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*36*
暫くシリアスな展開が続きますがよろしくお願いします。
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季節は変わり十一月中旬。
時刻は夜八時三十分。職員室の真ん中で。
「由比。この前のテストの結果は何だ」
三十代くらいの男の先生は、眼鏡のつるを右手でくいっと持ち上げながら言った。
自宅から歩いて十五分。
駅の近くにある三階建てビルの二階が、僕の通っている進学塾〈きららゼミナール〉だ。
実際は、きらきらの「き」の字もない場所だけど。
塾で行われるテストや学校の成績でクラスが分かれる階級制。
頭のいい子は先生から可愛がられ贔屓され、夏に行われるバーベキューなどのイベントにも参加
できるが、それ以外の子は申込書すらもらえない。
参加したかったら、ただひたすら勉強するしかない。成績は塾のすべてだ。
……僕・由比若菜が所属するクラスは、通称〈Fクラス〉。
きららゼミナール内では最下層だ。
「……」
黙っている僕に、先生―確か苗字は田中だ―が「はあ」と肩を降ろす。
その表情はひどくくたびれていた。
「正直に言おう。おまえの成績はFクラスの中で最低だ」
渡された数学の小テストの点数は、十点だった。
五十点満点ではない。百点満点のテストだ。
回答欄を全て埋めているのにも関わらず、ほとんどの答えが赤ペンで訂正されている。
「勉強しなかったのか」
「……しました」
勉強を全くしていなかったわけじゃない。学校の授業は寝ているけれど、家ではしっかりテキス
トを開いている。なんなら予習も復習もしている。毎日、毎日コツコツ問題を解いている。
「勉強しただぁ? 何時間? どれくらい? この点数を見て、それでも勉強したって言える
か?」
田中先生の声の大きさにびっくりして、僕は目をつぶる。怖い。すごく怖い。
先生は机のふちを指でトントンと叩きながら、やりきれないと言うように首を軽く振った。
「勉強って言うのはな。生きていくうえでとっても重要な物なんだぞ。将来、受験にも役立つし、
知らなかったことを知れる。なあなあにやるから、こうなるんだ」
「………」
「成績は全部お前に返ってくるぞ」
…………なんだよ、その言い方。
それじゃあまるで、僕が不真面目みたいじゃないか。
ああそうだよ、みんなそうだ。大人はみんな、いい子ちゃんが好きだ。
与えられた問題に丁寧に取り組み、点数を稼ぎ、結果を出せるような子が好きだ。
相手の気持ちを理解できる、物分かりのいい子が好きだ。
ああ、ほんっとうに嫌になる。
頑張ってきたことが報われないのなら、努力って何のためにあるの。
自分のやりたいことが出来ないのなら、進路って何のためにあるの。
いい子って何? そんなに勉強が大事なの?
何でぼくはこんなに惨めな気持ちになってるの? なんでこんな気持ちにさせるの?
「――に何がわかるんだよ」
無意識に、唇の端から言葉が漏れた。
両手がわなわなと震える。拳を強く握りすぎたせいで、持っていたテストの答案用紙はしわくちゃになってしまった。
先生が息をのみ、目を見開く。怯えたような表情。
「教師に向かって、なんてことを言うんだ」
「テメエの気持ちなんか知るかよっ」
怒鳴ってから、僕は自分の発した言葉の重みにようやく気付く。
どうしよう、どうしようどうしよう、どうしようどうしよう、どうしよう。
相手は先生で、僕は生徒で、僕は怒られていて、僕はひどい点数を取って……。
違う、違う。やばい、判断を間違えた。どうしよう、どうしようどうしようどうしよう。
謝らなきゃ。ごめんなさいって頭を下げなきゃ。まだ間に合う、まだ大丈夫、まだ……。
そう思うのに、なぜか言葉は止まらない。刃物のような単語が、自分の声と絡まって相手の胸を
打ち抜く。
「誰も僕のこと、見てくれないじゃんかっ。頭の良さだけで決めるじゃんかっ。勝手に期待して! 勝手に子供の夢を捨てて! 勝手に道をふさぐじゃんかっ。いい大人になりなさいって教えるくせに、選択肢全部つぶすじゃなんかっ! もういい、もう嫌いだ! みんなみんな大っ嫌いだ!」
僕はくるりと回れ右をし、教室の扉へと一目散に走る。
後ろから先生の叫び声が聞こえてきたが、構うものか。
建付けの悪い戸を開けて部屋から出て、リノリウムの廊下を駆け、全速力で階段を降りる。
途中、すれ違った生徒や事務の先生が何事かとこちらを見た気がするがどうでもいい。
走って、走って走って走って走って、走りまくって、塾の入り口を出たところでやっと足が止まる。首筋から汗がしたたる。心臓がドクンと脈を打つ。
「あ、あははは………終わった」
ついにやってしまった。いい子を終わらせてしまった。
ひどいことを言って先生を困らせてしまった。怒られているのに逆ギレしてしまった。
もう、塾には通えない。先生からもお母さんからも、多分見放される。
いけない事をしたのに、心は晴れやかだ。胸の奥で渦巻いていた塊が、すうっと消えていく。
「あー、あー………疲れたなあ。もう、全部疲れた」
僕は終わっている。散々ひどい目にあわされたのに、まだ自分に非があるんじゃないかと思って
いる。ホント、いつまでいい子で居る気だよ。
「…………あ、そういやもうすぐか」
僕は、肩からぶら下げているスクールバッグのポケットから一枚の紙きれを取り出す。
白い紙に赤い字で、〈ひばり座 前売り券〉と書かれたそれは、演劇部の舞台のチケットだ。
来週開催される文化祭で、いとちゃんは主役をやると言っていた。数カ月から練習を頑張って、ついに大きな役を任せてもらえる事になったのだ。
『練習したから、絶対見に来てね。絶対だよ! 遅刻したら許さないからっ』
『行くよ、絶対行く。一番前の席で見る。絶対絶対、寝たりしないから』
『もー、信ぴょう性ないー』
………ごめんね、いとちゃん。
近くにいてくれたのに、自分を愛してくれたのに、僕は最後の最後まで君を頼れなかった。
助けてって言えなかった。応援するって言ったのに、応援してほしいって言えなかった。
可能性を捨てるなって叫んだのに、自分で可能性をつぶしちゃった。実力行使しちゃった。
自分が本当に好きなもの、自分が本当にやりたいこと、心の中にしまったまま実行しちゃった。
今更遅いって怒られてもいい。嫌われてもいい。
………これだけ、最期に言わせてくれ。
僕はいとちゃんが大好きです。
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由比若菜の人生はもうすぐ終わります。
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助けないでください。
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うそつきの僕を、どうか許してください。
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じゃあ、また明日。
さよなら。