複雑・ファジー小説

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「知恵と知識の鍵の騎士団」完結
日時: 2017/07/07 23:17
名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: bs11P6Cd)

本日、某小説の新人賞の落選が確定して、
悔しくて仕方がないいずいずです。

ほとんどの方がはじめましてですね。
はじめまして。

覚えていてくださった方、ご無沙汰しております。
「Family Game」ではたいへんお世話になりました。
また「女王陛下に知らせますか?」が途中になっててすみません。

またよろしくお願いいたします。

実はこのお話、今年の1月5日に急に思い立って、
6日間で仕上げて投稿したお話です。

結果は上に書いた通り落選してしまいましたが、
でも、新人賞取れなくてもいいから早くみんなに読んでもらいたい、
そんな気持ちを、書きあげてからずっと抱えていたので、
今日、ここにアップできること、
ほんとうに嬉しく思います。

これは完結したお話なので、
お待たせすることなくさくさく更新していくと思います。

「女王陛下に知らせますか?」とリンクしたお話なので、
「女王陛下に知らせますか?」を待ってくださるあいだに
(そんな奇特な方、いらっしゃるのかしら?)
お目を通してくださるとうれしく思います。


とりいそぎ、ご挨拶まで。

いずいず拝

*******************************

『Family Game』紹介 >>1
『朝陽』紹介 >>2
『女王陛下に知らせますか?』>>3


プロローグ >>4 >>5

1章 >>6 >>7 >>8 >>9 >>10 >>11 >>12

2章 >>13 >>14 >>15 >>16 >>17 >>18 >>19 >>20 >>21

3章 >>22 >>23 >>24 >>25

エピローグ >>26

あとがき >>27

「知恵と知識の鍵の騎士団」1章3 ( No.8 )
日時: 2017/06/19 21:05
名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: bs11P6Cd)

「……」
 男の整った顔がかすかに歪む。その通りだったのだろう。ややあってため息をついたミスタ・ブラム・ブラウンは黙って窓を閉めた。彼は髪を整え、帽子をかぶり直すと、不機嫌そうにどっかと座席に座り直し、足と腕を組む。どちらも長すぎて、隣に座る俺には非常に邪魔だった。

「わたしの休暇は明後日終わる。当ホテルのお客様以外に鍵の力を使うつもりはない」
「客に、なればよろしいのでしょう?」
 女はにっこり微笑み、いまは足元におろしていた背負い袋の口を開ける。驚くことにそのなかには、島内のありとあらゆる国の紙幣や硬貨がみっしり詰まっていた。

「これで、あなたのホテルの最高ランクの部屋を一週間お借りします。あなたは、わたくしたちの専属ホテルマンにおなりなさい」
 命令し慣れた男が他人の命令に膝を屈するたいへん珍しい光景がそこにはあった。
 ——いいね。やるじゃん、この美人。

 ふたたび深いためいきをついたミスタ・ブラウンは、専属ホテルマンになる覚悟を決めたらしい。帽子を取り、立ち上がる。さっと襟元を整えると、窓から出ていけといったひとでなしぶりはどこにいったのか、誠実な表情を浮かべていった。
「ライトホールド・ロイヤルホテル、エイブラハム・ブラウンと申します。お客様が当ホテルにご滞在の間、ご不自由なくお過ごしいただけますよう、心よりお仕え申し上げます」
「わたくしはエストリュースのヴァリタ、こちらは当代のモルシアン。よろしく頼みます」

 ヴァリタね、ヴァリタ。かわった響きだが、いい名前じゃないか。そう思った俺だったが、すぐにそれが間違いだと知らされた。誠実なホテルマンの顔から、こっちが素なのだろう、ひとでなしの顔に戻ったミスタ・ブラウンが座席に腰をおろしながら、ヴァリタに問うたのだ。
「こうなったら泥船を戦艦にするつもりでつきあう。だから、その前に聞かせてくれ。モルシアンは大人になるまでシューテを出られないのではなかったのか? それに、ヴァリタはモルシアンの世話係の総称だろう。なぜその世話役が率先してモルシアンを連れて逃げている? 誘拐したというのはほんとうか?」
 ヴァリタは笑った。
「ほんとうによくご存じでいらっしゃる。襟章は伊達ではございませんね」

「ホテルを利用されるお客様のバックグラウンドぐらい、押さえておくのが仕事だ。おまえは以前、陛下の即位式でエストリュースの使者としてきたからな」
「お勉強熱心ですこと」
 ヴァリタはコロコロと笑う。金を払って上客になった以上、ミスタ・ブラウンがどんなにひとでなしでも、けして頭をあげられないってことをよくわかっている。

 苦虫を噛み潰したような顔をしたミスタ・ブラウンに、ヴァリタは答えた。
「モルシアンは、もともとエストリュースに生まれた子どものなかで選ばれることはご存じでいらっしゃいますね? ですが、この黒髪でおわかりいただけるように——いいながら、ヴァリタは少女の頭を撫でる。少女は無表情でされるがままになっていた——、当代のモルシアンはエストリュースの人間ではないのです」
「ほう」

「先代のモルシアンがご退位なさったあと、国内を探し尽したわたくしたちはこちらの島のなかで探すことに決め、隣国ハーゲルだけでなく、あなたの国も、バンクロフトも、あちこちで探して参りました。そして、ようやく見つけ出したのがバンクロフト王国東グリーンランド」
「東グリーンランド?」
 俺は思わず声を挟んでしまった。

「知恵と知識の鍵の騎士団」1章4 ( No.9 )
日時: 2017/06/20 22:51
名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: bs11P6Cd)

東グリーンランド、憐れ、戦乱によって分断された、悲劇の大地の片割れ。俺の、愛しき故郷だ。戦争で奪われてもう十五年以上経つだろうか。
「ええ、」
 しかし、ヴァリタはそれをただの相槌と思ったようだった。俺の胸のうちの郷愁に気づかないまま、
「モルシアンの最初の姿は、島内の三人の魔女神話における人の子イズラエルといわれています。ならば、東グリーンランドに生まれても、おかしな話ではございません」
 と続ける。俺はいった。
「いや、そんな。おかしな話ではございませんといわれても、そもそもモルシアンがなにか知らねぇし」
「あら! それは失礼を……」
 慌てて口を押える世話役にちょっと笑いかけて、モルシアンと呼ばれている少女を見た。

彼女はおそらく七歳前後だろう。つまりは、生まれたときからグリーンランドは、グリーンランドとバンクロフト王国東グリーンランド州に別れていて、俺の知る、あの美しいグリーンランドは知らないのだ。
 手を伸ばし、ちいさな頭に触れる。満月のような琥珀色の瞳が俺の姿を映した。
「同郷か。仲間だな。俺はアレスター・マッカリースだ、よろしくな」
「……」
 ぽんぽんと頭を叩いたあと、その手を握手を求めるように差し出すが、少女の反応はない。不思議そうに俺の顔と手を見比べている。
「……?」
「無駄だ」
「おわかりになりませんのよ」
 首を傾げた俺に、ミスタ・ブラウンとヴァリタが同時にいう。
 ——無駄? わからない?
 そういえば、口が利けないともミスタ・ブラウンはいっていたな。
「どういうことだ?」

 ミスタ・ブラウンとヴァリタが目を見合わせ、顎で話すように促されたヴァリタが教えてくれた。
「モルシアンは、神の依り坐しなのです」
「神の依り坐し? なんだそれ」
 どこをどう見ても、将来有望そうな顔立ちをした女の子でしかない。言葉を話せないのは惜しいが、それなしでも——いや、それゆえにそばに置いておきたいと願う男は、すぐに五万とあらわれるだろう。俺だって、あと十年後に出逢ってれば考えたかもしれないが、あいにく成人していない女に用はない。
 むしろ、より俺の興味を惹くのはヴァリタのほうだ。

「ミスタ・マッカリースは、氷雪の大地エストリュースのことはどのくらいご存じでいらっしゃいますか?」
「ミスタ・マッカリースなんてよしてくれ。あんたみたいな美女にはアレクと呼ばれたい。ちなみにエストリュースのことは、北にある島国程度にしか知らないね」
 さようでございますか、とヴァリタは笑う。
「エストリュースは閉じられた国でございますから、ご存じよりの方のほうが珍しくあるのを失念しておりました。ご容赦くださいませね。エストリュースは、大陸や島内に汽車や車が走り、電報や電話といった通信手段が発達したなかで、かたくなに旧世紀前の生活を守る、頑固者の国だと思っていただいて問題ございません」
「頑固者」
「なにせまだランタンと松明の生活ですもの」
 わーお。俺の田舎も似たようなもんだけどな。

「エストリュースでは、ハーゲルにいちばん近い大きな島をセントルムエ、あるいはフェアステと呼び、ここを首都としております。このセントルムエからさらに北にむけて六つの島が並んでおりますが、その最北端の島がシューテ、別の名前を神殿島といい、モルシアンはそこで祭られております神女なのです」

「知恵と知識の鍵の騎士団」1章5 ( No.10 )
日時: 2017/06/21 21:12
名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: bs11P6Cd)

「……この子が神の依り坐しだの神女だのいう特別な存在なのはわかった。それで? その神女様とやらは、どうして話せないんだ? それに、さっきミスタが訊いた、成人するまで島を出れないとか、あんたが誘拐したのかとか、その辺もどうなんだ?」
 ヴァリタは苦笑する。
「順を追ってご説明いたしますが、ミスタ・ブラウンの質問に関しては、イエス、事情あってのこと、イエス、と先にお答えいたします」

 モルシアンは大人になるまでシューテを出られないのではなかったのか? ——イエス。
 なぜその世話役が率先してモルシアンを連れて逃げている? ——事情あってのこと。
 誘拐したというのはほんとうか? ——イエス。

 ミスタは泥船を戦艦にするつもりでつきあうといったが、こりゃ協力するのは少しリスキーだ。見ればミスタの眉間に深いしわが寄っている。
 まあ、俺はそもそも部外者だ。なりゆきでかくまわされたりしたが、汽車を降りればそれまでの関係だ。エストリュースなんて珍しい国の珍しい神の依り坐しの話なんて、せいぜい女との寝物語と新しい芝居のネタにしかならない。元同郷の同胞には同情を禁じ得ないが、君子危うきに近づかず、だ。

「ミスタ・ブラウンはお国の女王陛下のご即位の際にご覧いただいたかと存じますが、この島には、新たな王が立たれるとき、モルシアンが神より得た寿ぎの言葉を王権とともに授かる習わしがございます。それを得ず即位した王の治世は短命であったり内乱外乱に悩まされたりとなぜか落ちつかないことになるそうで、近代化した社会にあっても、それは遠い昔から受け継がれている作法なのです」
「グリーンランドには昔から王がいないからわからないが、バンクロフトはどうなんだ? あの国は国王がいつも短命だろう?」
「バンクロフトはもともと大陸から流れてきた者が作った国家です。ゆえに、島の古き神をないがしろにしており、モルシアンの神託を不要とおっしゃる。ですから、男王も女王も、齢三十五で儚くなってしまうのですわ。もっとも最近は三十五を過ぎたものを王に据えるようになりましたが……」
 ヴァリタが意地の悪い含み笑いをする。
 ——かわりに東西グリーンランドの抵抗運動(ルビ:内乱外乱)に悩まされてるってわけか。

 神様なんてもう十何年も拝んだことはないが、年に一回ぐらいは教会に足を運んでやるかな、と俺が思ったときだった。話を戻しますが、と前置きして、ヴァリタがとんでもないことを口にした。

「そして、モルシアンは、正確に神の言葉を伝えるために、産みの親から引き離されたときより、言葉にいっさい触れないようお育て申し上げるのです」

「……は?」
「言葉は思考を作ります。思考を得ると、ひとは嘘をつくことができるようになります。神の言葉と称して、自身に都合のよい神託をくださないよう、モルシアンから言葉を奪ってしまうのです」
 ちょっと待て。さっぱり意味がわからない。
 俺がそう訴えると、ミスタ・ブラウンが妙なことを訊いてきた。

「ものを考えるとき、おまえはなにを使って考える?」
「……頭?」
「この話の流れでそう答えるのだから頭も使っていないだろう」
「は?」
 ヴァリタがくすくす笑い出す。
「アレク、ミスタ・ブラウンがおっしゃっているのは、こういうことです。頭の中でものを考えるとき、——そうでございますね、たとえば、わたくしのことをどうご覧になられます?」
「美人だ。口説きたい」
「あら!」
 隣からバカにするような声が聞こえたが無視する。ヴァリタはなお笑みを深くして、嬉しいことをおっしゃいますのね、という。おお、好感触。
「でも、そのわたくしを美人だと思ってくださるのも、口説きたいと思ってくださるのも、『美人』という言葉や『口説く』という言葉をご存じでいらっしゃるからでしょう? たとえば、もし『美人』と『口説く』という言葉をご存じでいらっしゃらなければ、アレクはわたくしのことをどう思ってくださるかしら?」

 ——意味がわかった瞬間、ぞっとした。目の前の女が一瞬にして恐怖の対象になった。

「知恵と知識の鍵の騎士団」1章6 ( No.11 )
日時: 2017/06/22 21:57
名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: bs11P6Cd)

 思わず手を伸ばし、彼女の隣に無表情で座る少女を引き寄せた。抱き上げ、ヴァリタから少しでも遠ざけるように、彼女に半身をむける。
「……っ」
 ヴァリタは、傷ついた顔をした。

 でも俺が、彼女がいま傷ついた顔をしたと思ったのは、『傷つく』という行為と『顔』がなにを指すのか知っているからだ。もしそれを知らなかったら? もっといえば、彼女がヴァリタという役目を持つ人間であることも、俺がアレスター・マッカリースだということも、隣の男がミスタ・ブラム・ブラウンであることも、自分と他人が違う存在であることも、なにもわからないのだ。——俺の、この、ちいさな同胞は。

 俺はろくでなしだがひとでなしじゃねぇ。目の前の美人ですらひとでなしの部類に入るとわかった以上、そばに置いておくわけにはいかない。そう決意してヴァリタの顔を睨みつけていたら、突然頭にひどい衝撃が走った。物理的な痛みだ。
「〜〜〜ってーなっ! なにするんだ、突然」
 俺は、俺の頭を平手打ちしたミスタ・ブラウンに怒鳴り返す。だが、ミスタは、石頭めと右手を痛そうに振りながらいった。

「使っていない頭なら使え。思考を働かせろ。どうしてそのヴァリタがモルシアンごとここにいる?」
 俺ははっとした。悔しいが、ミスタ・ブラウンのいうとおりだ。頭を使えば簡単にわかることだった。なんの目的があって神殿島を抜け出したのかわからない。でも、少なくとも彼女はいま、少女の周りで言葉を使っている。まるで言葉の水を浴びせかけるように。
「…………ごめん」
 正面に向き直り、膝上に抱き上げた少女をおろす。ヴァリタの許に行くよう背中を押してやりながら、俺は彼女に謝った。

 ヴァリタは少女を受け取りながら首を振る。
「あなたは善き人でいらっしゃいますのね、アレク。あなたのような方に出会えて、ほんとうによかった」
 バカだの最低だの、女に投げつけられる台詞は罵詈雑言が相場だった俺には、まるで縁のない言葉すぎて、どうリアクションを返せばいいのかわからない。おう、とだけ返事をして、そのまま顔を俯けた。こそばゆかった。

 それで、と俺の代わりに話の続きを促したのはミスタ・ブラウンだった。
「モルシアンの告げる宣託が、間違いなく神のものである証明としてモルシアンから言葉を奪っていることに関しては、こいつも理解しただろう。そろそろ、どうしていまいおまえがモルシアンとここにいるのか、それをお教え願いたい」
 ああ、そうだ。それが大事だった。

 俺が顔をあげるのと、ヴァリタが話しはじめるのはほぼ同時だった。
「さきほども申し上げましたように、モルシアンは東グリーンランドからお越しいただいた神女でございます。もし、通例通り、エストリュース内でお探しできたのであれば、エストリュースの民は、モルシアンに選ばれた我が子を亡き者として肉親の情を断つことができたでしょう。ですが、他の国の民にもおなじようにせよとはヴァリタであるわたくしとて申し上げ難く、月に一度、モルシアンのご様子をご家族に信書にてお送りさしあげていたのです」
「優しいのだな。ヴァリタはモルシアンのためには非情になれると聞いていたが」
「……わたくしはどこか、ほかのヴァリタとは違うのでしょう。泣いて連れていくなと叫んでいた若い母親の声や姿が頭から離れず、それが移ってしまったのやもしれません。規則ゆえお言葉をかけて差し上げることは慎みましたが、あの若い母親がしてやりたかったこと、かけてやりたかった情など、わたくしの想像の及ぶかぎり、この方にさせていただきました」

 ヴァリタは、これ以上もないほど慈愛に満ちた瞳で、隣の少女を見る。しかし少女は満月の瞳でおれを無表情に眺めている。
 ——なにも考えていないのだろうな。
 そもそも彼女には考えるための言語(ルビ:ツール)がない。笑いかけてやっても、百面相をして見せても、なにも感じないし、わからないのだから。

「知恵と知識の鍵の騎士団」1章7 ( No.12 )
日時: 2017/06/23 23:41
名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: bs11P6Cd)

「母親も、周囲のものも文盲でありましたのか、この六年間、モルシアンのご家族より手紙を受け取ることは一度もございませんでした。わたくしがお送りする信書はあくまで母親気取りの自己満足のもの、返事を期待してのものではございません。ですから、このまま一方通行の便りは、モルシアンが退位なさるまでの間、ずっと続くと思っておりました」

 手紙が届いたのは、そんなときでした。
 そういって、ヴァリタは服の胸の合わせから、粗末な一通の封書を取り出した。貧しい東グリーンランドの片田舎のものらしい質の悪い紙だとひと目でわかる。読めと差し出され、俺はミスタ・ブラウンをうかがう。顎で先に読めと促され、受け取り、慎重に開いた。

 情けないほど、恥ずかしいほど、心苦しいほど下手な字が紙面に言葉を綴っていた。


 しあーしやはがんきか。
 おおくなったか。
 おしいもの、おおくたべるか。
 わたし、しぬ、すぐ。
 あうしたい。だくしたい。
 しあーしや、あいしてる。


「わたくしはもう何年も泣いたことがございません。ですが、その手紙を見て、涙が止まらなかったのです。ひとめ、母にあわせて差し上げたい——いいえ、ひとめ、あの母親に、おおきくなったモルシアンを見せて差し上げたい。それがいま、わたくしがここにモルシアンとおります理由でございます」
「……」
「……」
「……」
「……おい」
「なんだ」
「濡れる。さっさと涙と鼻水を拭け」
「るせーよ!」
 手紙をミスタ・ブラウンに押しつけ、かわりに差し出されたハンカチをぶんどる。涙と鼻水を拭き、盛大に音を立てて鼻をかんだあとで気づく。げ、これ、さっきミスタが口を拭っていたやつじゃねぇか! いやぁな感触まで口に甦りそうで、それをコートのポケットに丸めて突っ込むと、俺は座席を立ち、床に膝を立てて座った。

 まっすぐ前に、少女の満月の瞳がある。その琥珀の瞳に映る俺の顔は泣いたあとのせいでいささかへにゃりとして情けなかったが、構うものか。
「シアーシャ、おまえの名前はシアーシャか」
 両手を伸ばし、頭を撫で、頬へと手を滑らせる。マシュマロのようにふくふくとして柔らかい頬だ。
「いい名前だな」
 古い古いグリーンランドの言葉で自由というその名前は、なんて皮肉で、なんと彼女にふさわしい名前だろう。
 いまじゃ誰も流暢に使えないいにしえの言葉を名前に持つ少女に俺はいった。

「キエド・ミーラ・フォルチャ」

古いグリーンランドの言葉で、十万回の歓迎という意味だ。彼女が辿りつく祖国グリーンランドにかわって、歓迎の言葉を。
「……」
 瞳の中の満月がいっそう輝きを帯びたように見えたのはきっと俺の錯覚だ。


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