複雑・ファジー小説
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- ムーンタワー
- 日時: 2018/10/02 21:51
- 名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: hd6VT0IS)
嗚呼、私のムーンタワー。どうか、私たちの罪を照らさないで。
- Re: ムーンタワー ( No.17 )
- 日時: 2019/03/14 19:19
- 名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: 62e0Birk)
>>とりけらとぷす様
毎度毎度ありがとうございます。小説のコメントをいただくことは少ないので、とても嬉しいです。
お疲れ様でした(???)笑
ほんまですか。自分ではわからないので……でも、確かにしっかりとした世界観は持っているつもりです。笑
私自身が平々凡々な人間なので、創作の中の色々な美しい人に憧れます。それぞれのキャラに、自分が美しい、と思う要素と愚かしい、と思う要素をひとつずつ詰め込んでいます。
読書日記ですか。すごいですね! 読書は思考を整理するような、新しい発見だとかそういうものだと私は思っているので、そこに在るものを在るようにそのまま記述するよりそっちの方がいいんじゃないかと思ってます。笑
もう読んでくださった方の過半数が誰が殺したのかわかってしまっていると思います。笑 そこまで到達できるよう頑張ります!
ありがとうございました!
- Re: ムーンタワー ( No.18 )
- 日時: 2019/03/15 23:44
- 名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: hd6VT0IS)
夏休みというものは教室内は静かだが、1歩外に出てみれば普段以上の熱気だ。部活に全力を注ぐ生徒たちはとても眩しい。俺も、学生時代は中高とバレーボールばかりしていた。
夏休み明けの課題テストの問題を作成するために出勤した俺は、一旦その作業を先延ばしにして中庭に出ていた。中庭はテニス部がミーティングに使っている程度で、基本は誰もいない。教室は補習以外では安全面の問題で施錠されているし、鍵で開けるのも面倒くさかったので、結局は集合場所はここにした。
申し訳程度に陽を避けることのできる小さな屋根の下のベンチに小柄な人物が座っている。肩までの短い髪は黒く、夏用の清潔な半袖のセーラー服から覗く腕は白い。男か女か判断しにくい中性的な顔立ち。その服装からは少女だと窺えるが、やはり魚美には全然似ていないと思った。
「こんにちは」
そう呼びかけると、ぼぉっとしていた視線がこちらに向いて、その色合いを変える。
「こんにちは……えっと、あのときはすみませんでした」
申し訳なさそうに頭を下げる。
「いや、構わないよ。気にしてないから」
バリバリ気にしている。このクソガキ、と今でも思っている。でも、俺は大人なのでそういうことは決して口にしないのだ。
「それで。『ヒトミ』について聞きたいことってなんですか」
世海くんは俺が自殺志願者サイトの運営をしていたことを何も咎めなかった。いや、心の中では言いたいことはあったのかもしれない。それに免じて、俺も彼女が幼いながらも自殺サイトに出入りしていたことを責めないことにした。
「君は、『ヒトミ』の正体はわかってる?」
「ああ、はいなんとなく」
一橋魚美ですよね、と小さな声で聞いてきたので頷く。その瞬間、彼女は少し顔を顰めた。
「……正直、『ヒトミ』と一橋魚美が同一人物だって考え始めたのは最近なので戸惑ってます。僕はヒトミと仲が良かったし、ヒトミのことが好きだった。でも、人魚のことは嫌いでした」
俺は世海くんが『人魚』を知っていたことに驚く。そういえば、俺のことも公園で『金魚』と呼んでいたな。
「君はどうしてその呼び名を知っているんだい」
「1度姉が一橋魚美のことをそう呼んでいるのを聞きました。それに、あの3人がお互いを秘密の呼び名で呼びあっているのはなんとなく知ってました」
どうせ一橋魚美が考案したんでしょう?と言うので俺は苦笑する。全くその通りだったからだ。
『先生は生き物が好きなのね』
『そうだね』
『だから理科室でメダカを飼ってるの?』
『そんな感じかな。でも家では金魚を飼ってる』
『金魚』
『そう金魚。昔夏祭りで捕ったものなんだけど、長生きでね。金魚すくいの金魚は大抵病気を持っていてすぐに死んでしまうことが多いんだけど、なぜか生きてるよ』
『ふふ、先生って、金魚みたい』
『へ?』
『だって、教室っていう水槽の中でゆらゆら揺れてる。生徒と先生の間で、いつも』
『そうかな』
『うんそう。先生っていっつもどっちつかず。それに、金村 賢木って名前の中に金魚が隠れてるよ。素敵』
「どうせ僕も『空蝉』とか呼ばれていたんでしょうね」
吐き捨てるような世海くんの言葉に、はっと意識を戻す。
「いや……呼ばれてなかったと思うよ」
「え、そうなんですか」
少し不満げな様子だった。好きの反対は無関心だという。彼女が魚美に向ける嫌悪にも似た感情は……と口にしかけるが、彼女の眼光の鋭さに踏みとどまった。
「……君と一橋さんは仲が良かったと聞いているよ」
「……はぁ?!」
なんでですか何を根拠に?と彼女は食い気味に返す。あれ、と思った。雨郷は世海くんと魚美は仲が良かったと言っていたはずだ。
「いや、雨郷……花依さんが、君と一橋さんは似ている、と」
彼女は猫のような目を見開き、すぐにぎゅっと細めた。
「……なぁるほど。確かに僕と彼女は似ている。実の親に愛されてなかったところとか、人とちょっと違うところとか」
花依さん、ああ見えて鋭いんですね、と彼女は自嘲気味に笑った。
彼女の家庭環境について、俺は実のところあまり知らない。何度か行った家庭訪問や面談などでも特に問題は感じられなかったし、不登校が続いているのは単純に彼女の個性が可哀想なことにクラスから拒絶されているからだと思っていた。
彼女は俺の戸惑いを察知したのか、鼻で笑う。
「どーせ、先生にはわかんないですよ。魚美さんのときだって気づかなかったんじゃないですか?」
図星だった。俺が今のように中学ではなく高校教師だった頃、面談で魚美の父親と対面したが、何ひとつとして見抜くことはできなかった。
『助けて』
彼女は必死に求めていたのだ。ネットの世界に、自分の居場所を。そんなことになるまでに追い詰められていた彼女を、俺は救うことができなかったのだ。
俺が黙り込んでいると、彼女は表情を改め、真剣な顔で俺の顔を覗き込む。
「それで。『ヒトミ』と親しくしていた僕に聞きたいことって?」
「ああ、それは……」
言いかけて、そこで口籠もる。どう聞いたものか、と今更ながら不安に思ったのだ。『彼女を殺したのはお前か』などと。こんな、中学2年生の女の子に聞けるはずもない。いつまで経っても本物の金魚のように口だけをぱくぱくとさせている30代男性の姿に呆れたのか、彼女ははぁ、とため息をついて口を開いた。
「言いづらいのなら、僕が先に答えを言いましょうか。『僕じゃないですよ』」
- Re: ムーンタワー ( No.19 )
- 日時: 2019/08/07 16:32
- 名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: hd6VT0IS)
その意味を理解するのにたっぷり5秒ほどかかった。雨郷の衝撃発言を受け入れるのにかかった時間は30秒ほどだったので、短い方だろう。なんとなく「だろうな」と思っていた解答のため、逆に呑み込むのに余分な時間がかかってしまっただけだ。
「大体僕、その頃8歳ですよ? 普通に考えてそんな子どもが高校生を殺せないですよ」
確かに、と心の中で頷く。自分はかなり混乱していたようだ。かつての教え子は死体遺棄をしているし、その死体を発見したのは内海だというし。
「ところで……急に補習に参加するようになったのはどうして?」
尖らせた唇に強い拒絶の意思を感じ取った俺は、話題を転換してみた。すると彼女は左手で右の二の腕を掴んで、
「別に……高校は家を出たいので、勉強頑張らないとなって」
俯きがちに呟く。彼女は中1のときからたまにしか学校に来ておらず、このままこんなことが続けば進学も難しいだろう、と思われていた。しかしこの夏休みの半ば辺りから、彼女は毎日学校に来ては補習を受け続けている。他の科目の先生方は補習中に彼女が提出したというプリントを見て「思っていたよりも優秀な生徒だ」と目を丸くしていた。幼い頃からパソコンを扱っていたらしいし、地頭はいいのかもしれなかった。
そんな彼女が進学を望むのならば、教師として、俺はその道を整備し、導いてやらねばならない。
「いやいや、選択肢はいっぱいある。時間もあるし、もう少し考えてみるのはどうかな。内海はさっき親から愛されていない、と言っていたけど、それは内海の勘違いかもしれないじゃないか。きちんと親御さんとも相談して……「あのさ」
猫のような目が、さらにその目尻を釣り上げ、こちらを見つめる。
「僕は人魚じゃないよ」
にんぎょ。思わず繰り返す。そう人魚。世海くんも繰り返した。
「先生が救いたいのは僕じゃないよね。いや、救いたかった、か。そんな先生の自己満足をさ、僕に押し付けないでよ」
じゃ、僕、帰りますね、と彼女はベンチの下に置いておいたらしいリュックを背負い、足早に中庭を駆け抜けてゆく。太陽が一瞬強く光り、彼女を包み込む。そこに俺は確かに魚美の姿を見た。
「……俺、は」
その先の言葉は続かなかった。全身から力が抜けている。額に手を当てると、暑さと悔しさで汗が噴き出していた。
違うんだ、違うんだよ、と呟こうとするも、光の中の魚美を思い出しては黙り込む。嗚呼、俺はいつだって愚かだ。
結局、空蝉は人魚を殺してなどいなかった。似た者同士はいがみ合うと言うが、あの2人の関係はきっとそれに近い。そこに友情は生まれなくとも、絆は生まれ得る。殺意などありえない。
「……あ、れ?」
煙草のケースに伸びかけた手が、ぴたりと止まる。
「じゃあ一体、誰が人魚を殺したんだ?」
金魚……金村 賢木 (終)
- 雨蛙 ( No.20 )
- 日時: 2021/04/14 23:28
- 名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: SkGQb50P)
昔からカンの鋭い子どもだった。音感もあったし、察しもよかった。なのにおっちょこちょいだとか抜けてるとか言われるのは、そういう風に振舞っていたから。
「はーー今日もバイトだぁ」
スマホのカラフルな予定表アプリを見て、私はため息をつく。青は講義、ピンクは遊びの予定、赤はバイトの予定だ。大学生の夏休みは長い。8月の広大な空間は赤とピンクで埋まってしまっていた。
下着姿のまま私はクローゼットを開いて、着ていく服を探し始める。私は寝るときはパジャマを着ない。寝相が信じられないほどに悪いからだ。
昔から私はピンクが似合うと言われて育てられてきた。クローゼットの中は様々な色相のピンクで溢れている。私はその中で薄いピンクの、フリルのついたブラウスを手に取った。
4年生。周囲の人たちはほとんど就職が決まっており、大学院に進学する人たちは既に試験も終わって、みんな残り少なくなった単位をその手から取りこぼさないようにだけ必死だ。私が1年の入学式に着たきりのスーツはクローゼットの奥で既に埃まみれになっている。私は過去の自分を探すことなく、デニムのスカートを取ると静かにクローゼットを閉めた。そう。私は就職活動をしていない。
上から順に手際よく服を着替えると、私は裸足のまま部屋を出た。無駄にゴツゴツした装飾が手に痛い階段を降りて、向かう先はリビング。私は朝は拭き取り化粧水で済ませるタイプだから。
ドアを開くと、ニュースキャスターの声と、朝に相応しい陽気な歌が隙間から流れ込んでくる。正確な年齢は聞いたことがないのでわからないけれど、恐らく40代ぐらいの女性がテーブルの隣に静かに佇んでいた。私はその表情が少し失望の方向に傾くのを見逃さなかった。
「おはようございます、花依お嬢さま。今日もバイトですか?」
「おはよう田中さん。うん、そうなの」
「そうですか。頑張ってくださいね」
大学入学から死ぬほど繰り返された会話。だだっ広いテーブルにはご飯とワカメのお味噌汁、焼鮭ときんぴらごぼうと今日の花。にこにこと笑う田中さんは私が小さい頃からこの家で住み込みの家政婦をしてくれている。流れるように席に着くと、いただきます、と手を合わせた。私が朝ごはんに手をつけるのを見届けた瞬間、田中さんはキッチンへとそそくさと戻っていく。私は生まれてから一度も母がキッチンに立っているのを見たことがなかった。
田中さんのご飯は機械で作られたみたいに規則的だ。日によって魚の種類は変わるけれど、白ご飯とお味噌汁は固定だ。きんぴらごぼうは昨日の夕飯の残りだろう。冷蔵庫で10時間ぐらい冷やされていたためか、思っていたよりもずっと冷たかった。白ご飯は少し硬めで。味噌汁は濃いめだった。いつも。
私が結婚したら、これが母親の味になるんだろうか。まあ、お相手方もきっとこんな感じだろう。
単調な白米の味に飽きてきたのでふりかけでもかけようかと田中さんを呼ぼうとしたとき、リビングのドアが開く。
「……おはよう」
「おはよう、パパ」
のっそりとした足取りで、50代の男性がテーブルへと歩いてくる。覚束無い歩き方とは裏腹に、服装は既にスーツで、しかし髪の毛は寝癖だらけ。私の父親。この地域一帯の元地主で、現在は会社の社長だった。
「あらあら、おはようございますご主人。今日もお早い出勤ですね」
田中さんがキッチンからすぐに私と同じメニューを持ってくる。そして最後に、卵のふりかけを添えて、またキッチンに戻っていく。父親は一言ありがとう、と添えて席に着いた。
「パパ、そのふりかけちょうだい」
「いいぞ。持ってけ」
欠伸を噛み殺しながら、父がふりかけを無造作に渡してくる。この会話も毎日繰り返されているものだ。
「最近どうだ」
「どうって……順調だけど」
「お前は春から俺の会社に勤めることになるんだから、粗相がないようにしっかり社会のことを学ぶんだぞ」
「もう私バイト始めて4年目なんだけど……」
TVの音をBGMに、私たちは他愛ない会話を交わす。最近のこと、ニュースのこと。どうでもいいことばかり。これもいつものことだ。
「ご馳走様でした」
先に私が席から立ち上がる。焼鮭は半分以上残っている。父は少し顔を顰めていたけれど、特に何も言わずに味噌汁を啜っただけだった。
「今日は7時間勤務でその後ちょっと出かけるから遅くなると思う」
「お、そうか。あまり遅くなるなよ」
「はーい」
メイクをする前に牛乳を飲みたくなったので、キッチンへと足を進める。ゴミ出しにでも行っているのか、田中さんがそこにいなかったことに安堵しながら、私はコップを手に取った。
「そうだ、花依」
「ん、なあに?」
たっぷりと牛乳を注いだガラスのコップをテーブルに置こうとしたとき、丁度食べ終わって私の分まで皿を重ねていた父親が思い出したかのように私に話しかけてくる。
「昨日顔馴染みの警察官に聞いたんだが、この辺りで白骨遺体が出たらしい。遅くなるなら不審者には気をつけた方がいいぞ」
「白骨遺体?」
物騒な単語だ。残酷に平凡で、過不足なく裕福な私の日常に相応しくない非日常。
「身元も判明したらしい。お前が通っていた高校の女の子だったそうだ。一橋 魚美さんと言うらしいが、知っているか?」
その瞬間、コップは私の手から重力に従う林檎のように無機質な大理石の床に吸い込まれていった。嗚呼、ニュートン。なんてことなの。私は、その名前を確かに知っていた。6年前、泡となって消えた、私の人魚の名を。
- Re: ムーンタワー ( No.21 )
- 日時: 2021/05/24 15:33
- 名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: SkGQb50P)
言われたことはないけれど、私は嘘をつくのが割と得意だ。嘘を語るとき、少し真実を混ぜた方がいいのは明白で。私の場合、それに少しアレンジを加えることで、完全なる嘘が完成する。だからこそ私は今日、裸でベッドの上に横たわっているのだ。
彼は今、ベランダで煙草を吸っている。私は吸わない。嘘がバレてしまうから。私は今日、父にバイトに行ってくる、と言ったし、自分にも今日はバイトだ、と思い込ませていたし、スマホの予定表だって赤色にしていた。そうすることで、嘘はより強固なものとなる。そして私がバイトしている店は全席禁煙。紙臭い煙草の匂いなど、まとわりつくはずがないから。
白いベッドの下、黒いカーペットの上に、ピンク色のブラウスとピンク色の下着が無造作に散らばっている。ニュートンが言っていた法則に従って落ちていったのだ。今朝の牛乳のように。
苺味のホイップのようにふわふわした頭をどうにかして回転させながら、私は枕元に置いていたピンクのカバーのスマホを手に取る。ショートケーキみたいにふやけた顔をした私。顔認証は優秀だった。
画面いっぱいに、私の予定表みたいなカラフルなアプリが広がる。このスマホを買った当初は、アプリの種類ごとにキーワードを設定してコンパクトにまとめていたけれど、そんなこと、時が経つうちにしなくなっていった。追加されては消えるアプリ、散らばる知識、増える思い出。いつの間にか、彼女を背景にしていたことを忘れるぐらいに。
右端にあったLINEアプリを長押しして、次のページに移動させてみる。新しいページに広がっていたのは未来ではなく、6年前の世界だった。
「誰、その子」
いつの間にかベッドに戻ってきていた彼が、私のスマホを背後から覗き込んで呟く。緑色のアイコンが、液晶の絵画の中にインクを落としたみたいに不快な音を放っている。絵画の正体は人魚だった。伏し目がちに遠くを見つめて淋しそうに微笑む、私だけの人魚の横顔。
──人魚が私と月子の前に現れたのは突然だった。
「**から来ました。一橋 魚美といいます。よろしくお願いします」
微笑みと共にお辞儀をする。豪奢な髪が揺れて、その間からぽてっとした薔薇よりも赤い艶っぽい唇が覗いていた。私は、いやこの狭い水槽の中を泳ぐメダカたちは、彼女から目を離せなかった。
どこか浮世離れした独特な雰囲気のある彼女は担任が教室から出ていった後も話しかけるような隙がなく、みんな気になってはいるけれど、なかなか近付くことができないようだった。そしてこのときの私の行動が、私が雨蛙と呼ばれたる所以なのだと思う。
『はじめまして、私、雨郷 花依って言うの! で、こっちは内海 月子! よろしくね』
月子を無理やり席まで引っ張り、快活に見せるように笑うと、何処か緊張気味だった彼女の表情が和らぐ。膨らんだ蕾が、春の雪解けを迎えたかのように花開くかのような微笑みだった。いつだって、「明るくて少し空気の読めないムードメーカー」でいなければいけなかった、私の手の震えが止まるぐらい。
『こちらこそ、よろしくね』
その瞬間、私は悟った。私はこのときのために、雨蛙としてずっと、泥の中で生きてきたのだと。
「ふーん。可愛いじゃん」
「ふふ、でしょ」
当たり前だ。なんたって、私の人魚なんだから。
「紹介してよ」
「だーめ」
スマホから手を離し、彼の方に向き直る。怠惰の残り香をダイレクトに受けてしまい、思わず顔を顰めた。それでも「私の方を見て」と言わんばかりに、私は彼の頬に両手を伸ばした。
「どうして?」
「どうしても何も無いよ。だって、人魚はもういないもん」
胡乱げな彼の唇を自らのそれで塞ぐと、背中に彼の大きな手が私の背中に回された。首の辺りに、彼の髪が当たってくすぐったい。そうだった。彼の男にしては少し長めの髪は似ているのだ。6年前のあの夜、土の下に埋めた、人魚の髪に。
「誰にも渡さないんだから」
「何か言った?」
「ううん、なんにも」
そのまま私を押し倒した彼は、枕元に落ちたスマホを無造作に遠くへやった。勢いのままに、美しい絵画は重力に従ってベッドの下へと沈んでいく。私の6年間の足跡が、人魚の顔を踏み潰していったかのように。甘いクリーム色になっていく景色の中、私はそのスローモーションをただただ無感情に見つめていた。