複雑・ファジー小説

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植物標本【完結】
日時: 2018/08/27 19:15
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)
参照: https://musyokucode.jimdofree.com

花の病に蝕まれた子どもたちの話。
完結しました、ありがとうございました。

【エニシダの娘】
>>1
【クレマチスの少年】
>>2
【スノードロップ】
>>3 >>4 >>5 >>6
【幽霊列車】
>>7 >>8 >>9
【花と毒】
>>10 >>11 >>12 >>13
【天蓋を望む】
>>14 >>15 >>16
【逃避行】
>>17 >>18 >>19
【最終話】
>>20


自分の書いたものをまとめたくて、サイトを作りました。
参照から飛べます(´`)

Re: 植物標本 ( No.1 )
日時: 2018/08/06 16:38
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

 花に絡め取られた子どもは、白亜の塔にゆかねばならない。肢体に花の痣を宿し、その使命を果たすために。



植物標本
【エニシダの娘】

 エトが左腕にエニシダの花を咲かせたのは、彼女が齢14を迎えた朝のことだった。乳白の肌を覆う、エニシダを象った琥珀色の痣。曰く、花の病という。花の病に身を侵された者を、けして嘆いてはならない。神さまが口づけを落とし、祝福した証なのだから。




「エト、起きなさい。あと少しで塔へ着くわ」

 肩を揺り起こされて、エトの意識はゆっくりと浮上してゆく。烟る長い金のまつ毛を数度瞬かせれば、翡翠の双眸が顔を覗かせた。エトは、中性的な娘だ。細身の体躯はいたく不健康そうで、筋張った手足は憂いを纏う。少女とも少年ともとれる未完成な美しさが、彼女には備わっていた。
 エトはひとつ欠伸をすると、身を乗り出すように窓枠に寄りかかった。理知的な色を濃く落とした両まなこは、列車の窓から望める景色にそそがれる。霧でくゆる視界の向こう、高らかにそびえ立つ2対の塔の影がみえた。

「ねえ、母さま。あれが白亜の塔なのですね」
「お行儀良くしなさい。ほら、タイが曲がったじゃない」

 母は顔をかすかに顰め、彼女の胸を飾るループタイに手をかける。けれどもエトは何ひとつ気にかけず、ゆるやかに近づく塔を眺めていた。花の病を抱えたならば、白亜の塔に招かれる。そうして病が潰えるまで、故郷に立ち入ることは許されない。それが、古くからの習わしだった。
 明日から彼処で朝を迎えるのだ。どこか実感の伴わぬまま、エトは片手で頬杖をついた。

「さあ、できた」
「ありがとう、母さま」

 母の細い指が名残惜しそうに離れてゆくのを、視界の端で捉えた。

「私のエト。手放すのが惜しいけれど、これからは一人で上手く立ち回らなければ駄目よ」

 労わるような、さりとてどこか厳しさを孕んだ声色に、エトは母の方へ顔を向けた。母の言葉は、いつもある種の呪いのように降り注ぐ。エトは淡く笑み、そして極めて軽い調子で肩を竦めた。

「わかっていますよ」
「それならば、別にいいの」
「それで、あの、母さま。制服のことだけれど」

 幾つかの逡巡がしんしんと積み重なった後、エトは口を開いた。しかしそれも束の間のこと。すぐに母の明るい声に遮られる。

「ああ、よく似合っているわ。でも、そうね。髪はきちんと結んでいた方がいいわ」
「……はい」

 エトはあでやかに波打つ蜂蜜色の髪を掬い上げ、銀糸のリボンで一つに纏める。その様を、母はひどく満足気に見つめていた。

「こうして見ると、男の子みたいだわ。エメにそっくり」
「母さま、それよりももうすぐ駅に着きますよ。塔まで見送って下さるんでしょう、さあ行きますよ」

 折良く、終点を告げる放送が車内に響き渡る。もう塔は目と鼻の先で、大きな湖のほとりに、二つの尖塔が仲睦まじく並んで居る。このような辺境の駅に降りる者など、彼女らの他には誰もいない。エトは荷物を手早くまとめ上げる。永い旅路の伴侶は、たったトランクケースひとつばかりだ。軽やかにケースを掴み上げ、彼女はコンパートメントから躍り出た。
 駅を出ると、辺りはしとやかなしじまに包まれていた。周囲は荒涼とした木々に囲まれ、神秘的な空気さえ孕んでいる。すぐ向こうには藍色の湖が口を大きく開けており、凪いだ湖面に塔を映していた。

 −−時が置き去りになってしまったような、そうだ、エメが亡くなった夜に似ている。死が、隣に横たわっているのだ。そのような類の静けさをたたえている。

 ここが気にいるだろうか。エトは自身に問いかける。白亜の塔。あまやかに花に病める子供たちの園。畏怖だ。けれど同時に、憧憬の念さえ抱いている。

「どうしたの、エト、立ち止まったりして」
「いいえ、なんでもありません。これからの暮らしに祈りを捧げていただけですよ」

 エトは曖昧に笑い、母の背中を追う。そうしてもう一度2対の塔を仰ぎ見た。

Re: 植物標本 ( No.2 )
日時: 2018/08/07 09:11
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

【クレマチスの少年】

 また、誰かやって来た。きっとあれは、エニシダの娘だ。



 幾人かのかしましい話し声が、書庫を通り抜ける。塔での暮らしゆきは退屈なものだったから、子どもたちは密やかな噂話を、飴玉を舌で転がすように楽しむのだ。シエルは鬱蒼とした視線を廊下に投げかけると、読みさしの本を書棚へ戻した。たわいもない、怪奇小説の類だ。さして面白いわけでもない。ただ惰性で読んでいたに過ぎなかった。思い返してみれば、彼の人生において心から胸躍らせたことなどなかった。いいや、一度はあっただろうか。ともかく、彼の胸の内には、常に鬱屈とした澱が沈殿していた。彼は自分のことが嫌いだ。父譲りのまっすぐな銀糸の髪や、薄く整った唇、左胸に彩られた、クレマチスの痣。彼を彼たらしめるもの、全てがいとわしく感じる。その影が、シエルを年より大人びたものにさせていた。
 シエルは張り出し窓に腰掛け、おもむろに外を眺めた。この地は、常に霧の天蓋が陽光を遮っている。この景色の中で暮らしていると、時折、そうっと目隠しされているような気分になった。だけれども稀に、霧が晴れることがある。その時、森や湖は金粉をはためかせたようにきらめきはじめるのだ。この光景は、存外嫌いではなかった。

「探したよ、シエル」
「なんだ、驚かせるなよ。ロランか」

 シエルは腰を浮かせ、来訪者に歓待の意を示す。シエルに声を掛ける者は、決まってロランしかいない。シエルの一つ年上で、人の良さそうな顔立ちをしていた。彼の大きすぎる黒縁の眼鏡は、ある種の親しみを与えている。そのため、誰からも慕われた。偏屈なシエルとて、例外ではない。

「新入りが来た話、知ってるだろう」

 弾むようなロランの声色に、シエルは苦笑する。ロランは、いつもこうだ。大抵のことを、面白おかしくしてしまう。上手くやっていけるのは、正反対の二人だからだろう。

「ああ、エニシダの女だろ」
「どうやら、君と同い年らしい」
「ふうん」
「なんだ、興味がなさそうだね」

 エニシダ。シエルは、一人その名を口で咀嚼した。ロランは芝居がかった仕草で、やれやれとため息をついてみせる。

「せっかくだから、顔でも拝みに行こうよ。どうせ、暇だろう」

 ロランの誘いに、シエルは渋々といった程で飛び乗った。どうせ、他にやることなどないのだ。

「まあ、いいけど」
「そうこなくちゃ」

 ロランが鮮やかに笑い声を立てる。快活が、彼の性分だ。そのどんぐりまなこを大きく見開き、ありとあらゆる楽しみを見つける。シエルにはそれが、羨ましいとさえ感じた。
 二人は肩を並べ、薄暗い書庫を後にする。

「どんな娘だと思う? 僕は、そうだな。おしとやかだと及第点。髪が長ければなお良しかな」
「俺は面倒を起こすやつじゃなければ、それでいいよ」

 空想ごとを並べてたて、二人は燭台で照らされた廊下を渡った。塔の中は複雑だ。幾つもの部屋が入り組み、階層をなしている。頂上まで登った者は、誰もいない。使う部屋など決まっているからだ。だけれども、もし塔の頂に届いたならば。天蓋に纏う星々を掴むことなど、造作のないことなのだろう。





「ネリーの話だと、食堂で見かけたって話だったんだけど。おかしいなあ」

 ロランは困ったように襟足を掻いた。あれからいろんな部屋を出入りしたけれど、手かがり一つ掴めやしない。ロランは疲れたと言わんばかりに、大仰な仕草で談話室のソファに座った。

「なあ、ピアノの音が聞こえないか」

 片割れの少年は、ただ、耳を澄ませていた。彼方から届く、か細いピアノの音。聞いたことがない曲だ。雨上がりの森の中、樹葉たちから滴り落ちる一雫のようなアルペジオ。心臓が、擽られるような気がした。たまらなくなって、シエルは駆け出す。

「シエル、どうしたんだよ!」

 後ろの方でロランの叫び声がした。構うものか。シエルは走った。廊下をうねり、階段を駆け、耳を頼りに走り抜ける。どうして、こんなにもピアノの音色が気になるのか。理由など、シエルにはわからない。ただ、彼の人を胸を打ち震わせるものが、そこにあったにすぎない。
 長い長い道のりの果て、シエルは今はもう使われていない、楽器室へ辿り着いた。錆びたドアノブに手をかける。いやに汗が滲んでいた。そうして開けた視界の先、埃を被りかつての栄華を散らした楽器達が、乱雑に放り置かれていた。しかし、部屋の中央にたたえられた、白いグランドピアノ。その脇に佇むのは、エニシダの娘だった。塔で交わる子供たちの顔触れは、嫌でも覚える。だからこそ、見知らぬ彼女こそが、エニシダの娘だという確信があった。けれどもどうして、彼女は男児用の制服を着ているというのか。

「ああ、勝手にピアノを弾いてしまってごめん。部屋に荷物を置こうとして、迷ってしまってね。入った部屋に見事なピアノがあったものだから、つい」

 彼女は落ち着いていた。麗らかな春の陽気を連想させる声だ。シエルはほうけたまま、動けずにいた。

「ああ、はじめまして。私はエト。今日付けで塔へ招かれたんだ」
「……その服装」

 ようやく振り絞ったシエルの声は、かすれていた。

「母の仕業だろう、届いた制服がこれだったんだ。あの人は私を息子として育てたがっていたからね」

 そう言葉を紡ぐエトの姿は、ちょうど彼女のためにあつらえたかのように、この部屋と調和していた。くつくつと喉を鳴らし、そうしてクレマチスの少年を見据える。

「それで、あなたのお名前は?」

 エトが微笑する。シエルの左胸の痣が疼いたのは、誰が為か。

Re: 植物標本 ( No.3 )
日時: 2018/08/08 10:02
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

【スノードロップ】

 神さまが愛するのは、それは大層うつくしいものなのだという。真白のレース、朝靄にかすむ蝶々、そして無垢な子供たち。神さまは一等、汚れのないものを好んだ。花の病は神さまの寵愛。だから、清らかな子どもの間のみ、花の病は宿るのだ。




 教壇に立つ老人は、熱心に言葉を紡ぎ続ける。これこそが自分の天命なのだと、高らかに宣言しているようだった。

「ですから、貴方達の本分はこうして物事を学び、教養を身につけ、健やかな魂を育むことなのです。そうして人々に慰めを施して……」

 彼の言葉が途切れたのは、講義の終わりを告げる鐘が鳴ったからだ。眉を顰め、教科書を閉じると、やおらな動作で教室を去る。子どもたちは退屈な時間から息を吹き返し、一斉におしゃべりを始めた。
 塔での過ごし方は、厳粛な規律に則って決められている。太陽が真上に登る刻まで、勉学に励まなければならない。古めかしい決まりごとの一つだ。

「健やかな魂って、なんだろう」

 遠ざかる老人の萎んだ背中を見つめ、エトは呟いた。健やかな魂。塔で暮らして一月余り立つエトでさえ、この言葉を何度聞いただろう。あまりに漠然とした言い方は、エトの胸にささやかな小石を投じた。一体、何をもって健やかと呼べるのだろう。
 中々机を離れないエトの側に、隣部屋のネリーが近づく。彼女は丁寧に編まれたおさげを揺らし、エトの顔を覗き込んだ。

「エトは難しいことばかり、考えるのね」
「ねえ、ネリーは自分が健やかだって思うかい?」

 そう問われて、ネリーは面食らった顔をする。そうして、うつむきがちにしばらく考えこんだ。

「わたくしは、そうね、花の病ということを除いては、とても丈夫だと思うの。でも、心のことになると、あまり自信がないわ。よく皆から鈍臭いってからかわれるし……」

 あまりに辿々しく、弱々しい物言いだった。自分のことが不甲斐なくなったのだろう、ネリーは途中ではっとしたように顔を上げる。滑らかなビロードの肌は、羞恥心のためか僅かに紅潮していた。

「それよりも、はやく次の講義室へ行きましょう」

 ネリーはぎこちない笑顔を作り、立ち上がるように促す。エトはこの弱気な友人を、一層憐れに感じた。

「そうだね、ごめん、変なことを聞いてしまって」
「ううん、大丈夫」

 エトは教科書を手に取り立ち上がる。その拍子に、教室の入り口近くに佇む少年と目があったことに気づく。シエルだ。真っ直ぐとした視線がかち合う。シエルの瞳は、例えるならば冬の夜空だ。果てなく透き通った、とこしえの藍。神さまが彼に花の病を与えたのは、きっとその星空に魅入られたからに違いない。エトは息を飲む。ふと、シエルの目が細められ、そうして顔を背けた。まるで、何事もなかったかのように、彼は隣の少年に話しかけていた。

「……もしかして、シエルと仲良し?」

 その始終を隣で見ていたネリーは、こわごわとたずねる。

「一度だけ、話したことがあるけど」
「だめ!」

 ネリーが珍しく声を張り上げる。ネリー自身、大きな声を上げたことに驚いた様子をみせた。唇はわななき、その顔色はどこか仄暗い。

「あの人、よくない噂ばかり聞くの」

 エトに詰め寄り、声を落として囁く。エトはもう一度、脳裏にシエルの姿を思い浮かべた。確かに、彼は近寄りがたい雰囲気がある。

「陰口は好まないな」
「本当よ! シエルこそ、健やかな魂とはほど遠い人だわ。あの人は自ら、堕落しようとしてる。一昨年のことだってそう……」

 ネリーの鬼気迫る様子に、エトは思わず後ずさる。

「……一昨年?」
「ううん、何でもない。ごめんね、忘れて」
「……ネリーがそういうなら、わかったよ」

 さあ行こうと、エトは友人の背中に手をかける。ネリーはもう落ち着いたようだった。
 しかし、彼女の言葉が耳について離れない。シエルが、堕落しようとしている。エトは純粋に勿体ない、と思った。神さまに手ずから選ばれたというのに、それをどうして裏切る真似をするのか。

 私だったら、絶対に手放してなるものか。

 精巧に磨き上げられた、宵の双眸を持つ少年。神さまに愛されたのだから、こちらも尊崇を持って愛を返せばいいのだ。たとえ、蜜時がいつ終わると知れずとも。

Re: 植物標本 ( No.4 )
日時: 2018/08/09 11:08
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

 エトには、見覚えがあった。繊細な茎に垂れ下がる、小ぶりな白い花弁。それが、一輪彼女の部屋の前にぽつねんと置かれている。

「……スノードロップ」

 どうして、ここに。彼女はスノードロップを拾い上げ、鼻に近づけた。品の良い、楚々とした香り。エトは指で白い花びらをもてあそぶ。

「良かったね、それは歓迎の証拠だよ。新入りには、花を贈る風習があるんだ」
「そうそう、だから大切にしないとね」

 二人組の少女が、あどけない笑い声でさえずりながら、エトの後ろを通り過ぎて行く。揶揄われている気がして、良い心情ではない。しかしあまりに無邪気な声だから、エトは呆然と立ち尽くすほかなかった。




「朝起きたら扉の前に、花が飾られてたんだ」
「まあ、そうなの」

 時折、昼下がりにはネリーと二人だって塔の外へ赴くことがある。バスケットと小瓶を抱え、湖のほとりに腰掛けるのだ。湖の周りを深い森が取り囲んでおり、外へ出る手段は古色蒼然とした列車しか残されていなかった。もっとも、子どもたちは勝手に外へ出てはならない。こうして湖のそばに行くまでが、彼女たちに残されたなけなしの自由だった。
 エトは緩やかに腰を下ろし、静謐につつまれた湖面を見つめた。初めて母と塔へ訪れた日を思い出す。もう、はるか昔のことのように思われた。

「スノードロップでさ、花を贈るのがここでの風習なんだって?」
「ううん、わたくし、知らないわ」

 ネリーはきっぱりとそう言い放った。たおやかな動作で、小瓶から紅茶をカップへ注ぎ込む。湯気がふわりと立ち上がった。

「ふうん……。ああ、私は砂糖はいらないよ」
「そうなの、ごめんなさい。でも、不思議よね。スノードロップなんて」
「どこの誰がやったんだろう」

 エトが静かに呟いた。ネリーからティーカップを受け取り、喉元に流し込む。ネリーは戸惑いを隠そうともしなかった。

「犯人探しを、するつもり?」
「まさか、犯人だなんて滅相もない。私を歓迎してくれた証だろうしね」
「そう、そうよね」

 おそらく、彼女は面倒ごとは避けたいのだろう。ネリーは安堵で胸を撫で下ろす。その様子を横目に捉え、エトは苦笑した。犯人探しだなんて、全くなんてネリーは大げさなのだろう。

「私の故郷は、スノードロップで香料を作ってたんだ。もし材料が揃っていたなら、君に香水でもプレゼントしようかな」
「それじゃあ、一輪だと足りないわね」

 おや、と思った。けれどもエトは違和感をうまく飲み込む。ネリーは良き友人だ。男の格好をしたエトを認め、親しくしてくれている。気の弱い彼女のことだ、ここで言及してしまったのなら、顔を曇らせてしまうに違いない。
 代わりに、エトはやわく相槌を打ってみせた。

「……そうだね」

 ネリーにはこれ以上聞くことは見込めないだろう。だとしたら、誰に尋ねれば良い。エトは、宵の眸を持つ少年を思い浮かべた。

Re: 植物標本 ( No.5 )
日時: 2018/08/10 16:10
名前: 凛太 (ID: KG6j5ysh)

 彼の友人曰く、シエルは本の虫だという。書庫の張り出し窓、そこがシエルの定位置だった。彼は頬杖をつき、退屈そうに本を読んでいた。ページをめくるたびに、紙と紙が擦れ合う音がひびく。

「シエル、ご機嫌はどうだい」
「……エニシダ」

 努めて鮮やかに挨拶をすれば、返ってきたのは無骨な一瞥のみだった。エトは怯みも臆しもしない。むしろ、彼の瞳を眺めたいとさえ思った。

「私にはちゃんと、エトって名前があるよ」
「誰からここのことを聞いた」
「ロランからだよ」

 シエルは額に手を置き、束の間ため息をつく。窓枠に寄りかかり、悩ましげな顔をする彼の面差しは、一種の絵画を連想させた。
 シエルはエトに向き直り、不機嫌そうに口を開く。

「それで、何の用だ」
「君、ここの塔の慣習を知ってるかい。新入りに花を贈るっていう」
「……ああ」
「私の部屋にスノードロップが置かれてたのだけれど、何か知っていることはないか?」

 瞬きほどの間、シエルは訝しげに眉をひそめた。そうしてその後、何か思いついたように、口角を上げる。悪戯めいた彼の笑みを、エトは物珍しそうに見つめた。

「どうして俺に」
「まだ、ネリーくらいしか親しい人はいないから。その彼女も、そんな慣習は知らないって言うしね」

 シエルは値踏みするような視線をエトに向けた。胸の内側がひりつく感覚を覚える。

「知ってる」
「本当に!」
「でも、ただで教える気はない」

 その言葉に、エトは身構えた。けれども、その必要などなかったと気付くのは、数秒後。彼の望みは、本当にたわいのないものだったのだ。

「そうだな、ピアノ……。もう一度、ピアノを弾いてくれたら、教えてやるよ」

 彼の目は、たしかにきらめいていた。




 ここに来たのは、初日以来だ。出入りは無いようで、荒れたままに楽器の類が放って置かれている。かつては、音楽室として使われていたのだろう。
エトは真ん中に据えられたピアノを前に座っていた。重厚な蓋を開け、鍵盤に指を置く。不思議と、このピアノだけは手入れされているようだった。鍵盤を叩けば、気持ちの良い音がこだまする。

「恥ずかしいな、あまり人前でピアノを弾く機会なんてなかったから」
「誰から教わったんだ」
「エメ……私の兄に教わったよ」

 エトは自らの兄の顔を思い出そうとしたが、それは徒労に終わった。ただ兄が死に招かれた日の、冴えた空気の感触だけが、妙に生々しく残っているのだ。冬の日、星が天幕を覆い、母は兄の亡骸に縋り泣いた。
 それらを振りほどきたくて、エトは首を横に振った。

「それにしても、君が音楽に造詣があるとは意外だな」
「知り合いのせいでね」

 シエルが肩を竦める。

「ふうん、良い知り合いだね」

 エトは鍵盤に目を落とし、指を滑らせた。彼女が知っているのは、兄が弾いていた曲だけだ。それでも、完璧に覚えているわけではない。もしかしたら、数年の時を経て、全く違う曲になっているのかもしれない。だが、それでよかった。エトにとってのピアノとは、自分を映す鏡なのだ。

「さて、始めようか。けれど、本当に私のピアノでいいのかな」
「お前のピアノが、好きだから」
「そういうこと、他の女の子に言ったら素敵だと思うけどね」




 扉の前に花を飾るのは、歓待を示すものではない。元々は、密かな文通の役割を果たしていた。恋う者に、相応の花言葉を添える。それが転じて、子どもたちの悪戯の道具として使われるようになったのだ。

 スノードロップの花言葉は、友を求める。じゃあ、他の意味は?

 シエルの皮肉めいた笑みを憶う。スノードロップは希望の象徴だ。けれどももう一つ。あのしとやかな花は、死の象徴なのだ。
では、どうしてネリーは知っていたのだろう。エトの部屋に飾られていたスノードロップは、一輪だけということを。


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