複雑・ファジー小説
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- 日韓の戦い 【完結】
- 日時: 2019/09/10 23:14
- 名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)
日韓関係の長い間…因縁は絡み合っていた…この因縁は1万年続く因縁だ…
- Re: 日韓~2つの国の運命~ ( No.1 )
- 日時: 2019/08/30 16:52
- 名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)
第1話「飛鳥時代の日韓関係」
現在の大韓民国である高句麗と新羅と百済は紀元前の時代から対立していた。
(高句麗は満州国だが、現在の大韓民国の領土にて成り立っていた。)
6世紀初期、古麗、古羅、古済と呼ばれていた三韓は名称を上の通りに変更した。
また、その後の6世紀末期に倭国が''飛鳥時代''となる。そして三韓からは倭国や飛鳥と呼ばれていた。
聖徳太子が摂政になった年に飛鳥時代になる。(推古天皇元年、593年)この飛鳥時代は694年まで続いたとされる。
7世紀に入ると三韓の対立が深くなる。618年、高句麗が隋を滅ぼして高句麗が力を持つようになる。隋を滅亡後、隋を支配した唐は後に高句麗が脅威的存在になる事を恐れ、後に約25年(644年~668年)をかけて唐は高句麗に出兵をする。
倭国では聖徳太子が善政を施し倭国は栄える事になる。しかし聖徳太子に協力をしていた蘇我入鹿は聖徳太子を越える力を持つようになる。これに怒った聖徳太子は622年4月の初旬に蘇我入鹿の逮捕命令を下すが、622年、その直後に聖徳太子は崩御する。聖徳太子は遺言の一部に''蘇我入鹿を大臣に命ずるが、私が施した政治を無駄にしてはならぬ''と言ったそうだ。そうして飛鳥は蘇我入鹿の元、動かされるようになった。絶大な勢力を持った蘇我入鹿が味方につけば''三韓一統''も夢じゃないと悟った三韓は倭国に血統関係を臨む。真っ先にそれを臨んだのは百済だった。そうして蘇我入鹿と血統を結んだ百済。優勢順位としては隋を滅ぼした高句麗、その次に蘇我入鹿を味方につけた百済、そうしてその次に新羅だ。新羅はこの時は内乱を起こしていたため、外交など気にしていられるような状況ではなかった。
新羅を統治していた真平王は倭国の推古天皇と仲が良かった。反蘇我入鹿派の推古天皇は新羅と手を組み、蘇我入鹿討伐を目論んだ。しかし、629年に蘇我入鹿は推古天皇の病死により舒明天皇を王位に据え、最高権力者となった。しかし、そこに蘇我入鹿の横暴に嫌気が指した男が現れる。それはその時幼かった舒明天皇の息子の中大兄皇子(後の天智天皇)だ。
3年後…632年中大兄皇子は横暴な武王が仕切る百済との血統を嫌い、新羅との同盟を組む事を舒明天皇に進言する…
終
- Re: 日韓~2つの国の運命~ ( No.2 )
- 日時: 2019/08/25 02:10
- 名前: 渾身 (ID: q7aY8UsS)
第2話「中大兄皇子の政変」
632年 中大兄皇子は横暴な武王が仕切る百済との決闘を嫌い、新羅との同盟を組む事を舒明天皇に進言する。その頃、新羅の真平王は崩御し、三韓の初の女王が誕生する。後に波瀾万丈な人生を送る【善徳女王】だ。この善徳女王の即位には三韓はもちろん、倭国や唐までもが驚いた大きな大事だった。
633年 百済は新羅に攻め入り、新羅討伐のために専念した。その討伐には倭国の蘇我入鹿が加わった。倭国の加勢兵力は5万ほどだったらしい。そうして新羅は窮地に陥るが、新羅は高句麗に援軍を請い、百済の討伐軍の退却に成功する。
642年 舒明天皇が崩御し、その妻の皇極天皇が即位する。その頃には既に中大兄皇子は成人しており妻を娶っていた。そして武王が崩御し、百済では義慈王が即位した。臣民らは幼き頃からの聡明さを称えて''海東曹子''と呼んだ。義慈王は即位直後、貴族の権威を弱体化させて王権を強化した。更に外交関係を築いた。義慈王は息子のプヨ・プン王子とプヨ・ファン王子を倭国に送り人質にさせた。これにより倭国の信頼性を高めた。642年7月 百済は新羅の大耶城を攻撃してその城の城主であったキム・チュンチュの婿が斬首に処される。その妻のコタソも共に斬首に処される事になる。これは新羅の大将のキム・ユシンの姪にも当たるためキム・ユシン、キム・チュンチュ共に百済に立ち向かう決心をした。642年10月 高句麗の千里長城の城主のヨン・ゲソムンが栄留王と200人近くの貴族を一夜のうちに暗殺し栄留王の甥の宝蔵王を即位させた大莫離支の職位を与えられた。ヨン・ゲソムンの政変によって即位した宝蔵王の事が認められず抗議する事となるが、後に二人は妥協する事となる。その後 高句麗は援軍を求めて遥々やって来たキム・チュンチュを監禁して、その後 唐との交通路である党項城を占領した。その後は高句麗と新羅は対立する事になる。それに目をつけた百済は高句麗と新羅を倒すため同盟を組む。(643年5月)百済は高句麗や倭国と手を組んだ。高句麗もまた、倭国と手を組んだ。倭国は百済と高句麗滅亡時までは同盟を組み続けた。
645年7月10日 中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす。(乙巳の変、現在の大韓民国では天智の乱)その後も中大兄皇子は粛清を続けた。翌年には自らが皇太子になり天皇には精神病を患う叔父の孝徳天皇を即位させた。これは自らが改革をするために精神病を患う孝徳天皇を即位させたのだろう。中大兄皇子はその後、聖徳太子が築いた政治を正すための改革である 「大化の改新」を行なった。中大兄皇子は後に天智天皇として668年の高句麗滅亡時に即位する事となる。この乙巳の変は三韓が驚いた。こうして高句麗と百済は力が衰えていった。しかし新羅は既に中大兄皇子との親交を深めておったため皇太子となった中大兄皇子は重用すべきと考えていた新羅と同盟を組もうとしていた。しかしそれは百済や高句麗の策略によって実現する事はなかった。647年に善徳女王即位に貢献したピダムが反乱を起こす。その反乱の定かに善徳女王は崩御する事となる。この崩御後に善徳女王の継娘の真徳女王が即位した。真徳女王の即位直後、真徳女王の兵法の習得ぶりが反乱鎮圧に貢献した。真徳女王は''天神女勝''と呼ばれた。真徳女王は聖骨(王の直径、帝王学を学べる王位継承者、女性も王の直系ならば帝王学を受ける事ができた。)ではなく真骨(貴族最上層)であったため幼い頃から帝王学を学ぶ事ができなかったにも関わらず、帝王学を1年受けてガンチョン大師(新羅の大師)に褒められたほど王になれる資格を持っていた。
この真徳女王を脅威的存在と捉えた高句麗や百済は対策を講じた。倭国の孝徳天皇もこれには対策を講じるべきだと中大兄皇子に言ったそうだが、中大兄皇子は聞き入れなかった。倭国は乙巳の変以降、新羅を優遇するようになった。
しかし648年 倭国に冷遇し、冷徹な皇帝の唐の李世民と同盟を組む事を決意した新羅に反発する倭国の臣下を中大兄皇子は止める事が出来ず、同盟を組まれた時から倭国は新羅を優遇する事が出来なくなってしまった。
660年 酒色に酔った百済の 義慈王を廃位すべく百済の民が反乱を各地で起こす。これを機に羅唐軍(新羅と唐の軍)は百済のサビ城を堕とす。そんな百済に倭国と高句麗は援軍を送ろうとするが間に合わず、百済は敗亡を召す。その頃、既に即位していたキム・チュンチュは百済を植民地にしようとする唐との対立を招く。しかし661年、太子だったキム・ボムミン王子がキム・チュンチュの崩御の跡を継ぎ、即位する。そうして羅唐同盟を再び組まれた。
倭国は百済の復興に尽力した。663年 百済復興の為、倭国に滞在していたプヨ・プン王子が倭国の7万近くの兵を率いてサビ城を奪還しに行くが失敗し、倭国は7万の兵士の損失を出す。倭国は百済を失い高句麗に尽力した。しかし665年に高句麗の最高権力者として君臨していたヨン・ゲソムンが死去した。ヨン・ゲソムンの息子のヨン・ナムセンは高句麗の将来を諦めて倭国を説得して高句麗を潰そうと言う。更にヨン・ナムセンは新羅にも説得する。高句麗はその事を聞き、混乱に陥る。668年に中大兄皇子が率いる大軍と唐の大軍、そして新羅の大軍、そしてヨン・ナムセンの精鋭軍が立ち上がり、高句麗は滅亡したのだった。この功績で中大兄皇子は摂政となる。その数ヶ月後には中大兄皇子が天智天皇として即位した。倭国は三国(三韓)に大きく影響したのだ。この激動の70年間、全てに倭国が関連していた事が分かる。
その後、新羅は300年間健全だった。しかし、10世紀に入ると高句麗と百済の復興計画が各地で始まり、新羅も復興計画の為に軍を動かすことになる__そして後に高麗を建国する王建と倭国の同盟も見どころとなってきます。
第2章ついに開幕!「高麗建国」
- Re: 日韓~2つの国の運命~ ( No.3 )
- 日時: 2019/08/30 16:53
- 名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)
第2章「元寇」 第3話「元寇~第1次~」
高麗についての日韓関係を語ろうとしましたが、それほど関係がなかったので、元寇時について語ります。
元寇とは、日本の鎌倉時代中期に、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元)およびその属国であった高麗(現在の大韓民国、668年に滅んだ高句麗復興によって建国された後高句麗が名称を変えた国の事を指す。)によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1回目は1274年に、2回目は1281年に起こった。この元寇を元日麗戦争や蒙古襲来とも言う。
一時の元寇では1274年11月中旬に日本の九州まで襲撃してきた。その勢いはすごいものだった。日本の兵力は1万以下だったが、元・高麗連合軍は3~4万の兵力を持ったらしい。その時、日本を率いたのは北条時宗だ。北条時宗は 以前連載していた「王城」の主人公だ。そして元からは元の皇帝クビライが自ら出兵し、高麗からはキム・バンギョンという腕の立つ武将だった。当時、高麗の国王の元宗が崩御し、新国王・忠烈王が即位した。そして忠烈王とゲリラ集団である三別抄は元に日本出征を願ったこれは1274年10月24日の出来事だ。話がズレたが、この戦いの結果を言うと、日本が勝利した。元・高麗連合軍の敗因は暴風にあったと思われる。そして止むを得ず、連合軍は兵士らに撤兵を命じた。
↑この戦いの経緯を知りたい方、多数いると思います。
ではその経緯をご紹介しましょう。元の皇帝クビライ・カイアンはは日本に使節を派遣する契機となる。1265年、高麗人である元の官吏・趙爲が日本との通交を進言した事が発端である。「日本は高麗の隣国であり、今まで漢や唐の時代からも通交を結んで参りました。故に今回もまた、日本と通交を結んでは。」と進言した。そうしてその進言を受け、早々に日本への使節を派遣を決めた。クビライは翌年の1266年に「大蒙古国皇帝奉書」を作成させ、使いのヒズルに日本へ運ばせた。使節団は高麗を経由して日本へ行く予定だ。そうして数ヶ月後…ヒズルらは高麗に到着し、当時の国王の元宗に日本との仲介を命じた。しかし、それには高額な軍事費が嵩む事を分かっていた高麗は元のその要求に応えられる事は出来なかった。しかし、クビライに元宗の国書を送り、高麗で待機していたヒズルにクビライから元宗への国書が届く「高麗王が心配する軍事費用は我ら元が負担する」と言われ、仲介を許した。
終
- Re: 日韓の戦い 【自分勝手な文在寅さん】 ( No.4 )
- 日時: 2019/08/29 17:13
- 名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)
今週の土曜日或いは日曜日に更新
今日、第3話「元寇」の更新を行いました。
- Re: 日韓の戦い 【自分勝手な文在寅さん】 ( No.5 )
- 日時: 2019/08/30 16:51
- 名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)
第2章「元寇」 「日本への使節派遣と日本侵攻計画」
仲介を許したが、やはり心配だった元宗や宋君鹿はヒズルら使節団を朝鮮半島東南岸の巨済島まで案内すると対馬を望み、海の荒れ方を見せて航海が危険である事、貿易で知っている対馬の日本人は頑なで荒々しく礼儀を知らない事などを理由に、日本への進出は利益とならないとして、高麗の官吏と共にクビライの元へ下朝した。しかし、報告を受けたクビライはあらかじめ「風浪の険阻を理由に引き返してはならぬ。必ず日本へ行け。」と。しかし元宗は「皇帝陛下の聖恩は天大にして、誓った功を立てて恩に報いたい。」と誓うが、決してその命令に従う事はなく、使節団を日本へ航海させなかった。それに対してご立腹したクビライは今度は高麗が自ら日本へ使節を派遣するようにとクビライは言う。命令に逆らうことの出来なかった元宗は高額の軍事費をその後払わされるようになった。この使節団の中には潘阜という後の朝鮮の氏族の巨済潘氏の始祖がいた。しかし、この派遣では日本の断りを受け、後日を期す事となった。そうして1268年の正月、高麗の使節団が太宰府に到来。鎮西奉行ら日本人らがクビライの国書と、高麗王の国書、それに加えて潘阜の添え書き。を受け取った。その頃日本の鎌倉幕府ではこの年の3月、北条時宗が執権に就任した。この時宗はモンゴルの暴虐な略奪や摂取を見てきた男だ。故に時宗はモンゴルに恨みを募っており、その国書を再び断る事を当時の天皇・亀山天皇もクビライらの国書を断固した。そしてその年の5月、この事を知ったクビライは怒り、高麗に厳命し、戦艦1000の造船を命じた。また同年10月にクビライは軍平10000を鍛え上げるよう命じ、戦艦1000の軍備を整えさせた。そしてクビライは日本への侵攻ルートを調査させた。1270年に南宋への侵攻を開始。実際は1273年まで激戦が続いた。こうして統一された中国と合併した。その後、4回ほど、使節を日本に派遣したが、失敗に終わった。その頃1271年、反乱を起こしていた三別抄に軍事的援助を乞うクビライはの使節が到来した。三別抄は反乱を中断し、クビライらに協力した。だいぶ省かせて頂いたが、1274年までに合計6回、日本に使節を派遣した。また、その間にものすごいほどの兵力をクビライは集め戦乱の準備をしていた。そうして第一次日本侵攻計画が始まった__