる。
女は、何も言わぬ男が付けていた記名章を盗み見て「違うんです、大鳥さん……」と縋るような目をしてみせた。顔を伏し、上目で大鳥に視線を送る。大鳥はただ笑みを浮かべるばかりだ。
「私っ、普通に夜勤をしていただけなんです! い、いつもみたく十六時から日勤の申し送りを聞いて、それでっ、それで、ちゃんと仕事をしてて」
女は落ち着きなく部屋の隅々に目線をやり、これまでの経過をつらつらと述べ始める。曰く、零時まで働いた後で帰らなくてはと思い、冷気が溢れる黒黒とした夜道を一筋の光で裂き進んだとのことだ。
「帰ったけど、でも、仮眠休憩だけど仕事だからって急いで戻ったんです……」
口籠った女は、肩を落として憔悴しきった様子を見せる。落ち着きなく視線を泳がせ、机の下できつく握った両の拳はカタカタと震えていた。
また職場に参じた女は手にキャリーケースを持っていたと話す。それが今何処にあるのかも分からないと言い、またはらはらと泣いてみせるのだ。
「他の看護婦仲間は何処にもいなくって、私しか……。それで、仮眠に入る前に、皆の顔を見ておかなくちゃといけないって」
そして女は黒黒とした閉鎖空間を光と共に巡見したらしい。次いで、恐ろしいものを思い出したのか、わっと声を出して両の手で顔を覆った。
またも枯れぬ涙を零し、数刻が経つ。女は顔を覆ったままで。
「みんなベッドに括りつけられて……。口を開けて廃人みたいで、そ、それで、た、たすっ助けないとって。真田先生を呼ばなきゃって。で、でも、先生が来るまでにやれることはやらないといけなくって……他の皆はいなくって、それで、それで」
皆のベッド柵も手袋もロープも、全部外して、隠したんです。
指を震わせるが、女の声は涙声ではなくなっていた。大鳥はそれでも黙って、ただ笑顔でいるのだ。涙で湿度の高まる空間は、教会の懺悔室ほど罪に苛まれてはいない。
女は己の手掌に視線をやり、ぽつりぽつりと思いおこした記憶を話す。
「私、皆を助けようとしたのに、誰も動いて逃げようとしなくって……。う、動けないんだって思って、ベッドの背もたれを上げていったんです。だ、だって、起き上がるのに手助けがいるんだと思ったから」
寝たきりで延命の人が多いから、どうにかしないとって。そう続けた女の表情が、うすらと緩む。恍惚としたように、ぼおっと遠くを見つめているような目を大鳥に向けた。
「みんなの身体を上げた後に、私、二階の当直室に呼ばれたんです。――胸がどくんってなって、行かなくちゃならなかったの」
口元で両手を握り、愛おしそうに笑む。その手に頬を寄せるようにして、恥ずかしげもなく頬を赤らめる。
大鳥の視線を受けて尚、惚けた女は「先生は優しくて……。やだ、こんな時なのに」と、膝をすり合わせ身を捩って見せた。女としての悦び。身体をくねらせ、大鳥の眼前に座るものは紛う事なき女であると主張する。
「そ、それで、私は真田センセとほんの少しだけ、一緒に過ごして、急いで戻ったんです」
悦に浸った表情の女の口調は自信にあふれたようだった。得体のしれぬ何かに怯える様子は失せ、ただ、女としての愉悦と矜持が残っている。
「戻ったら、そこに寝ているはずの人がいなくて、私、必死になって探したんです。でも、いなくって、病室から出られる人じゃないのに」
突然目を開き、何か言いたそうに口を開くが言葉が出ない様子だ。女の目線は、ずっと笑みを湛える大鳥に注がれる。
「私じゃないんです!」
目を見開き、金切り声を上げ、女は立ちあがった。――かと思えば床にへなへなと座り込み、己の殻に閉じこもるかのように細い腕で自身を抱くのだ。
開いた目からはぼろぼろと涙がこぼれ、白い塩ビタイルが濡れていく。唇を震わせて、違う、違うと呪文のように繰り返すのだ。まるで懺悔室となってしまったこの四畳半の空間は、大鳥の赦しを希う女の色に侵食されている。
「も……も、戻ったら、一人がベッドから落ちてたんです……。アラームがずっと鳴ってて、何だろうって見に行ったら動かなくて、ね、寝てるんだと思ったんです」
走り回った犬のように息を荒げ、苦しそうに胸元で硬く拳を握り、女は身体を震わせた。大鳥は表情も態度も、その一つすら変えることは無く、女の後頭部しか見えぬ空間にも笑みを見せる。
女は己の見た恐怖を受容するため、干天に晒されたかのように乾いた喉へ、粘稠ねんちゅう度の高い唾液を送り込んでいた。
「でも起こしたらだらんってしてて、首が……く、首が変な方に曲がってたんです」
女の耳には人工呼吸器の接続不良アラームが残る。物言わぬ死人に代わり、その苦しさを告げる機械音が。
耳を塞ぎ、頭が床に着くほどに身体を折り曲げ、室外にも聞こえるほどに叫ぶ。女の周りには何もいないというのに、机の脚に腕がぶつかる事も気にせず「来ないで! やめて!」と必死に叫ぶのだ、女は。
「お巡りさん信じて! 私は本当にやってないの! 嘘じゃないのよ!!」
半狂乱し「信じて」「やめて!」と叫ぶ女が普通ではないことは明らかであった。大鳥は貼り付けた笑みのまま、右手を上げて室外へ合図を送る。
白衣を着た数人の男が入って来たかと思えば、未だ床に座り込んで叫ぶ女を手際よく拘束し、連行していく。つんと鼻に刺さるアンモニアの臭い。
淡黄色の液体と涙で濡れた床を男の一人が環境清拭ワイプで清拭をして、女を追って足早に部屋を後にする。
大鳥が笑顔を崩さぬまま女がいた空間を見ていれば、羆を思わせるほど大きな体躯をした男がやってくる。先程の男らと同様に白衣を纏って。
「いやあ、助かりました。警察を呼べと言われたら従うしかないですから、すみません」
「ははは。何も気にしないでくれていいさ。いやはや知ってはいたけど、真田くん、君たちも大変だね」
大鳥は人間らしく快活に笑い、真田に座るよう促した。椅子の座面から臀部の半分近くがはみ出ているが、真田は気にせずに腰掛ける。
たっぷりと蓄えた顎の肉が三重にもなった真田は、ありがとうございます、と会釈をする。それは愛嬌もある仕草であり、大鳥もどこか満足そうに笑うのだ。
「まあ今はあれで済んでるけど少し面倒くさくなりそうだから、セレネース一アンプル生食百で溶いて時間かけて投与していいよ。少しどろっとするくらいで管理しよう」
「分かりました。すみません休日に、院長先生のお手を煩わせてしまって」
「いやいや良いんだ。彼女は私の担当患者だからね」
「三浦さん、最近落ち着いていたんですけどね」
部屋の隅に取り付けられた監視カメラで、真田は三浦と大鳥の様子をすべて見ていた。少しずつ錯乱し、失禁するまでの女の姿を。
「とはいってもね、僕たちと彼女らは同じ世界を生きているようで見えている世界は違うんだ」
「本当にそうですね」
大鳥は朗らかに笑む。
「警察を呼べと叫ぶ人がいたら、僕のことを呼んでくれていいからね。本当に警察が介入するような事案になってしまったら、僕たちが咎められてしまうんだから」
「……そうですね」
真田の記憶には過鎮静となり息を引き取った患者や、強い暴力性を持つ患者が抑制され言葉すら発せなくなった姿がある。精神疾患は臭いもの同様蓋をして管理する。
精神症状の増悪がないよう鎮静下で管理され、容易に抑制をされ、人間らしさを失った患者ばかりがここにいた。
「身寄りがない人間を受け入れるなんて、医療職として正しい奉仕活動のように見えるけどね。僕は精神障害者と生活保護受給者が嫌いなんだよ。分かるかな」
真田は曖昧に返すのみであったが、大鳥は反応を期待しているわけではないようだった。どこか満足そうに数回頷き、笑い皺が深く刻まれた眼で真田を見る。
「自分を看護師だと思い込んだ精神患者により、一人の尊い命が散った。僕たちはその間、隔離室で患者の対応に当たっていた。いいね?」
「……はい」
「医療安全に提出する書類は僕が作っておくから、あとは任せるよ」
大鳥が立ち上がったのを見て、真田はその後に続く様に大きな身体を揺らす。エレベーターに乗り込んだ大鳥はまた笑顔を見せた。
「彼女も看護師になりたいって夢を叶えられて良かったんじゃないか」
閉じた扉を前に、爪が食い込むほどに拳を握る他真田にできることはなかった。
- Re: 七夜、八夜 ( No.10 )
- 日時: 2024/01/18 22:58
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: .tTl60oj)
寒風に吹かれる暗い夜道は、夏場の帰路に比べてひどく長く感じてしまう。ダウンのポケットに手を入れ、肩を縮こまらせて道を進む。どこか青みのある黒い空を土台に、灰色の雲が新規レイヤーとして描かれていた。
蒸気機関車のように鼻から出す息も、分かり切った白い息を口からふうと吐き出すのも、この時期特有のあそびだった。ぎりぎり終電に乗り込むことが成功し、あたたかな座面に腰掛ける。尻からつま先までをじんわりと熱するそれは、労働と学業で疲弊した体を安眠に誘うには強烈すぎた。欠伸を噛み殺し、鼻をすする。
日が越えた頃に着く家は、どれだけ冷えているのか。新築、無料ワイファイ付き、駅まで徒歩十分圏内という好立地。一階に位置する部屋は地面からの冷気で床がキンキンに冷える。北向きの部屋は、どれだけ外が明るかろうが室内に直接太陽光を取り込むことはない。
ポケットにしまいすっかり冷えてしまった携帯を取り出す。まだ冷えて強張る指先で、たどたどしくロックを解除する。メッセージアプリには様々な店舗からのお得情報が届いているだけ。非表示にすることも面倒で、複数選択したそれらを削除する。自動音声のアナウンスが流れた後、電車は一鳴きして動き出した。アラームをセットし、背もたれに体を預ける。もう瞼は開きそうにない。
手の中で震えた携帯に、ゆったりと幕が上がるように意識が戻る。アラームが鳴る予定時刻まで、まだ二分の猶予があった。睡眠を欲する体を無理に起こす。伸びたチーズのように切れの悪い意識と瞼。軽く頭を振り、両眼を擦る。
通知は眠れぬ子羊会からのものだった。たった五人しかいない、顔も名前も知らない親友たちと繋がる場。電車を降り、改札を抜ける。あたたまった体から一気に熱を奪う冷気に震えながら、家を目指す。
□
アラゴネセ 昨日23:57
今日のミサは?
ロムニー 今日00:00
ロムニーは無理。今日は眠れそう。
アラゴネセ 今日00:00
そっか、良かった。しあわせな夜を。
ロムニー 今日00:01
うん。アラゴネセも、しあわせな夜を過ごしてね。
□
熱い湯のシャワーを浴び、湯冷めしないよう髪をドライヤーで乾かす。眠れぬ子羊会からの通知がいくつか入っているのを、チャット欄を開いて確認をする。ロムニーのコメント後は動いていないものの、ボイスチャンネルにはアラゴネセが一人で参加していた。
人がいれば日付を越えてから始まる、ミサと呼ばれる通話の時間。眠れない夜と眠れないもの同士の交流を、眠れないからこそ出会えたと感謝するような秘密のかかわり。夜を手放せない、進む世界に未練を残した個人が集まった小さな繋がりの場。支度を済まし、愛用するノートパソコンにヘッドセットを接続する。上がり調子の電子音がアラゴネセに届いた。
「おつかれ」
「あれ、おつかれぇ。今日なんかあれ? バイト遅いって言ってなかった?」
「え? もう一時過ぎてるからさすがに遅くない?」
「あーそっか。アラゴネセのことも、そっち側に連れてってよねぇ。チェビたんったらぁ」
間延びし、とろりと溶け出したような声色のアラゴネセは、一人でうふふと笑う。「連れてって、なんて無理なのにねぇ」と遠くを見つめているような、諦めを包含したような、そうした声音を彼女は扱う。肯定も否定もせず、僕は着地点のない相槌を返事にして、検索エンジンを開いた。
眠れぬ子羊会。今は眠っているらしいロムニーはひどい中途覚醒を患い、日付が変わる頃に入眠し、一時間半ほどで断続的に覚醒する生活を送っている。アラゴネセやロムニーのメッセージにリアクションだけを残すアワシとメリノは、それぞれの夜を過ごしているらしい。
「年上の名前に“たん”なんて付けるもんじゃないよ」
「いいじゃーん。チェビオットなんて長すぎるし。アラゴネセのことも、もうちょっと違う名前で呼んでいいんだよ?」
「じゃ、今後アラゴセネって呼ぶわ」
「あいかわらずちぇびたんセンスないねぇ、へへ」
今にも寝てしまいそうな様子で、アラゴネセは話す。時折会話が途切れる沈黙は心地よく、調べ物が予定より早く進んでいた。一人で何かを語るアラゴネセに相槌を返すと嬉しそうなゆるい笑い声だけが戻る。
アラゴネセについて知っていることは少ない。耳に入る声色から察するに女性であり、どうやら高校生らしく、特発性過眠症に悩んでいるらしいということしか知らない。それだけしか知らないけれど、学友以上の関係値が互いの間にあることは確かだった。
ただ眠るために、未明と呼ばれる不確実な夜の世界を共に過ごす。未だ明らかではない時間帯。眠れずに過ごす人間にとっては明らかな時間帯ですら、大勢の人間の生活においてはうやむやにされてしまう。眠れぬ夜はないと考える人間が大部分を占める。今日は眠らずに過ごす自分自身にとっても、普段は知らぬ間に過ぎていく時間だ。
「あさってさぁ、ちぇびたん」
「なに」
「あさにねぇ、アニメのえーがやるんだよね」
日曜日の朝に。声に出さずに反芻し、新しいタブを開く。小中学校はじきに冬休みが始まるようで、週末の彩りと早起きのために三週連続で放送されるらしい。ゲームシリーズが原作であり、全作を遊んだ経験があるらしいアラゴネセはそれを見たいと考えているようだった。
「おきれないきがしてさぁ。まーたそういうフェーズ? みたいなさぁ、かんじ」
「例の過眠?」
「そ。オーロラ姫みたいだよね。現実はまったく違うけど」
明瞭になった声の奥でガサガサとビニール袋を漁るような音がする。スリッパで歩く音も、ヘッドフォン越しに耳に届いた。
「ちぇびたぁん」
「眠そうすぎない?」
「ねむたいんだよーだ」
衣擦れの音がする。声を押し殺して笑う彼女は心底楽しそうだ。ゆったりとしながらも、速く過ぎる不確定の時間。午前三時が近づいてくる。
「ちぇびたんはさ、あしたおきるの?」
「ん-。まあ、もう今日だけど起きる予定だよ。そっちは?」
「次いつ起きれるかわかんないんだよね、わたし」
「それは聞いても大丈夫なやつ?」
「ぜんぜんへーきー」
くすくすとアラゴネセが笑う。
「じゃあ、寝る準備してから聞くかな。端末切り替えてくる」
「はーい、いってらっしゃーい」
ヘッドセットを外した耳が、室温ですうっと冷える。外耳道のかゆみを耳かきで制し、綿棒で薄くかゆみ止めを塗る。もうすでに重たい瞼をなんとか開きながら、パソコンをシャットダウンし、アラゴネセの待つミサへと戻った。デスクではなく、冷たいベッドに体を滑り込ませて。
「おかえりー」
「ただいま」
「ちぇびたんはさぁ、夜寝たくないなって思うことある?」
「眠れない時はあるけど、別にない」
「まぁそうだよねぇ」
衣擦れの音が響く。アラゴネセが静かに動く間、徐々に温まる布団に睡魔が刺激されてしまう。
「今寝るとさ、次いつ起きれるかわかんなくって。本当に眠り姫みたいな感じなんだよね」
「今の話し方眠たくない人っぽい」
「ふふっ、ねむいんだけどねぇ。ねたくないんだよねぇ」
「俺は眠たい」
「おきてるじかんに、みれんがないっていいなぁ」
心底から吐露したようにきこえる声は、ぼんやり靄がかかったように眠気が広がる脳内にじわりと滲んでいった。夜に、未練か。よく考えようにも自然と閉じていく瞼に抗うことが難しい。
「ちぇびたーん」
「まだ起きてるよ、大丈夫」
「ビデオつーわしませんか」
「……もう寝るよ?」
「ひとりでねるの、こわい」
「……はい」
ボイスチャンネルを抜け、アラゴネセとの個人通話に移動する。互いに顔を映すわけではないが、時折こうしてアラゴネセが眠るまでの時間を共に過ごすことがある。眠るのが怖いと話すアラゴネセが目覚めるのは、一日後か二日後かは分からない。
数か月ほど一日のほとんどを眠って過ごす彼女は、睡魔や眠るという行為に強い不安や恐怖があると零すことがあった。『眠れる人には分からないよね』と自嘲気味に笑って話した声色が耳に残り、ミサを抜け出した個人的な関わりを続けている。しあわせな夜を過ごすことができるようにという、眠れぬ子羊会が掲げる理念を建前に。
「アラゴネセ」
「なぁに。ちぇびたんもねむたそうだねぇ」
「また待ってる。今日はしあわせな夜を過ごして」
「……そうだねぇ。みんなと待っててね、ちぇびたん」
「もちろん」
「ありがと。ちぇびたんもしあわせな夜を」
震えたようにも聞こえた彼女の声。数分後、か細く規則的なアラゴネセの寝息が聞こえてきた。通話を切り、本格的な睡眠の支度をする。首元まで毛布をかけ、一息大きく吐き出す。アラゴネセがしあわせに夜を過ごせたらと、浮かんだ思いはぱちんと弾けた。
□
ロムニー 2023/12/18 23:48
数日ぶりだけどアラゴネセいないんだね
チェビオット 2023/12/19 01:37
たぶん過眠期。今日の映画楽しみにしてたんだけどな
ロムニー 2023/12/19 01:37
また起きちゃった。アラゴネセの知らない間にどんどん日が進んでいくから、またいっぱい面白いこと仕入れとかないと
チェビオット 2023/12/19 09:51
喜びそう。見れなそうと思って録画しといたし映画一緒に見るか
メリノ 2023/12/19 10:00
お久。アラゴネセと映画見るとき呼んでー。録画し忘れた。
ロムニー 2023/12/20 04:03
私も!
チェビオット 2023/12/20 06:27
了解。アワシも呼ぶよ?
アワシ 2023/12/20 06:27
♡
メリノ 2023/12/20 21:11
アラゴネセが戻ったら、しあわせな夜をみんなで過ごそう。僕らは五人で眠れぬ子羊会なんだから。
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密やかなミサは今日も始まる。
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- Re: 七夜、八夜 ( No.11 )
- 日時: 2024/02/12 20:16
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: .tTl60oj)
□夕嵐
白い肌を強調すると、彼が喜ぶ。女性の肌は白く、そして細く引き締められている必要があった。筋肉質であることは求められていない。すらり、しなやか、陶器のような。そうした文学表現を彷彿とさせるような体躯を体現する必要があった。
けれど筋肉質であってはいけない。節制と努力とで作り上げた肉体であっても、そうした努力を見せてはならない。私の努力は私の中だけで生きており、他者が何かを物申せるような位置にあってはいけないのだ。そもそも、そうした努力の影が見えてしまうこと自体、求められていない。
ガードルに脚を通す。
女性らしさ、とは。普段よりも位置の高くなった臀部を一撫でし、そのまま手を横腹へ進める。硬い骨盤から柔らかな腹斜筋へと。力を籠めると腹直筋がその姿を現した。彼にも見せない努力は、わずかに蓄えた皮下脂肪の中に身を潜める。
求められる女性らしさは、見てすぐわかる位置にある筋肉からは得られないらしい。細すぎもせず太すぎもせず、かといって標準体重よりは数キログラムから十キログラムほどの瘦せ型であり、張りのある肌を伴わなくてはいけないのだ。
胸に対して細かな希望を出す異性は少ない。形、大きさ、感度。そうしたいくつかの要素でしか語られない部位であるけれど、こうした正装をする場において、「それが胸である」と分かる程度の存在感は必要だ。
トップとアンダーによってサイズが決まる事、肋骨の開き具合でも胸の位置が変わる事、肩と肘の間に乳頭がないと胸は正しい位置にあるといえない事。それらを知らない異性のために、分かりやすい女としての特長を惜しみなく見せつける。女性をある種の消耗品として観る男にとって健康的な肉付きといわれる体躯こそが至高であり、私たちはそんな男の誰か一人を手中に収めるために必死になっていた。
露わになったままの、性の象徴ともとることができるそれを包む。左右差がないよう、右側にはパッドが入っていた。下から支えるように秘密を仕込み、鏡を見る。丘のようなやわらかい張りと、かろやかな弾力。
ささいな差なんて男は気にしていないだろうけれど、こうした小さな細工をして初めて、整った女性であると他者に評価される。彼らの設けた外見の基準を越えて初めて、女から女である私を見てもらう事ができる。
紺色のタイトなドレスに袖を通す。
鍛えられた曲線が、より私を女として強調した。鏡の前で数度、体のラインを確認し息を吐く。どこからどのように見られたとしても、そこには完全な女性らしさをもつ一人の女が存在していなくてはならない。伴侶と呼ばれる彼の横に立つ間、表面上の私と彼しか知らない人達の前に出る時には、女性は正しく男性を引き立てる役割ではなくてはならない。そして、私はその生き方を自分の中で肯定している。
身を翻すごとに、切りそろえられた長く黒い髪が風にのって踊った。照明を受け、天使の輪が映る。肌は白く、髪とのコントラストが強く映えた。ドレッサーの前に座り、何もしていない素肌のままの自分自身を見る。クマと赤みがぱらぱらと存在する顔に、ため息がこぼれた。どれだけ見た目を取り繕ったとしても、少しずつ年齢を隠すことが難しくなっている。しみやほくろがないだけきっと良いのだろうけれど、自然と哀しい気持ちになってしまう。
ひとつだけ、意を決するように息を吐く。何をどう悩もうが今さら顔の作りが変わることは無いのだから。
化粧水と乳液、美容液で顔を整える。下地対応の日焼け止めを塗り、コントロールカラーの下地を赤みをともなった場所に置く。薄黒いクマが顔の疲れを際立たせる。いつ見てもひどい顔だと思う。特別大衆に羨ましがられるような顔ではなく、社会に出るために化粧という手段で自身の顔に残るすべてをひた隠さなくてはならない。
彼が求めるシャープな印象を作るため、シェーディングを輪郭へのせる。強い女と思われることは好きではなかった。彼を求めて寄る女性たちは誰も可愛らしく幼い印象を抱かせる容姿をし、彼の好みで染め上げた私を骨董のように扱うのだから。もしかしたら可愛らしい彼女たちの誰かの手を、彼が取るかもしれない。漠然とした不安は常に傍に寄り沿っている。
けれど不安であることは彼に対して不誠実以外の何物でもない。馴染ませたコンシーラーをファンデーションの下にそっと隠す。クマも赤みも、ファンデーションを塗って実感する肌のくすみも、全て。その上からまたファンデーションでも隠すことができなかった粗を隠すため、パウダーをはたく。
昔はこの顔が嫌いだった。周りの子達は丸顔で愛嬌があるのに、私だけ面長で顔を構成する部品たちは大きさがまちまちだ。目の左右差も、鼻が少し大きいことも、笑うと歯茎が出てしまうことも、全部が気になって仕方が無かった時代がある。
化粧を覚え、まつ毛パーマを知り、少しずつではあるけれど自分の顔を構成するパーツたちを愛することができたように思う。それすらも、男のためという陳腐な言葉で処理されるけれど。私のためにしてきた行為が、他者によって私以外の誰かのための行為になってしまうのだ。
メイクブラシでアイシャドウをのせていく。二重幅にメタリックなオレンジブラウンの色を、そっと。上瞼と目の境が少しずつ彩られていく。アイホールとアイシャドウの境界を曖昧にぼかす。毛束の細いブラシへ持ち替え、下瞼の目じり側にラインを引くようにして同じ色を塗る。
アイブロウとして使うやや濃いブラウンのパウダーを、下瞼の際にのせていく。涙袋にゴールドを置き、黒目の上下にやや厚くラメを載せる。乾いた眼球が瞬きで少しだけ傷んだ。アイライナーを目じりに引き、ようやく目が生み出される。
平たいブラシでアイブロウを済ませる。鏡の向こうには、隙も可愛げもない女がいた。彼女は私をじっと見ている。紺色のドレスをまとって、黒く長い髪を垂らして、微笑んだ。
「嫌な顔」
それでも彼女は笑う。私はふいと目を背け、赤のルージュを重ねる。そうして深く深く呼吸をする。目を開けば鏡には私が映っていた。彼の求める、強い印象を与える女が。
じきに迎えのタクシーが来てしまう。彼のメッセージに返信を済ませ、ドレッサーの上に出された化粧品を片付けていく。リビングにある大きな窓からは、嫌なほど眩しい西日が射し込んでいた。思わず見惚れ、動きが止まる。部屋の隅々を染め上げる西日。
西日を受けて染まった雲の流れは速い。この風の強さならきっと夜は冷えるだろう。別室のウォークインクローゼットから大判ストールを取り出す。気に入っている胡粉色のストールを肩にかけた。
ハンドバッグに薄い財布とハンカチ、最低限の化粧道具を整頓して入れる。西日を遮るためにカーテンを閉じれば、室内は静まった黒のみで覆われた。スマートフォンは手に持ち、廊下へ進む。シルバーのハイヒールを履き、玄関を出る。エントランスには数組の親子が世間話をしている様子があった。
その横を通り過ぎ、停車しているタクシーへ向かう。外へ出るとひときわ強い風が吹き、髪が下から巻き上げられた。夕嵐。遠く夕暮れの中に靄がかかっている。乗り込んだタクシーに揺られるまま、靄が覆う街へと向かう。
—————
せきらん、あるいは、ゆうあらし。
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