複雑・ファジー小説
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- ムーンタワー
- 日時: 2018/10/02 21:51
- 名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: hd6VT0IS)
嗚呼、私のムーンタワー。どうか、私たちの罪を照らさないで。
- Re: 月の裏側 ( No.2 )
- 日時: 2018/09/16 21:15
- 名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: oL1jw7AM)
- 参照: 空蝉
ぱちり、ぱちり。カメラのシャッターを切る、という行為は、まばたきに少し似ている。
姉にもらった一眼レフは、重たい。僕にはもったいないくらい上等なこのカメラは、姉が病気になる前、バイト代でプレゼントしてくれたものだった。
少し歳の離れた姉は、僕にとっては姉というよりも母のような感じで、本当の母に嫌われていた僕にとって、唯一打ち解けられる人だった。
ぱちり、と道路に横たわったアゲハ蝶を撮って、平日の真っ昼間、僕は歩いてゆく。絶賛、不登校中で、夏休み真っ只中であった。
歩く度に、首にぶら下げたカメラが揺れる。最近膨らみかけてきた胸に当たって少し痛かったけれど、あまり気にしない。僕が僕であるための、痛みのような感じがしていたから。
家を飛び出して、商店街を突っ切って、この現実からの逃避行の最終地点である公園に今日も辿り着く。過疎っていて誰もいない公園のベンチに座り、リュックサックの中から水筒を取り出した。幼稚園の頃から使っているコップつきの水筒は、僕のお気に入りだった。
こぽこぽこぽ、と小さなコップにお茶を注いでいくと、水面にムーンタワーが浮かび上がった。この街の中心にある、小さなタワー。遠い昔に建てられて、今は捨てられたタワー。何処かの県に、錆び付いて動かなくなった観覧車があったと聞いた。観覧車は、今は解体されて外国にあるらしい。このタワーもそうすればいいのに、と思った。
ゆうらり、と揺れるタワー。僕はそれを飲み干した。ムーンタワーは僕のお腹の中で消化される。
10分遅れの公園の時計は、13時を指していた。商店街の駄菓子屋さんのお婆ちゃんはこの間死んだ。僕のお昼ご飯はいつも、お婆ちゃんのくれるおにぎりだった。母もそれを知っていて、わざと昼食を作らない。お婆ちゃんは熱中症で死んだ。
夏は、死が多い。活力に満ち溢れたような季節であるのにも関わらず、あちこちに蝉の死骸が落ちている。今も、ミーンミーン、と、死んでいった仲間たちを悼むように鳴いている。そんなこと、あるはずもないけれど。
死骸よりも多いのが、蝉の抜け殻だ。僕はこれを空蝉、と呼ぶことを好む。まるで、名前の中に「蝉」が生きている、僕みたいだと思うからだ。
ベンチから立ち上がって、茶色い空蝉を近くの木から取り上げて、ぐしゃりと潰す。先程まで確かに蝉の形を保っていたものは、一瞬で粉になった。見た目だけは立派で、中身は空っぽ。
せみる。お前のことだよ。
汚れてしまった手をぱらぱらと振って軽く綺麗にする。帰ろうと思った。母は、お婆ちゃんが亡くなったことを知っている。きっと病院へ行く前に、おにぎりを作ってくれているはずだ。僕のことが嫌いな母は、しかしそういう人だった。
歩き始めようとしたとき、ふと目に入ったムーンタワーに気を取られて、草むらの中に何かがあるのに気づいた。この公園は、普段から僕以外に誰もいないし、遊具以外のところは雑草が生えていて、なかなか近づかない。それをいいことに、不法投棄でもしているのだろうか。
この周辺だけ何故かものすごい長さに伸びた草むらを掻き分けると、そこには色褪せた青いベンチがあった。ひっそりと佇むその様は、まるで秘密基地のようで、ずっと昔から、誰かの逢瀬を見守ってきたかのようだった。今まで何度も訪れていたこの公園に、こんなものがあるだなんて、知らなかった。
そして、春になれば桜が咲くであろう木の下の地面が何故か露出していた。野良犬か何かが掘り出したのだろう。丸くて薄汚れた、ネットで何度も検索したような、僕のうつくしいものがそこにはあった。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている、か」
一歩後ろに下がって、首にぶら下げたカメラを構え、ぱちり、ぱちり。闇色の眼窩が、真っ暗闇の中から、僕を見つめている。ムーンタワーと、青いベンチと、誰かさんの骨。僕の一眼レフは、静かにまばたきをした。
- Re: 月の裏側 ( No.3 )
- 日時: 2018/09/12 00:37
- 名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: cPhhCYqG)
警察署から出てすぐに、僕は頬を叩かれた。痛い、と呟いたけれど、母は何も言わずに僕を置いてずんずんと歩いてゆく。
あの後すぐに警察に連絡をして、色々と事情を聞かれた。その過程でもちろん家にも電話をかけられ、母が迎えに来た。僕を見た母はものすごい顔をしていて、これはまた嫌われたな、と先を行く母を追いかけながら、僕はため息をついた。
桜の木の下に埋まっていた骨は、誰のものなのかはわからない。これから警察が調査していって明らかになるのだろうけれども、白骨化していたということはけっこうな時間が経っているんだろう、と思う。あの公園の雑草があの辺りだけ無駄に育っていた理由がようやくわかった。
「私はこれから病院に戻るから、あなたはこれで何か食べなさい」
小走りで追いついた僕に、僕の方を見ることもなく、彼女は1000円札を押し付けてくる。僕を迎えに来たときにわざわざ持ってきてくれたおにぎりは既になくなってしまったし、あれだけじゃまだ足りない。それに随分と拘束されていたから、もう夕食の時間になってしまっていた。
「姉ちゃん、調子どうなの」
「ずっと眠ってるわ」
素っ気なく返して、母は歩いてゆく。僕は立ち止まって、じゃあね、と言った。母は立ち止まらない。返事はなかった。
「さて、と」
夕陽に包まれたムーンタワーを背に、僕は受け取った野口英世の使い道を考えることにした。コンビニで何か買って、家で食べようかと思ったけれど、近くにファミレスがあったことを思い出して、重い足を動かし始める。
ムーンタワーに近いこの場所は、それなりに発展している。駅だってあるし、映画館だってある。所謂田舎の中の都会だった。周りには田んぼと畑しかない僕の家は、ここからしばらく歩かなければならないので、暗くなる前に帰らなければ。
仕事帰りのサラリーマンや、この辺の高校の制服を着た学生たちがまばらな人混みをしばらく歩いて、僕はファミレスに入った。カラカラ、と安っぽい音が響いて、いらっしゃいませ、とスマイルで店員さんが僕を迎えてくれた。
「あれ、せみるくん?」
先手を打って1名様だ、ということを伝えようとしたとき、その店員さんは突然その声を親しげなものへと変えて、僕の名前を呼ぶ。柔和な笑みを浮かべるその人には確かに見覚えがあった。
「久しぶり、花依さん」
「久しぶり! あっ、よかったら待ってて。もう交代の時間だから」
厨房の方へ走り出した花依さんを見た他の店員さんは苦笑して、取り残されて立ち尽くす僕を空いている席まで案内してくれた。本当に交代の時間だったのだろうけれど、突然いなくなってしまうのはどうかと思う。こういうおっちょこちょいなところは昔と変わっていないな、と思った。
運ばれてきた水を飲んで大きな氷を舌で転がしながら、ぼーっ、とメニューを見ていると、着替えた花依さんが僕の前に座り込んできた。かなり急いで来たみたいで、茶色く染められた髪が乱れてしまっている。
「何にしよっか。私はここのたらこスパゲッティが好きだな」
「じゃあ、僕もそれにする」
すみません!と彼女が店員さんを呼ぶと、先程彼女の代わりに僕を案内してくれた店員さんがやってきて、彼女はすみません……と頭を下げた。その様子が無性に面白く感じて、僕は声を上げて笑う。彼女は恥ずかしそうに、たらこスパゲッティを2つ、と呟いた。
「それにしても、本当に久しぶりだよね。えーと、私が高1の頃以来だから……6年ぶり?」
「多分。僕が今中2で、最後に会ったのは小2だったから」
「わー、すっごい大きくなったよねせみるくん。でも、あんまり顔とか変わってないから、すぐにわかっちゃった」
「そういう花依さんも、あんまり変わってないね」
「やだ、子供っぽいって? これでも22歳なんだよ」
くすくす、と彼女は笑っている。髪の毛の色や、化粧をしていることで顔なんかは変わってしまったけれど、身に纏う雰囲気はほとんど変わっていない。だからこそ気づけたのだけれど、小学生の頃、僕の家に来て遊んでくれた彼女の声と笑顔は、今でもよく覚えていた。
「せみるくん、中2ってことは来年受験か」
「……うん」
なんとはなしに振られた話題に、僕はぎこちなく頷いた。そんな様子に彼女は何かを察したのか、口を閉じて、目線を下に彷徨わせる。マスカラやアイシャドウで彩られた目元が鮮やかで、姉のものとは随分と違うな、と思った。
「月子、元気? メールを送ったりはしてるんだけど、返事が返ってこなくて」
「……眠ってるよ」
そっか、と呟いた彼女の顔は暗くて、窓ガラスに映る僕の顔も、闇色をしていた。もう夕陽は沈んでしまったらしい。外を歩く人の中にぼんやりと見えるムーンタワーは光を放ってはいなくて、外灯だけが街を照らしている。
「ムーンタワー、私が高校生の頃までは光ってたんだよ」
「あれが?」
「そう。ほら、この街ってこの辺を離れたら全然発展してないでしょ?高校生のときは、よくムーンタワーのライトに照らされて、帰り道を歩いてたなぁ」
彼女も僕の視線を辿ってそれを見ていたらしい。いくらか表情を明るくして、懐かしそうに話した。
ムーンタワーが何の目的で作られたのかはわからないけれど、あれが光っていた思い出はあまりない。僕は昔っから外の世界に馴染めなくて家にばかりいたし、夜はすぐに眠ってしまう子どもだった。
小学生の頃は、毎日のように花依さんが家に来て、一緒にゲームをしたり、本を読んだり、話をしたりしていた思い出で埋め尽くされている。
それなのに、彼女は突然家に来なくなった。6年前のある日。
「今日はもう遅いし、これ食べ終わったら車で送ってあげるね」
いつの間にかテーブルに置かれていたたらこスパゲッティを、彼女はフォークでくるくると絡めとる。
「花依さん、免許持ってるの?」
「もちろん。もう大学院生になるから」
22、という数字が頭を巡る。姉も、本来ならこうやって日々を過ごしていたのだろうか。花依さんは大学院生。なら姉は、就職活動にでも奔走しているのかもしれない。
フォークを手に取って、僕もたらこスパゲッティを食べ始める。しかし1口食べて、予想もしていなかった辛さに慄いた。
「間違えた。これ明太子スパゲッティじゃん。たらこスパゲッティがあったのは前のバイト先だった……」
- Re: 月の裏側 ( No.4 )
- 日時: 2018/09/16 20:35
- 名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: oL1jw7AM)
何かを焼くいい匂いで目が覚めた。うーん、と伸びをすると、僕は顔を洗うために、ベッドから起き上がる。昨日抱いて寝たはずのイルカの抱き枕は何故か部屋の隅に転がっていて、はて、と首を傾げる。僕の寝相について、昔姉は「壊滅的だ」と言っていたことを思い出した。
枕元に置いていた、姉のお下がりであるガラケーを手に取って、いつものようにメールボックスを開く。新着メール0件、という表示はいつまでたっても変わることなく、ふぅ、とため息をついて、僕は階段を下りることにした。
「おはよう」
キッチンに呼びかけても、いつものように返事は返ってこない。それを気にすることもなく顔を拭いたタオルをそのまま首に下げ、キッチンに行くと、母は目玉焼きを焼いていた。
冷蔵庫から水を取り出し、グラスに注いでがぶがぶと飲む。朝1杯の水が健康にいいのだと、テレビで見た。
「私はこれから病院に行くから、あなたは食パンとこの目玉焼きでも食べなさい」
「はーい」
母が命令口調なのは相変わらずだ。特に、食べ物に纏わることが多い気がする。それでも、こんな僕のためにご飯を用意してくれるなんて、母は優しい人だ。
テーブルの上に無造作に置かれた5枚切りの食パンの袋から1枚取り出して、トースターに入れる。随分と使い込まれたそれは、この家から姉がいなくなってから買い換えていなかった。
既に完成された目玉焼きに塩をかけ、テーブルまで持ってゆく。パンが焼けるまであと5分。目玉焼きが冷めてしまわないか心配になった。
調理を終えた母はその間に身支度を済ませ、家を出ようとしていた。言ってもどうせ返事は返ってこないんだろうな、と思いつつ、いってらっしゃい、と呟くと、母はふと、何かを思い出したようにこちらを振り返った。
「あなたが見つけた骨の人、一橋 魚美さんだったそうよ」
「へー」
パンの焼き具合を見るのに気を取られて、返事が疎かになってしまった。そのまま、母は黙って家を出てゆく。いつものことだった。
あと2分。このまま見ているだけなのもどうか、と思ったので、僕はパソコンを起動させよう、と立ち上がる。昨日撮った写真でもプリントしよう、と思ったのだ。
母がつけっぱなしにしていたテレビから、今日の占いの音声が流れてくる。さそり座は11位だった。
パソコンは起動が遅く、待っている間に結局パンが出来上がってしまった。チン、と音を立てたトースターからパンを取り出して真白いお皿の上に置き、目玉焼きを載せた。どこかのアニメ映画で見た食べ方だ。それを、僕は誰もいないので、立ったまま齧り付いた。
パソコンの前に移動してパンを齧りながら操作し、カメラとパソコンを接続してから、無造作に画面をスクロールする。あの日から、数日が経っていた。昨日は花火大会があって、写真を大量に撮ったので、先にフォルダごとにまとめておこうとしたとき、僕は見覚えのないフォルダがあることに気づいた。
「『人魚』?」
奇妙なそのフォルダを開くと、その中にはブレブレの写真ばかりが保存されていた。撮影されたのは6年前で、ほとんどが何を写しているのかわからない写真だったけれど、スクロールしていくと、1枚だけはっきりと写っているものを見つけた。この家の庭で撮られた写真のようで、被写体は、セーラー服を着た3人の少女たちだった。
1人は僕の姉、もう1人は花依さん。そして3人目は……
『あなたが見つけた骨の人、一橋 魚美さんだったそうよ』
今さらになって、母の言葉が蘇る。
「……あ」
思わず声が出た。僕はその名前を知っている。
まどろんだ陽射しと、控えめな笑顔。とろりとした丸い瞳と、桜の樹の下で見た、闇色の眼窩がぴたりと一致する。3人の中でも一際目立つ少女が、一橋 魚美だった。
- Re: ムーンタワー ( No.5 )
- 日時: 2018/09/16 20:56
- 名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: oL1jw7AM)
一橋 魚美は、ある日突然僕の前に現れた。
小学2年生の頃、父は普通のサラリーマン、母は深夜から早朝まで働いていたので、僕は家の中で大体一人ぼっちだった。その頃から母に疎まれていた僕は、深夜からの仕事に向けて、やることだけやって眠りこける母に食事以外は放置されながらも、放課後、姉と花依さんが帰ってくるのを待っていた。
花依さんは中学の頃に姉と仲良くなり、その頃からよく僕の家に遊びに来てくれていた。高校になるとほぼ毎日家に来て、僕を構ってくれた。僕は、花依さんを2人目の姉みたいに慕っていたのだった。
そんなある日、2人の姉は、彼女を家に連れてきた。
『へぇ。いいお家ね』
そう零した彼女は、涙袋とタレ目が印象的で、ウェーブがかった豪奢な髪が少し浮世離れした雰囲気の人だった。というか、正直それくらいのことしか記憶に残っていない。
僕は一橋 魚美が苦手だった。滑らかな声も、綺麗な顔も。人見知り、ということもあったのかもしれない。花依さんとは長い付き合いだったから懐くことができたのだと思うけれど、一橋魚美とは最後まで仲良くなることはなかった。
それに何より、一橋 魚美がいるときの2人の雰囲気はどこか違っていた。姉も花依さんも、まるで、魚美に心酔しているような、不思議な瞳を向けていた。僕だけがその空気の中に入り込めず、仲間外れにされているみたいで、それが嫌で嫌でたまらなかった。
あの『人魚』というフォルダに集められた写真は、姉にこの一眼レフをもらったときのものだ。いつものように3人で家に来たとき、姉が僕に渡してくれた。その日は確か、僕の誕生日だった。一眼レフは小2の頃の僕には今よりももっと重くって、何故か赤ん坊に似ている、と思った。ぎゅっ、と抱きしめると、姉は『気に入ってくれてよかった』と笑っていた。そういえば、あのとき僕はこのカメラに名前をつけていたはずだけれど、何だったっけな。忘れてしまった。
『ねぇねぇ、そのカメラで私たちを撮ってよ!』
花依さんがそう言うので、姉の部屋で寛ぐ彼女らにピントを合わせようとすると、上手くいかなかった。写真の撮り方を全くわかっていなかったのだ。
そうこうしているうちに、花依さんが姉の部屋でお茶を零してしまい、もっと広いところで撮ってみよう、ということになった。こういうところが、花依さんらしい。彼女は昔からおっちょこちょいだった。
この家で広い場所、といえば庭しかなかったので、僕らは外に出て、今しがた覚えた正しい写真の撮り方で、シャッターを切った。
それが『人魚』の真実だった。
*
プリンターから出てきた写真を見ながら、僕は食後の紅茶を飲んでいた。姉は、紅茶が好きだった。だから僕もこうやって飲み続けている。
花火大会は、この街の象徴的な存在であるムーンタワーの反対側で行われた。少なくとも、僕の家からタワーと花火、この2つは同時には見ることはできなかった。自室の窓から身を乗り出して撮った花火は出来が良くって、何処かの大会にも応募してみようかな、なんて思ったけれど、来週辺りに、今度はムーンタワーが見えるところで花火大会があるらしい。この辺は川が多い。花火を上げるには丁度いい場所なのだろう。ムーンタワーと一緒に写った花火はさぞかし美しいのだろうな、と思った。
色鮮やかな花火の写真から目を離し、ついでにプリントした『人魚』の写真に目を移す。ひかりのなか、3人は幸せそうに笑っている。今の姉とは、見る影もない。
『人魚』のフォルダを作ったのは姉だろう。僕はあの頃、パソコンの操作の仕方を知らなかったので、自分は写真を撮るだけで、写真の保存や仕分けはすべて姉に任せっぱなしだった。
何故あの日の思い出を、姉は「人魚」などと名づけたのだろうか。
ことり、とテーブルの上に紅茶を置く。水面がゆらゆらと揺れて、一橋 魚美の、綺麗な笑顔が蘇る。
あの3人には、僕にも教えてくれない、秘密の名前があった。彼女らは隠し通しているようだったけれど、1度だけ、姉が一橋 魚美のことを『人魚』と呼ぶのを聞いた。
「一橋 魚美……ひとつばし、ひと、人。魚美、さかな、魚」
ぶつぶつと呟いていると、答えに辿り着く。花依さんのフルネームの雨郷 花依からも、僕は1つの単語を作り出すことができた。
一橋 魚美が人魚、雨郷 花依が雨蛙。だとしたら、姉は何と呼ばれていたのだろう。
「桜の樹の下に埋められしは人魚ってか」
時々、紅茶の茶色が空蝉に見えることがある。内海 世海、うつみ せみる、うつせみ、空蝉。
無邪気に笑う2人と比べて、幾分か大人びた笑みを浮かべた写真の中の人魚は消えた。確か、この写真を撮ってからすぐのことだったように思う。
- Re: ムーンタワー ( No.6 )
- 日時: 2018/09/17 14:57
- 名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: hBEV.0Z4)
お医者さんは、夏の間に姉は死ぬだろう、と言っていた。夏に病気になって、夏に死ぬだなんて。姉は向日葵の花が好きだった。だから夏に死んでしまうのだ。
姉はずっと、春の終わり頃から意識が戻らないままだった。このまま、眠るように死んでいくのだろう。僕が行方知れずだった人魚を海の底から見つけ出したことなんて知らずに。
現実からの逃避行を中止して、僕は姉の病室に来ていた。母は急な仕事が入って、今日は来ない。ここで母と出会うと、あなたが病気になったらよかったのに、と何度も言われたことを思い出すから、丁度よかった。
僕は昔、よく虫の死骸や、酷いときには動物の死骸なんかも拾ってきて、家族を困らせていた。それが今に至るまでの母との確執の原因の1つだったりもする。段々とエスカレートしていきそうな僕の行動を見かねた姉が誕生日にくれたのが、この一眼レフだった。
『ほら。カメラで死骸を撮れば、家に持って帰った気分になるでしょう?』
今思えば、姉のこのアイデアは画期的だったように思う。結果的に、僕は写真だけで満足するようになり、家からは異臭がすることはなくなった。でも、幼かった僕は行動を制限されることに拒否反応を示し、嫌だ嫌だと抵抗しまくったが、姉の穏やかな言葉が僕の心をすぅっ、と鎮めさせた。
『じゃあ、私が死んだらせみるが写真を撮っていいよ』
僕は軽い気持ちでその言葉に頷いたのだ。
今ではその衝動を随分とコントロールできるようになって、もう死骸を撮る必要もあまりなくなってきたけれど、死骸を見ると、相変わらず習慣のように写真を撮っている。母はその行動を未だに忌み嫌っていた。とはいっても、僕は相変わらず死、というものに惹かれ続けているし、母に疎まれるような行動を慎む気はさらさらない。
僕は女の子らしい服装は好きじゃなくて、でも男の子らしい服装も嫌いで。中間をさ迷うような服装をして、昔から自分のことは「僕」と呼んでいた。そのせいもあって学校では仲間外れ。父は家庭に無関心。僕は一人ぼっちだった。
ただ1人、家族の中で僕に優しく接してくれた姉。その手に触れようとして、寸前に手を引っ込める。病室のベッドで眠る彼女の腕は骨のように細くって白くって、僕みたいなおかしな人間が触れたら、陶磁器みたいにぱりん、と壊れてしまうような気がしたのだ。
僕がずっと綺麗だ、と思っていた姉の顔は頬がこけて、肉が削げ落ちて、あの写真の中の笑顔なんてどこにもない。花依さんみたいにアイシャドウやマスカラなんかで彩られていないモノクロな瞼は閉じられたままで、僕は彼女の瞳が薄い茶色だったことをもう思い出せなかった。体のあちこちから管が飛び出し、長く伸ばされていた人魚と違って何処までも真っ直ぐだった髪は6年前にばっさりと切られ、寝たきりの今でも短いままだ。
姉に近づいてくる死の気配は濃厚で、僕の本能はそれをうつくしいと感じているはずなのに、ちっともそんな風に思えなかった。虫の死骸も、動物の遺骸も、人魚の頭蓋骨も、あんなにうつくしかったのに。
ふと体の奥から何か溢れ出てくるのを感じて、僕はベッドから離れて、病室のトイレに駆け込んだ。幸いにして、いたって健康体の僕の胃は朝食を全て消化してくれていたようで、胃液しか出なかった。残ったものは、少しの喉の痛みと、倦怠感だけ。
『せみる、私の写真を撮ってね』
長い眠りにつく前に、真っ白な病室の中でそう言って微笑んだ姉の姿が、目に焼き付いていて、いつまでも消えてはくれない。