ダーク・ファンタジー小説

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あなたが天使になる日【完結】
日時: 2020/09/14 00:47
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)

 本編、後日譚ともに完結済みです。
 様々な形で応援してくださった皆様に、心からの感謝を。

もくじ

1『影に咲いている』>>1-3
2『そのまま、泣いていたかった』>>4-6
3『きみがふれた光』>>7-9
4『傷口に砂糖でも塗りたい』>>10-11
5『赤を想う』>>12-14
6『天使になりたい』>>15
7『青霞み』>>16 >>19-20
8『あなたが天使になる日』>>21-25
9『彼女の記憶、閑話休題』>>26-27
10『Untitled』>>28-29
あとがき1 >>30
あとがき2 >>31

だれかが天使になったあとのお話『やさしいはつこいのころしかた』>>32-33
あとがきと、いろいろ。>>34


イメージソング:『Sea Side Road』Eshen Chen

※流血描写等あります。苦手な方はご注意ください






 これは、海が見えるちいさな町に住んでいた、ある女の子のおはなし。





Re: あなたが天使になる日 ( No.10 )
日時: 2019/07/17 22:49
名前: 厳島やよい (ID: 9Zr7Ikip)



 八月三十一日

 ふたりで食べた、電球の色にきらめく林檎飴とか、月明かりに透かしたラムネ瓶の中で、炭酸が弾けるちいさな音とか、手持ち花火の蒼白い煙のにおいとか、少しつめたい風の、やわらかな感触だとか。
 そんな記憶たちを、宝石箱に収めるみたいに、大切に、大切に持って生きていたい。
 余計なものはいらない。



   4『傷口に砂糖でも塗りたい』


 朱里が受けている虐待について、彼女自身から語るようになり、わたしたちふたりの関係性にも小さな変化が起こり始めたのは、はじめての文化祭が終わったころだった。
 この学校の文化祭は、文化部の展示や発表と、合唱コンクール、学習発表会を、毎年いっぺんに二日間で済ませてしまう。体育祭と同じくらいに疲労が溜まる行事だ。元々体力のないわたしはもちろんのこと、朱里もしばらくは体調不良が続いていた。
 このところ彼女は、頭が痛いのだと言って、保健室と教室を往復するような生活を送っている。通常、これほど保健室に入り浸っていれば、早退するか教室に戻るようにすすめられるのだが、以前斎藤先生がはたらきかけてくれたおかげで留まることができていた。
 頭が痛かろうが腹が痛かろうが、家に帰っても、そこに彼女の居場所は存在しない。かといって、家にも学校にもいない状態を作ってしまうのはまずいから、と、暗黙のルールが敷かれているのだ。
 昼休み、保健室に寄り、彼女の特等席になりつつある窓際のベッドの様子をうかがうと、朱里がもぞもぞと動き始め、真っ白な布団から顔を出した。

「次の国語、出られそう?」
「うん」

 ぼんやりと、どこか遠くを見るような視線が天井に向けられる。

「アカリ、どうかした?」
「……名前」
「あ、ごめん」

 わたしたち以外にだれもいないのを、知っていたらしい。四時間目から先生が留守にしているせいか、生徒のやって来る気配もなく、とても静かだ。
 べつにいいんだけど、と、彼女が息をついて起き上がった。
 相変わらず、笑顔を作っても、目だけがどうしようもなく暗い色をしている。本人はそれを気にしてわざと前髪を伸ばしているけれど、正直、逆効果じゃないだろうか。

「死ぬ夢を見たの、腕から血が止まらなくなって死んじゃう夢。小学生のとき、そういうことがあったんだよね」

 この夏、結局一度もさらすことのなかった腕をじっと見やりながら、カスミが重い口を開いた。

「物置部屋の柱に紐で繋がれて、手首もぐるぐるにされてさ、母さんに言われたんだ、おまえのせいで自分は不幸になったって。病院に閉じ込められそうにもなったって。そんなにわたしが憎いなら放っておけばいいのに、可愛いかーいい、そうたがいるのに……ううん? そーた? だれだこいつ」

 わたしは黙って話を聞いていたものの、だんだんと彼女の様子がおかしくなっていったので、たまらずその手を強く握った。

「カスミ、大丈夫だよ、お母さんはここにはいないし、あなたもちゃんと生きてるから」

 過去と現在の区別がつかなくなっているのだろうに、本当の名前を呼んであげなかったから。さらに朱里を、混乱させてしまったのだろう。

「【   】って、だぁれ」
「え」

 なぜか笑いながら、真っ黒な目をわたしに向けてくる朱里が、遠くなっていく。この手は確かに彼女と繋がっているはずなのに、どんどん遠くなっていく。

「ごめん、今のなし」

 どれほど時間が過ぎたのだろうか。「じゅりは怒鳴らない、ごめんね、叩かない差別しない、あー、大丈夫、ここにいてくれるいじめないわるぐちいわない、ここにいる、いる……うん、いる、大丈夫」朱里が若干の遠回りをしてから落ちつき、わたしの手をほどいても、その嫌な感覚は消えてくれなかった。

「初めてカミソリで切られたとき、すごく痛かった。すごく痛くて、血がだらだら止まらないのも皮がびろーってなってるのも怖くて、このまま眠ってしまえたらどんなにいいだろうって思った。でも、だんだんね、痛くなくなってきたんだ。痛いんだけど痛くないの」

「ひどい悪口を目の前で言われたり、食事を抜かれたり、あとはお風呂に入らせてくれなかったときとか、熱が出ても知らんぷりされたときとか。あのときの辛い気持ちを、痛みがぜんぶ代弁してくれたような気がしたっつーか」

「じつはそのせいで、覚えちゃいけないものを覚えちゃったんだけどね」

「あーーーーー、ほんとむり、しにたくなっちゃうなあ」

 別世界の話だった。
 わたしも母親のことは大嫌いだけど、殴られたことも、殺されそうになったこともたぶんない。絶望の淵でも必死に指先でしがみついて、地獄のような状況を生きようとした、そんな経験はないのだ。
 わたしは、勝手に傷ついたのかもしれない。この人の痛みをわかってあげられることは、きっと一生かかっても無いのだと。そしてこの人も、わたしの痛みを理解することは絶対にないのだと。わたしは、あまりに身勝手だった。
 布団の上に投げ出された朱里の腕に手を伸ばし、ブラウスの袖をそっとまくった。彼女は拒否をすることもなく、目を細めて、ただその動作を眺めている。

「太ももかお腹にしてくれればよかったのにね。やっぱり目立つわぁ」

 想像よりも上のほうに、自ら作ったものであろう細かな傷が並んで覗き、それらよりだいぶ離れた手首側に、角度の外れた、触れなくともわかるほど凹凸の激しい痕が残っていた。「はがれたとこ、なんも考えないでそのままくっつけちゃったから。やられたやつなら右にもあるけど、見る?」と、ボタンに掛けようとする彼女の左手を強く引いて、止めた。

「……おねがい、もう、切らないでほしい」
「それは約束できないかもなあ。ごめんね、じゅりちゃん」

 頭をやさしくなでられた。なぜか、かすかに寒気がする。
 予鈴の音を合図にベッドから降り、ブレザーを羽織る朱里の顔は、見たくなかったし、見られなかった。

「五時間目、国語なんでしょ? いこーぜい」
「うん」

 あの日を境に朱里は、親から受けてきた、今もなお続く虐待についてよくわたしに話すようになった。『死にたい』と頻繁に吐き出すようになった。
 あの頃よりもずっとずっと前から、既に朱里の心は壊れかけていたのだろう。それでも彼女は笑っていた。わたしとふたりでいる時以外、ほとんどずうっと。
 壊れてしまった心は、二度と元通りには戻せない。たとえ欠片をすべて繋ぎ合わせられたとしても、完全な形に直すことは不可能だ。強度だって取り戻せない。だからこそ、わたしが、あの子を守るべきだったのに。救うだなんて大層なことはできなくても、守ることはできたはずなのに。しかし今さら何を考えても、後の祭りだとしか言いようがない。
 後悔。あとに悔やむ。ほんとうに、嫌な言葉だと思う。

Re: あなたが天使になる日 ( No.11 )
日時: 2019/07/20 12:49
名前: 厳島やよい (ID: 3i70snR8)





 彼女の『死にたい』は『生きたい』だった。べつにわたしの綺麗事ではなく、本人がそう言っていたのだ。

「死にたいくらい辛いし、実際に死のうとしたこともあるよ。でも、わたしが命を懸けてめいっぱい叫んだとしても、母さんの狂った頭が治ったり、家族が元の形に戻ったり、離れていった友達が帰ってきたりはしないわけでさ。そもそも、仮にそれが叶ったところで、わたしは生き返ることができないんっすよ。
 自分だけが苦しい思いをして全部を捨てても、他人はわたしのことなんて忘れて、のうのうと生きつづける。美味しいご飯食べて、かわいい洋服を着て、友だちや彼氏とあそんで、すてきな映画を観て、本を読んで、温かいお風呂に入って。幸せ、になっちゃう。それってもうさ、馬鹿らしいったらないでしょう」

 そんな現実が許せないし、生きるひとたちに負けてしまうようで腹が立つ。だから、腕を切ってでも地面を這ってでも生き延びたいのだ、と。自傷癖を告白された数時間後、寄り道した海辺でそう言われた。砂浜の、乾いた流木に並んで腰かけて、穏やかな太平洋をふたりで眺めながら。
 朱里は『死にたい』を口にすることで、自分の苦しみを、痛みをきちんと認識して受け入れ、せいいっぱい前を向き、乗り越えようとしていた。

「とりあえず、高校を卒業するまではなんとか頑張って生きたい。大学に行くにしろ、働くにしろ、まずは家を出て、そのあとのことは──そのとき考えることにする」

 なのにわたしは未だに、傷付きつづけて。そんなことを言わせてしまう自分は、なにも彼女の救いになれないのだと、絶望のきれはしを積み重ねていくばかりだ。
 声にする言葉の力は、それほど強烈だった。

「ねえ、ジュリは、将来どうするの?」
「……え?」
「将来はどうするのって、きいてんのー。お話聞いてましたー?」

 むにー、と頬を引っ張られる。いひゃい。

「ごめん。ぼうっとしちゃって」
「ふはっはー、許すっ!」
「あっさり許しちゃうんですね」

 きのう磨きあげたばかりのローファーに視線を落とすと、空の色がぼんやりと、滲んで映っていた。

「そうだなあ、できる限りいい高校に行きたいかな。それで、もっとたくさん勉強して進学する。心理学に興味があって」
「ほおう、心理学。意外だね」
「そう?」
「たしかにジュリは勉強頑張ってるし、成績も伴ってるけどさ、実は学校のこととか人生とか、心底どーでもよさそうな感じじゃん」

 意外、というのはそちらの意味だったのか。心外である。

「若いうちにさっさと金持ちと結婚して専業主婦になって、毎日編み物とかしてたーい! って顔してる」
「どんな顔よそれ」
「わっはっは、冗談冗談」

 いったい、どんな目でわたしを見ているのだ、こいつは。
 げらげらと笑う朱里が砂の上に転げ落ちてしまえばいいのにと真剣に考えたけど、手が出そうになった寸前に笑うのをやめてくれたので、助かった。力の加減がわからないから。

「あー、でも、人生を諦めてるように見えるのは大マジだよ」

 靴の中に入り込んでしまった砂を叩き落としながら、朱里が言う。

「変に気を遣うのもいやだし、ジュリも分かってるだろうからはっきり言っちゃうけどさ。ジュリとつるむようになってから、今までの人間関係、かなり無くなっていってるんだよね」

 なんだか、自分の知らない自分が朱里に悪口を言っているみたいで、気分が悪くなってきた。名前の交換に賛成したのは、ほかでもないわたしなのに。友達がいないのなんて元からなのに。

「あいつらがわたしから離れていく前、よく言われたの。"【  】といて、そんなに楽しい?"って。すごく遠回しなこともあるし、わりとダイレクトな言葉を使われたこともある。
 だからわたし、【   】のことがそんなに嫌いなのかって、何回かきいてみたことがあるんだ。ほら、わたしたち、同じ小学校だったけどさ、組は六年間違ったでしょ。お互いの存在すらも知らなかった」

 ああ、うん。知ってる。知ってるよ。わたしがいつも、教室で浮いてしまう理由。
 昔、きいてもいないのに、クラスメートがわざわざ面と向かって親切に教えてくれたから。

────ずうっと前から、何もかも全部わかってますってツラであたしたちのこと見下してるし、むかつくくらいに関心ないじゃない。
    そんなんで先生に気に入られちゃってさあ。なんか、捻り潰してやりたくなるんですけど

 そんなこと、ないんですけど。すでに捻り潰されてるんですけど。それがあなたのおかげで、余計に辛くなったんですけど。シロツメクサの冠を泣きながら投げつけたこと、まだ根に持っていたんですか。
 今さらどうにもならないのに、彼女に言いたいことが溢れてくる。

「叩いても蹴っても物を捨てても、ずっと無表情で黙って見てたって。だから、関わらなくなったって…………いじめられてたんだね、【   】。あのね、実はわたしも、」
「うん。知ってる。いろいろ、大体知ってるから」

 もう何も、聞きたくなかった。

「そう、だったんだ」
「だからさ、今日はもう、わたしの名前を呼ぶのやめてくれないかな? わたしも、もうリ×カやめろとか、言わないようにするから」
「わ、わかった。あの、いらないことベラベラ喋りすぎたよね。ごめんなさい」

 いつもどおり、朱里以外の他人には嫌われるような涼しい顔を続けられていたら、それが一番よかったのだけど。彼女の悲しげな瞳には、わざとらしい笑顔を浮かべる自分が映っていた。

「いいんだよ。帰ろうか、カスミ」

 鞄を肩にかけて、立ち上がり、てのひらを差し出す。
 このどうしようもない気持ちが、わたしの『死にたい』なのだとしたら。朱里の問いに、半年かけてようやく導き出せた答えは、心の中だけに留めておきたいと思った。
 自らの『死にたい』は、まず自らを傷つけるということを、身をもって知ってしまったからだ。

Re: あなたが天使になる日 ( No.12 )
日時: 2019/07/23 00:47
名前: 厳島やよい (ID: cqAdOZIU)



   5『赤を想う』


 真っ暗な居間のソファの上で目を覚まし、遠い天井を眺めていたら、朱里のことを夢に見ていたのだと思い出した。
 明かりをつけて、カーテンを閉めながら部屋の時計を確認すると、もう夕食時を指している。体感に反してそれほど眠っていたわけでもないらしいけれど、具合は確実に良くなっていた。お腹がすいたからご飯をたべたい、という、生物としてあたりまえの意識が復活しているのだ。
 冷蔵庫と鍋の中身を見て、父が来たことは夢でなかったとわかり、軽く感動してしまう。なぜか、昔見たアニメ映画の台詞が頭の中に浮かび、シャボン玉のように弾けて消えていった。


*

 生前の朱里が語っていた母親からの数々の虐待について、わたしがきちんと覚えていることなんて、じつはほとんど無いようなものだったりする。二日か三日にいっぺんは、下校中に彼女の話を聞いていたものだけど、なまぬるい世界を生きてきたわたしにとっては衝撃的な内容だったので、脳が記憶を拒んだのかもしれない。当時の彼女の『死にたい』ばかりが、耳の中にこびりついている。
 口では「わたしの『死にたい』は『生きたい』なんだよ」とヘドが出るほど前向きなことを言うくせに、無意識下ではだれよりも生きることに後ろ向きだ。それなら最初から『生きたい』と言っていればよかったのに。どこかの偉人の言葉が本当なら、それで朱里は死なずに済んだはずだ。わたしだって、知りたくないことを知らずに済んだはずだ。
 二年生に進級してから、朱里の様子はそこそこ落ち着いていたように見えたし、去年より、学校生活自体がとても楽しそうだった。こんな穏やかな幸せがこれからも続くと、少なくとも来年の秋までは続くのだろうと、わたしたちは信じていた。ある日突然、朱里の母親によって、非情に壊されてしまうまでは。
 今年の文化祭の二日目。二年生と三年生の合唱発表があった日に、それは起こった。彼女が、手芸部の作品販売場所である、被服室にやって来たのだ。

「ねえ、そこのあなた。二年四組の市瀬って生徒、ここにはいないのかしら」

 二年生の合唱発表が終わった、昼休憩の時間。ほかにも部員はいたものの、声をかけられたのは偶然にも、ふたりの一年生といっしょに会計の作業をしていた、わたしだった。

「なんのご用件ですか」

 ミサンガの企画の影響もあり、昨日ほどではないものの忙しかった。なので、作品を買うつもりには見えない彼女のことを冷たい目で見上げてしまったのだけど。あまりに笑顔が似ていたので、一瞬で事態を察知したのを覚えている。冷や汗というものは、本当につめたいのだと知った。

「私、市瀬朱里の母なんですけど」

 さっきより強く発せられた声で、その場にいた部員たち全員が一斉に手を止め、彼女のほうへ視線を向けた。
 タイミング悪く、トイレから朱里が戻ってきたあの絶望を、わたしは一生忘れられないだろう。

「なんっ、で、ここに、母さんが」

 真っ青な顔の朱里に気づき、彼女が振り返る。

「蒼太が今朝、どうしても合唱を見に行きたいって言ったから。でも、変だと思ったのよねえ。この子、トイレに行くふりしてここに来たのよ」

 そう言って顎で示す母親の足元に、震えながら、ちいさく座り込んでいる男の子の姿があった。
 五つほど歳の離れた弟がいることは朱里から聞いていたので、蒼太と呼ばれている彼のことだろう、とすぐに理解できた。

「朱里ぃ、どういうこと? これ、あんたが作ったんでしょう。部活には入らないでって、あれほど言ったよね? 約束もしたのに、忘れたの?」

 近くの机の上から持ってきて、朱里の目の前に突きつけているのは、以前彼女が編んでいたコースターたちだった。確かに、あれは部員が展示販売するように何度もすすめていた作品だけど、本人はやめてほしいと頼んでいたはずだ。いつのまに。どうして。
 母親の怒りはヒートアップする一方で、周囲の来校者や在校生はわたしたちから距離をおき、ざわめきも大きくなっていく。どさくさに紛れて動画なんか撮っている大人もいた。
 こんなときに限って先生がいないし、三年生も合唱の準備でいないし、そもそも二年生は、もう、わたしと朱里のふたりだけ。とりあえず、隣で小銭を仕分けていた新藤さんに、頼れそうな先生を探しにいってもらった。

「ねえ、土浦さん、そこの机に作品を並べたのって、だれだった?」

 もうひとり、新藤さんの隣で作業の補助についていた一年生にたずねる。少し考え込んだあと、窓際のほうに立っている部員を、控えめに指さした。

「たぶん、みいちゃん……尾野さんです」
「ご、ごめんなさい、市瀬先輩の作品、すごく良かったから、勝手に出しちゃったんです。ごめんなさい、ごめんなさいっ!」

 いまにも泣きそうな顔で彼女が何度も頭を下げているのを、すでに泣いている朱里は黙って眺めることしかできなかった。周囲の人もわたしたちも、尾野さんと朱里の様子を交互にうかがう。
 一方的な説教を続ける母親は、朱里が自分の話を無視しているのだと思いこんだのか、ついに手を出してしまった。土浦さんがかすれた悲鳴をあげる。
 これ以上黙っているわけにもいかないだろう、と、まずは物理的にふたりの間へ割って入ろうと試みたものの、邪魔だと怒られてしまった。正直、それはこちらの台詞だ。

「市瀬さん、落ち着いてください。朱里ちゃんは、一応、部員じゃないんですよ」
「あんたには何もきいてないわ!」

 きん、と尖った声が被服室に響く。朱里の作品を取り返そうとした手も振り払われてしまった。
 最初の人当たりの良さそうな笑顔とは、比べ物にならないほどの変貌だ。普段も"やばい"人間なのは間違いないなと、納得せざるをえない。
 これ以上の子どもの手出しは、不幸しか呼ばないだろう。へたに刺激したら、冗談抜きに刃物で刺されそうだ。

「二度とここに来るな、今度勝手なことをしたら、許さない」

 だから母親が朱里の腕をむりやりに引っ張って帰ろうとしても、それを止めることは、わたしにはできなかった。
 冷たい、自己中心的だと罵られることには慣れているけど、もはや冷たいどころか、最低な人間だ、わたしって。

「や、やだ、いやだ、離して……っ!」
「蒼太、手伝って。こいつを連れて帰るから」
「やめてよ、やだ、助けて」

 朱里と母親の体格差は歴然としていて、そんなに力を入れたら朱里の腕が折れてしまうのではないかと、怖かった。でもそれ以上に、自分の身に危険が及ぶことのほうがもっと怖かった。

「助けて、佳澄!」

 切実な、悲痛な叫びが、胸にふかく、突き刺さる。朱里が全身でわたしに助けを求めていたのに、脚がすくんで動かない。こんなときにまで吐き気が襲ってくる。
 乱暴に引きずって朱里を連れていく母親を、弟があとから、ぺたぺたと上靴を鳴らして追いかけていった。

「【すぎさん】! アカリは、アカリはどこ?!」

 騒ぎを聞きつけてやってくる者たち、離れていく者たちの出入りが激しくなってきた頃、斎藤先生と澤田先生がようやく駆けつけたけれど、もう遅い。
 今起こったすべてのことを新藤さんがふたりに説明してくれている間、やっと言うことを聞いてくれた足でがむしゃらに三人を追いかけたものの、靴箱の前にも、門を抜けた先にも、彼らの姿は見当たらなかった。
 息を切らしながら、ぞっとするように温かいアスファルトに座り込んでいると、うしろからだれかが走ってきた。追いかけよう、いっしょにお母さんに謝ろう、なんてことを言われたような気がするけど、どう受け答えたか、よく覚えていない。そのまま校舎に引き返したことは確かだ。
 家まで乗り込む勇気はなかった。朱里が痛めつけられているのを、直視できる気がしなくて。

 彼女が自分の部屋で首を吊ったのは、その日の夜のことらしい。

Re: あなたが天使になる日 ( No.13 )
日時: 2019/07/25 21:41
名前: 厳島やよい (ID: GWJN/uhe)




 なぜ、朱里は自殺したのだろう。死を選ばなければならなかったのだろうと、何度も、何度も考えている。見て見ぬふりをしていただけで、あの日の朝から、何度も。
 虐待が辛かったから? 部活のことが母親にバレたから? わたしに、刺される覚悟で彼女を止める勇気がなかったから?
 どれも正解ではあるけれど、何かが足りないような気がしていた。朱里を陰で蝕み、追いやった決定的な何かが。こんなことを考えるのは、罪悪感から逃れたいからなのかもしれないけど。文化祭の日のできごとは、あくまでも、きっかけでしかないのではないかと、そう思う。
 お風呂に浸かってからずっと閉じていた目蓋を、ゆっくり開く。壁から垂れるシャワーのホースを見て、あれで首を絞めればわたしも死んでしまえるのかなと、本人から答えを聞けるのかなと思った。転んで頭を打ってしまえば、それともこのまま溺れてしまえば、切った腕を沈めたまま眠ってしまえば……。でもきっと、全部苦しくてつらい。
 朱里がいつもこんなことを考えていたのかもしれないと思うと、よけいに死にたくなった。体調が良くなっても、気分は沈んでいくばかりだ。そのまま本当にお湯の中へ沈んでいきそうになったので、あわてて浴槽のふちを掴む。生きたいのか死にたいのか、自分でもよくわからない。
 なるべく何も考えないよう脱衣所で着替え、髪を拭いていると、玄関の扉の閉まる音がした。

「【   】ぃ、あなた宛に手紙が来てるけどー」

 約三週間ぶりに聞いたその声は、少々上機嫌に廊下に響いた。酒でも飲んだのだろうか。
 たとえ母のことが嫌いでも、無視するだなんて卑怯なまねはしたくない。だから、ドアを開けて、しゃがみこみながら靴を脱いでいる彼女にたずねる。

「……だれから?」
「差出人はふめーい、書いてないのお、ふふん」

 背中を向けられたまま右手に揺らしている、厚い封筒を受けとる。やっぱり酒臭い。
 杉咲佳澄様。
 でかでかと、見覚えのない筆跡で並んだ自分の名前に拒否反応を催しそうになった。残念ながら、視覚的な情報に蓋をすることはできないのだ。
 書いてあるのはそれだけで、切手も消印も、もちろん差出人の住所と名前も見当たらない。
 わざわざ手紙をくれるような友人なんて、もうこの世にはいないはずなんだけど。仮にほかにいたとしても、名字の部分が、西園寺、になるような相手だ。それほどわたしの世界は狭いままなのである。
 さっそく自分の部屋に戻り、封筒を開くと、中からたくさんの紙が出てきた。ノートか何かの中身をコピーしたもののようだ。封筒の筆跡とはまったく一致しない。

『 四月十二日 今日は入学式があった。体育館がめちゃくちゃ広い。仲の良い友達とは組が離れた。中学生になったので日記帳も一新してみたけど、たぶんいままでと同じようなことばかり書くんだろうな。気をつけないと。 』

『 四月十九日 やっとくじ引きで席替えをした。そんなことよりローファーがきつい。うざい。先生は、履いてるうちにゆるくなるから我慢しろって言う。そんなに未来のことなんて一言もきいてない。隣の席の吉田さんは、いっしょにソフトテニス部の見学に行こう、と言ってくれた。まあ、見るだけならいいよね……? 』

『 四月二十日 テニス部の人たち、すごくかっこよかった。あんなサーブを打てたら気持ちいいだろうなあ。あの、すこーん、って音が大好き。吉田さんは、明日から仮入部する。部長さんに、いっしょにどう? とすすめられたけど、仮入部にも保護者の許可がいるらしいのでやめておいた。 』

 日記だろうか、と思いながら、二枚目の紙に目を移す。この時点でぼんやりと、だれのものなのかの察しはついていた。

『 五月九日 クラスの人間関係が、だいぶ出来上がりつつある。同じ部活の人たち、同じ小学校だった人たち、同じアイドルやバンドやマンガやゲームが好きな人たち。わたしはいろんなグループをふらふら渡り歩いていて、落ち着かない。またいじめられたら、それでだれかに迷惑をかけちゃったら、と考えると、やっぱり怖くなる。窓際の席に、いつもひとりで読書か勉強をしている女の子がいるので声をかけてみたいけど、嫌がられないかな。 』

『 五月十一日 声をかけられなかった。御子神くんと波奈ちゃんが、あの子はわたしたちと同じ小学校だったのだと教えてくれた。知らなかった。卒業アルバムはこの前捨てちゃったから、確かめられない。 』

『 五月十八日 中間テスト、疲れた。あんなのが三年続くなんて、どんどん難しくなってくなんて信じられない。窓際のあの子は余裕そうだった。放課後にひとりで、職員室の近くにある金魚の水槽を眺めていたら、スクールカウンセラーの先生に声をかけられた。やっぱりそういう風に見えるのかな、わたしって。 』

 三枚目。

『 五月十九日 無視するのも悪いと思って、放課後、相談室に顔を出してみた。だれも来ないせいで暇なので、オセロの相手になってほしい、と言われた。結果は全勝。先生弱すぎ、わざと手を抜いてない? 』

『 五月二十六日 相談室に行くようになって一週間が経つ。愚痴や不安を一切漏らさずにオセロの相手を続けていたのに、今日、死にたい、とひとりごとを言ってしまった。前触れもなくいきなりだったから、先生はびっくりしていた(わたしにははっきりそう見えた)。わたしもびっくりした。気まずくなって教室に戻ったら、あの女の子がひとりで残っていた。死にたい、と思うのは、やっぱり異常なことなんだ。家に帰ってから、ひさしぶりに泣いた。 』

 ああ、これは、朱里の日記だ。
 

Re: あなたが天使になる日 ( No.14 )
日時: 2019/07/29 18:34
名前: 厳島やよい (ID: sX8dkNn6)


*

 送り主は日記の中身をわざわざ親切にまとめ直してから、コピーしているらしい。朱里が毎日書いていたのかは定かでないが(わたしも日記をつけていたことがあるけれど、どうしても日があいてしまいがちだった)、不自然に日付の飛んでいる箇所がいくつも見受けられる。読み進めたところ、それには送り主の意図があるからだということがなんとなくわかった。だからわたしは、送り主の正体を突き止めてその面を拝むために、クローゼットから冬服を引っ張り出し、微熱の残る体を引きずって学校へいこうと決意したのだ。
 そして次の日。日記に登場する、元、も含むクラスメート何人かにあたってみたところ、現在も同じ組である御子神くんから何とか手がかりがつかめた。ホームルームが終わった直後に。

「何日か前、小学生の男の子に訊かれたよ。帰るときに声をかけられてさ、校門の前で。【きみ】に渡したいものがあるって言われたから、僕が預かっておこうとしたんだけど、自分で渡すから家を教えてくれって。あ、風邪はもう大丈夫なの?」

 最近だれかに、わたしの家の場所を聞かれたことがなかったか、一日中、それぞれに尋ねて回っていたのだ。

「小学校のとき、僕たち、席が隣同士だったでしょう──覚えていない? でもそうだったんだよ。それで【きみ】が学校を休んだとき、何度かプリントを届けにいったから、駅前のマンションだってことは覚えてたんだ。さすがに部屋番号は忘れたけどね」

 長いこと欠席の続いていたクラスメートが久々に登校してきたかと思えば、休み時間のたびにだれかのところへ突撃していく。そんな光景に、周囲は訝しげな視線を送ってきた。彼らには、無意味で無差別な特攻にしか見えないのだろう。

「その子の名前? んー、なんだったっけな、自分で言っていた気もするんだけど」

 思い出せそうで思い出せない、という表情で唸る彼に礼を言って、自分の席に置いてある鞄を背負った。
 小学生の男の子、という情報がつかめた時点で、もう犯人はわかったようなものだ。あとは確かめに行くだけ。そう思って、教室から出ようとドアに手をかけたとき。

「なあ西園寺、それ、ソウタってガキのこと?」

 見覚えのないクラスメートが御子神くんの隣に歩いてきて、声をかけられた。以前の名字を口にしたので、おそらく同じ小学校だった人だろう。

「そう! その子!」

 わたしは叫んで、たまらず走りだした。うしろで何やらざわめきはじめているのも、遠くから、廊下を走るなと怒鳴ってくる先生も、無視する。彼らに構っている暇など、いまのわたしには無いのだから。
 いつもより長く感じる階段を駆け降りながら、日記に書いてあったことを順に思い返した。

『 六月三日 あの子に無理を言って、手芸部の見学につれていってもらった。部員はすごく少ない。でもみんな優しくて、楽しそうで、テニス部より入りたいと思った。勝手に入部しちゃおうかとも考えたけど、あとで痛い目に遭うことはわかっているので、頑張って、帰ってきた母さんに話してみた。案の定叩かれたし、怒鳴られた。(六月七日) 』

『 六月四日? 母さんの睡眠薬を飲まされたようで、気がついたときには物置部屋に閉じ込められていた。あの人はいつも、中途半端にわたしを柱へ縛って繋げる。そんなことしなくても逃げやしないよ、不安なのはわかるけど。学校には風邪をひいたと連絡したらしい。今回は何日これがつづくのだろうと、重い眠気のせいかうまく回らない頭で考えていた。夜に蒼太がふりかけのおにぎりを作って持ってきてくれた。(記 六月七日) 』

『 六月六日 明け方に、蒼太がまたおにぎりを持ってきてくれたので、昼前くらいに食べた。きのうのことはよく覚えていない。二の腕の傷が増えたから、そういうことだと思う。雨戸まで閉めきっているから暑い、自分が臭くて気持ち悪い。夜には母さんがご飯を置きに来た。(記六月七日) 』

『 六月七日 夕方に帰ってきて様子を見に来た母さんに、もうわがままは言いません、ごめんなさい、と謝ったらあっさり解放されて向こうからも謝られた。ちいさい頃からずっと、こんなことの繰り返しだね。今回はかなりお仕置きが短かった気がする。あの人が落ち着いているうちにゆっくりお風呂に入って、ご飯をおなかいっぱいに食べて、自由を満喫したい。 』

 あの日、朱里と会った最後の日になぞっていけなかった道を、きょうのわたしは全力で駆け抜ける。夏休みに縁日へ行ったとき、朱里を家までむかえに行ったことがあるから、場所はわかっていた。高台のほうの淋しい地域だ。

『 六月八日 頭が痛いけど、放課後に学校へ行った。なんであんなことをしたのか、自分でもよくわからない。気づいてほしかったのかな、助けてほしかったのかなあ。カウンセラーはわたしの話を聞くだけで、何かしてくれるわけじゃないもんね。佳澄と斎藤先生の存在のほうがよほど救いになる。あの子に久々に会えて、死ぬほどうれしかった。頭のなかがぐちゃぐちゃ。早く寝よう。 』

『 七月四日 ■■あの子も、自分の名前が嫌いだと言っていた。あの様子じゃ、たぶん、わたし以上に。名前を消すことはできないから、せめて交換できればいいのになと半分冗談でもちかけてみたら、本当に交換できてしまった。きょうからわたしは朱里じゃなく、カスミ。あの子はアカリ。お互いに相手の名前を羨ましがっていたし、利害一致?だよね。 』

『 九月二十三日 いつか部活のことがばれるんじゃないかと思うと、怖くて眠れなくなることがある。母さんは平日は毎日、夕方の会の集まりに行くから大丈夫、とその度に自分に言い聞かせる。一応部員じゃないし。わたしが小さな頃から、欠かさずそうしてるし。もし何かあったとしても、アカリが、みんなが守ってくれるよ。 』

 鞄の中に、あの封筒を入れてある。もしかしたら、きょう、原本が見られるかもしれない。彼女が死を選んだ理由を知られるかもしれない。
 もし、知ることができたら、彼女に謝りたいと思った。自分かわいさに、あなたを守れなくてごめんなさい。あなたがすがれる藁にすらなってあげられなくて、ごめんなさい、と。それが自己満足だとわかっていても、そう、心から謝りたかった。
 大きな洋風の屋敷の、門の前にたどりつく。あがりっぱなしの息を気持ちばかり整えながら、表札のすぐ隣にある呼び鈴に手をのばした。
 すこしの間があって、

「やっと来たねえ、アカリちゃん」

 奥のほうで玄関の扉が開き、市瀬蒼太が笑顔で出迎えた。

「そんなところに突っ立ってないで、おいでよ。門は開いてるから。お互い、話したいこともあるんだし」

 控えめではあるものの、よく通る大人びたふしぎな声で、無意識に身構えてしまう。あの日、母親の足もとで震えていた小学生の男の子とはまったく別人のようだ。
 自分の背丈ほどある、重たい冷たい門を押し、敷地へ足を踏み入れる。ここが、朱里の家。朱里が育った場所。
 もしかしたら、わたしはここで、彼女の弟に殺されてしまうのかもしれない。あっけなく、その小さな手のひらで。
 それでもいいと思っている。目の前でちらつく死が少し怖いけれど、ここまで来て、逃げようとは思わない。人生はなるようにしかならないことくらい、十四歳のわたしにも、もうわかっているから。



『 九月二十五日 母さんが眠っているのを見計らって、蒼太がわたしの部屋にやって来た。「いつか僕が、お母さんを殺してあげる。そしたら、ねーちゃんはひとりで逃げてね」と言われた。いろんな意味で無理でしょう、あんたには。 』


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