複雑・ファジー小説

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日時: 2017/11/09 22:30
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: mWBabtxN)
参照: https://kakuyomu.jp/works/1177354054882859776

タテナオシマス

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.7 )
日時: 2017/03/25 11:40
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: 0L8qbQbH)

六:水薬

 くるくると白いツツジの花を指で弄び、一方ではずり落ちかけた怪我人を度々担ぎ直し、他方では街中に伸びる石畳の道を複雑に折れ曲がりながら進む。異形の物と人一人、何とも奇妙な道行きにも思えるが、物が人の身を得るこの世界ではとりたてて珍しいものでもない。
 ただ一つ。この世界の住人でも見ることの少ないであろう光景は、担がれている探照灯の重傷ぶりである。街の外に身を置いて“粗悪品”と戦う以上、手傷を負うことは稀ではないが、気を失うほどに手酷くやられたことなど今までに数度もなかった。
 しかし、それでも、驚きを以て迎えぬ物が一人。スペクトラが案内の末にその扉を叩いた白い建物——古い医院の長である。くたびれた白衣を無造作に羽織った、四十代後半と思しき男の頭は、液体とヤナギの枝葉が入った茶色い薬瓶に成り代わっていた。
 寝台の上に伏臥させられた探照灯、その背の傷を検め、一通りの処置を施して、医師は処置室から隣の診察室へと戻る。木の引き戸がガラガラと喧しい音を立て、スペクトラと見知らぬ男女が顔を上げた。うち一人、少女の顔には深い疲労の色が見える。
 しかし、彼は一度それを見逃した。引かれたままの椅子にゆっくりと腰掛け、つい先程診察した探照灯の容態を告げる。

「とりあえず残っていた異物は取って消毒しておいた。まあ、人の身の傷で物が死ぬことはないから、そこは心配しなくてもいいだろう。——ただやっぱり、損傷が酷いね。アーミラリならそれでも一時間で治るんだろうが、彼はそうも行くまいよ」
「どの程度掛かりそうですか?」
「二日……いや三日。勘を戻す時間が要る」

 今までが戦い漬けだった、人の身の感覚を忘れていることも良くある、と。医師は当たり前のことのように言い放ち、ぎしりと椅子に背を預けた。意識の向く先がスペクトラからアザレアとキーンへに変わる。そのことに気付いたのだろう、二人もまた彼を見た。
 アザレアの方は小さく会釈。彼にとって見覚えのない少女であるが、どう言った用件で此処へ来たかはそれとなく分かった。かけるための言葉を慎重に選びながら、医師も頭を下げ返す。男の方がすぐさま自分から興味を失ったことにやや引っ掛かりを覚えるも、まずは少女と話すのが先だった。

「私はファーマシー。この医院を経営している医師だ。貴方は私の見覚えにないが、物殺しかな」
「はい。アザレアと言います」
「アザレア、ね。悪くない名前だ」

 少女が口にした名が偽物であることはすぐに察しがついた。
 その手に持っていた白い花が、まさに同じ名を持つものであると知っていたからということもあるし、何より彼女は物殺しであることを否定しなかったのだ。それは即ち、彼女が異世界から招かれた客人であることと、生ける物がある意味で敵対者であることの証左である。
 そう、物殺しにとって、生ける物とはその命を還すべき敵に他ならない。だからこそ、物殺しが真の名を物に預けるのは稀な行為である。ファーマシーの知る限り、本名を名乗った物殺しは一人。それも、物殺しとしての仕事を完遂出来ずに心身を傷だらけにされた挙句、“粗悪品”によって殺されてしまった、いつかの哀れな少年だけだ。
 然るにアザレアは気丈である。手にした花の瑞々しさからして、通り名を決めたのはかなり直近のことなのだろう。しかし、彼女はそれを迷いなく自分のものとして提示してきたのだ。状況の荒波に揉まれ、尚立っていられるだけの堅牢な精神力を持っていると言えた。
 つらつらと過去を思い返すファーマシー。長い沈黙の後、彼はアザレアへ続ける。

「招かれたばかりで疲れただろう。空いている部屋を一つ貸してあげるから、今日はもう休むといい」
「良いんですか?」
「構わないさ。どうせ今日のようなことが無ければ呑気な町医者だ」

 一晩の宿。それは良い。しかし夜が明けた後の処遇について、医師は口にしなかった。語らぬ裏にどんな事情があるのか、知らずとも予想することは出来る。アザレアはただ頭を下げ、のろのろと億劫そうに立ち上がった。続けてキーンが腰を上げる。
 此処でようやく、ファーマシーは男の素性について尋ねる気になったらしい。椅子に座り直し、一言だけ問いかける。貴方は、と。
 対するキーンは、いつもの如く名前だけ放り投げようとして、何か思い直したらしい。少々思案する素振りを見せたかと思うと、おもむろに向き直り、きちんと文言を並べた。

「ケイ。彼女の付き人として、アーミラリに“起こされた”物だ」
「嗚呼、道理で落ち着いていると思った。それに戦闘慣れしている」
「包丁だからな」

 包丁だからの一言で片付けられるものではないだろう、とファーマシーは一笑。対するキーンの返答は、棘を含んだ沈黙である。不用意に立ち入って良いことは何もないと、殺気じみた威圧感が物語っていた。アザレアはいちいち剣呑な態度を取る付き人が心配らしい、はらはらした表情で彼を見ている。
 いたいけな少女を無駄に不安がらせるのも良くないことだ。分かっている、少し試しただけだ、と彼に背を向けながら答えると、威圧感はふっと緩んだ。足音も遠ざかっていく。
 二階の廊下の突き当たって右だからね、と空き部屋の場所を教え、それに対するアザレアのか細い返答は軽く聞き流した。その後落ちてきた静謐は、払わずその場に積もらせていく。診察室へ残ったのはスペクトラとファーマシーのみだ。
 は、と小さな溜息が一つ。堪えに堪えていたものを緩めたような、苦痛を交えた吐息を、この静寂の中、医師の耳が聞き逃すはずもない。傍の机に転がっていたペンを取り、同じく机に散らばっていた白紙に素早く何かを書き留めながら、水薬は首を巡らせてかの方へ意識を向ける。

「随分な我慢じゃないか。初対面の二人相手に恰好を付けたつもりかね」
「そうとも言うんですかね。いつか俺を殺しに来るであろう物殺しに、最初から舐められたくなかったんです」
「最初から、か。殺されるつもりはあるんだね」

 小さく点頭。椅子を立ち、歩み寄ってきた医師へ、スペクトラは掠れた声で呟く。

「アザレアは大佐も——フリッカーも殺さねばならないと直感しています。百余年の戦場を生き延びてきたあの彼をも。ただの女の子が経験する波乱としては十分すぎると思いませんか」
「彼女の障害になりたくないんだな」
「俺は物殺しに元の世界へ無事に帰って欲しいと思っています。いつでも。あの子が“粗悪品”に解体された後は、より強く」

 絞り出すような声音は、決して痛みや疲労からくるものばかりではない。
 チカリと、一瞬だけ照明が点滅した。

「アザレアは先の暴徒とは違う。俺達とも違う。元の世界に希望も未来も、生きる目的も残してきているはずです。それを俺達の都合で剥奪していいわけがないでしょう? もし彼女の帰り道に俺がいるのなら、手助けはすれど邪魔にはなりたくない」
「その割に付き人へは刃を向けたようじゃないか。その首の痣は何だね」

 医師の鋭い切り返しに、思わず黙り込んだ。
 首に痣が残っている。それはつまり、それだけの力で目一杯締め上げられていたことと同値だ。恐らく彼の態度からして、望めば首の骨を枯れ木の如くへし折ることすら出来たのだろう。ケイと名乗ったかの男、その膂力と静かな殺意に、スペクトラは改めて慄然とする。
 “粗悪品”によって傷付けられた左腕を強く抑えながら、彼は自嘲気味に笑った。

「単なる自惚れです」
「そうか。……とりあえず、傷を見せてくれるかな」

 明言は避ける。要らないとも言うだろう。
 異世界の夜はしじまの内に過ぎてゆく。

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.8 )
日時: 2017/03/26 04:24
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: 0L8qbQbH)

七:戦友

「……肩が痛ぇ」

 ファーマシーの見立てより、少し遅く。二日目の朝に、探照灯——もといフリッカーは目を覚ました。
 うつ伏せのまま二日。無論床ずれ防止の為に何度か動かされてはいるものの、それでもかなりの長時間を不自然な恰好で過ごした人の身は彼方此方がガタついている。背の傷は痕も残さず癒えているが、フリッカーはそれでも、自身の上体を起こすことに難儀した。
 軋む関節を叱咤し、倦怠感の残る筋肉に喝を入れて、尚五分。大怪我から立ち直った人の身としては大変早いほうだが、彼自身の体感としてはかなり遅い。もたもたせざるを得ない肉体に湧きたつ苛立ちを丁寧に隠しながら、フリッカーは周囲を見回す。
 ぎしぎしとスプリングの五月蠅い寝台、古いが清潔感のある白い床と壁、少しだけ開けられたガラス窓と、入り込む風に揺れるレースのカーテン。寝台横に設えられた小さなテーブルの上では、ジャム瓶に活けられた白いガーベラが一輪、微かな風に揺れている。辺りに人や物はない。
 馴染みのある医院の病室であることを確かめたフリッカーは、何とはなしに一輪挿しのガーベラへ手を伸ばした。武骨な太い指が花に添えられ、瓶から引っこ抜く。少しでも力を入れたなら容易に握り潰せるであろう儚さは、それが安っぽい造花でないことの証左である。

「花屋は殺されてるんだが」

 独りごちてガーベラをジャム瓶に残し、彼は寝台からゆっくりと立ち上がった。服は着ているが、意識を失う直前までの分厚い軍服ではなく、着脱のしやすい丸襟のシャツとズボンに変わっている。固い軍靴など当然履いている訳もなく、素足に古ぼけたスリッパを突っ掛けた。
 ぱたぱたと間抜けた足音に、がらがらと喧しい引き戸の音。古い医院の廊下だけによく響く。癖で左右を警戒しつつ、そっと廊下へ出た。がらんとして、無人である。ファーマシーの医院が忙しい所を彼は見たことがない。“粗悪品”に襲われる心配がないからだ。その点は彼の誇りだった。
 白紙のネームプレートを掲げる病室を横目に、階段を下りる。三階へ上がれば屋上に出られるが、上がったところでどうせ誰も居ない。大量のシーツとタオルが揺れているだけの虚しい空間である。ならば、医局に顔を出してちょっかいを掛ける方が彼には面白く思えた。
 リノリウムの打たれた階段を下り、右折。すぐそこが医局である。

「ファーム。いるか?」
「おはようフリック。だがもう八時だ。生活習慣が弛んでいるんじゃないか」

 四方の内二方の壁が取り払われ、受付用の机と本棚が間仕切りの代役を務める、半開放的な空間。その一番奥にファーマシーはいる。昼間であれば診察室にいるが、朝方は昨日のうちに溜まった仕事を片付けるために此処で釘付けになっているのだ。無二の友人の行動は理解していた。
 一方のファーマシーも、行動派な大佐の習性は良く知っている。突然上がった声にも動ずることなく、彼は溜まったカルテの山や領収書の確認を進めながら軽口を叩いた。まさか、とフリッカーも肩を軽く竦め、勝手に医局の中へ入ってくる。付き合いの長い彼なればこその非常識であろう。
 歩きながら室内を物色し、手頃な椅子を引き寄せて腰掛ける。ぎぃい、と強く軋る椅子に構わず、探照灯は首を傾げた。

「あの包丁と物殺しは何処行った? 俺が此処にいるってこた、多分空き部屋貸したんだろ」
「ケイとアザレアなら、今シズの店に行っているよ」
「シズの?……まあ、あの薄っぺらな服じゃやりにくいわな。ついでに聞くが、俺の服どうした」
「ズボンはともかく、シャツは破棄したよ。血液と土埃と鉄錆びで汚染された衣類なんか保管するわけがない」

 さらりと当たり前のように告げる医師。姿勢としては何ら間違っていない。それだけに反論の余地はなく、フリッカーはもごもごと口の奥で曖昧な文句を呟くばかりだ。
 手動のシュレッダーへ要らないメモを飲み込ませるファーマシー。薬瓶に半分ほど満たされた水薬が、ごぽりと大きな気泡を上げる。乱れる水面をじっと見るフリッカーに、医師の問いかけはか細い。

「追いかけるのかい、二人を」
「まあな。安心しろ、殺される気はねぇが殺す気もない」

 飄々とした語り口。饒舌だが、感情の奥底は友人としての付き合いを以てしても読み切れない。
 低く唸りながら、ファーマシーは立てた親指を自身の左胸に突き立てた。

「貴方の心臓を抉りだしてくるかもしれない子だよ」
「構うかよ。物に還る時と場所は俺の意志が決める。俺の敵味方になる相手も俺が決める。“俺”として決定した初めての行動だ。ちっぽけな刃に破られるほど柔弱なもんじゃねぇ。……呪いなんだよ、ある意味な」
「呪いか」

 言い得て妙だ。ファーマシーは笑った。寂しそうに。
 頭の悪い俺なりに頑張って捻ったんだ。フリッカーも小さく笑声を零す。
 くすくすと微かな声は、次の瞬間はたと止んだ。

「それとなファーム。“粗悪品”に殺される人間を見るのは、もう御免だ。あいつが“粗悪品”相手にもまともに戦えるようになるまで、少なくとも俺は死なんしあいつも死なせんよ。仮令人の身を砕かれても」
「……分かるさ」

 水薬は呻く。
 百余年“粗悪品”との戦闘に明け暮れ、人の身の感覚を忘れかけても尚人の身を以て戦場に在り続け、それでも眼前で罪なき人間が殺された事実。それは、万能薬と信奉されながら無数の死を見、命を得た今ですら数多の人を看取る彼と、やっていることは違えど確かに重なっている。
 思わず握り潰しそうになった竹軸の万年筆を机に横倒し、その手でコツコツと薬瓶の茶色いガラスを叩きながら、苦悶の声を絞り出した。

「分かるよ、フレデリック。良く分かる……」
「あんたは特にな、フェリックス」

 フレデリックと、フェリックス。
 それぞれフリッカーとファーマシーの本名である。互いに真の名を預け合い、呼び合うことに全く抵抗を覚えないほどの深い付き合い——その年月は容易に想像しがたくとも、壮絶な背景があることだけは確かだ。微かに震える医師の肩と、それを叩く力強い腕が物語っている。
 重苦しさの内に、フリッカーはファーマシーの傍を離れる。その背に頭を伏せながら上げられた声は、それでも次の瞬間には平静を取り繕っていた。

「外套はスティンに何とか染み抜きさせた。靴は来賓用の靴箱に入れてある。大事なものだろう?」
「ん。助かった」

 返答は短い。それでも彼なりに感謝はしている。
 戦友の後ろ姿が取り払われなかった壁の向こうに消え、正面玄関のガラス戸を開けて出ていくまで、医師は俯いていた。探照灯は無言を貫く水薬の悲愴な空気を感じながらも、声はかけない。下手な慰めは余計に心を抉る。身を以て知っているからこそ、言葉は選んでも出さなかった。
 古い医院である。見舞客用の出入り口のドアは錆びが浮き、開け閉めする度にキイキイと耳障りな悲鳴を上げた。しかし意に介さず、フリッカーは外へと歩み出た。歩くにも億劫だった身体はそれなりに元の調子を取り戻しつつある。だが走るには怠い。
 だから、歩いた。のんびりと。今まで自身が背にしてきた街の中を。自身がその魂すら賭けて守り抜いた街を。

「静かなんだよな」

 静謐の中にフリッカーの声だけが落ちる。
 街の朝は遅い。時に昼からしか活気は出ない。生ける物ばかりが寄り添って暮らすこの街は、あくせくと働いて経済を回す必要が特にないからだ。いざとなれば、人の身は滋養を得ずとも生きていられる。物たちが求めるのは、もっぱら人の身の感覚を再認識し、摩耗する精神を充填するための嗜好品だった。
 フリッカーはとりわけ人間の嗜好品を好む一人だった。歩きながら早くもそわそわとして、ズボンのポケットをまさぐる。果たして求めるものは、尻ポケットに突っ込まれていた。
 煙草と、マッチ。本来禁煙であるはずの医院では見ない品物である。それでもあるのは、ファーマシーが気を利かせたのだろうか。とにかく煙草を手に入れた彼は、そそくさと一本を引き出し、くしゃくしゃになった本体を真っ直ぐに伸ばした。
 右手の中指と人差し指に煙草を挟んだまま、箱からマッチを一本。側薬に頭を擦り付け、点いた火を煙草の先に移す。用済みの燃えカスは、多少の逡巡の後、箱と共に元の場所へ押し込んだ。
 紫煙が空へ立ち昇り、消えてゆく。探照灯の何処から空気が出入りしているは分からないが、とにかく人間のような呼吸を意識すれば、先の火はより赤く輝いたし煙は息を吹き掛けたように揺らいだ。そして独特の強い香りは、戦いに塗れてささくれた意識へと染み入り、人の身と物の認識とを結び付けてゆく。
 これは最早、依存と言われても仕方がないだろう。フリッカーは人の身であることを自分自身で確かめられない。その為の手段を、彼は喪失していた。

「……シズの店は禁煙だったっけ」

 小さな喫茶店の前で、ふと立ち止まる。意識が向くのは、ドアの前に立てかけられた「喫煙席あります」の札。玩具や女性向けの家具が生を享けると、その物は極端に煙草を嫌うことがあるのだ。喫煙者はこの街ですら排斥される運命にある。
 一方で、シズの店——仕立て屋の禁煙事情は、喫茶店のそれとは少々異なる。煙草の煙が布地を痛めるからというものであった。煙風情で、と嗤うことは、フリッカーには出来ない。硝煙漂う戦火と修羅場を潜り抜けてきた、探照灯には。
 故に、彼は煙草を素手で握り潰した。先に灯っていたままの火が手を焼くが、無視できる範疇の傷だ。煙まで潰え去ったことを確認した彼はきょろきょろと周囲へ意識を飛ばすと、空っぽのごみ箱に吸殻を払い落し、すぐ先の仕立て屋へと足先を向けた。

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.9 )
日時: 2017/03/29 09:15
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: 0L8qbQbH)

八:仕立て屋

 茶色い煉瓦の二階建て、打ち付けられているのは『TAYLOR SISS&PINS』と金文字で書かれた黒い看板。特徴的な緑青色の屋根を頂く建物が、フリッカーの目的地である。閉じ切られ、窓にチェック柄のカーテンが引かれた扉のノブには、『準備中』と掛かれたシンプルな札が下がっていた。
 フリッカーは試しに取っ手へ手を掛ける。奇妙なことに鍵は掛かっていない。そのまま引き開けると、カラカラと低くドアベルの音が響いた。蝶番が微かに軋り、僅かに重く澱んだ空気が間から流れ出す。やはり無言のまま、彼は大きく扉を引き開け、中へ身体を滑らせた。
 まず目に付くのは、部屋の両側に設えられた大きな棚と、その中に収められた様々な布や糸。店の奥には高さのある樫の作業台が置かれ、その天板には一定間隔で線が引かれている。備えられたペン立てには羽ペンや長い定規が立てられ、傍らには三角形の白い蝋版数個と型紙が放り出されていた。
 作業台から向こうには、埃避けの布が被せられたトルソーや様々な色の糸を収めたガラスケース、ボタンを収納しているであろう抽斗が腰を据えている。更に奥の扉は注文客以外立ち入り禁止の区画だ。
 違和感。店員がいない。普段であれば最低でも一人は作業台の傍にいるはずだが、今日に限っては何処にも姿が見えなかった。掛札を下げているからとは言え、不用心が過ぎる。フリッカーはおもむろに作業台へ片手をつくと、その奥の閉ざされた扉へ向かって声を投げた。

「シズ、シズー。扉が開いてんぞー」
「あー、またやっちゃった。ちょっと今手が離せないから、閉めといてくれるー?」

 危機感の欠片もない返答である。これで良からぬ物であったら、声の主——シズは一体どうするつもりだったのだろうか。責めつけたい気持ちを押さえながら、フリッカーは扉のサムターンを回して鍵を閉める。シズは相変わらず出てくる気配がない。
 再び作業台へ片手をつき、閉めたぞ、と一声。気の抜けたシズの声が投げ返され、それきり沈黙が漂う。

「シズ、俺も客なんだけど」
「え、あ、そうなの? じゃあ入っておいでよ。多分知ってるお客さんも一緒だよー」
「あのなぁ……」

 もし泥棒や強盗だったらどうする気だったのか。そう言いかけて、止めた。
 街に住む物に他を疑えと言う方が難しい話なのだ。街の外に身を置く探照灯と、街の中で安穏としている物たちとの間には、埋められないほど深い認識の差違がある。そこに気付けないほど彼は愚かではないし、気付いた上でやれと強いるほど無理解でもない。
 分かった、と気のない返事を代わりに投げて、彼は作業台の脇を回り込むと、分厚い樫の扉をそっと押し開けた。途端に漂う、ほんの微かな木犀の香りに首を捻りつつも、中へ足を踏み入れる。
 小ぢんまりとした部屋だった。左右の壁に一つずつ置かれた机は、それぞれこの店に常駐している裁断士と縫製士のものだろう。片や書きかけのデザイン画やとりどりの画材が机の上に散乱し、片やアンティークな足踏みミシンが鎮座している。工程の全てが手作業、昔ながらの仕立て屋だ。
 そんな工房の主——シズは、しかし存外に若い男であった。

「アザレアちゃんとケイさんに話聞いたよー。シャツ捨てられちゃったんだって?」

 二十代後半と言った所だろうか。ツイル地の白シャツにぴしりと折り目のついた灰色のスラックスを合わせ、よく手入れされた焦げ茶色の革靴を履いている。襟をくつろげた首にメジャーを掛けているのが、何とも仕立て屋らしいと言うべきか。
 頭は古い裁ち鋏。鍛造されたものであろう、持ち手まで鋼で出来たそれは、刃先を下に向ける形で首から上に突き立っている。しかし、その刃が布を断つ用を成すことは最早出来ないだろう。鋏は細長い麻布でぐるぐる巻きにされ、硬く戒められているのだった。
 そんなシズのすぐ近く。やや緊張した面持ちで棒立ちになり、肩にメジャーを当てられている少女が一人。アザレアである。フリッカーは彼女の通り名を知らないが、シズの付けた人称からして彼女がそうなのだろうと、ぼんやり察することは出来た。
 それ故に、慌ても驚きもしない。肩を竦め、シズの問いに答えるばかりだ。

「寝てる間に患者の服捨てるたァとんでもねぇヤブ医者だぜ。訴えてやろうか」
「あはは、ファーマシーさんらしいやねー。オーダーは前と一緒でいいのかな?」
「嗚呼、大丈夫だ。それ以外知らんけどな」

 再び笑声。折角だから他の生地でも作ってみないか、と冗談半分な提案を断りながら、尻ポケットに突っ込んだ煙草とライターを取り出そうとして、止める。喫煙厳禁の場であることをうっかり忘れていたのだ。咄嗟に腰を叩いた探照灯へ、シズは疑問符一つ。
 何か言いかけて、小さく首を横に振る。裁ち鋏の興味はそれきり探照灯から離れ、華奢な少女の採寸に集中した。フリッカーの方も、場に出しかけた言葉を掘り起こそうとはせず、閉じた扉へそっと寄り掛かり、裁断士の仕事ぶりへと意識を向ける。
 人の身の齢は若いが、彼を動かすのは肉体の経験ではない。頭である裁ち鋏に染みついた、所有者の意志と記憶だ。手際よく進められていく採寸は、彼が熟練した者の手で使われていたのだと思わせる。服飾分野に疎い彼ですら、シズの要領の良さは見て取れた。
 見ている前であっと言う間に採寸を終え、シャツの胸ポケットに忍ばせていたメモ帳へ素早く書き留めて、シズはアザレアの肩を叩く。楽しみにしておいてね、との言葉に頭を下げた少女は、外へ辞そうと扉に足を向けかけて、はたと止まった。
 鳶色の双眸。僅かにつり目がちの眼が、扉に寄りかかる探照灯をただじっと凝視する。しかしお互いに敵意はなく、膠着はすぐに崩れた。

「そう言えば、お名前言ってませんでした。アザレアです」
「フリッカーだ。“粗悪品”に襲われたのは災難だったな」
「いいえ。あの時はお世話になりました」

 苦々しさを隠すことは出来なかったが、それでも笑顔を作る。その笑みに彼が一体何を思ったか、彼女には読み取れない。ただ、そうか、と無感情な一言を放り、扉から背を離したフリッカーの横へ、扉を開けるべくアザレアは歩み寄った。途端、武骨な手が華奢な肩を掴む。
 ぎょっとして見上げた先、首から上に鎮座する探照灯はアザレアの方を見てはいなかった。言葉だけがその矛先として向いているばかりだ。

「明日……いや明後日の夜、街の外に来な。同じ場所だ」
「一昨日言っていたことですか?」
「察しがいいじゃねぇの。そう言うこった」

 最後まで視線は合わない。フリッカーは黙って肩から手を離し、アザレアはそのまま扉を引き開けて部屋を辞した。
 少女の瞳が向く先は、作業台の傍に並ぶトルソーの陰。気配を消し、物音一つも立てることなく、キーンはそこに腕を組んで立っていた。アザレアが彼に気付けたのは、キーンが彼女を見た瞬間に動き出したことと、最初から立つ位置を知っていたからに他ならない。
 裏を返せば、それは知らされなかった物全てが誰も気付けなかったことの証拠でもあるだろう。かのフリッカーでさえ、すぐ傍に居るにもかかわらず見逃しているのだ。
 にわかに増えた気配をドア越しに背に感じながら、フリッカーは肩を竦めた。

「気になってたんだが、さっきから花の匂いがするのは何だ?」
「木犀ね。アザレアちゃんがくれたんだよー。「練習用に作ったけど、捨てるのはもったいないから」ってさ」

 いいでしょ、花屋が物殺しに還されて以来だ、と嬉しそうに一笑。
 しかし、すぐに首を傾げる。

「でもさ、“案内人特権”で貰って嬉しい力じゃないと思うんだよねー。アーミラリさんって物殺しの役に立つ力をくれるんじゃないっけ?」

 語尾を上げながら、シズは部屋の隅をちらりと一瞥した。
 ミシン糸や布見本を収納した洋箪笥の上、細長いガラスの花瓶に、たっぷりと白い花を咲かせた銀木犀の枝が一本活けてある。随分と時季外れの一輪挿しであるが、見ていて気分の悪いものでは決してない。少なくとも、街の外で迎える朝の景色よりは何倍もまともだ。
 脳裏を掠めた情景——ぐずぐずに崩れた肉と鉄屑の山を心中で払い消しつつ、探照灯は呟いた。

「掃き溜めに花ってことかね?」
「それ言うなら鶴じゃない?」
「うるせ」

 いいんだどっちでも。いやよくない。
 無意味で平和な応酬が続く。

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.10 )
日時: 2017/03/29 09:23
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: 0L8qbQbH)

九:裁ち鋏/針山

 緑青色の屋根を頂く煉瓦の建物。シズの仕立て屋である。
 『営業中』の掛札が下がった扉を開ければ、奥の作業台でカーキ色の布地に蝋板(チャコ)を引くシズの姿があった。作業に集中すると周囲が見えなくなる性質なのか、からからと乾いた音を立てるドアベルの音に顔を上げることはない。
 後ろ手にドアを閉め、左右に並ぶ棚を何とはなしに見て回る。平たい紙芯に巻き取られ、色や材質ごとに整頓された布の束はいかにも高級そうだ。しかし、真に値打ちのある布が店頭に置かれることはない。見本の一つ——或いは、物好きが自分で仕立てるための材料——として客が手に取れるのは、あくまで大衆品である。
 作業台の傍まで歩み寄る。裁断に集中しているのだろう、手元を覗き込んでも注意を向けさえせず、チャコで印をつけた布へ縦横無尽に裁ち鋏を走らせている。分厚い布の上を、まるで撫でるかのように刃が滑っていく様は、シズの技量と鋏の切れ味の良さを伺わせた。
 裁断が終わるまでに、およそ一分半。恐るべき手際である。言葉もなく見入る内に、どうやらシズの集中は途切れたらしい。用を成した裁ち鋏を柔らかい布で磨きながら、はたと布地から意識を離した彼は、傍に突っ立っていた者を見て驚きの声を上げた。

「うわっ! い、いつからそこに」
「へっ!? あっ、いや! さっきです!」

 動揺の一声に慌てふためく人間の少女、もといアザレア。彼女は初日に着ていた薄いパーカーではなく、春物のニットワンピースと黒いタイツ、そしてブーツと言った出で立ちだった。部屋着とスリッパのままで女の子を歩かせるわけにはいかない、そう主張して、シズが仕立て屋で受注したものとは別に贈ったものである。
 きちんと着てくれていることを密かに喜びながら、シズは訪ねてきた少女へ用件を問うた。返ってきたのはやや困ったような笑みと言葉。

「特には無いんですけど、ファーマシーさんの所は何にもなくて。暇を潰せそうなお店もまだ開いていなかったので、此方に」
「あー、昼からしかお店が開いてないことも多いからねー。良いよ、しばらく居ちゃって。丁度妹が君の服を縫ってるところだから」

 裁ち鋏を抽斗の中へ丁寧に仕舞い、シズは自身の背後を指さした。いいんですか、と喜色を交えたアザレアの言葉に頷き、作業室の扉を押し開ける。促されて中へ入った彼女は、昨日は無人だった右の作業机に、一人の女性が向かっている様を見た。
 シズと同じくツイル地のブラウスにぴったりとフィットしたベスト、黒いスラックスに革靴。どうやら仕事着のようであるが、着ているブラウスは左腕の袖だけが明らかに短い。腕に針山を着ける際、邪魔にならぬようにとの配慮であろう。
 そして、物であるシズの妹である以上、彼女もまた生を享けた物。その首から上は、竹籠に入った針山に置き換わっている。頭の針山に刺さった針から垂れた糸の先には小さなビーズが光り、垂れ下がるリボン状の布には様々な柄の刺繍が入っていた。
 シズ達が入ってきた気配に気付いたか、彼女は手を止める。そして、自身の手元にある縫いかけの服とアザレアへ交互に意識を向け、小さく針山を傾けた。針に通された糸が揺れる。

「あなたがこの服を頼んだお人?」
「はい。アザレアです」
「素敵な名前ね。わたしはピンズ、この店の針子だわ」

 その場で小さく会釈するピンズへ、アザレアも頭を下げ返した。それ以上とりたてて会話することはなく、ゆっくりしていきなさいね、とだけ告げて、縫製士は作業へと戻ってゆく。一方のシズはと言えば、場の空気を掴みあぐねて立ち尽くした少女のために、店の表から椅子を一脚引っ張って戻ってきた。
 籐で編まれた椅子の座面にふかふかの座布団を敷き、その上にすとんとアザレアを降ろして、自身は作業室の更に奥へ。二階に繋がる階段を上がるシズへ、少女は戸惑いがちの視線を向ける。

「お店、大丈夫なんですか?」
「うん。だって表にケイさんがいるんでしょ?」
「いえ、今は……」

 刃物を扱う店に行っている、とアザレアからは一言。階段を上がりかけた足を止め、シズは束の間怪訝そうな空気を漂わせたものの、すぐにその気配を消して段に足を掛ける。かの包丁が刃物専門店に行くのなら、その理由は聞かずとも察せられることだった。
 店の方は心配しなくても大丈夫。自信満々に告げ、しかしやや足を早めて、彼は二階へと姿を消す。その姿を見送り、ぎぃと背凭れを軋ませたアザレアは、見るともなしにピンズの手仕事へ視線を送った。
 どうやら彼女も一度仕事に熱中すると周りを気にしなくなるタイプらしい。既にある程度の下準備が整えられた布地へ、丁寧に針を通していく。机のやや右に鎮座するミシンは、どうやら彼女の服を作るにあたっては用無しであるようだ。尤も、ピンズの縫製はミシンの如く早いし、針目もまた然り。ミシンはあくまで補助用か、急ぎ仕立ての時に使うものなのだろう。
 熟達した職人の手仕事は見ていて飽きない。いつの間にやらアザレアは戸惑いや緊張と言ったものをすっかり解き、肘掛に頬杖をついて、縫製士の手元を穴が開くほど見つめていた。
 そこへ、銀盆を片手にシズが戻ってくる。どうやら上の居住スペースで茶を入れていたらしい、とたとたと軽い音を立てて階段を下りてくると共に、部屋中へ紅茶の香りがたちこめた。作業に没頭しているピンズはそれでも俯いたままだが、アザレアの気を引くには十分だ。

「シズさん」
「お待たせー。ピンズの手仕事は見てて楽しい?」

 盆を机の上に置きつつ、シズの意識は隣のピンズへ。兄の視線にも関わらず、妹は運針に集中している。自身の方を見向きもしない彼女に、こりゃ駄目だとシズは肩を竦めて、自分も椅子へ腰掛けた。
 三人分用意したティーカップの内、二つにだけ紅茶を注ぎ、角砂糖を一つとミルクを少し。小さなスプーンで手早くかき混ぜ、一つはソーサーごとアザレアに手渡す。礼と共に受け取ったことを確かめると、自分も杯を手に取った。思わず、少女の視線が裁ち鋏の所作へ集中する。
 カップの縁を当てたのは、彼女から見れば鋏のカシメ辺り。どうやらその辺りが彼の思う口らしい。そのまま傾ければ無惨に零れるはずの紅茶は、しかし傾ける端から何処かに消えていった。一体何がどうなればそうなるかなど、最早彼さえも知らないだろう。
 ぱちくりと目を瞬きつつ、アザレアも紅茶を一口。良い茶葉を使っているのだろう、芳醇な香りが鼻に抜ける。濃い目に入れてあるにもかかわらず苦味は薄く、飲みやすい。厚くもてなされているのが身に染みた。
 二口。喉を潤し、決意するように口を開く。

「シズさん、一つ伺っても」
「んー? ぼくに答えられることならね」
「……殺されてくださいって言ったら、どうしますか?」

 ぴたり、と。ピンズの手が止まる。しかし、意識はアザレアに向かない。作業が止まったのも一瞬で、物殺しが気付く前に作業は再開する。
 一方のシズはと言えば、大変あっけらかんとしたものだ。くい、と軽く紅茶の杯を傾けて、小さく笑いながら返答した。

「棺桶一杯にアマリリスを敷き詰めておくれ」

 今度はアザレアが固まる番だ。一瞬呆気にとられたような顔をしたかと思うと、彼女は信じられないと言った表情で彼を見た。
 それで良いのか。震えた声。ソーサーに紅茶のカップを置きながら、裁ち鋏は答える。

「ぼくねぇ、前の持ち主がすごい腕のいい仕立て屋の家系だったの。最後の所有者はそう——キリッとしたきみとは似ても似つかない、ふっくらした女性でね。ぼくのことは中学校の頃から使ってた。お婆ちゃんから貰った裁ち鋏だって言って、お店を継いだ後もずっとずっと」
「……でも」
「うん、ぼくが命を貰った時にこうしたの。どしてか分かる?」

 刃に巻き付けられた麻布を突き、語尾を上げて放り投げられた声へ、アザレアは首を横に振った。しかしその表情は暗い。
 正確を期すならば、シズの言いたいことを察することは出来た。己の記憶にも、本来そう使うべきでない道具をそう使ってしまった者がいたからだ。しかし、未だ癒えぬ心の傷を抉ってまで口に出す勇気を、少女はまだ持っていない。
 裁ち鋏は彼女の心中に勘付いていただろう。ほんの微かに雰囲気が揺れ動く。けれども、声は温和に、泰然としていた。

「ぼくねぇ、その子のこと殺してるの。その子、ぼくを振り回して家族を全員突き殺して、最後に自分の喉突き刺して死んじゃった」
「どう……して」
「言わせる気?」

 物殺しの追及を諫める、ぴしゃりとした声は女性のもの。ピンズだった。
 針山の頭は机の方へ向けられ、アザレアを見てはいない。ただただ、縫いかけのシャツの上で握りしめられた手の震えだけが、声音からは読み取り切れない激しさを語っている。
 だが。シズはかぶりを振った。喋らせてくれと。

「限界だって。自分は頑張っているのに誰からも認めてもらえない、なのにお母さんもお父さんもお兄さんも自分を追い越していく、人から認められる素晴らしいものを作ってしまう。比べられて嗤われるのが辛いって。——それじゃ、物殺しさん。一つ考えてみよっか」

 色を少し変え、無理やりにトーンを明るくした声で。
 彼は綴る。自身に待ち受けるであろう未来を。

「生ける物は所有者の意志を自分のアイデンティティのように思って生きる。アーミラリさんからはそう聞いてるはず。これはつまり、ぼくたちは所有者の在り方を模倣して生きていることでもある。……所有者は才能のない努力家だった」

 刹那の静謐。
 続く声は、強い諦観と苦悶の色が滲んだ。

「ぼくは、この城を預かる裁断士だ」

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.11 )
日時: 2017/04/04 18:35
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: 0L8qbQbH)

十:緒戦-1

 日が沈んでも、街の活気はしばらく続く。嗜好品を売る店が賑わいだすのだ。立ち並ぶ街頭の下では生ける物たちが往来し、様々な佇まいを見せる酒場へ出入りしている。そこに疲労や絶望と言った、酒場へ入るときに纏いがちな感情は含まれていない。要素がないからだった。
 陽気さや呑気さを一杯に湛えた夜。その賑々しさの中へ、アザレアはひょっこり顔を出す。
 結局、彼女はシズの仕立て屋に夜まで腰を据えていた。本当ならば殺されてくれと尋ねた後ですぐ出るはずが、あろうことか当の本人に引き留められたのである。やや大きなサイズの外套を手にした彼は、それを強引にアザレアへ着せたかと思うと、その場で丈を詰め直したのだ。
 サイズ直しされたダッフルコートの裾を意味もなく弄りながら、視線は自分の背後。見送りに来たのだろう、傍に立っていたシズがひらひらと手を振る。それでも中々外に出ようとしないアザレアへ、彼は寸秒何か考える素振りを見せたかと思うと、はたと自分の手を打った。

「急場しのぎの直しでごめんねー! でも、女の子がワンピース一枚で出るには寒いと思ってさ!」

 シズの気遣いは斜め上の方向に飛んでいった。
 湿っぽい話を吹っ掛けられるのだろうとばかり思い、身構えていたアザレアは、先刻の話などまるで無かったかのような口調と話題に目を瞬く。出てきたのは、困惑と微かな呆れの混ざり合う溜息だった。

「大丈夫ですけど、あの——」
「……気にしないで」

 声が微かに震えている。けれど、そこに滲む感情が何かは分からない。それは彼の隠し方が上手いわけではなく、単に読み取り手が物の感情を読む術に習熟していないだけの話だ。もし此処に他の物がいたのなら、シズが含ませた色を見ていただろう。
 しかし、そうした状況が都合よく訪れるわけもなく。アザレアは後ろ髪を引かれる思いを残しつつも、言葉を額面通りに受け取って街路へと足を踏み出す。丁寧に頭を下げた裁断士を、彼女が見ることはなかった。
 夕闇の迫る街路を、物殺しは歩く。街の外へ向かって。

「すみません、フリッカーさんからお話を聞いていると思うんですが」
「おお、物殺しの嬢さんかね。ほほほ、可愛らしい恰好でまあ」

 目的地へ辿り着くまでに、そう時間は掛からない。
 荒野の中に砦を成すのは、赤く焼成された煉瓦。ぐるりと円形に街を囲む壁を貫き、その内外を貫く内の一つに、何処か知らぬ遠方へ伸びた鉄道の駅がある。彼女が足を向けた先は、まさにその駅。何故か駅名は何処にも書かれていない。
 小さな駅舎には老人が一人。一昔前の鉄道員の服を纏い、蒸気機関車の一両目——ボイラー室から運転席までの辺りまで——を人頭大に圧縮したものが頭に成り代わっている。頭の機関車は、一見すると精巧なレプリカのようにも見えるが、そこかしこに付いた煤や傷が単なる玩具でないらしいことを想起させた。
 ゆったりと煙管をくゆらせながら、老人は煙突から煤混じりの煙を上げて笑う。

「ま、あやつが女子(おなご)に無茶をさせるとは思わんよ。安心して行ってくるが良かろ。ほれ、そこの柵から向こうだて」
「ありがとうございます」

 丁寧に頭を下げ、アザレアは老駅長の前を過ぎる。
 そこで、ふと足を止めた。振り返る。泣きそうな顔に、駅長の意識がその方で止まった。

「ここの物は、皆私のような人を知ってるんですね」
「うん?……うん。ま、知らんとことはなかろ。此処に住んでおるのは大体長く生きてきた物だて、物殺しを何度も見とるのは多いな」
「殺されることに抵抗はあるんでしょうか」
「さてなぁ、儂はある物もない物も同じように見てきた。長く生きた物は大抵諦めが良いのが多い。だが長く生きんでも諦めのいい奴はおる。生きれば生きるほど頑なになる物もあろうて」
「貴方は?」

 黙り込む。そこに答えはない。
 故に言葉を待つ。果たして答えは、煤と煙の内に返ってきた。

「儂ァまだ死にとうないわ。これでも大佐より物としちゃ年下だで」
「そうですか。——ありがとう。ええと」
「キップじゃよ」
「キップさん。会えたら、また」

 問うべきを問い、アザレアは微笑。会釈して離れゆく少女へ、キップは返事のように煙突から黒煙を噴き出しつつ、シッシと振り払うように手を動かした。早く行け、としわがれた声が続く。声からは炭の焦げるにおいがした。
 示された柵へ向かって歩きながら、アザレアは何とはなしに線路を見る。敷設されたレールは、街の中百メートルを真っ直ぐ突っ切った所で折り曲げられ、車止めが設置されていた。終点である。路線で言えば始発駅なのかもしれないが、ひどく寂れた雰囲気は終点と言う方がしっくり来た。
 何処から何が来て、何を載せてゆくのか。ぼんやりと物思いながら、柵を超えた。

「結構早かったな」
「シズさんの所にずっと居たんです。コートを貰っちゃって」
「あいつ気に入った相手にやたらサービスしたがるからな。だがよ、もうちっと遊んでも良かったんだぜ?」
「まだ街の中を一人で歩き回る勇気は出ないです」

 街の外は一面の荒野。人どころか草木も生えない中で、長身の男三人を探すことは容易い。高い壁に寄りかかり、思い思いに時間を潰していた彼等の元へと走ったアザレアは、からかうようなフリッカーの言葉に小さく肩を竦めた。
 がしゃん。白熱灯を点灯せず、ブラインドを一度開閉。何かを言いかけて止めたらしい、そのままふいとそっぽを向いた探照灯と入れ替わりに、隣のキーンが壁から背を離す。その動作に視線を向けたアザレアは、キーンの頭である包丁をまじまじと見て、怪訝そうに眼を細めた。
 違和感——ぎらついた包丁の刃に、革の鞘(シース)が取り付けられていたのだ。包丁全体をすっぽりと隠すものではないが、刃の部分を包むように焦げ茶色の革が覆い、ベルトで留められていた。

「ケイさん、頭のそれは?」
「鞘だ。刀身を剥き出したまま歩くな、刃だけでも覆っておけ、と。……アザレア、これを」

 感触に慣れないのか、しきりに左手で革の鞘を撫で付けながら、右手はアザレアに何かを差し出してくる。受け取れ、と不愛想に続いた言葉に従ってみれば、掌大のナイフが一本。鞘にぴったりと収まったそれを両手に収め、アザレアをキーンを見上げた。
 これが武器なのか。てらいのない言葉で尋ねた彼女へ、キーンは是の意を示す。そしてゆっくりと彼女から距離を取った。
 空気が一変。害意はないが、ただ張り詰めていく。敢えて喩えるならば、何かの試験を受けているときのような緊張だ。実際、彼はアザレアをテストするつもりなのだろう。紡がれた言葉がそれを示している。

「試してみるか」
「少し、だけ」

 ゆっくりとアザレアは頷き、恐る恐る鞘からナイフを抜いた。
 否、と弱腰になって拒絶できる空気ではないし、彼女自身いつまでも状況に振り回されているほどか弱い小娘ではない。当人の気が進まずとも、やらねばならぬと言われたならばやってのけてしまうのが、このアザレアという少女であった。
 鞘を外套のポケットに押し込み、ナイフの柄を両手で握りしめる。切っ先が中々定まらない。手が震えているせいだった。自分の付き人たる物に刃を向けているのだから、ある程度は仕方のないことではあるが、キーンはそれを見咎める。
 落ち着け、と。凪の海のごとく静かな声だった。

「緊張しすぎるな。肩の力を抜いて、普通に立ってみろ」
「————」

 硬直している。声は聞こえているようだが、非日常的な物を握っていることが、心身の不一致を起こしていた。キーンは青い顔で立ち竦むアザレアを頭の上から爪先まで見回し、穏やかに声を上げる。
 ——息を吸って。 吐いて。もう一度。……それでいい。
 低い声に合わせ、深呼吸を数回。無意識の内に詰めていた息を吐き、アザレアは一度ぎゅっと目を閉じて、開くと同時に手の力を緩める。かたかたとランダムに揺れていた刃先が、完全にとは言わぬまでも、ひたりと静止した。
 ぎらつく刃先を心臓へ向け、よく似た怜悧さを鳶色の目にも光らせて、少女は男と対峙する。中々良い目をしている、と呟くフリッカーには目もくれない。意識は完全に付き人へと集中していた。
 横たわる静謐と緊張。
 打ち破るのは、少女から。

「……っ!」
「おっ、と」

 地面を蹴って一息に間合いを詰め、キーンの懐に入り込んで、掬い上げるように刃を喉元へ振り上げる。戦闘のせの字も知らなかった少女が、刃物を持っていの一番に狙う場所としては、かなり攻撃的と言えるだろう。
 思わず一声上げながら、しかし慌てることなく。キーンは素早く上体を逸らし、刃の軌道から自身を逃す。同時に右手を振り上げ、細い手首をがっちりと掴んだ。スペクトラの攻撃を止める膂力で掴まれた手は、太い首を切っ先に捉えたまま、しかし十センチ手前で止まる。
 再びの静謐が、数秒。
 ふっと、場に張り詰めていた緊迫の糸が切れた。

「筋は良い。だが、お前にスペクトラと同じことは出来ない」
「だって、人の身体をどうこうしても意味が無さそうだし……」
「アザレア。聞け」

 掴んだままの手首を解放し、キーンはその手でアザレアの肩を叩く。そのまま無言で身を屈め、頭をアザレアの耳の傍に寄せた。新品の革独特の臭いが鼻腔を突く。
 無知なる少女に、付き人は長く囁いた。


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