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*35*
〈由比side 12ヵ月前 5月〉
キーンコーンカーンコーン。
授業終了を知らせるチャイムが教室のスピーカーから鳴り響く。
このチャイムは二回繰り返して放送されるのだけど、皆授業が嫌いなので、チャイムが鳴る五分前には、クラスメートのほとんどが教科書を片付けていた。
教卓に立つ英語の鷲見(すみ)先生が、ノートパソコンをパタンと閉じる。
そして、よくとおる野太い声で言った。
「はーい。今日はこれで授業終わり。来週単語の小テストあるから、ちゃんと勉強してくること。範囲はさっき教えた、21ページから24ページ」
彼は、大学を出たばっかり・教師一年目の若い男の子の先生だ。
朗らかで優しく、授業もわかりやすい。歳が近いのもあって、何人かのクラスメートは親しみを込めて、「鷲見先生」ではなく「亮ちゃん」と呼んでいる。鷲見亮介先生だから、亮ちゃん。
「亮ちゃーん、鬼ー」
「いっつも範囲広いじゃん亮ちゃん」
「サッカー部の試合あるんだけどー」
生徒に反論されても、先生は全く怒らない。
それどころか、英語が苦手な子のために、わざわざ救済措置まで取ってくれる。
「じゃー、次の授業で。ヒントは出すから、欲しいって人は職員室に来てね」
先生は教卓の上に置いた教材を手早く籠の中に入れると、そそくさと教室の扉の奥に消えてしまった。
………というのを僕は、後ろの席の女の子に教えてもらった。
今話したことは僕が見た内容じゃない。というか、三時間目が英語だったことも今知った。
理由は簡単。寝落ちしたのだ。
教科書とノートと筆箱を引き出しから出したところまでは良かったものの、その後やってきた睡魔にあらがえず、瞼はどんどん下がって行って……。当然、ノートを取ることもできなくて……。
「ええええっっ、小テスト!?」
「そうだよ。21ページから24ページの進出単語」
後ろの席に座っている女の子は、「あんた今まで何してたの?」と机に頬杖をつく。
この子の名前は桃根こいと。低い位置で結んだお下げがチャームポイントの、演劇部員だ。
「由比くん、なんでいつも寝てんの? ノートちゃんと取らなきゃダメじゃん」
「……えええぇ。も、桃根さん、ノート見せて」
「もー、授業中に寝るとかありえないんですけど! もうやだこの席」
この学校の出席番号は、あいうえ順。
僕の苗字である「由比」は〈ヤ行〉。彼女の苗字である「桃根」は〈マ行〉。クラスにはマ行が桃根さんしかいない。よって、彼女の席はいつも僕の後ろ。
え、前じゃないのって? あはは,僕目が悪くてさ、前後逆にしてもらったんだ。
入学式から一カ月間は出席番号順に座らなければいけない決まりになっている。
今日は五月一日。
入学式があった日は十日なので、ゴールデンウイークを過ぎれば僕らの席は離れることになる。その後は席替え。しかもクジ引きだ。隣同士・前後同士になる確率は極めて低い。
「僕はこの席、結構気に入ってるよ。窓側だし」
桃根さんから渡されたノートのページをめくりながら、僕は答える。
天気がいい日は窓からグラウンドを走る他学年生の姿が見えるし、雨の日は花壇の花びらに落ちた雨の露を確認できる。日当たりもいいから寝るのにも困らない。
「それに、桃根さんしか話せる友だちいないからさぁ。おわっ、何このノート」
「え? なに、字が汚いって言いたいの?」
桃根さんが席から立ちあがり、僕の隣に並んだ。
いや、字について言ってるわけじゃないよ。筆跡はすごくきれいで読みやすい。
ただ、なんというかあの、僕が知っている英語のノートとは、少し違うような……。
「『村人A:おお、神よ。我に力を与えたまえ』『I went to school by bus.』会話の脈絡がないっていうか、その」
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村人A:おお、神よ。我に力を与えたまえ。(天に向かって大きく手を広げる)
〈過去形〉
I went to school by bus.
(私はバスで学校に行きました)
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な、なんで英語のノートにセリフが出てくるんだろう。
そういう内容の話だったのかな?
「………あああああああ! これ、〈ひばり座〉の稽古ノートだあああ」
自分のノートに目を通した桃根さんが、頭を抱えた。
そして、僕の手からノートをひったくると、席に戻って筆箱から消しゴムを取り出す。
必死にゴシゴシと文字を消そうとするが、英語の文法事項はボールペンで書かれていたので、なかなか消えない。
「ひばり座って、桃根さんが所属している演劇部?」
「そう! 部員には稽古ノートっていって、台本を読んで感じたことを記すノートが配られてるの」
雲雀中学校の演劇部・ひばり座。部員数は50人。
文化部で一番の人気を誇る、超キビシイ練習で有名の部活。秋の文化祭では、毎年演劇をステージで披露している。
部員数が多いので、よほど演技がうまい人でないと役はもらえない。
『3年間、裏方仕事しかさせてもらえなかった』という話もよく聞く。上下関係が厳しいのだ。
「へええ、すごいねっ。女優になりたいとか?」
「ううん、そんなんじゃないんだけど……って、あー! 無理だ、もう無理! 手つかれた! 無理無理無理無理! あ~、顧問の寺内先生に新しいノートもらわなきゃ」
数分間のゴシゴシ作業は、流石にきつかったようだ。
桃根さんは真面目だけど、冷めやすい性格の持ち主。自分ができないことはあっさり諦める。
彼女は机の上に出したままだった筆記用具を、手早く引き出しにしまいながら答えた。
「あたし、歌い手が好きなんだ。歌い手って知ってる? 人が歌った曲を、カバーする人たちのことなんだけど。そういう人たちがずっと憧れで、なれたらいいなーって思ってて。バカな話だよね」
歌い手かあ。女の子たちが、よく話題にしてるよね。
僕も興味があったんだけど、お母さんの目に留まると怒られるから検索できなくてさ。
バカな話じゃないよ。なんでそう決めつけるの?
僕からすれば羨ましいよ。とっても眩しいよ。
好きなものを自分で探すことが出来て。
好きなことを自分でやれて。
夢に向かって努力出来て。
「……なれるわけない、って思ったら、多分一生なれないんじゃないかなぁ」
僕は、桃根さんの右手に手を伸ばした。そのまま、その細い指を強く握る。
「応援っ、してるから! ずっと応援するから! だからっ、自分で可能性を捨てないでよ」
なれるわけないって思えるのはさ、きみにまだ選択肢があるからだよ。桃根さん。
家族と友達が、自分の夢を認めてくれるから。認めた上で批判してくれるから。
だから、「バカな話」だって、結論付けてしまったんでしょ。
多分僕は、無意識に自分と桃根さんを重ねている。
彼女が自分と正反対の立場にいるから。好きなものもやりたいことも、何でも否定されるような人生とは別のところにいるから。
この子はもう一人の自分なんだって、勝手に思ってしまっている。
だから彼女が夢を叶えてくれたら、僕はとっても嬉しい。
僕の代わりに夢を追いかけてくれたら嬉しい。
ねえ、お母さん。何でお母さんは息子の可能性を無くしたがるの?
僕さ、中学受験やりたくなかったよ。塾にも通いたくなかったよ。勉強だって嫌いだ。
でもさ、意見があるなら伝えなさいって言ったのお母さんだよね。
それで自分の気持ちを口にしたら「あなたのためを思って」って言うんだもんね。
いつから僕は、この鬼畜ゲームをプレイすることに慣れちゃったんだろう。
……助けてすら言えないのに、僕は毎日祈っている。
―――――ー『神よ、我に力を与えたまえ』―――――――――