コメディ・ライト小説(新)

■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
 入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)

Banka
日時: 2019/08/31 01:15
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: D28jR39t)
参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel2a/index.cgi?mode=view&no=3918

>>1-3 >>6-22 >>26-38
2018冬大会 銅賞

君の声を思い出してから夏は始まる。

Re: Banka ( No.33 )
日時: 2019/08/19 13:32
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: /AHlo6jR)

「そんなことよりびっくりしたわ。ここでバイトしてたんだね、僕たまに来るよ」
「あー、そのことなんですが……。バイトしてるってこと、皆に言わないでくれたら嬉しいです」
 彼女は裏口のドアの前から、数メートル離れた僕の所まで歩いてくる。目を伏せていた。
「別にいいけど、なんで? 別に学校にバレても何もなくない?」
 僕らの通う高校では、別にバイトをするのに許可など必要ないので、バレたとしても何も起こらないはずである。それに、彼女の言う皆というのが誰を指しているのかよく分からない。共通の知人なども顧問の先生ぐらいで、彼女のクラスメイトにわざわざ言いふらしたりなんて僕はしないし、する意味がない。
「そうなんですけど……、ちょっと、学校の人とかにバレたくないなって。先輩以外の人に知られたくないんです。なんとなく」
 少しドキッとした自分を殴ってやりたい。僕は照れ隠しでポケットから出したスマホを適当にいじってみる。指紋認証に何度も失敗していると、しだいにiPhoneは僕の指紋を受け付けてくれなくなった。アホらしくなって、すぐにポケットにしまう。
「まあ誰にも言わないよ。今日はもう帰り? 家まで付いてくよ」
「いや、結構遠いから申し訳ないです」
「いいって」
 僕は手を横に振って拒否した。なんとなくまだ彼女と一緒にいたいと思った。彼女の家も見てみたかったし、単純に、今一人になるのは悲しかった。

 彼女は、すぐ近くの自転車置き場に止めてあった自転車を押していた。歩道に出る彼女に僕もついていく。
「家、どの辺?」
「あっちの方向に自転車で二十分ぐらい進んだ辺りです」
 彼女の押す水色の自転車には背中に学校指定のステッカーらしきものが貼られていたが、その校章は僕らの通う高校のものではなく、彼女が以前通っていた中学校のものらしかった。
 僕と彼女は自転車を挟んだ隣で歩いていた。少し広い歩道は僕達が並んで歩いてもまだ余裕がある。僕と彼女の距離は自転車一つ分離れていて、近いようで少し遠い。
 辺りにはほとんど誰もいなかった。誰ともすれ違わないまま数分が過ぎ、その間、僕達の間に会話はなかった。

 僕達はあれからひたすら真っ直ぐの道を歩いていたが、もう振り返ってもあの回転寿司屋は見えなくなっていた。
 横の彼女を見てみると、目は前だけを向いていて、口は岩のように堅く閉じられていた。つられて僕も前を向くが、片側二車線の道路をたまに通る自動車や、いくつかのレストランやコンビニなどしか見えない。彼女の目は未だ僕とは違う何かを見ているようで、この世界で彼女しか享受することができない何かをただその冷めた目でひたすらに傍観しているみたいだった。今、この世界で一番彼女に近い場所にいる僕でも、その彼女の見ているものが楽しいことなのか、悲しいことなのか、そんなレベルのことの想像すらつかなかった。

「二人乗り、するか」
「へ?」
 彼女はあからさまに驚いた表情を見せたが、僕は気にせずサドルに座る。彼女が少し躊躇いながら荷台と垂直に座ってくると同時に、急に車体が重くなる。彼女とは身長が十五センチほど違うのでこの自転車は明らかに僕の体に合っていないが、勢いもう戻れない。舵を取るが、最初のほうはスピードがあまりにも遅すぎたため、勢いがつくまで立ち漕ぎで運転する。
 勢いがついてからは速かった。少し操縦が難しいが、広くて人通りのない歩道とは相性がよかった。

Re: Banka ( No.34 )
日時: 2019/09/13 03:11
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: D28jR39t)

 いつもより重いペダルを漕ぎながら、そういえば二人乗りなどいつぶりだろうと考えてみる。確か中二ぐらいのときに、よく分からない金髪のヤンキーと二人乗りしたことがあった気がして、悲しいことに恐らくそれが僕の二人乗りデビューだったので、今、こうして塗り替えられてよかった。
 彼女の片腕は僕の腰に手を回している。さっき歩いていたときの何倍ものスピードで疾走する様は心地よかった。時々、後ろの彼女のほうを向くと、決まっていつも目を閉じていた。そのまま見続けていると流石に僕の視線を感じたのか彼女の目が見開き、そのまま僕と目が合う。今、僕は間違いなく茅野都美という人間を見ているが、彼女のほうは本当に僕を見ているのかと、こうしている今ですら気になって仕方ない。

「あっ! ここ右に曲がって下さい」
 急に大声を出されるので、おう! とつられてこちらも大声で返してしまう。このスピードのままだと畑に落ちそうなので、徐行しながら曲がってみる。
 畑すれすれで曲がりきり、タイヤが飛ばした砂が幾つも畑の中に飲まれていく。「危な」と口に出した声が何故か重複して聞こえ、間もなく彼女の声と被ったのだと分かると、ふと笑みがこぼれる。振り返ると彼女も笑っていて、それがどこまでも心地よかった。ずっと見ていると彼女が僕に前を向くようジェスチャーするので仕方なく前を向いてみる。彼女がここまで楽しそうにしているのを僕は見たことがなかったから、単純に驚いた、というより、見とれていた。

 夏はもう始まっている。田んぼに囲まれた道はどこか涼しく、時折吹く風はかすかに冷気を孕んでいた。
 大通りを一本でも中に入ると、雰囲気ががらりと変わった。車通りは全くなく、光といえば一定間隔の街灯と、遠くに見えるラブホテルの看板ぐらいである。
 彼女を深く知ることはこの世界の深淵に近づくこととよく似ている。でも、こんなことを考えるのは世界で僕だけでいいし、誰にも言わないほうがいいとも思ったのでいつまででも黙っておこうと思った。田舎の夜は本当の暗闇が蔓延っていて、まさしくこれがこの世界の深淵のようだった。

「……ふう、重いなあ」
 言うと、背中をグーで殴られる。まあまあの速度で走る自転車が揺れ、タイヤが少し逸れる。
「はあ? 私平均より全然体重下ですからね! モデル体型ってやつなんですけどキモオタの先輩は知らないんですか?」
 後ろの彼女は大きめの声で叫ぶように言う。マズい。そういう意味で言ったわけではないのだが、なんとなく口で説明しにくかったので押し黙る他なかった。
 彼女のグーパンは地味に痛く、この前、ユビした右手中指より全然ズキズキしていた。どうやら僕は見えない後ろ側を結構本気で殴られたらしい。
「っていうか先輩の家の方向からどんどん遠ざかってません?」
「あー大丈夫大丈夫。明日休みだから別に一時間でも二時間でも歩くよ」
「それ大丈夫じゃなくないですか……。すいません、いつの間にか家まで送ってもらっちゃって」
 そういえば彼女の家は僕とは逆方向だった。今、軽やかに自転車を飛ばして彼女の家を目指してはいるものの、段々不安になってくる。四、五駅ほどは離れているだろうから、そんな距離を歩いて帰るとなると一体何時間かかるのか。

「どの辺?」
「あ、もう近いです。ありがとうございます」
 近い、と言われて、それはそれで少し落ち込んでしまった自分がいて、いい加減そろそろヤバいのかもしれない、色んな意味で。
 気付けば辺りは田畑で囲まれていた。いつの間にか街灯は無くなっていて、本当に光という光がどこにも見当たらない。虫や蛙など、ありとあらゆる生き物の鳴き声だけが騒々しく響いているぐらいで、その他といえば、僕らしかいなかった。世界中に僕ら二人しかいないみたいで、それはそれはロマンチックだった。
 また、振り返る。田畑の間の道は自動車が二台通れるほどの広さだが、真ん中を通る二人乗りの自転車が独占しきっていた。
 僕はきっと茅野のことが好きなのだ。恐らく最近から。それが恋愛的な意味か、それとも人としてかは分からない。ただ好きであることだけは明確だった。ここまで親しい関係の人など親以外だと今は彼女だけなので、だからこそ大切にできるというのはあるのかもしれない。

Re: Banka ( No.35 )
日時: 2019/09/12 13:53
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: n8TUCoBB)

 田畑に囲まれた一本道を抜ける。急に漕ぐペダルが軽くなったと思ったら、彼女は突然自転車を降りていた。
 どうやら家が近いようで、僕を先導するように早歩きでいくらか進んだ後、止まる。そういえば先程よりは夜道も明るくなったようで、一定間隔の街灯がまた復活していた。
「ここです」
「へー、ここが都美の家」
 言われてそれを見てみるが、しばらく眺めた後、思わず目を逸らしてしまう。マジ? とでも聞き返してしまいたかったが、表札の「茅野」の文字を見てしまうと、途端に何も言えなくなってくる。その家は、めちゃくちゃ豪華で立派な家だった。
 外構を一目見るだけでその辺の家とは一線を画している。お洒落な赤レンガの塀は僕の身長よりも高く、それに囲まれた大小二つの門の存在感をより一層引き立てている。そして門の隙間からは、定期的に庭師が手入れをしていそうな広くて綺麗な庭がちらりと見え、その奥にメルセデス・ベンツのセダンが堂々たる風格で鎮座していた。
 敷地自体も恐らく学校の平均的な体育館ぐらい広そうで、どこを取っても豪華である。なんだかこの家は全ての物が自分を勝ち組であることを自覚しているように見えた。僕の家はきっと表札のフォントの時点で既に負けていて、茅野、の文字の荘厳さは、僕の家の杉本とはきっと天地の差がある。そしてそう考えるとなんとなくあのベンツも僕を見下しているように見えてきて、何故か無性に腹が立ってくる。

「せっかく送っていただいたんで、家でお茶でもどうですかって言いたいところなんですけど、ちょっと今は親がいるのでここまでで。すみません……」
 彼女はアパートの鉄骨階段付近まで歩き、振り返る。彼女の暗い表情を見たくなかった脳が本能的に目を逸らす。
 親がいるとダメ。それは少し意外な言葉だった。まあ家庭の事情はそれぞれあるのだろうが、別に、僕の家なら全然大丈夫なのに。
 彼女は、その赤レンガの塀に自転車を立てかけた。僕はまたここでその豪邸に目線を移してしまう。というか、ここら一体に他に大したものがないので、必然的にこの家ぐらいしか見るものがない。彼女のほうは、その異様な存在感の門を未だ一瞥もせずにいた。彼女の発言と、その小さな仕草だけで、彼女にとってここがどういう場所であるかぐらいは、なんとなく分かった。
 家門と正対する田んぼで延々と鳴き続ける蛙達の声は段々大きくなっていく。それは僕らの間を流れる空気ときっと真逆だ。ときどき吹く風で草木がざわざわと揺れる様子は、見ていて心地よくも思えるし、反対に何か物々しい雰囲気にも思える。
 彼女は一向に目を伏せたままばつが悪そうにしていて、それに対して僕がどう反応してあげればいいのか分からなかった。何か言おうとしても、それらは一向に声にならない。全く、せっかくさっきまで楽しい時間をお互いに過ごしていたのに、どうして突然こんな空気にならなくてはいけないのか。
「まあ、しょうがないよ。また学校で」
「……そうですね。また放課後に部室で会いましょう。バイトがあるからあんまり行けてなかったんですけどね」
 僕は絶句していた。そのときやっと一つの小さな謎が解けていたのだった。僕は毎日のように将棋部を開き、彼女を誘っていたのだが、彼女のほうは週に二、三日ほどしか来られないことに不思議がっていた自分を、殴ってやりたくなった。

「というか、今の時代に二人乗りってちょっと古いですね。今頃誰もやってないですよ」
 馬鹿にされるように言われ、確かにと納得する。そういえば最近自転車の二人乗りをめっきり見なくなった気がする。道路交通法が最近改正したらしいが、ずっと前から二人乗りは違法だったので無関係なはずである。
 確かに危険といえば危険なのだが、それはそれで街から消えていくのはどこか悲しい気もした。何というか、風情がなくなるみたいで。

Re: Banka ( No.36 )
日時: 2019/08/26 19:54
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: D28jR39t)

「付き合ってくれてありがとう」
「いえいえ! 凄く貴重で楽しかったです」
 そう言い切った後、彼女の口がわずかに動いたのを僕は見逃さなかった。いや、最初のほうはまだ音がかすかに聞こえたので、きっと途中から声を発するのをやめたのかもしれない。彼女は何と言いたかったのだろう。口の形から色々考えてみようと思ったが、ふと、彼女の言いたかったことがなんとなく悪い意味のことのように思えてきたので、すぐにやめた。これを詮索するのはやめたほうがいいと、本能が告げていた。

「もちろん先輩みたいなキモオタ童貞は女の子と二人乗りなんて初めてですよね。どうでした? 背中で感じた可愛い後輩の感触は」
 いつの間にか腕を組んでいた彼女は、悪戯めいた表情で見つめる。その目は明らかに自信満々で、なんだか、後ろの大豪邸も合わさってお嬢様が下僕に何かを命令している状況のようにも見えてくる。もしそうなら数秒後に僕は足蹴にされていそうだ。
 彼女のその僕に対しての嘲罵は、例によって何の前触れもなく始まる。もはや僕はこの状況にも慣れていて、彼女のこの言葉がどういう意図で発せられたか、なんとなく気付きつつある。
 彼女の言葉を少し考えてみるようとすると、先程から表情が変わらないまま腕を組んでいる彼女につられ、自然と僕もポーズを真似してしまう。確かに女子と二人乗りしたのは初めてだ。彼女は荷台と垂直に座っていたが、僕の腰の辺りを常に持っていて、寄り添うような姿勢だったので地味に上半身は密着していた。が、彼女の感触というと、その僕の腰に添えられた腕ぐらいのもので、なんとなく、肝心なところが欠如しているような気がした。だから、女性特有の膨らんでいる部分の感触は全くしなかった。
「んー、というか、当たったっけ? 胸とか」
「……殺します」
 え……、と思わず後ずさってしまう。それは確かに彼女の声のはずなのだが、今までの彼女のそれとは一ミリも似つかなかった。というよりもはや人間の声ではなく、僕の知る限りでは、日曜日の朝七時ぐらいにやっているようなテレビに出てくる化け物の声に一番近かった。そして明らかにこちらに敵意を持っていて、暴力的な目二つが僕をまっすぐに捉えている様は、いつ襲いかかってくるか分かったもんじゃなくて、恐怖しか感じない。
「許せません、人のコンプレックスをよくもズケズケと……」
「待って! ごめん、冗談だって!」
 彼女はお構いなしにズンズンこちらに進んでくる。説得しようとしても聞く耳を持ってくれないし、何より目が完全にイってしまっている。
 あまりの恐怖でそこに立ち尽くしてしまう。逃げようと思っても、足が思うように動かない。彼女はあっという間に至近距離まで近づいてくる。ようやく足が動き出したが足取りが覚束なすぎてすぐに転倒してしまう。振り向くとまるでお化けのような冷めた目の彼女が僕を見下ろしていた。しだいにもうここで終わりかもしれないと悟ってくる。何か言おうとしてもそれが声にならない。そうしている間にも彼女がこちらに近づいてくる。手足がわなわなと震え、腰を抜かしている僕はもはや抵抗する術がない。彼女の左ストレートが僕の顔面めがけて飛んでくる――。

 星が綺麗だった。田舎の空は、ときどき信じられないくらいの景色を映してくれる。後、もう何日かでこの空に花火が打ち上げられると思うと、言葉が出ない。
「まあ、とりあえずバイトお疲れ」
「疲れましたー。あのバイト入って三ヶ月ぐらいですけど毎日毎日カスみたいなお客さんばっか来るし大変ですよ、愚痴聞いてくれます?」
 待ってました、と言わんばかりに彼女は早口だったが、何故かそれが彼女の本心からの言葉には思えなかったのが不思議だった。むしろ、それなりにバイトをエンジョイできているようにすら見えた。
「今度ゆっくり聞くよ。今日はまあ、家の前まで来ちゃったし」
 そうですね、と彼女は少し寂しそうに、腕を組み直す。はあ、と吐いたため息がしばらくこの場にとどまった。

Re: Banka ( No.37 )
日時: 2019/09/12 13:51
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: n8TUCoBB)

「まあ、もう辞めるんですけどね」
「……えっ?」
 真剣な表情だった。咄嗟に出た僕の疑問にも、彼女は一向に返すのを躊躇った。次の言葉を待ってもずっと彼女は黙ったままで、このまま僕が喋らなければきっと何時間でも沈黙を貫いてきそうだった。
 この顔だ。この顔の彼女の発言は、いつも、凡人などには到底及びも付かないような深い意味の言葉に思えてきてしまうから、僕なんかがあれこれ考えても無駄だと思わされる。

 またここで、その豪邸に目を移す。よくテレビで世界の大富豪のお家訪問! みたいな感じの特集を見ることはあるが、それに勝るとも劣らないほどの豪華さだった。この様子ではきっと家の中も凄いのだろう。二階の電気が付いているので、茅野の家族は今あそこにいるのかもしれない。
 この家のことや、家族のこと。彼女には訊きたいことが山ほどあったが、彼女のその表情を見るだけで、踏み込んではいけないものだということはすぐに分かった。彼女は、あの雨の日のバス内で僕が隠し事を打ち明けたとき「フェアじゃないから、私もいずれ言う」と言っていたから、そのときまで待ってあげようと思えた。それがいつになるかは謎のままだったが、それはきっと彼女にとって本当に大きな痛みに立ち向かうことのような気がしたので、もう少しだけ事態を傍観すべきだと思った。

「まあ、じゃあこの辺で。僕は歩いて帰るよ」
「それマジなんですか……」
 よく分からないタイミングで切り上げた僕は、じゃあまた、と彼女に背を向ける。歩き出す瞬間、名残惜しいな、と少し思えてくるが、足を無理やり前に出す。田んぼ沿いは人の気配すらなく、百メートルほど先をときどき走る車の音が聞こえるほど静かである。
「ありがとうございます」
 彼女が叫ぶように言う。もうそんなに歩いたのかと驚くぐらい遠くから聞こえた。それでも尚、僕は歩き続ける。もしここで振り返ってしまったらもっと名残惜しくなってしまいそうなので、聞こえない振りをしてでも先に進むべきだと直感が告げた。
 今日、茅野都美という人間を少しだけ深く知れた気がした。でも、果たしてそれが彼女の何パーセントなのかは謎のままで、もしかしたら一パーセントにも満たないかもしれない。彼女の底知れなさはきっと僕が想像しているより遥かに巨大で、純粋に凄いと思うし、もはや人の皮を被った神様と言われても信じてしまいそうな自分がいる。
 僕はこれから家に着くまでに何時間かかろうが別にいいと思った。それよりこの時間を彼女といられたことのほうがずっと貴重だと思えたから、むしろ嬉しかった。

 田んぼに囲まれた道を幾らか進んだ後、ふと振り向くと、彼女の家はもう見えなくなっていた。この世界が本当に僕一人になってしまったみたいで、少し、切ない。
 コカ・コーラの自動販売機の周りには色々な虫が湧いていて、ちょっと遠巻きに素通りする。そんな些細なことで孤独を紛らわせながら、さっき二人乗りの自転車で軽快に飛ばしていった道をなぞるように僕は逆走している。彼女の叫び声が途絶えた後、辺りには止めどない蛙の声だけが響いた。元々暗かった夜道も、二人より一人で歩くとより一層暗く感じた。


Page:1 2 3 4 5 6 7 8 9



小説をトップへ上げる
題名 *必須


名前 *必須


作家プロフィールURL (登録はこちら


パスワード *必須
(記事編集時に使用)

本文(最大 7000 文字まで)*必須

現在、0文字入力(半角/全角/スペースも1文字にカウントします)


名前とパスワードを記憶する
※記憶したものと異なるPCを使用した際には、名前とパスワードは呼び出しされません。