複雑・ファジー小説

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日韓の戦い 【完結】
日時: 2019/09/10 23:14
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

日韓関係の長い間…因縁は絡み合っていた…この因縁は1万年続く因縁だ…

Re: 日韓の戦い 【領土巡り】 ( No.13 )
日時: 2019/09/07 22:00
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第5章「古代三国志」③

統一国家として体制を整えた日本と新羅は、互いの地位をめぐって対立する。遣唐使では、新羅使と外交席次をめぐって争った。藤原清河を大使とする遣唐使の際、唐の大明宮含元殿にて玄宗の拝謁をする席上で、東畔の第一がチベットの吐蕃、第二が日本で、西側の第一が新羅、第二がイスラム帝国を指す大食であった。副使である大伴古麻呂が、新羅は日本の朝貢国であるのに日本が下位であるのを不服として抗議し、唐の将軍呉懐実は古麻呂が中々引く気配がないことから日本を第一の席に変更した。この翌年、小野田守が遣新羅使として派遣されたが、新羅の対応を不服として任務を果たさず帰国する。

唐で安史の乱が起きたという情報が日本にもたらされると、藤原仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備の強化を命じる。新羅使の金貞巻が日本を来訪した際に、大宰府に派遣された藤原朝狩が貞巻を尋問したところ、貞巻は国書を持参せず、17階中11階と下級官吏であることが判明した。日本は貞巻を賓待に値せずと追い返して、新羅の外交を非礼として新羅遠征の機運が高まった。朝廷は武蔵国・美濃国両国の少年20人に新羅語を収得させるとともに東海道、南海道、西海道に節度使を設置した。そして新羅征討計画が立てられるが、後の孝謙上皇と遠征の主導者である仲麻呂との不和により実行されなかった。そして紀三津を最後として遣新羅使を停止し、日本は新羅との国交を断絶した。国交がなくなったために外交使節による管理貿易も停止されたが、これによって日本と新羅の私貿易は増加した 。

9世紀中頃になると、新羅は内紛で政情が不安定となる。統制がゆるんで新羅人が九州や対馬で海賊行為や沿岸の襲撃を行い、新羅の入寇として日本は対策に追われた。断交後も新羅商人の入国・貿易を認めていた朝廷も、貿易を口実に日本の政情をうかがう新羅人の存在を知り、藤原衛の奏上に基づいて、商人以外の新羅人の入国を禁止した。この時期には国内で応天門の変が起きており、日本国内の政権抗争と同時期に入寇などの対外的緊張が起きたために新羅排斥傾向が生み出された。新羅の弱体化によって朝鮮半島は三国が並び立つ後三国時代となり、混乱は続いた。

後三国時代から新羅が滅んだのちに、高麗が半島を統一するが、北方の異民族である契丹や金の侵入と各地の豪族の内紛が続いた。高麗の南原府の咸吉兢が対馬に漂着し、次には金海府の李純達が大宰府に到着した。高麗使が日本に入朝して国交を求めたが、朝廷は朝貢以外を認めないとして拒絶した。このために高麗や女真は日本沿岸を襲撃して、長徳の入寇や刀伊の入寇が起きた。高麗は両班制度で優遇された文人と、蔑視された武人が対立して、武人が国王に代わって政治を主導する武臣政権が成立する。武臣政権によって高麗王家が権力を失った状態は、モンゴル帝国の攻撃まで続く(後述)。政情が不安定な中で、高麗は仏教を国家制度に組み込み、仏教僧や寺院は税や兵役を免除された。

経済面

青銅と鉄の入手

壱岐の原の辻遺跡。全体の総面積は100ヘクタールにわたり、一支国の首都とされている
朝鮮半島を訪れる弥生人の主な目的は青銅と鉄だった。朝鮮半島で鉄関連の資料がある遺跡のうち45%の場所で弥生式土器も発見されている。鉄鉱石が産する達川遺跡や、鉄交易を行なっていた勒島遺跡などがある。『魏志倭人伝』の一支国の首都とされる原の辻遺跡には人工的な港があり、大陸や半島南部との貿易拠点として建設されていた。漢が建設した楽浪郡では土器、青銅器、鉄器が生産されており、朝鮮人の他に日本人(倭人)も訪れて壱岐、対馬、北部九州へ運んだ。『魏志』弁辰伝には弁韓の鉄を求める倭からの来訪者が書かれており、『漢書』の地理志には「楽浪海中倭人あり」とある。銅鏡、鉄製品、ガラス玉など大陸の品を入手するために、日本側では海岸で生産した塩、そして稲や生口(奴隷)を送った。伽耶には、鉄を得るために倭人が訪れていたという記述が『魏志』にある。ヤマト王権による統一前には、邪馬台国、九州北部の奴国や伊都国、瀬戸内海の吉備氏などが朝鮮半島と貿易をした。倭国は倭錦や真綿などの絹製品や、九州北部の穀物を輸出した。『魏志』には、壱岐島や対馬が市糴(穀物貿易)を南北で行なったという記述がある。

三国時代・新羅

倭国は三国の中で百済との贈答が盛んとなり、百済から贈られたとされる七支刀は石上神宮に現存する。朝鮮半島からは工芸品や技術者、倭国からは兵や武器、穀物、繊維品が贈られた。朝鮮半島から日本列島に来た渡来人には工人もおり、4世紀に帯金式甲冑、4世紀後半に馬具が製作されるようになり、農具や工具も輸入された。

ヤマト王権による日本の統一と新羅の朝鮮統一により、日本と新羅は遣新羅使と新羅使が管理貿易を行なった。これが外交の緊張で使節が滞るにともない、新羅の海商が活動した。安史の乱によって唐の政情が不安定になると、陸上より海上の貿易が増加して、日本、新羅、唐、中国沿岸のイスラーム商人などが航海をした。海域の安全保障に貢献したのは、新羅の張保皐だった。張保皐は海賊の奴隷貿易を取り締まり、耽羅や莞島を拠点として日本・新羅・唐で貿易を行う。新羅商人を通じ、中国に入ってくる波斯国、天竺などの産物も日本にもたらされた。律令法では購入権が朝廷、官司、貴族の順番で決められており、貴族が新羅の輸入品を買うには買新羅物解(ばいしらぎもののげ)という文書で申請が必要であり、こうした記録が正倉院文書として残っている。日本の輸出品は真綿、絹などで、新羅の輸出品は朝鮮人参、佐波理と呼ばれる合金製の食器、顔料、黄金、香料などだった。最後の遣唐使の一員として留学をしていた僧の円仁は、張保皐や新羅商人の助けにより唐からの帰国を果たした。円仁の旅行記『入唐求法巡礼行記』には、治安が悪化する長安での生活、唐人や新羅人との交流、新羅商人の航海の様子が書かれている。

採掘

和銅遺跡にある大型モニュメント
日本では無文銀銭や富本銭などの貨幣の鋳造が始まっていたが、最初に全国的な通貨となったのは和同開珎とされる。和同開珎の発行は元明天皇の時代に武蔵国秩父郡で和同(にぎあかがね)と呼ばれる純度の高い自然銅を発見して献上したことが契機であった。これを記念して和銅という元号が定められて、和同開珎が発行された。この自然銅の発見に貢献した3名のうち1人が、渡来人である金上无であった。金は702年に従五位下に叙されたが、和銅を発見した功績によるものと見られている。

渤海・耽羅

渤海貿易では日本の絹織物が輸出される一方、渤海からは貴族の間で珍重された虎や貂が輸入された。日本では渤海に対する回賜が財政の負担となり、朝貢の期間を12年に1度と変更した。済州島の耽羅も倭国に対して朝貢を行った。

文化面

木簡の分析によって、日本の漢字使用の開始に渡来人が関わっていたことが認められる。日本列島における言語表現としての漢字は5世紀の金石文があり、稲荷山古墳出土鉄剣の漢字には、朝鮮半島の木簡と同じ用法が見られる。飛鳥時代の木簡には、朝鮮半島系の漢字表記があり、音読みの方法として呉音や漢音のほかに古韓音も用いられている。古韓音は古代の朝鮮半島系の音読みで、中国の上古音に由来する。こうして中国語とは構造が異なる日本語を漢字で表現するための試行錯誤がなされていた。漢字は、7世紀までは朝鮮半島を経て日本列島へと伝わり、中国の漢字用法を直接に取り入れるのは遣唐使が始まった8世紀からとなり、新しい音読法として唐音がもたらされた。

暦・占術

日本列島に中国式の暦が伝わったのは5世紀後半となる。中国は冊封した国に暦学を送っており、倭の五王が中国南朝の宋に朝貢をした時に暦を与えられた。『日本書紀』は、456年から697年まで中国の元嘉暦にもとづいて書かれており、中国との交流が絶えていた期間は、百済から暦博士が来日して暦本も送られた。百済の僧観勒は、暦本、天文地理書、遁甲方術書をもたらし、陽胡玉陳、大友高聡、山背日立らの師匠となった。

儒教・仏教

百済からを中心として仏教が伝来した。百済は仏舎利のほかに僧侶、寺師、鑪盤博士、瓦博士、画工などの技術者をもたらした。百済の聖明王が欽明天皇に仏像、仏画、経典などを送り、高句麗は僧を送った。百済から倭国に経論や律師、造仏工も献じられ、新羅も倭国に対し調と仏像を献じた。こうして三国の文物は日本の飛鳥文化に影響を与えた。入朝した僧には、百済からの観勒、高句麗からの曇徴や、厩戸皇子の師になった慧慈がいた。日本から朝鮮半島に渡った僧もおり、百済で受戒して日本最初の尼僧となった善信尼や、高句麗で修行をした慧慈らがいる。高麗は仏典を収集して印刷するという国家事業を行い、高麗の精緻な仏典は有名となり、中世には大蔵経を求める日本からの使者が相次いだ。

応神天皇時代に、百済から招かれた博士の王仁が、儒教における四書の1つ『論語』をもたらしたという伝承がある。百済からの渡来人としては王辰爾も儒教の普及に貢献した。王辰爾や王仁のように「王」を姓にもつ者は、中国を出自にもつ百済人の可能性もある。

技術・工芸

朝鮮半島の南東には弥生式土器が発見されており、楽浪郡と北部九州をつなぐ弥生人の拠点があったとされている。焼き物の須恵器、金工や製鉄などの金属加工技術、カマドなどの技術は5世紀に日本列島に伝わって急速に普及した。朝鮮の栄山江には前方後円墳などの倭系古墳があり、日本には女木島古墳など朝鮮半島系の古墳がある。日本最初の仏教寺院である飛鳥寺の造営では、百済や高句麗が支援をした。建設では、蘇我氏の配下である渡来人技術者の東漢氏、忍沼氏、朝妻氏、鞍部氏、山西氏らが参加して、本尊の造仏には高句麗が黄金を送った。日本産の青銅器の発見は紀元前3-4世紀、鍛造の鉄器は紀元前3世紀前後で、当初は朝鮮半島から入手した素材を再加工した。鉄鉱石からの製鉄が始まるのは6世紀後半、銅鉱石からの製銅が始まるのは7世紀からとなる。日朝の古墳や交易地の遺跡からは交流を示す工芸品が発見されており、三累環頭、垂飾付耳飾、土師器、筒型銅器、晋式帯金具などがある。

文芸・芸能

王仁は、『論語』とともに漢文の長詩『千字文』をもたらしたという伝承もある。『千字文』の成立は6世紀であるため、百済からの渡来人によることが王仁の説話に加えられたとされる。渡来人の歌人では、『万葉集』に歌を収録された田辺福麻呂や背奈行文らがいる。中国との外交において重要な交流の要素だった漢詩は日朝外交でも用いられて、新羅使や渤海使などの使節をもてなす際に漢詩の唱和が行われた。使者の回数が多かった渤海は楊成規や裴頲らの詩才のある使者を選び、日本からは在原業平、菅原道真、紀長谷雄らが唱和に参加して競い合う場面もあった。百済からは味摩之(みまし)の入朝により仮面劇の伎楽が伝えられて、外来芸能として発展していった。

Re: 日韓の戦い 【9月9日 完結】 ( No.14 )
日時: 2019/09/08 23:32
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第6章「朝鮮半島史」 第1話「全ての創始者」

李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。王朝名としては李朝(りちょう)。日本語の「李氏朝鮮」は「李家支配下の朝鮮」の意。北朝鮮では朝鮮封建王朝と呼ばれ、日本と北朝鮮以外の全ての国では大韓民国と同じ「朝鮮王朝」とも呼ばれる。李朝は歴史の順番によって高麗の次の王朝にあたり、朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもあった。

目次
概要

1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。

1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約によって李氏朝鮮は清王朝を中心とした冊封体制から離脱し、近代国家としての形式的な独立や実質的な地位を得た。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。

国名

高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は即位するとすぐに明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められたが、洪武帝は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった[3]。「和寧」は李成桂の出身地の名であったが、北元の本拠地カラコルムの別名でもあったので、洪武帝は、むかし前漢の武帝にほろぼされた王朝(衛氏朝鮮)の名前であり、平壌付近の古名である「朝鮮」を選んだ。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより、「朝鮮」は正式な国号となった。「和寧」が単に李成桂の出身地であるだけなのに対し、朝鮮はかつての衛氏朝鮮・箕子朝鮮・檀君朝鮮の正統性を継承する意味があったことから本命とされており、国号変更以前からそれを意識する儀式が行われていた[6]。国号が朝鮮という二文字なのは、中国の冊封体制に、新王朝の君主が外臣として参加して、一文字の国号を持つ内臣より一等級格下の処遇を与えられていることを意味する。

国号を洪武帝に選んでもらったことは、事大主義を象徴していると揶揄されるが[8]、新王朝が擬定した朝鮮の国号は、朝鮮初である檀君朝鮮と朝鮮で民を教化した箕子朝鮮を継承する意図があり[9]、首都が漢陽に置かれたのは、檀君朝鮮と箕子朝鮮の舞台であるためである。新王朝は、檀君と箕子を直結させることにより、正統性の拠り所にする意図を持っていた。朝鮮という国名は、殷の賢人箕子が、周の武王によって朝鮮に封ぜられた故事に基づく由緒ある中国的な呼称であるため、洪武帝は、新王朝が箕子の伝統を継承する「忠実な属国」となり、自らは箕子を朝鮮に封じた周の武王のような賢君になりたいと祈念した。従って、中国への事大主義を国是とする新王朝が、周の武王が朝鮮に封じた箕子の継承を意図する朝鮮の国号を奏請したことは適切であった。

日本や中国では朝鮮半島にかつて存在した朝鮮を国号に持つ王朝と区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ぶことが多い。学術的には日本でも近年「朝鮮王朝」という呼び方が広まりつつあるが、この呼び名は広義には「朝鮮半島」の「王朝」という意味にも理解されるため李氏朝鮮だけを特定して指すには不適切だとする意見もある。

大韓民国では、「李氏朝鮮」「李朝」と言う名称は植民地史観に基づくものとされるため、国内では一般的に使用されていない。通常、李氏朝鮮が統治していた国は「朝鮮」、李氏朝鮮の王室は「朝鮮王朝」と呼ぶ。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は古朝鮮と呼び区別している。北朝鮮では今日の朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)および古朝鮮と区別するために「朝鮮封建王朝」、「李朝朝鮮」あるいは「李氏朝鮮」と呼び、王朝名称として「李王朝」あるいは「李朝」を用いる。中国においては日本と同様「李朝」という用例が見られる。

当初より中国王朝の冊封国として建国された朝鮮だが、近代に入ると冊封体制からの離脱を指向する動きから大朝鮮国の国号も用いられた。また、李鴻章が編纂させた『通商章程成案彙編』には、古い太極旗が収録されているが、それには「大清国属高麗国旗」と書かれている。1897年、国号を大韓帝国(だいかんていこく)と改称し、国王号を皇帝号に改めた。

時代区分

国内政治における区分

朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から端宗までの王道政治の時代(1393年 - 1455年)、世祖の王権簒奪から戚臣・勲臣が高官をしめる時代(1455年 - 1567年)、士林派による朋党政治(1567年 - 1804年)、洪氏・安東金氏・閔氏などの外戚による勢道政治(1804年 - 1910年)の区分に分けられる。

対外関係における区分

一方、対外関係を主体にみると、約500年に及ぶが明の朝貢国であった時代(1393年 - 1637年)と、清の朝貢国であった時代(1637年 - 1894年)、清と欧米の列強および日本が朝鮮に対する影響力をめぐって対立した末期(19世紀後半 - 1910年)という3つの時代区分に大きく分けられる。

第1の区分の末期には、文禄・慶長の役と胡乱(後金(のちの清)による侵攻)という大きな戦争が朝鮮半島内で発生し、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。第2の区分の時代には、清の支配を反映して、中国が夷狄の国である清に支配されている以上、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え(小中華思想)や、逆に現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする思想(事大主義)や、中国から離れている日本を野蛮であると蔑視する中華思想などが保守的な儒学者を中心として広く根付き、朝鮮朱子学の発達が進んだ。その後は儒教内部で改革的な実学思想が生じ、又洋学などが発生した。これらは支配層からたびたび強い攻撃を受けたが、開港後の改革運動の母体ともなった。

19世紀末期になると、清以外にも欧米列強や日本(大日本帝国)の介入が起こる。1894年の日清戦争で日本と清朝が戦って日本が勝ち、清朝との冊封関係も消滅したことで日本の強い影響下に置かれ、朝鮮は第3の区分に入った。しかしこの時代は、国内的にはロシアと日本の対立に巻き込まれ、派閥の対立も絡んで深刻な政治状況に陥った。親日路線派は、親ロシア派や攘夷派などの妨害を受けた。近代化論者の中にも親日派や親露派、攘夷派が混在しており、それが混乱に拍車をかけた。日露戦争後は日本の影響力の向上に伴い宮廷内では親日派の力が大きく伸張した。日本と韓国内部の李完用などは日本が大韓帝国を保護国化・併合する方針を採り、一進会は「韓日合邦」を主張した。日露戦争後の第二次日韓協約で日本は大韓帝国を保護国化し、実質的な支配権を確立した。1910年に日本と大韓帝国は韓国併合ニ関スル条約を結び、大韓帝国は日本に併合された。李王家や貴族は李王家・朝鮮貴族として華族制度に統合された。

李成桂による建国

13世紀以来、元の属国となっていた高麗は、元の衰退に乗じて独立を図るが、北元と明の南北対立や倭寇の襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にあった。14世紀後半、中国遼東の納哈出征討と元の干渉からの脱却、遼陽制圧、女真や倭寇討伐などでの数々の武功で名声を確固たるものにした高麗の武将、李成桂は1388年、明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ鴨緑江に布陣したが、突如軍を翻してクーデターを起こし(威化島回軍)、高麗の首都開城(開京)を占領、高麗の政権を完全に掌握した。その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の王(ウ王)に対してその不当性を主張し、これを廃して昌王を王位につけた。この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、事大主義だと批判する歴史家もいる。一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。

李成桂を支持した両班たちは、朱子学では中華を尊んで、夷狄を斥けるから、漢民族の明こそ正統な天子であり明に歯向かうことは天子の国を犯すことになるから、軍を翻した行為こそ、君臣父子の名分をわきまえたものであり、朝鮮を統治した聖人箕子の正統をつぐ資格があると正当化した。

親明政策

高麗の政権を掌握した李成桂は、親明政策をとり明の元号を使用、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するなど政治制度の改革を始めた。だが、昌王の即位に対しては李成桂の同志でライバルでもあった曺敏修との対立があり、李成桂は昌王を廃位し、1389年に最後の王恭譲王を即位させた。その際、先々代と先代のウ王と昌王は殺された。家臣の中には李成桂を王位に就けようという動きが有ったが、李成桂はこの時は辞退している。だが、やがて李成桂を王にしようとの勢力は次第に大きくなり、この勢力に押されて、1392年に恭譲王を廃位し、自らが高麗王になった。高麗王家一族は都を追放され、2年後の1394年に李成桂の命令で処刑された。このとき李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしていたため、多くの者が改姓をしたと言われている。


太祖李成桂
李は高麗王として即位後、明へ権知高麗国事と称して使者を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。権知高麗国事を正式に名乗ったが、「知」「事」が高麗を囲んでおり、「権」は日本の権大納言・権中納言と同じで「副」「仮」という意味であり、権知高麗国事とは、仮に高麗の政治を取り仕切る人という意味である[23]。このように李成桂は、事実上の王でありながら、権知高麗国事を名乗り朝鮮を治めるが、それは朝鮮王は代々中国との朝貢により、王(という称号)が与えられたため、高麗が宋と元から王に認めてもらったように、李成桂も明から王に認めてもらうことにより、正式に朝鮮王朝になろうとする。小島毅は、「勝手に自分で名乗れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗国を仮に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮国王として認めてもらいました」と評している。明より王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた事をきっかけに家臣の中から国号を変えようとする動きが活発化し、李成桂もそれを受け入れた。しかし李成桂は明に対して高麗王のウ王、昌王を殺し、恭譲王を廃位して都から

Re: 日韓の戦い 【9月9日 完結】 ( No.15 )
日時: 2019/09/08 23:33
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第6章「朝鮮半島史」第2話「隣国」

自らが高麗王になった。高麗王家一族は都を追放され、2年後の1394年に李成桂の命令で処刑された。このとき李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしていたため、多くの者が改姓をしたと言われている。


太祖李成桂
李は高麗王として即位後、明へ権知高麗国事と称して使者を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。権知高麗国事を正式に名乗ったが、「知」「事」が高麗を囲んでおり、「権」は日本の権大納言・権中納言と同じで「副」「仮」という意味であり、権知高麗国事とは、仮に高麗の政治を取り仕切る人という意味である。このように李成桂は、事実上の王でありながら、権知高麗国事を名乗り朝鮮を治めるが、それは朝鮮王は代々中国との朝貢により、王(という称号)が与えられたため、高麗が宋と元から王に認めてもらったように、李成桂も明から王に認めてもらうことにより、正式に朝鮮王朝になろうとする。小島毅は、「勝手に自分で名乗れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗国を仮に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮国王として認めてもらいました」と評している[24]。明より王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた事をきっかけに家臣の中から国号を変えようとする動きが活発化し、李成桂もそれを受け入れた。しかし李成桂は明に対して高麗王のウ王、昌王を殺し、恭譲王を廃位して都から追い出した負い目があり、明へ国号変更の使者を出した際、自分の出身地である「和寧」と過去の王朝の国号である「朝鮮」の2つの国号の案を明に出して恭順の意を表した。翌年の1393年2月、明は李成桂の意向を受け入れ、李成桂を権知朝鮮国事(朝鮮王代理)に冊封して国号が朝鮮国と決まった。朝鮮は李成桂が新たな国号の本命として考えていたものであり、この結果は彼にとって満足の行くものであった。しかし明は李成桂が勝手に明が冊封した高麗王を廃位して代わりの王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位して王朝交代したことを快く思わず、李成桂は朝鮮王としては冊封されずに、権知朝鮮国事のみが認められた。

明と朝鮮の関係は、宗主国と属国、君臣父子の関係であり、李氏朝鮮は中華の分身の小中華・東方礼儀の国と自称して、事大とは君臣父子の礼をもって宗主国の明に仕える関係に立って中国と事大外交を繰り広げた。そこでは事大・属国とは征服・植民地とは異なり、道徳的・観念的なものであり汚らわしいものではないとする[25]。この関係を陸奥宗光は、朝鮮との折衝で、中国と朝鮮の宗属関係はなんとも複雑怪奇だと、嘆いている[26]。

仏教弾圧


世宗(ソウルの石像)
朝鮮に国号を改称した李成桂は新たな法制の整備を急ぎ、また漢陽(今のソウル)への遷都を進めた。崇儒廃仏(儒教を崇拝し、仏教を排斥する)政策をとり、儒教の新興と共に仏教の抑圧を開始した。しかし、この政策は李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断され、本格的になるのは李成桂の亡くなった後の第4代世宗の時代になる。仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。

李成桂は新王朝の基盤を固めるため、八男・李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合いまでに発展した。1398年に起きた第一次王子の乱により跡継ぎ候補であった李芳碩が五男・李芳遠(後の太宗)により殺害され、このとき病床にあった李成桂は、そのショックで次男の李芳果に譲位した。これが第2代定宗である。しかし定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから1400年には四男・李芳幹により第二次王子の乱が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。

一方、第二次王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代太宗として即位する。太宗は、内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を執った。また、この時代は朝鮮の科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備された。明に対しては徹底的な親明政策を執り、1401年には明から正式に朝鮮王の地位に冊封される。太宗は、1418年に世宗に王位を譲り上王になったが、軍権はそのまま維持し、1419年の応永の外寇と呼ばれる対馬への侵攻を指示した[27]が、対馬国守護大名の宗貞盛の奮戦により大損害を被り、撤退した。

次代の世宗、いわゆる世宗大王の時代が、朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で1422年まで太宗が上王として実質的な権力を保持していた。世宗は、まず政治制度を王の一極集中型から議政府を中心にした官僚主導の政治に切り替えた。これには世宗の健康問題もあったと言われている。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在のハングルの元になる訓民正音の編纂作業が行われた。世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。またこの時代に貨幣経済の浸透が進んでいった。対外的には侵攻戦争をたびたび行い、1437年には豆満江以南の女真地域を侵攻し制圧、六鎮を設置して支配した。その後も女真とは対立を続け、幾度も侵攻に乗り出している。

世祖の中央集権

第6代の端宗(第5代文宗の息子)は11歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決裁する形となり王権の空洞化が進んだ。それに伴って他の王族の勢力が強くなり、たびたび宮廷闘争などが頻発する様になる。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父である首陽大君は巧みに勢力を拡大し、1455年に端宗に圧力をかけて王位を譲らせ、自ら国王となった(世祖)。世祖は反対勢力を強力に排除し、王権を集約する。軍政や官制の改造を行い、軍権を強めると共に職田法を導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発するが、世祖はこの反乱を鎮圧することで中央集権体制を確立させるのに成功する。一方で、日本とは融和政策を採り外交を安定させると共に、民生を安定させた。しかし強権的な中央集権主義により、自らに服従する功臣達を優遇し、高級官僚は自らの側近で固められ、実力のある者も高位には就けなくなった。これらの世祖に優遇された功臣達は後に勲旧派と呼ばれる様になる。また、儒者の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。1467年の李施愛の乱では批判勢力を弾圧したが、鎮圧に活躍した亀城君李浚(世宗の四男臨瀛大君の次男)ら王族が台頭した。

勲旧派と士林派の対立と士禍

世祖の死後、睿宗が即位したが19歳で逝去。1469年に13歳の幼い王成宗が即位し、貞熹大妃が垂簾聴政を行なったが国政は不安定になった。1470年、王族である亀城君が世祖と同じ事をするのではないかと恐れた大臣達は彼を追放し、王族の政治への関与を禁止した。これによって、政治の中枢から王族は排除され、臣下の牽制としての王族の役割は終了する。政治の中枢は勲旧派が占めており、かれらが政治を壟断していたが、成宗の親政時代になると士林派勢力を取り入れるようになり、これに脅威を感じた勲旧派や外戚と士林派勢力の対立を産むが、成宗の治世(1469年 - 1494年)では政治的には一応の安定を見た。成宗の母仁粋大妃と2番目の王妃斉献王后(廃妃尹氏)が対立し、廃妃尹氏は1479年に廃位され1482年に賜死した。

成宗が亡くなり燕山君が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化し、1567年まで続くことになる。燕山君は士林勢力を疎ましく思っており、それと勲旧勢力による諫言などもあり、それが1498年の最初の士禍、戊午士禍と言う形で現れる。この時、士林勢力の筆頭・金宗直(1431年 - 1492年)の弟子を始め多数の士林派が王宮から追放された。その後も燕山君は、生母廃妃尹氏の死の経緯を知り、1504年の甲子士禍で士林勢力と勲旧勢力の無差別大量殺戮を行い、この勢力を殺ぐ事につとめていたが、1506年、朴元宗・成希顔・柳順汀らのクーデター中宗反正により廃位、追放された。同年、朴元宗の姪にあたる章敬王后が中宗の後宮に入り、大尹派が形成されていく。

次代中宗の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続いていた。その中で、朝鮮居住の対馬の民などによる三浦の乱が、1510年に起きている。中宗は最初、士林派を積極的に登用していたが、士林勢力の首魁であった趙光祖の改革があまりに性急であるため、中宗はかえって不安を感じ、勲旧勢力の巻き返しもあって、1519年に趙光祖一派は投獄、追放、死刑などにされ(己卯士禍)、士林派の勢力は大きく後退してしまう。その後も勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていた。1545年に明宗が12歳で即位すると、文定王后が垂簾聴政を行なったが、同じ尹氏の仁宗の伯父・尹任の率いる大尹派から批判を受けると、同年に文定王后の次弟・尹元衡の率いる小尹派による乙巳士禍で粛正された。この時代に起きた、戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍の事を「四大士禍」と呼ぶ。

朋党政治:西人と東人


昌徳宮
1567年の宣祖の即位により、士林勢力が最終的に勝利を収め士林派が中心となって政治を行う時代が始まったが、士林勢力は1575年には西人と東人と呼ばれる2つの勢力に分裂し、主導権争いを続けるようになった。この時代に見られる派閥に別れて論争を繰り広げる政治体制の事を朋党政治と呼ぶ。党派の分裂は再度の政局混乱を呼び、各王はその安定を求めて様々な施策を試みなければならなくなった。

東西に別れた士林派は互いを牽制していたが、李珥(李栗谷)がこの対立を抑えている間は両党派とも目立った動きは起こさなかった。1584年に李珥が亡くなると両党派ともに政治の主導権を抑える為に活発な動きに出る。当初は東人有利に進んでいたが、朝廷をほとんど掌握しかけたところで、鄭汝立の謀反事件が起こり、西人が主導権を握るようになる。しかし1591年に世子冊立の問題で西人が失脚すると東人が勢いを盛り返し、以後30年に渡って政権を掌握した。東人は西勢力の処罰の件で、死刑などを主張した強硬派の李山海を中心とした北人と穏健派の禹性伝を中心にした南人の2つの派閥に分裂した。

秀吉による朝鮮侵攻
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東莱城の戦い
その頃、日本を統一(天下統一)した豊臣秀吉は大陸への進出のために1589年、対馬を通じて、日本に服属し明征討の為の道を貸すべしとする外交を取り始めた。朝鮮側では日本の真意をはかりかね、日本の本意を探るため1590年3月、西人の黄允吉を正使、東人の金誠一を副使とし、通信使を送ることにした。この使節が日本に滞在している間に、朝鮮内の勢力は西人優勢から東人優勢に変化しており、そのことがその後の判断に影響を与えた。

1591年3月に通信使が帰朝すると正使・黄允吉は、「日本は多くの軍船を用意して侵攻の準備をしている」と報告したのに対し、副使・金誠一は正反対の「秀吉は恐れる必要は無い」と報告をした。相反する報告を受け取った為、西人・東人ともに自派の意見を擁護し論戦になったが、このとき既に東人が朝廷を掌握していたことと王自身が戦争を心理的に忌避していたことなどから「侵攻説をむやみに流布することで民心を乱す行為は良くない」と言う結論に達し、一切の防衛準備を放棄し、またそれに準じる行為も禁止した。しかし1592年になり、朝鮮の倭館に居た日本人が次々に本国に帰っていくのを見ると、遅まきながら秀吉の朝鮮出兵は本気であることに気が付き、防衛準備を始めるが、時既に遅しであった。

1592年4月13日の文禄の役では態勢の整わない朝鮮軍は各地で敗北を重ね、豊臣軍に国土を制圧された。豊臣軍は開戦半月で首都漢城を攻略し、数ヶ月で朝鮮の咸鏡道北辺まで進出した。当時腐敗が進んでいた朝鮮政府は有効な手立てを打てず治安悪化により全土で国土は疲弊した。それに対して危機感と、日本への反感を持った民衆が抵抗を開始した。

民衆の中には朝鮮の圧政や腐敗に不満を持っているものも多く、豊臣軍に味方した者も相当数に上った。明の援軍が進出すると豊臣軍は交渉解決へ移行して戦線が膠着し、翌年、日本と明は和議交渉の過程で朝鮮南部の沿岸へ一旦兵を引き上げた。

しかし、和議は失敗に終わり、1597年1月15日、秀吉は再び朝鮮半島へ侵攻する(慶長の役)が、2回目の侵攻では全羅道と忠清道への掃討作戦を行い、明軍が漢城を放棄しないと見ると越冬と恒久占領の為に休戦期の3倍ほどの地域へ布陣した。翌年から本土で指揮を執っていた秀吉の健康が損なわれて消極的になり、泥沼状態になった戦争は秀吉の死去によって終結し、豊臣軍は引き上げた。この7年に及ぶ戦乱により、腐敗が進んでいた朝鮮の政治・社会は崩壊寸前まで追いやられ、経済的にも破綻寸前の状態に陥った。朝鮮は増収案として「納粟策」を提案したが、これは穀物や金を朝廷に供出した平民・賤民などに恩恵を与える政策である。賤民も一定の額を払えば平民になれ、平民も一定の額を出せば両班になれることとなった。この制度によって朝鮮の身分制度は大きく流動し、その構成比率は大幅に変化した。新しい体制が生まれ、腐敗は一時的に刷新された。政治には一時的に再び活気が蘇った。

一方、この戦争に明は多大な出費を余儀なくされ、国力の弱体化をもたらした。これは周辺異民族への明の抑えが利かなくなるという事でもあり、女真族の勢力伸張をもたらし、後の胡乱や明滅亡の遠因になった。

北島万次は「藩属国朝鮮にたいし、宗主国明」がどの様な態度で交渉したかについて、救援の決定から講和まで終始明が導いており、「宗主国とはいっても、結局みずからの利害を優先させる大国のご都合主義」を指摘している。

光海君

朝鮮では戦争終結後、政権の腐敗などで改善があったものの政争は続いていた。特に問題になっていたのが宣祖の世子(跡継ぎ)問題である。世子問題は文禄の役直前の1591年から激しくなっていたが、戦争の最中も続いていた。長男の臨海君は世子にふさわしくないと言う理由で排除され、光海君を世子とすることに決まったが、1594年に明から世子冊封の要請を拒絶されたため、再び世子問題は宙に浮いたままになった。1606年、正妃の仁穆王后が永昌大君を産むとまた世子問題が再発し、光海君派と永昌大君派に別れての派閥争いが起こった。北人の中の小北と呼ばれる一派は、永昌大君派は正妃の嫡子であるからこれが正統であるとし、いま一方の大北は、光海君を世子として擁立するよう働きかけた。1608年、宣祖が重病に陥ると周囲は慌ただしくなり、後継王を決めないまま宣祖が亡くなった為、現実的な選択肢として光海君が王位につくことになった。

光海君は即位すると破綻した財政の再建と現実的な外交施策を展開した。既に江戸時代に移行していた日本とは1609年に和約し、日本との外交関係の修復にも力を入れた(朝鮮通信使)。また党争の終結に力を入れようとしていたが、党争終結の為に王権を強化するには大規模な粛清を行わざるをえなかった。その範囲が反対派閥、兄弟にまで及んだ1615年まで続く粛清によって、大北派と光海君は一応の政権の安定を確保する事になる。また、民政では大同法を導入するなどの改革を行った。一方、弱体化した明とそれに乗じて伸張してきた後金(清)の間に挟まれ(サルフの戦い、1618年 - 1619年)、二極外交を展開することになる。

しかし光海君によるこれらの政策は、民衆や大北以外の西人や他の派閥、他の王族や二極外交に反対する保守的事大主義者などの恨みを買うことになった。1623年2月12日、光海君は自身の甥にあたる綾陽君と西人を中心とした勢力によって、宮廷を追放され廃位に追い込まれた。西人勢力は大北勢力を宮廷から追放し、綾陽君を擁立、仁祖として即位させた。この事件を仁祖反正と言う。

清への服属

華城
仁祖と西人派はクーデターの後、大北派の粛清を行い、これによって北人の勢力は小北派の一部を除いてほぼ消滅する。そして、西人を主とし南人を副とする党派体制を確立する。しかし仁祖即位直後の1624年には、イ・グァンによる反乱事件が起こり、仁祖が一時期漢城から避難、北方の正規軍を乱の平定のために投入しなければならなかった。外交政策は、明と後金の二極外交から、親明背金の親明外交を展開したが、この政策は裏目に出た。二極外交を破棄された後金は、1627年、3万の兵力で朝鮮に侵入した(丁卯胡乱)。朝鮮側は、破竹の勢いを続ける後金軍を相手に敗北を重ね、仁祖は一時江華島へ避難することになった。その後、朝鮮側の抵抗により戦局が膠着し始めると、打開の策を持たない朝鮮側と、朝鮮を通じて明との交易を維持したい後金側は講和に応じた。だが後金の提示した条件に対し、主戦派の斥和論と講和派の主和論を巡って論争が繰り広げられた。既に後金と戦う余力が無い朝鮮側は結局講和を呑むことになり、後金を兄、朝鮮を弟とする条件をのんで、以後一切朝鮮は後金には敵対しないとして講和した(丁卯約条)。講和が成立すると、一旦後金軍は撤収する。のち仁祖は国防対策を見直し、北方と沿岸地域の防衛力を強化し、1628年に漂着したオランダ人ペルテブレより大砲を導入するなど軍事力を強化した。

1636年、後金は清と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた。この時の朝鮮は斥和論が伸張しており、この要求を拒むと、同年、清は太宗(ホンタイジ)自ら12万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入した(丙子胡乱)。朝鮮側は南漢山城に籠城したものの、城内の食料は50日分ほどしかなく、その中で主戦派と主和派に別れての論戦が繰り広げられていた。しかし、江華島が攻め落とされたと言う報告が届くと45日で降伏し、清軍との間で和議が行われた。この和議の内容は清に服従すること、明との断交、朝鮮王子を人質として送ること、莫大な賠償金を支払うなど11項目に及ぶ屈辱的内容であり、三田渡で仁祖はホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をし、清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった(大清皇帝功徳碑)。清に対する服属関係は日清戦争の下関条約が締結され、朝鮮が大清皇帝を中心とした冊封体制から離脱する1895年まで続くことになる。三田渡の屈辱により仁祖は逆に「反清親明」路線を強く出し、滅亡寸前の明へ一層事大していった。

政治・経済・外交とも混乱の極みの時代ではあったが、この時代には、宋時烈・宋浚吉などの学者を輩出し、朝鮮朱子学である性理学の大きな発展が見られた。一方でこれらの朱子学は党争をかき立てた。 仁祖は貨幣経済の立て直しを図った。朝鮮では貨幣の材料である銅を日本に依存していたため、慶長の役以降はまともな貨幣が造れない状態が続いていた。仁祖は貨幣としての価値を失った「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を流通させ、貨幣経済の流通を促そうとしたが、後の2つの胡乱などにより、思うように進まなかった。再び充分な量の貨幣が流通し出すのは1678年の粛宗の時代に入ってからになる。

次代の孝宗の時代に入ると反清論はさらに高まり、北伐論が持ち上がり、軍備の増強が進められた。しかし、征清の機会は訪れないまま北伐は沙汰止みに終わった。この時期、ロシア・ツァーリ国が満州北部の黒竜江まで勢力を広げており、清の要請に応じ、征伐のための援軍を派遣(1654年と1658年の羅禅征伐)している。

清の中国での覇権が確立した第18代顕宗の時代に入ると、社会的には平穏な時代が続く。しかし発達した朝鮮朱子学が禍となり、西人と南人により礼論と呼ばれる朝廷儀礼に関する論争を原因とする政争が政局の混乱をもたらした。その中でも服喪期間に対する論争で、西人派が勝利し、南人派は勢力を殺がれた(己亥礼訟) 。顕宗は終わりのないこの論争を止めさせるため、1666年に服喪期間に関する取り決めを行い、これ以上論争を起こした場合は厳罰に処すと取り決めた。だが1674年に孝宗妃の仁宣王后が亡くなると再び服喪期間の論争が巻き起こり、今度は逆に西人派が失脚し南人派が朝廷を掌握するようになる(甲寅礼訟)。

粛宗による換局政治

次代、粛宗の時代に入ると党派政争はさらに激しくなり、その対策として粛宗は礼論を逆手にとり、わざと政権交代を繰り返す換局政治を行うことで、党派勢力の弱体化と王権の拡大を試みた。1680年の庚申換局(キョンシンファングク)で西人に権力を掌握させると、1689年には、己巳換局(キサファングク)で今度は南人の手に政権が移った。1694年の甲戌換局(カプスルファングク)で再度西人に権力が移るという具合であった。その後西人は老論と少論に分裂する。

Re: 日韓の戦い 【9月9日 完結】 ( No.16 )
日時: 2019/09/08 23:35
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第6章「朝鮮半島史」第3話「日韓併合の真実」

粛宗は胡乱以来続いていた民政の安定を図り大同法の適用を拡大し、社会の安定に力を入れた。また常平通宝の鋳造・流通を行うなど経済政策にも力を入れた。この時代には清との間での領土問題や日本との間に鬱陵島とその周辺の島々をめぐる帰属問題が起きた。江戸幕府は鬱陵島を朝鮮領土として承認し、同島への日本人の立ち入りを禁止するという協約を結んだ。猶現在日韓で問題となっている竹島=独島の帰属問題で、韓国側はこの交渉の際竹島=独島は鬱陵島と同様に朝鮮領土と合意されたと主張しており、対して日本側はこの交渉に竹島=独島は含まれていないと主張している。

1720年に粛宗が亡くなると再び党争は激化し、老論と少論の間での政争は絶え間なく続いた。景宗が即位すると、主力勢力であった老論が権力争いに敗れ、少論が政局を握った。政権を奪った少論派は1721年から1722年に渡って、老論の粛清を行った(辛壬士禍)。

蕩平策による王権強化

景宗は短命で亡くなり、1724年に第21代王として即位した英祖は熾烈な党争を抑えるために、蕩平政治を行い、要職に就く者を各党派からバランス良く登用する事で政争を抑えた。蕩平策は始め老論、少論を中心に人材登用していたが、1728年には朝廷から追放された少論、南人派による李麟佐の乱が起きるとそれを逆手にとり、南人、小北にもその適用を拡大し、これら4党派を均等に登用することで政治のバランスを取ろうと試みた。各党派は自己の党勢の拡大のため、様々な策を弄してこれに対抗したが、英祖は逆に蕩平策を強化し、同党派同士の婚姻の禁止、蕩平科の設置など、更に蕩平策を強化し、政治は安定した。

その裏で各派は、世子問題などを利用して主導権を握ろうとの計略を何度も実行していた。代表的なのが荘献世子事件である。1762年英祖が、健康上の理由で荘献世子に公務の代理を務めさせようとすると、南人・少論・小北の勢力は荘献世子側に付き、老論の勢力はこれに反発する継妃の貞純王后や王女の和緩翁主などを巻き込み、英祖との離間策を試みた。この策は上手くはまり、荘献世子は精神を病んでしまい異常行動を取るようになった。それに激怒した英祖は自決を命じ、最終的に荘献世子は庶民に落とされ、米びつに閉じ込められ餓死させられる。事件後、荘献世子には「思悼」と言う諱号が送られた。この事件を深く悔やんだ英祖は蕩平策をさらに強めるが、朝廷内の党派はさらに分裂を生じ、荘献世子の死は正当であるとする老論を中心とした僻派(時流に逆らう派閥という意味)とその死に同情し、不当とする南人・少論を中心とした時派に別れ、それぞれの党派がどちらかに属すなど、党派の分裂はさらに混乱を極めた。

なお、この時代の1763年には日本へ赴いた朝鮮通信使がサツマイモを持ち帰っており、飢饉時の食糧対策として取り入れられた。

英祖の晩年になると、水面下で行われていた党争は再び表面に現れて来る。英祖の治世期間は52年と非常に長く、次代の正祖の時代に入ると新たな局面を迎える。謀殺された荘献世子の息子であった正祖は、1776年、王位に就くと反対勢力である老論の排除を始め、自らの側近で朝廷内を固めた。その代表格が洪国栄であり、洪国栄が実際の政務を取り仕切っていた。この時代を洪国栄の勢道政治の時代と呼ぶ。しかし1780年王妃毒殺未遂事件が発覚すると洪国栄は追放され、正祖による文化政治が行われる。基本的には英祖の蕩平政治の継承であり、派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策であった。英祖晩年に劇的に構成が変化した党派、僻派と時派を中心にした蕩平策を取り入れた。正祖は党争を嫌っていたものの、父の死を正当とする僻派勢力よりも父の死に同情的な時派寄りの立場を取った。しかし、僻派と時派による政治的党争は依然として続いたままであった。

キリスト教カトリックの伝来と弾圧

この頃に中国を経由してカトリックが流入してきており、そのカトリックの儀式が儒教の儀式と相反することから、このことが党争の争点となってくる。僻派はカトリック葬礼などの儀式は儒教の礼儀に反するものだと攻撃し、攻西派を形成した。一方、時派勢力はカトリックを黙認したり、受容するなどの動きを見せ信西派の勢力を形成した。この問題は朝廷でも問題になってきており、1791年に最初のカトリック弾圧事件(辛亥邪獄)が起きた。攻西の僻派は徐々に勢いを取り戻してくる。1795年に中国人神父の密入国事件が起きると、更に僻派は勢いを増し、蕩平政治は崩壊する。信西派の多い南人勢力はほとんど追放され、老論僻派のみが朝廷に残っているという状態であった。この時代は英祖の50年以上にわたる文化政治と清からの西洋文明の流入もあいまって、文化的発展を見た時代でもあった。しかし党争の激しい朋党政治は行き詰まりを見せ、既に崩壊寸前であった。

1800年、純祖は10歳で即位したため、英祖の継妃であった貞純王后が代わりに執政を行った。貞純王后は蕩平政治を完全にやめ、僻派の利権を優先する政策を採った。そのために蕩平支持派の勢力を大量殺戮し、僻派の要人を大量登用して僻派政権を樹立させる。一方で、1801年、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した(辛酉教獄)。この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。カトリックへの弾圧はこの後も1815年、1827年、1838年、1839年(己亥教獄(朝鮮語版))、1846年(丙午教獄)、1866年(丙寅教獄)など、断続的に行われた。

安東金氏の勢道政治から大院君へ
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1802年、金祖淳の娘が王妃純元王后になる。1804年、14歳になった純祖による親政が始まった。金祖淳は時派に属していたが、党派色を表に出さない事で貞純王后の士禍から逃れることが出来た。1805年貞純王后が亡くなると、金祖淳は王の外戚として政治の補佐を行うようになり、貞純王后によって登用された僻派の要人を大量追放する。その一方で、王の政治を補佐するとの名目で、自分の本貫である安東金氏の一族から大量に人材を登用する。このことで士林派による政治は終焉を迎え、金祖淳を筆頭にした安東金氏が政治を壟断する勢道政治の時代が始まる。安東金氏による政治の専横が始まると、官職から追放された両班があぶれ、また政治綱紀が乱れ汚職・収奪などの横行が頻繁に起こるようになり(三政の紊乱)、農民反乱が頻発した(朝鮮後期の農民反乱)。1811年に起きた洪景来の乱は農民だけでなく、西北地方への地域差別に対する反発や没落両班、新興地主などを巻き込んだ大規模な反乱となったが、1812年に鎮圧された。安東金氏は次代、わずか7歳で即位して22歳で崩御した憲宗、次々代王哲宗にも王后を送り込み、外戚として権勢を振るった。勢道政治は、哲宗の時代に絶頂を迎え、59年にわたって朝鮮の政治を牛耳っていた。


丙寅教獄におけるフランス人宣教師への拷問(1863年)。このとき殺害された宣教師とキリスト教徒達のための報復としてフランスによる朝鮮遠征が行われた

アメリカ軍によって占領された江華島の要塞(1871年)

壬午事変で焼き討ちされた日本公使館から脱出する公使館員(1882年)

甲午農民戦争の首謀者として逮捕された全琫準(1894年)

ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)
日本、中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている

日露戦争の風刺画
1845年にはイギリスの軍艦が済州島付近の海域に侵入。1846年には、フランス海軍によるカトリック弾圧に対する抗議など、西洋列強の干渉が始まる。

安東金氏による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。王族は直接政治へ関与できなかったために手をこまねいているしかなかったが権力奪取の動きが出てくる。1863年に第26代王高宗が即位するまで、依然、朝廷の権力は安東金氏が掌握していた。憲宗の母である神貞王后(趙氏)と李昰応(昰は日の下に正。興宣君)は、この権力構造を打ち破り、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。李昰応は、安東金氏の目をそらすために安東金氏一門を渡り歩いて物乞いをするなどし、安東金氏を油断させる事で護身を図った。やがて哲宗が重病に陥ると、自らの次男の聡明さを喧伝し、哲宗が亡くなると神貞王后と謀り、自分の次男を孝明世子(翼宗)の養子とし、そのまま高宗として即位させた。神貞王后が高宗の後見人となり、李昰応は大院君に封ぜられ(興宣大院君)、摂政の地位に就いた。このとき高宗は11歳であった。

興宣大院君が摂政になるとまず行ったのは、安東金氏の勢道政治の打破であった。安東金氏の要人を追放し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして、朝廷の風紀の乱れをただす事に力を入れた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くした。

攘夷と開国

大院君政権は、迫り来る西洋列強に対しては強硬な鎖国・攘夷策を取った。この極端な攘夷策が、後の朝鮮朝廷の混乱の遠因となった。まずカトリックへの弾圧を強化し、1866年から1872年までの間に8千人あまりの信徒を殺害した(丙寅教獄)。この折のフランス人神父殺害の報復としてフランス政府は、1866年、フランス軍極東艦隊司令官のローズ提督は戦力のほぼ全てを投入して(軍艦7隻、兵約1300名)して江華島の一部を占領し、再度の侵攻で江華城を占領する。しかし首都漢城へ進軍中に文珠山城と鼎足山城で発生した2つの戦闘で立て続けに敗北したフランス軍は漢城への到達を諦め1ヶ月ほどで江華島からの撤退を余儀なくされる(丙寅洋擾)。

一方、この事件の2ヶ月前にはアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられてしまう(ジェネラル・シャーマン号事件)。アメリカは同事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、1871年には軍船5隻を率いて交渉に赴いた(辛未洋擾)。この交渉が朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されるとアメリカ軍は江華島を占領し、通商を迫った。しかし大院君の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は1ヶ月で交渉を諦め撤退する。

閔妃一派によるクーデター

大院君はこれらの攘夷政策の成功を以って、さらに攘夷政策を強化するが、1866年になると王宮に入った閔妃の一族や大臣達が、大院君の下野運動を始める。1873年、閔妃一派による宮中クーデターが成功、高宗の親政が宣言され、大院君は追放される。一方で政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治へと逆戻りしていった。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、朝廷の混乱の原因の一つとなった。

1875年に江華島周辺で停泊中の日本軍艦を沿岸陣地の砲台から攻撃した事件(江華島事件)が発生し、翌1876年に日朝修好条規(江華島条約)を締結して日本側に謝罪した。それ以降、閔氏一族らを主流派とする閔氏政権は、大院君の攘夷政策から一転して開国政策に切り替え、アメリカ(米朝修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を結んだ。一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻になっていた。

攘夷派と揺れ動く閔氏政権

また、日本から顧問を呼び近代式の新式軍隊の編成を試みていたが、従来の旧式軍隊への給与不払いや差別待遇などが行われていた。これらに不満を持った旧式軍隊は、大院君・斥邪派(攘夷派)の煽動も有って、1882年に閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた(壬午事変)。この軍乱で新式軍隊の教育を支援していた日本も標的とされ日本公使館が焼き討ちにされ日本人が多数殺害された。一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除、大院君は清に連行された。事変後には済物浦条約が締結され[30]、日本に謝罪を行うとともに日本人保護のために日本軍の朝鮮駐留が認められた。清によって復権した閔氏政権は、親日開明政策から開明に消極的な親清政策へ大きく転換する事になる。清と結ぶ保守的な事大党が権力を握り、日本と結んで朝鮮の清からの自主独立と近代化をめざした開化派(独立党。金玉均、朴泳孝ら)と対立し、親日開化派は孤立した[30]。また混乱から国内では反乱が生じる。1884年12月、開化派がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、袁世凱率いる清軍の介入により3日間で頓挫し、清国軍と朝鮮人によって日本公使館は焼き払われ日本人数十人が殺害され、金玉均らは日本に亡命した(甲申政変)。事件後には守旧派によって開化派への処刑が徹底的に行われ、開化勢力は消滅し、清国の影響力が増大した。1885年にはイギリス軍によって巨文島が占領された(ポート・ハミルトン事件)。

また1894年には東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発すると親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾に介入し、乱は官軍と農民の和議という形で終結するが、淮軍と日本は朝鮮に駐屯し続けた。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。しかし、攘夷派であった大院君はもはや傀儡に過ぎず、実際の政治は金弘集が執り行っていた。なお東学党の乱に先立つ1894年3月28日、金玉均が上海で閔氏勢力の差し向けた刺客により暗殺されている。

清からの独立:大韓帝国

1894年、駐留していた清軍と日本軍との間の軋轢から日清戦争が勃発し、日本軍が勝利すると、下関条約によって朝鮮と清朝の冊封関係は終わり、朝鮮は清への服属関係を廃棄し、独立国となった。

しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。これにより1895年10月に閔妃が惨殺される(乙未事変)。自分の后が暗殺された高宗は1896年、ロシア領事館に退避する(露館播遷)。1年後高宗は王宮に戻るが、これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、これにより王権は失墜し、日本とロシアとの勢力争いを朝鮮に持ち込む結果となった。1897年、朝鮮は大韓帝国と国号を改称し、元号を光武とした。

糟谷憲一は、「開国をもとめる欧米列強にたいして朝鮮が交渉を宗主国清に委ねたところから、清との宗属関係が強化・再編」、列強との条約も清の強い指導のもとに行われ、そのことに反発した朝鮮が「宗属関係を廃棄、ここに朝鮮の『独立』が実現した」結果、列強が清に気兼ねすることなく朝鮮に進出する契機を与えることになったと指摘している。

日本への併合と朝鮮王朝の滅亡


一進会によって漢城に建立された日本を奉迎する門(1907年)
1904年になると、日露戦争が勃発し、日本が勝利する。1905年には第二次日韓協約が締結された。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。これら一連の主権接収の責任者となったのは伊藤博文であった。一方、高宗も1907年オランダのハーグに密使を送り、列強に保護国化政策の無効化を訴え出るが(ハーグ密使事件)、この主張は国際社会に拒絶された。これらの動きに対し李完用などの親日派勢力、及び韓国統監伊藤博文は高宗に譲位するよう迫り、同年退位した。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である純宗が即位した。

1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。日本政府内では併合派と反対派が拮抗しており議論が紛糾していた。元老でもあり日本政界に発言力を持っていた伊藤博文は併合派に対して異論を唱え、併合には反対の姿勢をとった。彼が併合に反対する理由として述べたのは、

現在の保護国化状態でも実質的には併合した場合と同じく朝鮮を支配でき、又韓国進出の口実として用いてきた『韓国の独立富強』という建前を捨てることは却って益なしである。
加えて財政支出の増大を招くことからも併合は勧められず、今は国内の産業育成に力を注ぐべきである。ということであった。
1909年10月26日に伊藤博文が安重根によって暗殺されると、韓日合邦を要求する声明書が朝鮮人によって出されるなど併合派が優勢となり韓国併合および大韓帝国の滅亡は決定的なものとなった。(韓国人が望んでいたのはあくまで、対等合併であり、日韓併合の実情とは異なる)本政府は韓日合邦を掲げる韓国一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉を進め、1910年8月22日に韓国併合ニ関スル条約が締結、ここに大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は完全に消滅した。なお、韓国皇族は日本の皇族に準じる地位(王公族)に封ぜられ、処刑もしくは追放などの厳罰処置は行われなかった。

日本に併合されて(大韓帝国が滅亡して)まもなく、朝鮮人の一部宗教家や学生らによる三・一独立運動又は「三・一鮮人暴動」と呼ばれる反日蜂起が起こったが、朝鮮総督府当局の鎮圧により終息した。

日韓関係史はここにて終了した__

Re: 日韓の戦い 【9月9日 完結】 ( No.17 )
日時: 2019/09/08 23:36
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第7章「新たな新時代」第1話「服従の韓国」

1910年、大日本帝国は大韓帝国との間に結ばれた「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)の締結によって大韓帝国を併合し(韓国併合)朝鮮総督府の統治下に置いた。日本の同盟国のイギリスやアメリカ、フランスやドイツ、中華民国などの世界の主要国はこれを認めた。

日本による統治期間は、1919年の三・一独立運動までの武断統治期、それ以降日中戦争に至るまでの文化統治期、および日中戦争、太平洋戦争から終戦に至るまでの戦時体制期に大きく分けられる。

併合当初の10年間は所得税の免税措置を行い、さらに日本統治以前は進んでいなかったインフラストラクチャーの整備や、近代教育制度(朝鮮語は必須科目)や近代工業の導入など統治下に置いた朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出した。これにより朝鮮人の海外への流失を抑制し日本本土への流入も抑え本土の失業率上昇や治安悪化をも防止しようとした。

一方で、憲兵警察制度(併合年で7,712名。その内、朝鮮人は4,440名])や、内地と同様の言論・結社の自由の厳しい制限などに代表される武断統治により、朝鮮王朝末期から続いていた抗日運動を抑えようとした。1919年には三・一独立運動が起こったが、日本の憲兵警察により鎮圧された。1920年の尼港事件では朝鮮人パルチザン400~1,000人程が加わった赤軍は、ニコラエフスクの住民を虐殺し、僅かな日本軍守備隊を襲撃し全滅させ日本人居留民を皆殺しにしている。

三・一独立運動以後、日中戦争に至るまでの期間は三・一運動や大正デモクラシーの影響などにより朝鮮総督府は従来の統治政策を修正し、内地と同様に言論や結社の自由が与えられたため、比較的自由な雰囲気の中で、朝鮮人による様々な民族運動が繰り広げられた。朝鮮は日本統治以前は厳しい身分制度に支えられた専制政治が行われており、李氏朝鮮時代は独立協会などの団体が民主主義運動を行っていたー1933年に日本政府によって民主的選挙が導入されると、道議会議員の8割以上が朝鮮人となり、忠清南道知事は初代以下ほとんどが朝鮮人によって占められており、その他の道知事も同様であった。朝鮮文学の発展が見られ、大都市を中心に大衆文化の発展も見られた。満州国と接する北部国境地帯では、共産主義国家であるソビエト連邦の支援を受けた朝鮮独立を掲げる共産ゲリラと朝鮮総督府との散発的な戦闘も発生している。


大型ダムの建設によって電力を供給した(水豊ダム)
1929年にカーネギー財団から朝鮮半島に派遣されたアメリカ人記者らは、「日本は併合以来19年間にして、数百年間停頓状態にあった朝鮮と、近代文明国との間に渡り橋を架けてやった。・・・また朝鮮人の苦しみもあるかも知れぬが、日本は莫大な利益をもたらしていることは明らかである」などと「李氏朝鮮時代よりも日本統治によって朝鮮人民は救われている」との評価をしている。

1931年7月2日に、中華民国吉林省長春市郊外で、朝鮮移住民と中国農民の衝突事件(万宝山事件)が起こり、その報復として、朝鮮人による華僑虐殺事件(朝鮮排華事件)が朝鮮および日本本土で起き、日中間の外交問題となった。

1931年9月に、満州事変が勃発すると、満州に居た多数の朝鮮人小作人は親日へと転化した。朝鮮半島でも「内鮮一体」が主張され、皇民化推進団体が結成された。三・一独立運動の首謀者の一人である崔麟も太平洋戦争開戦のときには親日家となっており、太平洋戦争を「聖戦」と讃え、日本の支援を積極的に行った。また、玄永燮は朝鮮語を禁じるべきだと主張し、李東華は朝鮮人にも日本人と同様に兵役の義務を与えるべきだと主張し、朝鮮神宮では「国威宣揚武運長久祈願祭」が挙行されるようになった。李覚鐘は「私共は大日本帝国の臣民であります」「私共は互いに心を合わせて、天皇陛下に忠誠を尽くします」「私共は忍苦鍛錬して、立派な強い国民となります」と書かれた皇国臣民ノ誓詞を書いた。

1936年に朝鮮に行った神戸正雄は「事変前には日本反抗の気分もあったが、第一に満州事変、次に支那事変によりて日本と合体することの朝鮮人にとりて有利ということが明らかになって、今では全く日本内地と協調しつつある」と述べている。またこの頃、多くの朝鮮人が自らの意思でより良い職を求め内地へと向かい、その後その多くが「在日韓国・朝鮮人」として日本に定住している。

韓国併合後、朝鮮語は公教育で必須科目として教授されていた。第二次世界大戦中は、戦時下における国策として皇民化教育や創氏改名などが推進された。戦争激化に伴い物資・情報統制が強まった為、多くの刊行物が廃刊され、1940年には朝鮮語媒体の『朝鮮日報』『東亜日報』も廃刊させられたが、『毎日新報』と官報は存続した。

日本政府は李氏朝鮮時代から朝鮮人にも日本軍の幹部を養成する陸軍幼年学校や陸軍士官学校への入学を許可したので、李王垠や洪思翊など日本軍の将官に栄達した者も多かった。1937年に日中戦争が勃発すると、朝鮮人から志願兵の申し出が行われるようになり、朝鮮人の朴春琴衆議院議員から「朝鮮人志願兵制度」の請願が出され、1938年からは朝鮮人にも兵卒の志願を許可する陸軍特別志願兵令が公布され、軍人・軍属として戦地に赴いた者も存在した。当時は陸軍を中心に、日本内地人の徴兵適齢者は枯渇しつつあり、朝鮮人を始めとする外地人も兵力の給源とせざるを得ないとする意見が広まっており、朝鮮における徴兵制をその帰結とする意見もある。しかし朝鮮人に徴兵制が施行されたのは1944年4月から、台湾人に対しても同年9月からであり、他の植民地保有国と比較して、植民地人の軍事利用には消極的であった。1944年9月からは朝鮮人にも徴兵が適用されたが、入営は1945年1月から7月の間に限られた上に、朝鮮半島か日本内地における訓練中に終戦を迎え戦場に派遣されなかった。

労働力としての徴用については、適用が控えられていた朝鮮においても1944年9月から1945年8月にかけて国民徴用令が実施された。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関−釜山間の連絡船の運航が止まるまでの7か月間であった。1959年の外務省の調べによると、戦後日本に残留した在日朝鮮人のうち、徴用で日本に来た者は245人であった。内地(日本)に渡航して来た朝鮮人の大半は、大東亜戦争以前よりより良い職を求めての個別渡航や、工鉱業、土木事業等の募集に応じてきた者であった。その一方で、2009年1月30日に韓国国務総理室の日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会は、「およそ12万人の朝鮮人が徴用された」と発表し、それを「強制動員の被害者」としている。なおこの根拠は示されていない。

日本軍の将兵を相手に慰安婦として働く朝鮮婦人も存在した。韓国では、慰安婦について政府とマスコミは「日本軍が本人の意思を無視して強制徴用などにより行った人権侵害である」という見解を取り、「従軍慰安婦問題」として日本に補償を求める動きがある 。これに先立ち日本政府が調査を行った結果[22]、植民地だった韓国や台湾から日本軍が女性を強制連行した証拠は見つからなかった。さらに、韓国の世宗大学とアメリカのサンフランシスコ州立大学の教授による共同調査でも、「女性たちが家族を養うためや横暴な親から逃げるため、あるいはブローカーにだまされたためなど、さまざまな理由から慰安所で働いた」としている。また一部の韓国の学識者と日本の右派・保守派は、慰安婦について「自主的に応募してきた売春婦である」という見解をとり、慰安婦を勤労奉仕の女子挺身隊と混同しているとする見解もある。


南朝鮮に駐留していた日本軍が降伏し、南朝鮮を占領下においた連合国軍の1国のアメリカの星条旗が掲揚される(1945年9月9日・朝鮮総督府)
1945年8月15日の連合国軍の勝利と日本軍の降伏により、日本の朝鮮半島統治は終焉を迎えた(8月15日は現在、韓国では「光復節」として祝日となっている)。日本のポツダム宣言受諾により、朝鮮半島の統治権は連合国側に移った。1945年9月2日、アメリカ戦艦ミズーリの甲板上で日本政府が公式にイギリスやアメリカ、中華民国やソ連をはじめとする連合国との間で降伏文書に調印した。1945年9月9日、降伏文書調印に伴い朝鮮総督府は解体され、京城の朝鮮総督府庁舎には日章旗に代わり、朝鮮半島の南半分を占領下においたアメリカの星条旗が掲揚された。まもなく、アメリカ軍は降伏条件には定められていなかったが日本政府および日本人の資産を没収した。

終戦後、朝鮮半島や日本に在住する朝鮮人は日本人と同じ敗戦国民にもかかわらず「自分達は戦勝国民だ」と主張し、日本人引揚者たちは検問でソ連兵や朝鮮人への女性や金品の供出を強要され、日本上陸後に15歳以上の女性は妊娠・性病検査や堕胎手術を受けた。

終戦直後、朝鮮総督阿部信行と朝鮮軍司令官上月良夫により朝鮮へは自治権が与えられ、朝鮮人によって朝鮮人民共和国が建国されたが、アメリカはこれを認めず、進駐の翌日9月9日に軍政を布告。ソ連と共に朝鮮半島を北緯38度線を境に南をアメリカが、北をソ連が占領(分割占領)した。その後、連合軍軍政期を経て北緯38度線より南側が大韓民国(韓国)、北側が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)としてそれぞれ独立を宣言する。アメリカが韓国を、ソ連が北朝鮮を支援し、1950年に朝鮮戦争が勃発した。

韓国政府は、1951年にアメリカのカリフォルニア州サンフランシスコで行われた連合国と日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の締結の際に、自国を「第二次世界大戦における戦勝国(=連合国の1国)」として参加させるように求めた。同年にアメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官補は、「韓国は日本と交戦状態にあったわけではなく、また連合国共同宣言に署名しておらず、講和条約の署名国とはなれない」ことを正式に通知し、他の条約締結国もこれに異議を申し立てなかった。

産業資源の多くが北部に集中していたため、北朝鮮は朝鮮戦争からしばらくの期間、工業生産力・軍事力などの点で韓国を圧倒していたが、韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を達成した。その理由として、輸出を重視した工業政策、ベトナム戦争への派兵にともなう特需、戦後賠償を含むアメリカや日本の経済・技術援助などが挙げられている。

李王家

方子女王と李王垠夫妻
李王家は王公族として日本の皇族に準じた華族より上位の身分とされ、貴族院に議席を持つとともに帝国陸軍軍人として奉職した。李王家の李王垠には皇族梨本宮家から方子女王が嫁入りしている。

東京府赤坂には李王家の邸宅が設けられた。李鍝は日本陸軍中佐として太平洋戦争で戦死(軍務中に広島にて被爆死)している。

一方、朝鮮人の過激派からは、純宗が李完用へ全権委任状を出すなどした経緯から、「日韓併合」の主犯とも見なされ、暗殺の対象とされた。李王世子暗殺未遂事件などが起きている。

日本の敗戦後には、日本を占領下においた連合国によって華族が廃止されたために爵位を失った。連合国の承認を得て建国された大韓民国の李承晩大統領は、軍事政権による独裁の障害になることを懸念して長年にわたり李王家の帰還を許さなかったため、李王垠や方子は在日朝鮮人となり、韓国への帰還を許されたのは晩年のことであった。

社会政策


主要都市には近代的な府庁舎が建設された(写真は京城府庁舎)
朝鮮総督府により、これまで存在しなかった高等教育や義務教育制度(日本統治時代の朝鮮の教育)や戸籍制度などの近代的な社会制度の整備がおこなわれた。

1937年には、李氏朝鮮時代から続く白白教を白白教事件で取り締まった。一方で公立学校を中心とした同化政策や、独立運動に対する警戒・取締は植民地化の経緯とあいまって朝鮮民族の日本(本国)への反感を強める人々もいた。なお公立学校では朝鮮語は必須科目であった。また、統治者としての在朝日本人の間では朝鮮人への侮蔑意識が本国の日本人以上に広まったとされ、そのことも反感を招いたともされる。朝鮮総督府側も、朝鮮人に対する侮蔑意識が統治への反感を無意味に掻き立て、円滑な統治を妨害しかねないと懸念を表明することがあった。

身分解放

統監府は1909年に戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた。これにより、身分開放された白丁の子弟も学校に通えるようになった。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された。


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