複雑・ファジー小説
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- 七夜、八夜
- 日時: 2023/11/20 16:05
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: .tTl60oj)
画面を見て、動きがとまる。
そして僕は思った。
なんて馬鹿なことをしたのだろう、と。
□挨拶
浅葱といいます。
実質六年ぶりに当スレを動かしました。
ssを78作書くスレです。のんびり更新していきます。
□目次(6/78)
>>001 ⇒ からっぽらっぽ
>>002 ⇒ 金魚は円周率をおぼえることが出来るか?
>>003 ⇒ 僕らつぶ色の日々を過ごす
>>004 ⇒ 公園のあの子
>>005 ⇒ 紫煙に揺らるる
>>006 ⇒ あまいあめ
>>009 ⇒ 告白
□開始日20160822
- Re: 七夜、八夜【SS】 4/78 ( No.5 )
- 日時: 2017/08/26 11:11
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: wGslLelu)
■紫煙に揺らるる
彼女はいつも甘い香りを纏っていた。血のように鮮やかなドレスはおおきく胸元が開き、豊満な胸があらわになっている。美しくくびれた体のフォルムを見せつけるかのようなドレスに、会場中の男が目を奪われていた。
私は良くも悪くも平凡な顔立ちであるので、彼女が嬉しそうに駆け寄ってきたのを、少し疎ましくさえ感じてしまう。彼女は私と青春を捨て合った仲だった。今はどこかの大きな会社の役員と結婚し、こうして大きなパーティを催している。
「あら、久しぶりね。楽しんでる?」
「いいや、今楽しみが終わったよ。君が私の元に来ては、他の参加者がつまらないだろうに」
甘いにおいが鼻腔をいっぱいにし、先程まで口にしていたワインの香りが遠のいていく。彼女は、いつもそうだ。素晴らしい体験を、経験を、瞬間を、何よりも早く奪い去っていく。
彼女は気がついていないようであるが、それはたしかに私の心を締め付け、失われた時間を取り戻そうと躍起にさせた。彼女が気が付かない原因は、私にもある。だからこそ、私と彼女は上手くいっていたのではないかとさえ思う。
「別に私が知ってる人ばかりじゃないわよ。ほとんどがあの人の知り合いとか取引相手」
ボーイからシャンパンを二つもらいながら、つまらなさそうに彼女は言った。どこか恨めしそうな視線の先、会場の中央あたりでできた人だかりの真ん中に男はいる。
ふくよかな腹と頬だけで、男がどれだけ裕福な暮らしをしているかが分かった。彼女は卑下して役員というが、実際には御曹司てある。
「いい玉の輿じゃないか。私といるより、はるかに安定してる」
「もう……そうでもないわ」
人工的に作られた鮮やかな赤が、結ばれた。何かを考える時、彼女は口をゆるく結び、今のように私の顔をじっと見る。言葉を選ぶのが下手な彼女には、常人よりも長い時間を与えなくてはならない。
慣れない生活、理解されない気持ち。そんななんてことないものに、彼女は押し潰されかけているのだろう。
「……子供の予定はあるのかい?」
果実の甘味を飲み下し、彼女に声をかける。驚いた顔をした彼女だったが、すぐに自嘲しているような笑みを浮かべた。私は頷く。私たちの間に、余計な言葉は要らない。
今の旦那に呼ばれた彼女は名残惜しそうに微笑んだ後、大きな和の中に溶け込んでいった。まざまざと突き付けられる現実は、いとも容易く私達の過去を塗り潰していく。
やるせない気持ちを埋めるために食事を楽しみ、慣れたリップサービスをしていれば、パーティーは終わりに差し掛かっていた。最後に食べたショコラの心地よい苦味。
彼女の夫が両手を広げて話すのを無視し、一足先に外へと出た。冷たい夜風はパーティで火照った体に、心地の良さをもたらす。呼ばれると思っていなかった場に呼ばれたこと、美しい彼女の姿を見てしまったこと。そのどれもが、私を浮き足立たせる要因だった。
彼女が子供を産めない体にあることが、唯一の救いだった。彼女の中から出てくる、意思を持つ動物は見たくない。それがたとえ彼女にとって絶望の淵に立つような辛苦の原因であったとしても、私が最後に一つ、彼女に出来た孝行だった。
アルコールで火照った体が、また、内から熱を産んだ気がする。思えば、彼女との出会いは必然で、別れは偶然の産物だったのだろう。大きな川沿いにあるベンチの一つに腰掛け、葉巻に火をつける。彼女とは違う、違和感の残る甘い匂いが、周囲に広がる。
暗闇に揺蕩う灰色の煙が、雲を醸しているかのように感じてしまう。外は雲一つない好天で、大きく欠けた月が夜道をうっすらと照らす。その光が私の前ではぼんやりと色味を失い、雲の中に消えてしまった。
昔彼女が愛した味を。
(嗜むつもりは無かったんだけどな)
葉巻独特の香りと共に吸い込まれる甘い匂い。吐き出した煙も、独りでに揺蕩う煙も、その全てが甘い。葉巻を吸うことは、彼女と別れてから一度もなかった。そもそもが、彼女に勧められてから吸い始めただけで、出会わなければ吸うこともなかっただろう。
甘い匂いを吸い込む度に、彼女の事が思い出されていく。初めて会ったのは、いつだったか。たしか父が仕事の同僚と飲みに行き、意気投合してからだったはずだ。彼女は親に連れられて、寒い冬の日に私の家へと招待された。透き通るほど美しいブロンドの髪に、雪が積もっていたのを覚えている。その瞬間に、彼女に惚れてしまったことも。
それからは週に何度も手紙のやり取りをした。好きなもの、好きな遊び、学校での愚痴。そんな他愛もない話から彼女を知っていく体験の一つ一つが、子供心に幸せだった。彼女の事を、私が一番知っているとさえ思ってしまうほどに。
別れたのは、いつだっただろう。私が州立大学に入り、私立大学に彼女が入学した時だったか。肌を重ね合わすことがなくなり、そうして、全てが終わった。最後に肌を重ねた日の、彼女の涙。罪悪感と切なさから逃げるようにその場から消えた私を、一体どんな気持ちで彼女は見ていたのだろう。
既に知ることは出来ない彼女の気持ちすら、今の私を惑わせる。
- Re: 七夜、八夜【SS】 5/78 ( No.6 )
- 日時: 2022/06/05 21:13
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: EPsFuHPE)
【あまいあめ】
梅雨前線は数日停滞する予想です。近隣の住民の方は雨による土砂災害や、浸水などにも注意してお過ごしください。また、所によってはゲリラ豪雨による水害も起こる可能性がありますから、気をつけてください。それでは、いってらっしゃい!
朝、カーテンを開けても日差しは入らず、厚い雲が下がり、外は薄暗い。目と鼻の先に見えるだだっ広い海からの吹き荒ぶ風が、街路樹を左右に揺する。枝が数本アスファルトに落ちていた。天気予報が終わったら学校へ行こう。そう思っていたけれど、そう思うのは学生として一般的なことなのだけれど、ソファに沈みこんだ体は動きそうもない。
本州よりも遅く訪れる、梅雨と呼んで良いのか分からない雨の日々。この地域には梅雨がない。どれだけ強い雨が降ろうとその雨が水害をもたらそうとも、梅雨のせいで、なんて強がりを言うことすら許されていないのだ。梅雨入り速報にも無縁で、その後発表される梅雨明け宣言も遠い他人の話。
ソファに沈んだまま、ぐしゃぐしゃのブランケットに身を包み、天気予報後のニュースを流し見る。その全てが、私には関係の無い話題だった。怨恨による殺人、若者にお金を騙し取られたおばあちゃん、梅雨が明けた地域では夏が訪れて、大粒の雨に打たれるサラリーマンの群れ。モノトーンの花々に時折混ざる鮮やかな花が、皆一様に駅を目指して進んでいた。
「行きたくないなぁ、学校なんて」
行かないといけないのだ、学校には。テレビ画面の左上、時刻が五十五分になったら家を出よう。タイムリミットが少しずつ近づく。ああ、行きたくない。雨が降っていること、風が強いこと。また、あの子に会わなくちゃいけないこと。
「時刻は五十五分になりました。ここからは地元、札幌のスイーツ特しゅ」
華やかな衣装のアナウンサーの笑顔に嫌気が差し、テレビを消す。私がこんなにも陰鬱とした気持ちでいることも知らないで。仕方なく体を起こし、昨日には準備し終えたリュックに腕を通して、事前に防水スプレーを噴霧していたスニーカーを履く。
普段よりも随分近くに降りてきた雲は、ジャンプして手を伸ばせば届いてしまうんじゃないか。雲に掴まって、そのまま風に吹かれて、私を遠くに運んでくれやしないだろうか。
ありえない空想ばかりが浮かんで、消えて。ドアノブに手をかけ、大きく息を吸い込む。行かなくてはならないから、それだけの使命感で外へ踏み出す。
「うわ」
レインコートを着てくるべきだったかもしれない。制服のせいで防御力の低い足下はびしょぬれ。傘を差すが風に煽られるせいで、から傘オバケのように歩くしかない。そうしたところで無駄ではあるのだけれど、少しだけでもこの雨風に抵抗する。
足下を見ながら歩けばいったいどのから出てきたのか問いたいほどのイトミミズが、久々の雨に喜んでいた。中には踏み潰されたかわいそうな個体もいる。踏んでしまわないようにつま先立ちをして、早く安全地帯に、と学校を目指す。早く学校に着いてしまいたい。独特な雨のにおい。私の嫌いなものだ。
「おはよう、芽衣(メイ)。来ないかと思ったよ」
「おはよ。私も来たくなかったよ」
濡れたソックスが上履きの中で蒸れる不快感。かたい生地のセーラー服も湿り、言い難い気持ち悪さがある。不機嫌さを隠せず、リュックを置いた机が大きく音を立てた。瞬間的に静まった教室内は、またすぐ、さざ波のように騒がしくなり始める。そんな様子を友人の間中三郷(マナカ ミサト)が笑う。彼女は快活で、カラッと笑う。私が口に出す世の中の不平不満も、気まぐれな愚痴も、全て笑ってくれる。
同調せず、共感せず、後腐れもないようなあっさりした関係を築くことができる彼女は、本当に同じ中学生なのだろうかと疑問に感じることもある。けれど確かに彼女は、私と同じ市立緑陵中学校の三年生。小学校から一緒に過ごしてきた三郷は、間違いなく同級生だった。アイドルとジャニーズが好きな、かわいい人。
挨拶を交わしたあと、彼女は別のクラスメイトと談笑する。ああ、なんてまばゆい人だろう。
国語の先生が朗読している間も、数学の問題を解き、保健体育で男子がひそひそ話をしている時も、その片隅に雨音がいた。和気藹々と過ごすことができていた給食の時間は、黙食が始まったことで自宅と変わらない寂しい時間になった。味のしない食事をどうにか飲みこみ、残った時間は頬杖をついて外を眺めるしか、やることがない。
ただ、黙食を、と言われながらも、小さな囁き声は聞こえてくる。中には三郷の声があり、私の耳は雨音よりもしっかりとその声を拾っていた。三郷は友達をつくる才能をもっていた。解消されない不快さが残る幼心が、三郷の笑い声に刺激され、劣情でじとじとと湿り気を帯びていく。
午後の授業はひとつも集中できないまま、放課のチャイムが鳴った。
「芽衣、一緒に帰ろ〜」
「うん。また濡れるの嫌だね」
「ふふ。もう今年も雨の時季だもんね。今日もあたしの家来るでしょ? お母さん迎えに来てくれてるはずだから、乗ってって」
誘われるがまま、まだ湿ったスニーカーに履き替える。風は朝よりも落ち着いたようで、満開に咲いた色とりどりの花が校門に向かって進む。その群れにならって傘を差す。安っぽいビニール傘の私とは違い、三郷の傘は大きなマーガレットが描かれた淡い水色の傘を広げた。
「あの車だよ」
靴が水溜まりに入り、水滴が跳ねる。きゃあ。楽しそうな声を上げて、三郷の母が運転する車に向かう。大きくてきれいな黒いワゴン車。私たちを見て自動で開いた扉からは、優しい柑橘系の香りがした。助手席に座った三郷が手櫛で髪を梳けば、嫌いな雨の隙間から石鹸の香りが広がった。
三郷の家は私の家からそう遠くない位置にある。専業主婦をしている三郷の母は、いつでも温かい作り立ての食事を私に振舞ってくれた。学校での出来事を楽しそうに話す三郷は、本当に家族に愛されているのだろう。三郷が両親と話す時に見せる笑顔は、アルバムの中で幼い私が浮かべていた笑みと変わりなかった。
「芽衣ちゃんのご両親もお仕事大変そうね。我が家でよければ、もうひとつの実家くらいの気持ちで過ごしてね」
「……ありがとうございます」
スカートがしわになりそうな程、強く握る。それはきっと他愛のない心配りだったのだろうけれど、迷惑だと言外に滲んでいるように感じられた。ごめんなさい、帰ってこない両親を家で待たなくて。きっと週に何度も遊びに来て、夜遅くまで居座る子供は不健全だろうし、何より家族の生活を邪魔する迷惑なものに他ならないはずだ。頭ではそう理解できるけれど、誘ってくれる三郷の優しさにつけこみたい。そんな弱さにすがっている。
いつも通り整頓された、かわいらしいパステルピンクと白を基調としたメルヘンな部屋。部屋の中央に置かれたピンク色のクッションの上が、私の定位置だった。三郷は私を気にせずに制服を脱ぐ。無駄な脂肪のない、日焼けを知らない白い肌。まだ幼子のように家族愛に守られた彼女には似合わない、レースがあしらわれた紺色のブラジャー。発育途上の小ぶりな胸を守るそれが、男を意識しているようで、淫猥に見えた。
「かわいいね、その下着」
男を誑かすことを目的としているようで、私は嫌いだけど。
「そうでしょ! 芽衣なら分かってくれると思ったんだよね〜! もう高校生にもなるんだからってお母さんと選んだんだ。芽衣に似合いそうなかわいいのもたくさんあったよ」
「ふうん、いいな。お母さんと行ったんだね」
「さすがにお父さんとは行けないからね。ね、高校入ってバイトしてさ、一緒にお揃いの下着とか買おうよ。ねっ?」
「うん、そうだね」
嫌味のない笑顔が私を見る。ちゃんと笑えていただろうか。学校では聞き役が多いせいか、三郷は言葉の泉からたくさんの話題を出し始める。私はそれを聞いて、時折「そうだね」「大変だったね」と愛想笑いを浮かべるのに徹した。
三郷のように心から楽しそうに笑って話を聞くだけの愛嬌はなく、気の利いた一言をかけられるわけでもなかった。一日の会話は三郷と三郷の両親とで、ほとんどが終わってしまう。自宅での会話は最低限のものばかり。最後に学校の話をしたのはいつだったか、思い出す方が難しい。
それからしばらく三郷の話を聞き、三郷の母が作った料理を食べる。給食と一緒で、いつも味がしない。小料理店を営むことができそうなほど見た目も彩やかな料理だけれど、母が置いてくれるウィンナーと目玉焼きに勝るものはなかった。お腹は満ちていくのに、深い無力感にも似た虚無は心を空っぽにしていく。
それでも美味しい美味しいと笑顔で食事を摂る三郷を見習い、満面の笑みを浮かべて見せた。満足そうな三郷の母の姿に、ばれないように息を吐く。失礼な子だと思われないように、空っぽの心がばれないように、がんじがらめの戒めで守る。そうしないと幸せな光景に心が壊れてしまいそうだった。
食後、母からの連絡を待つ時間を、三郷の部屋で過ごす。父は夜遅くまで働いているせいで、ここ数日見ていない。母と少しは会えるけれど、疲れた顔に、私の話を聞いてほしいなど言えるはずもなかった。それでも、明日は一緒に過ごせるだろうか。
「そうだ、明日もくる? 何しよっか明日は」
時刻は既に二十時を超えた。三郷にとって、今日という日はもう終わるのだろう。私にとってはまだ終わらない夜だけれど。
「明日かぁ。お母さん早く帰ってきてくれると思うんだよね」
「あっ、明日誕生日だもんね」
私の誕生日を覚えていてくれたことに、少しだけ心が温まる。誕生日かぁ、いいなぁ。ベッドに座りクッションを抱えた三郷は、体を左右に揺らす。私はぎこちない笑顔を隠すことができなかった。誕生日なんていいものじゃないよと、三郷には言えなかった。三郷の気持ちを、私なんかが無碍にしてはいけない。
「駅の近くにできたケーキ屋さん美味しかったから、芽衣ママにお願いしてみたら? すごいんだよ、クリームふわっふわで、すっごく甘くて美味しいの」
三郷からのプレゼンテーションに耳を傾け、何度か頷く。多忙な両親も私が産まれた日くらいは少し早く帰ってきて、一緒に食卓を囲み、おやすみを言い合って――なんてきっと無理だろうけれど。
時計が二十時半を過ぎた頃、母から連絡が来たと階下から声がした。大好きな親友から解放される。胸に充満した重たい空気を絞り出すために、大きく深呼吸をした。夜道は危ないからと送ってくれた三郷の母に頭を下げ、真っ暗な自宅へ戻る。雨はいっそう勢いを強くし、時折遠くで雷鳴が響いた。
玄関扉を施錠し、まっすぐ向かった脱衣所で制服を脱ぐ。湿気でベタつく肌が嫌で、シャワーを浴びたくて仕方がなかった。
浴室の鏡に晒された私の肢体は、三郷のようなしなやかなものではなく、むっちりとして幼児を彷彿とさせる。ぽこんと出た下腹部と、スポーツブラで間に合う小さな胸。せめて女の子らしくありたいと伸ばした黒髪。そのどれもがアンバランスで、三郷との違いに苦しさすら感じた。
もっとかわいければ両親は帰ってきてくれるのだろうか。いや、そんなことはないだろうな。目を閉じて髪を洗う。
留守番を任されるようになったのは、小学二年生頃からだった。初めは、怖さもあったが、何より頼られる嬉しさと使命感に突き動かされていたのを覚えている。けれど少しずつ両親のいない時間が増え、家庭よりも仕事を優先したいだけだったのだと気が付いた。
私だって三郷のように甘えたい。家にいて話を聞いてほしい。仕事よりも大切な存在だと抱きしめてほしい。両親と過ごした最後の誕生日は、一体いつの事だったか。私の誕生日を覚えてくれているのかさえ、私には分からない。
「なにが、ケーキをお願いしたら、よ」
良いよね、買ってもらえる子は。良いよね、家に親がいて、愛されて、優先されているのだから。
汚い感情が、深く底の見えない悲しさを伴って私の中身を満たしていく。温かなシャワーは、溢れた涙を隠すことしかできなかった。
よれよれの半袖に、小学生の頃から愛用しているショートパンツを履き、ソファに座る。時刻はもう、帰ってきて一時間以上経過していた。テーブルに置いていた連絡用のスマートフォンには、早くても二十三時になりそうと両親からメッセージが入っている。
ゴオ、とひときわ強い風が吹く。窓に叩きつけられる雨粒が、心細さを強めていく。きっとこの風に乗って遠くを目指しても、私は途中で落ちてしまう。この世界で私は負け組なんだ、三郷と違って。
冷えたブランケットを肩にかける。部屋の電気を付けないままで、目を閉じて、雨音に耳を傾ける。ああどうか。どうかこの心細さも、三郷への劣情も、雨が溶かして流してくれますように。
*
雑談スレの某企画に投稿したものです。
- Re: 七夜、八夜 ( No.7 )
- 日時: 2022/06/09 21:23
- 名前: 緑川蓮 ◆vcRbhehpKE (ID: hi4BpH9d)
緑川蓮と申します。こんにちは。
なんて改まって挨拶をしましたが今更かな~ッて感じはしつつ。
最新分まで読了致しました。浅葱さんの素晴らしく洗練された文章はすでに馴染み深く感じます。一方で何度読んでも、色褪せない鮮やかな情景が浮かぶ。
今作の短編集も、浅葱さんにしか出せない切ない読後感を存分に堪能致しました。個人的には『公園のあの子』が好みですが、『紫煙に揺らるる』も「浅葱さん、こういう表現の幅も持っているのか……!」と目新しくて唸りました。
目新しいと言えば『僕らつぶ色の日々を過ごす』も、他の作品に比べると爽やかさが全面に出ていて、際立って居たかも。好きな爽快感です。
総評すると全部好きですね。今後も浅葱さんの作品を読んでいきたいですね。応援しております。
- Re: 七夜、八夜 ( No.8 )
- 日時: 2022/06/18 14:41
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: NeElsyZE)
観想いただいていたことに気づいていましたが、お返事遅れちゃいました許して。
読み返したけど、拙いなりに面白い短編ばっかりあるね。当時からssの方が好きだったことが伺い知れちゃうわね……。
めっきりくらーいじめーっとした話しばっかり書いているんだけれど、昔は明るい話を書いていたんだなって浅葱も驚きです。文章量の少なさで、不得意分野ってことは丸わかりですが。書いててとっても楽しかった思い出があります。いえい。
わあい。褒められるのとっても嬉しいです。浅葱も浅葱の作品を読みたいし、それ以上に紫電スパイダーも楽しみだしで、大変今後が楽しくてしょうがないです。
感想ありがとうございました。
- Re: 七夜、八夜 ( No.9 )
- 日時: 2023/11/20 16:22
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: .tTl60oj)
女はさめざめ涙を流しながら部屋の中央に置かれた椅子に腰を下ろしていた。脂をたっぷりと蓄えた黒く長い髪の毛は、蛍光灯の光を受け、てらてらと不純な照りを見せつけている。
四畳半ほどの狭い個室、ただただ嗚咽する女の声が満ちていく様は、情のない相手とはいえ胸を重たくさせるものだ。
「私、私……!」
誰も声を上げぬまま数分か、もしくは数十分が経ち、痺れを切らしたように女が声を出した。それをテーブル越しに白髪頭の初老の男が仏のような笑みで聴く。話を強要することはせず、ただ微笑みを湛えて女を見ていた。
「わ、私じゃ……私じゃないんです! 本当なんです、わっ私じゃないの! 本当なの!」
机の上に拳を置いて、震える体をずいと男へ寄せるが、すぐに何かに気づいた面持ちで今度は小さく縮こまる。
女は、何も言わぬ男が付けていた記名章を盗み見て「違うんです、大鳥さん……」と縋るような目をしてみせた。顔を伏し、上目で大鳥に視線を送る。大鳥はただ笑みを浮かべるばかりだ。
「私っ、普通に夜勤をしていただけなんです! い、いつもみたく十六時から日勤の申し送りを聞いて、それでっ、それで、ちゃんと仕事をしてて」
女は落ち着きなく部屋の隅々に目線をやり、これまでの経過をつらつらと述べ始める。曰く、零時まで働いた後で帰らなくてはと思い、冷気が溢れる黒黒とした夜道を一筋の光で裂き進んだとのことだ。
「帰ったけど、でも、仮眠休憩だけど仕事だからって急いで戻ったんです……」
口籠った女は、肩を落として憔悴しきった様子を見せる。落ち着きなく視線を泳がせ、机の下できつく握った両の拳はカタカタと震えていた。
また職場に参じた女は手にキャリーケースを持っていたと話す。それが今何処にあるのかも分からないと言い、またはらはらと泣いてみせるのだ。
「他の看護婦仲間は何処にもいなくって、私しか……。それで、仮眠に入る前に、皆の顔を見ておかなくちゃといけないって」
そして女は黒黒とした閉鎖空間を光と共に巡見したらしい。次いで、恐ろしいものを思い出したのか、わっと声を出して両の手で顔を覆った。
またも枯れぬ涙を零し、数刻が経つ。女は顔を覆ったままで。
「みんなベッドに括りつけられて……。口を開けて廃人みたいで、そ、それで、た、たすっ助けないとって。真田先生を呼ばなきゃって。で、でも、先生が来るまでにやれることはやらないといけなくって……他の皆はいなくって、それで、それで」
皆のベッド柵も手袋もロープも、全部外して、隠したんです。
指を震わせるが、女の声は涙声ではなくなっていた。大鳥はそれでも黙って、ただ笑顔でいるのだ。涙で湿度の高まる空間は、教会の懺悔室ほど罪に苛まれてはいない。
女は己の手掌に視線をやり、ぽつりぽつりと思いおこした記憶を話す。
「私、皆を助けようとしたのに、誰も動いて逃げようとしなくって……。う、動けないんだって思って、ベッドの背もたれを上げていったんです。だ、だって、起き上がるのに手助けがいるんだと思ったから」
寝たきりで延命の人が多いから、どうにかしないとって。そう続けた女の表情が、うすらと緩む。恍惚としたように、ぼおっと遠くを見つめているような目を大鳥に向けた。
「みんなの身体を上げた後に、私、二階の当直室に呼ばれたんです。――胸がどくんってなって、行かなくちゃならなかったの」
口元で両手を握り、愛おしそうに笑む。その手に頬を寄せるようにして、恥ずかしげもなく頬を赤らめる。
大鳥の視線を受けて尚、惚けた女は「先生は優しくて……。やだ、こんな時なのに」と、膝をすり合わせ身を捩って見せた。女としての悦び。身体をくねらせ、大鳥の眼前に座るものは紛う事なき女であると主張する。
「そ、それで、私は真田センセとほんの少しだけ、一緒に過ごして、急いで戻ったんです」
悦に浸った表情の女の口調は自信にあふれたようだった。得体のしれぬ何かに怯える様子は失せ、ただ、女としての愉悦と矜持が残っている。
「戻ったら、そこに寝ているはずの人がいなくて、私、必死になって探したんです。でも、いなくって、病室から出られる人じゃないのに」
突然目を開き、何か言いたそうに口を開くが言葉が出ない様子だ。女の目線は、ずっと笑みを湛える大鳥に注がれる。
「私じゃないんです!」
目を見開き、金切り声を上げ、女は立ちあがった。――かと思えば床にへなへなと座り込み、己の殻に閉じこもるかのように細い腕で自身を抱くのだ。
開いた目からはぼろぼろと涙がこぼれ、白い塩ビタイルが濡れていく。唇を震わせて、違う、違うと呪文のように繰り返すのだ。まるで懺悔室となってしまったこの四畳半の空間は、大鳥の赦しを希う女の色に侵食されている。
「も……も、戻ったら、一人がベッドから落ちてたんです……。アラームがずっと鳴ってて、何だろうって見に行ったら動かなくて、ね、寝てるんだと思ったんです」
走り回った犬のように息を荒げ、苦しそうに胸元で硬く拳を握り、女は身体を震わせた。大鳥は表情も態度も、その一つすら変えることは無く、女の後頭部しか見えぬ空間にも笑みを見せる。
女は己の見た恐怖を受容するため、干天に晒されたかのように乾いた喉へ、粘稠ねんちゅう度の高い唾液を送り込んでいた。
「でも起こしたらだらんってしてて、首が……く、首が変な方に曲がってたんです」
女の耳には人工呼吸器の接続不良アラームが残る。物言わぬ死人に代わり、その苦しさを告げる機械音が。
耳を塞ぎ、頭が床に着くほどに身体を折り曲げ、室外にも聞こえるほどに叫ぶ。女の周りには何もいないというのに、机の脚に腕がぶつかる事も気にせず「来ないで! やめて!」と必死に叫ぶのだ、女は。
「お巡りさん信じて! 私は本当にやってないの! 嘘じゃないのよ!!」
半狂乱し「信じて」「やめて!」と叫ぶ女が普通ではないことは明らかであった。大鳥は貼り付けた笑みのまま、右手を上げて室外へ合図を送る。
白衣を着た数人の男が入って来たかと思えば、未だ床に座り込んで叫ぶ女を手際よく拘束し、連行していく。つんと鼻に刺さるアンモニアの臭い。
淡黄色の液体と涙で濡れた床を男の一人が環境清拭ワイプで清拭をして、女を追って足早に部屋を後にする。
大鳥が笑顔を崩さぬまま女がいた空間を見ていれば、羆を思わせるほど大きな体躯をした男がやってくる。先程の男らと同様に白衣を纏って。
「いやあ、助かりました。警察を呼べと言われたら従うしかないですから、すみません」
「ははは。何も気にしないでくれていいさ。いやはや知ってはいたけど、真田くん、君たちも大変だね」
大鳥は人間らしく快活に笑い、真田に座るよう促した。椅子の座面から臀部の半分近くがはみ出ているが、真田は気にせずに腰掛ける。
たっぷりと蓄えた顎の肉が三重にもなった真田は、ありがとうございます、と会釈をする。それは愛嬌もある仕草であり、大鳥もどこか満足そうに笑うのだ。
「まあ今はあれで済んでるけど少し面倒くさくなりそうだから、セレネース一アンプル生食百で溶いて時間かけて投与していいよ。少しどろっとするくらいで管理しよう」
「分かりました。すみません休日に、院長先生のお手を煩わせてしまって」
「いやいや良いんだ。彼女は私の担当患者だからね」
「三浦さん、最近落ち着いていたんですけどね」
部屋の隅に取り付けられた監視カメラで、真田は三浦と大鳥の様子をすべて見ていた。少しずつ錯乱し、失禁するまでの女の姿を。
「とはいってもね、僕たちと彼女らは同じ世界を生きているようで見えている世界は違うんだ」
「本当にそうですね」
大鳥は朗らかに笑む。
「警察を呼べと叫ぶ人がいたら、僕のことを呼んでくれていいからね。本当に警察が介入するような事案になってしまったら、僕たちが咎められてしまうんだから」
「……そうですね」
真田の記憶には過鎮静となり息を引き取った患者や、強い暴力性を持つ患者が抑制され言葉すら発せなくなった姿がある。精神疾患は臭いもの同様蓋をして管理する。
精神症状の増悪がないよう鎮静下で管理され、容易に抑制をされ、人間らしさを失った患者ばかりがここにいた。
「身寄りがない人間を受け入れるなんて、医療職として正しい奉仕活動のように見えるけどね。僕は精神障害者と生活保護受給者が嫌いなんだよ。分かるかな」
真田は曖昧に返すのみであったが、大鳥は反応を期待しているわけではないようだった。どこか満足そうに数回頷き、笑い皺が深く刻まれた眼で真田を見る。
「自分を看護師だと思い込んだ精神患者により、一人の尊い命が散った。僕たちはその間、隔離室で患者の対応に当たっていた。いいね?」
「……はい」
「医療安全に提出する書類は僕が作っておくから、あとは任せるよ」
大鳥が立ち上がったのを見て、真田はその後に続く様に大きな身体を揺らす。エレベーターに乗り込んだ大鳥はまた笑顔を見せた。
「彼女も看護師になりたいって夢を叶えられて良かったんじゃないか」
閉じた扉を前に、爪が食い込むほどに拳を握る他真田にできることはなかった。
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