複雑・ファジー小説

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面影は儚く かがちの夢路へ
日時: 2018/10/29 16:11
名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)



あらすじ

「神の棲まう町」と知られる誘並市。そこには『カオナシさま』という都市伝説がまことしやかに噂されていた。
「夢の中にのっぺらぼうの女の子が出てくる」「その女の子の顔を見ると願いが叶う——」
誘並市に引っ越してきた主人公、月島博人はその『カオナシさま』の夢を見てしまい——




こんにちは。初めまして。藤田浪漫改め写楽というものです。7月30日付で改名しました。
小説を書くのはマジで数年ぶりとかになるのでだらっとふらっとのんびりとリハビリがてら執筆していこうと思います。
地味で冗長な山も谷もない小説ですが、どうぞよろしくお願いします。
頑張って4章ぐらいで一区切りするよう尽力します。
ではでは、よろしくお願いします




目次
前編「不在のアバンコール」

 
一章 「Like a dream on a spring night」>>1-11 >>17-25

一話 「隔絶」 >>1
二話 「安穏/Unkown」>>2 >>3
三話 「白縫筑紫/知らぬ慈し」>>6 >>7
四話 「灯籠/蟷螂」>>8 >>9
五話 「文目/菖蒲/勝負」>>10 >>11 >>17 >>18-20
夢話 「春の夜の夢のように」>>21
七話 「加筆/過失」>>22 >>23
八話 「Mess-age :11」>>24
終話 「廃絶」>>25

二章 「Does yellow innocence dream of no face?」
一話 「劇場/激情」>>28
二話 「segno」>>29
三話 「災厄/再訳」>>30


番外「あの日のぼくらへ」

犬飼圭 「MAD ROCK DOG/微睡む毒」>>12-14




お客様
バンビ さま
人工現物感 さま
浅葱游 さま←すこ


Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.22 )
日時: 2018/06/13 07:16
名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

「起きるッス!!ヒロくーん!」

 体の上に何か重い物が乗っかってきた感触。みぞおちが押され、こふっと肺から息が漏れる。
 その衝撃で夢から半ば強制的に覚醒した。寝ぼけ眼のぼんやりとした視界がやがて輪郭を表して来る。布団の上、茶色の塊、その正体がポチだとやっと気付く。

「遅いッスよ!入学二日目にして遅刻するつもりッスか!?」
「……へ?」

 ポチはそんなことを言いながら僕の胸を焦った様子でバンバンと叩く。未だよく回転しないままの脳内は、その言葉を飲み込むのに時間がかかった。彼に上体を押さえ付けられたまま首を動かして、壁に掛けられた時計を見る。時刻は昨日寮を出発した時間をとうに過ぎていて──

「……やっば!」

 僕は軽いポチの体をはじき飛ばすようにがばりと跳ね起きた。ポチはベッドから落ちてカーペットの床にカエルみたいな体勢でひっくり返る。「ぎゃう!」と彼が変な声を出したのを無視しつつ、カーテンのレールに垂れ下げられている制服の方に向かう。

「いたた……、酷いッスよヒロくん!」
「時間がないんだって!ポチ、カバンの中に財布が入ってるか確認して!」
「人使いが荒いッスねぇ!……ん?」

 着ていたジャージを脱ごうとした時に、ポチは驚いたような声を上げた。こんな忙しい時に、と内心苛立ちながらポチを見ると、彼も同様に僕を不思議そうに凝視していた。
 悠長にしていられるシチュエーションではないのに、首を傾げて、眉をひそめて。

「どうしたの?ポチ?僕の顔に何か付いてる?」
「いや……ついてるっていうか……」

 彼にしては珍しくもごもごと言いよどむような口調。言おうか言うまいか迷っているような。

「……?」
「ヒロくん、何で泣いてるんスか?」
「は?」

 僕は驚いて、片目を指でぬぐう。指先に僅かな涙が付着しているのが分かった。ぎょっとするのと同時にもう片方の目からつうっと一筋、暖かいものが頬を滑った。
 慌ててごしごしと両目をこすってから、ポチから見られないように顔を背ける。

「……あくびしたからだよだよ。なんてことないさ」
「あくびしたぐらいでそんなに涙は出ないと思うんスけど……。まあいいッス!遅刻するッスよ!」
「分かってるって」

 僕は着ていたジャージを今度こそ脱いで、白いシャツに腕を通す。脱いだ服はあとでカゴに入れて寮母さんに渡しておかないといけない。だが遅刻寸前の今考える事でもないだろう。
制服に着替えて、カバンを手に持つ。出口の方ではポチが焦るように僕を見ていた。「今行く」と言って机の上に置かれていた文庫本に目を遣った。
 宮部みゆきの『返事はいらない』。昨日筑紫が僕の部屋に置いて行った本だが、重要なのはこの本ではない。この本の中に挟まれていたものだ。自分の姉以外の顔をぐちゃぐちゃに、まるで呪いにでもかけるように塗り潰された一枚の写真だ。何の為に、どのような思いでそんなことしたのか、僕が知る由もない。今日学校であった時に何事も無かったかのように彼に渡すことにするしかなかった。

「何ボケっとしてるんスかぁ! いい加減に遅刻するッスよ!」
「……そんなに怒ることないだろ……」

 その文庫本をカバンの中に入れて、ポチの待っている出口の方に小走りで向かった。何か忘れているものなかったっけ、と頭の中にチラッと何かがよぎったけど今考えている時間はなかった。喉に魚の小骨が引っかかったようなじれったさを抱きつつ、先に部屋を出たポチの後ろ姿を眺めた。

 寮の昇降口で足踏みをしながら待っていたレンと合流して、三人で並んで学校までの道を急いだ。信号が赤になる度にレンは信号のライトを憎らしげに睨みつけていた。僕たちをあざ笑うように猛スピードで横切る軽自動車。歯痒そうな様子のレンとポチを眺めながら僕は今日の朝の事について考えていた。
 涙を流したのは何年ぶりだろうか。飛行機事故で両親を亡くした時だって涙なんて出なかったのに。何故か目が覚めた時、何か大事な物を失ったような、何か大切な物を忘れたような、そんな気がしたのだ。まるでドーナツのように僕を僕たらしめるあるべき穴を、一瞬だけ何かが、誰かが、埋めてくれたような気がした。そしてその埋めてくれた何かが一瞬にして消えてしまった気もした。

 懐かしい誰かと喋る夢を見た記憶はあるが、その詳細はどう頭を働かせても何も思い出せなかった。
 何も。
 何一つさえ。

「つっきー! 何ぼーっとしてんだ! 信号青んなったぞ!」

 レンの声にはっとした。その言葉通り向かいの歩行者用の信号は緑色に光っていて、二人は横断歩道を半分渡ったくらいのところで僕を見ていた。なかなか渡ろうとしない僕を急かすように左折車が傍らで待っている。
「ごめん、行こうか」
 僕は足を進めた。やはり今考えるべきことではないだろう。小走りで二人の横に並ぶ。レンとポチは不思議そうに顔を見合わせたが、「マジで遅刻すっから急ぐぞ!」と言ってから学校の方角に向けて駆けだした。

 やがて白い校舎に辿り着いた。予鈴はまだ鳴っていないようで、遅刻はしないで済んだみたいだ。ショートホームルームの時間がギリギリに迫っているからだろうか、校門の付近は閑散としていた。僕たち以外には誰もいない。静かな学校を見るのは初めてで、何かから取り残されたものを見ているような違和感さえ感じる。
「間に合ったー……!」
と僕の横でレンは膝に手をついて苦しそうに肩を上下させた。熟れたトマトみたいな色の顔色のレンとは対称的にポチは涼し気な顔をしている。
「レン体力無いッスねぇ……。これだから文化部はダメなんスよ」
「う、うるせぇ……、あーきちいわ……。何で朝っぱらからこんな猛ダッシュしなきゃいけねえんだよ」

 恨みがましそうにレンは僕を睨みつけた。まあ寝坊した僕を待ってくれただけありがたいのだろう。起き抜けの運動に荒れ狂う呼吸を押し殺しながら、僕は「今度何かおごるから許してよ」と言った。
 しかししばらく運動してなかったからだろうか、こんなにも体力が落ちていることに自分でも驚いていた。心臓だけ別の生き物になったかのように激しくリズムを刻んでいる。胸の辺りに痛みに似た感覚。部活をしていた中学時代ならばこのくらいの運動は軽くこなせたはずだが、今や息も絶え絶えだ。ランニングでも始めるか、と息を整えながら考えて校舎の中に入った。

 下駄箱はクラス別に分けられている。C組の靴箱の方に歩いて行ったレンとポチを尻目に、僕も自分の靴箱へと向かう。一番下の段だから身をかがめないと上履きを取り出すことは出来ない。胸のポケットに刺したボールペンを少し煩わしく思いながら横開きの戸を開けて、自分の上履きを取り出そうとした時に気付いた。

「……何だこれ……?」

 僕の目に映ったのは一つの封筒。青色の上履きの上で僕を待っていたかのように置いてあった。いつの間に、と頭を巡らせる。当たり前だが、昨日下校した時にはこんなもの入ってなかったので今日の朝ここに誰かが入れたのだろう。
 封筒を手に取る。それは無機質なほど白く、端にシャーペンか何かで『月島博人へ』と僕の名前が書かれている。汚れていたりはしていないまっさらな薄い封筒。中に紙が入っているのが分かる。カミソリの刃や汚物は入ってないみたいだ。とりあえず安堵のため息。
 封を開けてみる。糊が甘かったので開けるのにそれほど苦労しなかった。その中の紙に書いてあったことは。

「なるほどね……」

 見覚えのある字。あいつの顔が脳に浮かんだ。
だったら僕ができることは。

「おーい何してんだー!今度こそマジで遅れるぞー!」
「そーッスよー!」

 なかなか出てこない僕を待ちかねたのか、既に上履きを履いたポチとレンが僕を急かす。僕は立ち上がってボールペンを胸ポケットに入れてから「ちょっとこれ見て」とレンに中に入っていた紙を渡す。
「ん?何だ?この紙」
「靴箱の中に入ってたんだよ」
「へー! ラブレターか何かか?」

 そんな冷やかすような事を言ってからレンは紙に書いてある字を見て、「は?」と間抜けな顔になる。ポチもそれを眺めて「ん?」ととぼけた顔をした。

「何の目的で誰が僕のとこに入れたんだろうね、それ」

 『ホオカゴ オモカゲジングウニコイ』
 漢字にすると、放課後 面影神宮に来い。

「どー考えてもラブレターみてーな色気のあるもんじゃねえみたいだな……」
「そうッスねー…」

 カタカナで書かれたこれは、どんな呆けた頭の頭の持ち主でも恋文では無いことが分かるだろう。 どちらかと言うと、あえて言うと果たし状だ。手紙というよりも、怪文書といった方が正しい。

「マジで遅刻すっからとりあえず教室に行こうぜ!話は昼休みに!」

 焦燥に駆られるようにレンは言う。僕はそうだね、と頷いてその怪文書をカバンの中に滑り込ませた。

 ショートホームルームが始まる寸前で僕はA組の教室のドアを開けた。
 乱暴に開けられたドアが派手な音を立てて、それを合図に教室中の目線が僕にアイスピックのように突き刺さる。まだクラスメイトの名前は一人を除いて全く覚えてない。そんな目で僕を見るなと声を大にして言いたかったが、そんなこと言ったってメリットなんか一つもないことは知っている。
 将棋盤みたいに並べられた机の合間を、目を伏せてくぐり抜ける。僕が通り過ぎた後ろからも名前も知らないクラスメイトからの視線を感じた。登校し始めて二日目で遅刻寸前というのは確かに悪目立ちするだろう、用心しないと。
 ということを考えながら窓際の自分の席に近づいた時に灯の横を通り過ぎた。彼女は僕の顔を見なかった。珍しく無言で自分のオレンジがかった茶髪をくるくると指に巻き付けている。

「……ねえ灯」
「ほ、ほえっ?」

 静まり返った教室の中に灯の呆けた声が響いた。再びクラス中の目線が僕に銃口を向けるように集まる。

「ちょっと話があるんだけど、いい?」
「ん……んん?だ、大丈夫だけど?」
「おっけ、じゃあ後でね」
 彼女の横を通り過ぎて、僕は自分の席の机を引いて座った。机の上に筆箱を取り出してから、横の留め具に手紙が中に入ったカバンをかける。
 黒板の横に今日の日付が書いてあった。4月24日。僕の両親が死んだ飛行機事故が起きた日から早くも半年が経ったみたいだ。
 1分ほど過ぎた時にがらりとドアが開いて担任が教室に入ってきた。教壇の上に担任が上がると同時に、委員長らしい男子生徒が「起立!」と張りのある声で号令をかけた。クラス中が立ち上がり、椅子の足と板張りの床が擦れてがちゃがちゃと煩わしい音が響く。
 ホームルームが終わると同時に僕はポケットの中に手紙を忍ばせて席を立った。向かう先は勿論灯の所へ。

「ねえ、灯」

 後ろから彼女の肩に手を置いた時、大袈裟なくらいにビクリと体を硬直させて、ぎしぎしと壊れたロボットみたいな動きで僕に振り返った。

「ちゃ、ちゃんヒロ……?びっくりさせないでよ!」
「さっき話があるって言ったじゃん」
「昨日倒れた時心配したんだよ?もう大丈夫なの?」
「うん、体調は戻ったよ。すまないね」

 昨日ポチとレンに僕が死んだかのような報告をしたことについては取り立てて言わなくていいだろう。それよりも聞くべきことがある。

「灯、ちょっと見て欲しいものがあるんだけど」
「ん?何かな?」

 首を傾げて見せる灯。ポケットからあの封筒に入っていた怪文書を取り出して「今日の朝届けられてたんだけど」と彼女に渡す。おずおずと彼女はそれを受け取って折られた紙を広げた。

「ほ、放課後?」
「……ん?」
「あ、いや。何かなこれ。ラブレター?」
「これのどこを見てラブレターって思ったんだよ……」
「えー!だってそうでしょー!下駄箱に手紙ってラブレターに決まってるって少女漫画で見たもん!」
「変な漫画の読み過ぎだよ」

 言って僕は彼女から手紙を奪い取る。「あぁー!」と名残惜しそうな顔をして僕の手がポケットの中に入っていくのを見送った。

「で、ちゃんヒロって面影神宮行くつもりなの?」
「まさか。こんな怪しい手紙に従うわけないだろ。ゴールデンウィークにポチとレンと行く予定はあるんだけど」
「ふーん……。おととい鉄板屋でそんな話してたもんね」

 僕の方を向いて鳥のように口をすぼめてみせる灯。

「でさ、灯はこの手紙見てどう思う?」
「ん?んんー。……変な手紙だよね」
「それだけ?」
「うん。誰が出したんだろーね」
「そっか。変な物見せちゃってごめんね」

 次の授業は移動教室だ。早いとこ準備しとかないとな、と灯の席から離れようとした時に「ちゃんヒロ」と小さい声で僕に呼びかけた。

「何?」

 僕は振り返る。片脇に教科書類を抱えて灯は椅子から立ち上がっていた。

「昨日倒れたばっかなんだからさ、無理しないでね」
「……どうしたの?いきなりガラでもないこと言って」
「あ、それでさ。ゴールデンウィークは面影神宮ってすんごい混むからさ。行かない方がいいと思うよ」
「……」

 『行かない方がいい』、か。
 誰があの手紙を渡したかなんてもう分かりきった話だ。
 言うなればこれは、フーダニットではなくてホワイダニット。

「心遣いはありがたいけど、もうポチやレンと約束したんだよ。それに……言ったよね灯、僕は天邪鬼なんだ」
「『来いって言われれば行きたくなくなるし来るなと言われたら行きたくなる』だったっけ?」

 それは一昨日、鉄板屋から帰る時にタクシーの窓越しに僕が言った言葉。

「じゃあ行こうか」
と灯は教科書を胸の前で抱いて僕の前を歩いていった。それに僕も続いた。 


Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.23 )
日時: 2018/07/15 11:04
名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

 二時間目が終わるころから空は少しずつアスファルド色の雲に覆われ始め、時計の針が正午を回った途端にぽつぽつと雨が降って来た。僕が誘並市に来て初めての雨である。
 遅刻寸前でポチにたたき起こされ泡を食いながら登校したものだから傘なんか持ってきているはずもない。机に頬杖をついたまま、窓の外で湿りを帯びていくグラウンドを睨みつける。その間にも少しずつ雨脚は強まっていく。下校するときには止んでくれるといいんだけど。
 やがて昼休みを告げるチャイムが鳴って、僕は財布と携帯だけ持って、レンとポチがいるC組の教室へと足を運んだ。レンのど派手な金髪はかなり目立つのでいい目印になる。「誰だお前」と言わんばかりの視線に迎えられながら、窓際で弁当を広げていた二人の机の方に向かう。僕の顔を見てレンとポチは「ん」と片手を上げた。

「雨降って来たね。傘とか持ってきてないんだけど」

 僕は窓に背を預けながら言った。ポチは幕の内弁当をかき込みながら「むー」と僕の方を見る。

「ふぇんひよふぉうふぇはふぁめふるっふぇ」
「食べながら喋られても何て言ってるか分からないよ。行儀が悪い」

 ポチはごくりとノドを鳴らして口の中にあったものを飲み込んだ。素直なことである。

「天気予報では雨降るって言ってたッスよ?朝の時点で六十パーだったッスもん」
「今朝は天気予報なんか見てる暇なかったからね」
「つーかつっきーは何も食わねえのか?腹減っただろ」
「何も持ってきてないからね」
「購買とか行ってくりゃいいじゃねえか」
「うーん……、金あんまり持ってないし腹もそんなに減ってないからね。大丈夫かな」
「んなこと言うなよほら」

 レンは自分の机の上にあったパンを僕に手渡した。有難く受け取っておこう。

「いいッスねー! レン、僕の分は無いんスか?」
「お前はその弁当があるだろ?……つーかよ」
「僕に届いた手紙の話?」
「そうそう。お前さ、あれどうすんだよ」
「どうするって……、別にどうもしないよ」
「確か……放課後神宮に来いって書いてたよな?どうもしないって事は今日行ったりしないのか?」
「行くわけないだろ、あんな怪しい手紙誰が信じるの」
まあ確かにな、とレンは紙パックのジュースについているストローを口に咥えた。
「あの手紙って今ここにあったりするッスか?」
「僕のカバンの中に置いてきたよ。持ってこようか?」
「いや、無いならいいんスけど。あの手紙、どっかおかしくなかったッスか?」
「馬鹿言うなよポチ。あんな手紙何から何までおかしいだろうが」
「まあ確かにそうッスけど……。なんか日本語としておかしかった気がするんスよね」
「ん?そうだったか?」

 レンは菓子パンを片手に首を捻った。確かにポチの言う通り、あの手紙には不自然なところがあった。それは僕も知っているが、口には出さない。彼らに言っても恐らく得は無いからだ。
 カタカナで書かれた手紙。
 差出人ならもう知っている。

「レン、ちょっと聞きたいんだけどさ」
「ん?どうしたつっきー」
「面影神宮ってどのくらいの広さか分かる?」
「ん、んー……、何平方かとかの話か?そりゃ具体的な数字は知らねえけど……。あそこ結構広いぞ」
「この前僕とレンとで行った時には全部回るのに二時間くらいかかったッスけどね」
「神様の位の高さと神社境内の広さは比例するとは限らない、なんて話は聞いたことあるけど、面影神宮は誘並市を代表する神社なんだろ?」
「お、おう。確かによく誘並ウォーカーの表紙になってるよな」
「あの手紙には面影神宮に来い、とは書かれてたけど面影神宮のどこで待ってるとかは書かれてなかったよね?時間だって同様だ。つまり」
「つまり?」
「つまりあの手紙は悪趣味ないたずらってこと。今日面影神宮に行く必要もないし、こうして貴重な昼休みを無碍にすることもない」

 レンからもらったパンの包装を開けて口へと運ぶ。二人はまだ納得できなそうな目で僕を見ているが、無視するようにパンを一口かじる。舌にまとわりつくようなブルーベリージャムの甘い味。安っぽい芳香。
 この話題はもう終わりにしたかったのだが、二人はそうじゃないらしい。口いっぱいにご飯を頬張ったポチがゴクッと音を立てて飲み込んでから僕に尋ねる。

「あの手紙って本当にヒロくんに渡すつもりのものだったんスかねぇ?」
「ん?どういうこと?」
「どこにもヒロくんの名前書いてなかったッスよね?もしかして誰かが間違えてヒロくんの靴箱に入れたんじゃないッスか」

 それはありえない、と言いかけてから僕は少し逡巡する。

「さあね。詳しいことは僕にも分からないな。そうなのかも知らないし、そうじゃないかも知れない」
「ほえー……」
ポチはよく分からないと言った表情をした。間抜けそうな顔。
手元にある菓子パンの二口目を頂こうと口元に持っていこうとした時。
教室の真ん中の辺りから「よっしゃあーっ!」と叫ぶ声が聞こえた。不意に響いた声に怪訝に思って目を上げると、名前も知らない男子生徒が初めて首輪を離された大型犬のように狂喜乱舞しているのが見えた。

「本当だった!本当だったんだよ!『カオナシさま』の話はっ!」
 馬鹿騒ぎをしているその男子生徒に自然と教室中の視線が集まる。今にも踊りださんばかりに喜びを体中で表す彼を見て、ポチは「一体どうしたんスかね?」と小首を捻る。

「軽音部の朝倉じゃねえか。何があったんだ?」
 訝しむ僕たちをよそに、周りの事なんて知ったこっちゃないといった様子で今も理性の無い猿のようにぎゃあぎゃあと騒いでいる。

「おい朝倉ぁ、どうしたんだよ?いきなりでけえ声なんか出して。うるせえだろ」
気が狂ったように騒ぐ彼の一番近くにいた男子がそう尋ねると、「閃光スポットライトの三次選考に受かったんだよ!黙ってなんかいられねえだろ!?」と彼は目を見開いて携帯の画面を突き出しながら答えた。

「へえ、あいつすげえじゃん」
椅子にふんぞり返ったままレンが感心したように言う。
「ん?レン、知ってるの?」
「まあな。閃光スポットライトっつってよ。例えるならあれだ。音楽の甲子園みたいな感じだな。全国大会みたいなもんだ」
「ふうん、凄いんだね」

 僕は曖昧に相槌を打った。よっぽど嬉しいのか、南国の野鳥みたいな嬌声を耳ざわりなくらいに発し続けている。
 しかし。
 さっき確かにカオナシさま、と言った。つまりあの願いを叶える都市伝説が今目の前で本当だと判明してしまったことになる。

──人生と言うのはことごとく負け戦であるものです──
 あの夢の中の少女が言った言葉がふと脳をよぎる。

 手の中のパンを口の中に一気に口の中に入れ、咀嚼してから飲み込む。
「レンありがとう。ご馳走様」
「お?おう。もう帰んのか?」
「うん。ちょっとやることがあったんだ」
 これは嘘だ。本当はすることなんか何もなかった。
 ただ。ただ目の前であれだけ幸福に包まれている人間を見るのは少し苦手だった。

「今日も僕部活ッスから次は寮ッスね!」

 ポチの言葉にうん僕は頷いてから、よしかかっていた窓から背中を離す。
 少し落ち着いた様子の朝倉と呼ばれた生徒の姿を横目に、僕はC組の教室を後にした。向かうのは一つの教室を挟んだ先の自分の教室だ。

 カオナシさま。
 願いを叶える悪夢。
 正直言って僕は未だ信じてなんかいない。偶然の一言で片づけることなんかいくらでも可能だ。
 ──しかし。
 何か妙な予感めいたものが胸の内で充満している。

 A組の教室はポチ達のクラスと負けず劣らず騒がしかった。読みかけていた『日の名残り』でも読んで時間を潰そうかな、と自分の席まで近づく。そして違和感に気付いた。
 僕はこの教室を出る前、確かに机の横に学生カバンをかけておいた。だが今は違う。机の上に黒いカバンがぽつんと置かれている。
 慌てて机まで駆け寄ってその中を開く。財布と携帯はポケットの中にある故、貴重品が抜き取られているという心配はないが、嫌な予感がふつふつと雲のように湧いてくる。

「……マジかよ」

『ホオカゴ オモカゲジングウニコイ』
そう書いてあったあの怪文書がカバンの中から無くなっていた。

 6校時目の終了を告げるチャイムが鳴り、帰りのホームルームを終えた。何かから追われるように部活生は教室から出て行った。生憎僕はどこの部活にも所属していない故、学校にいても何もすることはない。早々に寮へ帰ってしまおうと窓の外を見て気が付いた。ぱらぱらと雨がまだ降っている。

「……はぁ」

 幸か不幸か正午降り出した時よりも少し雨脚は弱まっている。多少濡れるのを承知で校門付近のコンビニまで駆け込んで傘を買えばいいだろう。そう決めて既に準備していたカバンを手に取って教室を出ることにした。
 ケラケラとふざけ合う生徒たちの合間を抜け、廊下。階段を下りる。
 そして辿り着いた昇降口。今から下校するのだろう生徒の群衆の中に見慣れた秀麗な顔立ちの男子生徒が一人。言わずもがな筑紫だった。僕が来たのに気付いたように顔を上げると「やあ」と片手を上げにこやかにほほ笑んで見せた。

「待ってたよ月島くん。途中まで一緒に帰らないかい?」

 その微笑に僕は思わずぎくりとしてしまう。理由は一つ、昨日見てしまった写真のせいだ。禍々しささえ感じられるほど、真っ赤に塗り潰された顔。殺意でもぶつけているようだった。心なしか僕に向けられたこのたおやかな笑みさえどこか機械めいて見えた。

「……そうだね、丁度良かったよ。傘を忘れたから一緒に入れてくれないか?」
「そんなのお安い御用さ」

 そう言って筑紫はスタスタと自分の靴箱の方まで向かっていった。どうやら余計な邪推はされてないみたいだ。ほっと胸をなでおろす。僕もA組の靴箱まで足を進め、上履きからスニーカーに履き替える。

「そうだ筑紫。昨日僕の部屋に忘れ物してたよ」
「ん?何だい?」

 やたら値が張りそうな傘を片手に不思議そうに首を傾げる筑紫。僕はカバンの中からあの文庫本を取り出して彼に手渡す。「あー!」とおもちゃを与えられた子供のような無垢な顔で彼はそれを受け取った。
「やっぱり月島くんのところに忘れてたんだね。ついうっかりしたよ。すまないね」
 ぱらぱらとその文庫本をめくってから口角を上げて、彼はそれをカバンの中に入れた。
「いや、構わないよ。昨日迷惑かけたしね」

 言いながら二人並んで校舎を出た。筑紫は傘をぱっと広げて僕もそこの中に入れてもらう。どんよりと重苦しい空と僕らの間に傘が割り込む。降雨を受けてペタペタと傘は音を立てる。

「月島くんは本を読むのが好きなんだってね」
 雨の音をかき消すように筑紫は口を開いた。そんなこと彼に言ったっけと一瞬考えを巡らすが確か中学の時によく彼の前で本を読んでいたことを思い出す。

「ん?……うん、そうだよ」
「じゃあさっきの本は読んだことあるかい?」
「いや、無いね。宮部みゆきはあんまり詳しくないんだ」

 僕らの他にも傘を指して歩いている生徒の姿がちらほらあった。雨は歩くスピードを遅らせる。まるで川に流される枯れ葉みたいにとぼとぼと校門へ向かって歩いて行く。

「この本は短編集でね。その中の一つが表題作にもなっている『返事はいらない』っていう話なんだけど。読んでご覧よ。おススメだよ」
「ふうん。どんな話なの?」
「ある失恋した女性がコンピューター犯罪に手を汚すミステリーだよ。揺れ動く女性心理を緻密に書いた話だよ。……そうだ。このラストに『〇〇には返事はいらないでしょう』っていうセリフが出てくるんだけど、月島くんならこの○○に何て言葉を当てはめるかい?」

 筑紫はそう僕に尋ねた。薄く絵の具で線を引いたような瀟洒な笑みだ。雨で一筋の髪の毛が顔に貼り付いているのが見えた。
 その笑顔でさえ、何か他意めいたものを感じるのは気のせいだろうか。

「……そうだね」

 少し考えてから僕は答える。

「……僕だったら『独り事に返事はいらない』ってするかな」
「へえ、面白いね。なるほど……、月島くんらしいな」
「……」
「ちなみに宮部みゆきはこう書いたんだよ」

 足を止めずに、僕の顔を見ないで彼は続ける。

「──『さよならには返事はいらない』って」

 思わず僕は口ごもる。弱い雨が傘に打ち付ける音。
 校門を抜ける。雨が降っているからか、制服を着た生徒の姿は昨日より少ないように見えた。

「告別に返す言葉なんてなくても構わない、なんて美しいとは思わないかい?相手を想う最後の感傷さ。劇中では一方的に別れを告げられた女性がこのセリフを言うんだから尚更のことだよ」
「……」

 どこか。
 どこか今の僕には彼の言葉が紛い物めいて思えた。その人並み外れた美貌さえブリキ人形のような体温のないもののように感じた。
 さよならに返事はいらない。
 ひどく傲慢な言葉に聞こえるのは僕だけだろうか。

「このセリフが僕はとても好きでね。そのページに栞を挟んでいつでも読み返せるようにしてたんだけど」

 その言葉にはっとした。横を通り過ぎる車が水溜まりの中を突っ切って行って、撥ねた茶色の水がびちゃりとズボンにかかった。
 背筋を指で沿われたような気分だ。小雨に白む背景の中、僕の隣で不気味なほど爽やかな笑みを筑紫は浮かべている。傘のJ字の取っ手が僕たちを二つに隔てている。

「そりゃ気付くよ月島くん。……あの写真の事、どこにも多言しないことを約束してくれるかい?」
「ああ」

 僕は平静を装って頷く。

「約束するよ筑紫。──友達だからね」
「あはは、それは良かったよ」

 軽快に彼は笑った。
 それから、僕たちを覆う傘は無言が渦巻いていた。少しばかり歩いてからやっと学生寮飛想館の前に辿り付いた。
 スニーカー越しに染みた水で靴下が生ぬるく濡れている。身も心も不快感にまとわりつかれていた。

「じゃあここまでだね。僕はこっちだから」

 にこりと笑みを作ってから筑紫は僕と目を合わせた。僕はその双眸から逃げてから、花柄の傘を潜り抜けてから飛想館の昇降口の方に向かおうとする。
 早くこの場所から離れたかった。もっと言えば筑紫と早いとこ別れてしまいたかった。
 弱い雨が僕をじわじわと濡らす。躊躇するようにゆっくりと降る雨。曖昧なままでいたいとする僕の様だ。

「あ、月島くん。ちょっと待ってくれるかい?」
「何?」

 筑紫の声に僕は振り向く。彼は差した傘で顔を隠していたが僕を見ているようだった。その先の顔は笑っているのだろうか、それとも真顔なのだろうか。

「昨日さ、僕と灯ちゃんに聞いただろう?“一つだけ願いが叶うなら何を願うか”って」
「……ああ」
「肝心の君の願いは何も言ってくれなかったじゃないか。聞かせてよ。月島くんなら、月島博人くんなら何と願うんだい?君の目には、世界はどう見えている?」

 世界がどう見えてるかって?
 それはこっちの質問だ。

「平穏に過ごせたらそれでいいよ」

 僕は端然と筑紫に言い放つ。

「何も、何も起こらず、誰も悲しまず、誰も苦しまず、悠久に、泰平に、波風も立たず嵐も怒らずずっと凪のままで、安寧に甘んじて、平穏無事に過ごせたらそれでいい」
「それは本当に君の本心かい?」
「ああ、そうだ」

 小雨が肩を濡らした。

「君がそう言うならそれでいいよ。ただ一つだけ忠告させてくれる?」
「……」

びちゃびちゃと。

ばちゃばちゃと。

「水は流れないと腐ってしまうよ。立った波風が砂を運んで新たな土地を形成することもある。嵐の後の快晴が一番綺麗だ。何も起こらない人生なんてただの回り続ける歯車でしかない。それでも君は無の平穏を望むのかい?」
「それでも僕は望むよ」

 僕がそう答えると、「そっか」と彼は真顔で息を吐いた。

「もういい?筑紫。濡れて寒いんだけど」
「うん、じゃあね。また明日会おう」

 ひらひらと手を振って彼は身を翻した。花柄の傘が筑紫の後ろ姿を隠していた。あの花は何だろう。紫色の花。
 彼の姿が見えなくなるまで僕は小雨の中、指一つ動かせないままそこで立ち尽くしていた。ブレザーはずぶ濡れ。筑紫が曲がり角を曲がってから、ようやく僕は「……はぁ」と息をついた。

「何かすげえ疲れた……」

 手に持った学生カバンは雨で鈍い光沢を浮かべていた。濡れたシャツが素肌に貼り付いて体温を奪う。これ以上雨に打たれると風邪を引きそうだ。無数にできた水溜まりを意に介さないで、昇降口へ向かうことにした。
 雨はもう少し降り続きそうだ。

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.24 )
日時: 2018/08/02 23:19
名前: 写楽 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

 学生寮飛想館。自分の部屋のドアノブを水滴の滴る手で捻った。全身を長時間雨に晒されたわけではないが、身体の芯まで冷え切っている。
 あと一週間も経てば五月になるというのに何でこんなに僕は凍えているのだろうか。何というか、黄土色に濁った泥水をバケツ一杯飲まされたかのような気分だ。

 ぐじゃぐじゃに濡れた靴を脱いで、絞ればコップ一杯分は満たせるくらいに同じく濡れた靴下を、廊下に置いた洗濯物用カゴの中に入れる。早いとこ身体を暖めないと風邪を引きかねなかった。ブレザーを脱ぎながら部屋に足を踏み入れて、それをハンガーに通してからカーテンのレールにかける。右胸につけた真新しい金色の校章が、水気を帯びた淡い輝きで僕を見ていた。
 この飛想館は全室個室で洋式トイレとシャワーが各部屋に完備されている。それは生徒のパーソナリティを尊重している故、というわけでは決して無いようだ。この建物は元々はホテルでその名残なんだそうだ。

 制服を全て脱いでからバスルームへ入る。裸足にタイルの冷たさが伝わる。乳白色のバスタブ、謝るように頭をもたげたステンレス製のシャワーヘッド。僕がこの部屋に入居する以前に念入りにクリーニングされたのだろう、水垢一つついてない鏡が僕の顔を映している。ワカメみたいに濡れた前髪が目を隠している。 
 浴槽に水を溜めて浸かる気にはなれなかったので、レバーを上に向けてから赤の印が入ったハンドルを捻る。しばしの間シャワーから吹き出す水に頭を差し出す。雨に降られて冷えた体には心地良い。昔からシャワーを浴びるには好きだった。物思いに耽る事が出来るし、汗も雑念も屈託も洗い流せる。小さい頃から、詳しく言えば小学生の頃から親から有無を言わさず剣道をやらされていたのだが、防具にこびり付き道着にまとわりつくあの独特の匂いが噎せるほどに嫌いだった。物心ついた頃から受動的で自主性もなく両親に黙従していた僕ができた唯一の些細な反抗が、あの嫌いな匂いを身から清める事だったように思える。
 まあ、今は親なんてとっくに死んでしまったし、剣道をやる義務なんてどこにもないんだけど。

「……ふぅ」

 シャンプーを手のひらの上に落として髪につける。白い泡が次々と湧き出てきて、こめかみから顎筋までをなぞる。
 いくら浴室では物思いに耽ることが出来るからといっても、今の僕には考える事が多過ぎる。願いを叶えるのカオナシさま。あやめという女の子。筑紫の精巧なブリキ人形のような顔。今日受け取った怪文書──いや、これは誰が渡したなんて分かりきってる。思考するだけ無駄だ。
怪文書だけの話ではない、カオナシさまだって、顔も知らない女子の事だって同様に考えても詮無きことだ。
 コンディショナーはミルクみたいに白い。いつもやってる通りに髪に馴染ませてからシャワーの水で流す。
 厭悪をぶつけるようにぐちゃぐちゃに塗りつぶされた姫菜以外の顔。瀟洒な仮面の下に隠された筑紫のもう一つの顔。
 あと十日後──ゴールデンウィークになれば姫菜がこの誘並に訪れるらしい。彼女と会うのは九ヶ月振りとなる。彼女と会えば何かが変わるような気がする。ビー玉が床に落ちるように、何かが確かに変わる気がする。
 ハンドルを捻って水を止める。前髪からぽとぽとと雫が垂れ、バスタブの排水孔に渦がつむじ状に巻く。浴室の外にあらかじめ置いていたバスタオルで全身を拭いて、生乾きの髪のままジャージに着替えた。少し湿ったタオルをカゴの中に入れて火照った体のまま、今からのんびり本でも読もうかと部屋のドアノブを握った。

「おーっす、来てたッスよ!」
「……」

 声の主はポチだった。ドアを開けた僕の方を向いて軽やかな口調で言ってみせた。ベッドの上で僕の本を読んでいる。僕の本棚から抜き取ったのだろうか。

「……いつから来てたの?」
「ぬー……、シャワーの音が起き始めた時ッスねー。十分前ぐらいッスかね」
「部活もう終わったの?」
「あれ?言ってなかったスっけ?」

 そこでポチはベッドからむくりと起き上がって読んでいた本を閉じた。表紙が見えた。道尾秀介の文庫本。僕が人生で読んだ本の中で一位二位を争うほどの好きな本だ。

「今日雨降ってたじゃないッスか。グラウンド使えなかったから軽くストレッチして終わりだったんスよ」
「ふーん、そうだったんだ」

 つまりもう少しポチを待っておけば筑紫と一緒に帰らないで良かったのだろう。というか間違いなくその話は聞いてなかった。

「暇だったから適当な本読んでたんスけど……あんまり面白くないッスねえ」
「本当に?それ僕のお気に入りの小説だよ」

 『向日葵の咲かない夏』。ミステリー作家道尾秀介の作品の中でもずば抜けて異質で、ずば抜けて難解。爽やかそうなタイトルと表紙と裏腹に、その内容は極めてどす黒く醜悪でグロテスク。

「文字ばっかでよくわかんないッスよ。あの本棚めっちゃぎゅうぎゅう詰めの癖に漫画とかないじゃないッスか」
「僕小説しか読まないからね……」

 ポチはベッドの上を這い這いで進み、本棚の隙間の中にその文庫本を差し込んだ。見ればベッドの端に彼のものであろう制服が雑に丸められていた。彼は白いワイシャツ姿だ。僕はベッドの傍らにあるソファーに腰を下ろした。

「そういえばポチ」
「ん?何スか?」
「カオナシさまにさ、何かお願いするなら何て願う?」
「……うーん、そうッスねぇ……」

 ベッドの上で顎に手を突くポチ。
「僕だったら……、ボールを投げれるようになりたいッスかねぇ」
「ん?」

 一瞬ふざけてるのかと思ったのだが、彼はいたって真面目な顔だった。ふざけてるどころか、思いつめたような、車に轢かれた動物の死骸を見たような苦い表情。

「いつか言うッスよ」

 一転していつも通りのにこやかなポチ。だがどこか無理しているような、無理に作り上げた粘土細工みたいな笑顔だった。

「まだ雨止まないッスねぇ」

窓の外を見つめる。正午から降り出した雨は依然降り続いている。この室内からでも雨が屋根を打つ音が聞こえていた。

「今日の夜はどうする?食堂にする?」
「ぬー、レンが帰って来たらどっか行くッスかねぇ。ラーメンとか」

 そこでドンドン!とすごい勢いで入口のドアが外側から叩かれた。びくりとして僕とポチは振り返る。

「ん?レンッスかね?もう帰って来たッスか」
「……誰だろうね?」

 レンだったらあんな強い力でノックしたりしないだろう。このドアには鍵なんか備えられていない故、レンならばとっくに入ってきているだろう。あとは考えられるといえばここで働いている寮監さんとかだろうか。それも同様にこう激しくドアを叩いたりしない。
 再度ドンドンドンと三回、執拗にドアが鳴った。部屋の外から僕らを威嚇しているような音。

「ちょっと見てくるね」
「あ、僕が見てくるッスよ。たまーに寮母さんがお菓子作ったとか言って持って来るんスよね。寮母さんだったら僕の方が慣れてるッスから」

 言うが早いか、ポチはぴょこんとカエルみたいに飛び起きては廊下の方に向かってとことこと消えていった。
 さっきのノックの主は誰なんだろうか。少し頭の中で考えてみる。少なくともレンという線は考えづらい。僕に部屋に用がありそうな人物はかなり限られる。レンではないのなら筑紫だろうか。いや、筑紫だったとしてもあんな勢いでノックなんかしないだろう。だとすれば残されるのは──
 数呼吸置いてから「はーい、どなたッスかー?」というポチの声と、その後にドアを開けるガチャッという音。

「──まします──」

 廊下の方から聞こえてきたのは女性の声だった。それも灯のものではない。もっとピキリと張った針金のように鋭くて凛とした声。ここからでも冷たさを感じる声色。それと重なるように「えっ……、ちょっ……」とポチの狼狽する声。
「ポチー?どうしたー?」

 問いかけて見ても彼の応えはない。代わりに返ってきたのはドアの閉まる音。

「ちょ、ちょっと待っ……!」

 焦ったポチの様子が耳で聞き取れる。流石に僕も座っている場合ではない。廊下の方からどちゃどちゃと争うような音。よく考えなくても異常事態だ。彼の方に向かおうと椅子から立ち上がった時、ガバリとあちらからドアが開かれた。
 目に映ったのは、天照高校の制服を着た背の高い華奢な女の子。

「御機嫌よう。月島博人さん」

 その女の子は僕を睥睨しながら温度を感じさせない冷たい声でそう言った。ノンフレームの眼鏡。長い髪を後ろで一つにくくった、理知的な佇まい。一見すると地味な文学少女のようにも見えるが、眼鏡の奥の眼光はネコ科の猛獣を彷彿とさせるほどに鋭い。
 一度見ればとても忘れられないほどの印象的な姿。そして僕は、彼女の風貌に見覚えがある。

「ちょ、ちょっと待つッス!いきなり入って来て何の用なんスか!?えっと……そうだ、とっとと出てかないと寮監さん呼んでくるッスよ!」

 女の子の背後で不審者に出くわした犬のように騒ぐポチ。現役運動部員の彼ならば力ずくでこの眼鏡の女の子を部屋の外に叩き出すことなんて容易いことだろう。しかしそれをしなかったのは彼の中の甲斐性なのか、それとも彼女の目力の所為だろうか。

「少し耳障りですよ。黙って下さい」

 後ろのポチにピシャリと女の子は言い放って、僕の方に向かって一歩、足を踏み出した。

「……えっと……」

 まるで蛇に睨まれた蛙のような気分だ。もしくは肉食獣に遭遇したひ弱なシマウマか。

「お久しぶりですね。一昨日に会った以来でしょうか。どうです?『ともみ』について何か思い出せましたか?」

 ともみ。
 カオナシさまとはまた別の、夢の中の女の子。
 朧げに脳裏に焼き付いた、黄色の花畑の中で消えた少女。

「……君が『あやめ』っていう人?」
「……ええ、そうですよ。詩苑あやめと申します。以後お見知り置きを」

 彼女は新月に近付いた三日月みたいに口角を上げた。だがその微笑みに親愛の情や友好の念などは欠片ほども見当たらなかった。目は一切笑ってなんかいない。

「少し月島博人くん、あなたとお話ししたいことがあるんですが──一名ほどこの場に不必要な人がいらっしゃいますね」

 女の子──あやめは後ろにいたポチの方に振り向く。そのポチは「えっ、僕ッスか!?」と自分の顔を指差した。

「そうに決まっているでしょう、犬飼圭くん。脳みそまでニックネーム通りになってしまったのですか?」
「ちょっ、ちょっと待つッス!何で僕の名前を知ってるんスか!?」
「そんな事答える必要はありませんよ。邪魔だと言っているのです。今すぐ自分の部屋に戻って下さい」
「……」

 あやめの肩越しにポチは僕を見る。助けを求めているような目だ。僕はふうと一息吐いてから彼に言う。

「ごめん、ポチ。すぐに終わらせるからちょっとこの場は退いて欲しい」
「ヒロくんがそう言うなら……」

 渋々といった面持ちのポチ。しゅんと肩を落としてトコトコと廊下に向かっていった。ゴトンと控えめにドアを閉める音が後から聞こえた。

「で、ポチは帰ったけどさ。一体僕に何の用なの?皆目見当もつかないんだけど」

 僕はあやめに問いかける。対する彼女は変わらぬ無表情のままで答える

「白縫筑紫くんに渡して頂くように言伝たはずですよ。剣道同好会の入部届。まだ私に渡ってないようですが」
「あー……」

 完全に忘れていた。確かに筑紫から貰っていたのだけど、その後に色々とあったので頭の中から優先順位の低い事項として消えていたのだ。恐らく今も学生カバンの中にあるだろう。

「でも待ってよ。僕はまだ入部──いや、同好会だから入会か、どっちでもいいけど入るとは決めてないよ」
「あなたに入って頂かないと私が困るのですよ──私が」

 あやめはそこで一旦言葉を切って、そのまま早口で続ける。

「もうこれは決定事項なのですよ、月島博人くん。あなたがこの誘並に来た以上、私とコネクトを繋げなければいけません」
「……」

 コネクト。まるで製品みたいな表現を使うものだ。

「あなたが強情な愚か者であることは私も重々承知してます。だから──交換条件です」

 あやめはそう言ってか、ブレザーの胸ポケットの中に手を突っ込む。一秒の間も置かないでそこから何かの紙を取り出した。

「今日の昼休みにあなたのカバンの中を調べさせて頂きました。入部届を書いて来ているか見たかったのですが──面白いものを見つけました。あなたは入部届なんか書いてなかったわけなのですが」

 言いながら、手に持った折りたたまれた紙を広げる。刑事ドラマで警部が警察手帳を示す時のような所作。そしてそれは見覚えのある紙。

「『ホオカゴ オモカゲジングウヘコイ』……ですか。どうやら面白いことに巻き込まれているようですね」
「……君が盗ってたの?」
「ええ、見たまま、その通りです」
「……何のために?」
「言ったでしょう?交換条件ですよ」

 あやめはのそりと僕にゆっくりと近づいてくる。一歩、また一歩と。眼鏡の奥から睨め付けたまま。今から捕食せんとする肉食の恐竜みたいな、鋭い瞳のまま。

「私ならば三日間とあれば容易くこの手紙の送り主を特定することができます。あなたが望むなら──の話ですが」
「……」
「それだけではありません。あなたが不可思議に思ってること、例えるなら『カオナシさま』、例えるなら白縫姉弟のこと──その全てをあなたに明らかにする事が出来るのです」
「……」
「あなたにはデメリットはないでしょう?差し置いてメリットもさほどないようですが。──しかし、どうしたってあなたには私たちの所に入って頂きたいのです」

 有無を言わせぬ口調。見るからにその言葉の奥に何らかの意図があるのが分かるが、それが何なのかは見当もつかない。

「あなたに決定権を与えましょう。今から私があなたにこの手紙を差し出します。あなたが私との糸を拒むのならばどうぞ、これを受け取って下さい。あなたが望むのなら私もこれまでにしましょう。そして私たちの5本目の轍になってもよろしいなら、この手紙を受け取らないで下さい」

 言葉の通り、彼女は僕の胸辺り目掛けてあの怪文書を差し出した。少し湿っているようだ。よく見れば彼女の細い腕にもいくつか雫が控えめに浮かんでいた。

「……」

 僕は。
 僕はその手を、その手紙を。

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.25 )
日時: 2018/08/06 04:20
名前: 写楽 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

「人間が生を全うする上で、痛みというものは常に背中合わせにあるものです」

 少女は言った。
 僕は顔を上げなかった。

 いつか見た、薄暗い教室。どろりと肌を舐めるような不快な空気。僕は椅子に座ってじっと身動きもせずに頭を下に垂れていた。
 教卓に座っているのは少女。顔は見ることはできない。
 カオナシさまの夢だ。

「赤子は命を授かってしまった痛みで泣き叫び、成長痛と共に目線が高くなり、そして激しい痛みに耐えながら傲慢にも新たな命を産み出します。どうしたって人間として息を賭していく以上、痛みは決して逃げられない不可避なものなのです」

 不可避。
 アトロポスの槍。
 どこまで行っても付いてくる月のような──

「ではどうして人間は痛みを感じるのでしょうか?人の子よ、あなたの考えを聞かせて頂きましょうか」

 僕は何も言えない。何も言わない。

「答えは簡単です。死んでしまわないようにするためです。己の体に傷がついたことに気付くようにするためです。この仕組まれたプログラムが無ければ──人が痛みを感じる事がなければ、人間は今ほどの繁栄を手にしていなかったでしょう。七日間で世界を作り上げた愚神が唯一生命に与えた命綱のようなものです」

 少女の声に温度はない。人間らしい温もりや抑揚がまるで皆無だ。僕にでも理解できる言語で喋っているはずなのに、うまく飲み込めない。まるでモールス信号を聴いてるみたいだ。

「心の痛みにしたって同様です。しかしその施しが、波に攫われる人間に神が手渡した一束の藁が、仇となって人は死を自ら死を選ぶこともあります。皮肉なことですね。人間が壊れないように設定したはずが、その痛みを忌むあまりにあっけなく壊れてしまうなんて」

 少女は言った。
 僕は顔を上げなかった。

「回る日常の中で、痛みを悼む暇もなく甚振られるだけ。

「さて、あなたは新しい世界で色々な人に出会いました。繋がりを持ちました。どうですか?ここに来る前のあなたと今のあなた、何か一つでも変わる事が出来ましたか?」

「そうでしょう。変われるはずなんてないんですよ。所詮人間は一人でしか生きられなく、何者にも影響を与えることなんて出来ず、与えられることもありません。一匹狼の群れは一匹狼の群れでしかなく、花束なんて花の集合体にしか過ぎない。いくらあなたが多くの人と出会おうともどこまで行っても何をしようとも結局あなたは一人なのです」

 少女は言った。
 僕は顔を上げなかった。

「あなたの友達──あの金髪の軽薄な少年も、あの茶髪の痴れた少年も、あの気障な少年も、頭の弱い少女も、皆私の顔を見て願ってますよ。どうですか?そう頑固に首を垂れていないでこの私の顔をご覧になるつもりはございませんか」
僕は、顔を上げない。
「ふふ、強情な愚か者ですね」
そう言って少女は笑ってから。
「また近いうちに再びあなたの元に相見えます。それでは──」
僕は、顔を上げなかった。
「また夢の中で逢いましょう」


一章「Like a dream on a spring night」 了

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.26 )
日時: 2018/08/13 20:15
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: rtfmBKef)


 こちらでは初めまして、浅葱といいます。
 更新の度に面影を楽しく読ませていただいております。

 浅葱個人としてはレンくんが最高にかっこよくて好きですが、一人称独白主人公が視点の作品を書いている共通点から博人くんも好きです。ポチくんも元気でめんこいという印象だけではなく、番外編を見ると彼なりの悩みがあるにも関わらず、表にそれを見せない姿がある事実が男の子っぽいなと思いました。こうした男の子らしさを自然に描けるというのは、やはり性別の壁があるんだなと自身の未熟さや、壁に手が届かない歯痒さが強いですね。うらやましくもあり、素敵な書き方だと思いました。

 特に好きなシーンとしては、ポチくんは>>20の博人くんとの会話の部分です。
 >>「……そうッスね、僕だったら──」
 >>少し含みを入れて、彼は自分の右手を物憂げに一瞥してから言った。
 >>「──中学の時に戻りたいッスねぇ」
 の部分ですね。勝手な想像と妄想で、この時にポチくんが感じていたであろう気持ちや、思い出された過去のことなどを想像すると、心が辛くなりました。番外編を先に読んでいたこともあり、なお、重たいけれど心底の願いなんだなと感じました。好きです。

 博人くんの独白のような視点の全てが好きですが、特に夢話>>021が好きです。要らない考察が進んでしまいますが、夢が持つ意味とか、夢で出会う少女との関係がどのようなものであるのか等々、謎が残っていることが、読んでいてとても楽しみです。その謎をどのように写楽くんが綴っていくのか、非常に楽しみです。

 レンくんは今後出番が増えたらいいなと密かに願っています。今だけでは、十分にレンくんの好きなところを抽出するのが難しいので、またの機会にお伝えさせていただきます。

 本をよく読んでいることもあり、語彙や作品の雰囲気が素敵だと感じながら更新の度に読ませていただいています。言葉の止め方によるリズムの生まれ方、テンポ良く進んでいく会話も、読んでいて飽きることがないのはすごいなと思います。文量が多くても読めるのは、写楽くんのそうした書き方によるところが大きいのだろうなと思いました。
 ずっと明るい調子で進んでいるわけではないのだろうけど、灯ちゃんがいるとぐっと無理にでも前向きになっているんだなと思いました。その分、ともみちゃんと博人くんの会話の切なさが際立っている感じがします。話をする相手によって、間に流れる雰囲気や空気が変わることが分かるのも、読んでいて感心してしまいますし、自分もそうなりたいなと思います。

 ここまで長々と書いてしまいましたが、面影ファンということで大目に見てください(笑)
 あと、心の中では博人くんはちゃんヒロ、レンくんはレン、ポチくんはポチくんって呼んでます。好きという気持ちを言葉で表すのが難しく、まとまりのない文ですが、面影の読者でよかったと思いました。
 面影を生んでくださってありがとうございます。これからも、完結まで追い続けると決めていますので、無理のないよう更新してください。


 浅葱


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