複雑・ファジー小説

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日韓の戦い 【完結】
日時: 2019/09/10 23:14
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

日韓関係の長い間…因縁は絡み合っていた…この因縁は1万年続く因縁だ…

Re: 日韓の戦い 【自分勝手な文在寅さん】 ( No.6 )
日時: 2019/09/01 03:28
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第5話「2回の日本侵攻」

1274年 10月3日、モンゴル人の都元帥・クドゥンを総司令官に任命し、漢人の左副元帥の劉復亭りゅうふくていと高麗人のホン・ジャミョンを副将とする蒙古と漢軍25,000人の主力軍と都督使・キム・ジョンヨンらが率いる高麗軍(8,000人)と水夫を含んだ総計40,000人を乗せた900の軍船が、女真族の軍勢の到着を待ち、高麗の合浦を出発。日本側はその知らせを聞き、急ぎ軍事体勢を整えた。
そして10月、対馬や壱岐、平戸・鷹島・能古の松浦党の領地に元が襲来し、日本軍を打ち負かしたとの知らせが日本の太宰府に伝わり、京都や鎌倉へ急報を発する。その頃には既に九州の御家人が太宰府に集結していた。しかし九州の御家人のほとんどは郭秦川という荒流の流れる川を通らなければならず、太宰府への集結に遅れた。その間に元軍は博多湾に襲来。その後、百道原より約3km以上離れた赤板を占領し、陣を布いた。その頃には太宰府に鎌倉軍も集まり、鎌倉軍率いる九州の御家人と逃げてきた辺境の兵士たちが元軍に立ち向かう。そうして、元軍のいた赤板に5,000の兵士で進撃し、元軍を赤板から敗走させる。そのまま日本は元軍を倒そうと九州まで追い込む。この日、大雨が降った。雨により、進撃が遅れた。これは台風の前兆だった。次の日も雨が降り続いた。すると元軍は鹿児島まで渡り、一次休戦する事になるが、その元軍の後を追った日本軍は後からやってきた5000の兵士と合流し、水戦を交える事になる。水戦を予想しなかった元軍は水戦の準備をするため、日本と交渉する「これまでに捕えた日本の捕虜の半分を返すから2日後に水戦を行おう。」と。取引をした。そして元軍は蘇原山がある蘇原へ向かい、水戦を準備した。そして赤板にいた元軍本軍と合流しようとする。イム・チハンと2,000の兵士が赤板へ向かうと、それに察知した日本の竹崎季長ら日本軍が3,500の兵士を連れてそれを追撃し、元軍を打ち負かした。結果、兵士の損失は元軍が1,800、日本は500だ。途中、竹崎が転倒し、イムらを取り逃がすが、これは圧勝だったと言えよう。200人の兵士は元軍本軍の10,000を連れて陣営に戻る。その次の日の早朝、水戦が始まる。水戦では古代の大戦争・白村江の戦いのように、小さく、モロかった日本の水艦を改善して日本は水艦を潰され、焼き払われる事を予想し、速度が速く、頑丈な水艦を創作した。そうして元軍はまたもや大敗をした。元軍の損失は4,000だったのに対して日本は1,700に圧されられた。また、雨が再び降り始めた。その理由で元軍は退いた。
3週間後…元軍は鹿児島へ退いた。その後を追撃するが、暴風がやって来る。風向きが変わり一気に日本が窮地に陥る。1274年11月23日、日本は元軍への追撃をやめ、対策を練っていると、その3日後、ひどい暴風がやって来る。1274年11月26日、退いた日本への追撃を決心した元軍は暴風に襲われ、300人損失が出る。そうして元軍は元へ帰国した。

こうして勝利した日本は2度目の進撃も恐れていた。そうして日本は防塁を作り、対策を練り、民へ義兵を請うた。そして、予備軍が30,000を超えた。だが、予想通り、日本へ再び出征をした。今度は16万の兵を連れてやって来た元軍。戦いは6月16日に始まる事となる。やはり、再び九州の暴風を受けるわけにもいかず、四国から攻める。そんな四国と広島の間の海で日本水軍20,000が待ち構えていた。それに対して本軍は10万のものの、水軍1万の割合だった元軍は、日本に打ち負かされる事となった。元軍は9,883の水軍損失を受けて、元軍は四国に留まり、高麗から4万近くの水軍援軍を待ち続けた。そうして7月下旬に水軍援軍が到着。更に1ヶ月待ち続けた飢え死にしそうだった兵士たちのための兵糧を数えきれないほど持って来た。これを運ぶために結構な時間をかけてやって来た。そうして8月上旬に日本との水戦を開始した。日本の提案として元軍の水艦に重りを投げつけ、沈めさせる作戦を講じ、その後、白村江の戦いのように元軍に火を放たせた。そして大勝利を勝ち取った日本。日本のこの勝利は大層大きいものだった。この敗戦に怒ったクビライは元軍に本軍までもを水軍にせよとの命令が下り、もろい船を何千艦も作り、8万の兵士らが水戦に移った。ちゃんとした船に乗っていた兵士は約900人ほどだ。この結果、クビライの無茶振りによって全14万の不帰還者を出した。この戦いで名将のアラテムルが重りの乗った船に沈められ、溺死し、元軍の指揮官のクドゥハス将軍も火矢によって射抜かれた。この戦いには鎌倉幕府の北条氏の力があったが、その数十年後、鎌倉幕府は滅ぼされる。また、1274年に崩御した元宗の後を継いだ高麗王の元への忠誠心によって高麗を危機に陥れた。1281年、高麗や元に日本の水軍の恐ろしさを知らせた。高麗は4万近くの軍を元に送り、赤字となった。

この元寇では日本、高麗について触れることがなかったため、元寇の説明の終わった今、話す事としよう。
この第2章では元と日本の戦争について話したが、高麗と日本でも激突があった。高麗は日本の朝廷に幾度も兵士を入れた。1274年に後宇多天皇が死んだ事に毒殺説が出ている。これも高麗刺客が高麗朝廷に忍んだ8日後だそうだ。故に、後宇多天皇の毒殺説は高麗の刺客によっての事かとも予想できる。また、同じ年に高麗の元宗が死んでいる。これも日本の復讐だとも言えよう。そして日本は北条氏らが元軍との戦いをしている際に、後宇多天皇が自ら出征をしたそうだ。日本の2万にも迫る大軍によって元軍に兵士を出し、軍がいなかった高麗は滅亡寸前だったが、女真族によって助けられる。

第3章「朝鮮建国」

Re: 日韓の戦い 【自分勝手な文在寅さん】 ( No.8 )
日時: 2019/09/04 18:20
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第3章 第1話「朝鮮建国」

時は西暦1391年、高麗の恭譲王はその頃、高麗王となったイ・ソンゲによって玉璽を奪われ、廃位された。その事に怒った当時の日本。そんな日本で山名氏が内乱を起こす。その内乱の定かに朝鮮でイ・ソンゲがクーデターを起こした事した。また、建国間近の明でもラジャリが反乱を起こした。西暦1391年、日韓中では戦年たたかいのどしと呼ぶことになる。

各国で戦が治まると、西暦1392年に即位したイ・ソンゲに批判が集まった。室町幕府の足利義満と明のクゥミが政攻同盟を組んだ。日本と明は「ワン氏が継いで来た高麗王室にワン氏でない血統が流れてはいけない」と理由をつけてイ・ソンゲに自らの王位退位を求めた。しかしそれに怒ったチョン・ドジョン(当時の首相)が「新たな国を建国しては?」と進言し、イ・ソンゲ側は明に「和寧」と「朝鮮」の国名のどちらかを選んでもらう事にする。そして結果は朝鮮となり、イ・ソンゲを始祖とする朝鮮王朝が始まった。1393年に高麗復興運動が始まる事になる。その時、朝鮮に不満を抱いていた日本朝廷勢力の木下 寿春きのしたとしのはるが高麗復興運動の主催者のイ・ジャヌク(高麗の学者イ・セクの孫息子)の勢力に加担し、兵1万をイ・ジャヌクに託す。それを知った朝鮮は当時友好関係を築いていた明に援軍要請をした。しかし明は再発していたラジャリの乱を鎮圧するため、朝鮮に兵士を送る事ができなかった。高麗復興運動に参加した兵士は2万を超え、当時の首都には7,000ほどの兵士しか集結する事が出来ず、1394年、その復興軍の入都を阻む事が出来ず、入宮まで阻止する事が出来なかった。すると、そこに明の援軍3万が宮中に襲撃する復興軍を包囲し、勝利を収めた。この恩を忘れる事はない。と朝鮮は明に服従関係を誓い、その後の200年間、朝鮮は明の奪取に苦しんだ。その後、明は朝鮮のイ・ソンゲに太祖(神国創立者)の座を与える。

1397年、その時の世子イ・バンソクに不満を抱くイ・バンウォンの様子が急変する。イ・バンウォンは刀を持ち、東宮殿に向かったそうだ。東宮殿に向かった先にいたイ・バンソクに刀を振り落とし、殺害した。その後、時の政敵チョン・ドジョンやナム・ウン、シム・ヒョセン、そしてイ・バンボン、更に政敵らを兄達と共に抹殺した。これを韓国では第一王子の乱と呼び、その後、バンウォンの兄、バンガンが起こした反乱を第二王子の乱という。また、一説によると第1王子の乱でバンウォンは朝鮮を貶めようとする日本の臣下・督河 信智郎かかわのしんじのろうも殺害したという。そんな朝鮮の政争を起こしたイ・バンウォンは国王に1400年に即位し、明国へ忠誠心を見せたり、朝鮮の基礎を築いた。しかし、イ・バンウォンは1416年に日本と対馬を巡って争い(応永の乱)1422年に崩御する時まで倭国が朝鮮を潰そうとした事は忘れた事はなかった。と言った。イ・バンウォンは死後、太宗(神国の建国の功労者、聖君を意味する)の名を賜った。


Re: 日韓の戦い 【領土巡り】 ( No.10 )
日時: 2019/09/07 21:58
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第4章「長い間続く日韓関係史」


7000年前 - 縄文時代に九州北部と朝鮮半島南部で交流があり、朝鮮半島で縄文土器、日本列島で朝鮮半島由来の櫛目文土器が発見されている。
紀元前10世紀後半 - 日本で稲作が開始。
紀元前37(日本:垂仁天皇29年、高句麗 : 瑠璃明王19年、新羅 : 赫居世57年、百済 : 温祚王18年) - 高句麗建国。(〜668年)
346年(日本:仁徳天皇34年、高句麗 : 故国原王16年、百済 : 契王3年、近肖古王元年、新羅 : 訖解王37年 - 百済建国。(〜660年)
356年[† 20](日本:仁徳天皇44年、高句麗 : 故国原王26年、百済 : 近肖古王11年、新羅 : 訖解王47年、奈勿王元年) - 新羅建国。(〜935年)
399年(日本:仁徳天皇87年、高句麗 : 広開土王8年(永楽9年、百済 : 阿莘王8年、新羅 : 奈勿王44年) - 百済は、高句麗に対抗するために倭国と好を結ぶ。
400年(日本:履中天皇元年、高句麗:好太王8年(永楽9年、百済 : 阿莘王9年、新羅 : 奈勿王45年) - 倭国が新羅を攻撃。
404年(日本:履中天皇5年、高句麗:好太王13年(永楽14年)、百済 : 阿莘王13年、新羅 : 実聖王3年) - 倭国が帯方を攻撃し、高句麗の好太王が撃退。
552年(日本:欽明天皇13年、高句麗:陽原王8年、百済 : 聖王29年、新羅 : 真興王13年(開国2年) - 百済の聖明王が倭国に仏像、仏画、経典などを送り、高句麗は僧を送った。
557年(日本:欽明天皇18年、高句麗:陽原王13年、百済 : 威徳王4年、新羅 : 真興王18年(開国7年) - 新羅が倭国に伽耶の調を献じた。百済が倭国に経論や律師、造仏工を献じた。
562年(日本:欽明天皇23年、高句麗:平原王6年、百済 : 威徳王9年、新羅 : 真興王23年(開国12年) - 新羅が加耶の全域を併合。
579年(日本:敏達天皇8年、高句麗:平原王21年、百済 : 威徳王26年、新羅 : 真智王4年、真平王元年(鴻済8年)) - 新羅が倭国に調と仏像を献じた。
600年(日本:推古天皇8年、建福17年) - 新羅が任那を攻撃。倭国は任那救援軍を派遣して新羅に勝利。
602年(日本:推古天皇10年、朝鮮:建福19年)2月 - 来目皇子を撃新羅将軍として朝鮮に派遣。来目皇子の病気により中止。
643年6月13日(日本:皇極天皇2年、朝鮮:仁平10年) - 高句麗で謀反があり、宝蔵王が即位。
660年(日本:斉明天皇6年) - 百済滅亡。
663年(日本:天智天皇2年) - 白村江の戦いで倭国・百済軍は唐・新羅軍に敗北。
668年(天智天皇7年) - 唐の高句麗出兵で高句麗が滅亡。草薙剣盗難事件。倭国が遣新羅使を開始。
669年(天智天皇8年) - 倭国は第7次遣唐使派遣後、第8次(702年)まで遣唐使を中断。
670年(天智天皇9年) - 唐・新羅戦争が勃発。
676年(日本:天武天皇5年) - 新羅が朝鮮半島を統一。(〜935年)
708年(日本:和銅元年) - 金上无が武蔵国で自然銅を発見。元号を和銅として、朝廷が和同開珎を発行。
716年 (日本:霊亀2年) - 朝廷が旧高句麗の渡来系移民を集めて高麗郡設置。
731年(日本:天平3年) - 朝廷の命を帯びない日本側の兵船が新羅を攻撃して大敗。翌年に東海道、東山道に節度使を置く。
739年(日本:天平9年) - 朝廷は東国からの防人を廃止。
752年(日本:天平勝宝4年)6月14日 - 新羅の王子金泰廉らが天皇に拝謁。
753年)(日本:天平勝宝5年)1月1日 - 遣唐使と新羅使との間で外交席次をめぐる争い。
758年(日本:天平宝字2年) - 唐で安史の乱。朝廷が旧新羅の渡来系移民を集めて新羅郡設置。
759年(日本:天平宝字3年) - 新羅使金貞巻が日本に入朝。
761年(日本:天平宝字5年、朝鮮:景徳王20年)1月9日 - 武蔵国・美濃国の少年に新羅語を収得させ、11月17日に東海道、南海道、西海道に節度使を設置。
771年(日本:宝亀2年)6月27日 - 渤海使が漂着。
777年(日本:宝亀8年) - 4月22日、渤海使が来訪。
799年(日本:延暦18年) - 日本は新羅との国交を断絶。
812年(日本:弘仁3年、朝鮮:元和7年) - 新羅による弘仁の新羅の賊。
820年(日本:弘仁11年) - 新羅による弘仁新羅の乱。
836年(日本:宝亀10年) - 紀三津による最後の遣新羅使。
842年(日本:承和9年)8月15日 - 朝廷が商人以外の新羅人の入国を禁止。
870年(日本:貞観12年) - 新羅による貞観の入寇。
893年(日本:寛平5年) - 新羅による寛平の韓寇。
935年(日本:承平5年、朝鮮:後百済:正開36年) - 新羅が滅亡。
936年(日本:承平6年、朝鮮:後百済:正開37年) - 高麗が半島を統一(〜1392年)。9月23日に咸吉兢が対馬に漂着、10月15日に李純達が大宰府に到着。
972年(日本:天禄3年)10月20日 - 高麗使が日本に国交を求めたが、日本は朝貢以外は拒絶。
997年(日本:長徳3年) - 高麗による長徳の入寇。
1019年(日本:寛仁3年) - 女真による刀伊の入寇。
1271年(日本:文永8年、朝鮮:元宗12年) - 反モンゴルを掲げて高麗の三別抄が蜂起。日本へ救援を求めたが鎌倉幕府は黙殺。
1274年(日本:文永11年、朝鮮:元宗15年) - 元寇の文永の役。
1276年(日本:建治2年、朝鮮:忠烈王2年)3月5日 - に幕府内で高麗遠征計画。
1281年(日本:弘安4年、朝鮮:忠烈王7年) - 元寇の弘安の役。
1375年(日本:南朝 : 文中4年、天授元年、北朝 : 応安8年、永和元年、朝鮮:辛禑元年) - 藤経光誘殺未遂事件。
1389年(日本:南朝 : 元中6年、北朝 : 嘉慶3年、康応元年、朝鮮:辛昌2年 - 康応の外寇。
1392年(日本:明徳3年、高麗:恭譲王4年、朝鮮王朝 : 太祖元年) - 李成桂が朝鮮王朝を建国。(〜1910年)
1396年(日本:明徳4年、朝鮮:太祖2年) - 李成桂は倭寇対策として壱岐・対馬討伐を命じる。
1419年(日本:応永26年、朝鮮:世宗元年) - 応永の外寇(己亥東征)。
1428年(日本:正長元年、朝鮮:世宗10年) - 室町幕府への第1回通信使正使。
1439年(日本:永享11年、朝鮮:世宗21年) - 第2回通信使正使。
1443年(日本:嘉吉3年、朝鮮:世宗25年) - 第3回通信使正使。嘉吉条約(癸亥約定)。
1470年(日本:文明2年、朝鮮:成宗元年) - 李朝が対馬に使節を派遣。日本の密航者の取り締まりを求める。
1509年 (日本:永正6年4月、朝鮮:中宗4年) - 李朝が宗材盛に在留期限を超えた恒久倭の帰国を求める使節の派遣を予定。
1510年(日本:永正7年、朝鮮:中宗5年) - 三浦の乱。これ以降、李朝は日本人の三浦定住を禁止する。
1544年(日本:天文13年、朝鮮:中宗39年) - 蛇梁倭変。
1547年(日本:天文16年、朝鮮:明宗2年) - 丁未約条。
1555年(日本:弘治元年、朝鮮:明宗10年) - 達梁倭変。
1557年(日本:弘治3年、朝鮮:明宗12年) - 丁巳約条。
1588年(日本:天正16年、朝鮮:宣祖21年) - 秀吉による海賊停止令。
1590年(日本:天正18年、朝鮮:宣祖23年) - 秀吉に向けた第1回通信使
1592年(日本:天正20年、朝鮮:宣祖25年) - 秀吉による文禄の役。
1596年(日本:慶長元年、朝鮮:宣祖29年) - 秀吉に向けた第2回通信使。
1597年(日本:慶長2年、朝鮮:宣祖30年) - 秀吉による慶長の役。
1598年(日本:慶長3年、朝鮮:宣祖31年) - 秀吉の死去により日本軍は撤退。
1603年(日本:慶長8年、朝鮮:宣祖36年) - 江戸幕府が成立。
1607年(日本:慶長11年、朝鮮:宣祖40年) - 第2代将軍徳川秀忠に回答兼刷還使が来訪。日朝国交回復。
1609年(日本:慶長14年、朝鮮:光海君元年) - 己酉約条により対馬と李朝の国交回復。
1617年(日本:元和3年、朝鮮:光海君9年) - 徳川秀忠に回答兼刷還使が来訪。
1624年(日本:寛永元年、朝鮮:仁祖2年) - 第3代将軍徳川家光に回答兼刷還使が来訪。
1635年(日本:寛永12年、朝鮮:仁祖13年) - 柳川一件。
1636年(日本:寛永13年、朝鮮:仁祖14年) - 徳川家光に朝鮮通信使が来訪。
1643年(日本:寛永20年、朝鮮:仁祖21年) - 徳川家光に通信使が来訪。
1655年(日本:明暦元年、朝鮮:孝宗6年) - 第4代将軍徳川家綱に通信使が来訪。
1682年(日本:天和2年、朝鮮:粛宗8年) - 第6代将軍徳川綱吉に通信使が来訪。
1690年(日本:元禄3年、朝鮮:粛宗年) - 朝鮮通信使の迎賓館として、福禅寺境内に客殿の対潮楼を建立。
1711年(日本:正徳元年、朝鮮:粛宗37年) - 第7代将軍徳川家宣に通信使が来訪。
1719年(日本:享保4年、朝鮮:粛宗45年) - 第8代将軍徳川吉宗に通信使が来訪。
1748年(日本:寛延元年、朝鮮:英祖24年) - 第9代将軍徳川家重に通信使が来訪。
1764年(日本:宝暦14年、朝鮮:英祖40年) - 第10代将軍徳川家治に通信使が来訪。
1811年(日本:文化8年、朝鮮:純祖11年) - 第11代将軍徳川家斉に最後の通信使が来訪。
1866年(日本:慶応2年、朝鮮:高宗3年) - 八戸事件。
1875年(日本:明治8年、朝鮮:高宗12年) - 江華島事件。日朝修好条規を結び李朝が開港。
1880年(日本:明治13年、朝鮮:高宗17年) - 日本公使館が漢城に設置。李朝から日本への初の留学。
1883年(日本:明治15年、朝鮮:高宗19年) - 李朝から日本への集団留学が開始。慶應義塾と陸軍戸山学校。
1885年(日本:明治18年、朝鮮:高宗22年) - 李朝からの輸出総額の90%以上は日本向けとなる。(〜1893年)
1894年(日本:明治27年、朝鮮:高宗31年) - 日清戦争。
1895年(日本:明治28年、朝鮮:開国503年) - 下関条約。李朝は清との冊封体制から離脱。乙未事変で閔妃が暗殺される。
1896年(日本:明治29年、朝鮮:建陽元年)2月11日 - 高宗による露館播遷(〜1897年2月20日)。改革派が独立協会設立。
1898年(日本:明治21年、朝鮮:光武2年)12月25日 - 独立協会が強制解散。
1900年(日本:明治33年、朝鮮:光武4年) - 義和団の乱。
1902年(日本:明治35年、朝鮮:光武6年) - 日本の第一銀行韓国総支店が第一銀行券を発行。
1904年(日本:明治37年、朝鮮:光武8年) - 日露戦争。2月23日に日韓議定書調印。8月22日に第一次日韓協約。
1905年(日本:明治38年、朝鮮:光武9年)9月 - ポーツマス条約。11月に第二次日韓協定。
1907年(日本:明治40年、朝鮮:光武11年)3月 - ハーグ密使事件。7月18日大韓帝国議会は高宗を退位させ、第三次日韓協約。
1910年(日本:明治43年、朝鮮:隆熙4年) - 日韓併合条約により、韓国併合。9月朝鮮総督府設置。(〜1945年)
1911年(日本:明治44年) - 朝鮮銀行設立。
1918年(日本:大正7年)1月 - アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンによる十四か条の平和原則。朝鮮の独立運動に影響を与える。
1919年(日本:大正8年)3月1日 - 三・一独立運動。
1920年(日本:大正9年) - 尼港事件。
1923年(日本:大正12年)9月1日 - 関東大震災。朝鮮人虐殺事件が発生。
1945年(日本:昭和20年)8月14日 - 日本はポツダム宣言を受諾して連合国に降伏。9月9日朝鮮総督府降伏。
1946年(日本:昭和21年)2月3日 - 通化事件。
1948年(日本:昭和23年、韓国:大韓民国30年、北朝鮮:主体38年) - 4月3日:済州島四・三事件、8月13日:大韓民国建国、9月9日:朝鮮民主主義人民共和国が建国。
1950年(日本:昭和25年)6月25日 - 朝鮮戦争。
1953年(日本:昭和28年)7月27日 - 朝鮮戦争休戦協定により朝鮮戦争が休戦。
1959年(日本:昭和34年)12月4日 - 新潟日赤センター爆破未遂事件。
1961年 (日本:昭和36年)5月16日 - 5・16軍事クーデター。
1963年(日本:昭和38年) - 李方子が韓国に帰国。
1964年(日本:昭和39年)10月10日 - 1964年東京オリンピック開催。日韓は国交がなかったが韓国選手も参加。
1965年(日本:昭和40年)6月22日 - 日韓基本条約。
1966年(日本:昭和41年)3月24日 - 日韓貿易協定。
1968年(日本:昭和43年) - 日韓議員懇談会発足。のちの日韓議員連盟。
1970年(日本:昭和45年)3月31日 - よど号事件。
1972年(日本:昭和47年)7月4日 - 南北共同声明。
1973年(日本:昭和48年)8月4日 - 金大中事件。
1974年(日本:昭和49年)8月15日 - 文世光事件。
1979年(日本:昭和54年)10月26日 - 朴正煕暗殺事件。
1983年(日本:昭和53年)1月11日 - 中曽根康弘首相、現職首相として初の韓国訪問。11月1日:第十八富士山丸事件。
1984年(日本:昭和54年)9月6日 - 全斗煥大統領、現職大統領として初の日本訪問。
1987年(日本:昭和62年)11月29日 - 大韓航空機爆破事件。
1988年(日本:昭和63年)9月17日 - ソウルオリンピック開催。
1989年(日本:昭和64年) - 韓国が海外渡航を完全自由化。李方子の葬儀が準国葬として行われて、三笠宮崇仁親王夫妻が参列。
1995年(日本:平成7年) - サッカー・ワールドカップの日韓共同開催が決定。
1997年(日本:平成9年) - アジア通貨危機。日本とアメリカを通信に韓国に金融支援。アジア通貨基金構想の発表。
1998年(日本:平成10年)10月8日 - 日韓共同宣言。
1999年(日本:平成11年) - 日韓のワーキング・ホリデー開始。
2000年(日本:平成12年) - 日韓国民交流年に指定。査証(ビザ)なし相互訪問」を恒常化。韓国で日本大衆文化開放が開始。
2001年(日本:平成13年)12月18日 - 明仁天皇による「韓国とのゆかり発言」。
2002年(日本:平成14年)5月31日 - サッカー・ワールドカップ開催。9月:日朝首脳会談・日朝平壌宣言。10月15日:拉致被害者5名が北朝鮮から日本に帰国。
2003年(日本:平成15年) - 4月:日本で「冬のソナタ」放映。「韓流」という語が日本でも知られる。8月27日:第1回六者会合で北朝鮮核問題が話し合われる。
2004年(日本:平成16年)1月 - 韓国で日本大衆文化第4次開放。日本語の歌の放送が許可される。日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法公布。
2005年(日本:平成17年) - 円とウォンを相互に融通し合う日韓通貨スワップ締結。
2006年(日本:平成18年)10月9日 - 北朝鮮が咸鏡北道吉州郡で核実験。
2010年(日本:平成22年) - 日韓通貨スワップ協定の期限を3年延長。
2012年(日本:平成24年) - 李明博大統領による竹島上陸と天皇謝罪要求。
2013年(日本:平成25年)7月3日 - 日韓通貨スワップ協定終了。
2015年(日本:平成27年)12月28日 - 慰安婦問題日韓合意。
2016年(日本:平成28年) - 日韓の相互交流が700万人を超えて2年連続で過去最高を更新。
2017年(日本:平成29年)10月 - 国際連合教育科学文化機関が江戸時代の朝鮮通信使を世界の記憶に登録決定。

Re: 日韓の戦い 【領土巡り】 ( No.11 )
日時: 2019/09/07 21:59
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第5章「古代三国志」

三国時代後半

百済から贈られた七支刀のレプリカ。石上神宮蔵。国宝
6世紀には新羅が強大になり、高句麗の領土が削られたため、高句麗は百済や倭国と友好関係を結んだ。継体天皇は大伴金村による任那4県割譲など百済へ積極的な支援を行い、近江毛野に伽耶を防衛するため朝鮮半島方面への出兵を命じたが、九州の筑紫国造である筑紫磐井の謀反により磐井の乱が起きて断念した。当時の倭国は、朝鮮半島との外交権や貿易の利益をめぐってヤマト王権と豪族の対立が起きており、吉備氏の乱や、磐井の乱もこれに含まれる。磐井の乱は物部麁鹿火によって鎮圧されたものの、出兵は取りやめとなり、新羅は加耶の全域を併合した。磐井の乱を鎮圧した朝廷は外交の統一を進めて、那津に外交施設を建設する。これがのちの鴻臚館の原型となった


百済・加耶・新羅が倭国の臣民であったことを記録する好太王碑。「倭寇」という文字が初めて確認できる記録でもある
ヤマト王権は高句麗を破り、朝鮮半島に一定の勢威を有する。新羅も伽耶の調を献ずるなど倭国を立てる外交が行われた。朝鮮の三国は仏教や大陸文化を伝えることで倭国との誼を強くしようとする外交政策が行われた。しかし、推古朝の頃に新羅は任那を攻撃したため、倭国は任那救援軍を派遣し、新羅の5城を打ち破った。来目皇子を将軍とする軍が編成されるが、九州で来目皇子が病になり派遣は中止された[22]。新羅との関係は悪化し、代わりとして百済や高句麗との関係は重視された[23]。皇極朝の頃に高句麗にて謀反があり、栄留王に対し宰相の淵蓋蘇文が王弟の子を擁立し宝蔵王が即位したことが報じられ、ヤマト王権でも東アジア外交に対する緊張感が高まった

百済・高句麗の滅亡と新羅の統一
編集
朝鮮半島は、中国の唐と新羅の同盟が成立したことで統一に向けて動き出す。唐・新羅軍は劉仁軌の唐軍と金法敏の新羅軍が百済を攻撃して扶余を陥落させ、義慈王と太子扶余隆が唐の洛陽に送られて百済が滅ぼされた。倭国は百済再興の名義で、安曇比羅夫、朴市秦田来津、阿倍比羅夫らの軍勢を朝鮮に派遣した。加えて百済の遺臣鬼室福信の要請により、倭国への質として送られていた百済の王子余豊璋を護送した。斉明天皇は余豊璋が旧百済の地に帰国する直前に百済王として即位させたと『日本書紀』に記録されている。倭国は百済の軍勢と共に白村江(現在の韓国・錦江)で唐・新羅軍と戦い、この白村江の戦いで倭国・百済軍は敗北した。百済の再興はならず、倭国は朝鮮半島から完全に撤退した。高句麗は百済の滅亡で軍事的に孤立し、唐の高句麗出兵で宝蔵王らが唐に投降して滅んだ。

唐は新羅の文武王を鶏林州都督府の大都督に任命して、朝鮮半島を羈縻州として支配しようとしたために唐・新羅戦争が起きた。新羅が唐を撤退させて朝鮮半島を統一すると、倭国は遣新羅使の派遣を始めて、新羅は日本に新羅使を派遣した。以後、遣新羅使と新羅使は中断をはさみつつ約150年間に渡って続くことになる。倭国からの遣唐使の航海では新羅の沿岸を通るため、新羅との関係は遣唐使にとって重要だった。倭国は遣唐使の第7次派遣後は新羅との関係悪化によって中断して、五島列島方面の南ルートを選んで第8次派遣を再開した

Re: 日韓の戦い 【領土巡り】 ( No.12 )
日時: 2019/09/07 21:59
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第5章「古代三国志」②

朝鮮半島は、中国の唐と新羅の同盟が成立したことで統一に向けて動き出す。唐・新羅軍は劉仁軌の唐軍と金法敏の新羅軍が百済を攻撃して扶余を陥落させ、義慈王と太子扶余隆が唐の洛陽に送られて百済が滅ぼされた。倭国は百済再興の名義で、安曇比羅夫、朴市秦田来津、阿倍比羅夫らの軍勢を朝鮮に派遣した。加えて百済の遺臣鬼室福信の要請により、倭国への質として送られていた百済の王子余豊璋を護送した。斉明天皇は余豊璋が旧百済の地に帰国する直前に百済王として即位させたと『日本書紀』に記録されている。倭国は百済の軍勢と共に白村江(現在の韓国・錦江)で唐・新羅軍と戦い、この白村江の戦いで倭国・百済軍は敗北した。百済の再興はならず、倭国は朝鮮半島から完全に撤退した。高句麗は百済の滅亡で軍事的に孤立し、唐の高句麗出兵で宝蔵王らが唐に投降して滅んだ。

唐は新羅の文武王を鶏林州都督府の大都督に任命して、朝鮮半島を羈縻州として支配しようとしたために唐・新羅戦争が起きた。新羅が唐を撤退させて朝鮮半島を統一すると、倭国は遣新羅使の派遣を始めて、新羅は日本に新羅使を派遣した。以後、遣新羅使と新羅使は中断をはさみつつ約150年間に渡って続くことになる。倭国からの遣唐使の航海では新羅の沿岸を通るため、新羅との関係は遣唐使にとって重要だった。倭国は遣唐使の第7次派遣後は新羅との関係悪化によって中断して、五島列島方面の南ルートを選んで第8次派遣を再開した。

朝鮮半島統一と日本の対応


高麗郡のあった地に鎮座する高麗神社の拝殿
朝鮮半島の統一は、倭国に大きな影響を及ぼした。滅ぼされた百済や高句麗からは多数の亡命者が日本列島へ渡り、新羅からも仏教僧らが逃れて来て、倭国はこうした難民を受け入れた。高句麗からの亡命者には高麗郡を与えて、駿河、甲斐、相模、上総、下総、下野に住んでいた遺民を武蔵国に移住させた。同様に新羅人には新羅郡(のちの新座郡)を与えている。上野、下野でも移住は行われた。高麗郡大領となる高麗若光には王(こきし)の姓が贈られており、百済の亡命者は豊璋の弟・善光が百済王(くだらのこにきし)の姓が贈られ、百済王俊哲などの人物を輩出した。桓武天皇の生母である高野新笠は、百済系渡来人の家系にあたり、2001年の明仁天皇による「ゆかり発言」に関連している(後述)。

日朝関係史の位置(九州内)日朝関係史日朝関係史日朝関係史日朝関係史 大宰府 |大宰府

九州本土の古代山城の分布
白村江の戦いの敗北と、同盟国の百済の滅亡によって、唐や新羅から日本列島への攻撃が予想された。天智天皇は防衛のために最前線の対馬、壱岐、北九州に兵士として防人を配備して、連絡用の烽を用意した。そして西日本に山城の造営を始めて、これに百済の亡命者も協力した。大宰府の防衛は水城や大野城が担当しており、大野城と椽城は百済の専門家として憶礼福留らが作業を指導した。天智天皇が近江大津宮へ遷都した理由も、防衛のために交通の便がよい地を選んだとされている。唐が西方の吐蕃から攻撃を受けて東方への進出をやめるまで、日本と新羅は戦時体制が続いた。

ヤマト王権は防衛を整えるとともに、外交や貿易の施設として筑紫館(つくしのむろつみ)を設置した。大宰府が行政機能を有したのに対して、筑紫館は使節の宿泊や検問、貿易の取り引きをする施設となり、唐、新羅、渤海との交流に用いられた。

渤海・耽羅


渤海使が訪れた秋田城の復元
唐の高句麗出兵で高句麗が滅ぼされた後、その遺民によって渤海が建国された。渤海は唐や新羅と対立したため、日本は渤海と同盟関係を結んで渤海使・遣渤海使を交換した。34回の渤海使が日本に対して朝貢を行い、出羽国の秋田城、越前国の松原客館、能登国の能登客院にも渤海使が訪れた。当初の渤海は日本との政治的な結びつきを重視していたが、渤海と唐の関係が改善すると貿易が重視された[29][30][31]。

日本は、済州島に成立した耽羅との間にも7世紀半ばから遣耽羅使・耽羅使を交換した。のちに耽羅は、莞島とともに海上貿易の拠点となる。

律令国家と新羅・高麗

律令国家の成立

日本列島では大宝律令が制定されて、それまで「倭国」を自称していたヤマト王権は「日本」を用いるようになった。外国に関する規定は中国の華夷思想をもとに定められて、天皇の統治の及ぶ地は化内、その外は化外となり、化外は隣国(唐)、蕃国(新羅、渤海)、夷狄(毛人、隼人)に分類された。これによって、奈良時代以降の日本は、朝鮮半島に朝貢を要求するという外交政策を進めた。一方で朝鮮半島を統一した新羅は対等の関係を望んで対立し、渤海も唐との関係が改善すると日本を冊封による宗主国ではなく貿易相手国と見なすようになった。

新羅と日本の緊張関係により、遣唐使が朝鮮沿岸を経由できなくなるなどの影響があったが、新羅の王子金泰廉らは天皇に拝謁して貢物を献上した。朝廷の命を帯びない日本側の兵船300隻が突如、新羅を攻撃し、大敗したとの報が朝廷にもたらされた。朝廷は日本海側の沿岸防衛のために東海道、東山道に節度使を置き臨戦態勢を整えた。その後、九州で天然痘が蔓延したため、朝廷は東国からの防人の徴兵を廃止し、壱岐、対馬の防人は筑紫国の人々とすることを決定した。新羅に敗北した唐は新羅攻撃を計画して、日本に支援を求める。しかし当時の日本は天智天皇が崩御した直後であり、唐の使者に武具などを献上して出兵を免除された。唐の新羅攻撃は、チベットの吐蕃が西部の領土を攻撃したために中止された。唐の脅威の後退により、日本と新羅は臨戦体制から平時へと移行して中央集権化を進めた。


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