複雑・ファジー小説
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- 世界は君に期待しすぎてる
- 日時: 2019/06/09 21:47
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: 3W5gzPo5)
*
精通してすぐに、僕は童貞を失った。
□はろう、浅葱です。のんびりと執筆していこうと思います。
□軽度(r15程度)の性的表現が頻繁に入ることが考えられます。好きな方のみご覧ください。
□軽度(r15)の暴力描写が入ることが考えられます。好きな方のみご覧ください。
□目次
『土砂降りレイニー』>>001-008
>>001 >>002 >>003 >>004 >>005 >>006 >>007 >>008
幕間『夜更け過ぎの雨とともに』
>>009
『爽天シャイン』>>010-020
>>010 >>011 >>012 >>013 >>014 >>015 >>016 >>017
>>018 >>019 >>020
幕間『朝、溶け出す淡い期待』
>>021
『夏色セゾン』
>>022
□
相沢 幸太 / あいざわ こうた
相沢 伊織 / あいざわ いおり
井口 真弘 / いぐち まひろ
大畠 暦 / おおはた こよみ
木城 春輝 / きじょう しゅんき
奈良間 誠也 / ならま せいや
朝日奈 圭織 / あさひな かおり
佐藤 大輝 / さとう たいき
□special thx(敬称略)
もうきっと、世界の誰もが夢中だ / 三森電池
失墜 / 三森電池
since2017.04.20
*
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.18 )
- 日時: 2019/04/22 20:52
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: dD1ACbVH)
二日目は時間に追われるがまま過ごし、同様に忙しかった最終日、自宅に戻ったのは夜遅くになってからだった。予想通りほのかさんと伊織は寝ていて、父さんだけがソファに座っていた。おおよその帰宅時間を伝えていたからか、テーブルには淹れたてのコーヒーがある。
「どうだった?」
「初日はケンカしたけど、あとはまあ、別になんも」
取り立てて父さんに話すことは、林間学校中なかった。二日目はテントを片付けた後に朝食を食べ、バス移動。移動先ではつまらない話を聞き、たいした自由時間もない辛い一日だった。慣れない宿泊で疲れたせいで、ベッドに入ってすぐ寝てしまった。最終日もたいしたアクティビティもなく、ほぼ座ったままの一日だった。そのせいかここまで帰ってくる道中も、とりきれない疲れが睡魔を連れてくるほどに体は限界をむかえているらしい。
「けんか?」
「うん、ケンカ」
ソファの近くにカバンを置き、父さんの隣に座る。コーヒーは僕好みのブラックだった。人を殴ったなんて言ったら、父さんはどんな反応をするのか想像すると少し怖くなった。
「仲直りできた?」
父さんがコーヒーを啜る音がする。僕は大畠と仲直りすることなんてない気がした。大畠の復讐も、真弘を守ることも、どちらも中途半端な状態で、仲直りなんて考えは浮かばない。父さんに返事をする事ができないまま、僕はまたコーヒーを飲む。ネスカフェの粉を入れすぎているようで、口に残る風味は酸味が強い。
「明日は休み?」
「明日は友達と映画見てくる」
「したら疲れてるだろうし、コーヒー飲んだら休みなさい」
先にコーヒーを飲み終えた父さんが、キッチンへ向かう。もうぬるくなったコーヒーを、僕は一気に飲み干して、父さんの後ろからシンクへカップを置く。美味しかったよと言うと、嬉しそうに父さんが笑った。
カバンに入っていた洗濯物やクリーニングに出す制服を脱衣所のカゴに投げ入れたところで、ため息が漏れる。
「幸太。おやすみ」
「……すみ」
少しして、階段を上る音が聞こえた。ほのかさんが寝ている部屋に、父さんが向かっているのを、ぼんやりと考える。小さな掛け声と共に、重たい体を立たせる。頭が痒い気もするけれど、風呂に入る余力なんてなかった。ジャージのポケットに入れていた携帯が、二回、短く震える。無視して階段を上っていると、今度は一回、携帯が震えた。
三日ぶりの自室のベッドに寝転がる前、乱雑に床に落とされた教科書に意識が向く。もう何日も経ったのに——まだ何日かくらいしか経ってないのか。無意識のうちにしまい込んでいた現実が、舞い戻ってくる。
嫌でも思い出されるのは、あの日汗をかきながら向かい合っていた伊織のことだ。いい子の皮が剥がれた、きっと素のままの伊織だった。今はきっといい子に戻ってるんだろうなと、伊織の部屋と自分の部屋とを隔てる壁を見て、思う。力なく床に寝そべったカバンと同じように、ベッドに体を預けた。じんわり、背中が熔けていく。重たいまぶたを閉じたほぼ同じ瞬間、連続したバイブレーションに意識が向かった。目を閉じたままでポケットにしまっていた携帯を取り出す。もう少しで日付けが変わりそうだ。
「……なに」
『おーす、起きてっかー?』
「春輝」
端末から楽しそうな春輝の笑い声が聞こえる。思いのほか低いトーンになった僕を気にせず、春輝は話し始めた。
『映画のチケット、午前ので取ったよ』
「あー……何時」
『九時半にシネマフロンティアで。おやすみ』
「……おやすみ」
通話画面を、ホーム画面に戻す。寝て起きるまで、六時間ほどしか睡眠時間は取れない。その他に来ていた通知は確認せず、携帯をスリープさせる。熔けた背中から、足へ、胸へ。どろどろとした何かになりそうなほど、曖昧な境界を意識する頃、僕は夢の中にいた。
私立箔星高等学院の最寄り駅は、様々な施設が複合された駅ビルを有し、近辺では最大だ。ホームから改札を抜ける前まで、何人もの人の隙間を縫って進む。トランクを持ったまま立ち往生する外人や、明らかに内地の方言で話すグループを邪魔くさく思うのもいつもの事だった。横並びで歩く女性達の横をすり抜け、ステラプレイスへと向かう。スターバックスコーヒーに長い列が出来ているのを横目に見ながら、映画館への直通エレベーターの前に並んだ。
係員の指示に沿って、着いたエレベーターに乗り込む。次から次へと人が入り、まだ一階ではあるが既に満員だ。奥の隅に立ち、目を閉じる。今日はイヤホンを忘れたせいで、色々な音が耳に入ってくる。中学生の頃はイヤホンが無くても良かったけれど、密着性イヤホンの虜になってしまったせいでイヤホンがないと落ち着かない。数回、途中で人の出入りがあった。目的の階でエレベーターが開く。春輝の姿はすぐに見つけられた。
「おはよー」
「はよ」
映画館で合流した春輝の手には、電子チケットから引き換えた上映券が握られていた。普段の制服姿と同じような色味をした私服に、春輝らしいなと感じる。チケットを受け取り上映時間を確認する。
「これポップコーン買ったっけすぐじゃね?」
「まあ並んでるからね」
「春輝何食う?」
「うーん……。塩にバタートッピングのMサイズかな。幸太は?」
「ホットドッグとコーラのL」
「アメリカの人?」
「純血の日本人って言ったらどーするよ」
「いや普通だべそれ」
カウンターの上部に設置されたモニターでは、これから見る映画の予告や、上映予定映画の予告なども流れていた。何も考えずに話せる友人は春輝以外に奈良間もいるけれど、話していて疲れないのは春輝しかいない気がする。誰にも応対が変わらない姿は、素直にすごいと思ってしまう。
「先幸太いいよ」
「わかった」
次の方どうぞ、と感じの良い笑顔をした店員に、メニューを注文する。会計を済ませて横に移動すると、春輝も同じ店員に注文を始める。意外と注文したものが揃うのに時間がかかり、あとから注文を済ませた春輝とほぼ同時にレジから離れた。足の長いテーブルに立ち、互いに一言も発しないまま春輝の買ったポップコーンを食べる。
「バターありだな」
「だべー。有り得ねぇくらい手は汚れるけどね」
一緒に貰ってきたらしい紙ナプキンで手を拭いていると、アナウンスが入った。六番シアターへの開場が始まり、家族連れや小学生の集まりが蟻らしく列を作る。その列に僕達も混ざり、チケットの半分を切り取ってもらう。順路に沿って進み、春輝に付いてシアター内の座席に座る。スクリーンが見やすい、やや上段の真ん中の座席だった。
「いい席」
「母さんに取っておいてもらったんだよね」
ちゃんと考えてくれてるだろ、と春輝は嬉しそうに笑う。それに頷いて、目の前のスクリーンに映し出された予告映像に意識を向けた。春輝は家族のことを話す時によく笑う。僕と同じ一人っ子として育ったらしいけれど、良くも悪くも他人の視線を気にしてしまう僕とは全然違う。中学が違うだけでこんな変わるのか。そう感じたことは、二人と出会ってから何度もあった。僕と真弘は、奈良間と春輝とは正反対な人間だと思うことも。
映画泥棒のムービーが流れると、甲高い悲鳴や、うわぁという声があがった。奇怪な動きと顔が見えないあたりが怖いんだろうなと思うけれど、あの有名なパンのアニメだって似たようなものだという気がしてならない。ポップコーンが弾けて、シアターの電気が落とされる。毎年進化しているように感じるロゴと、愛らしいサトシの相棒が鳴く。ナレーターの声を聞きながらホットドッグを頬張る。お腹が空いていたせいで、ホットドッグはすぐになくなった。画面では母親連れの少女が、何かのお祭りに来ているシーンが流れている。満腹になって忍び寄ってきた睡魔に、まだ導入だよなぁと考えながらも、そっと意識を委ねた。
「安眠しすぎ」
「予想以上に疲れてた」
呆れた顔で春輝に言われ、昼食を食べる手が止まった。気がついたら寝ていたし、気がついたらサトシの窮地をモンスターが救っていたし、次に気がついたらエンディングが終わっていた。春輝に揺さぶられて起きた頃には、シアター内にいる人は数えられる程度しかいなかった。小言を聞き流しながら入った洋食屋でも、こうしてまだチクチクと刺される。
「まあいいんだけどね」
笑った春輝がハンバーグプレートに手をつけたのを見て、自分も切り分けたハンバーグを頬張る。
「で、何かあったわけ」
三角食べをする春輝に、意を決して声をかける。
「大畠って奴から真弘を助けたい」
驚いた顔をした春輝が僕を見ていた。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.19 )
- 日時: 2019/04/12 21:07
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: Ft4.l7ID)
そして、なんとも言えない複雑な表情を見せた後、いつもの様に微笑んだ。
「いんじゃね? 助ければ」
「うん」
相談事をした時の春輝はさすがだと思う。あの日の既視感を、水と一緒に飲み込んだ。
「その事相談したかったん?」
「いや、これ見てほしくて」
ポケットから出した携帯の、メッセージアプリを開く。大畠、朝日奈とのグループラインを一番上まで遡り、携帯を春輝に渡す。全部見ていいよと伝え、残ったハンバーグを片付けにかかる。春輝が頼むからと食後にパフェを頼んだけれど、入る気がしない。薄気味悪さが少しずつ腹を膨れさせる。ため息を押し込むように口にハンバーグを詰め、あまり噛まずに水で流しこむ。
春輝はハンバーグを食べていた手を止め、真剣そうな表情で携帯をスクロールさせていた。自分が返信をしたのは最初の数回だけ。スクロールするほど会話量が増えたのは、大畠と朝日奈のせいだった。中学の仕返しをする、気持ちを踏みにじってきたから復讐したい。そんな思いの丈を僕にぶつけてくるだけの場所として、グループは活動していた。
「俺さ、中学ん時の二人さ、なんも知らないんだけど何やったん?」
「今風に言えばイジメってやつ」
ふうん、と気のなさそうな返事をする春輝に、僕は続ける。かたく閉じた錠を開け、記憶の蓋をこじ開ける。
きっかけはよく覚えていない。テストの点が僕達より低かったのかもしれないし、給食を食べるのが遅いからとか、足が遅いからとか、男のくせに女みたいに弱いからだったかもしれない。ただ一つ、思い出すことができない程度の理由で、僕達が大畠をいじめていたのは事実だった。皆は元々何となく好きじゃなかったのかもしれないし、そもそも何も感じていなかった気さえしてしまう。
大畠は小学校からの同級生で、中学三年の夏休み中に市外へ引っ越した。父親の仕事の都合と説明されたが、僕も真弘もそれ以外の友達も、それだけが理由だとは考えられなかった。罪悪感を抱いていたのは少なくないはずだった。自覚できるほどのことをしていたから、僕達は「仲間がいなくなるのは寂しいよな」と笑った担任に、同じように笑うことさえできなかった。
いつも笑っているのが気に食わない。幸せそうに母親の話をする姿が癪に障る。僕はたしかにそう感じていた。帰り道が途中まで一緒だったけれど、初めこそ仲は良かったけれど。静かに背中を向けて扉を閉ざしてから、僕は真弘達に加担した。僕達がしたことは静かに伝播し、気が付けばクラス全体が大畠をよく思っていなかったように思う。僕達は誰も止めないのを喜んでいた。
初めは無視から始まった。理由なく腹を立て、素っ気ない返事をする。話しかけないでくれと言われた大畠が、切なそうな視線を寄越すのがいつまでも気になった。休み時間にわざと机にぶつかったり、教科書が置かれていることを気にせず机に座る奴もいた。決まって大畠が使う机の周囲に集まっていたけれど、そこでの会話に大畠が入ることはなかった。僕達は何も言わず、自然と大畠を空気のように、まるで初めからいなかったように扱っていた。
そのグループの中心にいたのが、真弘と数人のクラスメイトだった。
「女みてーななりしてっけどお前ガイジかよ」
「障害持ちはここじゃなくて養護学校行くべきじゃねーの?」
「お前に挨拶されたくねーんだわ」
「むしろ話しかけてくんなよ。耳が腐る」
どんなに笑顔で話していても、大畠が戻ってくると冷え切った視線を向ける。クラス対大畠の構図を作ることは、なにも難しくなかった。
「俺んとこも似たようなのあったけど、幸太んとこすごいね」
「荒れてたから」
喉を潤すために、グラスに注がれた水を飲み干す。
「にしてもだよ」
優しく笑う春輝につられ、少しだけ笑みが浮かんだ。
「まあそんな状況だったからさ、すぐ暴力も出たんだよ」
始まりはやはりどうでもいいきっかけだった。大畠が教室を出た所で、真弘と仲が良かった別クラスの男子にぶつかった。言いがかりをつけて、美術室が置かれた人気のない三階トイレに連れて行かれたのを、僕は見ていた。連れて行かれた先で何があったかも、僕は見ていた。見てるだけ。真弘達のように実害は一切加えなかったところが、僕のずるい所だった。
ずるい僕はトイレの入口に凭れて、土下座させられる大畠の後ろ姿を見ていた。いい加減な掃除しかされない、汚く臭いトイレ。その床に額をつけて、震えた声で何度も謝っていた。もし僕がいなくて、大畠に勇気があったとすれば、きっと走って逃げていただろう。野次馬の視線なんて気にせず、走って逃げていたはずだ。
大畠が逃げられなかった理由の中に、僕の存在があったんじゃないかと思う。思うだけで、確証があるわけではなかった。僕は大畠と一時期親しくしていた。親友とまではいかないにしても、互いの家へ遊びに行ったりする仲だった。けれど大畠が標的になった頃から僕は真弘とよく過ごしていたから、大畠との溝ができ始めていたのだと思う。いつの間にか大畠は孤立していたし、僕は大畠に救いの手を伸ばすという選択肢を持たずに過ごしていた。それが普通だった。
トイレでの一件から、大畠は頻繁に呼び出されるようになった。休み時間が終わる間際に戻ってくる度、体の違う部分をさすっていたのをよく覚えている。その大畠を笑う真弘のことも。僕は笑いさえしなくても真弘と一緒に行動しているおかげで、傍観者のような立ち位置になっていたことは、最近になって分かったことだった。
「大畠に言われたんだ」
「なんて?」
店員が持ってきたパフェを食べる。春輝には見せなかった、僕と大畠の個人的なやりとりの中に、その言葉はあった。
「幸太を一番許せないって」
大畠と連絡先を交換してすぐ言われたことだった。
「だから真弘に復讐するらしい」
「なんで幸太にじゃないの?」
「今度は大畠側にいるから」
溶けだしたソフトクリーム部分をすくって口へ運ぶ。冷たいだけで、味はあまり感じない。春輝は納得したようて、何度か頷きながらパフェを食べていく。そこからしばらく話しをせず、ひたすらパフェを片付けた。途中何度もサンデーにすれば良かったと後悔したけれど、食べ終わる頃には達成感が心に満ちた。春輝は少し遅れてパフェを食べきり、自身の携帯をいじっていた。僕もそれにならい、しばらくログインしていなかったゲームを開く。長いローディングが嫌で、普段は開いてもすぐ閉じてしまうが、今日は珍しくロード時間が短かった。
クエストを数個、完全クリア報酬をもらい、ゲームを閉じる。ほぼ満席の店内に長居するのも躊躇われ、どちらからともなく準備を始めた。割り勘で会計を済まし、エスカレーターで地下へと降りる。その間春輝とは林間学校の思い出話をしていた。束の間に満たされた心は、少しずつ漏れ出して、地下のカフェに着く頃には空っぽに戻ってしまった。
「じゃーウィンナーコーヒー二つ。二つともアイスで」
案内された席は、ワインを零したように深い紅色の椅子が特徴的だった。少し背の低い椅子に座るが、場違いな気がして気が気じゃない。
「春輝よく来るの? ここ」
身を乗り出し小声で聞くと、春輝はニヤリと笑った。
「初体験、幸太にあげちゃった」
「きも」
「やめてよ傷付く」
声を押し殺し、春輝が笑う。普段は僕達の手綱を握るような存在だけれど、実際はふざけるのが好きな厄介者だ。ツボが浅いことを気にしていると前に話していたけれど、目の前で笑い続けているあたり、直す気がない気がしてならない。
「あー、ははっ、めっちゃ笑ったわー」
コーヒーを置かれる間も笑い続け、落ち着いたのはグラスが結露する頃だった。
「さっきの続きだけどさ、大畠くん側に幸太がいるから今度は止めたいってことっしょ?」
「止めたいっつーか……」
「真弘が標的にされたくない?」
的を射た春輝の言葉に、頷く。コーヒーが苦い。
「したっけさ、真弘に話そうよ」
「いやそれはだめだべや。真弘が大畠に先に手ぇ出したら——」
「真弘はもう中学生じゃないべ。大丈夫だよ」
春輝と視線がぶつかる。情けない顔が、レンズに薄く反射していた。春輝が大丈夫だと言っても、本当に最善策なのかが分からない。僕が知っている真弘は、あの頃から変わらない。真弘は大畠を心の底から嫌っていた。
「そうしたいと思ってるから俺に相談にきたんでしょ、幸太」
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.20 )
- 日時: 2019/04/21 22:14
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: FpNTyiBw)
「違う? 幸太さ、そんな意気地無しじゃないんだから、言っちゃえばいいんだよ」
真弘はもう子どもじゃない。暗に真弘は守られる人じゃないと言われているようで、僕の出る幕なんてないとも言われているようだ。
「真弘が怒ったとしてもさ、俺も一緒に協力したげっから」
笑う春輝に、居心地の悪さと言葉にし難い不快感があった。
「……夜まで考えさして」
「ゆっくりでいいよ。連絡待ってるわ」
残っていたコーヒーを飲み干し、カフェを出る。春輝は服を見るらしく、そのまま解散となった。イヤホンからはアップテンポなイントロが流れる。——散々痛い目に目に遭った毎日を消して、もう二度としょうもない嘘なんてないように、いらんもんから全部捨てていけ。勝手にシンパシーを感じたその歌詞に、先程まで感じていた気味の悪い不快感が何か、わかった気がした。そして、自分の面倒くささも。
まだ太陽が高い。このまま帰るのも良いかもしれないけれど、最近顔を出していない箔星陸上部を見に行こうか。気持ちの悪い不快感を言葉にしたくなった。僕自身が、僕を知ろう。駅の北口を出たところで、今日が平日だということを思い出した。
「行けねーじゃん」
数瞬立ち止まり、踵を返す。素直に家に帰り、真弘に話しをしてみよう。締め切り前の課題に追われている時のように、特に理由もなく行動する気持ちにはなれない。駅に戻り、数分後に発車する電車に乗り込む。空席の多い車内。反対のホームで次の電車を待つサラリーマンや子連れの母親。背の低い自動販売機で飲み物を買っている人もいる。あんなに小さかった頃の思い出は特にないけれど、こんな風にならないでほしいなと、知らない子に思う。車窓は、残像を連れて映像を変えていった。不規則な揺れに、心地良さを感じる。夕方辺り会えるかと、真弘にメッセージを送る。返信が来る可能性があることに、不安があった。しまった携帯の存在さえもなかったことにしよう。腕を組み、外を切り離すために目を閉じた。
「呼んどいて遅れるとかわやだなお前」
「ごめんほんと」
仮眠が仮眠にならなかった。起きて携帯を確認すると真弘からのメッセージが数件あり、大公園で待ってると最後にあった。数時間前に着ていたメッセージに気付いてすぐ、自転車に乗ることも忘れて公園に走った。遊具もなく、地元の小学生や園児さえ遊びに来ない大公園の小さな丘に、真弘は退屈そうに座っていた。僕を見て、呆れたように笑っていた。
「で、なんか用事?」
「あーまあ」
真弘の横に腰掛けたが、話の切り出し方が分からない。直接伝えた方が良いのだろうけれど、言葉が上手く出てこない。所在なくさ迷わせた視線が、足元の一匹の虫にとまる。草っ原でよく見る、光沢のある虫が六つの足で進んでいた。
「前にさ、伊織のことさ、話したじゃん」
考える余裕なく出てくるのは、どうでもいい、回りくどい言葉ばかり。
「でさ、そん時は本気であいつにさ、なんかしてやりたいって思ってたんだけどさ」
「おー」
「今さ、伊織どうこうってよりはさ、大畠のことでさ話したいことあって」
真弘のことを見れないまま、ぽつぽつと続ける。時間をかけてゆっくり話していくのを、真弘は黙って聞いてくれていた。今僕を照らす夕日は、真弘の染まった髪を明るく照らしている気がする。反射して、きらめいて。
不意に、初めて髪を金にした真弘の笑顔を思い出した。中学校を卒業した日、真っ直ぐ遊びに行った僕達は染め粉を買った。たばこのにおいでいっぱいになった真弘の家で、だんだん髪の色が変わっていく様子を、二人で笑って見ていた。大畠と出会って僕達は変わったけれど、当時みたいな関係に戻りたいと思ってしまう。だからこそ伝えなくてはいけない。真弘が笑えるように。大畠なんかに負けないように。
「幸太」
久し振りに呼ばれた名前に、自然と顔が上がる。目じりの上がった、獣のような強い瞳。夕日を集めた真弘の瞳の中に、僕の姿が弱々しく反射した。
「まだなんか隠し事してんの?」
変わらない表情で、真弘は言う。もう隠し事をするつもりなんてない。その言葉が喉元まで浮かんで、けれど図星の指摘に怯えて、いなくなってしまう。まだ。真弘はずっと、僕が何かを隠していることに気が付いていたのだろうか。大畠と会ってからも変えずにいた態度の中で、真弘だけ何かを知ってくれたのだろうか。
「……僕は」
真弘はもう中学生じゃない。子どもじゃない、あの時のような。
「大畠から真弘を助けたい」
僕達の間をぬるい風が抜ける。後味にうっすらとした冷気を帯びて、僕と真弘を撫でていった。
「なんだそれ」
当時のように真弘が破顔する。笑った、そう思った。
「久し振りにガチ笑いしてるの見た」
「俺も人間だからな。大畠から俺の事助けてぇの?」
「うん。できる事は情報流したりするくらいっていう、しょうもない感じだけど」
途端に自信がなくなり、言葉は尻すぼみになっていく。
「そこは自信もっとけ」
「いっ!」
強い平手打ちが、背中にあたる。肋のあたりを叩かれたせいで、思わず咳き込んでしまった。悪ぃ悪ぃと笑う真弘に、精一杯強がる。こんなやり取りも、いつも間にかなくなっていた。真弘に彼女ができて、僕に兄ができて、僕達の関係も少しずつ変わってしまっていた。
「頼りねぇけど、幸太に助けられてやるよ」
期待してるわ。そう言って真弘は、やわらかく笑った。その横顔が夕日に照らされて、明るくあどけない表情が映る。そうだ、真弘は笑うと少し幼くなる。四人で居る時も、学校で居る時も見ることが出来ない素の表情。
「真弘が友達で良かった」
自然に漏れた本音に、真弘はまた嬉しそうに笑う。心は晴れやかだ。二人でくだらないことを話し、また笑う。あの日雨に打たれた時、あの日大畠から連絡が来た時、あの日、真弘から逃げ出した時。覆われた分厚い雲から、光が差し込んでいるような気分だ。
「俺も、幸太で良かったわ」
「な」
どちらからともなく、腰をあげる。別れる時に言葉はなかった。ただ背中に受ける夕日だけが、あたたかくて、暑くて、蝦夷梅雨の終わりを告げていた。
■爽天シャイン
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.21 )
- 日時: 2019/05/16 21:13
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: dD1ACbVH)
幕間 朝、溶けだす淡い期待
さようなら。言葉にはできなかったけれど、たしかにそう伝えたかった。正午にかけて強まる日差し。流れる汗、辛そうな君。そうか、そんなに君の負担になっていたのか。知らなかったな。上手く笑えないままだった。それでも君は、互いに流しあった涙を拭ってくれる。わずかな温もりだけで、愛されていたんだろうなと思えてしまったのだ。
「行ってきます」
直ぐに重たいドアの閉まる音がした。普段よりも早い弟の登校時間。少しずつ清明になった意識の中で、今日から林間学校だったことを思い出す。自分には縁もゆかりも無いイベントが、弟の学校では行事に組み込まれていた。修学旅行はあるとはいえ、その同年に林間学校を行うなんて聞いたことがない。
学年が上がってから、通う学校は受験ムード一色に変化した。狙っていた学校よりも偏差値は劣るが、学生の質は幾分か高い。文化系の部活動は全国大会常連になるほどだ。そうした付加価値を考慮して入学した私立荘王大附属第一高等学院に、不満はあった。リビングで乾いた喉を潤しながら、携帯で今日の時間割を確認する。文系であるけれど、連日の七時間授業のおかげで、カリキュラムはほぼ終了していた。そのため今日は体育が二時間連続である以外は、問題演習が主になっている。
「母さんおはよう」
「おはよう伊織。……幸太くんは、もう行ったのかしら」
「みたいだね」
シンクに置かれた二つのコーヒーカップ。母さんら同じ物を持ちたいと考えていたらしいけれど、父さんに宥められているのを見た。当たり前だと思う。真っ白で飾り気のないカップには、二人で生きていた時代が残っているのだから、いい歳をした大人なら考えたら分かるはずだ。母さんは冷蔵庫から食材を出し、手際よく料理を作り始める。油のはじける音を聞き、着替えのために部屋へ戻った。アイデンティティで満たした部屋には、まだ誰もいれたことがない。
壁一面に貼られた風景画のポスター、飾られないまま額に入れられたジグソーパズル、机の上と本棚に置かれた参考書と問題集。鍵のかかった引き出しには、碌でもない現実を詰めこんである。皺のない制服に袖を通して、一息つく。次の模試は土曜か。ここ最近は模試の間隔も狭まってきており、復習はできても予習ができない状況になってきていた。何かに追われた方が地に足ついている自覚はある。けれど、志望校も決まっていない今、追われている事実がただの重りになっている。
ベージュのカーディガンを手に持ち、背中からベッドに沈みこむ。スプリングの軋みと羽毛布団が、やわらかく包んでくれた。昨夜ふきかけた衣類用芳香剤の香りがする。石鹸の香りは強過ぎず、心を落ち着かせてくれた。家を出るまで、あと数十分。たまに見かける不良高校生のように授業をサボりたい。学校に行きたくないと思えば思うほど、どう演じたら良いかが浮かぶ。夏風邪を引いたと母さんに伝えてみようか。起こそうとした上体は、ベッドにくくり付けられたかのように微動だにしなかった。
ブブッと机に置いていた携帯が震える。考える前に体が動いた。送り主の欄には"景"と書かれている。一瞬の戸惑いの後、アプリを起動した。一昨日で切れていたやり取りは、互いに送りあった罵詈雑言。景から最後にきていた「さようなら」のメッセージが、今も存在感を放つ。
『この間はごめん。言いすぎたと思ってる』
簡素な文。後が面倒だから謝ってきたようにも思えたが、こじらせる必要もないと思い、同じように簡単な返信で済ませる。べつに。変換をする気力はまだ出ていなくて、素っ気ない返事になったかもしれない。景も同じように感じたのか、直ぐに電話がかかってきた。普段ならワンコールで出るそれを、今日は少しだけ焦らす。
「もしもし」
『おはよ、伊織』
「……おはよう」
じわりと、ディスプレイに近づけた耳に熱が集まった。
『こないだ怒りすぎた、ごめん』
「いいよ。俺もだからさ」
『伊織って怒ると静かになるよね』
「……そうでもなくない?」
『そうでもないかもしれない』
景の控えめな笑い声につられ、口角が上がったのが分かる。静かな部屋で、時計の秒針だけが規則正しく音を立てていた。
『そういえばさ、弟くんとどうなの』
「特に何も無いけど……あ、今日から林間学校かなにかだった気がする」
床に散乱した教科書、蒸し暑さ。それらが過ぎ去った後、父さんが署名した林間学校行きのプリントを見た。汚い字で書かれた幸太の名前も。
『珍しいね? 修学旅行の代わりとか?』
「いや、修学旅行もあるらしいよ」
『盛りだくさんだねー! 勉強ばっかのこっちとは違うなぁ』
「たしかに」
嫌味なく言う景はすごいと思う。ほとんどの荘王生は馬鹿にするだろうことを、景はしない。落ち着く声を聞いて、布団に寝そべっているせいで、少しずつ瞼が重たくなってきていた。
じんわりと頭が重たくなっていくような感覚があるけれど、景に対しての返事はし続けられた。階下から母さんの呼ぶ声がする。
『伊織、起きて学校行こう』
「今日サボろうとしてたんだけどね」
ベッドの上で体を伸ばし、一息つく。少しだけ清明になった意識が薄れてしまわないように、体を起こした。電話越しの物音で、景も家を出る準備をしていることが分かった。同じように準備をしている。そんな小さなことが——同じ学校に通っているから当たり前のことだが、嬉しく感じてしまう。
置いていたジャケットを羽織り、携帯式の充電器をそのポケットに入れる。
「電話口で叫ぶなよ」
『突発的な声だからどうしようもなかった』
思わず携帯を離すほどの大声に、そう注意すれば、軽い口調が返ってきた。謝罪が欲しいわけでもなんでもなかったけれど、謝罪のない返事に少しだけすっきりとしない心地がする。それでも声を聞くだけで満たされていく心に、惚れた弱みというのが思い知らされた。
「もう家出るよ」
階段を降りながら伝える。ダイニングテーブルには母さんが作った弁当が二つ。朝と昼用の、少しだけ中身の違う弁当が置かれていた。それぞれを丁寧に包んだ弁当を、一つのトートバッグに入れる。いつも使っている水筒は弁当の上に置き、登校のためにカバンを背負う。
『靴履いた?』
「履きに行くとこ」
玄関に続くドアを開けたタイミングで、母さんに、行ってきますと伝える。返事は特に聞こえなかった。電話越しの景が騒がしく、景の妹達が楽しそうにはしゃぐ声も聞こえた。微笑ましいなあと思うけれど、自分の弟を見ても心温まる機会は訪れないと思う。周囲が思うよりも、血の繋がりがもつ鎖は中々の強度を誇っている。
まだ幸太を受け入れられない気持ちが強いのは、事実だ。弟とはいえ、母さんが選んだ人の連れ子で、ただの義理の弟で、他人のくせに母さんを殴った相手だ。少しだけ本音を伝えたあの日から、幸太の雰囲気が柔らかくなったような気がしている。野犬を手懐ける感覚に似ているのだろうか。ばかだから何も考えずに信用しているのかもしれない。打算的に生きられないあいつは、嘲りの対象だ。それでも笑って生きられるのだから、高が知れるのだ。幸太は。
『家出たわー。すずらん公園のトイレんとこで待ってる』
「俺も今出た。三分くらい待ってて」
二重扉の玄関を出る。梅雨が去った外気はつい数日前よりも乾燥し、暑さを伴っていた。カーディガンは無くて良かったかもしれない。目と鼻の先にあるすずらん公園に向け歩く度、体に熱が篭もっていくのが分かった。背中にも汗が流れているような気がした。可燃ごみを持って歩く老婆に会釈し、景が待つ公園へ。
二つ目の小さな十字路を左へ曲がる。自転車に跨ったままの景が、退屈そうに背中を丸めていた。ロードバイクのサドルは、少し窮屈そうだ。白い車体が日光を反射する。眩しい。景という人間が。幸太を思い返した事実を忘れてしまうほどだ。
「景おはよう」
「あっ、伊織おはよ」
横髪と区別がつかないほど伸びた前髪から、景の真っ黒な瞳が覗く。素肌が白いせいで、互いの色味が浮いているように感じられる。ロードバイクから降りた景と歩調を合わせ、駅までの道を進む。引越しをしてからはほぼ毎日、こうして景と登校するようになった。ほとんどは勉強のことを話しながら行く。文理の違いがあるからか、勉強の話を苦に感じることはない。
朝、登校するまでの時間は貴重だ。景と登校するためであれば、いくらでも早く起きられる気さえする。
「話聞いてる?」
「聞いてるよ。俺のクラスの担任が教え方下手って。あいつの授業は自習した方がマシ」
いつも口をへの字に曲げた川邉という担任は、教える気があるのか分からないほど一方的な授業をする。おまけに字が汚く、声も根暗なのかぼそぼそと話しをするため、学生からの評判は最悪だった。景は心底参っているのか、だらだらと意味の無い文句を垂れる。それに相槌を打つだけでも、二人の時間に満足してしまえた。
「やっぱこうして伊織といれんの好きだわ」
ぞわりと、背中を冷えた汗が流れる。勘違いしそうな思考に急いでブレーキをかける。違う。間違えるな。そう言い聞かせる。答えの選択を、景が求めてる選択を。
「伊織はどう? 好き?」
——好きだ。
「普通かな」
「そこは好きって言うとこじゃん」
苦笑いした景に、ごめんごめんと気持ちのこもらない謝罪をとばす。同じように笑って見せながら、その実、吐き出したい思いをしまい込むのに精一杯だった。
「景。あっち着いたらコンビニ寄らせて。朝飯買うか。昼はいつも通り」
「おーけー」
いつも通り、母さんが作った弁当を一緒に食べる。その事実が、また、景からのあの言葉を思い出させた。
■朝、溶けだす淡い期待。
母さんは知らない。景に弁当を渡していることを。
誰も知らない。絶たれかけた関係を。景に好意があることを。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.22 )
- 日時: 2019/08/01 13:18
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: w4lZuq26)
『夏色セゾン』
蝦夷梅雨が終わった。
「おはよう奈良間」
「おっす、はよー」
晴れる日が続いている。そのおかげで、外気温も右肩上がりになってきていた。僕も奈良間も、それ以外の外部も、周りより黒くなっていた。
「林間学校の疲れはとれないよなー」
朝一番の大きな欠伸をする奈良間に頷く。奈良間の話が右から左へ抜けていく。簡単な相槌をうちながら考えるのは、先日の真弘とのことだった。
真弘と話した翌日、久しぶりに真弘の家に行った。ヤニで黄ばんだ壁紙、肩の高さで停滞する煙、苛立っていそうな父親の表情は、昔とひとつも変わらない。小さな変化は、たばこのにおいが昔よりも染み付いていることだけだった。階段の隅に溜まった埃が、明るく映えて主張している。汚いものが目立つ様に、昔の大畠が思い起こされた。嫌に目につく埃を気にしないように意識すれば、より視界に入ってくるせいでうんざりとしてしまう。
案内された真弘の部屋は、昔の面影は一つも残っていない。ずっと当時の真弘を追っていた。頭をガツンと殴られてしまったような衝撃が、衝撃に似た違和感が産まれる。色褪せた戦隊モノのポスターが貼ってあったはずの場所には、濃い青で彩られた海の絵が飾られていた。不釣り合いにも見えるその絵に、僕は惹き込まれた。
「彼女が描いたやつ」
そう言った真弘の目線の先には、僕が見ていた海の絵と、押入れに片付けられた、沢山の額があった。
「海気に入ってんの?」
「別に。あいつが一番嬉しそうによこしてきたから」
海が好きらしい。淡く青が反射した真弘は、どの時よりもやわらかく映った。けれどすぐ、真剣そうに僕を見る。雰囲気が変わったことは、きっとこの場に春輝がいたとしたら気が付いただろう。奈良間は無理だろうけれど。座るよう促されたソファに腰掛ける。真弘は小学生が使うような、学習机とセットで売られている青い椅子に座った。
僕は促されるまま、朝日奈とまた連絡をとる関係になった経緯や、大畠と朝日奈が何をしようと企んでいるのかを、事細かに真弘に伝えた。その上で僕が今考えていること、大畠との付き合い方まで。小学生の頃のように悪巧みをしている楽しさがあったのは否定できない。僕達はきっと、根っこからいじめっ子の性質をもっているんだろう。出てくる案は現実的で、けれど身体的な害のないものばかりだった。たとえやり返されたとしても、僕と真弘なら大丈夫だろうとさえ思えてしまう。
夏が始まる陽気。買ってきたジュースが汗をかき、当初の冷たさを失った頃、僕らは別れた。僕は大輝さんと会わなくてはならなくなったし、真弘は彼女に会いに行くらしかった。真弘から彼女の話題が出たとしても、もう、前に感じた言語化しにくい奥底で湧くような不快感はなくなっていた。
「幸太話聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。奈良間のねーちゃんが好きな俳優と奈良間が似てて嫌だって話だべ?」
「んな話してねーわ!」
勢いよく叩かれた肩は、薄っぺらい制服には守られず大きく音が鳴る。僕よりも驚いた顔をした奈良間に、ニヤリと笑って仕返しをする。
「ヒョロガリ労れよな」
「いってえ! お前隠れゴリラかよ」
「うるさい。で、何の話?」
「お前の兄貴の話」
生徒玄関で脱いだ外靴から出した足は、すでに熱気を帯びていた。窮屈な中で蒸れていることを実感し、無意識に足の指を擦り合わせる。奈良間はスラックスの裾を折り、だらしなく、靴のかかとを踏んで歩き始めた。僕もそれに続く。北向きの玄関はひんやりとしていた。
「兄ちゃん? そんなの」
「いるべ、あれ。いおりさん?」
「ああ」
世間からすれば兄という括りに入った伊織を、まだ心から兄だと思えていなかった事実に、気の抜けた言葉しか発することができなかった。
「こないだ男とホテルから出てきたの見た」
「——は?」
思わず先を歩く奈良間を見上げた。階段の踊り場に設置されたすりガラスから入る光が、奈良間を照らす。
「誰が?」
「幸太の兄ちゃんが」
「男と?」
「男と」
伊織が、男と、ホテルから出てきた。朝だから頭が働いていないわけじゃない。けれど奈良間の言葉の意味が分からなくなった。理解ができない。
「伊織が?」
「うん」
「見間違いじゃなくて?」
階段に腰かけた奈良間が「たぶん違う」、そう答える。それぞれの足を違う段差に載せたまま、まっすぐに奈良間を見ることしかできない。奈良間はいたってまじめな顔で「友達が写真撮ってたのもらったけど見る?」とだけ、僕に訊く。差し出されたスマートフォンを見るだけで、何も答えることができないでいた。
「あ、あれだ! このこと誰にも言ってないからな!」
「え、あ、おう」
手を出してみようかと思った好奇心が、すぐに萎む。自分の知らない伊織を知ることができる。そんな不純な感情が小さくなっていった。奈良間も差し出していた携帯をポケットにしまい、何事もなかったかのように階段を上っていく。その背中を見上げ、奈良間の姿が見えなくなってきたところで、金縛りが解けたように足が進んだ。伊織の衝撃は収まらないまま、ただ思考がまとまらないまま教室へと向かおうとしていた。
「お前の兄ちゃん、めちゃくちゃかっこよかったぞ」
「ああ……。外国の血入ってるらしい」
鼻歌混じりに、先に教室へと入っていった奈良間を追うようにして、教室へと入る。二人しかいない教室の空気は、湿度を伴う気持ち悪さが強かった。
その日一日は何も考えられないまま気が付いた時には下校時間となり、家に帰ってからは部屋から一切出ることなく夜が更けていた。ほのかさんの呼びかけを無視し、扉をノックしてきた伊織のことも、無視をした。お腹は空いていたけれど、それよりも伊織と会う気まずさの方が問題であるような気がしていた。
大畠の考えと、朝日奈の欲が混ざりあった僕らへの復讐案が、少しずつ形になっていく。計画しているところを僕に見せている状況を、二人は何も感じていないのだろうか。仰向けになっていた体を、ディスプレイを見ながら横に向ける。軽快な通知音が数分も待たずに鳴る。二人には僕の既読も届いているはずだけれど、返事をしない僕に文句は言ってこなかった。
空腹で腹が鳴る。けれど食欲は湧いてこない。悶々とした気持ち悪さが胸の中から抜け出さない感覚の方が、食欲よりも勝っているようだった。まだ眠たくないけれど、タオルケットを頭まで被る。黙って呼吸をするだけで、寝具の中に熱がこもっていく。夏は父さんとキャンプに行きたい。行けなくても外で焼肉したいなぁ。そんなことを夏が近づく度に思う。きっとつまらない合宿には行かないことになるだろうし、合宿をしたいという部員すらいない気がしていた。
「幸太」
ひゅっと息が詰まる。