ダーク・ファンタジー小説
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- あなたが天使になる日【完結】
- 日時: 2020/09/14 00:47
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
本編、後日譚ともに完結済みです。
様々な形で応援してくださった皆様に、心からの感謝を。
もくじ
1『影に咲いている』>>1-3
2『そのまま、泣いていたかった』>>4-6
3『きみがふれた光』>>7-9
4『傷口に砂糖でも塗りたい』>>10-11
5『赤を想う』>>12-14
6『天使になりたい』>>15
7『青霞み』>>16 >>19-20
8『あなたが天使になる日』>>21-25
9『彼女の記憶、閑話休題』>>26-27
10『Untitled』>>28-29
あとがき1 >>30
あとがき2 >>31
だれかが天使になったあとのお話『やさしいはつこいのころしかた』>>32-33
あとがきと、いろいろ。>>34
イメージソング:『Sea Side Road』Eshen Chen
※流血描写等あります。苦手な方はご注意ください
◆
これは、海が見えるちいさな町に住んでいた、ある女の子のおはなし。
◆
- Re: あなたが天使になる日 ( No.20 )
- 日時: 2019/08/05 20:02
- 名前: 厳島やよい (ID: HyoQZB6O)
ほつれて千切れそうになっていた不安定な瑠璃子の心を、新たな命の存在が支えている。私はあのとき、その事実だけで安心しきっていた。もし、それを失ってしまったらと、考えられる頭はなかったのだ。
後悔などしたところで仕方がないことくらい、わかっている。わかってはいるのに、どうしても止められなかった。きっとこれからも、今までほどではなくとも、後悔が足を引っ張ってくるのかもしれない。
「ごめんね、もっちゃん、わたしを心配して来てくれたのに」
「謝らなくたって良いじゃん」
「そうかな」
「そうだよ、るりちゃんが元気でいてくれるのが、わたしは何よりも嬉しい」
ご飯を食べたあと、互いの近況報告と世間話にたっぷり二時間分の花を咲かせてから、喫茶店を出た。
隣町に用があると言うので、駅の前まで彼女を送っていくことにした。正確には、私が勝手についていっただけなのだけど。
「それじゃあ……ありがとう、のほうがいいかな」
「どういたしまして。気をつけてね」
「うん。またね、もっちゃん」
「またね」
タイミングよく、ホームのほうからアナウンスが聞こえてきて、彼女は笑顔の残像だけをこちらに残し、小走りに去っていった。
そういえば、いままでの学生生活、こんな思い出がちっともなかったような気がする。恋人はいたけれど、それとこれとはやはり別物なのだろうし。
……私、友達いなかったんだな。
まあ、とくに困ることもなかったものの、なんというか。
「さみし」
すぐそばの道路を横切るまるい黒猫が振り返り、険しい顔で私を一瞥して、空き地の枯草の中へと消えた。
あなたはもう少し、他人と世界に関心を持ちなさい、と、いつだったか、母親に言われた覚えがある。簡単に持てるものなら、これほどさみしい人間に育つことはなかっただろうに。自分のことで精一杯な私の肩には重すぎて、とても背負っていられない。
しょっぱい涙を飲み込み、電車が地平の果てに吸い込まれていくのをフェンス越しに眺めてから、路線バスをつかまえて一旦実家に帰ってみた。しかし、家の中にも庭にも、物置の中にもふたりの姿が見当たらない。ゆうべ電話しておくべきだったなと軽く反省し、かつての自分の部屋に荷物を置いてから、また外へ出た。
車庫にないのは軽トラのほうなので、遅くとも夕方ごろには帰ってくるだろう。例外もあるが、田舎暮らしの人間は、遠出のときなんかのために、普段使いのほかにきれいな乗用車を隠し持っていることが多い。今の私ももちろんそうだ。
こんどは徒歩で約五分、なだらかな坂になっている道を、下っていく。こんなときに向かう先など、さみしい私には海くらいしかない。
民家民家、ときどき田畑、民家、工場、更地、伸び放題の草木、民家、更地更地、更地。相変わらずつまらない景色だ。更地がひとつ増えたような気がするものの、そこに以前なにがあったか、まったく思い出すことができない。まるで最初から、その場所にはなにも存在していなかったようだ。私も、いつか死ぬときは、そうやっていなくなれたら良いのにとよく思う。
馬鹿なことを考えているうちに、目的地へたどり着いてしまった。だれかの泣き声も、笑い声もかき消してしまう大きな波の音。その合間、わずかに訪れる静寂に、ときどき鳥の鳴き声が響いては、ふたたび波でやさしく砕かれていく。
海だ。
温かい砂浜に、足がじんわりと沈みこむ感覚が、小さな頃は少しだけ苦手だった。ハマトビムシが跳ねてきて、地味に痛いのもきらいだった。でも、両親に手を引かれ、波打ち際を歩いていた記憶は、ほかのなによりも温かく、大切な記憶d「うわああああそこのお姉さん、捕まえて! その犬を捕まえて!」流木に腰かけ水平線近くをゆくタンカーを眺めながら、思い出、という言葉がぴったり当てはまりそうな記憶に浸っているいいところで、だれかの叫び声が脳内に侵入してきた。邪魔すんなこのやろう、と思いながら振り返ると、毛むくじゃらの白い塊がこちらに向かって突進してきている。
とっさに腰を浮かせて、その生き物を抱きかかえるように捕らえ、受け身をとった。
「ありがとうございますー! 大丈夫ですかー」
声の主の男性が近づいてきたので、手探りで控えめに首輪を掴み、起き上がる。指先をなめられるのでくすぐったかった。
「私は大丈夫ですけど……」
言いながら、こちらも負けじと舐め返すように、腕の中に収まっている毛むくじゃらを眺めた。正直、この町にはあまり似合わないような、きれいな外国の犬だ。でもかわいい。
「ほんっとにすみません、リードがぶっ壊れて、逃げちゃったんすよ、あ、あれ? あなたもしかして、杉咲さん?」
「え? だ、」
だれ、と言いかけて、飲み込んだ。さすがに失礼な気がしたから。
謝られたことについてはどうでもよかった。覆水は盆に返らないし、返ったとしたらミラクルかホラーだ。そんなことより、彼が私を知っていたことに驚いている。同年代には見えるけれど、顔も名前も知らない赤の他人なのだ。
この町は人口もそこまで多くない。町民の名前と顔をすべて一致させられる超人もいると聞いたことがあるが、確か、だいぶ歳を重ねたおじいさんだったはずだ。見知らぬ人に覚えられてしまうほどの奇行に走った記憶もないし、はてさてどこでお会いしたものか。
真剣に悩んで悩んで、どう返事をしようかと考える。いま思えば、あれは私の無関心が生み出してしまった、ただの意識のすれ違いだったのだろうとわかるのだけど。
「覚えてませんか? それなら、べつに良いんです」
「残念ながら……でも、私が杉咲百馨であることは間違いありませんよ」
「そう、よかったー」
彼はほうっ、とため息をつき、足元に転がっていた棒きれを拾い上げると、何やら砂に、大きく文字を刻みはじめた。
西園寺、司。
司の上には丁寧に、マモル、と読み仮名も添えて。
「杉咲さんと同じ高校だったんですよ。ひとつ下の学年で。あ、その犬は実家の子なんです、半年前に母がとつぜん買ってきて。名前はね──」
しゃがみこんで、犬を抱き上げる。
互いに、はじめましては言わなかった。言う必要もなかった。
ああ、この人だ、と。あのとき、頭の奥でピンと来たのをよく覚えている。彼はその後、私の夫となった人であり、佳澄の父親となった人であり、複雑な事情のもとに、別れを選んだ人だ。
司が当時、なぜ私を知っていたのか、彼の口から語られたのは随分経ってからのことだった。それは、自身の持ち前の無関心さを悔やむ理由のひとつであり、私と司の別れについて、すこしだけ関係もしている。
佳澄が産まれるまで、瑠璃子や紅弥と連絡をとることは、ほとんどなくなった。便りがないのが良い便り、という考えがあったのも勿論そうなのだけど、実際は双方忙しいだけのことだった。
字の通り、心を亡くしてしまった私は、司を他人のように感じ始め、自分の娘であるはずの佳澄のことまで、娘だと認識できなくなった。
そして瑠璃子は産後、精神を病んでしまった。
そうだ、佳澄。私とお父さんを繋いでくれた犬のことなんだけどさ、
※
- Re: あなたが天使になる日 ( No.21 )
- 日時: 2019/08/09 18:49
- 名前: 厳島やよい (ID: UVjUraNP)
8『あなたが天使になる日』
中学二年生 七月六日 〜
改めて書き留めておきたいことがあるので、新しいノートを買った。長くなりそうだ。
これは、父さんから聞いた話や、おぼろげな記憶をわたしなりにまとめたものだから、間違っている箇所があったり、真実ではない事実が、紛れ込んでいたりするかもしれない。
〆
わたしを産んですぐ、母さんは心の病にかかり、わたしは父さんの実家に預けられていたらしい(あまり覚えていないけど)。一人暮らしだったおばあちゃんが急病で亡くなり、三歳になったわたしは、本来の家に帰ることになった。
父さんは、よくおばあちゃんの家に来てくれていたものの、それまで母さんとは一度も顔を合わせていない。そのせいか、わたしは、母さんを自分の母親だと認識できずにいた。空白の三年間は、わたしたち母娘をすれ違わせるには充分すぎるほどに、大きな壁となって立ちはだかっていた。
母さんにとっては、ただひとりの愛する我が子なのに。わたしはその愛を拒絶していた。彼女に抱きしめられると気分が悪くなったし、手を握られるのも苦手だった。おばあちゃんに会いたいと夜通し泣きわめき、父さんによくなついていた。今更どうにもできないけど、申し訳ないと思う。
日中、父さんは仕事に出掛けているので、家の中は、わたしと母さんだけの密室となる。中途半端に動き回り、自我もあって言うことを聞かない、自分を親だとすら認識しない子供の面倒を、四六時中見なければならない。そのうえ、完治していない病気とも闘いつづけて。おかしくなるのは当たり前だ。やがて母さんは、父さんに隠れてわたしに手あげたり、怒鳴ったりするようになった。
四歳になる前から、わたしは生きづらさを感じ始めた。死にたいとも思えないけれど、死に方すらもわからないけれど、ただただ、苦しかった。毛布の中で、泣き疲れて眠りにつく夜ばかりだった。
ある時期から突然、母さんの状態が安定するようになり、わたしが五歳になる直前に、弟が生まれた。蒼太のことだ。
(母さんは瑠璃子、父さんは紅弥、わたしが朱里で、弟が蒼太。みんな青か赤が名前に入っているのは偶然なんかじゃない。母さんと父さんに関しては偶然だけど、わたしたちの名前の漢字を決めたのは、父さんだから。)
これで平和が訪れてくれれば、めでたしめでたし、だった。
母さんの病状が、悪化したのだ。
見かねた父さんが、ふたたび病院に連れていくようになったものの、通院も服薬も、入院も強く拒み、そのうちに、暴れたり自殺未遂を繰り返すようになっていた。病院に連れていこうとするなら今からここで死んでやる、と言って、カミソリを振り回したり、包丁を蒼太に突き付けたりもしていたらしい。わたしへの虐待は、父さんの目の前でも行われるようになっていた。
そんなある日、母さんが眠っている隙に、父さんが助けを求めて、母さんの実家に電話をかけた。あとになって知ったことだけれど、わけあって、それまで七年ほど連絡を取っていなかったらしい。
そばで電話越しの会話に聞き耳を立てていたわたしにも、うまく事が運びそうにない予感はあった。こもった怒鳴り声がこちらにまで届き、彼が暗い顔で受話器を置いたあの瞬間、予感は確信へと変わった。
その後、祖父は父さんに大金を叩きつけ、二度と関わるなと言い残して音信不通となった。その頃から、父さんは、わたしたちとの別居について考えはじめていた。
家中、閉めきった窓。たまっていく埃、洗い物。散らかった部屋。耳をつんざく蒼太の泣き声。両親の大喧嘩。異臭。今でも覚えている。父さんには覚えていないよと言ったけど、わたしはちゃんと覚えている。
ご飯を食べそこねて、空腹で動けなくなったことなんて何度もある。何日も同じ服を着続けていたし、当然お風呂になんて入れなくて、血が出るまで体をかきむしっていたことも。見よう見まねで蒼太の世話をしていたことも。おまえなんか産まなければよかったと、母さんに言われたことも。おまえのせいで不幸になったと言われたことも。
おまえのせいで、おまえのせいでおまえのせいでおまえのせいでおまえのせいでお前の制でぉ舞えこ差違で止め野辺地手、さくじょ、削除削除削除削除削除削除削除、削除。上書き保存。
はい、そう、そうですそうなんですあなたが正しいです。
わたしのせいです。
わたしの、せいで。
「あんたは、幸せになんかなれない。幸せになんか、させない」
ごめんなさい、おかあさん。
じゅりがうまれてこなければよかったんだよね。
〆
市瀬の実家から縁を切られて、三か月ほどが経った頃のことだ。平日の昼間、わたしが蒼太のおむつを取り替えていると、家の呼び鈴が鳴った。
居間のソファで眠っていた母さんが無言で起き上がり、相手も確かめずに玄関の扉を開いたので、わたしは大変に驚いた。
こっそりうしろから様子をうかがうと、外には数人の男女がいて、何やら一方的に話が展開されているようだった。数十年前にこの辺りの地域で発足された、新興宗教の、信者だったのだ。
母さんは他人との会話がうまくできない状態だったので、しばらく面倒臭そうに俯き、彼らの話を聞いていた。どうしたものかとわたしは焦りをおぼえ、一か八か飛び出してみようかと考え始めたそのとき、母さんよりも少し歳上であろう女性が、優しく母さんの手をとり、握った。たぶん、■■さんの奥さんだったと思う。
「市瀬さん、いままで苦労をなさってきたのでしょう。頑張りましたね。わたしにはわかりますよ」
母さんが、ゆっくりと顔を上げた。目元にはくまが浮かび、疲れきった表情だった彼女の瞳に、わずかに光が差し込んだ。
「あなたのために祈ります」
「主は、我々はあなたを愛し、あなたを守ります」
続けて彼らも、そっと手を重ねていく。
胸の奥で、ざらざらとした嫌な気持ちがあふれていくのを感じた。当時のわたしには、言葉にするのが難しかったけれど、たぶん、あれは嫉妬に似た感情だ。だいぶ歪んでいる、嫉妬。
おかあさんを守れるのは、わたしだけなのに。わたしがおかあさんを支えてきたのに。
こいつらが、わたしたちの領域に、土足で踏み込もうとしている。真っ当な笑顔をぶらさげて。やさしい言葉を目の前に吊るして。
どうすることもできなかったのが悔しかった。あの人たち変だよ、と訴えても、肩を蹴られるだけだった。母さんは、すっかり彼らの言葉に惹かれてしまい、父さんに黙って入信した。
そのせいか、それから少しの間、母さんの状態は安定していた。
「じゅりはかぁいいね、わたしの子だもの、かあいくて当たり前よね」
後にも先にも、彼女からの愛情を全身で受け止められたのは、あのときだけだ。
わたしも父さんもほっと胸を撫で下ろし、ふたりで家の片付けに取りかかったのを覚えている。カビを見るのは今でも苦手だ。
*
当然のごとく、その数週間後には、家の中がたちまち荒れていった。わたしへの虐待、育児放棄が度を増して、ふたたび始まったのだ。
「朱里は悪魔の子だからね、わたしが罰を与えないといけないの」
母さんは、そう言っていた。
その反面、蒼太のことは"天使の子"と呼び、ふつうに接していた。投げ出していた世話も、きちんとするようになって、わたしが手を出そうとするとひどく叱った。
そうか、わたしはもう、蒼太にさわっちゃいけないんだ。
母さんを怒らせたくなかったし、悲しくさせたくもなかったし、蹴られたくも、物置部屋に閉じ込められたくもなかった。だからわたしは、母さんの言いつけを守った。少しくらい叩かれたって我慢した。
そんなわたしを見て、父さんもいよいよ限界を感じたのだろう。わたしだけでも母さんから引き離し、ふたりで暮らすか、無理矢理にでも母さんを閉鎖病棟へ入院させようと試みたものの、わたしは、父さんが母さんをいじめているのだと誤解してしまった。今度は、大好きだったはずの父さんのことを拒絶した。母さんを母親だと認められなかった、あのときのように。
結局、父さんだけが家を出ていくことになった。
- Re: あなたが天使になる日 ( No.22 )
- 日時: 2019/08/11 01:55
- 名前: 厳島やよい (ID: WpG52xf4)
天使の子。悪魔の子。
それは、■■■の中で、入信者の子に対して使われる言葉だ。
まず、わかりやすいのが天使の子。親の入信時点ではまだ生まれていないか、一歳未満である場合の子を指す。彼らは、大人の信者たちに可愛がられて何不自由なく成長していくのだ。天使の名にふさわしく。
悪魔の子は、親の入信時点で一歳以上である子を指す言葉で、世間の穢れに侵されている存在として扱われる。親といっしょに入信することなどできない。自身の穢れを払い、世俗を生きる信者の穢れをも浄化する、洗礼という名目で大人から虐待される。思春期をむかえると、彼らはさらにひどい目に遭うことになる。
これは父が言っていたことだが、肉体的な苦痛はもちろん、心を病んで自ら命を絶つ子は少なくない。しかし、ほとんどは原因不明・不慮の事故死、突然死という形で処理され、たとえ自殺とみなされても、学校でのいじめなどが原因とされてしまう場合が多い。
洗礼を堪え忍び成人した数少ない悪魔の子は、やっと普通の信者や天使の子と同等に扱われるようになるらしい、と小耳に挟んだことがあるけれど、本当なんだろうか。
わたしたちの住む地域では、この宗教が少しずつ知られ、問題視されるようになっている。わたしが十二歳になる頃には、とある信者がべつの教会へのスパイ潜入を聞きつけ、洗礼は炙り出しのごとく、通常会員までにも及んでいた。
わたしは詳しいことまで知らなかったけど、信者たちの間の空気がぴりぴりとしているのは、何となくわかっていた。そのせいか、わたしを含む悪魔の子たちへの扱いもひどくなる一方で、あの頃初めて、はっきり『死にたい』と考えたのを覚えている。純度百パーセントの自殺願望だ。
リストカットならとうの昔に覚えていた。だからわたしは、カミソリで腕を切って、家の風呂場にこもることにした。うっすらと赤の広がっていく浴槽を眺めながら、ようやく静かな場所に行けるのだと思うと、痛みなんて気にならなかった。嬉しくてたまらなかった。念を入れて、もう一度深く切っておこうとカミソリを手にとった瞬間、蒼太が止めに入ってきてしまったあの絶望は、きっと普通の人には理解できないものなのだろう。蒼太から話を聞いた父さんに怒られたときの、あの悲しさを、きっと普通の人は理解できないだろう。
死んじゃだめだ、生きていれば必ずいいことがある、時間が解決してくれる、生きたくても生きられなかった人に失礼だ、なんて言われてしまう。未来も他人も、わたしには知ったことじゃないのに。苦しいのは今で、ほかの誰でもないわたしなのに。自己満足で、エゴで否定しないでほしい。死ぬなと言われるくらいなら、辛かったね、頑張ったねと抱きしめられたかった。そのほうが、まだ少しは生きようと思えた。
蒼太も父さんも、普通側の人間だから、天使の子だから、わたしの『死にたい』と『生まれたくなかった』はきっと理解できない。
『死にたい』をきちんと打ち明けられたのは佳澄だけだし、幼い頃『生まれたくなかった』を受け止めてくれたのは、母さんの昔の友達だけだった。
……もっちゃん、元気にしてるかな、旦那さんが入信しちゃったって言ってたけど、無事に離婚できたのかな。わたしと同い年の娘さんが、どうか、わたしと同じ目に遭っていませんように。
〆
学校から帰って、制服から着替えると、母さんに車に乗せられ、教会へ連れていかれた。いつも洗礼を受ける部屋じゃなく、礼拝堂に連れていかれた。
「わたしは悪魔の子なのに、礼拝堂に行ったら、ほかの信者を汚しちゃうんじゃないの?」
強く腕を引く母さんに、そう言って抵抗したけど、大丈夫よの一点張りだった。何が大丈夫なのかと問いただしたかった。
天使の子たちの礼拝に参加したのは、これが初めてだった。いたって普通の集会で、みんながいっしょに何かの本の朗読を聞いていて、知らない歌をうたっていて、男の人の話を黙って聞いていた。小さな天使の銅像が、いろいろなところに飾ってあった。
礼拝が終わり、会員が帰り始めると、信者の大人たちに呼ばれた。やはり洗礼を受けるらしい。母さんのことは、少しの間だけ、忘れることにした。
教団の建物の、地下三階。いつも暴行を受けているのとはまったく別の場所だ(そもそも建物自体が違う)。ふたりの会員に挟まれて階段を下り、薄暗い廊下を歩きつづけていくと、一番奥の部屋にたどり着いた。その部屋も、同じようにとても暗くて、たくさんの蝋燭が並んでいた。蒸し暑いのに冷たい、不気味な空気が立ちこめていて、今さら不安になってきた。
壁に沿った燭台に並ぶ小さな蝋燭たち。部屋の中央には、それよりも大きな火がいくつか灯されていた。
大きな明かりの前には、二人の大人が座っている。ひとりは、いつも洗礼のときに顔を会わせる信者、■■さんだったけれど、もうひとり、彼の隣で拘束され、虚ろな目で天井を見上げていた若い男には、見覚えがなかった。
母さんから聞いたのだろう、初潮を迎えたのかと、■■さんに訊ねられた。
自分の体のことを他人に知られるなんて、正直、気持ち悪いとしか言いようがない。相手が女性なら、まだすこしは我慢できたかもしれないけど。嫌悪と恐怖が募り、うなづくことに躊躇いを感じた。でも、もしここで、違うと答えたら。礼拝堂に、教団の人間のもとにわけなく穢れを持ち込んだことにされてしまうかもしれない。きっとまたいつものように、痛い思いをしなければならなくなる。だからわたしは、小さく、小さくうなづいた。
しばらくの沈黙が訪れ、部屋の明かりがちらちらと揺れた。
「そうか、そうか」
彼らの表情が、柔らかくほどけていく。
もしかして、と思った。もしかして、悪魔の子としての生活が、これで終わるんじゃないだろうかと。根拠のない期待が、大きく押し寄せてきて、■■さんが立ち上がって、背後の蝋燭を手に取っ「 !?!」
何が起こったのか、自分でもわけがわからなかった。痛みが、熱が、刺さっている、腕に、腕の傷跡が、じゅう、と嫌な音をたてて、変な臭いが、だ、え?
理由のわからない涙が、溢れて止まらなかった。
痛い。
痛い。
いたい。
あつい。
なんで。
あつい。
「朱里。今は堪えなさい。痛みが、苦しみが、悪魔の穢れを洗い流すんだ。こうしていれば、おとなしく洗礼をきちんと受けていればねえ、おまえはもうすぐ、悪魔の子ではなくなるんだよ。僕達は、おまえのためを思ってやってるんだ。おまえは本当は、良い子だって、知っているから」
身勝手な期待は、一瞬にしてかき消されたのだ。
反射的に暴れるわたしを、ほかの信者たちが一斉に押さえつけてきた。声にならない叫びを発するわたしの口まで、押さえこまれた。何回も、何回も、殴られた。
それまでずっと天井を眺めていた若い男と、目が合う。わたしと同じ、真っ黒な目だった。これからされることが、何となく理解できてしまった。
お風呂場で自殺しようとした日のことを、なぜか鮮明に思い出す。だれもわたしのことを助けてくれない、救ってくれない。死のうとすることも許してくれない。そんな世界に、絶望しか見出だせなかったからかもしれない。
母さんのように狂ってしまえたら、どれほど楽だっただろうか。
どうしてわたしはこんなにも、正気でいられるのだろう。
- Re: あなたが天使になる日 ( No.23 )
- 日時: 2019/08/11 23:31
- 名前: 厳島やよい (ID: SCMOcoS4)
それからのわたしは、ひどく無気力だった。身体が鉛を流し込まれたみたいにとても重くて、うまく眠れない夜が続いていた。死のうとする気力すらも湧かなかった。
自分の意思での不登校なんて母さんは許さないから、学校にはなんとか通い続けて、■■に心配をかけないように、それだけを考えて日々を過ごしていた。
文化祭の、三・四週間くらい前だったと思う。なんだか熱っぽくて、佳澄を置いて帰ろうとした日のことだった。
門を出た目の前の道路にきれいな車が停まっていて、助手席の窓から顔を出す、見知らぬ白髪のおばあさんが、わたしに向かって手を振っていた。なぜか嬉しそうに名前まで呼んでくる。近くで何人も先生が見ているし、不審者ということは流石にないだろうと思い、彼女のほうに走っていった。
私はあなたのお母さんの母親、祖母にあたる人間よと、自己紹介され、隣の運転席に座るおじいさんは祖父だと言われた。祖父は、取っつきにくそうな難しい表情だった。いつもあんな顔をしているんだろうか。
じっと見ていると、確かにふたりは母さんに似ていた。
微笑み方が、祖母に。横顔の輪郭がなんとなく、祖父に、似ている。
わたしは普段から、あまり鏡や写真を見ないから、自分がどんな顔をしているのかよく覚えていない。もしかしたら、わたしと祖母も、似ているのかもしれない。そうならいいなと思う。祖母はきれいな人だったから。
話があると言われたので、とりあえず乗り込むと、ゆっくり車が動き出した。
蒼太が生まれたときのあの電話以来、彼らとは完全に縁が切れたと思っていたのに、いったいどういう風の吹き回しなのだろう。なにか悪い知らせでも持ってきたのかもしれない、相続がどうのこうのとか。そんなの知らないよ。
祖父が小声でなにか祖母に言うと、彼女は同じく小声で、そしてきつい表情で、やめてください、と返していた。
車は駅の方角へ向かっていた。腹が減っていないかと祖父に訊かれたので「すこし」と答えると、数分も経たないうちに、古い喫茶店に着いた。
夏が過ぎたせいで、すっかり客足が遠退いていったのか、もともと閑古鳥のよく鳴く店なのかはわからない。店主のおじいさんと祖父が、どうやら顔見知りらしいということは、見ていてなんとなく察したけれど。
隅の壁際、少し暗い席に向かい合って座り、わたしはコーヒーゼリーのサンデーをつついていた。正直、あの洗礼の日から食欲は落ちていく一方だけど、心配はかけたくない。心を空っぽにして、味のしない冷たいアイスを飲み込んだ。
「こどもの頃の瑠璃子にそっくりね。色白で、べっぴんさんだわ」
どこか少し悲しげな表情で、向かいの祖母が言った。その隣の祖父は、やはり難しい顔をしていて、ちっとも感情が読み取れない。
「あの……お話って、なんでしょう。蒼太や父も、呼んだほうがいいですか」
重い空気は苦手だ。ただでさえ自分のまとう物が暗くて重いのに、こんな状況では窮屈で息苦しくなってしまう。
「朱里、私たちと暮らさないか」
気まずい沈黙を突如静かに破ったのは、それまでずっと固く口を結んでいた祖父だった。
単刀直入な彼の言葉に祖母は目を見開いたし、わたしは、祖父の声を初めてきちんと聞いた事実と、いきなりこの人は何を言い出すのかという驚きでひどい顔をしていた、と思う。
父に向かって怒鳴っていたあの声とは別人のように、穏やかだった。
「あんた、謝るのが先でしょう」
「過ぎたことはどうもならん」
「ならないからこそ、大事なんですよ」
「この子を困らせるだけだろう」
「もう十分困ってます」
「…………そうだな、すまない」
この様子だと、わたしに会いに行こうと最初に言い出したのは、祖父のほうだったようだ。
「びっくりさせちゃって、ごめんね。それと……今まで、朱里ちゃんたちを助けてあげられなくてごめんなさい。それどころか、酷いことをしてしまったわ」
「そんなこと、気にしないでください。おふたりにだって事情があるでしょうし、わたしもきっと」
あなたと同じ立場なら、母さんとは縁を切るだろうから。
────そこまでは、声に出せなかったけれど。何と言おうとしたのか、彼らにはわかっただろう。祖母は黙って、首を振った。
「私たちがしたことは、間違っている。どんなわだかまりがあろうと、瑠璃子を、あなたたちを見捨てていい理由にはならないもの」
そうだろうか。
見捨てることも、選択のひとつなんじゃないだろうか。
どうしようもなく壊れてしまったあの人と関わって、執着するようになって、依存するようになって、わたしは着々と崩れ落ちつつある。自滅に向かっている。蒼太だって、少しずつおかしくなってきた。
「瑠璃子、蒼太くんが生まれてから■■■に入ったんですって? 最近、うちのほうでも、児童虐待がどうとかって、問題になっているのよ。朱里ちゃんは、なにか嫌なことされてない?」
いつか、父さんが母さんを、病院に連れていこうとしていたことがあったっけ。今度はわたしが祖父母に引きずられる番かもしれない。そして、わたしがまた、祖父母を壊していくんだ。
たとえ母さんが、ふつう、に戻ったとしても、わたしと蒼太がふつうに戻れたとしても、痛みや苦しい記憶が消えてくれるわけじゃない。滅茶苦茶にされた人生が、綺麗になってこの手に帰ってきたりはしないのだ。ふたたび投げ出されたこの世界に、適合できるわけもない。あれれ、ふつうって、なんだ?
「紅弥さんから、大体の話は、聞いてるの。あなたが瑠璃子にされてきたことも。だから、ねえ、朱里ちゃん。あなただけでも、私たちといっしょに暮らしましょう。今の私たちにできることは、これくらいしかないのよ」
歪みは、また新たな歪みを生むことしかできないから。明るい場所で生きているふたりは、もうわたしたちに関わらないほうがいい。そんなやつらは放っておくほうが、身のためだ。
九年前、祖父が下した判断は、何一つ間違っていない。
「朱里ちゃん、お願い……」
涙を浮かべてわたしに手を伸ばした。
見捨てることも選択のひとつなら、見捨てられることを自ら選ぶのもまた、選択のひとつだと思う。
「おじいちゃん、おばあちゃん、ごめんね。ふたりのお願いを聞くことは、わたしにはできません」
昔のお母さんと、お父さんと、おじいちゃんと、おばあちゃんと。
いつだって、わたしは、まっすぐに差しのべられた手を払いのけてきた。足を引っ張ってくる、震える手のひらに応えてきた。自分を守るのに必死だったのだ。これ以上だれかを苦しめたくなかったのだ。ひとの人生を無責任に壊してしまうくらいなら、ひとりぼっちで不幸に浸かって、悲劇のヒロインぶって、めそめそと情けなく泣きながら生きているほうが、ずうっとましだ。
それなのに、■■を拒絶できなかったのはどうしてなんだろう。いままでの人生で、だれよりも大切な人のはずなのに。
なんて、考えるまでもないか。
■■は、わたしに手を差しのべたわけではない。ただ黙って、わたしの不幸にいっしょに浸かってくれるから。だから拒絶できないのだ。
あの子は、事実を見て、聞いてくれる。否定せずにいてくれる。そして、日常という真実をくれる。
だから、ねえ、今だけは名前を呼ばせて。
ありがとう、佳澄。
*
蒼太。あんた、ずーっと前から、わたしの日記、読んでるんでしょう。返事はいらないから、お願いを聞いて。
いつか、わたしが自殺に成功したり、思いがけない死を迎えたりすることがあったら、これを、佳澄に読ませてほしいの。
あの子は優しいから、優しすぎるから、知りたがると思うんだ、いろいろと。
- Re: あなたが天使になる日 ( No.24 )
- 日時: 2019/08/13 00:41
- 名前: 厳島やよい (ID: SCMOcoS4)
十月十六日
ぶんかさいの日。
全部がこわれてしまった。
かあさんが、物おきべやでなきながらおこりながら、わらいながらわたしをなぐった。いたくはなかったけど、ねむくて、ねむくなった。
気がついたらきょうかいにいて、あのひとがわたしの上でねころがってて、よくわからないからまた目をつむったら、いえにもどってきてた。ゆめだったのかもしれない。
きおく?がばらばらだ。字がかけない、うまく欠けない。
ろうかで、かあさんがなにかどなってるけどちゃんとききとらない。ドアたたいてる。
おねえ さんがみみのちかくで、くびをしめてし ねって
もうよ るだね、くらい ね
さみしい
〆
言葉が、出てこない。朱里はこんな思いで生きていたのだと知って、絶句してしまった。
蒼太に渡された二冊目のノートは、そこで文字が途切れている。まだ半分近く、白紙のページが残っていた。
理由のわからない吐き気が、だんだんと胸の奥で強くなっていく。お手洗いを借りようかとも考えたけれど、声は出ないし、さっき床に座り込んでから、立ち上がる気力さえ湧かない。
この部屋で、朱里は死んだんだ。
こんなに広くて、寂しくて、暗くて、寒い場所で、朱里は死んだんだ。
ドアノブにコードをかけたとき、あの子はいったい、どんな気持ちだったのだろうか。
悲しくて悲しくて、泣いていたのかもしれない。
やっとすべてから解放されるのだと、笑っていたのかもしれない。
朦朧とした意識で、幻覚の中で、最後の最後まで苦しんでいたのかもしれない。
そのうちの、どれだったとしても。朱里がいま、この世界のどこかでやさしく笑えているのなら。いやなことをぜんぶ、ぜんぶ忘れることが出来たのなら。自殺したことを責めようなんて思わない。最初からそんなことは考えていないけど。
生きていてほしかっただなんて、自分勝手なことも、今後一切口にしない覚悟だ。
「ねーちゃんさ、前に、母さんを殺そうとしたことがあるんだよ」
背後で、蒼太が言った。
「三年くらい前、クラスの男の子に送られて帰ってきたねーちゃんを見て、母さんがすげえ怒ったことがあってさ。お互い好きあってたんだよね、たぶん。
あの人は、娘が幸せになるのが許せないんだ。だからその男の子とねーちゃんのことを、ひどい言葉で罵った。そしたら、ねーちゃんがキレて、階段を下りていこうとした母さんを、突き飛ばしたんだ。しねーって、泣き叫びながら。
さっき言ったっけ、母さんは、この家の階段を上れないんだよ。朱里に殺されるって怖がって、二階に上がれないんだ。でも、ねーちゃんが死ぬ間際、あいつは、二階のねーちゃんの部屋の前にいた。散々追いつめておいて、いざほんとうに死ぬとなったら、止めに行ったんだ。まじであいつは自分のことしか考えてない、自分のことしか考えられない、くそったれな女だ、だから、だから僕はっ」
「母親を、殺したの?」
かすれた声が、案外大きく部屋に響いた。
吐き気はおさまらないし、なんだか身体がふわふわとしているけれど、言いたいことは、言えるうちに言わなければと思った。
家に送られてきた朱里の日記に書かれていたことを、わたしはちゃんと覚えている。「いつか僕が、お母さんを殺してあげる。そしたら、ねーちゃんはひとりで逃げてね」と。そう、書かれていたことを。
「そうだよ、殺したよ。あいつがこれからものうのうと生きるなんて、許せなかったから」
怒りに染まった声が、頭上に降ってくる。
振り返らなかった。彼がどんな表情をしているのか、見たくもなかった。
「なーんか思ってたよりもずっと簡単だったし、すっきりしないよ、あっさり死んじゃったから。せっかく物置部屋を選んだんだもん、もっと苦しめばよかったのに。ねーちゃんと同じ痛みを味わえばよかったのに」
彼にとっては、それが正義なのだろうか。エゴで塗り固められた、狂った正義。やっていることは、母親と大して変わらないのに、ちっとも気がついていないらしい。それとも、見て見ぬふりをしているのか。後者だろうな。
「さっきから聞いていればさ、蒼太くん、母親のことばっかり責めるよねえ」
体の奥からふつふつと湧いて、沈殿していく感情。その色と重みには似つかわしくない、ふざけたような口調になってしまう。
朱里の母親を殺したいのは、わたしだって同じだ。そりゃあもう、叩いて蹴って殴って引きずり倒して刺して刺して刺して、ぐっちゃぐちゃにしてやりたいくらいだ、正直。蒼太の前では綺麗事になってしまうけど、だからといって彼女の命を奪っても良いわけにはならなくて。
わたしたちは、この思いにどうにかこうにか折り合いをつけて、罪悪感と闘いながら、真っ当にひねくれてこの世を生きていくしかない。たとえ彼女が、わたしたちの納得いく裁きを受けなかったとしても。
「罪があるのはきみも同じでしょう。もちろんわたしだってそうだし、おじいさんもおばあさんも、紅弥さん、だっけ、あの人もそうでしょう、結局は逃げることしかできなかったんだから。
あとさあ、日記を読んだ限りだけど、蒼太くんが本気で朱里を助けようとしていたとは考えられないんだよねえ。きみのことがぜんぜん書かれてない。普段は傍観しているくせに、都合のいいときだけ朱里に寄り添ってさ。本当にお母さんだけのせいだと思ってる? 友人なめんな、バカ弟」
フローリングの目に向かって唾を吐いた。というのはもちろん比喩だ。
なんだか、急に口が悪くなったような気がする。頭の中で他人に悪態をついたことなんて、もう数えきれないくらいにあるけれど、言葉として、声として、それを意識的に相手へぶつけたことは今までほとんど無かった。
だって、わたしのような人間がそんなことをすれば、どうなるか、「だまれ、しね、しねしねしねしねっ、し」ちゃあんとわかってるんだもの。
耳のすぐそばで、なにかの砕ける音が。
頭のてっぺんで、少し遅れて重たい熱い衝撃が。
響いて、こびりついて。
一瞬、ばちん、と視界が暗くなる。
そしてわたしはゆっくり、床に倒れ込んだ。したたり落ちていく、生ぬるい血液と共に。