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*21*
† 十一の罪 “贖いの雨” (前)
問い質されたイヴは幾らかの沈黙の後、双唇を開いた。
「知りたかったの、本当のことを。上は警戒を強めるよう命令するだけで理由を話そうとしない。今何が起きているのか、王が何をしようとしているのか、わたしが本当にするべきは何なのか……? それで最近この辺りの山のどこかで何やら恐ろしい儀式の準備が行われてるって噂を聞いて……」
「其の流言は事実無根では無かろう。ソロモンが曾て竜族の血を飲ませ、天使方の妙技を借りて創り上げた半人半竜の童を再び手中に収めた。其の力を要するとは……愈々、か」
「でも、いくら同盟を組んでたって天使方も黙ってないでしょ」
「天使頼りで運命に為されるが儘故に人間は弱者に甘んじ続けるのだ。戰いが罪なれば、大罪と共に生きている我が身が凡て背負ってみせよう」
宣言する魔王と、呆れ果てたように口元を緩める彼女。
「頂点に立つ時、すべてを背負うって決めたんでしょ?」
「否、此の身が自我を持った瞬間(とき)だ」
堂々と言い放つと、心無しか温かな眼差しで続ける。
「真実は二つと非ず。故に目を背けるでない。然れど解釈は人の数だけ在る。飽く迄お前が王に尽くそうと俺は糾弾せぬ。己が道だ。其の眼で見極めよ。今、何を為すべきかを」
「……うんっ! すぐには決められないけど、後悔しないよう選ぶよ」
咲き誇る花のように凛と答えるも、間も無く哀しげな笑顔に変わった。
「――“Nec possum tecum vivere, nec sine te(私はあなたと共に生きていけない、あなたなしに……生きてはいけない)” あなたは悪魔、わたしは騎士だもん……しょうがないよね。だから、あなたも……全力で戦って」
照れ臭そうに伝えた。
「互いにな」
そう応じると背を向ける。彼女が遠ざかる後ろ姿を見送っていると、さほど進まずして歩みを止め、ルシファーは振り向いた。
「……良き剣筋であったぞ、イヴ」
表情を僅かに崩して告げると、黒衣を翻し立ち去る。
「ル、ルシファー!」
咄嗟に呼び止めると頬を赤らめ、佇む痩身を見つめるイヴ。
「その……ありがとう」
彼女がかけたのは、少女らしい屈託の無い一言。再び向き直ったルシファーは黙したまま微笑して返すと、薄暗い森林の中へと消えて往った。
全身を包む鈍痛。痛みと言うよりは、身体中の重さが数倍になってしまったと表現するべきか。重い。何故こうも重いのか。何故こうしているのか……思い出せない。
(ぼく、なにしてるんだろう…………)
身体の自由が利かない。巨岩に縛り付けられて身動きが取れないゆえか、四肢の感覚が失われているのか、いや……その両方だろう。肉体が恰も別の生き物のようである。
雨が岩肌を打つ。寒い。なれど、濡れているせいではないようだ。少女は冷たさも感じることが出来なくなっていた。鉛が体内に注がれているかのような気持ち悪さ。身も心も押し潰されそうだ。なれど抗う術など無い。前後左右より圧を掛けられていると錯覚する程に、胸が重苦しさを訴えている。息苦しい。孤独の海に深く沈められてゆく。目を開けても閉じても景色が変わらない。ここが、どこであるのかも理解らない。
ふと、以前見た花は綺麗だったなと思い出す。これが走馬灯とやらなのだろうか。あの時の彼はどうしているのだろう、あの紫の花を一緒に見た彼は……そう言えば名前もちゃんと聞いていない。悪魔だと口にしていた気がする。悪魔とは災厄をもたらす存在ではなかったのか。なぜ人を不幸にする悪魔が、見ず知らずの人間にあのような風景を見せようと思ったのか。自分なんかどうなろうと彼にとっては何も変わらないのに。わざわざ敵から庇う義務など無いのに。なぜ身体を張って戦ったのだろう。初めて会った人間の運命を変えたのだろう。自分がいてもいなくても困らない彼がどうして? 自分なんかいなくなっても関係ないのに……そうだ、自分はいなくたって誰も…………
じゃあ自分は何の為に生きているのか? 何でこの世界に生まれたのか? 自分という存在は何者なのか? あれ、そもそも――――
(ぼく、だれだっけ……?)
自分が誰であるのかも分からない。もはや生きている意味があるのだろうか。あの悪魔は生きる意味を探すことが生きることみたいなことを言っていたように思える。この状態でも探せというのか。見い出せずに終わるのか。何で生きるのか、その意味も知らずに自分はこのまま死ぬのだろうか。
(ぼく……どうなっちゃうのかな…………)
漠然と考えようとしても思い浮かばない。怖い。想像もつかないというのに、いや……想像できないから嫌悪しているのか。自分が自分でなくなることなど、今までの十数年で受け入れたはずだった。いや……甘んじるのではなく諦めたのか。今まさに、こうして自分でなくなろうとしていることに怯えているのか。そもそも自分が何なのかも分からないゆえに、どうなるか考えつかないのか。生きてこの世の地獄を見てきた自分が死を恐れているのか。
泣きたい。もう泣いているのかもしれない。涙が出ているのかも分からない。なぜに人とは泣くのだろうか。泣いて何か変わるというのか。そもそも自分は人なのか。長老もデアフリンガーも村のみんなも人として接してくれただけで人ではないのか。ああ、人でなくなろうとしているから体がおかしいのか。人でなくなったら彼らと生きたことが否定されるのか。
「いやだ……いやだよ…………」
嫌だ……納得がいかない。こう拒絶心がはたらくのも人であるがゆえだろう。人ならざるものになったり死んだりしたら、こうやって思うこともなくなるのだろう。こうしている間にも人から遠ざかっているのか。もう諦めてしまいたい。やはり自分はこの運命から逃れられなかっただけのことだ。なんで今更になって拒否するのか分からない。人でない何かに変えられる境遇への怒りも憎しみも感じない。感情が消えていっている為かもしれない。ただ、明確に拒絶しようという気持ちが、重圧に苛まれる心身において、強く自己を主張している。
「降り出した、か……。先刻までの晴れ渡る空が嘘の様だ。だが如何に嵐が暴虐の限りを尽くそうと、今宵の狂演には遠く及ばん。何せ一晩で歴史が変わるのだからな」
吹き荒ぶ風が長く垂らした包帯を靡かせる。途切れることの無い雨音の中、ソロモンは嗤った。
「半竜の覚醒に十分な準備はしてきた。後は――」
鉛色の空を仰ぎ見る。
「あの男を殺して取り込ませれば完成だ。誘き出されると同時に我が総力を以て息の根を止める。如何に強かろうと、此の指環で召喚された七十二柱もの悪魔を前にしては無力! 此の左眼の疼き……間違い無い、他の王たる者の訪れを告げている……! 闇を象徴するルシファーを吸収させ更なる凶悪な怪物に仕上げれば、もはや誰にも止められない。そして天界をも制し、余が人間界のみならず世界のすべてを手にするのだ! さあ早く来い魔王、貴様を処刑する舞台は整った。贖いの雨が罪深き其の身を待っておるぞ」
イヴは隊士たちを集合させた。複雑な顔色が事情の重大さを物語っている。
「急な呼び出しですまない。隊長として、みんなに伝えなければならないことがある。突然で申し訳ないが、落ち着いて聞いてほしい」
深呼吸をすると、固唾を飲んで見守る彼らへ、徐に切り出した。
「勝手ながら本日付で、この隊は……解散することになりました」
騎士たちは唖然として顔を見合わせる。恐る恐る一人が手を挙げた。
「あの、それは……何故でしょうか……?」
遠慮がちに質問する部下を正視すると、真剣な顔つきで説明を始める彼女。
「いきなりで納得できないのも無理はないわ。でもわたしはもっと納得できないことがあって苦渋の決断をした。これ以上、王の駒でいることはできない。いや、むしろ彼の野望を止めようと決意したの。彼は罪のない子どもを虐げ、人ならざる存在として暴走させる儀式を行っている。人間の世をつくるっていうけど、そのために人を怪物に変えて世界を蹂躙させるような指導者を信用できない。どういう惨劇が引き起こされるかも分からないのに、黙ってされるがままに受け入れるのなんて納得できない。わたしは今の生活を得られている世の中に感謝している。かけがえのない人たちに囲まれて日々を過ごせる、おいしいものをお腹いっぱい食べられる、明日が来ることに安心して眠れる……そんなささやかな幸せを理不尽な暴力で壊されたくない。
天使の下で人間はこの世界をつくり上げてきた。それが正しいかどうかなんて分からない。だけど……人々の幸福を犠牲にしてまで理想を押しつけるような人間に仕えるのが騎士なの? 騎士は祖国を守るもの。王が過ちを犯そうとするのなら全力で止める。たとえ、この命を賭してでも……!」
迷いの感じられない、限り無く真っ直ぐな眼。
「……隊長。隊長はどうして……そんなにお強いんですか?」
悲痛な顔で隊員が口にした。
「決まってるじゃない? 騎士だからね。それと……」
不意に目を伏せるイヴ。
「好きな人がいるからかな」
頬を薄紅に染めて、気恥ずかしそうに呟いた。