ダーク・ファンタジー小説
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- 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている
- 日時: 2026/02/03 21:36
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
かなり長編(になる予定)のやつです。前から執筆をしていたものですが、まだ完結していません。
結末はまだどうなるかはわかりませんが、毎朝出す予定(今回こそ)なのでぜひチェックをお願いします。順番がめんどくさいことになっているので、このページの目次から移ることをお勧めします。
第一部 忘却の監獄編 >>1-15
第1章 春の砂塵 >>01
第2章 完璧な教室 >>02
第3章 清められた傷跡 >>03
第4章 親切な包囲網 >>04
第5章 静寂の鱗粉(りんぷん) >>05
第6章 カチ、カチ >>06
第7章 1986年の放課後 >>07
第8章 垂直の闇 >>08
第9章 腐食する日常 >>09
第10章 11月14日の黒板 >>10
第11章 朝の境界線 >>11
第12章 白い診察室 >>12
第13章 幸福な監獄 >>13
第14章 夕暮れの図書室 >>14
第15章:深淵への選択 >>15
第二部 前書き >>16
第二部 1986年の残響編 >>17-30
まだ目次は作成途中です。これからどんどん増えていくと思います。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.13 )
- 日時: 2026/02/03 07:33
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第13章:幸福な監獄
朝のホームルーム。 1年A組に差し込む光は、あまりにも白く、純粋だった。 ハルは自分のデスクに座り、周囲の様子を窺っていた。昨日までの重苦しい緊張感が嘘のように、教室は瑞々しい活力に満ち溢れている。
「――では、今日の午後は体力テストを行います。皆さん、無理のない範囲で全力を出しましょうね」
担任の佐伯の声は、いつにも増して穏やかで、心地よい。 ハルは、昨夜ゴミ箱に捨てた琥珀色の錠剤を思い出した。あの薬を飲んだ者たちは、今、こうして「正しい幸福」の中にいる。
「ねえ、ハル君! 次の授業のノート、貸してくれない?」
隣の席から声をかけてきたユキは、春風のような笑顔を浮かべていた。 彼女の瞳には、あの地下で見た怯えの欠片もない。それどころか、ハルの顔を覗き込む彼女の視線は、初恋でもしているかのようにキラキラと輝いている。
「ユキさん、腕……もう痛くないの?」 ハルが思わずそう尋ねると、ユキは不思議そうに自分の腕を眺めた。 「痛い? ううん、全然。私、怪我なんてしてたかな。あ、でも今朝は凄く目覚めが良くて、世界が昨日よりずっと綺麗に見える気がするの。如月君のおかげかも」
「僕の?」 「うん。なんだか、あなたといると安心するから」
その言葉は、本来ならハルの心を躍らせるはずのものだった。 だが、今のハルには、それが「プログラムされたセリフ」のように聞こえて、背筋に寒気が走った。彼女は、恐怖を忘れたのではない。恐怖という概念そのものを、脳から削ぎ落とされたのだ。
昼休み、ハルは屋上へと続く階段の踊り場で、アキトを見つけた。 彼は一人でパンを齧りながら、英単語帳を熱心にめくっている。あの、世界を拒絶していたような鋭い眼光はどこへ行ったのか。今のアキトは、将来の成功を疑わない、模範的な「名門校の生徒」そのものだった。
「アキト、お前……部活、どうするんだよ。歴史研究部、行かないのか?」 ハルが声をかけると、アキトは手を止め、教科書通りの爽やかな笑みを向けた。
「歴史研究部? ……ああ、あの旧館にある古い部活か。悪いけど、俺はサッカー部の入部テストを受けることにしたよ。時間を有効に使わないとな。この学校の恵まれた環境を活かして、最高の自分を目指したいんだ」
アキトの言葉には、迷いも、歪みもなかった。 「……お前、首の傷はどうしたんだよ」 「傷? ああ、これか」 アキトは、もう医療用テープさえ貼っていない、滑らかな首筋を指でなぞった。 「安藤先生に診てもらったら、ただの肌荒れだってさ。専用のクリームを塗ったら一晩で治ったよ。……ハル、お前も変なことに首を突っ込むのはやめろよ。せっかくの高校生活なんだから、楽しまなきゃ損だぜ」
アキトはそう言うと、ハルの肩を軽く叩いて去っていった。 ハルは一人、踊り場に取り残された。
(……狂ってる。僕だけが、狂ってるのか?)
午後の体力テストは、さらに不気味だった。 50メートル走、走り幅跳び。 生徒たちは、アスリートのような無駄のない動きで、次々と好記録を出していく。驚くべきは、彼らが「苦痛」を感じていないように見えることだった。 息を切らし、膝をつく者は一人もいない。 皆、どれほど激しく体を動かしても、その表情には陶酔したような悦びが浮かんでいた。
「素晴らしい、皆さん! まさに聖ヶ丘の誇りだ!」 計測する体育教師の声が響く。
ハルは、50メートル走のラインに立った。 合図の音が鳴った瞬間、ハルの脳裏に、あの「チャイム」の残響が走った。 ――逃げろ。 身体が勝手に、地下試験の時の「生存のための走り」を再現しようとする。 ハルはあえて速度を落とした。周囲に合わせて、適度な「疲れ」を演出しようとした。
だが。 「如月君、どうしたんだい? もっと力を解放していいんだよ」 いつの間にか後ろに立っていた佐伯が、ハルの耳元で囁いた。 「君のポテンシャルは、こんなものではないはずだ。地下で……あんなに鮮やかに『脱出』してみせた君ならね」
ハルは心臓が止まるかと思った。 佐伯は、ハルの目を見つめていた。その眼鏡の奥の瞳は、優しさなど微塵も感じさせない、冷酷な観測者のそれだった。
「……先生、何を言って」 「おっと、失礼。寝ぼけたことを言ったかな。さあ、もう一度走ろうか。君が『正しい記録』を出すまで、私たちは何度でも付き合うよ」
ハルは、自分が「幸福」という名の檻の中に、完全に閉じ込められたことを理解した。 周囲では、ユキやアキト、カナたちが、ハルを励まそうと明るく声をかけてくる。 「頑張って、如月君!」 「ハルならできるよ!」
その声が、ハルには何千何万という「目」に見えた。 自分を見張り、自分を「普通」の枠に押し込めようとする、慈悲深い監視者の群れ。
放課後、ハルは逃げるように部室棟の影へと向かった。 そこにあるはずの「旧図書館」へと。 だが、ハルの前に現れたのは、真っ白なペンキで塗り直され、「自己啓発学習室」という看板が掲げられた、真新しい建物だった。
「……シノさん?」 ハルが扉を叩こうとしたが、そこには鍵さえついていなかった。 中は明るい照明に照らされ、数人の生徒たちが静かに自習をしているだけだった。 歴史研究部も、古い本も、シノの姿も、跡形もなく消え去っていた。
ハルは、自分の右手のひらを握りしめた。 昨日の血は、もう乾いている。 けれど、ポケットの中にはまだ、あの「黒い砂」が一粒だけ残っていた。 それが、この美しく幸福な世界における、唯一の「異物」だった。
「……忘れてたまるか」
ハルは、夕日に照らされた「鎮魂の塔」を睨みつけた。 周囲で笑い合う生徒たちの声が、遠い世界の出来事のように聞こえていた。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.14 )
- 日時: 2026/02/03 07:38
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第14章:夕暮れの図書室
「シノさん……シノさん、いないの?」
ハルは、真っ白なペンキの匂いが鼻をつく「自己啓発学習室」の中で、半ば錯乱したように書架の間を歩き回った。 そこはかつての旧図書館の面影など微塵もなかった。埃っぽい19世紀の文学全集や、煤けた40年前の新聞、そしてあのカセットデッキが置かれていた重厚な木製デスク。そのすべてが撤去され、代わりに並んでいるのは、効率性だけを追求したプラスチック製のパーテーションと、無機質なLEDライトだ。
「如月君、静かに。ここは自習をする場所だよ」
自習をしていた見知らぬ上級生が、困ったようにハルをたしなめる。その表情もまた、安藤医師の錠剤を飲んだ後のような、底抜けに平穏で、平らなものだった。
「……ここにあったはずの、部活は? 歴史研究部とか、ここに住んでたシノっていう先輩はどこに行ったんですか!」
ハルが詰め寄ると、上級生は不思議そうに小首を傾げた。 「歴史研究部? そんな部活、うちの学校にはないよ。シノ……? 珍しい名前だね。でも、生徒名簿にもそんな人は載っていないはずだ。君、やっぱり疲れてるんじゃないかな」
「そんなはずない……。昨日、ここで一緒に――」
ハルは言葉を飲み込んだ。 何を言っても無駄だ。この学校の「修正」は、物理的な改装だけに留まらない。生徒や教師の脳内にある、不都合な「記憶のインデックス」さえも、一晩で書き換えてしまう。
逃げるように学習室を飛び出したハルは、廊下でカナと鉢合わせした。 カナはハルの顔を見るなり、心配そうに駆け寄ってきた。
「ハル! 探したよ。もう、どこに行ってたの? 部活の体験、一緒にテニス部に行こうって約束したじゃん」
カナの瞳は、いつもと変わらない。幼い頃から見てきた、あの無邪気で真っ直ぐなカナの瞳だ。 ハルはがるような思いで、彼女の両肩を掴んだ。
「カナ、お願いだ。僕を信じてくれ。……この学校、何かがおかしいんだ。みんな、昨日までのことを忘れてる。ユキさんも、アキトも、シノさんっていう先輩まで、最初からいなかったことになってるんだ」
カナは一瞬、ハルの言葉を反芻するように黙り込んだ。 そして、ゆっくりと、本当に悲しそうに眉を下げた。
「ハル……。安藤先生が言ってた通りだね。あなた、本当にひどいストレスを抱えてるんだ。……『シノ』なんて人はいないし、地下の試験なんて、ただの入試の緊張が見せた幻覚だよ」
「幻覚じゃない! ほら、これを見てくれ!」
ハルはポケットから、あの一粒の「黒い砂」を取り出し、カナの目の前に突きつけた。 夕暮れの斜光を浴びて、砂は不気味なほど鮮やかに、青い火花を散らしている。 これを見れば、カナだって認めざるを得ないはずだ。
だが、カナはハルの手のひらを見て、怪訝な顔をした。
「……何? 手のひら、どうかしたの?」 「何って……この砂だよ! 光ってるだろ?」 「砂……? ハル、あなたの手には、何も乗ってないよ」
ハルは、凍りついた。 自分の目にははっきりと見えている、青く燃える砂。 それが、カナの瞳には映っていない。 いや、映っていないのではない。「認識」が、脳の入り口で遮断されているのだ。
「何も、見えないのか……?」 「うん。……ねえ、ハル。もうやめようよ。そんなに苦しいなら、もう一度保健室に行こう? 安藤先生、とっても優しいよ。あの先生の言うことを聞けば、ハルもみんなみたいに、こんなに『楽に』なれるのに」
カナが、一歩、ハルに歩み寄った。 その瞬間、彼女の背後に立つ時計台の針が、西日に照らされて長く伸びた。 その影の形が、ハルの目には、獲物を狙う巨大な鋏(はさみ)のように見えた。
「……君も、あっち側なんだな」
ハルの口から、乾いた言葉が漏れた。 「あっち側って何? 私、ハルのことが心配なだけだよ! 私たちは友達でしょ? ずっと一緒に、楽しく卒業しようって約束したじゃない!」
カナの声が、不自然に高く、歪んで響く。 それは、あの地下で聞いた「異常なチャイム」の周波数に、どこか似ていた。
ハルは、カナの手を振り払い、走り出した。 背後でカナが「ハル! 待って、ハル!」と叫ぶ声が聞こえる。その声は、もはや少女の悲鳴ではなく、システムが発する「エラー警告」のようにハルの耳を劈(つんざ)いた。
校門へ向かおうとしたハルの前に、一台の黒い車が音もなく停まった。 後部座席の窓が下がり、そこには理事長の九条が座っていた。
「如月君。少し、ドライブに行かないかね」
九条の目は、笑っていなかった。 「君だけが、まだ『目覚めて』いないようだ。本校の教育方針としては、一人の取り残しも許さないのが主義でね」
ハルは、逃げ場を失った。 周囲を見渡せば、放課後の校庭で、何百人もの生徒たちが足を止め、一斉にこちらを無機質に見つめていた。 そこには、カナも、ユキも、アキトもいた。 彼らは皆、完璧な笑顔を浮かべたまま、ハルが「正しく」なる瞬間を、今か今かと待ち構えていた。
ハルはポケットの中で、血が滲むほど砂を握りしめた。 「……僕は、忘れない。砂の味も……シノさんのことも……絶対に」
夕闇が、聖ヶ丘高校を飲み込んでいく。 それは、この世で最も「幸福」で、最も「残酷」な、隔離の夜の始まりだった。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.15 )
- 日時: 2026/02/03 07:41
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第15章:深淵への選択
理事長、九条の乗る黒い車のドアが、重厚な音を立てて開こうとしていた。 夕暮れの校庭。立ち止まった何百人もの生徒たちの視線。 ハルを取り囲む「善意の包囲網」は、もはや物理的な壁よりも強固だった。
「さあ、如月君。少しばかりカウンセリングが必要なようだ。君の脳が、この素晴らしい環境に適応しきれずに、エラーを起こしている」
九条の声は、慈父のような響きを持っていた。けれど、その指先がハルの腕に触れようとした瞬間――。
校内放送のスピーカーから、プツリ、とノイズが走った。 それは、昼間の華やかなBGMではない。 あのカセットテープから聞こえたような、激しい砂嵐。そして、その奥で鳴り響く、聞き覚えのある旋律。 1986年の放課後、生徒たちが爆発の直前まで聴いていたという、あの退廃的なメロディだった。
「――っ!?」
九条の手が止まる。 周囲の生徒たちの動きが一斉に「硬直」した。 彼らの笑顔は張り付いたまま、瞳の焦点だけが微かに揺らいでいる。まるで、最新のコンピュータが未知の古いウイルスに感染し、処理速度が急激に低下したかのように。
「……如月。こっちだ」
校舎の長い影の中から、掠れた声が聞こえた。 そこには、シノがいた。 派手な登場ではない。彼はただ、そこに「最初からいた影」のように、静かに立っていた。 彼の指には、古い配電盤から引きちぎったような数本のコードが握られていた。
「シノさん……!」 「走るな。静かに、影をなぞるように歩け。あいつらの『認識』がバグを起こしている隙に、この日常の外側へ出る」
ハルは、九条の横をすり抜けた。 九条は動かなかった。いや、動けなかった。彼はスピーカーから流れる古いノイズに聞き入るように、首を不自然な角度で傾け、何かに耐えるような形相で固まっている。
ハルはシノの背中を追い、夕闇の校舎の裏手へと向かった。 そこには、あの「鎮魂の塔」の土台があった。
「カナや……ユキさんたちは、どうなるんですか」 ハルは走りながら、背後に取り残された友人たちの姿を振り返った。 彼らは依然として、壊れた人形のように校庭に立ち尽くしている。
「あいつらは、もうシステムの歯車だ。今の君には救えない」 シノの声は冷徹だった。 「救いたければ、システムそのものの心臓を止めるしかない。……準備はいいか。ここから先は、もう『夢だった』という逃げ道はなくなるぞ」
シノが塔の根元にある、赤錆びた鉄のハッチを蹴り飛ばした。 そこには、昼間の「脱出試験」で通ったはずの、あの暗い縦穴が口を開けていた。 だが、試験の時とは違う。 穴の底からは、ドクン、ドクンと、地熱を帯びた「心臓の鼓動」のような音が響いてきている。
ハルは、ポケットの中の「黒い砂」を取り出した。 砂は、今やハルの手のひらを焼き切らんばかりに激しく発光し、地下から響く鼓動と完全に同期していた。
「……僕は、あいつらを連れ戻しに行く」
ハルは、振り返らなかった。 夕日の残光が消え、世界が完全に夜に閉ざされる瞬間。 ハルは自らの意志で、暗闇の中へと身を投げた。
自由落下の衝撃。 けれど今回は、恐怖はなかった。 右手の痣が、暗闇を切り裂く青い導火線となって、ハルの進むべき道を照らしていた。
第一部:忘却の監獄編 ――完。
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.16 )
- 日時: 2026/02/03 21:38
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
ついに次は第二部です。この小説は三部構成で、今は第三部の中盤らへんを猛スピードで書き進めています。今までに書いたことないぐらいの長さになっているので頭の中がパンクしそうで怖いですが、皆さんの期待にこたえられるように頑張って執筆を続けていきます。
ついに40年前の出来事が明るみになる・・・課は皆さんの創造にお任せします。
※注 ここから先は学園ものとはかけ離れています。学園ものを読みたい方は、
後日投稿する「俺が教師で、教師はヤンキー⁉」をお読みください。
それでは、謎に包まれた深淵の中へと足を踏み入れる準備はできていますか?
ここから先の話は、今までとは一味違いますよ・・・
いってらっしゃいませ。無事の生還をお祈りしております。
第十六章 地層の底 >>17
- Re: 僕らの記憶は、その爆音の中に埋まっている ( No.17 )
- 日時: 2026/02/03 21:35
- 名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
- 参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no
第16章:地層の底
落下が止まった先は、冷たい水の底だった。 いや、それは水ではなく、数十年の時間をかけて溜まった「結露」の海だった。
「……っ、げほっ……!」
ハルは、膝まで浸かる暗い水の中で激しく咳き込んだ。 頭上のハッチから差し込んでいた月光は、もはや届かない。周囲を支配しているのは、絶対的な暗闇と、古い機械が唸りを上げるような重低音。そして、鉄が錆びる独特の、血に近い匂いだ。
「――火を点すなよ。ここでは、光は招かれざる客だ」
闇の中からシノの声が響いた。 ハルが目を凝らすと、シノは水面に浮かぶ錆びた鉄パイプの上に座り、自身の首に巻かれた包帯を締め直していた。
「シノさん……ここは?」 「1986年の地層だ。40年前の爆発で、校舎の一部が物理的に地下へ叩きつけられ、当時の空間ごと凍結された場所だよ」
シノが手近な壁を叩くと、コンクリートの表面から「パラパラ」と、あの黒い砂が零れ落ちた。 「地上の学園が『幸福な偽物』なら、ここは『捨てられた本物』だ。あの日、逃げ遅れた生徒たちの記憶が、この闇の中に充満している」
ハルは、水面を掻き分けて一歩を踏み出した。 足に触れるのは、泥だけではない。 水底に沈んでいるのは、大量の「1986年」の断片だった。 誰のものとも知れない使い古された上履き、当時のアイドルが微笑む色褪せた雑誌の切り抜き、そして、電池の切れた古いウォークマン。
その一つひとつが、かつてここに「生活」があったことを無言で訴えていた。
「……あ、あれ」
ハルは、暗闇の奥に揺らめく「影」を見つけた。 それは人影だった。 壁際に並んで座り込んでいる、三人の生徒。 彼らは動かない。まるで石像のように静止したまま、一点を見つめていた。
ハルが近づこうとすると、シノがその肩を強く掴んだ。 「よせ。あれはもう『人』じゃない。あの日、爆風の中で意識を焼かれ、出口を見失ったまま定着してしまった思念の殻だ」
「殻……?」 「彼らは自分たちが死んだことさえ気づいていない。ただ、40年前の11月14日の放課後を、永遠に待ち続けているんだ」
ハルは、その生徒たちの顔を覗き込んだ。 その瞬間、全身の血が逆流するような衝撃が走った。
「……そんな。これ、アキトじゃないか」
そこにいたのは、阿久津アキトに瓜二つの少年だった。 だが、その制服の胸元にある名札には、別の苗字が刻まれている。 『阿久津 誠一(せいいち)』。
「アキトの……父親? それとも……」 「この学校の生徒はね、如月。適当に選ばれているわけじゃない」 シノの目が、闇の中で鋭く光った。 「40年前の事件に関わった者たちの、血縁や『波長』の近い者が、無意識のうちにここへ呼び寄せられているんだ。……君の父親だって、例外じゃないはずだ」
ハルの右手の痣が、呼応するように熱を帯びる。 その熱は、単なる痛みではなく、何十年も前に誰かが感じていた「怒り」そのものが流れ込ん込んでくるような感覚だった。
不意に。 静止していたはずの「殻」の一人が、ピクリと指を動かした。 カチ、カチ、カチ……。 あの監視員と同じ靴音が、水底から響いてくる。
「――シノさん、あいつらが動いてる!」 「マズいな。君の痣が放つエネルギーが、彼らの『渇き』を呼び覚ましてしまった」
暗闇の中で、一斉に無数の目が開いた。 それは青白い燐光を放ち、飢えた獣のようにハルを見つめていた。
「走れ、如月。このエリアの『11月14日』が動き出した。捕まれば、君も40年前の放課後に閉じ込められるぞ!」
ハルは、膝まである水を蹴立てて走り出した。 背後からは、何十人もの「かつての生徒たち」が、骨を鳴らしながら追いかけてくる音が聞こえる。 それは、脱出試験よりもはるかに生々しい、死の追いかけっこだった。
ハルは走りながら、確信した。 この地下迷宮は、単なる廃墟ではない。 ここは、誰かが意図して作り上げた、**「終わらない1986年」**という名の巨大な檻なのだ。

