複雑・ファジー小説

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日時: 2017/11/09 22:30
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: mWBabtxN)
参照: https://kakuyomu.jp/works/1177354054882859776

タテナオシマス

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.2 )
日時: 2017/03/16 12:23
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: 0L8qbQbH)

一:包丁

 アーミラリの手に、包丁が一本。
 先程迷い込んできた少女が持ち込み、そして己の胸へと投げ付けられたあの一本だ。年季の入った古い包丁。研いだばかりなのだろう、鉄の刃は鈍く輝き、柄は使いこまれて黒ずんでいる。刃についた己が血は赤黒く固まり、指で拭えばぼろぼろと剥がれ落ちた。
 少女を現実(フィールド)へ放り出した後である。アーミラリの左胸に開いていた穴は早くも塞がり、動くに支障もない。服に血が付いていることを除けば、彼が先程包丁で刺されたとは誰も思わないだろう。意志を以て動く物は、人の身の傷で命を奪われることはないのだ。
 ぎらついた刃を眺めながら、思い返す。少女の前に此処へ招き寄せられた男。明らかに危険な色を秘めたかの男の様は、まさしく修羅であった。死なぬ人の身を滅多矢鱈に切り付け、突き刺し、切り開き——治るより早く肉を削り、骨を砕いた。男が立ち去った後には肉塊の如く切り裂かれ崩れた人の身が残った。
 嬲られる痛苦で心を折ることを選んだ人間は数おれど、それを最初から最後までやり通したのはかの男のみである。男の壮絶な旅路は、百を超える人を物へ還して終わった。元の世界へ戻った男は、この時の記憶を忘れて幸せに暮らしている。
 包丁を傍に置き、思い出す。最初に此処へ迷い込んできた老女。口の達者な女性だった。彼女は一人一人の元を回り、その生き様を知り、理解して尚根気強く言葉を重ねた。絶対に戻ると。親である娘を喪い、一人になった孫を守らねばならぬと。語らった後に人の身はなく、魂の抜けた物だけが残った。
 刃を取らぬと決めた人間は多い。一度の戦闘もなく、自前の弁舌のみを以て、物へ還ると決めさせた人間は、老女の他に三人いる。彼女はその最初の一人だった。彼女は五年の歳月を掛け、五十人と語らい世界から認められた。元の世界で彼女は育て上げた孫に看取られ、大往生を遂げている。
 他はどうか。一方的な殺戮であった。何処ぞかからチェーンソーだの芝刈り機だのを持ち出し、逃げ惑う物どもを手当たり次第に肉と無機物の塊へ変えていった者ら。吐き気のする殺戮の宴で、一体全体何人が血の海に沈んだかアーミラリは知らない。兎角夥しい量の命ある物を物に還し、彼等は帰っていった。何をしているのかは、気にしたくもない。

「あの子への付き人か……」

 惨劇を振り払い、アーミラリは思考に耽る。あの少女が——自棄を起こして己の胸に包丁を投げつけ、当たったと見るや心配して駆け寄ってくる彼女が、果たして今までの人々の如く振舞えるであろうか。
 否。答えを出すと同時に、チカチカと赤く光が明滅した。
 彼女はただの少女だ。生ける物を屈服させられるほどの暴力は持っていない。その上“案内人特権”と称して与えた能力は、確かに世界の理からはみ出したものではあるが、大したものではなかった。かの凄絶な修羅鬼の道を歩ませることは叶わないだろうし、それを彼女が望むとも思えない。
 特殊な精神構造や規格を持っているわけでもない。妹にはあれこれと情を抱いているようだが、それを糧にして立ち回るほど強いものではない。老女や法律家の如く在ることも、武器の性能に飽かせた殺戮の徒として振舞うことも難しいだろう。そも、言葉でかの者らの意志を枉げさせることがどれだけ難しいことか。アーミラリ自身が身を以て知っている。

「包丁、包丁ね」

 再び、彼は包丁を手に取った。使いこまれた包丁。家族のささやかな幸せとわがままの為に使われ、此処に来る直前までもその職務を忠実に果たしていた——刃。
 アーミラリは直感した。自身の前に包丁を横置きし、杖をついて立ち上がる。ぴしりと背を伸ばし、杖の先を軽く刃に触れさせて、彼は朗々と宣言した。あの子の道を拓く武器たれと。あの子に降りかかる火の粉あらば、それをあの子自身が払えるようにせよと。
 変化は唐突にして瞬時。カタカタと呼応するように包丁が揺れたかと思うと、無明の闇がその真下に凝り、ぬっと音もなく盛り上がった。何もかも吸い込みそうな黒は、背の高い人の形をまず外形だけなぞり、次いで服の形を浮かび上がらせ、細部の質感を再現し、最後に足先から色彩を模倣していく。
 アーミラリの頭の光が数度明滅した後に、包丁があった場所に立っていたのは、彼のものによく似たスーツを纏った男。アーミラリよりも随分と大柄な男の、その首から上は、あの使いこまれた包丁に置き換えられている。彼女が彼女の世界から持ち込んだ護身は、今此処に彼女から得た意志を以て、人の如き命を与えられたのであった。
 男は黙って小さく会釈する。ぎらついた刃は恐ろしく、男そのものの放つ雰囲気にも鋭利なものが感じられるが、その中には温和なものも混じっていた。かの少女が包丁を握っていた理由故のことであろう。アーミラリも気取った会釈を返し、命を得たばかりの物に語り掛ける。

「“起こして”すまなかったね。でも、君以外にあの子の刃(ぶき)になってくれるような奴が咄嗟に思い浮かばなくて。君ならあの子の事を良く知ってるだろうし、適任だろう」
「何でも構わない。どうせ俺は使われるだけの物だ」
「……そんなこと言ってからに。あの子を護れって呼びかけで起きて来られたんだから、大切には扱われていたんだろう」

 男は何も言わない。無駄なことを口にする気はないと、隙の一分もない佇まいが雄弁だった。
 どれほど少女が大事に丁寧に手入れを続けていようと、どれほど家族の為を思い愛情を注いで振るおうと、結局包丁なのである。命を傷つけ、奪い取り、加工する剣呑な道具であることには違いない。道具そのものとしての危うさが、そのまま彼のつっけんどんな性格でもあった。
 天球儀は少々首を傾げ、そして言葉を選び抜く。

「包丁ほど命を日常的に扱う道具は他にない。あの子に君の知っていることを教えておやり。作法も」
「分かった。……彼女は何処に?」
「もう現に送り出した。君もすぐに同じ所へ送るよ。——何、すぐ分かるさ。何だって君はあの子の道具だったものな」

 やはり男は無駄口を叩かない。最早、単に口下手なだけなのかもしれなかった。スーツのポケットに諸手を突っ込み、ただ静寂に身を任せる男へ、アーミラリは音もなく杖の先を向ける。虚空にぴたりと固定されたその先を人の身の心臓へ向けて、案内人は問うた。
 かの名を。少女にはついぞ聞くことのなかったことだった。

「君は君の名前をもう知っているはずだ。僕は案内人として、或いは君を起こした主として、それを知る必要がある」
「何故俺の元の主には聞かなかった?」
「彼女は違う世界の人間だ。そして名前は、意志を縛り付けて魂に意味を持たせる大事なもの。——信頼しているということだよ。彼女が自分で符丁を付けて、それに縛られると言うのなら、或いは別だけどね」

 なるほど、彼は真っ先に己の名を名乗っている。名が重要な意味を持つというならば、それを初対面の少女に躊躇いなく預けたということは、それは全面的な信用と信頼を意味する行為だ。彼女がそんな意図を汲んでいたかはともかく、アーミラリの信を疑う余地は無いだろう。
 そして今、彼は案内人として、何より自身の“親”として、親に対する信認を示せと男に迫っているのだった。それ自体は要求してしかるべき行為だろう。何しろ、子に名を与えない親も、親に名を預けない子もいない。
 男は更に少し考えて、小さくうなずいた。

「K……ケイだ」
「ふむ。君が知っていた名前じゃないね?」
「俺の我を作ったのは彼女だ。俺がまず親と認めるのは彼女を置いて他にない。俺が俺の知る全てを語るにも、彼女以外は認めない」

 されど貴方も親であることに違いなく、案内人を不認と言うわけにもいかない。それ故、名の一部だけを先に名乗る。先払いというものだ——冷めた声で男はきっぱりと宣言した。
 その考え方も一理あると、アーミラリは声に苦味を含めて笑う。誰に最も信頼を置き、その存在を託すか否かと選んで良いのは、その物の意志のみだ。そこは案内人の立場であっても踏み込んではならぬ領域である。好奇心の権化たるアーミラリであったが、立場には忠実だった。
 故に彼は首肯する。ケイの意志を尊重したのだ。

「それじゃ、行っておいで。君の認める親で、君が護るべき子の所に」
「当然」

 言葉の余韻を残して、ケイの姿が闇に溶け消えた。

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.3 )
日時: 2017/03/18 04:32
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: 0L8qbQbH)

二:探照灯

 暗闇が晴れて最初に見えたのは、見惚れるほどの星空。次いで乾いた砂利と、干からびて痩せた土地を割って伸びる健気な雑草。周囲を少し見回すと、少し離れた所に高い壁のようなものが見える。壁の奥に何が隠されているのかは分からないが、何か重要な施設であることは察せられた。
 荒野の中のオアシス。そんな表現が相応しい佇まいである。或いは、何らかの軍事的な拠点か。どちらにせよ、平和な島国から迷い込んだ身ではとんと見ることのない光景。漫画やゲームの中でしか見ないであろう、殺伐とした空気が彼女の前には広がっている。
 少女はきょろきょろと周囲をしばらく見回した後、その足先を迷いなく壁の方へと向けた。何しろ、地平線を遠く望むような荒野だ。何もない方へ歩いたところで何処にも辿り着けない。おまけに、彼女には身に着けた服とスリッパ以外何も、そう水や食料さえも、ないのだ。いかな生存の素人とは言え、そんな状況で地平線に向かって歩く愚は察し得た。
 歩きにくい室内用のスリッパを引っ掛け引っ掛かり、薄いパーカーのポケットに諸手を突っ込んで、高く上げていた髪は降ろし。露出はなるべく避けた。冬ほどではないが、風はそれなりに冷たい。フードを被って風を除け、それでも身震いしながら、少女はとぼとぼと道を行く。
 ——それから、三十分ほどであろうか。砂利と石ばかりの道に少女が飽き、また慣れぬ履物で歩き続けて疲労し始めた時分である。高い城壁が赤く焼成された煉瓦であると、暗い中でも分かる程度には接近も出来ていた。
 その彼女を、突如真正面から照らす光あり。咄嗟にその方へ向けた目は、向けられていた強烈な白熱灯の光に怯む。視界を灼く光に悲鳴を上げて座り込んだ少女の傍へ、砂利を蹴り立てる音が二つ近づいた。重い。男性のものである。
 まず一人。少女のすぐ傍で立ち止まった。微かな衣擦れの音に混じって、かちゃかちゃと硬い物のぶつかり合う音がする。微かな空気の流れ。傍に座り込んだらしい。低く穏やかな声が耳朶を打った。

「どうされました?」
「ぁ……眼、眼が」
「眼? 嗚呼——大丈夫ですよ。安静にしていれば直に良くなります」

 少しお待ちを。男声で告げ、再び空気が揺れ動く。その場にすくりと立ち上がった男は、大佐、と一言だけ声を張り上げた。分かってる、と暗きから嗄れ声が返答し、二人目の足音が少女の傍らに立ち止まる。眩しさの余韻と瞼裏の痛みに顔をしかめながら、それでも顔を上げた少女の視線の先には、無骨な体躯の男が一人。
 所謂軍人の類であろうか。厚手のシャツの袖を捲り、ズボンの裾を編み上げの軍靴に突っ込んで、肩には古ぼけた丈の長い外套を無造作に羽織っている。シャツの胸ポケットには色褪せた胸章が無造作に付けられ、片や腕章は新品のように鮮やかな色を保っていた。
 そして彼の頭は、例の如く人間ではない。首より上に鎮座するのは、古びた探照灯である。今は光を灯さぬレンズには大きなひびが入り、外装の塗装も所々がはげ落ちていた。激烈な戦いを潜り抜けてきたことを想起させる損傷具合だ。
 思えば、この探照灯を呼びつけた方はどうだ。傍で手を後ろに組んで立ち、周囲を警戒するすらりとしたシルエット。アーミラリよりも背の高い男。紺色の軍服をかっちりと身に纏い、スラックスの裾は軍靴に入れていない。黒革の艶やかさは足先だけが出るにとどまっている。肩には探照灯のそれと同じような型の外套を羽織り、腕章もよく似ていた。
 身体は人のものである。しかし、更に視線を上げた先にある頭は——案の定、物。パーライトと呼称される類の舞台照明だ。これはこれで別の意味での“激戦”を潜り抜けてきたのだろう、細長い銀の灯体の輝きは曇り、フレームは所々縁が欠けていた。しかし、その奥に据えられた凹面鏡の輝きはいささかも喪われていない。
 ——彼等も、殺すべき物なのだ。
 困惑と不安とで混乱する心の中、彼女は確かに、そして瞬時にそれを直感していた。彼女がその全霊を以て物に還すべき、命ある物。それが彼等であるという予感を、彼女は否定できなかった。
 そんな少女の心境を知ってか知らずか、探照灯が傍に膝をつく。

「すまんね、いきなり照らしちまって。“粗悪品”が来たかと思ってよ」

 ガラガラとした、陽気さと軽薄さの奥に冷徹さをも秘めた声。煙草と酒、そして何か分からぬ焦げた臭いが微かに鼻腔を突く。口や鼻のない物が煙草や酒を嗜めるかは別として、少なくとも清廉とか純粋とかと言った言葉から縁遠い生活を送っているであろうことは察せられた。
 相対した少女はただか細く、いいえ、と一言。とりあえず返答を押し付けて追及を退けた後、ゆっくりと男の言葉を飲み下し、理解して、次なる疑問を言い放つ。

「“粗悪品”って何ですか?」
「ほぉん。ヤツ等のことを知らんってことはあんた、外の世界の人間だな? 迷いたてほやほやの物殺しって所か」
「…………」

 少女がこれから徐々に伝えていこうと思っていた言葉を、男は数秒で根こそぎ攫っていってしまった。そうして少女が用意していた文言を失い、また核心を突かれ、思わず黙り込んでしまうことさえ想定の内であったのか。彼は肩をひょいと竦める。
 街の外に溢れてる嫌な物だ、と。答えのようで答えになっていない言葉を投げつけて、彼は膝に手を添え立ち上がる。その意識は既に少女を外れ、今まで彼女が歩んできた方へと集中していた。代わりに傍へやってきたのは、先程の舞台照明である。
 立てますか、と手を差し出しながら一言。黙って点頭し、手を借りて立ち上がった彼女を、彼はそっと己の背後へ押しやった。たたらを踏んで数歩少女が下がると同時、二人の後ろ姿から、冷たく鋭い殺気が膨れ上がる。
 先程の穏やかさは何処へ吹き飛んでしまったのか。少女は恐るべき切り替わりの早さへ戦慄すると同時に、記憶の中から探照灯の言葉を引き出していた。
 街の外に溢れる、嫌な——物。

「まさか……」
「おっ、察しがいいね。そう言うことだ」

 確信を帯びた掠れ声に、殺気が少々緩んだ。怯える少女に気を利かせたのだろう、目一杯陽気な声で探照灯がそう答えると同時に、カシャンと音を立てる探照灯の頭。ブラインドを開け放したのだ。先程少女の目を焼いた、激烈とさえ呼べるほどの白光が、星の瞬く夜空を一直線に白く切り裂いていく。
 その明るさに映し出されるのは、地平線を蹴立てて走り来る狂乱の物ども。ぼろ切れにも等しいほど粗末な服を身体に貼り付け、手に手に屑鉄やがらくたを引きずり、ぼろぼろに痛んだ物を頭として据えた、生にしがみ付く物ども。
 “粗悪品”の大群は、総数百を超える大軍となり、今彼等と衝突しようとしていた。

「あ、あんな一杯!? 大丈夫なんですか!?」
「心配してくれんのか? 物殺しにしちゃ随分優しいねぇ。……いや、俺達が死んだらあんたもお陀仏だからかね?」
「そんな訳ないでしょ! 当たり前のことです!」
「ははぁ、最初の物殺しみたいなこと言ってら。そうやって積極的に二律背反してくスタイル、嫌いじゃないぜぇ」

 少女に向けられる探照灯の声。その調子の変化を、彼女は戸惑う中でも聞きつけていた。高揚しているのである。表情が読めない分、言葉と声色がより強く感情で彩られているのだった。
 何かが始まる予感。少女は寸秒思考し、そして実行する。即ち、彼女はその場に座り込んだ。フードを目深に被り直し、頭を抱え、石のように固く縮こまる。どうせ戦闘などこなせないのなら、せめて逃げ惑い足手まといになるよりも、ただの置物として扱われることを選んだのだ。
 その姿に目を留めたのは舞台照明。彼は肩越しに少女の姿を振り返ったかと思うと、その肩に掛けていた外套をするりと外し、少女の頭の上からそっと被せた。そこに低い男性の声が続く。

「外套は銃弾や刃物の攻撃を退けます。頭から被って、その隙間から見ていてください。——今からの俺達が、これから貴方が殺すべき物の姿です」
「わ、分かってたんですか……?」
「ええ。最初から」

 それでは、また後で。そう低く低く囁いて、パーライトも戦場へと向き直る。その右手には何時の間にか、黒く艶消し塗装されたナイフが握られていた。戦闘に特化した形状と材質のそれは、黒い革手袋をはめた手にしっくりと馴染んでいる。使いこんできた証であった。
 隣に立つ探照灯は、素手。かの百の軍勢を相手に徒手格闘をけしかけるつもりなのだ。あまりにも無謀な行為ではないかと、格闘など無縁の彼女ですら思う。しかし、それを言葉には出せなかった。彼の後ろ姿はあまりにも自信に満ち溢れている。言葉を差し挟む余地もないほどに。
 息を潜め、観察する少女をよそに、がしゃかしゃと探照灯のブラインドが開閉する。それがどんな意味を持つか少女は知らない。これで彼女がアマチュア無線でもしているならば話は別だっただろうが、そのような趣味を彼女は持っていなかった。
 だが、しかし——良からぬ意味なのだろうとは思える。

「さあ、来いッ!」

 探照灯の声に被せて響く、“粗悪品”達の咆哮が。
 身の毛もよだつほどの、怒りに満ちていたから。

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.4 )
日時: 2017/03/18 21:42
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: 0L8qbQbH)

三:“粗悪品”

「ッらァ゛いッ!!」

 咆哮。
 走り来る“粗悪品”達を待ち受けていたのは、探照灯の拳。それは残像を残す程の速度で、腰の捻りと重心移動を目一杯に乗せて、まっすぐに相手へ振るわれる。その威力は凄まじく、肉薄していた“粗悪品”の一体、その首から上でぐらぐらとしていた金属の箱を、一撃でひしゃげさせた。
 ほとんどぺしゃんこに近いほどまで頭を潰され、力を失った“粗悪品”の身体が錐もみしながら空を舞う。“粗悪品”故に脆いのか、或いは殴りつけた探照灯の腕力が常軌を逸しているのか、その両方か。彼女には分からない。ただ、圧倒的な暴力に震えあがることしか出来なかった。
 一方の舞台照明は幾分かスマートである。順手にナイフを構え、走ってくる勢いのままにその切っ先を潜り込ませた。首と、頭の間。有機物から無機物へ変化するその場所に。ぺき、と薄い板の割れるような音がして、“粗悪品”が崩れ落ちる。
 戦う端から積みあがる、命を失った物の山。肉と鉄くずの混じったそれらを、彼等は適時足や腕で脇に退けているようだが、それでも限界がある。徐々に有利な間合いやスペースが狭まっていく中、しかし彼等は一歩もそこから動かない。そう言った戦闘スタイルなのか、或いは障害物たる彼女を庇ってくれているのか。分からない。
 分からないからこそ、少女は必死で置物であろうと努めた。何時しか呼吸は極限まで浅くなり、皿のように見開いた目は瞬きを忘れ、溢れ出すアドレナリンが心臓に意味もなく早鐘を打たせていた。
 ちかりと点滅。舞台照明のレンズが彼女の方を向き、すぐに戻る。

「……大佐、前に出ます」
「ほぉ。そんなら俺はそこな置物の護衛にでも回るか」

 新たに襲い掛かった鍋頭を殴り飛ばしながら、会話は短く。じりっと軍靴の爪先で砂利をにじり、舞台照明が“粗悪品”達の渦中へ飛び込んだ。ふっと音もなく刃が一閃。軽く鋭い割れ音を立て、あっと言う間に数体が地面に沈む。
 空いたスペースに陣取った探照灯は、会話の間に間合いへ入り込んでいた“粗悪品”の襤褸切れじみた服を引っ掴んだ。裂帛の気合。探照灯の頑丈な灯体が、ひびの入った薄い花瓶を粉々に粉砕する。がっしゃぁ、とガラスの割れる音がど派手に響き、思わず少女の口から悲鳴が漏れた。
 彼女は戦闘経験などない。訓練などするべくもない。間近で大きな音を聞かされ、声を抑えろというのは難しい話だ。しかし、現実はそんな事情を考慮してくれはしない。
 ——“粗悪品”の意識が、無防備な少女へ向いた。より蹂躙しやすい相手へ。

「おいあんた、全力で俺に向かって跳べッ!」
「は、はあ!?」
「ごちゃごちゃ言ってねぇで早くしろ! その首ちょん切られたいのか!?」

 自身から敵意が逸れたことを察知した探照灯が、声の限り叫ぶ。そして、今まで隙なく締めていた腕を、少女に向かって開いた。一方の少女は、ええいままよと心中で喚きながら、外套をぐっと両手で掴む。地面に尻を付けず、いつでも立ち上がれるような体勢を選んでいたことが、彼女にとっての幸運だっただろう。
 少女は、探照灯に向かって全力で跳躍した。途端に、発砲音数回。貫通しない。鈍器が投げ付けられる。ダメージにならない。ナイフで切り掛かられる。布地を突き抜けない。舞台照明が被せた外套が、その悉くを避け、無力化していた。
 今この瞬間、いかに自分が多量の殺意と謂れのない恨み辛みを以て迎えられているか露ほども知らないまま。ぎゅっと目を瞑った少女は、探照灯のがっしりとした胸に飛び込んだ。どすん、と重い衝撃が一瞬、すぐに力強い腕が背に回り、抱き留める。
 直後、ぐっと探照灯が違う場所に力を込めた気がしたが、彼女はそれが何故か分からなかった。それどころではない。少女の精神は既に許容量を振り切っている。
 再びの破砕音。殴り飛ばしたか、重心の大きな移動からして蹴りでもしたのか。ともかく、また一体の“粗悪品”が物に還った音がする。直後。
 どっと、何か重い物が肉に突き刺さる音がした。

「ぐ——ゥ」

 限りなく堪えた、けれどその喉の奥から抑えきれず漏れ出す苦鳴の主は、少女を抱えた探照灯。背に錆びた鉄の棒とバールを突き刺されながら、しかし彼は倒れない。重心を落として踵をしっかと地面に付け、右腕はより強く少女を抱きかかえる。
 彼女は最早気が気ではない。ただただ、言われた通り。眼を見開き、広がる情景を目に焼き付けること以外の行動を、彼女は何一つ取ることが出来ない。無論探照灯を心配する言葉など出てくるはずもなかった。
 しかし、無用なお喋りはない方が気遣いが減って良い。彼は黙って背に刺さる鉄の棒とバールに手を伸ばし、一気に引きずり出した。怯える少女の手前、何とか無様に叫び出すことは堪えたが、それでも呻き声が零れ落ちる。いくら人の身を傷つけられても死なないとは言え、痛みも苦しみも普通に感じるのだ。
 凶器を投げ捨て、探照灯は意識を“粗悪品”達へ集中する。相棒が何某かの手段で注意を引き付けていてくれたのだろう、此方へ敵意を向けている物どもは比較的少ない。しかし、それは状況が好転していることを示しているとは必ずしも限らなかった。
 肘で、背後から襲い掛かろうとしていた“粗悪品”の頭を叩き割る。しかしその動きは明らかに精彩を欠いていた。少女を庇っていることはまだいい、問題は背の傷から発せられる激痛と、それによる著しい集中力の欠如。攻勢どころか、守勢も覚束ない有様である。

「くっそ……終わったらあんた、みっちり訓練してやっからな……!」

 最早自身が攻撃するほどジリ貧になると予測したのだろう、探照灯はしっかり少女を抱きしめ、もう片方の手で人の頭をしっかと押さえ込むと、その場に片膝をついて座り込んだ。人の身の傷で死ぬことはない。盾となるにこれほど丁度いいものは他にない。
 抵抗をやめた脅威へ、“粗悪品”が殺到する。力任せに振り下ろされた角材や金属バットが男の広い背にめり込んだ。肉が潰れ、骨の砕ける音が辺りに響く。無論探照灯自身にも、それと密着する少女にも、それは聞こえている。もう止めて、と叫ぼうとした彼女の喉は、完全に職務を放棄していた。
 体勢を保つことだけで精一杯なのだろう、押さえ込む手ががたがたと震えている。大丈夫、後少し、呪詛のように低く苦しげに呟く声が、少女には聞こえていた。
 そっと、しかし大きく深呼吸。時間を掛け、外套を握りしめていた手を片方だけ解く。力が入りすぎて爪が食い込んでいたが、何とか引きはがせた。そして少女はその手を、自身を庇う腕にそっと添えた。
 瞬間。

「うわ!?」

 少し離れたところから、驚きを交えた舞台照明の声。
 その余韻を掻き消して、轟音が辺りに響き渡った。

「ンな」
「失せろ」

 冷淡な、そうとても冷淡な一声。
 しかしその直後、彼の周囲で“粗悪品”数体が一気に吹き飛んだ。右足を軸とした回し蹴り、その一発で。ともすればこの探照灯に比肩するか、それ以上の膂力——それは冷淡と程遠い、嵐の如き暴力である。突然現れた第三者の力量に、物どもの間で露骨な動揺が走った。
 戦意を喪失し、後ずさる物。或いは逆に戦意を奮い立たせ、襲い掛かる物。声の主はそれらを一片の躊躇も猶予もなく鏖殺していく。
 いつかの時に出会った物殺し、それにも似た修羅の如き戦いぶりを凝視する探照灯。その全身に走った悪寒と震えは、疼いた傷の痛みによるものばかりではなかっただろう。

「は——古さばかりでしがみ付くからこうなる」

 数分で、“粗悪品”達は残らず姿を消した。逃げた物はいない。全て、そう百を超える物全てを、彼等は物に還したのである。
 頭を潰され、或いは切り離され、地面に崩折れる無機物と有機物。地獄のような惨状の最中に立つのは、黒い三つ揃いのスーツを身に纏い、首から上は使いこまれた包丁に置き換えられた男。何を隠そう、ケイであった。
 ケイは周囲に意識を巡らせ、跪く探照灯とそれに抱えられた少女へそれを留めると、迷いなくその方へ足先を向ける。数歩で距離を詰め、じっと見下ろすケイ。探照灯は無理くり頭と意識を彼に向けた。
 激痛に混濁する記憶を探る。似たような状況が該当。

「あー……あんた、付き人として“起こされた”のか? この子の」
「そういう事だ」

 素っ気ない一言に、少女が顔を上げる。アーミラリは本当に人を寄越してきたのだ。あなたが、と掠れた声で呟きかけた少女は、しかしその声を一旦押し留める。その代わり出したのは両腕。信じられないほどの重みがそこに掛かるも、地面に激突させることは全力で防いだ。
 滅多打ちにされた探照灯が、精根尽き果てて倒れたのだった。

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.5 )
日時: 2017/03/24 01:04
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: 0L8qbQbH)

四:舞台照明

  ——この物が。私の。
 倒れ伏した探照灯の肩を支えながら、少女はケイをじっと見つめる。使いこまれ、柄の黒ずんだ包丁。よく見ると欠けた刃は見間違えようもなく、自身が元の世界から持ってきた物であることの証左である。ともすれば探照灯よりも大柄とさえ思えるその男は、やおらその場に膝をついた。
 びくり、と思わず肩を震わせる少女。その鳶色の目に、包丁はじっと鋭利な意識を向けていたかと思うと、ふと緩めた。無骨な手をそっと華奢な肩に置き、ずいと頭を彼女の耳の傍に寄せて、囁く。

「俺の名はキーン。だが、ケイと呼べ」
「ケイ?」
「嗚呼、人前ではこの呼称で通せ、何としてでも。……素性を知られたくないんだ、お前以外には」

 重く、密やかに。ケイ、もといキーンは少女へ告げる。そのトーンの低さに吊られ、思わず声を低めながら彼女は何故と問うも、それには沈黙を以て返された。仕方ない。後で教えて、と続けた少女へ、彼はほんの僅か、首を縦に振る。
 ゆっくりと離れるキーン。その背後から掛かるのは、低く穏やかな男声。

「随分戦闘慣れしておられますね」

 舞台照明である。彼は彼で“粗悪品”に苦戦していたのだろう、軍服は彼方此方の布地が破れ、砂埃で薄汚れていた。庇うように左腕を押さえているのは、切り掛かられたか、或いは殴り掛かられたか。しかしやはり照明のレンズは曇りなく、灯りは点いていないにも関わらず爛々と輝いていた。
 ゆったりとした口調で、彼が続けて問うのはその名。キーンは先程少女にも告げた偽名を放り投げ、立ち上がった。元から人を寄せ付け難い雰囲気を漂わせているが、舞台照明と対峙する彼にはそれに加え、微かな殺気めいたものも混じっている。
 明らかに眼前の舞台照明を敵と見做す包丁。しかし、彼は泰然としている。

「俺はスペクトラ。街を襲う“粗悪品”の排除をしています」
「見れば分かる。……二人しかいないのか?」
「戦闘に長けているのは俺達しか居ないので。貴方を除けばですが」

 ぴりりと、空気が棘を帯びた。舞台照明——スペクトラがゆっくりと片足を引く。対するキーンは、肩の力を抜き、その場に軽く足を開いて立った。それがお互いの臨戦態勢であると、少女だけが理解できない。一体何を、困惑する声を背後に聞き、答えたのはその付き人である。
 すぐに終わらせる。ぶっきらぼうで、しかし自信に溢れた一言。その後に続くであろう、だから待っていてほしいの言葉を、少女は彼の声色に聞く。低く重く淡々として、それでも何処か慈愛のようなものが籠ったその声に。そうでなければこれほど落ち着いてはいられなかっただろう。
 意識を失ったままの探照灯を膝の上に寝かせ、少女は小さく点頭。キーンも応えて首を縦に振り、そして向き直る。刹那。
 スペクトラが、飛び出した。

「遅い」

 夜闇を裂く銀閃。スペクトラが握りこんだ刃の煌めきである。少女の目には一瞬の残像しか映らぬ切っ先を、どうやら対峙する男は正確に捉えているらしい。冷ややかな感想と共に、彼は重心を僅かに後ろへ傾けて避け、いっそ緩やかに思えるほど静かに右腕を跳ね上げた。
 素手である。武骨な節くれ立った手が、振り抜かれて減速した刃へ向けられた。しかし、通常であればその刃をまともに捉えることなど不可能に近いだろう。馬鹿なことを、心中で低く呟き、スペクトラは刃を返すべく腕に力を入れ——途中で、止まる。動かない。
 親指と、人差し指と。ただ二本の指で、キーンは刃を掴み止めていたのだ。

「は……がっ!?」

 最高速ではなかったとは言え、刃を受けも流しもせず、指だけで挟み止めるなど。何百何千と“粗悪品”を屠ってきたスペクトラにも——或いは、“粗悪品”達ばかりを相手にしてきたからこそ——初めてのことである。虚を突かれて動きを止めた彼の首を、キーンの左手が掴み上げた。
 細身とは言え常人以上には鍛えられた身体が、地を離れる。引き剥がそうとスペクトラがナイフを捨てて両手を掛けるが、どれだけ引き剥がそうとしてもびくともしない。キーン自体かなり大柄な男性であることを差し引いても、異常としか言いようのない膂力である。
 包丁は無言。砥がれたばかりの刃をぎらつかせ、スペクトラをじっと観察する。かと思うと、つまらなそうに呟いた。

「余興のつもりか、或いは小手調べか? 舐められたものだ」
「な、何故……!」
「刃物がどれだけ長い間命を加工する道具として扱われたと思っている? 高々数十年程度の努力で埋まる差ではない」

 自惚れるな、と。キーンは心底呆れたような口調で舞台照明を責め、そして放り投げる。やや空中に投げ出されたスペクトラは、しかし素早く体勢を整え、足から柔らかく着地した。此処で無様に地面へ叩き付けられなかったのは、彼の卓越した身体能力の成せる技であろう。
 掴まれていた首に手をやる。呼吸が荒い。本来は呼吸もなく、心臓すら動かさずとも生存可能であるが、生ける物はその常として、彼等に意志を与えた人間の行動を無意識の内に模倣している。スペクトラも同様であった。
 一方のキーンはと言えば、確かに人間らしい行動を真似てはいるが、舞台照明のそれと比すれば随分静穏としたものである。いっそ亡霊のようだ。

「け、ケイさん。あの……」
「分かっている。立てるか?」
「大丈夫、です。多分」

 会話は短く。臥したままの探照灯へキーンが肩を貸し、少女はその場にゆっくりと立ち上がる。そのまま迷いなく壁の方へ向かい始めた三人の後ろから、やや足を引きずりながらスペクトラが付いてきた。言葉はない。一行の間には静粛だけが横たわる。
 赤茶けた壁が、夜の帳を破って聳えていた。

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.6 )
日時: 2017/03/24 13:33
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: 0L8qbQbH)

五:西洋躑躅

 ひび割れた石畳、立ち並ぶ石造りの家々、ぽつりぽつりとまばらに街路を照らす蛍光灯。舞台照明のような比較的新しい物が生を享けている割には、何処か古さを感じさせる街並みである。いつの間にかキーンを追い越し、頭の照明を煌々と点けて歩くスペクトラの背を見上げながら、少女はぼんやりと考えていた。
 家々の窓は暗い。一部薄ぼんやりと点いているものもあるが、カーテンは堅く閉じ切られている。時刻は十時過ぎ、夜更かしの多い彼女にとってはまだ活動している時間であると言うのに、街はもう寝静まっているのだった。単純に生活のリズムが元の世界と違うのか、それとも街の外から来る“粗悪品”に対する何らかの対抗策なのか——考えども、答えが出てくるはずもない。
 スペクトラは彼女の思索を知っていたか。何も言わず、振り向きもせず、ずんずんと歩みを進めてしまう。少女は小走りで距離を保ちながら、探照灯を背負って歩くキーンへと声を掛けた。
 大丈夫か、と。一体何がどう大丈夫なのかなど、彼女自身にも分かりはしない。ただ、話の取っ掛りを作るためだけの心配である。包丁は彼女の方へ頭を巡らすことなく、小さく首を縦へ振った。

「重いは重いが、苦にするほど脆弱ではない。案ずるな」
「なら良かった。……そう言えばケイさん、“起こされた”ってどう言うことですか?」

 無事に次の話へ繋げることに成功したようだ。不安げな表情を少し緩め、少女は首を傾げながら問う。質問されたキーンは、説明は苦手だがとやや声を潜めて独りごち、すぐに元の調子へ戻した。

「まず、俺はお前が持ってきていた包丁が元だ。お前以前にも随分と使い込んでいる。それは良いな」
「……はい」

 キーンは少女の声音が沈んだものになったのを聞き逃しはしなかった。そして、彼女がそんな声を上げる理由も知っている。今日彼に“起こされる”まで、彼女ばかりが包丁を握っていたその理由を。しかし、それを口に出すほど彼は野暮ではない。
 ふむ、と喉の奥で一声。言葉をまとめ、綴る。

「しかし、それでも高々三十年だ。大切に扱われていた記憶は無論あるが、その意志だけでは命を得られない。足りないんだ。——外から、継ぎ足す必要がある」
「アーミラリさんですか」
「そうだな。俺はお前達からの意志にあの天球儀の意志と記憶を足され、この世界で人の身を与えられた。長く生き、元ある意志に様々な経験を重ねた物は、俺のような足りない物に意志を明け渡し、新しい命を授けることが出来るのだと……“知っている”」

 彼の落ち着き払った態度は、アーミラリから与えられた記憶を身にしているからだろう、と。少女はすとんと腑に落とした。初めてまみえるはずの“粗悪品”に対し、その詳細をすっかり知っているような発言を残せたのも、かの案内人の記憶あってこそである。
 成程、と口の中で呟く少女。疑問が氷解し納得した表情を浮かべる横顔へ、今度はキーンが問うた。

「名はどうする」
「名前? 本名じゃ駄目なんですか」
「お前がそれで構わないと言うのならば何も言わないが」

 事実のみを告げる声音には何の感情も含まれていない。彼女が此処で本名を告げたとしても、彼は止めなかっただろう。
 しかし彼女は思案し、頼んだ。付けて欲しい、と。

「私にはこの世界のことなんてまだ分かりません。だから、ケイさんが丁度いい名前を下さい。それをこっちで使います」
「お、俺が? それは、また。参ったな」

 今までに聞いたこともないほど動揺した声を上げ、キーンは頭を抱えた。
 アーミラリは彼を“起こす”に当たって様々な記憶や技能を与えてはくれたが、流石に名付けのセンスなどは彼の保証対象外である。しかし、彼女を護り、降りかかる火の粉を払う力を与えよと命じられて“起こされた”以上、彼は彼女の願いを叶えなくてはならなかった。
 しかしながら、いくら頭を捻ったとて良い通り名など浮かぶべくもない。途方に暮れ、悶々として黙りこくった包丁へ、前を往くスペクトラが助け舟を出す。

「そう言えば、貴方はアーミラリから“案内人特権”を与えられているはずです。何ですか」
「“案内人特権”——確かにそんなこと言ってましたけど、えっと、どうしたら分かりますか?」
「……彼が与える特権は、往々にして何かを生成する力です。掌の上に何かものを載せることを想像してみて下さい。俺も大佐がやっているのを見ているだけなのであまり深くお教えは出来ませんが、あのアーミラリのことですから。多少適当でも何か出てきますよ」

 質問した直後の妙な間は一体何なのだろうか。振り向きもせず、歩調を崩しもしない背中から推察することは出来ない。分からないことを無理に考えてもしょうがないと、少女は小さく首を振り、立ち止まる。同時に立ち止まったキーンとスペクトラを一瞥した後、彼女は自身の掌をじっと見つめた。
 想像したのは、赤いビー玉。ころころとした透明なガラス玉を載せるイメージを頭の中で膨らませ、眼前に投影する。そう、イメージと現実の感覚を同期できるのだ。何もないはずの掌に、微かな重みがかかる。一度それを手にしてしまえば後は早かった。
 ——しかし。彼女が現実に生成できたのは、ガラスでもなければ球でもない。

「バラ?」
「バラだな」
「バラですね」

 一輪の花であった。
 瑞々しい深紅のバラが、少女の手にちょこんと載っている。彼女はイメージしたものと手に出来たものとのギャップに困惑を隠せない。
 一方のスペクトラは、腕を組んで一考。すぐに解き、彼女へ告げた。

「貴方の“案内人特権”は花か、或いは植物全般を生成するものですね。貴方は若い女性ですから、ベクトルはどうあれ華やかなものを生成する能力を与えたつもりなのではないでしょうか」
「確かに花は好きですけど」

 数瞬の間。少女は首をひねる。

「これ、何の役に立つんでしょうか?」
「……献花?」

 答えたスペクトラ自身も困惑しているようであった。武器や元素(エレメンタル)ならともかく、花を生成するなど彼にとっても前例がない。彼の相方——もとい、上官——である探照灯ならば、あるいは何か知っているのかもしれないが、生憎と彼は未だ意識不明である。
 ううん、と唸り声を絞り出す舞台照明と、傍でひたすら黙りこくっている包丁。双方の頭を交互に見やる少女へ、先に声を上げたのは後者だった。ふっと何か思いついたように刃先を上げ、意識を少女の方へと向ける。

「もう一度やれるか?」
「はい、多分」
「そうか。ならば……何も思わずに出すことは?」

 何も思わない。つまりは色だの形だのと言った形状を縛る一切を取り払った状態で、花を作り出せるか、と。キーンはそう要求しているのである。少女は内心無理だろうと舌を吐いたものの、どうにも上手く反駁する語彙がない。要求にとりあえず答える他なかった。
 手を軽く数回開閉し、目を閉じる。意識的に無心となるのは大変な苦労を要する作業であった。そうあろうとすればするほど雑念が何処からともなく沸いて出てくるのだ。その度に彼女は眉根を寄せ、首を大きく振って、振り千切るように雑念を払う。
 傍から見れば狂人の混迷にも見える動作を脳内の作業と結びつけながら、自身の記憶と格闘すること十分。ぱっと、少女の脳裏に空隙が出来た。精神の摩耗による一瞬の虚。少女は咄嗟に想う。その感情が何かは彼女にも判じ得ない。あまりに須臾の間のことであったから。
 何もない手に掛かる微かな重み。何かは作れたようだ。
 そっと少女が目を開けると、掌の上には一輪の花。白い、八重咲のツツジが咲いていた。

「花屋さんでたまに見ますけど、何でしょうか」
「さあ……植物には詳しくないので」
「——アザレアだ」

 疑問符を飛ばす二人へ、声を上げる物は一人。他ならぬキーンである。
 彼は告げる。背を伸ばし、かの天球儀と全く同じ姿勢で以て、神託を授けるかの如く。

「お前の名は、アザレアだ」

 アザレア。少女は今しがた与えられた名を反芻し、頷いた。
 今此処に、彼女は真の意味でこの世界に迎えられたのである。


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