複雑・ファジー小説

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日時: 2017/11/09 22:30
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: mWBabtxN)
参照: https://kakuyomu.jp/works/1177354054882859776

タテナオシマス

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.17 )
日時: 2017/05/03 22:21
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: p6e1/yUG)

十六:柱時計

 銃声と共に射出された鉛玉は、過たずクロイツの胸に食い込んだ。

「な、お、まえ、は……」

 肺腑に空いた穴から血と空気が漏れ出す。ひゅうひゅうと隙間風のような音が微かに聞こえることに戦慄し、上げた声がまともに結像しないことに恐怖しながら、クロイツは自身の胸に空いた風穴を掻きむしった。
 物は人の身で死ぬことはない。肺に穴が開こうが心臓を抉り出されようが、それらは所詮人を模倣しただけの仮初め。いっそ臓器が全て切り取られようと、その身に流れる血が一滴残らず流れ出ようと、心が折れぬ限りそれが物としての死とは直結しないのだ。
 しかし、彼らはかの好奇と論理の徒たるアーミラリのように己を理解してはいない。人の身の傷で死なぬことと、傷を負っても平然としていられることがイコールとはならないのである。
 ソファにぐったりと寄りかかり、ただ息を荒げるばかりの守長。対するは、自動拳銃を手にした柱時計。銃口をぴたりとぶれもなく腹に向け、空いた手をポケットに突っ込み、急襲せし男は怖気立つほど穏やかに笑う。

「花屋が居なくなってそのまま枯れ果てるだけかと思えば。随分と豪勢に献花したものですねぇ。墓参者の居ない献花台、数にして三百二十八——まるで魔法じゃないですか」
「何が、言いたい……! ぐ、う゛ッ」

 恐怖を押し隠して呻いたクロイツの腹に、銃弾が二発、続けざまに食い込んだ。柱時計の手に握られた拳銃が、微かに硝煙を吐き出している。些かの動揺も躊躇もない佇まいに、死を何千と見てきたはずの男の声帯は職務を放棄した。
 一歩。二歩、三歩。焦らすように歩み寄り、クロイツの差し向かいに腰を下ろす。足を組み、尊大に寄りかかった。粋がるように見えないのは、確かな余裕を彼が持つ故か。
 静謐を柱時計の振り子と十字架の喘鳴が打ち払う。嫌な緊張が、苦痛に滲む脂汗に混じって冷や汗を伝わせた。

「僕の知り合いに魔法使いはいないんですがねぇ。あの花屋以外は」
「どうか、な……」
「んんー? まさか花屋以外の誰かがあれだけ大量の花を仕入れたって言いたいんですか? 例えばスプラやセンバが、例えばリペントが、それを出来るとでも? ちょォっと信じがたいですね。彼等が花なんて可憐で何の商業価値もないものに腐心するとは思えませんねぇ」
「貴様の……与り知らぬものの方が、多いと思うが……ぐァッ!」

 脾臓に弾が食い込み、ガラステーブルの上に血が飛び散る。苦鳴を上げ、増えた痛苦に身を捩る守長へ、柱時計は何一つ揺るがない。怒りも喜びも、勿論迷いなど見えるべくもなかった。ただただ、冷徹に穏やかに、苦しむ男を見下ろすだけだ。
 チカチカと音を立てて揺れる振り子、それを保護するガラス蓋に手を当てて、思案を少し。面白いことを思いついたように、くつくつと喉の奥で笑う。

「物殺しですよね?」
「————」
「否定しないならそうですね。ええ、分かりましたどうも。なら構いません」

 それならいくらでもやりようはある。そう言って、柱時計は外套の内ポケットに手を挿し入れる。取り出したのは黒く平たい直方体。怪訝そうにそれを注視していたクロイツは、その蓋が開かれて中身が見えた瞬間、差し向かいの男が何をする気かを悟った。
 蓋の開いた黒い箱、その中に収められていたのは、未使用の注射器と透明な薬液の入ったアンプルケース。薬瓶には『Inferinon-A 1mg/1μL』のラベルが貼られている。
 止めろ。懇願の響きを込めてクロイツが声を震わせた。無論柱時計が耳を傾ける様子はなく、手袋を付けた手が勿体ぶった仕草で注射器を手に取り、アンプルから薬液を吸い上げる。逃げようにも足は言うことを聞かず、それでなくとも四発の銃弾を身に喰らってはまともに身動ぎすることさえ難しい。
 組んでいた足を解き、立ち上がる。手には注射器。

「貴方が“粗悪品”になれば墓場の維持は立ち行かなくなる。そうなれば、他の墓守達が再び物殺しへ助力を求めるでしょう。何しろこの枯れ果てた地にわざわざ足を運んでまで献花しに来てくれた、親切な親切な物殺しですから。来ますよねぇ」
「止めろ、それは、それだけは……!」
「言われて止めるほど僕の存在定義は脆くないんですよ。残念」

 人間ならばその顔は笑っていただろう。とてもとても穏やかに。しかし男の頭は表情なき柱時計であった。顔色など読むよすがもない。
 わざと革靴の底を床に打ち付け、響く足音で焦燥を煽りながら、男はクロイツの背後へと回り込む。慰めるように手が数度肩を叩き、力任せに強く押さえ付けた。抵抗されることを懸念したのだろうが、かの十字架からその気力はとうに失われている。
 細い針が、肩口に近づき、刺さる、
 直前。

「っらあッ!!」

 裂帛の気合を掻き消す轟音と共に、シャベルが飛んできた。

「おっと」

 土を掘り返す為に尖らせた先端は意図を持って柱時計の首を狙う。しかし、それをまともに喰らうほど魯鈍ではない。素早く彼は上体を逸らして初撃を避け、無音の内に飛んできた第二撃——先の尖った石を、数歩その場から引き下がることでいなした。
 流石にこの状況でクロイツに構う暇はなかったのだろう。柱時計は手にしていた注射器を外套のポケットに突っ込み、シャベルが飛んできた方へ意識を向ける。投げ込まれた鈍器によって叩き割られ、ぽっかりと大穴の空いたガラス窓。その桟に、白手袋を付けた手が掛かる。
 足を掛け、一息に乗り越えるは中肉中背の男。黒く長い法衣を纏い、フードを目深に被った下からは、線香の煙が獣の吐息の如くに渦を巻く。
 ——フリード。墓守の帰還である。

「捉えた……」

 あの貼り付けたような丁寧さは、今や彼の静謐に押し込められていた。
 その様を見た柱時計の喉から、愉快げな笑声が湧き上がる。何某かの真理を覗き暴いたような無邪気さが、そこにはあった。

「貴方でも構いませんよ? “粗悪品”になるのは」
「私の役目はまだ果たされていない」
「そうでしょうねぇ。でもこれ、そんなことお構いなしですから」

 男性らしい無骨な手が、ぽんぽんと軽く外套のポケットを叩く。ゆったりとしたその所作を隙と見たか、フリードが窓の桟を蹴り、一散に柱時計へと躍りかかった。さりとて黙って飛び掛かられるわけもなく、身体を少し右にずらして避ける彼に、しかし墓守は追い縋る。
 ソファの背を蹴り、空中で方向を転換。右手で柱時計の左肩を掴み、力の限り引き摺り倒した。投げ出された柱時計の左手と腹はそれぞれ革靴の踵と膝で押さえ付け、空いた手が首を掴んで締め上げる。全ては一瞬、恐るべき静けさの間に、フリードは彼の生殺与奪を掌中に収めてみせたのだ。
 これは予想外。さも楽しそうに称賛する柱時計。墓守はあくまで冷徹に、首を絞める手に力を込める。声帯を潰され、僅かに呻き声が漏れた。

「無辜の物を貶め、人を辱めて何とする?」
「馬鹿な事聞かないでくださいよ墓守。それが僕なんです。外法と外道の限りを尽くす物として僕は命を得、その存在定義は拒絶されなかった。だから僕は僕が知る生まれた理由に従って生きてきた。これまでも、今も、これからもそうです。行動の原理と理屈は君達と何ら変わりありませんね」
「ならば生かしておけない」

 フリードは本気だった。柱時計にもそれは分かっていた。
 彼は墓守として最年少である。しかし、それは何も彼がひよっ子の丁稚であることを意味しない。何千何万の死と真正面から相対し、時に溶け崩れた肉塊をシャベルで掻き集め、誰も来ない墓を丹念に見回り、無数の死せるもの達全ての記憶をその身で観測し続ける、ひとかどの死の番人なのだ。
 死を貴び、同時に生を敬う物。故にこそ彼に躊躇はない。生死の境界を荒らし、墓地の安寧を妨げる物に、この墓守はただ一瞬の容赦もしない。
 いよいよ首に掛ける力を込め、その頸椎を圧し折ろうと体重を掛けるフリード。一方の柱時計は、人の身をじりじりと破壊される痛苦に押さえ付けられた身を緩く捩りながら、しかし焦燥も恐怖もなかった。泰然として己を還さんとする物を観察するだけだ。

「手慣れてますねぇ。まるで何度もやったことがあるみたいですよ」

 掠れた声が呟く。墓守は取り合わない。
 しかし次に発せられた声で、彼の手はぴたりと止まった。

「慣れた貴方は僕の棺桶に何を手向けてくれるんですかねぇ?」

 これが、かの物殺しの少女ならば。考える時間はあれど、躊躇いなく答えられただろう。
 しかし墓守には何一つ回答が用意できなかった。人が持ってきた手向けの品を受け入れることはあっても、彼自身がそれを用意したことは一度もない。手向ける物の名も、その意味も、考えてこなかったのだ。命を得る前、彼が所有者であった者から与えられた唯一の意志は、曖昧な義務感——「言われて来た」の言葉からして、ある種の強迫観念——だけだったから。
 そう。まるで機械仕掛けの玩具のように。彼は墓地と言う場にあって、煙のように儚い責任感に駆られ動いていただけなのだ。そこに深い意味を求めることはなかったし、その必要もなかった。今までは。
 だが。此処で柱時計を屠りなば、その葬送は彼の仕事だ。墓守として詰んだ経験はその流れの中で送る品に意味を求めていた。しかし、彼にはそうした意味を構築する土台がアイデンティティの内に存在しない。手向けの品は彼にとって、単に物でしかないのである。
 叩き付けられた問いに、フリードが選択したのは沈黙と硬直だった。
 思考の間隙に足を取られ、身の竦んだ物など脅威ですらない。柱時計は悠々と墓守の拘束から逃れ、けらけらとさも楽しげに嘲笑う。

「故人の感情も考えずに墓守が務まると? 僕だって死にゆく人の言葉の意味くらい考えるのに」
「……黙れ」
「君は人と流暢に言葉を交わし合えるだけで、本質は“粗悪品”と何ら変わらないんですよ。やっていることの意味も分からず、託されたものの意味も考えず、ただただ身に沁みついた「やらなきゃ」なんて強迫観念だけで動くような物が、果たして人のように在る物と言えますかね?」
「黙れェエエッ!!」

 フリードの選択は、ことごとく愚かであった。
 相対する男の声を振り千切るように喚き、這うような低姿勢で柱時計へ飛び掛かる。その手が薬液を吸った注射器を持っていることにも気づかず。
 その愚かしさ故に、外で事の顛末を見ているだけだったキーンが、動かざるを得ない状況に落とされる。
 即ち、先程割られた窓を乗り越え、二人の間に割って入ること。
 即ち、手負いの獣の如きフリードを肘打ちで黙らせ、死角から墓守の喉元を狙う注射器を叩き落すこと。
 ただの一瞬で、気配もなく場の主導権を握った包丁を、二人の物は愕然として睨んだ。包丁もこれを睨み返す。
 鞘のない、欠けた刃がぎらついた。

「貴、方は……」
「馬鹿馬鹿しい。個人的な感情に振り回されて暴れ回るなど」

 肘で打たれたダメージが予想外に大きかったのか。胸を押さえ、奄々として問うフリードへ、キーンは心底呆れたように吐き捨てる。そして刃の向く先を、ゆっくりと柱時計の方へ転じた。抜け目なく先程叩いた手に意識を向ける。床に落とされたその指先が、針の折れた注射器に触れていた。
 お前もだ、と。呆れの色はそのままに、殺気を含める。

「身を引け。俺を相手にしたくなければ」
「貴方なら僕を還せると? 大した自信ですねぇ」
「柱時計風情が小手先の策を弄した所で、俺にとっては払う露にもならん」

 殺気の鋭さを帯びつつも、自若として余裕のある声音である。適当に力の抜けた、しかし何時でも戦闘態勢に移行できる体勢の取り方も相俟って、力量差は明らかであった。
 故にこそ、柱時計は素直に忠へ従った。触れていた注射器から手を離し、後ろで組む。足は胡坐をかき、即座には戦闘態勢にも逃走態勢にも移れないであろう。完全に戦意のない証である。包丁も納得したらしく、一挙動で立ち上がった。
 見下ろしてくる刃。検分するような視線を真正面から受け止め、柱時計はやおら言葉を綴る。

「クロッカーです」
「ケイだ」
「なるほど。覚えましたよ」

 お前も覚えておくがいい。次はどうなるか分からない。
 そんな脅しを言外に秘めて、柱時計——クロッカーは組んだ手を解いた。床に手を付いて腰を上げ、彼は靴の踵で注射器を踏み潰すと、その足で包丁の横をすれ違う。
 キーンにしか聞こえない声が、底知れぬ好奇と愉悦を含んでいた。

「次会う時が楽しみです」

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.18 )
日時: 2017/05/21 01:02
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: p6e1/yUG)

十七:約束

「お、何だか面白いもの持ってるねー。それ何?」
「雇用契約書です。ゾンネ墓地でアルバイトすることになったので」
「人物共同墓地かー。人手が足りてなくて仕事が片付かないって愚痴ってたもんね。いいじゃんいいじゃん、あそこの墓守さん皆優しいから、アザレアちゃんでも安心だよ」

 シズの店で頼んでいた服の完成と、ゾンネ墓地から一日遅れの雇用契約書が届いたのは、同日。アザレア達がゾンネ墓地を訪れた三日後のことであった。
 街の時は緩慢に刻まれるが、シズ達はその点比較的朝が早い性質らしい。アザレアが『営業中』の札の掛かった扉を開けた時、店内に掛かった時計の時針は九と十の丁度真ん中を指していた。
 完成と言っておきながら、蓋を開けてみればまだ調整を残していたらしい。彼方此方をひっくり返したり覗き込んだり、仕付け糸を切ったり付け直したりと、縫製士——ピンズの手元は未だ忙しなく動く。その様を横目に、アザレアはシズの用意してくれた椅子に腰を落ち着けた。
 すかさず差し出されたティーカップを受け取り、礼の代わりに目で会釈して、アザレアは裁ち鋏に問う。

「お知り合いですか? ここから墓地は遠いでしょ」
「遠いけど、あそこが還された物を受け容れてくれる最寄りの場所だからねー。それに、墓守さんが花を仕入れに来てた花屋さん、仕立て屋の隣にあったもの」
「えっ」
「そんな怖い顔しないでアザレアちゃん。店が並んでることなんて普通のことでしょー? ただ、とてつもなく不幸で哀しいことが、偶然ぼくの仕立て屋の隣で起こっただけだよ。ぼくはそんな不幸な出来事を皆で分け合って、皆で薄めて溶かす為に葬儀に参列した。それだけ」

 その時に墓守と話す機会があったから、顔を見知っているんだ。
 シズは呟くようにそう続けて、自分の為に注いだ紅茶の杯から立ち上る湯気を吹く。理屈はシズ自身にも分からないが、そうすれば熱い湯が冷めるという結果だけは彼の中にあった。果たして乱れた渦を巻く白煙を、裁ち鋏はぼうっとした風に見上げる。
 物殺しを前にして危機感や恐怖の欠片もない。フリッカーもそうであったが、物とは皆彼のように達観して構えているものなのであろうか。悶々と考えに耽りながら含んだミルクティは、砂糖が入っているにも関わらず、酷く苦い味がした。
 思わずしかめそうになった表情を何とか取り繕い、もう一口。苦味は随分と薄れていたが、それでも消えそうにはない。舌の上にいつまでもこびり付いている。振り払うように、アザレアはシズへ話題を放った。

「やっぱり、悲しいことですか? 何かが死ぬって」
「……そうだね」

 少しの間は一体何を意図したものか。
 限界まで押し殺した震えを、しかし三日間様々な物と話したアザレアは聞き取れるようになっていた。故に彼女は目を伏せてしばし考え込み、結論を出す。
 ——畏れている。隣近所という日常と隣り合わせの場所からもたらされた、あまりにも凄惨な訃報に。そして、それが近く己に降りかかるかもしれないことに。死そのものではなく死への道行きを、もっと言えば突然降って湧いてきた危難と言う名の澱を、彼は畏れているのだ。
 また一口紅茶を啜る。やはり苦い。
 淹れ方を誤っているのかもしれない。ぼんやりと苦味を心に引っ掛けながら、アザレアは努めて真面目に、けれども朗らかに口角を上げてみせる。

「棺桶にはアマリリスを一杯、でしたっけ」
「! 嬉しいなぁ、憶えててくれたんだ」
「はい。お願いはなるべく叶えようと思ったんです」
「珍しいなぁ。物殺しの人って割と問答無用な人が多いんだよ」

 頬杖を突き、紅茶を啜りながら、裁ち鋏の意識は過去を視ていた。
 命を得てから今日まで五十七年。その長い年月の中で彼が見てきた物殺しは——かの芝刈り機の若者を全員数えるならば——十人ほどである。その誰もが、お世辞にも物の事情を考慮しているとは言い難い乱暴さで物を還していった。命を得た際に持っていたはずの本懐を遂げられぬまま、足掻くことも許されず還された物も数多い。
 まだ死にたくない。まだやり残したことは山ほどあるのに。逃げ場も頼るべき人や物も亡くし、嘆くばかりの物たちの声を、彼は少なからず聞いてきている。慰めることも出来ずに黙るしかなかった心苦しさは、いつ思い出しても頭がくらくらするほどだ。
 気を遠くし、取り落としかけたティーカップをそっとソーサーの上に置いて、シズは遠い昔に寄せていた意識を現代に引き戻した。

「それならさ、アザレアちゃん。ぼくのお願いも聞いてくれる?」
「私が出来る範囲で、なら」
「大丈夫。きっと簡単だから」

 そう言って、口を一瞬噤み。
 意を決したように、告げる。

「今夜、来ておくれよ。十時過ぎに」

 それが何を意味するか分からないほどアザレアは愚鈍ではなかったし、臆病でもなかった。平静を取り繕い、ごく自然に、けれども何かを振り千切るような勢いで紅茶の残りを飲み干すだけだ。まだ熱い紅茶が喉を焼くけれど、それを彼女が気にした様子はない。
 ふう、と大きく決心の溜息を一つ。息を肺腑に吸い込み、答えた。

「それがお望みなら、必ず。十時過ぎに、此処へ」
「うん。ありがとう」

 震えのない返答が一つ投げ返される。
 同時に、作業に集中しきっていたピンズが頭を上げた。アザレア、と通る声で物殺しを呼び、はぁいとばかり明るく応対した彼女へ、先程まで調整を繰り返していた服を両手に広げる。出来た、と言いたいらしい。
 しかし、その詳細をアザレアが見て取るより早く、縫製士はわくわくしきりな声で言い渡すのだった。

「ねぇ、ちょっと着てみてくれない? 絶対似合うから!」
「え、えぇ、はい。大丈夫です」

 戸惑いがちにアザレアが返答した途端、シズは作業室から蹴り出された。
 此処からしばらくの間は男子禁制である。いくら服の型を決めて布を裁ったのが彼とは言え、女性の、しかも女子高生の着替えを呑気に見ていて許されるはずがない。尻を蹴らなくても、とぶつぶつ文句を言いながらも、裁断士は素直に作業室を辞する。
 ——シズが再び作業室へ入る許可を得られたのは、それからたっぷり十分も経ってからだ。

「え、あ、あの、めっちゃ恥ずかしいです……!」
「大丈夫大丈夫。すごく似合ってるわ!」

 黒いインナー、しっかりとした生地の白いブラウス、ブラックウォッチ柄のやや短いベスト。七分丈の黒のズボンは裾や尻ポケットにチェック柄を部分使いし、また諸所にツツジの花の刺繍が施されている。足元は編み上げのブーツで固め、両手には革の手袋を着けて、戦闘時には腰からナイフホルダーを提げる格好だ。髪は高い位置で一まとめにされている。
 比較的女の子らしい恰好を好むアザレアとしては、このボーイッシュな服装はどうも恥ずかしいらしい。顔を真っ赤にして姿見とピンズとを交互に見る物殺しへ、しかし縫製士はひどく楽しげだ。両肩をばしばしと激しく叩きながら、ピンズは姿見に映る女子高生を見ては嬉しそうに笑う。
 部屋の中の騒ぎに気付いて入ってくる兄。それに気付いた妹が、ほら見てとばかりアザレアの肩を掴んで百八十度ひっくり返す。耳まで赤くして顔を両手で覆う物殺しに、シズは穏やかに笑いかけるばかり。

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいんじゃない?」
「だ、だってこんな服着たことない……」
「そう? そんなことないと思うけどな」

 だってきみは美人だもの。何だって似合うよ。
 そう言いかけて、彼はそれをそっと胸の奥にしまい込んだ。彼女を称賛するに余計な言葉は必要ないと考えたのだ。言おうと思えば歯の浮くような褒め言葉も紡げたであろうが、どんな言葉を並べても彼女の前では全て虚飾になるだろうと、彼は心の内で直感していた。
 結局、よく似合っていると当たり障りのないことだけを口にした裁断士へ、縫製士はやや不満げ。もっと何か言うことはないのか、と憤慨したように責めつけられ、長く長く沈黙した後に、シズはようやく一言だけ綴った。

「きみに作った分が一番しっくり来るね」
「!?」

 驚いたのはピンズである。
 言葉もなくその方を向いた妹は、ドアに寄りかかり、辛そうに床を見つめる兄の、悲愴な佇まいに二の句すら失った。
 対する兄は、一度言葉にして吹っ切ったからであろう、饒舌に言葉を編み上げていく。

「完成品を着てもらった時にね、何となく“違う”っていつも思ってた。勿論フィッティングが悪いとか技術的な問題じゃなくって、全体的なデザインとかシルエットとか、色んな小物も含めた雰囲気の問題でね。ぼくは何時だって全力で服を仕立てているし、お客様だってとても満足してくれたけど、ぼく自身が納得したことってないんだよ」
「兄さん」
「でもアザレアちゃん。断言する。きみに仕立てたその服は、今までで一番満足な出来だよ。きみが元から持ってる雰囲気にぴったり当てはめられたんだから」

 もし彼が人間なら、その顔は笑っていただろう。
 されど、そこには今や布を裁てぬ鋼の鋏が付き立っているだけだ。

「だからさ、自信持ってアザレアちゃん。よく似合ってる」

 物殺しは黙ってはにかんだ。
 笑えぬ物の分まで笑うように、精一杯。

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.19 )
日時: 2017/05/21 00:25
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: p6e1/yUG)

十八:形見

 ——間も無く月の原、月の原駅でございます。
 ——お忘れ物にご注意下さい。

 ごとりと一度大きく揺れ、ぴたりと示し合わせたような正確さで汽車が駅に停まる。誰もがアナウンスを聞き流して思い思いに時間を潰す中、古い回数券をポケットに秘めて座っていたアザレアは、一人月の原駅へ降りるべく座席を立った。共に乗り合わせた数人の物の内、一人が不思議そうに彼女を見るも、それには気付かない。
 予定時刻まで滞在するのだろう、扉を開け放したままその場に居座る汽車を背に、ホームへ立つ。
 老朽化の進んだホームは閑散とし、降客は誰一人いない。それでも電子マネーに対応出来る改札機が置いてある分、本物の無人駅よりはましだろう。尤も、彼女が雇用契約書と共に墓守から預かったのは、手動で切らなければならない旧式の切符であったから、彼女の足は改札機の傍に建てられた駅舎の方へ向くのだが。
 果たして駅舎で待っていたのは、改札鋏を手にした制服姿の男。五十代前半ほどか、ひょろりとした体躯の首から上は、使い込まれた懐中時計に成り代わっている。竜頭(りゅうず)の上にひょいと鉄道員の制帽を乗せた彼は、差し出された回数券をじっくりと検(あらた)め、アザレアの顔を同じだけ眺め回したかと思うと、重々しく頷いて鋏を入れた。端の方に三日月型のミシン目が入ったそれを少女の手に返し、男はやおら身振りを始める。
 アザレアを指差し、戻して、両手の人差し指で十字架を作る。それもすぐに戻し、右手の人差し指を真っ直ぐ横に動かして、最後に小さく首を傾げた。彼独特の手話のようだ。

『あなたは 墓地へ 行くのか ?』

 読みにくい意図を何とか汲み取って、アザレアは首を縦に振る。そして右手で耳を指し、小刻みに秒を刻む文字盤をまっすぐに見た。声は聞こえるかと問うたのだ。
 男はアザレアの身振りに黙って頷き、口と意識する所に広げた手をかざして数度開閉、首を横に振る。話せないだけだと伝えたいらしい。

「それじゃ、私は話します。ゾンネ墓地が此処から最寄りと聞いているので此処で降りたんですけど、合ってますか?」
『合っている 何故 墓地へ 行くのか ?』
「アルバイトです。受入所で、書類整理の」
『行き方は 分かるか ?』
「此処から墓地は見えると聞いています。分からなかったら駅の鐘を五回鳴らせば迎えの人が来ると言っていました」
『恐らく 迎えは かなり 遅くなる あなたが 良ければ わたしが 送ろう』
「それは嬉しいんですけど……駅舎を勝手に離れるのは良くないんじゃないですか?」
『構わない 此処に 鉄道で 来る人は 少ない』

 少しだけ肩を落とす様に、アザレアは彼が手振りで伝えた以外の感情を読む。
 要するに、この五十路の鉄道員は、久方ぶりに訪れた降客へお節介を焼きたいのだ。寂れた場所で人を待つ侘しさは彼女も良く知っていたし、知っていて無下に出来るほど薄情者でもない。長く生きたであろう彼の経験が良いと言うならば、無理に抗弁することもないだろう。
 故にアザレアは黙って頷き、それではと頭を下げた。途端、沈んでいた雰囲気があからさまに上向き、思わず笑声が溢れかける。
 では待っていてほしい、と手振り。頷く彼女へ丁寧に頭を下げ、男は背後の棚をごそごそと漁ったかと思うと、一枚の名刺と金属のホイッスルを手に駅舎から出てきた。動きを目で追うアザレアへは名刺を手渡し、流れるようにホームの傍へと彼は立つ。出発の合図を待つのだろう。その間に渡された名刺へと視線を落とした。
 夜色の地に金の星と銀の三日月、黒いシルエットの駅舎と汽車。裏は同じ色の地にシルエットの杉並木とフクロウ。公的なものとして提示出来るかはともかく、中々洒落た名刺である。生真面目そうな風体や態度とは裏腹の茶目っ気に少し笑いながら、流麗な手書きの字で書かれた名を見た。

 ——“月の原駅 駅長 オンケル”

 名と肩書きを確認したところで、ホームの方から柔らかく高いホイッスルの音が響く。思わず顔を上げると同時、ゆっくりと汽車は人の街へと向かって走り出した。
 時刻は午前十一時五十六分。雲一つない良い晴天の下を、遅延なく汽車は発つ。


 昼下がりの人気のない荒野をゆっくりと歩いて十五分。二人を出迎えたのは、杖を突き歩くクロイツだった。

「オンケル!? 駅はどうしたんだ」

 開口一番ぶつけられるのは驚きと呆れの声。
 無理もないだろう。たった一人の駅員が仕事を放り出しているのだ。リアクションの面白さにかまけて職務放棄をさせたことをアザレアは今更ながら恥じ、自分のせいだと頭を下げる。しかしオンケルはそれを留め、ゆっくりと、二人共に分かるよう身振りした。

『あそこを この子 一人で 行くのは 危ない あなたは 撃たれたと 聞いた から わたしが 此処まで 一緒に来た』

 物殺しの視線がクロイツに向き、オンケルがそれに続く。黒十字は黙したまま。
 しかし、漂った静寂は守長が自ずから破る。

「彼女を盾にされると弱いな。しかしオンケル、次はなしだ」
『そんなに 邪険に しなくても』
「する。君はあの駅唯一の駅員だよ。君が仕事を放棄したら駅が立ち行かなくなる」

 しゅんとしてしまった。正論なだけに言い返すことも憚られる。クロイツも当惑しているらしい、腕を組み、唸り声を上げて立ち尽くしてしまった。
 堪らずアザレアが話題を変えようとして、オンケルが動く。ガラス蓋で覆われた文字盤を交差させた両手で覆う所から、その“言葉”は長く続いた。

『とても悲しい あの時 も あなたの時 にも わたし は 何も 出来なかった この 物の街から も 人の街から も 離れた 此処で あなたたち の 傍に 一番早く 来られるのは わたし なのに わたしは 気が付きも しなければ むしろ 嬉々として あの 時計を 此処へ 招き入れて しまった』
「そんなこと——」
『わたし も 長く 生きた 物の 端くれ この子が 物殺し であること は 分かっている あの子と 同じように 元の世界へ 帰り たがっていること も 分かる だから 助けに なりたかった あの道の “通り方”を 知っているのは わたし だけ だから わたしが この子と 一緒に行く 限り 此処へは 気を休めて 行ける だろう から』

 どうして。
 思わず零した物殺しの呟きを、彼は聞いたか否か。彼女の方に身体を向けて、オンケルは語る。

『悲しい ことを 言わないで あなたには わたしと 違って 帰る場所 も 帰りを待つ人 も ある し 作ること も 出来る あなたが それを 無くしたとき 亡くしたとき きっと 悲しい だろう ? あなたに 残された 場所 や 人 を わたしは 悲しませたくない し 此処で 取り上げてしまいたくも ない から』
「オンケルさん」
『忘れないで あなたには これまでも これからも 沢山ある 辛いこと も 悲しいこと も 雨のように 降りかかる だろう けれど 嬉しいこと も 楽しいこと も あなたには 得る 権利が ある 今も これからも あなた らしく 生きて いい 権利が ある 陳腐なことを 言っている けれど それは とても 大事なこと だから』

 忘れないで
 こめかみを指し、己の胸を指して、かぶりを振り。オンケルは念を押すように伝え、唖然とする少女の頭をぽんぽんと軽く叩いたかと思うと、はたと気付いたように頭を上げた。みるみるうちに先ほどまでの静謐が吹き飛び、あわあわとその場でおたつき、頭を抱え始める。アザレアは完全に置いてけぼりだ。
 ぽかんと間抜けた表情のアザレアに、喉の奥で懸命に笑いを堪えながら、クロイツが助け舟を出した。

「慌てているんだよ。娘のような年頃の女の子の頭を撫でたから」
「へ……?」

 そう言えば、とアザレアも顔を赤くする。二人揃って慌てだしたところで、クロイツの笑いの堰はとうとう決壊した。


 ——結局、アザレアの勤務初日が始まったのは、それから三十分も経ってからのことである。
 案内された部屋は、書斎のすぐ隣にある保管庫。数十年前の古いものからつい数日前に書かれたような新しいものまで、新旧の段ボールが雑多に放り出されている最中である。かろうじて年別に仕分けはされているものの、その年の並びはまるで整頓されておらず、入れられた名簿もばらばらだ。これではしばらく仕事にも事欠くまい。
 雑然と散らかった紙の束にやや辟易しつつも、アザレアはざっと見た中から一番新しい年代のものを選んで仕事に取り掛かる。初日だからだろう、クロイツもボール箱を挟んだ差し向かいに腰を下ろし、慣れた手つきで紙を捌き始めた。
 まず人と物とを仕分け、月日順に並べ替えてインデックスを付け、名前順に揃えてファイルに綴じる。母数が多い分煩雑ではあるが、難しい作業ではない。話す余裕が出来るまでにも、時間はそう掛からなかった。

「あの」
「うん?」
「月の原駅から此処まで、徒歩五分で着くって言ってましたよね? 今日来てみたら十五分掛かりましたよ」
「その件に関してはすまない、大事なことを言い損ねていた。だが決して嘘を言ったわけではないんだ。普通は月の原駅から此処まで、確かに五分で来られる。初春の荒野に蜃気楼や逃げ水が立つこともない」

 仕分けの終わった書類に大型のパンチャーで穴を開けながら、クロイツはやや申し訳なさそうな声。
 アザレアは名簿の名前に目を落としたまま、語尾を上げて疑問を呈する。

「なら、どうして?」
「駅舎と此処の間に誰かが悪戯をしているようでね、たまに景色が惑う。建物との距離がいつまでも縮まらないように見えたり、逆に遥か遠くにしかないはずのものへ数歩で近づけるように見えたり、時にはあるはずのものを消したり動かしたりもしてしまう。実際に地形が歪んでいるわけではないから、慣れてしまえば然程心配するものでもないが」

 奴(オンケル)は心配性だと笑いかけて、クロイツはすぐに言葉を引っ込めた。
 彼が提示した不安の種は、人を惑わす荒野ではない。不慣れな場を一人で彷徨う少女と、それを狙う悪意なのだ。悪意の側も幻に惑うならばまだしも、オンケルの不覚によってそれも期待し難い。ならばせめてと考えるのは珍奇な思考ではないだろう。
 ファイルの表紙を閉じて新しいボール箱に仕舞い込み、別の紙束を出しながら、守長は自嘲気味に一言。

「雇い人の一人も護れない物が守長とは。聞いて呆れるだろうな……」

 アザレアは黙したままだった。

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.20 )
日時: 2017/05/21 00:36
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: p6e1/yUG)

十九:月夜

 午後九時四十八分。
 物の街に停まる最終の汽車を降り、三日月型のエンボスが捺(お)された回数券をキップに見せた。

「月の原駅……ゾンネ墓地に行ったのかね?」
「はい、アルバイトで。書類整理するだけだから簡単でしたよ」
「ほぉ、墓守の真似事をする物殺しは初めてだの。物殺しが大抵副業を抱えとることは知っておるが」
「花屋さんとか?」
「確かに元は異世界の迷い人だがの、花屋はちと事情が違うわえ。えぇ、儂が知っとるのは人の街の宿屋で働いとったな。確か『日の出』とか言っとったか。看板が面白いで、行けばすぐ分かる」

 へぇ、とアザレアはやや気のない返事。キップの石炭くさい声を聞きながら、彼女は様々に思考を巡らせていた。やるべきこと、やりたいこと、知るべきこと、知りたいこと。手元に散らかったタスクを引き寄せ、頭の中で一つ一つ分類し、整理していく。それは昼間に散々やった書類仕事にも似て、慣れた彼女には造作もないことだ。
 キップが不審がる前に脳内を整理し、心の中で区切りを付けるように一つ柏手を打つと、彼女ははきはきと宣言した。

「ありがとうキップさん。色々と整理が付いたら、人の街にも行ってみます」
「おぉ、それがええ。無茶すんでないぞ」
「大丈夫です。無茶と無理の区別はちゃんと、ずっと前から付けてるつもり」

 清々しいほど朗らかな笑みに、キップは巧妙な嘘を見る。
 大抵、笑いながら大丈夫という人ほど大丈夫ではない。夜の物殺しに浮かぶ笑みはとりわけ信用できないし、彼女はそうした立場以前の問題である。大丈夫と言いながら無理を重ね、平気だと言いながら身を削ることに慣れきってしまっているのだ。
 しかし老成したこの物は、そこに茶々を入れることはしなかった。やおら引き出しを開け、取り出したパイプに火を入れるだけだ。
 長く薫せ、一息。煙突からやや量の多い煙を吐き出して、キップは遠いところに意識を向ける。

「これから行くのは仕立て屋かの」
「はい」
「そうか。……なら、狙うのは首ではなく心の臓じゃて」

 節くれ立った親指で二度、自分の心臓の真上を突き。重々しく忠を告げる老翁に、物殺しは黙って首肯した。誰とは言わぬまでも、それの“首”はちっぽけなナイフで切り離せるものではない。ならば、狙うのは首から続くその“先”。キップから再確認を受けなくても、十分に弁えている。
 大丈夫、分かってる。吐息のような声を叩き付け、アザレアはそれ以上の言葉を待たず地を蹴った。長く艶やかな髪を吹き抜ける風に翻し、歩き去っていくその後ろ姿を、彼はただ見送るばかり。
 幸運を祈る。呟く声は、果たして聞こえたものか。答えは互いの胸の裡に秘めたまま、夜は流水の如く流れてゆく。


 『TAYLOR SISS & PINS』の看板の下、『準備中』の掛札が下がる扉は、しかし鍵が掛かっていない。
 ノブを回して押し開けると、小さくドアベルの音が響いた。その音を聞き流し、アザレアは右腰に下げたナイフホルダーにきちんと得物が収まっていることを確認してから、そっと店内へ足を踏み入れる。古い木の床の軋みが静寂の中で大きい。意を決して少し歩を進め、店の奥の作業台へ視線を移した。
 瞬間、不安に揺れていた鳶色の双眸が、ひたりと静止。詰めていた息も、強張っていた全身も、平素に限りなく近いほど——しかし確かな緊張を残したまま——緩む。
 視線の先には、力なく項垂れて作業台に寄りかかるシズの姿があった。暗きの中で曖昧であるが、酷く困憊していることだけは少女の目にも分かる。その深い疲憊の理由は、左手に固く握り締めたアルミの裁ち鋏とその刃先を濡らす液体、そして利き手に巻かれた血の滲む包帯で、それとなくでも察せられた。
 一歩。二歩。まだ得物には触れず、歩み寄る。
 シズが僅かに頭を上げた。

「……アザレアちゃん」
「約束通り、来ました」

 声色は透徹として冷たく。まるで雰囲気の違う少女に、シズはややたじろいだようだ。ありがとうね、と動揺を隠せぬ声で呟いたきり、また俯いてしまう。アザレアは更に半歩距離を詰め、足を肩幅に開いて立った。右手が革の鞘に掛かる。
 空気は軽い緊張を保ったまま。それ以上張り詰めも緩みもせず、両者の間に横たわる。物殺しの言葉がそれを切ってしまうこともなかった。

「鋏を、置いてくれませんか」
「…………」

 酷く苦しそうな所作で、握り締めていた鋏を背後の作業台に置いた。
 もしものことがあっても、これで致命的な反撃を食らう心配は減っただろう。今更シズが生に執着するあまり暴れまわったり、物殺しに対して激情のまま危害を加えてくるとは思えないが、念を入れるに越したことはない。
 大きく一歩。両者の位置はこれで、真っ直ぐ手を伸ばせば肩に届くほど近づいた。此処まで来ればアザレアの間合いである。それを二人とも感じているのだろう、緊張の糸が僅かに引っ張られ、静寂に微細な棘が混じった。立っているだけで逃げ出したくなるような、居たたまれない空気である。
 されどアザレアの表情は欠片も揺らがない。手が鞘からナイフを引き抜いた。その刃の艶消しはされておらず、外に照る僅かな月明かりに鋭く煌めいた。曇りなき輝きは嫌でも恐怖を煽るようで、物が身震いする。
 しかし次に放たれた物殺しの言葉は、その震顫を一息に止めた。

「殺されて下さい」

 己は覚悟を決めている。
 続かぬはずの言葉を、しかしシズは聞いた気がして、はっと幽(かそ)けく息を呑む。
 彼女は己と取り交わした約束を既に履行しているのだ。ならば応えるのが彼の——仕立て屋と言う名の城を預かる、裁断士の肩書きを冠する主の——礼儀であり、不履行はシズが秘めた存在定義に対する、最大とは言わぬまでも大きな裏切りであった。
 震える手をぐっと強く握り締め、開く。そして、ずっと丸めていた背を颯爽と伸ばし、迎え入れるように諸手を広げた。
 声には最早、疲憊も恐怖もなく。いつもと同じ、危機感のない穏やかさが滲む。

「預けるよ。きみに、ぼくを」
「ええ。任されましょう」

 刃の狙う先は一点。器物と人の境界にして、物が持つ唯一絶対の急所のみ。
 余計な場所を狙う必要はない。シズは“粗悪品”ではないのだから。沼の如き恐怖に沈み込み、狂気と狂乱を精神の許容以上に詰め込まれても、尚。彼が持つ堅固な知性と理性の牙城は、崩れずに物殺しを迎え入れてくれる。ならば、足止めで与える苦痛など無駄なだけだ。
 慎重に見定め、アザレアはほんの寸秒、シズを見上げた。彼もまた彼女を見ていた。
 笑い合う。暗闇に紛れるほど小さく、けれど雑味なく。

「またね」
「お休みなさい」

 音が意味を綴り、お互いが理解を示すと、同時。
 アザレアは大きく一歩踏み込んで、耽々と狙っていた場所へとナイフを突き出した。鋭い切っ先は寸分の狂いもなく心の臓へ吸い込まれ、鈍い音を立てて男の薄い胸板を突き破る。しかし、真に切り離すべき場所はもっと奥にあるようで、シズが苦鳴を零した。
 押し殺された悲鳴に、思わず悪寒。ぐっと奥歯を噛み、アザレアは左手を柄の頭に添えて、力の限りナイフを押し込んだ。“粗悪品”を還した時のあの感覚が、分厚い手袋越しにすら生々しく感じられる。嫌な汗が額に滲んだが、それでも手を引くわけにはいかない。
 左手を一瞬柄頭から離し、勢いよく叩き付けた。その衝撃がどうやら決定打になったらしい、ガラス板の割れる音に似た、小さくも高く重い音が物殺しの耳に届く。これも既に聞き覚えのあるものだ。
 ただ一つ——違うところが、あるとするならば。
 人の身と物の頭を切り離されて命を喪ったはずのシズが、それでも動いたことか。

「ぇ……」

 亡羊とした手付きで虚空を数度掻き、探るようにアザレアの肩に触れて、傍に引き寄せる。驚き、訝る物殺しをよそに、それは少女の華奢な肩をほんの一秒ほど抱き寄せていたかと思うと、要の糸を切られた操り人形の如く、一気に力を失った。
 くしゃり。そんな擬音が聞こえんばかりに脱力した体(てい)で、床に崩折れる裁ち鋏。後を追うように座り込み、アザレアは倒れこんだ物の肩を掴む。まだ体温の残る人の身が動くことは、最早ない。
 理性ある物でさえ、その死はひどく呆気ないものだった。

「シズさん」

 二度と返らぬ物の名を、それでも彼女が呼んだのは。

「……シズさん」

 怖気立つほどの命の軽さが、その背に重く圧し掛かるから。

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.21 )
日時: 2017/05/21 00:20
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: p6e1/yUG)

二十:葬列

 冗談のような快晴だった。
 睡蓮と蝶の彫り模様が入った人間大の杉の匣、もとい棺桶。燃えやすいようにとの配慮であろうか、模様と称して可能な限り肉抜きされ、油を染み込ませたその内には、痩せた男の亡骸が横たえられている。
 上等なシャツに黒いベストとスラックス姿、胸の上で組まれた右手には血の滲む包帯が巻かれ、首から上には白い布がそっと被せられていた。
 葬儀の場で、親族以外のものが死者の顔を見てはならない——そんな異世界の掟をこっそりと、右も左も分からぬ物殺しに教えてくれたのは、葬儀を執り行っているゾンネ墓地の墓守。トートと名乗った遺影頭の男は、静々と棺桶の横に立ち、会釈するように浅く腰を折って、棺桶の中に硬貨の形をした数枚の紙とごく小さな木の短剣を一つ入れた。弔問客の献花はその後からだ。
 近くに寄っても聞き取れぬほど小さな声で語りかけ、トートは流れるように棺桶から離れる。そこへ最初に近づくことが許されたのは、たった一人の親族。紅色のアマリリスを手に、黒衣に身を包んだピンズは、毅然として死せる兄の許へと歩み寄った。
 言葉はなく、感情による揺らぎもなく、縫製士の手が包帯の巻かれた男の手に触れる。体温のないそれは強く硬直し、ぞっとするほど冷え切っている。還された物の手は、ただの器物に触れるよりも冷たい気がした。
 名残を惜しむように、長く長く。氷のような手を握り締めて、ようやく離したのはたっぷり十分も経った後。のろのろと緩慢にアマリリスの花を胸の上へ置き、その手で頭に被せられた布を取りかけて、弾かれたように背を向けた。逃げるように踵を返し、弔問客の間を走り去っていく彼女を追うことは出来ない。トートがそれを認めなかった。
 沈鬱な静粛さの中で、葬儀は進んでゆく。
 普段は野蛮な言動や服装の目立つフリッカーも、今日ばかりは黒い正装に身を包み、黙って手にした赤い花を棺桶に入れていた。真っ直ぐに背を伸ばしながらも、何処か気落ちしているように見えるのは、決して思い違いなどではないだろう。

「フリック。離れよ」
「嗚呼、分かってる」

 いつまでもそこを離れようとしないフリッカーへ、投げ掛けられるのは墓守の諫言。それに対する投げやりな返答はいつもより低く掠れていた。探照灯の感情を顔から読むことは出来ないが、掠れた呟きには寂しさの色が抑えきれず滲み出ている。数分棺桶の前に粘った後、彼は足取り重く離れた。
 献花は続く。スペクトラやファーマシーのように見覚えのある物もいれば、見覚えのない物も手に手にアマリリスの花を持っている。驚くべきは、その中にぽつぽつと人が混じっていることだろう。アザレアの思う以上に、彼は様々なものから慕われているらしい。
 ——アザレアの番が回ってきたのは、三十人以上のもの達の献花が終わった後。大勢いる弔問客の中でも最後だ。そのことを空気で察したものか、誰からともなく黒衣のもの達が彼女の前に道を開ける。トートも黙したまま首肯し、彼女が近づくことを認めた。
 恐る恐る足を踏み出し、作られた道の上を進む。墓守とすれ違うと、彼はアザレアにしか聞こえない声で告げてきた。

「守長より話は通っている。故人の希望を優先せよ」
「……ありがとう」

 彼女もまた小声で礼を言い、横たえられた遺体の傍に立った。
 既に三十以上のアマリリスの花で赤く飾られた冷たい肉体。己が還した物を見る物殺しの、その白く細い手には何もない。進行役の男が渡さなかったのだ。彼女が持つ力を知らぬもの達は、墓守に見咎められない程度の慎ましさで首を捻り、或いは隣に立つもの同士で顔を見合わせて疑問を表す。
 アザレアは背後のざわめきの一切を聞かぬふり。鳩尾の辺りで手を組み、腕を組んで、意識を軽く集中する。ひょうと狙い澄ましたように葬列者の間を風が抜け、棺桶の中で白い靄が渦を巻いた。
 白い霧が花の形を作り、質感を再現し、鮮やかな赤に染め上げられるまで、僅かに十秒。アザレアが目を開けた時、かの物の亡骸は溢れんばかりの赤い花に埋もれていた。その様はアマリリスの花畑へ無造作に寝転がったかのようで、寂しくも穏やかな光景である。
 函の中に広がるそれを目に焼き付け、アザレアはやおら踵を返した。何かを確かめるように、一歩一歩地面を踏みしめて、墓守の横に立つ。神父の着るような法衣ではなく、黒い三つ揃いのスーツを身に纏うトート、その肩にゆるりと掛かる白い死に装束が、微かに揺れた。
 俯かず、視線を逸らしもせず。己の前に弔問客が開けた道をまっすぐに見て、物殺しは噛みしめるように告げる。

「……もう、充分です」

 墓守は彼女に何も言わず、何もしなかった。それはアザレアも分かっていたのだろう、それ以上の言葉は喉の奥に秘め、葬列者の間に紛れて立っていたケイに目配せする。場に漂う気まずさと静けさをものともせず、ケイはもの達の間をすり抜けると、堂々と前を向いて歩く少女の後ろに追随した。
 その足音が聞こえなくなるまで、墓守はその場に立ち尽くすばかり。葬列の中から一人が抜け出し、バタバタと忙しなく物殺しの背を追っても尚、真っ白な写真を入れた遺影の頭がその方を向くことはない。
 良く晴れた青空の下、葬儀は粛々と続く。

「……キ、いや、ケイさん」
「嗚呼、分かっている。敏(さと)いな」
「“あの時”以来、気配には気を付けるようになってますから」
「そうか」

 ファーマシーの医院へ至る、大通りから一本外れた閑静な道。ひび割れた石畳と古びた街灯が規則正しく並ぶ上を、物殺しと付き人は並んで歩く。何でもないような口ぶりで会話しつつも、横たわるのは明確な敵意を持った、しかしそうと悟らせない程度には微かな緊張感。あの月夜に纏ったものと同じ、平静を限りなく保つその様からも、お互い自然と何かを察していた。
 視線が空中で一瞬だけ交錯し、すぐ離れる。そして、道が二股に分かれる地点まで歩み来た両者は、どちらからともなく二手に分かれた。こつこつと靴の踵が奏でる硬い足音が左右の道に響き、奥に消えていく。
 ——その後を尾行(つけ)る物が、一人。
 おどおどと腰の低いそれは、男物の学生服を身に纏う、落書きだらけの分厚いクロッキー帳を頭に据えた少年だ。気付かれまいと言う一心か、何十メートルも離れた遠くから物殺し達の背を追いかけていた彼は、二叉路の真ん中で困惑したように立ち竦む。どちらを追うべきか迷ったのだ。
 早くしなければ見失う。焦燥に駆られた少年は何度も左右の道を交互に見ると、意を決したように、右の道——アザレアが歩き去って行った方に走った。
 ぱたぱたとスニーカーが石畳を蹴る軽い音。左の道を進んでいたキーンが、ぴたりと歩みを止める。やおら腕を組み、アーミラリより受け継いだ街の道の記憶を辿って、彼もまた決意したように頷きを一つ。足を速め、裏路地へと身体を滑らせる。
 彼が抑えきれぬ殺意の迸りを知覚したのは、それからすぐのことである。

「……動かないで」
「ひっ……!?」

 医院のほど近く、隙間を埋めるように林立する住居の僅かな隙間。そこに入り込んだアザレアに気づかず通り過ぎようとした少年を、物殺しは背後から急襲し、羽交い絞めにして引きずり込む。そしてクロッキー帳の頭をがしりと鷲掴み、少年を腹の方から壁に押し付けると、首にひたりと刃を当てた。
 流れるように人一人を拘束する少女。その整った顔立ちに浮かぶ表情はない。氷の如く双眸に睨まれたなら、彼女よりも年下の少年風情が太刀打ちできる道理はないだろう。事実、彼は小さな悲鳴を上げたきり動けず、ヤモリの如く無様に壁へ貼り付かされたまま、物殺しの声を聞かされる羽目になった。

「尾行(つけ)たでしょ」
「しっ、知らない!」
「なら何で葬儀の時すぐに抜けたの。私達を追いかけて」
「知らない、知らないよ! 偶然だってェ!」

 必死で首を横に振ろうとする少年。その頭をぐいと押さえ付けながら、しかしアザレアは首元の刃だけは引いた。
 追いかけていないと言うのは嘘であろうが、害を成す気は無さそうだと判じたのだ。なるべく音を立てずにナイフを鞘へと戻し、物殺しは僅かに目元の冷たさを緩める。視線の変化を感じたのか、怯え切っていた少年も少々は落ち着きを取り戻したらしい。次の問いへはしっかりと返答した。

「貴方も命を持った物なのね。名前は何?」
「あ、く、クロッキー」
「それじゃ、クロッキー。……その頭、ちゃんと使える?」

 アザレアの問いの意味を図りかね、しかし彼は、すぐに気付く。
 ぇ、と疑問符にまみれた一声を上げ、ハッと驚きと怒りを交えた風に息を呑んで、返すのは沈黙。手が煉瓦の壁を掻き毟り、物殺しの拘束を撥ね退けようと力を入れる。
 その小さな重心の遷移と、路地の向こうより来たる物の存在にいち早く気付き、少女は振り払われる前に細腕を引き、素早くバックステップを踏んで、かの物が割り込んで来るであろう隙間を開けた。
 果たして、彼は。

「使えッ、るよッ……!?」

 彼——キーンは、その図体の一切を気取られることなく、むきになって言い返そうとした少年の前に立つ。存在を気取っていたアザレアはまだしも、クロッキーにしてみれば、己より頭二つ分は高い上背の男が突然現れたようなものだ。驚きのあまり、彼は振り向いた体勢のまま固まっている。
 そんなクロッキーにじとりと意識を向け、スラックスのポケットに諸手を入れながら、キーンは鞘で覆われた刃の切っ先を表路地の向こうへ向けた。古い医院の方角である。

「尾行していたことは分かっている。だが陳情も弁明も後だ」
「な、ちょっ、だっ誰だよ!」
「ケイ。物殺しの付き人としてアーミラリに“起こされた”。それ以上でも以下でもない」

 少年の狼狽を叩き切る、有無を言わさぬ口調と言葉。
 平坦なようで苛立つ声音に、アザレアは案内人の影を見た。


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