複雑・ファジー小説

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傍にいてくれたから
日時: 2023/11/18 00:14
名前: 紅茶 (ID: S26AM191)

あらすじ

香川裕子は、夫淳一と共に一軒家に暮らしていた。そんな裕子には、あるコンプレックスがあった。それは、自分が妻としての魅力がないということ。そのコンプレックスは、徐々に肥大化していく。

この作品は、短編小説になっております。感想等がありましたら、ご自由にお書きください。

Re: 傍にいてくれたから ( No.11 )
日時: 2023/11/18 20:12
名前: 紅茶 (ID: S26AM191)

第十一話

それから更に月日は経ち、私達はどちらも定年退職した。つまり、二人で共に過ごせる時間が増えた訳である。
それは目出度いことなのだけれど、その直後に嫌なことが起きた。それは私達にとって、嫌という言葉で言い表せぬ程苛酷な現実である。
お察しの方もいらっしゃるかもしれないが、主人が失明してしまったのだ。元より、主人は視野が狭まっていくことを訴えていた。それは止むことなく、遂に視界全てを失ってしまったのである。
ただ、定年退職後にそれが起こったのは不幸中の幸いだった。外出する必要もなく、家で寝ていればいいのだから。実際、失明後の主人は寝てばかりいた。当然ながら、歩くことすら怖くなったらしい。
寝る時や風呂に入る時等は、私がサポートしていた。昔看護師をしていた為、そういったことは手際よくできる。それもあって、主人が私に感謝してくれることが増えた。不謹慎ながら、私はその時ばかりは妻としての自信を持てるのだった。
しかし、未だに妻としての力不足を痛感する時がある。それは、ある日の夜に実感させられた。
その日の夜、私は椅子に座り珍しくワインを飲んでいた。主人は寝室にいて、もうベッドに横になっている頃合いである。
時計の音だけが鳴るリビングで、私は一人色々なことを考えていた。それは何れも不安なことで、主に主人に対する問題だった。これから、どうやって主人と暮らしていこう。どのように、失明した主人をできるだけ幸せにしよう。そんなことを、何度も考えていたのである。そんな折、不意に寝室から音が微かに聞こえてきた。
「うえぇぇぇ……うえぇぇぇ……」
これは、何の音なのだろう。今までに聞いたことのないもので、判別できない。ただ、寝室から聞こえることだけは確かだ。主人がいることもあり心配なので、そちらへ行くことにした。
寝室に入ると、音の正体が分かった。それは、主人の泣き声だったのである。思えば、主人の泣く姿を見るのは初めてだった。私は、寝ながら泣いている主人の元へ向かった。
「ねぇ、どうして泣いているの?」
心配そうに私がそう尋ねるものの、主人は何も答えない。
「ねぇ……」
私はそれ以上言葉が出てこない。何か慰めの言葉を掛けようとしても、何も言えない。私はいつもそうだ。主人が悲しみにある時、その心を理解することができない。故に、救いの手を差し伸べることすらできない。どうして、私は私なのだろう。自分の憎むべき不器用さが、呪わしいものだとすら思える。
主人は以前として、泣き続けている。感情を押し殺そうとしてもしきれず出たような、そんな泣き声だった。
私はその声を聞いている内に、涙が出てきた。本来なら、涙を拭う立場であるべきなのに。私達は本当に夫婦と呼べるのだろうか。そんな疑問が、叱責するように脳内を渦巻くのだった。

Re: 傍にいてくれたから ( No.12 )
日時: 2023/11/18 22:37
名前: 紅茶 (ID: S26AM191)

第十二話

そんなことがあってから、約五年の時間が過ぎた。その五年間は、極めて静かなものだったと言える。もはや、二人で何処かへ出掛けることもなくなった。ただ死ぬのを待つ時間とすら言えよう。けれど、私にとってはそれで満足だった。主人と共にこの家で死ねるのなら、それが本望だったのだ。
そんなある日の朝食時、私は普段通り主人の食事をサポートしていた。目が見えないので、私が毎日介助して食べさせているのである。
「いつも、済まないな……」
私がご飯を口に運ばせた後、主人はそんな言葉を漏らした。
「いいのよ、気にしないで。それより、ちゃんと咀嚼して食べるのよ」
事実、主人の介助を嫌だと思ったことはなかった。むしろ、自ら望んでしていたとすら言える。
「目が見えさえすれば、裕子の料理を見ることができるのになぁ……」
主人は本当に悔しそうに言葉を漏らす。
「そんなの見なくたっていいのよ。そんなの見たって、面白くないでしょ」
主人はそれに対して言葉を返さない。その代わりに、思案深げな顔をして俯きだした。一体、何を考えているのだろう。私がそんなことを考えている内に、主人は唐突にこう言った。
「そういえば、もう何年も桜を見ていなかったな……そうだ、今日花見をしに行こう。確か、今は春なんだから」
主人が視界を失ってからというもの、何年も花見等していない。何せ主人は見ることも叶わないのだから、当然である。にも関わらず、花見をしたいと言うのだ。
「桜なら確かに咲いてますけど、本当に行くんですか?」
「勿論だ。食事をしたら直ぐ行こう」
こういう時、主人は絶対に自分の意見を押し通す。それが分かっていたので、私は頷く他ないのであった。

Re: 傍にいてくれたから ( No.13 )
日時: 2023/11/20 00:28
名前: 紅茶 (ID: eetvNq3l)

第十三話

私は主人の身体を支えながら、以前は毎年訪れていた通りへ向かった。思えば、こうして夫婦揃って出掛けるのも久しぶりのことだ。
「急に無理なことを言って済まないなぁ……」
主人は私に連れられながらそう言った。
「別に構うことないのよ。それに、私もたまには外に出た方がいいと思ってたところなのよ」
そんなことを言う私だが、実際は外出しようがしまいがどうでも良かった。どちらにせよ、主人と共にいられたらそれで良かったのである。
桜並木に着くと、久しぶりに夫婦揃って花見をした。といっても、主人は見ることができないのだが。けれど、主人は満足しているらしい。主人はしきりに「綺麗だ……」と呟いて、桜を見つめていた。
私はそんな主人に問いかける。
「ねぇ、桜が見えるの?」
「見えるとも。とても綺麗だ」
きっと、主人は今咲いている桜を見ているのではないのだろう。昔見た桜の記憶が焼き付いていて、それを喚起しているのだと思われる。瞼の裏には、さぞかし美しい光景が映っているのだろう。
主人は言葉も忘れて、花見に夢中になっている。それが主人の幸福ならば、そのままでいさせてあげたい。そう思っていた最中のことであった。
「ぐふっ……」
主人は唐突にそんな声を出し、吐血した。地面に赤黒い血が滴り落ちる。一体、どうしてそんなことが起こったのだろう。その光景は、周囲の桜の醸し出す美しさとは不釣り合いだ。まるで、美しい夢が一瞬にして悪夢に変わったような。
私が混乱状態になっている間に、主人は膝から崩れ落ちた。

Re: 傍にいてくれたから ( No.14 )
日時: 2023/11/20 11:44
名前: 紅茶 (ID: S26AM191)

第十四話

それから、私は主人を病院に連れて行った。後の診察で医師に言われたことは、下記のようなものだ 。
主人の喀血は、肺炎に罹ったことが原因である。その原因は、おそらく過度の飲酒であろう。なので、今日以降は酒を経たなければならない。さもなくば、肺炎が悪化するであろう。
診察が終わると、私は主人と並んで帰路に着いた。その間、私達はこんな会話をした。
「酒が飲めなくなったのか……残念だな………これから、どうやって生きていけばいいんだろうな」
そんなことをぼやく主人に対し、私はこう返す。
「そんな、大袈裟よ。お酒が無くなったって、美味しいものは一杯食べられるわよ」
「分かってないな、そういうことじゃないんだ。酒は命の水なんだ。あれが無いと、生きていけないんだ」
「そんな、冗談仰らないで」
私は僅かに笑いながら、そう言った。けれど、主人の発言はあながち間違いではなかったのだ。それは、以降の日々が証明することとなる。

Re: 傍にいてくれたから ( No.15 )
日時: 2023/11/20 12:45
名前: 紅茶 (ID: S26AM191)

最終話

喀血をしてから、主人は一滴も酒を飲まなくなった。というより、私が飲ませないようにしたと言うべきだが。それにより、主人にどのような変化が起こったか。それは、あまり良いとは言えないものだった。
喀血は最初の一回目しか起こらなかったが、その代わりに主人は生気を失った。水を与えられない花が萎れていくように、主人は衰弱していったのである。その衰弱とは、どのようなものであったか。最初の変化は、以前より寝たきりの状態が長く続くようになったことだ。その次に起こったのは、口数が減ったこと。私とすら、必要最低限の会話しかしなくなった。
主人にとって、酒は精神的な意味に於ける栄養分だったのだろう。それを飲めなくなったことが、私には想像もできない程苦痛なのだろう。ただ、かといって飲ませる訳にはいかない点が難儀である。
主人が喋らなくなってから、私達は更に静かな時間を過ごした。一日の殆どの時間が寡黙に包まれた、何とも味気ない日々であった。
何も話さなくなってから、主人は常に悲しい目をしている。そして、私はそんな主人を救ってあげることができない。その事実が、私が妻として無価値であることを証明しているようだった。
そんな状態が何年も続いていた、ある日のこと。
「裕子、お願いがあるんだ」
朝に主人の口に水を流し込んだ後、主人が掠れた声でそう言った。
「何でしょう」
「なぁ、手を繋いでくれないか」
そう言われた時、私は少し困惑してひまった。何も、手を繋ぐことが嫌なのではない。というよりも、何故それを求められたのか分からないのだった。
ただ、それでも私は直ぐに主人の手を握った。その手は、私が一瞬驚いた程に冷たい。
「ねぇ、急にどうしたの?」
私が尋ねると、主人はこう答える。
「もうすっかり視界は真っ暗で、僕は孤独になってしまった。けれど、裕子の手を握っていると心が温かくなると思って。だから、頼んだんだ」
そうか、主人は私のことを今でも頼りにしているのか。けれど、それはどうしてなのだろう。私は主人の心を支えるばかりか、上手く理解することすらできなかったのに。
そんな自責の念が先行して、私は思わずこんなことを尋ねてしまった。
「私なんか何の役にも立たないじゃない。それなのに、どうしてそんなことを言ってくれるの?」
すると、主人はこんな返事を返す。
「それは、裕子だからだよ。何てくれなくていい。裕子が傍にいてくれるだけで、それでいいんだ」

それから二週間程経って、主人はこの世を去った。主人は何もできない私に「傍にいてくれるだけでいい」と言った。時折、私はその言葉の意味を考えさせられる。
主人が言いたかったことは、誰かが傍にいてくれるだけで救われる者がいる。それに人間としての能力や価値は関係しない、ということだろうか。もしそうならば、私達の関係は正しく夫婦と呼べるものだったのかもしれない。



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