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作者: 花音 (総ページ数: 23ページ)
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*19*
カナは叫び続けていた。
手錠を外そうともがいていた。
喉が渇いたのか、床が水浸しになるほど蛇口を捻った。
頭を壁に打ち付けていた。
他人が見たらみっともないと思うだろう。人間の常識を逸脱した行為だと嫌悪の目を向けるだろう。だけどここには、ドラッグと戦う君と、ドラッグの恐怖を知っている僕しかいない。どんなことをしても構わない。
踏み出した一歩がどんなに小さなものでも、踏み出した足は確かな一歩なのだから。
夜明け前にセットしておいた体内時計でゆっくりと目を覚ます。
外界の光を完全にシャットアウトしているバスルームでは正確な時刻が判らない。胸元から携帯を取り出して覗くと午前4時をいくらか過ぎたところだった。
煌々としたオレンジの光の下でブランケットにくるまるようにカナは眠っていた。疲れたのか意識を失ったのかは判らないが、眠っていることは確かだった。カナ、と小さく呼びかけてみても身動き一つしない。それを確認してから教えられた番号へ電話をかけた。通話に出たのは生活感のない女性。
「床が水浸しなのでタオルを数枚お願いします。それから片手で食べられる朝食を」
畏まりました、と女性は抑揚のない声で答えた。
簡単な会話で電話を切り、このままでは相手が来た時に扉にサンドイッチされてしまうと思って手錠を外した。ドアは封鎖しておく、と言ったが、さすがに生理現象だとか非常事態を考えて自分の手錠の鍵は自分で持っている。
足元を濡らしながら眠るカナはひどく寒そうだ。次に来るときは着替えもお願いした方がいいかもしれない。
生理現象を済ませながらそんなことを考えていると、誰もいる筈のない本来の部屋に靴音とワゴンの気配が聞こえる。慌ててベルトを締めてドアをノックすると、現れたのはメイド服ではなくスーツ姿の女性だった。家女中(ハウスメイド)というから流行のメイドさんを連想していたのだけれど想像は無駄に終わったらしい。しかし成人式を2度迎えたような女性のメイド服というのもあまり見たくはないような……。
「お食事とタオルをお持ちしました」
「……あ、はい。どうも」
バスルームに手錠を嵌められた女のコがうずくまって倒れているというのに、彼女は顔色一つ変えずに言った。状況説明は事前に済ましてあるのだろうけど、犯罪行為としか思えないこの状態を見て平然としてられるのも問題があるんじゃないのかな?
床を拭くには勿体ないほど厚手で上質なタオルで水浸しになったそこを拭いていると、メイドさんが横から手を伸ばしてさっさと仕事を片付けてしまう。手際が良いなぁ、と思いながら、「今度は着替えもお願いします」と背中に呟く。
「畏まりました」
メイドさんは振り返らずに答える。
銀色の盆に載せられたサンドイッチはきちんと二人分に分けられていた。一つつまんで見ると薄切りのローストビーフが明け方の胃にじんわりと染み込んでいく。半分ほど食べ終えたところで作業は終了した。
「何かありましたらまたご連絡ください」
僕にだけ一礼してメイドさんは静かにバスルームを出て行った。
ですます調が抜け切らない僕だが、相手に敬語を使われるのは慣れていないのですっかり萎縮してしまった。
タンブラーに水を注いで一気に飲み干し、またしばしの眠りにつく。
カナは今、どんな夢を見ているのだろう。
激しい振動と軽い痛みに目が覚めた。
目を開けると投げ出した足をカナが激しく蹴り続けていた。……手錠で手が使えないからってさ、仮にも女のコなんだから人を足蹴にするのはどうかと思うのだけど。
「ちょっと千尋!起きて!起きろってば!」
「……おはよう」
「おはよう、じゃないわよ!コレ外してって!」
蹴り続けたまま今度は手錠をがちゃがちゃと揺らす。忙しい人だなぁ。
「あ、トイレ?」
「……すっごくヤなんだけどどうしようもないの!早く外して!」
「はいはい」
脱走する可能も否定できないので、僕はまず自分の手錠を外し、それからカナのところへ行って手錠を外してあげた。タオルを巻いてあるので傷はついていないがあがき続けたせいで手首はすっかり赤くなってしまっていた。
「名誉とプライドの為に耳栓はします。ごめんなさい、ガマンしてください」
ぺこりと頭を下げてトイレから一番、遠い出入り口に座り込む。スポンジタイプの耳栓を押し込んで後ろを向いた。
「目も閉じます。あ、カメラなんかもないからね」
「……あったら殺す」
静寂と暗闇の中で待つことほんの少し。カナが近づいてくる気配が判ったけどここで声をかけたら疑われそうなので肩を叩かれるまでじっとしている。
「あ〜サイアク!お嫁に行けないよ!」
がちゃり、とまたおとなしく手錠をかけられながら溜息まじりにぼやき続けている。
「マサトに何て言えばいいのよぉ。こんなトコに1ヶ月も閉じ込められるなんて!」
「……彼なら今ごろはもっと汚いトコに押し込められてると思うけど?」
夕べ話したはずなのだが記憶の整理ができていないらしく、カナは「どういうこと?」と睨みつけてきた。はしょることもせず昨日の話をまた初めからしてやると、カナは顔を真っ赤にさせて怒鳴り散らした。
「どういうことよ!マサトが捕まった!?どうなっちゃうの!?あたしは!?」
「落ち着いてよ。カナのことが彼の口から出ることはないよ。しっかりお灸すえてきたからね」
「マサトに会いたい!ここから出して!」
「もう彼には会わない方がいいよ」
「どうして!?マサトに会えなかったらあたし死んじゃう!」
「……ねえ、会いたいのは本当に彼なの?それとも、彼の持ってるドラッグなの?」
「――え?」
「僕は、君が本当に彼を好きだったとは思えない。家出をして、ずっと愛情を知らなくて、優しくしてくれた彼に愛情を感じたのかもしれないけど、僕はそうは思えない。ただ君は、誰かを愛してるんだと思いたかっただけなんじゃないかな?寂しくて」
「そんなこと……」
「愛していたのかもしれないけど、愛してなかったのかもしれない。ちゃんと考えて、自分がどうしたいのかを」
どうだっていいでしょ!とカナはまた僕を足蹴りした。ひどく気が立っているようで、何かを喚きながら手錠を鳴らし、苛立つように爪を噛む。真夏なのに換気の行き届きすぎたバスルームが寒いとか手が痛いとか言っては僕を蹴る。
誰が届けているのか考えもしない食事に文句をつける。
シャワーを浴びたいというので「ご自由に」と言ったらまた蹴られた。
眠りながら突然、奇声のような声で怒鳴り散らした。
何もかもが気に入らない、置かれている状況もドラッグのない世界も、あの男のいない生活も。
隔離生活が始まってからの1週間はそんな怒りと苛立ちの中で過ぎていった。