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*37*
「契り」より〈こいとside〉
学校の屋上のドアに、鍵はかかっていなかった。いや、正しくは違う。鍵穴に、銀色の鍵がささったままになっていたのだ。
鍵は当直の先生が職員室で管理している。しかし先生によっては、時々、鍵を忘れて帰る人もいる。
学校の先生は忙しい。ふだんの授業に加えて部活の顧問も担当している。人間誰しも完ぺきではないし、間違えることだって生きていれば多々ある。
だけど、何も今日じゃなくても良かったのに!
「見晴らしのいいところでご飯食べたい」って由比が言うから。
「屋上の階段で座って食べようよ」って言うからわたし、お弁当の包みを持って教室を出たのに。
扉のスペースに座って食べるって約束だったでしょ?
スマホの電波が悪くてYouTube開けないって話だったから、うち、今日こっそりスマホ持ってきたよ。フォルダにおすすめの動画、たくさん保存したよ。
なのになんで、一緒に観ようとしてくれないの?
なんでランチセット持ってきてないの? ご飯、食べるんじゃないの?
「いとちゃん、僕、外の空気吸いに行きたい。ちょっと行ってくる」
箸でつかんでいたタコさんウインナーが、ポトリとお弁当箱の中に落ちた。
わたしは慌てて立ちあがり、扉のノブに手をかけようとする由比の右腕を掴む。
彼の筋力のない細い指の先が、ビクッと動いた。
「待って。どこ行くの」
「……外」
「外に行って何するつもりなの」
「なにって、空気吸いにいくだけだよ」
由比は、痛いところを突かれたような顔になった。
「ねえ、もういいでしょ。外に行かせてよ」
ドンッと突き飛ばされて、わたしはその場に尻もちをついた。
掴んでいた手が離れる。
ギィィィィと蝶番の音をきしませて、重い銀色のドアが外側から開いた。わたしがかける言葉を必死に探している間に、クラスメートの小さな身体は入口の向こうへ隠れてしまう。
……おかしい。
由比は滅多に嘘をつかない。表情が顔に出やすいことを自覚しているから。
くわえて、彼は大人しい。人より動作が遅くて、のんびり屋で、マイペース。
お喋りするときも、わたしが話終わるまできちんと待ってくれる。聞き役に徹しすぎるせいで、自分から話題を持ち掛けることは苦手。だから、わたしがだいたい『今日は何があったの?』って、先導してあげるんだ。
おかしい、絶対おかしい。
今日に限って、会話を自ら中断しようとして。乱暴してきて。
しかも、……笑わないなんて、絶対絶対おかしい。
「ねえ、待ってよ由比! どうしたの!? ご飯、食べ………」
わたしは、開けっ放しにされたドアをくぐって、そして。
言葉を失った。
人は心の底から驚いたとき、声が出なくなるものなのだと、悲鳴すら喉の奥に引っ込むものなのだと、その日初めて理解した。
――友人の表の顔だけを見て来たわたしの眼は、彼が屋上の柵に手をかける寸前まで、その事実を受け止めきれなかった。
「バカあああああ!」
わたしは、叫んだ。
人生初の怒号だった。人生初の悲鳴だった。
これが悲鳴なんだ、と思った。
後ろから抱き着かれたときに出た「キャッ」や「ひゃああッ」。
あれは悲鳴ではなかったんだ。
なんで、なんでなんでなんでなんで。
嘘でしょ、嘘、絶対嘘。嘘だ、こんなの、嘘に決まってる。
「いとちゃん、風がすごく気持ちいいよ! 僕ね、ずっと空を飛んでみたかったんだ!」
屋上の周りをぐるっと囲んでいる柵に、由比は足をかける。身体が徐々に上へ上へと持ち上がっていく。空と、身体の距離がどんどん近くなる。
……ついに、彼の足が手すりに乗った。その幅はわずか十センチ。制服のシャツが風でパタパタ揺れて、姿勢が少しグラグラしていて。
「ねえ、やだっ、やだよ由比! やだ、大きらいっ」
違う、違う。うちは、あんたを怒りたいわけじゃないの。
なにがあったのか聞きたいだけなの。一緒にお昼ご飯を食べたいだけなの!
あんたのことが大好きだから、だから、自分の好きなものが無くなるのが嫌なの。
あんたに見せたかったものが、あんたの行い一つで無駄になるかもしれない。
それが嫌なの。
「由比! 早くこっちに来て! ……ねえ、帰ろう! 5時間目始まっちゃうよ! ねえ!」
「いとちゃん。僕はもう大丈夫だから、戻ってくれないかな」
うそつき。大嘘つき。バカ野郎。
大丈夫じゃないから、今現にこうなっているんでしょう!?
大丈夫じゃないから、あんたはこんなに追い詰められているんでしょう?
桃根こいとは信じない。演劇部員の名に懸けて、こんなエンドロールは絶対に信じない。
ここであんたの物語を、暗転させたくない!
………ねえ、由比。あんたっていっつもそう。
肝心なこと、何にも話してくれないよね。
自分のこと、家族のこと、習いこと、夢のこと。
わたしはたくさん話したけれど、あんたのことは何も知れてない。
フェアじゃないと思わない?
「わたしがなんかしたの? わたし、無意識にあんたを苦しめちゃった?」
「……違うよいとちゃん。 いとちゃんは悪くない。全部、全部僕のせいなんだ。だから僕が全部やらなきゃダメなんだ」
暖かい風が吹く秋空に零れた、彼の涙。
わたしは慌てて駆け寄り、自分の小さな右手を友人へと差し出した。
なにかが変わるわけではない。なにかを変えるわけでもない。少女の細い腕では、多分相手の苦しみは抱えきれない。
でも、それでも。
それでもわたしは。
「そんなことないよ! 言ってくれたらわたしも一緒にやるよ! 今までずっとそうしてきたよ! だからこれからもそうする! ずっとずっと側にいるから! ずっとずっと応援するから!」
わたしに迷惑が掛かると思ったの? わたしが自分の側を離れると思ったの?
そんなわけないじゃん。
桃根こいとは、由比若菜という物語において最重要人物でしょ?
いい? 物語っていうのはね、キャラとキャラが心を通わせることで進むものなの。
全部一人で抱え込まないでよ。友だちでしょ?
「………いとちゃん。ありがとう。 でもごめん、もう疲れたんだ」
由比が右足を一歩前に踏み出す。足が空を滑る。
小さな身体は重力にあらがえず、コンクリートの地面へと真っすぐに落ちていった。
風すら掴まずにどんどん落ちて行った。
………ドンッ。
………ドンッ。
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〈ゆ※&■〉
――ねえ、いとちゃ、………なんで。
――なんで、……なんで飛ぶんだよ。
――僕、言ってない。助けて……な、んて………。ひ、とこと………も………。
『―――大好きだよ』
――僕の手、血だら、け。
『ううん、離さないよ』
――いとちゃん、もういいよ。……もう、どっか、行ってよ……。
『じゃあ、一緒に連れてって』
――地獄だろ。
『天国に決まってるじゃん』
――何しに行くの。
『神様に頼みに行く。ハッピーエンドにしてくれって怒りに行く。桃根こいとと由比若菜を叱ってもらう。そして、最期にはくっつけてもらう』
――くっつけるって、なにそれ。僕たち結ばれるの?
『そうだよ。だってうちら、【こいと】と【ゆい】だよ。
ほどけても、また絶対結びなおせるよ』