ダーク・ファンタジー小説
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- あなたが天使になる日【完結】
- 日時: 2020/09/14 00:47
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
本編、後日譚ともに完結済みです。
様々な形で応援してくださった皆様に、心からの感謝を。
もくじ
1『影に咲いている』>>1-3
2『そのまま、泣いていたかった』>>4-6
3『きみがふれた光』>>7-9
4『傷口に砂糖でも塗りたい』>>10-11
5『赤を想う』>>12-14
6『天使になりたい』>>15
7『青霞み』>>16 >>19-20
8『あなたが天使になる日』>>21-25
9『彼女の記憶、閑話休題』>>26-27
10『Untitled』>>28-29
あとがき1 >>30
あとがき2 >>31
だれかが天使になったあとのお話『やさしいはつこいのころしかた』>>32-33
あとがきと、いろいろ。>>34
イメージソング:『Sea Side Road』Eshen Chen
※流血描写等あります。苦手な方はご注意ください
◆
これは、海が見えるちいさな町に住んでいた、ある女の子のおはなし。
◆
- Re: あなたが天使になる日 ( No.25 )
- 日時: 2019/08/14 01:51
- 名前: 厳島やよい (ID: y.72PaHC)
〆
夜が嫌いだ。おわりの見えない闇を見ていると、いやなことばかりを思い出すから。それなのにちっとも眠れなくて、死にたくなるから。
曖昧な意識の中で、わたしは何度も自分の身体に傷をつけた。何度も何度も何度も、何度も、何度も、何度も何度も。この痛みを忘れないように、死ぬことがどれほど痛くて、怖いことか、忘れないように。どうにかして、生きることを諦めないように。
わたしの自傷癖は、生きるためのものだった。でも、どんどん苦しくなった。辛くてたまらなくなった。
だらりと垂れていく赤黒い血を見るたびに、あの日の洗礼を思い出す。聞きたくない声がはっきり聞こえてきて、見たくないものが目の前に見えて、あのときの感触が、痛みが、恐怖が、現れる。助けを求めて叫んでも、だれも来てはくれないから、また苦しくなって腕を切った。そして再び泣き叫んだ。
自業自得だ、自分から愛を拒否しておいて、被害者面して、ほんと、死ねばいいのに。
自分が自分を責めているということも、わからなくなってくる。この闇の中にいるだれかが、耳元でわたしを責めている。
苦しむわたしの様子を、遠くから母さんがうかがっていた。■■■の教えに忠実に従っているのだと思い込み微笑んでいる彼女の姿が、幻覚なのか、現実だったのかはわからない。
痛みが穢れを洗い流してくれるのなら、わたしのいやな記憶も全部なくしてほしい。今までのいやなこと、辛いこと、ぜんぶぜんぶ、無くなってしまえばいい。頭のなかに残るのは、楽しいことや嬉しいことだけでいい。なのに、切れば切るほど、いやな記憶ばかりが大きく、鮮明に頭の中に刻まれていった。
こんな地獄が、いつまで続くのだろうかと、部屋に差し込んでくる朝日に、まどろみながら考えていた。大人になれば、わたしは天使になれるのかもしれない。悪魔の子ではなくなって、いつか天使になれるのかもしれない。痛いことも、怖いことも、辛いことも、気持ち悪いこともされない、そんな日が、いつか、いつかきっと。
そう思うと、ほんの少しだけ楽になった。すべてを忘れて眠ることができた。
そうして浅い日溜まりのなかで目が覚めて、一周もしていない時計の針をぼんやりと眺めてから、起き上がる。出来る限りの後片付けをして、顔を洗って、長袖の制服に着替えて、当たり障りのない無表情と笑顔をポケットにつめこんで、ジュリからアカリになって。わたしはわたしを、毎朝元気づけるのだ。
学校に、いこう。
手芸部のみんなに、会いに行こう。
きょうも、佳澄に会いに行こう。
〆
「そうさ、おれだって同じだよ、悪いのはおれだって同じ、んなことわかってんだよ、わかってるに決まってんだろ、けどさ、認められたら苦労しねえんだよ、お前だってそうだろうが、なあ。同じなんだから、どーるいなんだから、わかるよな?」
何が起きたのか、しばらく理解できなかった。蒼太とわたしの周囲には、ぬいぐるみと一緒に棚の上に置いてあったはずの、花瓶の破片が散乱している。どうやら、殴られたらしい。
「だから、ねーちゃんのことは、母さんとお前のせいなんだよ、おれん中じゃ。何かのせいにしなきゃ生きてらんないの。それやめたらもう、頭のネジなんて全部外れて、まじで死ぬって、死んでっから、あ、ああいいい、いいい痛い痛い痛い痛い痛っいぎ、があぁぁぁ!」
倒れているわたしを見て、彼が頭をかきむしり、痙攣した。両方の意味で痛そうだし、イタいし、なんていうか、釣り上げた魚が暴れているみたいだ。
形容しがたい不協和音がこの空間を歪ませ、頭痛を増幅させ、反射的に押さえた手のひらに、ねっとりしたあたたかーい感触が絡みつく。そういえばさっき、自分で頭が壊れていると言っていたっけ。自覚があるだけましだろうか。
やがて、口のはしから唾液を垂らしながら前触れもなく脱力し、壁にもたれて座り込んだ。その後まもなく、蒼太は何事もなかったかのように、再びわたしへ語りかけた。というかほぼ一方的に喋った。忙しい人だ。
「だからさ、決めたの、母さんと【 】をぶっ殺して、そしたらおれも自殺するって。ねーちゃんが泣いてるから、ひとりぼっちだって。あー、そろそろあんたの母親も来るだろうし、そっちもやっちゃっていい?」
なに言ってんだ、こいつ。
冷静に、落ち着いているように見えたのは、きっと、本当はとんでもなく自己中心的な人間だからなんじゃないか。それがもとの性質なのか、彼を取り囲む環境が作り上げたものなのかなんてどうでもいい。これが、彼の本性なのだ。
自動で霞む意識と、生理的に溢れてくる涙で、視覚と聴覚がゆるやかに遮断されていく。言いたいことはたくさんあるのに、なぜか口が思うように動かない。
頭の痛みが薄れてきたのは良いけれど、めまいと強い眠気が襲ってくるので、身動きも取れなくなってきた。殴られたせいだとは考えがたい。
「あれえ、やっと効いてきたのかな、薬。わざわざ盛った意味無かったね」
何か話しかけられているのに、子供の叫び声と鼻歌でうまく聞き取れない。彼の姿も、ぼやけた陰にしか見えなくなっていた。
「そうだ、アカリちゃんにだけ、いいことを教えてあげる」
あちこちから色々な体液を垂れ流しているわたしの肩にそうっと触れて、彼がささやく。寒気がした。
「あの集まりはね、宗教団体の皮を被った、薬物の密売組織なんだよ。だっぽーどらっぐとか何とか、まあほかにも、ちょっと危ないやつとか。
信者から金を巻き上げて裏で取引をして、こんどはその薬で儲ける。その金で信者を集めて、薬を使って依存させて、またまた儲けるって仕組み。その繰り返しなんだってさ。どっちが最初にできたのかは知らないし、どーーーでもいいんだけど。
僕、天使たちの中でも優等生だからって、体をさわらせたら偉い人が教えてくれて、薬もすこーし分けてもらえたんだ。笑っちゃうよ、あの場所の大人って、クズか変態かバカくらいしかいない」
彼はこれ以上わたしを嬲るわけでもなく、かといって当然助けてくれるわけもなく、自分の世界に入り込んでしまっているみたいだった。
強くなるめまいのせいで、少し嘔吐してしまう。朱里、部屋汚しちゃってごめんね、って、こんなことで謝ったって仕方がない。もっと大事なことを忘れている気がする、はやく、はやく思い出さないと。
生きているうちに、わたしの意思が残っているうちに。
はやく、はやくはやく、はやく。
「きったねーなほんと、どいつもこいつも。後始末する側のことも考えてほしいよ」
それまでは、死んでたまるか。
「ぶああああああああああああっっっ!」
確かな意志が生まれた途端、めちゃくちゃに軋みながらも変な声が出ながらも、体が思い通りに動くようになった。視界も聴覚も明瞭爽快。ゾンビか、ゾンビなのかわたし。どこか他人事のように冷静に状況を分析している自分自身のことも、おかしくてたまらない。
破片の中でも、ひときわ目立つ一番大きなものがそばにあったので、拾い上げて蒼太に突進した。傷がふたつみっつ、指先に増えていくけれど、気にしていられない、気にもならない。
昔から、腕も足も、何もかもが、自分の体ではないような感覚があった。クラスメートに蹴られたときも、突き飛ばされたときもそうだった。だから何とも思わなくて、痛くもなくて、感情も動かされはしなくて。あのときとは比べ物にならないくらいに膨れ上がったその感覚が、強烈にいまのわたしを襲っている。幼い頃からずっと脳内に居座っているこれは、いったい何なのだろう。もしかして、わたしも病気なのかな、壊れているのかな、朱里の母親や、蒼太みたいに。ああ、救いようがねえや。
さすがに不意をつかれたようで、目をまんまるくしたまま、首もとに凶器を突きつけられたまま、蒼太はわたしに押し倒される羽目となった。
「ふざけんな、ふざけんなよ、なんであんたみたいな自己中なクソガキに殺されなきゃいけないの? なんで朱里のところに母親を連れてっちゃったの? なん、でう、んぐぇえっ」
今度は彼の上に吐いてしまった。すっぱいような苦いような悪臭が立ち込めて、わかりやすく顔をしかめられる。
「せっかく自由になった朱里のとこに、なんでまたあんたたちが行くのかっつってんだ! これ以上あの子を苦しめないでよ、精々ゆっくりこの世で苦しんでから死ねよ、ねえ、ねえ!!」
もうヤケだった。胸ぐらをつかんで、ぐわんぐわんと夢中で床に叩きつけていた。
「あぁぁあぁ、もうわかったから、離れてくれません?」
全然、わかってない。
だから、小さくて細くて柔らかいその首筋に「ギャッ」ガラスを突き立てた。きっと死にはしないけど、怖くて痛くてたまらないだろう。現にだらだらと失禁しているし。ゲロと血とよだれとその他諸々。地獄絵図だ。地獄が似合うわたしたちは、きっといつか、悪魔に生まれ変わる。そうだ、天使になるのは朱里だけでいい。わたしたち三人は仲良く地獄に落ちて、罰でもなんでも受けてやろう。
でも、いつか。あの子が天使になる日。その真っ白な翼で羽ばたいていく朱里を、わたしは見たい。たった一度でいい。話なんてできなくてもいい。あの子が自由を手にいれた瞬間を、遠くからでも見届けたい。心から祝福したい。それが叶ったら、きっと、どんな地獄の苦しみにも堪えられるから。
泡を吹いて気絶した蒼太の顔を見つめながら、やっと、言えた。思い出せた。
「朱里、ごめんね、なんにもできなくて、ごめんね……」
せめていまは、消防と警察を、呼ばないと。たしか廊下に電話の子機があったなと思い、立ち上がって一歩踏み出した途端、すうう、と意識が遠のきはじめた。視界は灰色に濁って急速に傾き、耳鳴りと頭痛が再度襲ってくる。ゾンビパワーは、それほど長く発揮できるものでもないらしい。
けど、まあいいや。
自己満足でもなんでも、ちゃんと朱里に謝れたから。それだけで、わたしは、もう
「余生、めんじょめんじょー!」
手芸部の土浦さんの声が、遠くに聞こえたような気がした。
- Re: あなたが天使になる日 ( No.26 )
- 日時: 2019/08/14 21:40
- 名前: 厳島やよい (ID: y.72PaHC)
9『彼女の記憶、閑話休題』
※
朱里が亡くなった、と電話口に蒼太から聞いたとき。最後に瑠璃子と会った日のことを、真っ先に思い出した。
地域の新興宗教に入信したことを、嬉しそうに語る瑠璃子。異常ともとれる、その瞳の輝きを見て、わたしは彼女から離れる決意をしたのだ。少しずつ忘れようと、忘れてもらおうと。
そのとき初めて家の中で見かけた朱里は、同い年のはずである私の娘よりずいぶん小さく、痩せこけていて、決して清潔とは言いがたい格好をしていた。遠くから私達の様子をうかがう視線も、相当怯えているようだった。漢字二文字、ひらがなに直せば五文字のいやな単語が頭に浮かんで、その存在を主張していた。
平日の午後は、たいてい礼拝で弟を連れて家を空けており、姉は留守番させていると言うので、その時間帯を狙い、仕事の合間を縫ってときどき朱里の様子を見に来ることにした。
かんたんに食べられるもの、たとえば、コンビニで買ったおにぎりやサンドイッチなんかを手土産に、朱里を訪ねた。最初のうちこそ拒絶していたが、だんだんと、私を受け入れてくれるようになった。敵ではないと、認識してくれたのだろう。初めてサンドイッチを食べてくれたときのがっつき方は、野良犬を連想してしまうほどのもので、鮮明に記憶されている。
やがて、彼女が八つになる頃には、簡単にでも自分の食事を用意できるようになったと言っていたので、差し入れの回数は徐々に減っていった。
その代わりに私達は、いろいろな話をするようになっていた。朱里はおそろしいほどに聞き上手な子どもで、こちらが心配になってくるくらいだった。
「つまんない話よね、ごめんね」
「ううん、もっちゃんおもしろいから、ぜんぜんへーき」
無邪気な笑顔で、彼女が言う。
たとえそれが本心でも、幼い子供に、大人の愚痴を聞かせ続けるわけにはいかない。
「……じゃあ、今度は朱里ちゃんが、もっちゃんにお話ししてくれないかな。何でもいいよ」
「えー? うー、うーん、うーーーーん」
我ながら気の利かない言い方だ。そのまま石像になってしまうのではないかというほどの勢いで、彼女が考え込んでいる。
そして、差し入れの紙パックのりんごジュースをストローで吸いながら、私の顔をちらりちらりと見てきた。
「もっちゃん、おこらない? たたかない?」
「怒らないよ。叩かないよ。怖いこと、なんにもしない」
以前よりは片付いたリビングに、沈黙が澄みわたる。
私が自分のペットボトルから、お茶をすこし飲むと、彼女は小さな口から、小さな声で話を始めた。耳をすまさなければ、聞き逃してそのまま消えてしまいそうだった。
「わたしね、生まれてこなければよかったなーって、よく思うの」
おぼつかない足取りで、やわらかな砂浜をなぞるように。彼女はその胸の内を、おそるおそる、明かし始めた。
「わたしのせいで、お母さんはびょーきになって、びょーいんにとじこめられそうになったんだって。つらいこと、いっぱいあったんだって。わたしが生まれてこなければ、そうたとお父さんだけでしあわせにくらせたんだよ」
生まれてこなければ、よかったと。考えたことがはたして、過ぎし日の私にはあっただろうか。
私は、かわいい子どもではなかった。要領は悪いし、のろまだし、愛想もない。いじめられていたことも何度かある。それでも、何者にも侵されない居場所があったから、死の淵へ追いつめられることはなかった。物を書くこともおぼえた。非常口が、いくつもあったのだ。
でもこの子には、そんな居場所がない。閉じられた暗い世界で、ひとりぼっちで生きて、闘っている。
「朱里ちゃんは、お母さんから、離れたい?」
「ううん。そんなことしたら、またお母さんをかなしませちゃうから、ここにいる」
「そっか」
この時点で、無理矢理にでも引き離せばよかったのに、なにを考えていたのだろうか。
私には、ただ、彼女の小さな肩を抱き締めることしかできなかった。
「あ、ぎゅーは嫌なんだよね、ごめんね」
「もっちゃんなら、べつにいいやー」
「そ、そう?」
既に何かしらのトラウマでも植えつけられているのか、もともとの性質なのか、彼女は、他人に触れられたり抱きつかれることが苦手なのだと言っていた。今だって、いいと言いながらかすかに震えている。我慢をさせてしまったかと考えると、ひどく申し訳なく思えた。同時に、起きてしまったことなのだから仕方がないとも思えた。
「じゅり、もっちゃんがママならよかったなぁ」
「それは…………ちょっと困るかも」
「えーっ、なんでなんで!」
だんっ、と机を叩き、朱里が抗議する。
「そうだねえ」
私がこの子の居場所になるのは難しいということくらい、本当は、ずっと前からわかっていた。
「もっちゃんは、ママってものに向いてないから」
ひとの子が可愛く見えるのは、責任がないからだ。中途半端に手を差しのべたくなるのも、そこに責任がないからだ。責任が発生していると、わかっていないからだ。
もし、朱里が本当に私の娘だったら、きっと佳澄と同じ扱いになってしまう。形が違うだけで、それは瑠璃子のしていることと大差はない。
間も空けずに朱里が返してきた言葉に、苦笑が漏れる。そうだろうね。あくまでもあなたにとっては、そうなのかもね。言いたくても言えないことばは、音も立てずに昇華されてしまった。消化されてしまった。
その日以来、朱里には会っていない。ときどき、何かに賭けるように手紙を書いて送った。返事は一度もなかった。
そのうち、手紙すらも送らなくなってしまった。
- Re: あなたが天使になる日 ( No.27 )
- 日時: 2019/08/15 21:50
- 名前: 厳島やよい (ID: y.72PaHC)
※
きょうは仕事が早く片付いたので、職場から逃げるように車を走らせ、まっすぐ、高台にそびえる市瀬邸へと向かった。
朱里の訃報については、とくに何も感じていなかった。首吊り自殺だったと聞いても、なにも。長いこと心が凍結していた私に、人間として当然の感情を求められても困ってしまう。あのときああしていれば、とか、生きていてほしかった、とか、そんな当然のことを考えられるようになったのも、つい最近のことだ。
蒼太がなぜ、長い間連絡を取っていない私に直接電話を掛けてきたのか、気になった。葬儀はごくわずかな親族のみで執り行われたらしいし、他人が家にやって来て線香を立てられるのも困る、とでも言いたげな声色をしていた。それなのに、わざわざ私にコンタクトを取ったのだ。なにか、話でもあるのだろうと考えるほかない。
ただそれ以上に、いやな予感がしたからという、根拠のない、漠然とした理由がいちばんにあった。この類いの予感は大抵当たってしまうものだと、数十年を生きてきた私の脳みそが訴えてくるのだから、仕方がない。
交差点に引っ掛かると、近くで畑でも燃やしているのか、どこか懐かしい煙のにおいが流れ込んできて、思考を強制的に停止させられる。ぼんやりとしていたら、信号が青に変わったことにも気づかず、後ろから盛大にクラクションを鳴らされてしまった。お手洗いにでも急いでいるかのような勢いだ。万が一の責任を転嫁されても困るので、すこし先で前を譲ることにする。ネズミ取りでも仕掛けられていたら、有無を言わさず切符を切られるであろう速度で、彼(だったと思う)は姿を消した。
「…………ぼんやり、ねえ」
四年前離婚した、以前の夫に、よく言われた記憶がある。きみはいつもぼんやりしている、どこか遠くを見て、遠くに生きているようだと。
その言葉は、あながち間違っていない。私は十四年前から、ひととは別の世界を生きているからだ。
娘がうまれた日、私の頭の中から、なにがしか大切なものが抜け落ちてしまったのを覚えている。それが一体何なのか、ひとことで説明するのは非常に難しい。
まず、隣で眠っている赤子が、他人にしか思えなかった。これ以上の苦痛は世の中に存在しないはずだというほどの耐え難い痛みを乗り越え、出会えたはずの我が子が、赤の他人にしか見えなかった。取り違えられた、他人の子どものようにも見えた。
それに気がついた瞬間、世界が私から遠のいて、すべてが偽物のように、平行世界の別物のように感じられた。この子どもも、夫も、ベッドも、壁も天井も、病院のスタッフも、町も、家も、大好きな海も砂浜も、果ては自分自身までも。
ひどく孤独だったけれど、寂しいとは思わなかった。悲しいとすらも思えなかった。そんな自分を後ろから笑って眺めている自分もいた。
世界が変わったわけではない。自分自身が、どうにかなってしまっただけなのだと、確かにわかった。わかったところで、どうにもなりはしなかった。
母親になりきれない私が、母親として、育児以外に少しでもできることは一体なんだろう。家事か? 料理なんてまずできないし、食器を洗おうとしても毎回、皿を割るか辺りが水浸しになって、雑巾を絞っている間に、洗濯機を回していたことも、お風呂にお湯をためていることも忘れてしまう。気がつけば、そんな脳内と比例するように家の中がめちゃくちゃになっていて、司が後始末をする羽目になる。そして佳澄が、不安げな目で私たちを眺めている。なんだこれ、なにやってんだ私、役立たず過ぎて笑いたいけど、これっぽちも笑えない。
これくらい大丈夫だよーと司は笑っていた。どうして笑えるんだろう。ひとが当たり前にできることを、私は何一つできないのに。少しだけ喉の奥が熱くなって、けれどもすぐにそんなものは引っ込んでしまって、もう、家のことがこれほど駄目なら、唯一の取り柄である仕事しかないでしょうと。無意識にそんな結論に至った。いまだに体が重いのも、あちこちが痛いのも、もうどうでもよくなってしまった。
「杉咲さん、娘さんとは最近どうなんですか?」
離婚前後、職場の人間から、耳のタコが腐るほどにきかれたっけ。
「まあ、ぼちぼち」
「私達にできることがあったら、何でも言ってくださいね、いつも助けていただいてますから」
何でもって、なんだ。
できることなんて無いでしょう、あなたたちには。あってたまるものか。
そう、本気で思った。無表情を、無感情を装うその裏でぐちゃぐちゃになりながら、ぐちゃぐちゃの理由も意味もわからずにひたすら働く。
そして、離婚の二年ほど前。
きっかけは、夫の──司の些細な体調不良だった。それが積もりに積もっていくのを見かねて、病院で診てもらうようすすめたのだ。その日はかかりつけの診療所が閉まっていたので、隣町の総合病院まで車を走らせた。
その後、彼が、重たい口を開いて瑠璃子と同じ病名を告げたとき、朱里の笑顔が蘇った。泣き顔も蘇った。
わたしね、生まれてこなければよかったなーって、おもうの
わたしのせいで、お母さんはびょーきになって、びょーいんにとじこめられそうになったんだって。つらいこと、いっぱいあったんだって。わたしが生まれてこなければ、そうたとお父さんだけでしあわせにくらせたんだよ
じゅり、もっちゃんがママならよかったなぁ
何年ぶりだっただろう。涙を流して、声をあげて泣いたのは。
人間らしい感情を、私はあのときようやく思い出せた。遠い昔、心を固く冷たく、閉ざしてしまった理由も、なんとなくわかった気がした。
心が生きているって、こんなに苦しいんだ。苦しくて、痛くて、辛い。どうにもできない。でも、どうにかしてしまったら、この気持ちもきっとすぐに忘れてしまう。そんなの、嫌だ。だから、それなら、そう、最初からなにも感じなければいい。
殺してしまおう、壊してしまおう。ほんの少しの部分だけ。
少しだけなら、きっとこれからも生きていけるから。
なんでー、もっちゃんは優しいよ? ぜったいいいママだよう
朱里は、きょうも生きているのだろうか。生まれてこなければよかったと考えながら、生きているのだろうか。
司が私の背中をさすっている。なぜか一緒に泣きながら。その感触がだんだんと自分の表面から遠のいていくのを、静かに眺めていた。
司とおなじ世界を生きるのは、きっとこの瞬間が最後なのだろう。そう考えた二年後も、司は治らないままで。彼が以前と同じように仕事を続けることは、難しくなっていた。
「なあ百馨、おとといさあ、同僚の紹介で■■■の集会に行ってきたんだ。ひとが沢山いて、どうしようかと思ったけど、発作が起きなかったんだよ、あれからずっと気分がいいし、信者の方々も優しくてねえ、俺のこと、全部わかってくれてるんだ。だから俺も入信したよ。もう病院に行かなくていいかもしれない、そうしたら仕事にも戻れるかも、って、おおい百馨ぁ、きーてるかー」
あの日の瑠璃子と、そっくりだった。異常な目の輝きも、微熱を帯びた独特な話し方も。
食卓の片隅で肩を揺すられながら、考えた。もう、この人と生きていてはいけない。この人のそばに私がいてはいけないし、佳澄だっていてはならない。朱里のように、生まれてこなければよかったなんて、言わせるものか。何がなんでも、あの子を守るのだ。私なりのやり方で、強引だろうが強情だろうが卑怯だろうが、せめて彼女が独り立ちするまでは。
そうして私は、失うことを選び、勝ち取ることもできた。
娘の信用なんて、最初から無いに等しい。だから怖いものも何一つない。別れたって構わないけれど、わたしは彼といきたかった、と。そんなことを泣きわめきながら言われたところで、痛くも痒くもなかった。
いつかわかってほしいだなんて、愚かなことは考えていない。死んでもなお、悪者にされたままだって、構わない。ただひとつ"母親"として、身勝手な最善策を取ることができた。それがきっと、頭のどこかで少しだけ、嬉しかったのかもしれない。
相変わらず、佳澄のことは他人にしか見えないし、この行動が愛だとももちろん思わない。思ってはいけないと、わかっている。そもそも、彼女の好きなものも、嫌いなものも、人間関係も、学校での成績もよくわかっていないような私が、愛などを語る資格はない。
そろそろ、回想なんてやめよう。これ以上ぼんやりしていたら、冗談抜きであの世へいってしまいそうだ。
近くの空き地に車を停め、私は、気を引き締めて市瀬邸へ向かったのだけど。
「…………くさい」
呼び鈴を鳴らそうと伸ばした指先、まぶたが、ちり、と震えた。視線を門の奥に向けると、玄関の扉がすこしだけ、開いていた。
潮の香りに紛れているそれは、ほんの微量なのに、鼻腔を深く刺すように強い存在感を放っている。
田舎暮らしも長いせいか、あまりに覚えがあった。もしそうでなかったとしても、分かっただろう。本能的な部分に訴えかけてくる、この特有のにおいの正体が。
あるときは屋根裏に、あるときは道のど真ん中に。またあるときは、砂浜の片隅にも淀んでいる。
────死の、臭いだ。
- Re: あなたが天使になる日 ( No.28 )
- 日時: 2019/08/17 20:07
- 名前: 厳島やよい (ID: Mi7T3PhK)
10『Untitled』
瑠璃子の死体を見つけてからの記憶は、どうも曖昧なままだ。映像としてはいまでも鮮烈に目の前を流れるものの、やはりというべきか、他人事のようにしか思えない。そういう意味で、曖昧だ。残像がこびりつくほどの、赤色灯の光が重なって、現実味が薄れてしまっている。
私はあのとき、本当にあの屋敷にいたのだろうか。
蒼太は私のこともいっしょに殺すために、呼んだのだろうか。
一階の真っ暗な物置部屋。足元からこぼれていく頼りない光が、変わり果てた彼女の姿を照らしたとき、のどの奥に、胃液の味が滲んだ。異臭のせいなのか、無惨な光景を見たショックによるものなのかはわからない。脳裏で高校生の頃の彼女が笑ったからかもしれない。そもそもなぜ一目で瑠璃子だと判別できたのか、それが普通なのかすらもよくわかっていない。
しばらく立ち尽くしていたら、二階から物音が聞こえたような気がして、階段を上った。頭から血を流し倒れている佳澄を見つけるまでに、それほど時間はかからなかった。彼女のすぐ近くで、蒼太らしき男の子も汚物と血にまみれている。幸い、ふたりとも息はあったので、救急車を呼んだ。
やっと警察の事情聴取が終わった深夜にはくたくたで、佳澄のベッドのそばで、いっしょに私も眠ってしまっていた。次に目が覚めたとき、まさか佳澄が私を認識できなくなっているなんて、知る由もなく。
……記憶障害の、一種だと言われた。佳澄は五・六歳程度の状態に記憶と精神が幼児退行していて、私はもちろん、学校のクラスメートや手芸部員のことも、だれなのかわからない、と怖がっていた。その代わりに、自身の父方の祖父母は覚えているような素振りを見せる。この子が五歳の頃は、まだ祖父の認知症も始まっていなかったはずだ。祖母にだけでも会わせるべきか否か、最近よく考えてしまう。司からのメールは返ってこない。
喜怒哀楽がわかりやすくなったという点では非常に助かるのだけれど、何分、以前とのギャップが激しいので、退院した今もなかなか慣れないでいる。表面上は無感情で、ひとりでも生きていけますよとでも言いたげな顔をしていた佳澄を思うたびに、胸の奥が鈍く痺れた。
「さい…………じゃない、佳澄、さんは、本当に僕たちのことを忘れちゃったんですよね」
居間の低い机で斎藤先生に折り紙を教えてもらっている彼女を見やりながら、食卓で正面に座る、佳澄のクラスメートの鷹取くんが呟いた。
今さら何を言っているのかなんて、そんなことは思わない。私も、同じことをよく考えるから。
複雑な感情をたたえているのであろうその目がとても人間らしくて、ただ、羨ましい。
「あの子にとっては、ただ知らない人、ってだけなんだろうけどねえ。あんなになっちゃって、正直引くでしょ」
「そんなこと、ありません」
あまり真剣な顔で否定してくるので、いい子だなあと思うと同時に、少し申し訳ない気持ちになった。
「……ジュース、持ってくるよ」
逃げるように、キッチンへ駆け込む。
居間からはカウンターの陰で見えないけれど、わざわざ斎藤先生が生けてくれた見舞い客からの花たちが、流し台の横にたくさん並べてある。佳澄はもともと花が苦手なうえに、事件の影響もあってか花瓶を怖がるので、こうしておくしかないのだ。枯れてもいないものを捨てられるほど、私は突き抜けていないし。そう思って眺めていたら、枯れかけている花をいくつか見つけてしまった。
隣近所、親族、同僚、クラスメート。はじめのうちは剥き出しの好奇心を携えてやって来てくれていた彼らも、退院を境に減っていく一方だ。けれども鷹取くんは毎週、部活を休んで、家にいる佳澄に会いに来ている。事件のあった日、最後に彼女と言葉を交わしていたらしく、事情を知ってから罪悪感で潰されそうになっているのだと、友人の御子神くんが言っていた。ふたりとも、佳澄とは小学生のころから同じ組だったようだけれど、あいにく覚えてはいない。
ふたりで同時に頭を下げられたときは、これ以上に困ることが人生で何度あるだろうかというほどに困惑してしまったっけ。
死んだ花だけをごみ袋へ詰め込む。なぜかしぶとく生き残り、取り残されているカスミソウたちをまとめて、空いた花瓶に挿しなおした。単体でも、きれいだなと思う。いっそドライフラワーにでもしたい。
カスミソウは、佳澄の名前の由来となった花だ。楚々とした、可憐なこの花がわたしは大好きで、成長した彼女にきっと似合うのではないかと想像したという、単純な理由だった。だから佳澄が保育園の頃、花がとても苦手だということを知ったときは、すこしだけ残念に思った。
冷蔵庫のオレンジジュースをコップに注ぎ、ソファに座っている鷹取くんのところに運んで、ふたたび座った。何事もなかったように。何も考えてなどいないように。
「市瀬の弟、精神病院に入院したらしいですね」
「まあ、あの子もいろいろあったみたいだし。これからは母方の祖父母が面倒を見るってさ」
生まれてから何年もの間、虐待の傍観を続け、父親の別居を境に不登校になり、性的虐待まで受けるようになった日々の中で姉を亡くし、母親を殺害。さらに姉の友人を殺そうとして返り討ちに遭い、最後には病院に放り込まれた彼の気持ちを推し量ろうと思っても、できるわけがなかった。
少年法に守られて、彼はきっと、この世界で生きつづける。それに対し、個人的に思うことはとくにない。彼の祖父母が、母親と同じような目に遭わなければ、それでいい。
そういえば、あの二人にも、土下座をする勢いで謝られたっけ。祖父のほうには殴ってくれと頼まれたけど、そんなことはもちろん、出来るはずもなく。彼らの気がすむならと考え、差し出されたものも受け取ってしまった。
父親である紅弥は、事件の二日前から行方がわからなくなっているらしい。瑠璃子と蒼太のことを知って自ら姿を消したのか、どこかで死んでいるのか、何者かに拉致でもされたのか、それすらわからないままだ。佳澄については言わずもがな、蒼太もまともに話ができる状態ではないため、諸々の真相は今もなお、彼らの口からは明かされていない。よって、私も世間も、捜査によって記録・報道された事実、朱里の書いた日記や遺書から、あの日に起きたことを想像するしかなかった。
「……百馨さんは、平気なんですか」
「なにが?」
「そのー、市瀬の母さんと、仲良かったんでしょう」
「あー、うん。でも、昔の話だし」
私のそういう部分は、壊死しちゃってるからね。なんて、言おうとしてやめた。私まで入院させられてはたまらない。休職して面倒を見ているこの状態の佳澄を、ひとりにするわけにはいかないのだ。
それに、最近少しずつ、心が目覚めはじめたような気がしているから。
「そう、ですか」
「それ飲んだら、もう先生と帰りな。そろそろいい時間でしょう、親御さんが心配するよ」
「…………わかりました」
コップを握る手元には、色鮮やかなミサンガが覗いている。
鷹取くんの悲しげな笑顔を見て、やっぱり私には、あれほど人間らしい表情はできないと思った。まだ、と付くか、もう、と付くのかはわからない。前者であることを、切に願いたい。
彼はぐっとジュースを飲み干し、佳澄のところへと歩み寄っていった。
「みっちゃん、そろそろ、お兄ちゃんと萌絵先生は帰るね」
「わかったー、気をつけてねー」
もうすぐ、年も暮れる。
- Re: あなたが天使になる日 ( No.29 )
- 日時: 2019/08/17 20:15
- 名前: 厳島やよい (ID: Mi7T3PhK)
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市瀬邸から見つかった朱里の日記の原本などがきっかけとなり、件の宗教団体の児童虐待問題や、地域で相次いでいる子供たちの自殺について、本格的な捜査の火蓋が切られた。正確には、以前から行われていたらしい潜入捜査が功を奏したからなのだけど、細かいことはこの際どうでもいい。
宗教団体設立のきっかけ。表向きの顔、その実情。被害者や遺族、彼らの近隣住民へのインタビュー。報道番組ではそんな話題が延々と続くので、次第にテレビを見るのが億劫になってしまった。家の電話線も外し、ネットや宅配サービスなんかに頼って、ずいぶん長いこと、引きこもって過ごしている。そろそろ散歩でもしたくなってきた。
もう二度とこのような痛ましい事件が起こらないようにと人々は声をあげているけれど、騒ぎはじめるのがいささか遅すぎはしないだろうか。そんなことを、遠くから眺めて考えているだけの私も立派な共犯者だ。
不器用ながらも佳澄を寝かしつけたあと、そっと部屋から去り、自室の空調をいれてから古いパソコンを立ち上げた。かたわらに、メモ帳と、以前の彼女が不定期につけていたらしい日記帳と、なぜか通学鞄の中で眠っていた、朱里の日記のコピーもいっしょに広げて。
だれに何を言われたわけでも、影響されたわけでもない。ただいつのまにか、夜になるとキーボードを叩くようになっていた。
ねじれて絡まっている不透明な真実を、私の勝手な解釈で組み上げ、肉付ける。そうしてこの文章が、ひとつの物語として生を受ける日が来ても、世界に発信するつもりはさらさら無い。いつか、彼女自身が望んでページをめくるときに、この物語には生きていてほしかった。
でももし、これを読んだせいで、佳澄が拒否反応を起こしたら。さらに時の流れを逆行したら。
もし、自殺でもしてしまったら。
考えられる可能性なんていくらでもあった。それでも、手を止めることはなかった。
決して、佳澄のために書いているなんて言えないし、言いたくもない。そんなことを話せる人も、現時点では周囲に存在しないけれど。
本当は、まだまどろんでいる自分の心を、感情を目覚めさせたいだけなのかもしれない。なかったことにされようとしている人生たちの一片を、想いを、彼らが生きようと足掻いた瞬間を、紛い物でもなんでもいいから形に残し、そこに自らの心を見出だしたかっただけなのかもしれない。まあつまりこの行動は、単なる私のエ「おかーさん」「うん?」反射的にデータを上書き保存して、画面を切り替える。何一つ無駄のない動作に自分でも驚いてしまった。
「おかーさん、いつも遅くまでなにやってんの? もう十二時過ぎですよう」
振り向くと、眠気のせいか、不規則に、不安定に揺れて立っている佳澄がいた。
よたよたと歩き、近づいてくる彼女の姿は、幼少期のそれと何ら変わらない。今は亡き母が好きだった漫画の主人公と、まるで正反対だ。
「仕事だよ。みっちゃんこそどうしたの、やっぱり眠れない?」
「…………違う、といれー、れ、ううん?」
すべては油断した私の責任で、しまったと思った頃にはもう遅かった。
手元の日記を覗きこんで、ひとこと。
「朱里」
漢字なんて、ほとんど読めなくなっているはずなのに。
彼女が、その名前を久しく口にした。
「みっちゃん、」
見ちゃだめ。そう、つづけようとした言葉が、唇が空回った。
佳澄が、大粒の涙を流しはじめたから。
「あれ、みっちゃんなんで泣いてんだろ、ね、おかーさん、いたい、あたまが、いたいっ、ううううう」
私が、病院のベッドではじめて目覚めた佳澄の名前を呼んだときのように、錯乱も嘔吐もしなかったものの。小さくちいさくうずくまって、呻いている姿は、あのとき以上に苦しそうで、ひどく孤独に見えた。
伸ばした手のひらが、一度、空を切る。また感覚が、感情が、遠のいていきそうだった。彼女の痛みが真正面から突き刺さろうとしているのだから、当然の防衛反応だ。
それでも、離れそうになる世界ごと手繰り寄せるように、震えるてのひらで強く、佳澄の肩を引き、抱き締めた。私はここにいるよと、あなたはここで、しっかり生きているよと、何度も呼び掛けた。
もう二度と、あんな思いはしたくない。あんなに寂しくて苦しくて、狂いそうで、叫びたいのに叫べない世界を、この子には味合わせたくない。
そう、こんなもの、愛でもなんでもない。ただのエゴだ。エゴでしか、私はこの子と向き合えないのだ。
だから、出来上がった小説は佳澄にはぜったい読ませないと、いま、決めた。これは、私の中の佳澄に語る、私のためだけの物語だ。
「おかーさんも、ないてるの?」
いつの間にか落ち着いたらしい彼女が、耳元で静かにたずねてきた。
もはや、何がそこまで悲しいのか、自分でもわけがわからない。
「そうだよ、泣いてる。泣けるよ、ちゃんと、泣けるようになったから、大丈夫。だいじょうぶ」
つたない文章だし、ひとの気持ちを書くのはとても難しいし、中途半端な書きかけがまだ、たくさんたくさん、あるけれど。
──書き出しすら、未だにしっかり決められていないけれど。
何年かかってもいい。
いつか、目の前にいる佳澄とも向き合える日がくるまで、私は書き続ける。
これは、海が見えるちいさな町に住んでいた、ある女の子のおはなし。
完