複雑・ファジー小説

■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
 入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)

十三人の葬列【美しい星 掲載】
日時: 2022/06/02 22:34
名前: 唯柚 ◆lUykKY/81I (ID: 8qQF9FdS)

■目次

十三人の葬列

 第一章 >>1-2

 第二章 >>3-6

 第三章 >>7-8

豚の王様

 >>9-10

美しい星

 >>11

■連絡先
@r_playing_9

第三章 ( No.7 )
日時: 2022/05/24 21:23
名前: 唯柚 ◆lUykKY/81I (ID: 8qQF9FdS)

 放課後に浮かれる生徒の声も聞こえない、第二会議室。並べられた長机に座った十三人から二十六個の目を向けられる。興味や期待、嫌悪や警戒など一つ一つの感情が剥き出しになった視線に晒されながら、浅葱はそのどれとも目を合わせないまま、硬い表情で机の真ん中を睨んでいた。そのまま、誰でもない、この部屋に向かって語るように浅葱が話し始める。

「まず、今回の事件の要点を整理しよう。アリバイやら密室やらとやたら複雑に見えるが、不可解な点は結局一つだ。何故死体は、足場の無い場所で吊られていたのか。首吊りに見せるため天井から吊るしても、被害者が使った足場を誰かが片付けたとしても、そこには必ず被害者以外の人間が関与していることになる。なら誰が、どうやって、あの死体を宙吊りにさせたのか。──渡辺」

 名前を呼ばれた渡辺さんが、木村先輩の横でびくりと肩を揺らした。大きな瞳が狼狽えて、浅葱と僕の顔を行き来する。

「な、なに」
「田村と最後に会ったのはお前だったな。十七時。そこでお前が田村を殺し、天井から吊るして部屋を整えれば、三十分までにあの状況を作れるだろう」
「待ってよ! 私は鍵持ってないんだから、」
「そう、お前だけだと密室が完成しない」

 相変わらず浅葱は視線を上げないまま、「次はお前だ木村」と続ける。いきなり初対面の後輩に呼び捨てにされても、木村先輩は眉を顰めるだけで何も言わない。ただ、合わない目と目の間にピンと張った糸が見えた。糸の端を引いてるのは先輩だ。

「普段スペアの鍵を持ち歩いているお前は、当然密室という問題を解く上で真っ先に名前が挙がる。家に帰ったって証言してるからアリバイも無い。実際、コイツが田村を殺したって思ってる奴らもいるらしいしな。聡明なことだ」

 木村じゃない。その言葉に、部員達の戸惑いや浅葱の推理を疑う声が、さざ波のように部屋の中に満ちる。寄せた波が引いて、浅葱は一度深く息を吸った。
 膝の上に握った掌が、汗でじっとりと湿っている。

「木村はその時間、家じゃなく病院にいた。この学校から片道二十分のところにある、青葉大学病院だ。恐らく受診したのは整形外科。八尋と話す時に左足の負担を減らそうとしていたところを見ると、問題があるのはそっち側なんだろう。部内でそこまで問題になっていないなら、故障というよりも慢性的な痛みか? 通院を隠しているから、犯行時刻にアリバイがあることも、鍵を忘れたのは家ではなく病院であることも言えなかった。反論は?」

 僕らに向けられていた視線が、先輩を振り返る。噛みしめられた唇は、それでも動くことはなかった。

「渡辺が木村から鍵を受けとり、田村を殺してから扉を閉じた可能性もあったが、その鍵が病院にあって使えないからこれも違う。そうすると、残ったものが真実だ」

 そこまで言って、浅葱は初めて視線を上げた。僕らを取り囲むサッカー部の顔を、一人一人睨みつける。名前の通り夜明けの空を映した瞳が、前髪の奥で怒りを滲ませて輝いた。

「犯人は田村信夫、本人だよ」


「田村は部活で行われるいじめ──暴行や暴言に耐えられなかった。部室に行っても自分のロッカーすら無い。周りも遠巻きに眺めるだけで助けてくれもしない。だから死のうとした時、せめて一人は道連れにしようと思いついだんだろう。一番憎い奴を、そいつに疑いがかかる方法で死ぬことで。
 まず、クーラーボックスに入る大きさの氷のブロックを作る。最近は冷え込みが厳しかったから、大きめのバケツか何かに水を入れて外に置いておけばできるだろ。それをクーラーボックスに隠して、放課後に自分で閉め切った部室の中で取り出し、踏み台にして首を吊る。暖房を強めにかけておけば、一晩で氷は溶けて踏み台が無い首吊り死体の完成だ。死体から漏れ出た汚物のシミで紛れるかと思ったんだろうが、氷が溶けて広がるタイミングと違うから、床のシミが二重になる。
 渡辺と会ったのは、恐らく偶然だろう。木村に呼ばれたって言うのは前から決めてたことかもしれないけどな。でも木村と親交のあった部員すら知らなかった通院を、田村が知れるはずがない。結局、実行前から破綻してることに気付けなかった。
 これで種明かしは全部。単純な事件だよ。外から誰にも作れない密室なら、中にいる奴が犯人だ。何か質問は? あまりに初歩的じゃなければ答えてやる」

 浅葱の呼びかけに、口を開く人は誰もいなかった。ただみんな、何を言えば良いのか、周りを窺っている。
 被害者が犯人とは言ってるけど、でもそこまで田村先輩を追い詰めたのは木村先輩であり、それに乗っていた大宮先輩のような人であり、知っていて傍観していた渡辺さんや同級生の彼なのだろう。それは、つまり、田村先輩はサッカー部全員に殺されたってことなんじゃないのか。
 秒針の音も聞こえない重たい静寂の中で、耐え切れなかったのか、無意識に零れたのか、誰かの声がぽつりと落ちた。

「じゃあ結局、やっぱりあれは自殺だったんだな」

 良かった、誰かが人殺しにならなくて。

Re: 十三人の葬列 ( No.8 )
日時: 2022/05/24 21:24
名前: 唯柚 ◆lUykKY/81I (ID: 8qQF9FdS)

 あんなに厚く積もっていた雪は溶け、桜の木も葉の緑が瑞々しい。梅雨が無いから、乾いて爽やかな風が背中を押してくる。冬からすっかり様変わりした校門をくぐると、校舎の壁に細長い幕が垂れ下がっているのが見えた。

『祝 北海道予選決勝進出! サッカー部』
「……ふうん」

 新入部員が春から入り、この大会が終われば三年生は引退になる。きっと今が、一番人数も多く賑やかな時期だろう。冬はあんな、死んだような静けさで過ぎたのに。
 早足で文化部の部室棟に向かう。始業三十分前。約束の時間ぴったりに部室のドアを開けば、顔にぶつかる突風に思わず瞼を閉じた。
 薄目を開くと、全開にした窓から女子生徒が身を乗り出している。ぼやけた視界でも、風になびく黒髪がやけに鮮明に見えた。

「おはようございます、藤堂先輩。紙が飛ぶんで窓は閉めてください」
「おはよう、菅原君。絶好の号外日和だよ」

 つり気味の目が孤を描く。それに応えないまま窓を閉めれば、藤堂先輩は軽く頭を振って、乱れた髪へ雑に手櫛を通した。揺れる黒髪が、日に当たって輝く。緑の黒髪だ。

「サッカー部、去年からどうなることかと思ったけど、随分好成績を出したね。部員の自殺なんて悲しい事件を越えて、よく頑張った」

 壁に貼り出すのであろう、大きく印刷した号外を机の上に広げる。見出しは勿論、サッカー部の快進撃。

「そう言うために、去年、僕の記事を止めたんですか」
「嫌だな、私に未来予知能力はない。ただ、身内の恥や自分たちが所属する組織内の闇をあまり広めるのは、みんなの精神衛生上よろしくない。誰もサッカー部のキャプテンがいじめの主犯だった上に、本人は『遊びのつもりだった』『嫌がってるとは思ってなかった』なんて弁解を読みたいわけじゃない。部活動としての校内新聞とか、所詮大衆紙だしね」

 本当に報道機関が必要なら、独立した委員会として設立すべき。それは僕が新聞部に入ってから、藤堂先輩から繰り返し聞いた言葉だった。
 みんな対岸の火事だけが見たい。此岸がどれだけ素晴らしいか夢見ていたい。それに沿うのが大衆紙で、その夢を醒ますのが報道機関。間違っているとは思わない。

「結局、冬を過ぎてみれば自殺者一人、不登校一人出ただけの事件だったわけだ。まあ高校生にしては大事件だけどね。取り扱うには重すぎるし、無理を押し切ったところでリターンもそう無いだろう。君がずっと取材してた資料を無駄にする結果になったのは、心苦しいけど」
「いえ、大丈夫です。個人的にまとめてみようかと思うので」
「そっか、それなら良かった。できたら読ませてよ」
「良いですよ」

 号外の最終チェックのために、記事の文字を追う。僕の知らないサッカー部のことを、きっとみんな廊下で流し読みして、授業を挟めば忘れていく。それでも先輩は忘れられるために書き続けるんだろうし、僕は誰かに忘れずにいてもらうため、家で慣れないパソコンのキーボードを触るのだろう。
 浅葱に、冬の冷たさに見捨てられた初夏を、僕等は迎えた。

豚の王様 ( No.9 )
日時: 2022/06/02 00:26
名前: 唯柚 ◆lUykKY/81I (ID: 8qQF9FdS)

 黒い頭が群れを成して揺れている。話し声は体育館の高い天井にもよく響いて、意味を成さない雑音として頭から降ってきた。まだ暗いステージの上には、教壇が空っぽのまま置かれている。壁掛けの大きな長針が予定の時間を過ぎても、ざわめきが静まらない中ではスピーカーのスイッチすら入れられない。去年よりも見えるものが増えた視界は、五月蠅さも増した。
 窓の外、春の陽気を帯びた風も千人が集められた体育館の中には割り込めず、窓の外で桜の花びらと校庭の砂を渦巻かせていた。

「静かにしなさい、始められないだろ」

 隣の方から教師の怒鳴り声が聞こえる。きっと中学二年生だろう。まだ制服が馴染み切らず、余った袖が列の間でひらひら揺れている。教師に返す声も似たような浮つき方をしていた。かと言って自分の前で並ぶだけ並んで話し続けている奴等が、それよりも地に足ついているとも思えないけど。十五年も人間やってて、口を閉ざすことすらできないのか。
 大人が声を張った甲斐があったのか、それとも話すことにも退屈し始めたのか、話し声が引いていく。ステージの下、パイプ椅子に座った生徒会役員の一人が、マイクのスイッチを入れた。キン、と鋭い音が響く。

「おはようございます。これより、生徒会役員挨拶を始めさせていただきます。まず、今年度生徒会長に就任した芥原から──」

 芥原。くぐはら? 聞こえてきた聞き覚えのある名前に眉を顰めるのと、ステージが白く照らされたのは同時だった。
 袖から出てきた男は、注がれる視線に居心地悪そうに肩を丸めて、教壇の前へ立った。野暮ったく伸びた前髪に遮られて、こちらを見下ろす目は見えない。前に置かれたマイクを手に取れば、スピーカーからハウリングが劈いて鼓膜に突き刺さった。頭の後ろが痺れる。閉じかけた瞼の隙間から、握ったマイクをあたふたと回している男が見えた。袖の方に視線を向けている。見えないけど分かる。あれは誰か助けてくれないか期待してる。眉尻を下げて、口の端を緩めて、ダメだと分かれば次はこっちに向く。ああ、そうだ。知ってる。分からないのはただ一つ。どうしてアンタが、そこに立ってる。

「どうもぉ、おはようございます」

 生徒会長というのは、誰かの上に立つ人間と言うのは、その言葉に誠意を持たせなくてはいけない。広く多くに届く声でないといけない。

「一年生は初めましてかな。二年生以上はお久し振りです。前年度副会長だった芥原幽海(くぐはらゆう)です。なんかね、会長になっちゃった。どうしようね」

 敬意を持たれて、代表者として信頼されなくてはいけない。

「去年も他の役員のみんなが頑張ってくれて、僕なにもやってないんですよね。今年もきっとみんなに頼りきりになると思います」

 自分以外のものを背負えるくらい、地に足ついていて。いつだって先を見ているべきで。

「先代に任されたので、頑張ります。頑張るから、みんなも助けてくれると嬉しいな」

 誰かの誇りになれるような。そんな人間が担うべきはずなのに。

「今年一年、宜しくお願いします。良い学校生活にしましょう」

 取って付けたような締めの言葉に、戸惑いを滲ませた拍手が広がっていく。それを聞こうともせずアイツは、曖昧なお辞儀を残して逃げるようにステージを降りて行った。
取り残された生徒がざわつく。「え、終わり?」「去年あんな人いたっけ」「もっとマシなのいただろこれ」「でも生徒会長が選んだんでしょ?」。散らばっていく声が鼓膜を揺らすたびに、ギイギイと軋むような気がした。


「納得がいかないんですよ」
「ううん、それをここで僕に言う度胸が凄いよね。そういうとこ好き」

 パチリと小気味良い音を立てて、歩兵が進む。長い爪が引っ掻くように黒く塗られた払いをなぞる。

「先輩、駒が傷みます」
「ああ、うん。このつるつるしたとこ、なんか触っちゃうんだよね」

 だから何だ。私物でやれ。
 頭の中でパターンを思い出しながら、飛車を動かす。こいつはいつだって、将棋の指し方すらふらふらしている。最初は気の抜けた捨て駒をしたり遊んでいるのに、中盤からいきなり勝ちを取りに来たり、逆に途中から急に遊び始めたり。それなのに俺は、一度もその王将に触れたことがない。

「どうだった、僕の挨拶」
「最低でした」
「アドリブだったことを加味しても?」
「最悪」
「そっかあ、残念だな」

 思わず零れそうになった舌打ちを、唇を噛み締めてやり過ごす。
 年度初めの部活だからか、暖かくなってきたからか、部室は冬よりも賑わっていた。木と木が当たる高い音と、笑い声。その中で一番隅のこの席だけが冬の空気に取り残されている。

「古田はさあ」

 なめらかな布のような耳触りの声が将棋盤の上に落ちる。手番はずっと、指先で駒を弄ぶ相手で止まっていた。持ち時間を付けておけば良かった。
 返事をせずにいても、意に介した素振りもなく話し続ける。

「どうして生徒会に入らなかったの? ほぼ動いてない学級委員なんか毎年やって」
「……最初の選挙に落ちたんで」
「あーなるほどね」

 なにがなるほどだ。
 ようやく回ってきた手番を進める。必ずしも次に最善手を打ってくれないから、考えるのが面倒になる。

「先輩は」
「うん、なあに?」
「どうしてわざわざ生徒会に入ったんですか」
「ああ、他の仕事したくなかったから」

 ふざけてんのかこいつ。
 あっさり銀を進めて、俺の角を摘まみ上げながら言葉は続く。

「選挙って意外と単純なんだよね。ニコニコ分かりやすく話してやればみんな入れてくれるんだよ。それで部活の役職も、他の委員会も全部免除。でも内申書には加点になるから、上手くやれば効率が良いと思って」

 前髪の隙間から、伏せられた目が覗く。並んで立てば見下ろしてくる瞳が、猫背のせいで上目遣いにこちらを見ていた。穏やかに睫毛が瞬く、その動きすら意味も無く癪に障る。

「良い感じにサボろうと思ってたのに、周(あまね)先輩が副会長なんか押し付けてくるからさあ。結局ふっつーに仕事しちゃったよね」

 周先輩。さらりとその名前を呼んでみせるその舌が憎い。
 ステージに立って、朗々と話す姿を思い出す。硬い言葉を好む人だった。それが低くなり切った声にしっくりと合っていた。いつだって二言三言話せば、みんな静まり返って耳を傾けていた。周生徒会長。周先輩。その苗字を俺が呼べたことはない。話したことも無いから当然だ。
 きっと、誰が選んだってあの人はリーダーだった。それなのに。どうして周先輩が選んだのがこいつだったんだ。まともな人間なら、絶対に選ばないこいつが。

「ああ、王手だ」
「は?」

 軽い音と共に、盤面が完成する。彷徨っていた飛車は見事に王将の喉元に刺さり、金が行く手を阻んでいた。会話に気を取られていたわけではないのに、どうして。

「じゃ、僕帰るね。片付け頼んだよ」

 また来週。まだ喧噪が続く中にそう言い残して、部室のドアを開く。取り残された盤の上、相手の王将が笑ったような気がした。



 部室の冷房が、ガラス張りのドアから照り付ける陽光に対抗して冷風を吐き出す。目の前では駒も並べず喋り続ける先輩。久し振りの部活を楽しむには悪すぎる条件だ。

「そもそも行事の要綱を実行委員から俺経由して学級委員会にまで下げるって仕組みが分からなくない? 二段階認証じゃないんだからさあ」
「俺にはそれで提出が遅れて、危うく今年の体育祭を潰しかけたのにその態度って方が分からないんですが」
「いや~、それはあの、違うんだって」

 何も違うところはなかった。
 春、各委員会の最初の仕事は体育祭の準備だ。その皮切りである要綱の提出を、何故かこいつは放棄した。毎週何食わぬ顔で部活に来ては、だらだらと一局指して帰っていく。去年から変わらなさすぎるその様子に、俺が訝しんで訊いても『えぇ、大丈夫だよ。やってるって』とへらへらしていた。その顔を今は殴りたい。
 遅れに遅れた学級委員との会議で実行委員が頭を下げる中、冷めた空気のホールを見回した時にもこいつはいなかった。そうだ、こういう奴だ。春にはそれでも、まともになるかもしれないと思ったのに。

「いやでも、ちゃんと終わったじゃん。楽しかったでしょ?」
「それはアンタの成果じゃない」
「そりゃそうだけどさあ。あ、チョコあった。食べる?」
「いりません」
「そう言わずに」

 夏服の黒いスラックスから、銀色の包み紙が出てくる。机にころんと捨て置かれたそれは、四角い日向の上で光を反射した。

「……こんなとこで、また油売ってやらかすつもりですか」
「やだなあ、息抜きって大事じゃん」
「息抜きしかしてねぇだろアンタ」

 平べったい体が、まだ将棋盤も乗せてない机にべったり伏せる。子供のように駄々を捏ねて振り回す腕を避けながら、戸棚に入った駒を二箱取り出した。

「そんなんだったら、いつリコールされても文句言えないんじゃないですか」
「リコールなんて制度無いよね?」
「無いですね、今は」

 上靴が床を叩く音が止む。「今は」と鸚鵡返しに呟く声がやけに冷たくて、掴む手が強張った。

「はーん、ははん、なるほどね。最近来れなかったのもそれが理由?」
「なんのことですか」
「おっとぼけていく? いいよ、サプライズみたいで楽しいや」

 緩みの戻った唇が尖る。口笛の甲高い音と、机に木箱を置いた音が重なった。
 気付いてる。気付いてて、俺に対して何も言わないのがこいつだ。人がどれだけ真面目にやってても、遊び半分でその横を追い越していく。そして先まで進んで、こっちをからかい混じりにつついて、そうして投げ出す。二年前、俺が入部してからこいつはずっとそうだった。

「ねえ古田」

 座ったまま、先輩が俺を見上げる。西日で明るいはずなのに、前髪の奥の瞳は暗い。

「なんですか」
「古田ってさあ、しっかりしてるよね。仕事できるっていうか」
「誰かがしない分、俺がしてるだけなんですけど」
「お前が生徒会にいたら、僕ももうちょっと楽だったのになあ」
「……当てつけですか?」
「ううん、反実仮想」

 将棋盤の升目をなぞっていた指が、銀紙に触れる。親指と人差し指が摘まみ、掌に包まれたチョコレートが、俺の目の前に差し出された。

「はい、あげる。美味しいよ」

 押し付けられた糖分の塊をどうしようかと手の中で持て余していれば、がらりと音を立てて引き戸が開いた。中等部の後輩が挨拶と共に入ってくる。風が先輩の前髪を揺らした。
 握りこんだ手の中で、溶けたチョコレートが潰れる。甘い物は嫌いだった。

豚の王様 ( No.10 )
日時: 2022/06/01 00:15
名前: 唯柚 ◆lUykKY/81I (ID: 8qQF9FdS)

 廊下の窓から見えた紫色の空に、日が落ちるのが早くなったことを知った。
 話し過ぎかざらつく喉を撫でながら部室のドアを開くと、薄暗い教室の中で先輩が一人、いつもの隅に置かれた席に座っていた。指を動かしているのに、部屋はしんと静まり返っている。目を凝らせば、盤の上には駒が山になっていた。将棋崩しか。

「なんでいるんですか」
「あっ、お疲れぇ。部活もう終わっちゃったけど」
「知ってます。戸締り確認しておこうと思ったら……」
「古田が寂しがるかなと思って」

 立ったまま滑っていた駒が、溝に引っ掛かって倒れる。溜め息交じりの落胆の声が追うように部屋に響いた。

「最近忙しそうじゃん。青春だねぇ」
「お陰様でやることが増えたんで」
「らしいね。高二でもお前のことは噂になってるよ。今年の中三は優秀だなあって」

 学級委員会は中一から高二まで、受験に専念する高三以外の全学年が参加している。さっきまで白熱していた会議でも、司会進行は高二の先輩達だった。俺はずっと、その横に座って訊かれたことを答えていただけだ。
 教壇の上で、視線を受けていたあの感覚を思い出す。話す内容は決まっているのに、口の中がどんどん乾いていく。舌を動かすたびに頭の中がすっきりする。自分が、目の前の人間と、何かをするんだ。しなければならない。
 これを、同じ視界を、周先輩も見ていたんだろうか。

「ねえ古田」

 やけに落ち着いた先輩の声が、俺は嫌いだ。いつもへらへら笑っていればいいのに。

「リコールも、会長選挙も、古田の案でしょ」
「……だったらなんですか」

 盤に駒が並んでいく。

「ううん、僕の代にあんな面倒なこと進めようとする奴いないし、高一は多分制度を変えるとか思いつかないだろうし。知ってる中でそういうことするの、古田だろうなって」
「それは、流石に言い過ぎじゃ」
「そんなことないよ」

 カチリ、と最後の駒が置かれる。もう座っている先輩が、顔を上げて俺を見た。舌打ちが漏れる。そんな風にされたら、座らないわけにはいかない。対面に着いた俺を見て笑うその顔も嫌いだ。

「古田はさあ、周先輩みたいになりたいの?」
「いや……俺なんかが、恐れ多い」
「えっ笑う。そこまで好きなの?」
「殺すぞ」

 先輩にしては珍しく、テンポ良く手番が回ってくる。というか速い。持ち時間なんて無いのに、その拍子に置いていかれたくなくて手を進めてしまう。

「でもなあ」

 銀将が先輩に取られる。気付けば歩が裏返っていた。いつの間に。

「ねえ古田」
「考えてるんですけど」
「──石鹸箱の上に立つ人間なんて、みんな売女と変わらないよ」

 顔を上げる。すぐ前にあるはずの先輩の顔は、もう夜に呑まれて見えない。薄い唇の端が上がった。

「僕も、周先輩も」
「……先輩のことをアンタなんかと同列にするな」
「同列だよ」
「違う!」

 拳を将棋盤に叩き付ける。下敷きになった駒の角が食い込むよりも、噛み締めた唇が痛い。

「絶対に違う。周先輩は、そんな、」
「まあ、どう思うかは人の自由だから良いけどね」

 立ち上がる先輩が手を伸ばす。「じゃ、これ貰ってくね」と言いながら、俺の王将を拾い上げてドアを開いた。
 学ランの裾が、風に煽られて揺れて消える。気付けば部室に届く光は、外廊下で光る電灯だけになっていた。

「んだよアイツ……」

 取り残された机の上を片付ける。王将が一つ欠けた盤面は、確かに王手になっていた。



 外廊下の手すりには、薄く雪が積もっていた。
 上靴の薄いゴム底からも、じんわりと冷たさが伝う。逃げ込むように引き戸を開けば、暖房の乾燥した熱気が目に沁みた。
 もうみんなは好きな席に座って将棋を打ち始めている。何か紙を広げた先輩の前だけが、誰も座らないまま空いていた。

「……お疲れ様です」
「あ、お疲れぇ。ちょっと待ってね、もうちょいで終わるから」
「いや、無理しなくても他の奴とやるんで。というか王将返してください」
「いーからいーから」

 嫌味に長い指が、ペンを回す。鞄を床に置きながら視線を下ろせば、紙には『卒業式送辞原稿』の文字があった。

「それ」
「ああ、最後の仕事だから。古田にとっては答辞の方が楽しみなんじゃない?」
「やっぱり周先輩ですか」
「そうだよー。まあ生徒会長がやるよね、どっちも」

 最初の一行以外、ほとんど埋められていない原稿用紙が畳まれる。除けられたそこに、将棋の戦場が整えられていく。

「王様が二人いるってなんか滑稽だよね」
「将棋は戦争だから当たり前じゃないですか」
「将棋に関してはそもそも王じゃないじゃん?」
「何ですかその話」

 爪が王将を引っ掻く。よく見ればそこには、王の字には無い一画があった。

「将棋の王って、元々は玉じゃん。なのに今では上手が王を使って下手が玉なの、面白くない?」
「ああ、なるほど」
「今じゃもう、両方王将で売ってるセットも珍しくないしさあ」

 ゆるゆると進んでいく盤上に、先輩の締りない声が重なる。

「王とか、代表とか、ほんと意味無いのに」
「アンタ、また」
「んー、なんてね。冗談だって」

 手を進める。今日はなんだか調子がいい。盤面が思ったように動く。こいつならここに置くと思ったところに、駒が来る。
 タン、と最後の一手を置く。

「王手です」
「ん、ありゃ、負けちゃった。強くなったねえ」
「いや、三年間も打ってれば嫌でも癖とか覚えます」
「そっかあ、いやあ嬉しいな。可愛い後輩に越えられるなんて」

 じとりと睨めば、それですら笑われる。最終下校のチャイムが鳴る。片付けを始めれば、先輩は荷物を持って立ち上がった。

「それじゃ、古田の戦勝祝いに卒業式くらいはちょっと頑張ろうかな」
「……アンタがやる気を出してロクなことがないんですけど」
「え? うっそだあ。僕がやる気を出したことなんて無いよ」

 そこかよ。
 地に足つかない笑い声が降ってくる。盤の上に木箱を置いて俺も立てば、ふとその顔に目がいった。記憶と角度が違う。見上げていた顔が近い。こいつ、こんなに背が低かったっけ。

「僕もう帰るね。卒業式、楽しみにしてるといいよ」


「嫌な予感はしてたんだよ」

 思わず手に力が入る。握った紙が皺になりかけて、すぐに離した。
 卒業式の日。書道部が清書した送辞原稿を持っているのは、アイツじゃなくて俺だった。本来であればアイツが座るはずだったパイプ椅子に俺が座って、出番を待つ。率直に言って死にそうだった。中学生は自由出席で、周りには当然高校の先輩しかいない。手と額に汗が滲む。その癖背筋はずっと冷えていた。
 それでも、逃げられない。アイツが机に入れたまま放置していたこの送辞原稿を、俺に渡した人の前で、醜態を晒すわけにはいかなかった。
 電報の紹介が終わる。司会の声が、やけに固まって聞こえた。

「それでは、在校生からの送辞を中学三年一組、古田北斗」
「はい」

 階段を上がって、ステージの上に立つ。黒い頭、黒い学ラン、黒いスーツ。目の前を埋め尽くす光景に心臓が圧し潰される。それでも一度息を吸えば、喉は動いた。

「卒業生の皆様、この度はご卒業おめでとうございます。現生徒会長、芥原に代わりまして、私が送辞を贈らせて頂きます」

 自分が何を話しているのか、言葉が頭の中で空中分解しそうになる。目の前にある原稿が、それを線で繋ぎとめてくれているようだった。アイツが書いた文章なのに。
 視線で追っていた文章が、最後の句点で結ばれる。顔を上げれば、相変わらず黒い中でも心臓の動きは軽かった。
 一礼して、ゆっくりと階段を降りる。用意された椅子に座った瞬間、全身から力が抜けそうになって肩を強張らせた。ここで気を抜くわけにはいかない。次は答辞がある。あの人の言葉が。

「続きまして、卒業生の答辞です。三年一組、周──」
「はい」

 立ち上がるその背すら、憧れた。
 ゆったりとステージに近付くたびに、その人の周りから空気が作り替えられていく。周先輩のために、今この瞬間がある。

「まずは、この場にいる全ての人に感謝を。私達の意思を継ぎ、新たなことに挑戦してくれた後輩達。君達がいてくれたから、この六年間が学校にとっても私達にとっても、無為ではなかったと誇りを持てる」

 力強い視線が会場に向く。芯のある言葉が続く。この人に肯定されるだけで、何故こうも許されたような気分になるのだろう。
 拍手で歓迎されながら教壇から離れる瞬間、その目が俺を見たような気がした。教壇の上にいた時とは違う、柔く冷たい目が。



 散った桜の花びらが、アスファルトに張り付いていた。
 去年と変わらない学ランはいつの間にか寸足らずになっていた。短くなった袖を引っ張りながら、去年まで自分がいた集団を眺める。
 卒業式の後に行われた生徒会長選挙は俺を選んだ。リコールも今年から正式に導入される。ようやく、自分達で選ぶ学校になる。
 言うべきことは頭の中に用意されている。去年のような醜態は晒さない。絶対に。

「おはようございます。これより、生徒会役員挨拶を始めさせていただきます。まず、今年度生徒会長に就任した古田から──」

 ステージの上に進む。教壇の前に立てば、千人の顔が俺を向いていた。微かに残った話し声すらも、俺の方を見ている。一度息を吸おうと視線を伏せた先に、見慣れた木目があった。
 縦長の五角形。書かれた文字は、王将。後から出てきた紛い物。

「……石鹸箱」

 頭の後ろが、ぐらりと揺れた。
 目の前で群れを成すアイツらは、本当に俺を選んだのか? 今日この日のために、何かしようとしていたか? 欲しかったのは自分達で選べる自由ではなく、選んだという充足感だったんじゃないのか?
 俺は、本当に、このためにやってきたか?
 用意していたはずの言葉が出てこない。喉が動かない。思わず目を向けた列の中に、あの野暮ったい前髪は無い。それなのに、浮ついた笑い声だけが鼓膜の奥で聞こえる。
 声帯に張り付いていた声の欠片が、剥がれ落ちる。マイクに通ったそれは、酷いハウリングになって耳を劈いた。

美しい星 ( No.11 )
日時: 2022/06/02 22:33
名前: 唯柚 ◆lUykKY/81I (ID: 8qQF9FdS)


 思わず目を瞑った暗闇の中、ガチャンと硬い音が鼓膜を揺らし、一瞬遅れて耳にじわりと熱が滲んだ。

「──できた」

 明るい声と一緒に、スピーカー越しの音声が耳に入ってくる。さっきまでの息が止まるような静寂は、いつの間にかどこかへ消えていた。

「あー、まじか、開いたのかあ……どんな感じ?」
「ちょっと待って、見せてやるよ」

 そう言うとアイツは、テーブルの上に放置してたスマホを掴み上げた。僕にはまだ見慣れない、一面を覆う液晶に触れてなにやら操作してる。不意にそのカメラがこっちを向いて、シャッター音を鳴らした。
 見せられた画面には、伸びた横髪の奥に耳が写っている。毎朝鏡で見るそれに、今は鈍色の鋲のようなものがくっ付いていた。
 貫いた異物から、熱が広がっていく。

「……意外と冷やさなくても痛くないんだ」
「開ける道具にもよるけど。いやあ、まさか初対面の奴にも開けることになるとは。こんな経験なかなか無いわ」
「曲に使う?」
「いいなそれ。あーでも、どうだろ。なんかそれは勿体無い気がする。墓場まで持っていくよ」

 愉快そうな笑い声に合わせて、アイツの明るい茶髪が揺れる。
 同じ鈍色が、カラオケの少し頼りない照明の下で光っていた。





 罫線を超えて、線を引く。朝から頭の中に潜む『何か』を削り出していくように、線は増えて繋がって、一つの形を作っていく。
 もう少し。あと少し。『何か』に指がかかりそうな。

「──じゃあ、今日はここまで」

 パンッと弾けるような騒々しさから逃げて、指先に触れていた感触は離れていった。
 周りが席を立って動き始めるのを視界の端に見ながら、机の上に置いていたものを片付ける。教科書は最初に開いたページから進むことなく閉じられた。
 すぐにホームルームだというのに何故か教室から出て行く奴。前後の席で話し続けている奴。そんな喧騒の中で、淡々と話し始める先生。
 皮一枚を隔てた向こう側で起こる全てが遠く、色褪せて、はっきりとしない。ただ、さっきまで脳内で触れかけていた『何か』だけが自分の中に、まだ痕を残していた。
 名残を追ったまま帰路につく。溶けかけた雪の下に踏みしめるアスファルトも、今日はやたら柔らかい。いつか観た洋画に出てきた、粥でできた床を思い出した。あれはどんな映画だったっけ。
 透明な引き戸を開いて、玄関扉の鍵を開ける。

「ただいまー」

 返ってくるはずのない「おかえり」を待つこともせず、靴を脱いで二階に上がった。
 六畳の部屋。唯一の窓を塞ぐカーテンは、いつから閉めていたのかもう覚えていない。少しだけ久し振りに開こうかと手を伸ばしかけ、すぐに日が沈むことを思い出して引っ込めた。
 机に置かれたパソコンの電源をつける。立ち上がってくるのを待ちながら、ベッドの枕元に置いたはずのリモコンを探してボタンを押した。薄暗かった部屋が、白い光に塗り潰される。目の奥を刺すような眩しさに、思わず瞬きを一つ。
 高校の入学祝いに買ってもらった真新しい椅子は、座り心地がよくてもまだ慣れない。しっくりくる感覚を求めて何度か腰を上げては下ろしを繰り返しながら、パスワードを打ってデスクトップを開いた。
 毎日のように通っている動画サイトを開いて、今朝と同じリンクをクリックする。
 表示された見覚えのあるイラストを暫く眺めてから、再生ボタンを押した。
 唸るようなエレキギターに、それを低く支えるベース。『ドラム、あれじゃ人間には叩けない譜面になってるって言われたんだよね』と笑いながら話す顔が脳裏を過ぎった。まだ慣れないピアスに、指先で触れる。あれはもう、一ヶ月前のことなのか。
 誰もいない家ではヘッドホンをつける必要もない。スピーカーから、合成音声の歌声が狭い部屋に響く。
 その旋律が何かの輪郭になっているような。その詞が彩っているような。胸の奥底にある普段見ないようにしているものが、形を持って動いているような。

「それが何なのかが、わっかんないんだよなあ」

 肺の中の空気を全部出し切るくらい、大きく溜息を吐く。見えない不満は二酸化炭素と一緒に天井まで上っていき、ゆっくりとまた顔の上に降ってきた。
 アウトロに合わせて、イラストが単調に動く。

「……へったくそな絵」

 吐き捨てた言葉は、画面にぶつかって落ちていった。





『イラストありがとう、投稿したぞ! あれだな、曲に合わせて描いてもらえるってこんなに嬉しいんだな!』

 夕飯から戻ってくると、顔文字付きのメッセージが届いていた。普段何気ない話をする時よりもずっと多い記号が、そのテンションの高さを伝えてくる。
 そっか、喜んでもらえたのか。僕の絵が、役に立ったのか。あんな、一人の世界をなぞるだけだったものが。
 震えて今にも踊りだしそうな指でキーボードを叩いて返信を打つ。

『こっちこそ、描かせてくれてありがとう』

 そのまま送信しようとして、止まる。
 違うんだ。本当はもっと、あの曲から見えた形があった。それを紙の上に書き写してしまいたかった。
 一言だけ文末に付け足す。

『次は、もっと上手く描くから』

 少し間が空いて、『俺も』という二文字だけが返ってきた。それで十分だった。



 アイツ──エーイチの本名を、僕は知らない。知ってるのはサイトで使っている投稿者名と、同じこの北の果てに住んでいること。偶然にも同い年だったというのは一ヶ月前、初めて直接顔を合わせた時に教えられた。
 同じサイトで、同じジャンルの中でそれぞれの作品を上げていただけ。それも曲と絵では見るページも違う。それでもエーイチと僕の会話は切れることがなかった。
 読んだ本の感想を言い合ったり、新作映画のどれが有望か話し合ったり、なんでもない日常の報告をしたり。

『俺さ、いつか東京に行きたいんだ』
『東京? なんでまた』
『首都じゃん。やっぱり人も多いし、イベントにも出やすいし。曲出すだけならそりゃここでもできるけど』

 でも。そこでテンポ良く送られてきたメッセージが途切れる。電波の向こうで言い淀むような間があって、また受信音が鳴った。軽い電子音。

『一番は、遠くに行きたいんだろうな』

 他人事のような言葉に、返そうとした指がキーの上を迷う。
 遠く、ここではないどこかへ。明日提出の宿題も、騒がしいクラスメイトも、一人でいるこの家も、今周りを取り囲んでいる全てを置いて。
 考えるだけでも、心が宙に浮く。今すぐにも玄関を開いて、どこかに行ってしまいそうな。どこにでも行けてしまいそうな。

『良いな、それ』
『だろ? いつか一緒に行こうよ』

 文字の上で笑い合って、どこに住むのが良いかなんて話し合う。
いつ来るかも分からない『いつか』に、見えない未来への漠然とした期待を寄せていた。





 ペンタブの動きに合わせて、画面に線が引かれていく。イヤホンから聴こえるノイズに混ざって、メロディが小さく聞こえていた。聞き慣れた楽器のエフェクトに、聞き慣れた調整。初めて聞く旋律。そこから浮かぶ光景を拾い上げて、線と線を繋いでいく。

「ラフだけどこんな感じとか。聞いたイメージから海にしてみたんだけど」
『あー、なるほど……良いな……』

 向こうの画面にも映っているだろう正方形のイラストに、文字ではなく声で反応が返ってくる。最初は新鮮だったそれも、今では慣れ親しんだものだった。
 無料通話アプリが普及し始めた時、先に使ってみようと誘ってきたのはエーイチの方だった。新しいもの好きなアイツはまだ評判もあまり聞かないうちから、使ってみたいと言ってきた。わざわざダウンロードサイトのアドレスまで貼って。
 あまり新しいものが得意ではない僕も、二人で使ううちにエーイチに教えられてできることが増えていった。
 できなかったことができるようになるのは、楽しい。

「じゃあ全体の雰囲気としてはこんな感じで」
『おう。……なんか今更なんだけどさ』
「うん、なに? 曲の手直し?」
『それはちょっとやりたいかも。いや、そうじゃなくて、作業中に自分の曲がかかってんの、なんかめっちゃ恥ずかしいなって』
「それ今言う?」

 思わず噴き出すと、イヤホンからもカラカラと笑い声が響く。先に送られていた歌詞を開こうとしたマウスを動かして、延々とかけ続けていた音楽を止めた。続きは一人でもできそうだ。
 画面共有を切れば、向こうも何か作業をするのか物を動かすような音が聞こえてきた。僕もパソコンやタブレットを脇によけ、空いたスペースに参考書とノートを開く。さっきまでペン型の端末を握っていた手には、シャープペンシルは余りに細く感じた。
高校三年生。僕は大体の同級生と同じように、大学受験に向けて日にちを数えるようになっていた。
 乾いているのに澱んだ空気の中、西日に照らされて埃が光りながら落ちていく。昨日進めた問題を見返しながら、ふと頭に浮かんだ疑問が舌の上に乗っかった。飲み込んでしまうか少し悩んで、結局そっと唇の隙間から零す。

「あのさ、エーイチは志望校ってもう決めてる?」
『あー、俺、進学しないつもりなんだよね』
「……そっか」

 なんとなく、その答えは知っていた気がする。エーイチが言う前から。僕が尋ねる前から。

『これはお前だから言うんだけど』

 うん、と打った相槌は、果たして震えていなかっただろうか。そんな心配をよそにエーイチの言葉は続く。今まで聞いたこと無いような、静かで凪いだ声。

『レコード会社のほうから、本格的にデビューしないかって話しがきてるんだよ』

 息が止まる。指先で弄んでいたペンが紙の上に落ちて、折れた芯がやけに黒々として見えた。

「マジで? すごいじゃん、おめでとう」

 滑り落ちた言葉が、自分の中に沈んでいく。
 そうだ、すごいことだ。めでたいことなんだ。きっといつか光の浴びる場所に立つとは思っていたけど、こんなに早いとは思わなかった。

『今までも曲は売れてるし、多分上手くいくだろうって。ただ、そうすると上京することになるから』
「遠くに、行くのか」

 ここではないどこかへ。縛るものが何も無い、広いところへ。
 僕の行けない遠くへ。

『そっちは、どうするの』
「道内の大学受けるよ。親が大学行っとけってうるさいし、一人暮らしする金も無いから多分、ここからは出ないと思う」
『……そっか、そうなんだな』

 微かなノイズが、言葉の合間を埋めていく。進まないノートの問題から視線を外すと、パソコンの画面が青白く光っていた。
 出したままの、水色の線で描いたラフ画。今までエーイチがネットに上げた曲をまとめた、アルバムのジャケット。
 遠くへ行きたい。二人で。そんなことを話したのはいつだったか。ついこの間だと思っていたのに、手を伸ばしてももう届かないほど流されてしまった気もした。
 一人で、見知らぬビルの隙間に立つエーイチを思い浮かべる。テレビの中でしか見たことない街に、一度だけ見た十五歳のままの背中が滲んでいく。趣味の悪いコラージュのような光景は、何度か瞬きをすれば瞼の裏に溶けて消えていった。

『まあ、お互い卒業すれば色々できるようになるだろ』
「そうだな。金貯めて遊びに行くよ」
『じゃあ客用の布団買っておかないとなー』

 トーンの明るくなった声を聞きながら、またノートへ視線を戻す。持ち直したペンで数式を書こうとして手が止まり、端の空白を手に任せるままに埋めていく。
 白い紙の上に現れた小さな星は、黒鉛の色をしていた。





 気怠い眠気の中で、教授の話を聞きながらメモを取る。小休止のように雑談が始まって一息吐いた時、机に乗せていたスマホが震えた。
 通知欄のマークは白い手紙。差出人の名前に、なるほどと内容を察する。詳細を開けば思った通り、件名には《原稿お預かりしました》と書かれていた。
 元々エーイチのミュージックビデオを作り始めてから、僕の絵に興味を持っていくれる人も増えていた。それがまたゆっくりと広がっていって、今までの作品をまとめた画集を出さないかと持ちかけられたのが三ヶ月前。最近よく聞く掲載料だけふんだくっていく詐欺かと疑ったけど、出された出版社の名前は僕もよく知っているところだった。
 教授の雑談はまだ終わらない。
 作品のいくつかは、元のデータをもう消していたり失くしていたりしたものもあった。発表したものはできるだけ欲しいと言われて、渡した側に残ってないかと久し振りにチャットではなく、自分からエーイチに連絡した。

『もらったやつ以外にも、見せてくれたやつとか全部取ってあるぞ!』
「マジか」
『なんならラフも残ってる!』
「それは使わないかな」

 数年前に描いた見苦しさを通り越して懐かしいものまで引っ張り出しながら、エーイチは自分のことのようにはしゃいでいた。もしかしたら、自分のこと以上に。
 なんとなく通話を繋げたまま、自分が今まで描いてきたものを眺める。画面に並んだ小さなプレビューは劣化なんてしないはずなのに、どれも色褪せて見えた。
 自分なりに指南書や参考書を読んだりして描き続けていれば、技術は少しずつ付いてきた。技術だけは。

「あのさ」
『うん?』
「良いものって、どうすれば描けるのかな。……なんて、」
『言いたくないこと』

 つい溢れた自問自答に、エーイチの声が割り込む。いつか聞いた静かなそれに、出かけた誤魔化しの言葉は空気を震わさないまま消えた。

『一番言いたくないこと、秘密にしておきたいことを、作品にする。そうするとみんな、自分の中にあるものと勝手に重ねて、共感してくれる』

 って、前に聞いたことある。そう締める時にはもう、いやに冷たい声には熱が戻っていた。

「言いたいことじゃなくて、言いたくないこと?」
『おう。言いたくないこと。いや、人によって違うだろうし、ジャンルによっても違うだろうけど』
「なるほどな……そんな考え方があるんだ。なんか、それって、」

 自分を切り売りしてるみたいだ。そう言おうとして、口を閉じた。エーイチのあの平坦な声は嫌いだった。
 近況報告に互いの作品の感想を言い合って、それが最近観た映画のことにまで広がっていったところで『明日朝から用事あるから』というエーイチの言葉で通話は終わった。
 ふと思い立って、動画サイトからアイツの曲のページを開く。昔は僕の絵が使われていたサムネイルに、今ではカメラで撮った映像のワンシーンが表示されている。歌う声も、誰でも使えたあの合成音声から、エーイチ本人の声へと変わっていた。
 エーイチの歌声は、僕が嫌いなあの声とよく似ていた。





 画集の売れ行きは悪くなかった。それより少し後に出たエーイチのアルバムは、こぞって音楽誌に取り上げられていた。
 エーイチとは文章で話すことすら、少なくなっていった。
 理由なんていくらでも思い付く。僕から話しかけることも、エーイチから連絡が来ることも緩やかに減っていた。互いに環境が変わればやることも、関わる人も変わっていく。もう昔と違って、住んでいる場所だって遠く離れている。仕方ないことだらけだった。そう思うことにしていた。
 大学に入ってから始めた貯金は、既に北海道と東京を軽く二往復くらいはできそうなくらい貯まっていた。それでも、来るならと教えられたエーイチの現住所には一度も行かないまま時間は過ぎていった。
 講義室の隅で、教授の話を聞きながらペンを動かす。開いたノートではなく、その上に重ねた無地のメモ帳に線で形作っていく。描いてるそばから、こうじゃないと思う自分がいた。
 秘めておきたいものを曝け出す絵は、まだ描けていない。
 不意に震え始めたスマホを開けば、チャットアプリのアイコンに《ファイルが送信されました》の文字が並んでいた。

「……なんだ?」

 今は別に出版社とも何かを進めているわけではないし、学友から何か送られてくる予定もない。心当たりが無いまま開けば、出てきたチャット欄はエーイチとのものだった。
 ファイルの種類は音声データ。教授との距離が遠いのを良いことにイヤホンを挿して、再生ボタンを押す。
 そうして四分弱の曲が終わる前に、僕は講義室を飛び出した。
 地下鉄から電車に乗り換え、一番近い空港へ向かう。途中寄ったコンビニで、口座から貯めていた全額を引き出した。
 行ったところで何ができるかも分からないし、そもそも行く理由すら自分の中でも輪郭を欠いている。それでも、もしいきなりインターホンを鳴らした時、アイツが驚いた顔をしてくれたら、それで良かった。
 初めて使う空港の中で迷う時間も惜しくて、売店の店員から受付に立つ女性にまで尋ねながらチケットを買って、搭乗口に向かう。シーズンでもない機内は空席が多かった。
 来るまでの間に自分のスマホへ保存したあの曲を、空の上でもう一度聴く。

「……墓まで持っていくって言ってただろ」

 とっくに癒えたピアスホールが、熱を帯びてじくじくと痛んでいた。





 浴槽の中は、鮮やかな紅色に染まっていた。
 壁のタイルも狭い床も日常に取り残された中で、浴槽に満ちた赤色が澄んでいる。
 真っ白な顔は半分その赤に浸かって、その色の無さが目に痛い。
 沈んだ体に目をやれば、腕の上を縦に真っ直ぐ線が入っているのが見えた。白い皮膚の下から水へ、命が溢れ出た跡だった。

「……う、ぇ」

 嫌な臭いが鼻から入ってきて出ていかない。鉄によく似たそれは、けれど金属なんかよりもずっとぬるりとして、生々しい。
 足から力が抜けて、蹲ったまま嘔吐く。どれだけ出そうとしても胃の中は空っぽで、代わりに唾液が手の平を濡らした。
 熱が抜けて震える指先で、浴槽の縁を掴む。這い上がるように体を起こして、もう一度浴槽の中を覗き込んだ。
 五年前に見た時より、この前ミュージックビデオに映っていたものより、窶れた頬。色の抜けた神の合間から、睫毛が頬に影を落としていた。黒いシャツの襟は、水の中で少し浮かんでいる。記憶より起伏ができて筋張った喉も、薄っぺらな胸も、静かに止まったまま動かない。あの手首の線は左だけで、右は几帳面に黒い布が覆っていた。手首から先、深爪な指はだらりと水の中で揺蕩う。狭い浴槽の中で折りたたまれた脚は窮屈そうで。靴下もない素足が、透き通った赤色越しに見えた。
 静かに目を閉じた顔の横で、星型のピアスが銀色に光っていた。

「け、いさつ、呼ばないと」

 自分に言い聞かせながら、スマホを取ろうとポケットに手を伸ばす。指先に触れたのは布だけで、振り返ればいつの間にか薄い銀色が床の上に転がっていた。さっき蹲った時に落としたのだろうか。
 力が入らない手足でスマホに手を伸ばし──その向こうに置いた、鞄に、その中にいつも入れているスケッチブックに、視線が捕まった。
 手が鞄へ伸びる。
スケッチブックを開いてペンを握った時には、指先の震えは止まっていた。





「では、表紙はこの絵でよろしいでしょうか」
「お願いします」

 忙しなく人が動く中、衝立だけで区切られた空間で、テーブルを挟んで担当さんが頷いた。
 形式的にいくつか挙げた候補が重なる中、最初からいるべきなのは自分だとでも言うように、一枚の絵を担当さんは指した。
 鮮やかな赤に沈んだ、一人の男。

「発表した段階で反響が大きいので、部数は少し多めで頼んでみます」
「……分かりました」

 落ち着かない指先が耳に触れる。伸びた髪が手の甲を擽る。
 星の棘が、指の腹を軽く引っ掻いた。


Page:1 2 3



小説をトップへ上げる
題名 *必須


名前 *必須


作家プロフィールURL (登録はこちら


パスワード *必須
(記事編集時に使用)

本文(最大 7000 文字まで)*必須

現在、0文字入力(半角/全角/スペースも1文字にカウントします)


名前とパスワードを記憶する
※記憶したものと異なるPCを使用した際には、名前とパスワードは呼び出しされません。