複雑・ファジー小説

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【完結】春風の向こう側
日時: 2021/09/01 01:54
名前: ガオケレナ (ID: k98DLrCp)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no=12355

※この物語は、実際の事件や出来事を基にした完全なるフィクションです※

 風の吹く先には、何も無かった。既に満たされていたからだ。それに気付かなかった。気付けなかった。

 突然全ての記憶を失くした私は何者で、何処で、何をしていたのか。すべてが思い出せない。

 残された手掛かりは三つ。

 その手掛かりを追いながら、私は己がこれまで導いてきた答えを改めて覗くことになっていく。

 これは、私のこれまでと、そしてこれからを紡ぐー私の物語ーだ。


以下は順次追記予定

【主な登場人物】

私……作中の主人公。とある出来事がきっかけで記憶を失い、自分が何であるのかの一切を忘れてしまう。本名はパルヴィーズ。

レザー……私の弟。娘がいる。

マリアン……レザーの娘で私の姪。記憶に関する知識を披露する。

【しおり】

第一の手掛かり……>>1-7

第二の手掛かり……>>8-13

第三の手掛かり……>>14-20


改めましてガオケレナです。
普段は二次創作板でコソコソと自己満でしかない作品を書き続けていた私ではありますが、今回私が本来書きたかった、そして本当に伝えたかった事の一部を表してみようかなと思い遠征する事にしました。
あまり長くはない作品を予定しておりますが、その時までどうぞ宜しくお願い致します。

※コメントは雑談板の私のスレかTwitter垢へ宜しくお願いしますね※

☆2020年冬大会にて副管理人賞を頂きました。応援ありがとうございます☆

Re: 春風の向こう側 ( No.2 )
日時: 2020/08/14 20:24
名前: ガオケレナ (ID: Ak8TfSQ3)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no


 私は扉を開けて外に出てみた。
 何かが分かるかもしれない。ふとそう思ったからだ。

 途端に熱気が走った。
 頬を刺す痛みに、私は目をぎょっとさせつつ道を歩く。
 家の前には車が二台は通れそうな路地があり、右手の方向には大きな通りがあるとのことなのでそちらを進んでみた。

 騒がしい車の正体が分かった。
 片側三車線はあるだろう十分な大きさの道路が広がり、必要以上にスピードを出した自動車が尾を引くように走り去ってゆくのだった。
 振り向けば、石造りの家々が連なる。その中に私の家が、先程出てきた家があった。
 どうやら住宅地のようだ。

 イラン。その首都のテヘラン。

 私が今在る国、そして私が今居る地だ。

「イランは……西アジアに位置している国で、ペルシャとも言うの。今私たちが話している言葉もイランで話されている言葉……ペルシャ語だよ」

 いつか学校で習った知識なのだろう。私の姪を自称するマリアンが教えてくれた。私を不思議そうに見つめていた少女が彼女だ。

「大丈夫か……? 私の話す言葉はおかしくないかな?」

「大丈夫。変なところはどこも無いよ」

「兄さん……本当に記憶喪失なのか? なら、何故違和感なく言語を扱える? 俳優のスカウトでも受けているのか?」

 彼と私の年齢が近しい理由が分かった。
 彼は私の兄弟で、更に私が年長だという事だった。つまり、マリアンの父親だ。

「やめなさい、レザー。パルヴィーズは本当に記憶喪失なのよ?」

「そうだよお父さん。記憶には三つの領域があるの……知らない?」

 二人の女性に抑えられてばつの悪そうな顔をする私の弟ことレザーは「どういう事だ」と言いながら娘の説明を聞く。

「人の記憶はひとつじゃないの。意味記憶、エピソード記憶、手続き記憶。全部別々だし別の領域なの。おじさんは言葉を話せるけれど、物は使える? 車の運転とか……」

「おいおい、ちょっと待て。今の兄さんに車を渡す気か? そんな危ない事出来るわけが無いだろ」

 途端に口喧嘩が始まった。
 娘は「手続き記憶が無事なら危険でも何でもない」と言い張り、その父親は「絶対にさせない」と大人気なくその主張を譲らない。

 二人とも落ち着けと言いたくなったが、どうやらこれが"普通"らしい。互いに会話に熱くなって声を大きく上げているだけのようだが、私には不穏な光景にしか見えなかった。

 だが、父親が折れるとぱたりと喧嘩もどきは止み、二人とも口調が戻り、共にそれぞれの扱い方にも変化は起きない。

 どうやら本当に当たり前の光景のようだった。私としては親子喧嘩に発展しなかっただけでも本当に良かった思いだ。

「ねぇ、パルヴィーズ」

 皺のある女が尋ねてきた。曰く、私の母らしい。

「どうしても思い出せないのかしら……? 昔の思い出とか、人の顔とか」

「あぁ……。本当に分からないんだ。記憶がごっそりと……持っていかれたようだ」

「パルヴィーズ。私はマリアンほど頭は良くないし、どうすればいいか分からないの。でもね、協力はしたいのよ。何をすれば……いいのかしら?」

「お婆ちゃん! そうしたら、皆で旅行に行きましょうよ! 家族皆で行ったところとか……、おじさんにとって思い出深かったところとか!」

 私にとって思い出のある場所など一体何があるのか検討もつかないのだが、皆は妙に納得しているようだった。口々に彼女に賛同している。

「いい考えだね。本人は思い出せないようだが、幾らかそれらしい所はあるしな……。行けば思い出せるヒントになるかもしれないしな」

「なんて賢い子なのかしら! 私は幸せ者だわ! こんなに優しくて頭のいい孫を持つなんて」

 家族で彼女を持ち上げる光景が少し異様にも見えたが、母にとっては孫が可愛くて仕方がないらしい。ピンと来ない以上乗り気にはどうしてもなれなかったが、流れで私も参加する事になった。と、言うより私が居なければ始まらないのだが。

 こうして、私の記憶を巡る旅が始まった。

Re: 春風の向こう側 ( No.3 )
日時: 2020/08/14 20:26
名前: ガオケレナ (ID: Ak8TfSQ3)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no


 テヘランから国内の飛行機を利用して一時間。
 ファールス州はシラーズへと到着した。

 一体この地に何があるというのか、私にはさっぱり分からない。
 マリアンは嬉々として私に、シラーズには観光地が沢山あるだの、有名な街だと教えてはくれるものの、何も思い出せない私にとって理解に及ばない。

「じゃあ、これから行く所も有名な場所なのかい?」

「有名なんてものじゃないよ! この国で最も素晴らしい場所よ!」

 マリアンは昨日と比較してもとても楽しそうだった。家族と旅行できるという事が何よりも嬉しいのだろう。

 私にとっては昨日と変わらない、この四人の面々で行動している事に安心感を覚えた。

 母曰く、私たちの家族はこんなものではなく、兄弟親子を含めるとリビングが丸々埋まる程はいるという。
 本来であれば、目を覚ました私に対してお祝いを込めて家族全員で夕食を取る予定だったらしいが、それも無くなった。

 余計なトラブルを起こさないためだ。
 私もそれを望んだ。私のせいで争い事はしないで欲しいものだ。

 景色は今へと戻る。

 私たち四人は目的地へ向け、空港からタクシーを拾って向かっている。

 だが、そのタクシーは自身の社名もロゴの類も見受けられなかった。恐らく個人のものだろう。

 真っ白なペイカンは助手席にレザーを、後部座席に母と私、そしてマリアンを乗せて走ってはいるものの、果たして到着出来るのか私は非常に不安に駆られた。

 自動車の所々は錆びてボロボロであり、ボンネットが外れてエンジン部分が剥き出しになっている。

 総じて、途轍もなく古い車に見えた。
 にも関わらず異常の無さそうな排気音を轟かせている。このような姿になっても問題なく走る事が可能だという事を主張したいのだろうか。

 などと考える内に車は停止した。
 あまりにも突然止まるような動きだったので遂に私は故障でも起こしたかと思ったものだが、どうやら違うようだ。

 現実のすべてに不満を持っていそうな仏頂面の運転手はレザーからお金を受け取ると何も言わずに走り去っていった。

 周りには何も無い。
 熱く照りつける日差しと不毛な荒野以外は何も。

「何も無いじゃないか? 場所は本当に合っているのかい?」

 途中で降ろされたのかもしれない。
 私は全員分の金を払ったレザーに対して眉に皺を作りながら言った。

「何を言っているんだ? 兄さんには本当に何も見えないのかい?」

「何も……?」

「後ろだ」

 反射的に私は振り向いた。

 そして思わず愕然とした。
 圧倒されている私が居た。

 そこは、古代の遺跡だった。

 ペルセポリス。

 紀元前六世紀から紀元前四世紀にかけて世界の覇を唱えていたアケメネス朝ペルシャ。その首都であった巨大遺跡だ。

 総面積は十三万㎡にも及び、二千五百年前の柱だけとなった今でも尋常でない存在感を放っているのは明らかだ。

 紀元前三百三十年にアレキサンダーによって滅ぼされて以来、時が止まってしまったかのようだ。

 私は、入口である巨大な門をくぐり、通路に沿って歩く。
 双頭の鷲の像や碑文、そして宮殿の跡地だという巨大な柱の何本かが残っているさまを見せつけられた。マリアン曰く、ここは当時世界中からの物資が集められていた、まさに中心だったのだとやけに自信ありげに教えてくれた。

 階段を登った先には数多のレリーフが待ち構えていた。
 世界中の使者を描いたものらしく、それぞれに特徴がある。まさに、この時代のペルシャは統一を果たした世界国家だったのだと思わされる。

 記憶が無いとはいえ、本当に何千も前のものなのか疑うほどに綺麗であり、どういう訳か心が晴れていく気分にもさせられる。

 広く澄んだ青空の下の、石灰岩で作られた遺跡、プラヴァシを表した像、王の間。

 そのすべては過去の輝かしい記録であり記憶だ。
 私はそんな記憶を忘れたにも関わらず。

 何故か心が踊る。

 圧巻以外の評価が思い浮かばない景色を見つつ、この不思議な感情について考えていると、

「此処が滅ぼされた時、財宝を運ぶ為に馬が三万頭も必要だったなんて、本当だったのかしら? ねぇ、お父さん」

「いや〜……そんなの想像もつかないな」

 という、マリアンとレザーの会話を聞いてハッとしたようにその理由に気付いてしまった。

「そうだ……。此処は、この地は……誇りなんだ。私たち……イラン人にとって」

 私の体にも、イランの血が全身に流れている。

 確かに古代ペルシャと今のイランは違うかもしれない。
 ギリシャとチャイナが昔と今では同じかと問えば違うとほとんどの人は言うだろう。それと同じなのだ。

 だが。仮にそうだとしても。

 私は太古の昔より継承された一人のイランの民族。その一人なのだ。それに変わりはない。

 「まるで思い出したかのような言い方だな? ……どうだ? 何か思い出したか?」

 レザーが覗き込むようにこちらを見た。
 その隣には何かを期待しているようなマリアンと、何かにそわそわしている母がいる。

「……いや、ダメだ。思い出せない」

 そんな言葉しか出なかった。

「確かにここは凄いよ。感動的だ……。だが、初めて見たようにしか見えないし、此処がどんな場所でどんな歴史だったのか……それらすべて今日初めて知ったとしか思えないんだ。思い出せないんだよ!!」

 それぞれの表情はそれぞれに一変した。
 レザーは舌打ちし、マリアンは風でなびくヒジャブを手で押さえつつ悲しみの声を漏らし、母は相変わらず心配そうな目でこちらを見つめている。

「これを見ても何とも思わないのか? 小さい頃家族みんなで来たのを……本当に思い出せないか!?」

「あぁ……分からない……。その家族の顔も思い出せないし、私の中に変わったものなんて……何も」

 収穫なし。それを知る事が出来たことこそが今日得られた収穫だった。

 落胆しきる私たちを、嘗ての大帝国は静かに見守るように見つめながら。
 

Re: 春風の向こう側 ( No.4 )
日時: 2020/09/14 20:06
名前: ガオケレナ (ID: 1Lh17cxz)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no


 得られた物が無かった私たちを待っていたのは、家族だった。
 私たちはその日のうちにテヘランの我が家へと戻り、夕食でも食べて明日に備える。そのつもりだった。

 だが、家に戻って暫くしていた頃、何処から聞きつけたのかそれは分からないが、親戚の一人が私を訪ねて来たのだ。
 曰く、私が記憶を取り戻したのでそれのお祝いにやって来たとの事だった。

「記憶……? 私は何も思い出していないぞ?」

 次々とやって来る親戚一同に私はそのように言っては場を凍りつかせる。
中にはかなり高い肉を買ってきている者まで居た。

 これは一体どういう事なのかと、レザーと共に話を聞き、事実に当て嵌めていくとその理由を掴んだ。

 どうも、私がペルセポリスを眺めてイラン人としての誇りを取り戻したことを人伝に聞いただけでなく、噂話が何よりの好物である彼等が拡大的に話を解釈した結果なのだというのだ。

 早とちりにも程がある。
 私はレザーと共に疲れ切ったように呆れ、呆然と嬉々としてやって来る親戚たちに目をやった。

 朗報に喜ぶ親戚たちの類は二十人を超えてきた。幸い、この家は広いため彼等が一箇所に集まってもスペースは余る。その辺の問題は無い。

「私の親戚たちは……こんな調子なのかい?」

「と、言うよりは人との話が好きなんだろうな。だからこんなふざけた噂話にも飛び付く……。兄さんが目を覚ましたのも相まってこの様子だろうね」

 だが、時も経ってしまえば自分たちが聞いた話も勘違いから来たものだと各々が理解し始める。だが、かと言って帰るような真似はしない。

 私含め彼らイラン人という人種は、元々部族社会で成り立っていた民族だ。即ち、家族を大事にする。

「だとしてもだ! あんたがイラン人としての自覚を取り戻したわけだろ? それはとても良いニュースじゃないか」

 その内の一人がこんな事を言い出す始末だ。どうであれ、彼等にとってはめでたい出来事のようなので、それ以上は私も何も言わなかった。

 この国には東方よりも西洋の文化が強く流れている。テーブルや椅子はあるにはあるものの、何十人と座っての食事は出来ない。

 そのため、食布と呼ばれる大きい布を絨毯の上に広げてその上で食べる。当然インドと違って手で食べる事はしない。

 自ずと参加を表明した主婦たちによって料理は三時間程で完成し、運ばれる。
 その間男たちは何をやっていたかと言うとひたすらお喋りを繰り返していた。そこに飽きは無い。無限に宿る話題の種は時間を潰すには十分過ぎた。

 私たちは豚肉は食べない。しかし、それ以外の肉はこれでもかと頬張る。
 特に好むのは羊肉だった。独特なきつい匂いが香るも、味は抜群だ。
 その肉はトマトペーストと茄子とで混ざり合っており、それを米にかける。さながら、カレーのような料理として我々の前に出ていた。

 私は特に意識せずに食べてはいたが、我々の主食は米である。とは言っても、細くパサパサとした物ではあるのだが。

 外はすっかり真っ黒い夜に染まっていた。
 一通りの食事も済み、流石に大人しくなり始めた頃。

 親戚の一人がこのように尋ねてきた。

「ところで……お前さんはどうしてペルセポリスなんかに? 見に行きたくなったのかい?」

「いや……そんなんじゃないよ。それは……姪のマリアンの提案でね」

 不思議に思ったその人はマリアンの名を呼ぶ。彼女も、にこやかにこちらへとやって来る。

 ちなみにだが、彼女含め女性たちは皆ヒジャブを脱いでいた。室内及び家族の中では取ってもいいからだ。

「マリアンが決めたのかい? ペルセポリスに行くって」

「そうよ? 叔父さんにとって懐かしい場所とか、思い出がありそうな場所に連れて行けば何か思い出すんじゃないかなと思ったのよ」

 すると、それを聞いたその人は、何かを思い出したかのように目を丸くすると、こう言った。

「ならば……。ショマールに行くのはどうだ? 小さい頃よく行ったろう? もうあまり綺麗な水ではないが、泳ぎに行くのもいいんじゃないかな。相変わらず暑いからなぁ」

「ショマール……?」

 やはりと言うか、地名だけですべてを思い出す事は出来なかったが、どこか引っかかる思いが残ったのは確かだ。私は、頭に引っかかりを覚えつつ、食後の紅茶も飲み干しては満足気に帰ってゆく親戚たちの背を窓越しに見ては部屋の片付けを始めた。

 食器を片付け、食布を拭き、そして畳んではキッチンへと持ってゆく。

 その後になってやっと私は、ショマールについて調べる事が出来た。ベッドで横になってはスマートフォンに入っていた地図アプリを起動する。

 画面には私が今住んでいるイランが、その土地が大きく表示される。そこへ、ペルシャ語で"ショマール"と打つ。

 文字を打つことに関しては何の問題も無かった。マリアンの言う通り私の中で壊れているのは昔に関する事のみのようだ。

 検索を終えて、その地名はハッキリと映し出された。

 ショマール。それは、北の大地を意味する。

 イランという国の北には世界で一番広い湖が存在する。ショマールとはそんな湖、カスピ海とその沿岸を指す名称だったのだ。

 テヘランから車で向かえばおよそ五時間。更には、母が言うには父が遺した別荘もあるのだと言う。

 次の目的地は定まった。
 私は、今の状態では決して有り得ないなずなのだが、名前の響きにどこか懐かしさのような不思議なまでの心地よい気分を抱いては端末をベッドの脇の小さなテーブルへと放り投げた。

Re: 春風の向こう側 ( No.5 )
日時: 2020/09/23 13:16
名前: ガオケレナ (ID: HyYTG4xk)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no


 翌日。早速行動に取り掛かった。
 と、言うのも弟のレザーに一切を伝えたところ快く引き受けてくれたのだ。

「ショマールなら此処から車で行っても五時間だ。今日中の内に別荘には着けるぞ」

「でも……いいのか?」

「何がだ?」

「五時間も運転なんて……一人で大丈夫なのかい? 大変だろうに……。それに、仕事とかもあるだろうし」

 レザーは自身が所有するヒュンダイの車に近付き、キーのロックを解除する。

「仕事については心配ないよ、兄さん。部下に全部任せているからね」

「そうなのか……? じゃあ大丈夫なんだね?」

「それより行くのか? 行かないのか? 行くにしても早く着いた方がいいだろうに……。すぐに母さんとマリアンを呼んできてくれ」

 二人はまだ家から出ていなかった。準備に手間取っているのだろうか。だが、レザー曰くよくある事なのだとか。

 全員が全員という訳では必ずしも無いのだが、私含めてこの国の人々は時間を守るという意識が比較的薄いらしい。そのくせ遅れられると怒ってくるという始末だ。

 これが私の家族の中だけの話であってほしい。

 私が注意して暫くすると扉から二人が出てくる。母が鍵を閉め、マリアンが「年頃の乙女は必死」だと私を強く睨みつけながら自らの父の車へと乗った。

 私が助手席に乗り、ベルトを閉める。レザーが尋ねて来たのはそれと同時だった。

「行先は? ショマールでいいんだね?」

「あぁ。別荘でいい。もしかしたら……そこに何かあるのかもしれない」

「何も無く終わると思うのだが……」

 私は、そんな彼の心配の言葉を無視して視線を外に向けると何かを感じ取ったのか、レザーもギアを切り替えて発進させた。

 走り始めて二時間ほど経った頃だろうか。
 私は、この旅が如何に無茶なものであるかを身をもって知ることとなった。

「い……今……この車は、どこを走っているんだい?」

「どこって山の中さ。ここを越えなければショマールに着くことなんて出来ないよ」

 私は恐怖していた。声も上ずり、体も小刻みに震えている。

 この国では自動車は右側通行である。それに倣って、レザーと彼の握るハンドルは左の座席にある。所謂左ハンドルというものだ。

 つまり、私は右の座席に座している事になるのだが、何が言いたいか。

 申し訳程度に舗装されたアスファルト。路肩は砂利道。そして険しい峠道。

 私の真横にて大きく口を開いた谷底。

 この道路に、ガードレールが存在しないのだ。

 にも関わらず、私を除いた誰もが、特別臆することなく涼しい顔をして座っていられている。何故なのだろうか。

 以前の私も同様に怯えていたのだろうか。それは分からないが、だとしても今のこの状況がおかしい事は確かだった。

「もしかして……兄さん、怖いのか?」

「逆に聞くけど、怖くないのか!?」

 そう言うと、レザーは軽く微笑んだ。ちなみにスピードは出しすぎず遅すぎずと言ったところか。

「慣れ……だよなぁ。兄さんにはピンと来ないかもしれないが、昔からこの道は変わらない。毎年毎年通っていれば何とも思わないさ」

「で、でも……真下にトラックが落ちているんだが?」

 と、私は窓から崖の景色を見つめては強く訴える。それでも、彼の顔に何ら変化はない。

「ずっと昔から放置されている事故車だ。気にする事はない」

「えぇ……?」

 このような地獄はあと二時間ほど続いた。私は、決してこの地で死にたくはないとこれほどまでに強く祈った事はあるだろうかと思うほどに神に向かって祈った。そのお陰か、何事もなく恐怖の山道を無事に越える事が出来、遂に私は海を見る事に成功した。

 更に一時間ほど走って目的地である別荘に到着した。

 マザンダラン州のラムサール。

 広く、空いた土地にその建物があった。
 二階建ての一軒家。まさに、リゾート地にありがちな別荘のイメージそのものだ。
 車から降りたマリアンが早速喜びに馳せている。曰く、正月以来とのことだ。

「この家は……誰のだい?」

「それは父さんのものだったんだ。数ある遺産の中でこれを母さんが手にした。……だから気にする事はない」

 レザーはそうは言ったものの、腑に落ちないものが私の中にあった。

 心が訴えている。此処に来たのは今日が初めてではないと。

 大した量ではないが車から荷物を下ろしている母とマリアンの横を通り過ぎ、私はフラフラとした足取りで前へ、前へと進んだ。

 その先にあるのは一面真っ青な、世界一大きな湖のカスピ海。絶え間なく響く波音を頼りに、失ったはずの記憶を手探りで探す。

 不安定な足取りをした私を不安に思ってか、レザーは私に声をかけた。

「海に入りたいのか? 海水浴場は此処じゃない。もっと海沿いの、街の方へ行かないと駄目だ」

 だが、私は足を止めない。探し物はそんなものではないからだ。

 道は途中で途切れていた。適当にぷっつりと切られているように。

 見下ろせば、そこには砂浜があった。増水時はこの限りではないのだが、どうやら私の立ち位置まで海水が迫る事はないようだ。

 私はその場で座った。座り心地の悪い岩場としか言いようがないものの、その代わりなのか視界全体に水の世界が広がる、美しい姿がそこにはあった。

 こうして見ると、海にしか見えなかった。なびくのは潮風。仄かに香るのは紛れもない潮。
 果たして、これが湖なのか。遥か彼方に、別の国があるなどとどうにも想像出来ない。

 これは、果たして偶然か必然か。

 この時この瞬間、私は忘れていたが、確かに同じだったのだ。

 全く同じ地点、全く同じ場所に私は四十年前、同様に腰を下ろしていたことが。

 "それ"は突然やって来た。

 ゆっくりと、しかし反面、目にも止まらぬような速さで今にも消えそうな程の薄く脆い景色が、数多の光景が、頭の中を駆け巡るように蘇ってゆく。

 私は理解した。

 この瞬間に、当時の記憶が戻ったのを。

Re: 春風の向こう側 ( No.6 )
日時: 2020/11/27 00:11
名前: ガオケレナ (ID: qiixeAEj)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no


 千九百七十七年七月。
 十七歳にして、中等教育に入って三年目の"俺"は別荘を背に、夜風を浴びつつ石畳の上に座ってはアメリカではよく目にするであろうビールを飲んでいた。

『パルヴィーズどうしたの? 急に外なんかに出て』

 俺の後ろから若い女の声がした。しかし、俺は振り返らない。相手が分かるからだ。

『おじさんが探していたわよ? 急に居なくなったとか言い出しちゃって……』

『親父だろ? んなの気にすんなって。ちゃーんと此処には居るんだからさ』

 その女は俺の真隣に座った。肩と肩を密着させ、フリーとなっている左腕を掴むと抱き寄せ、首を俺の左肩に傾けては寄り掛かる。

 俺は口から瓶ビールを離してはそちらを見た。
 花柄のブラウス、目のやり場に困りさえしてしまう程のミニスカート。

 紛れもなく、俺の彼女のシーリーンだった。

『風が気持ちいいわ』

『だろ? 親父もいい所に別荘構えてくれたよな。お陰で気分が最高さ』

 上機嫌になった俺はもう一度口にビールを含む。喉に至っても冷たさが残る。だからこそ特別美味しく感じる。

『いつまでも……こうやって一緒に居られたら、ずっとずっとこのままだったらいいのに』

『何言ってんだよ。ずっとこのままに決まってるだろ』

 シーリーンは時々このように詩的に呟いては俺を分からなくさせる。こいつは将来詩人だ。そう思えて仕方がない。

『ねぇ、パルヴィーズ。あなたは将来何になりたいの?』

 とても考えさせられる質問だった。こうやって難しい事を言って俺を困らせるのが彼女の好物なのだ。現に既にその口元からは笑みが零れ始めている。

 俺はカスピ海の水平線を眺めながら少し考える。もう既に日が沈み真っ暗なため海の先など何も見えなかったのだが。

『俺は……医者かな』

『まぁ……』

『医者になって、親父とお袋に何かがあってもすぐに助けたいなーなんて。思ってる……かな?』

 半分本当であり嘘であった。将来のことなど真剣に考えたことなどなく、幼少期の頃の心が純白な頃に抱いた純粋そのものだ。実際、医者になる為にこれから大学に出なければいけないがその為の勉強などほとんどしていない。まさに、"理想な姿"なのだが、

『あなたは立派だわ。私、あなたが大好き』

 そんな本心を知り得ない彼女は全体重を俺に預ける。まるで、自分のすべてを委ねるように。

『あぁ。俺もだ』

 その間、彼女と目が合った。

 迫り来る未来に対する希望と不安。それらを織り交ぜた瞳はなんとも言えない輝きを放っては俺を一点に見つめている。

 それまで全身に強ばっていた力がどうした訳か抜け、徐々に瞳までの距離が縮まってゆく。

 互いの唇が軽く触れようとしたその瞬間。

『おい見ろよ、またパルヴィーズの奴がシーリーンと居るぞ』

『"ホスローとシーリーン"ってか。正に見事なラブストーリーだねぇ』

 邪魔が入った。当然誰かは知っている。こういう時に決まって横入りしてくる連中だ。

 俺たちは、またしても触れること無く引き離される。

『おいおい、そこで止めちゃうのかよ?ホスロー様ぁ』

『怖い顔すんなって』

 俺は決心した。
 空になった瓶を手に、男三人で固まってはコソコソ隠れているそちらに向かって駆けてゆく。

 いつもの光景だった。

 俺がシーリーンと仲良くしていれば必ず彼らが決まって邪魔をし、俺が追い掛ける。

 シーリーンはそんな俺を『馬鹿な人』とは言っていたものの、そんな彼女も確かにその時も笑ってはいた。

 俺もこんな日々がずっと続くと思っていた。

 しかし、運命とは残酷で悪戯好きなものなのだ。

 千九百七十八年一月。

 テヘランより南方に位置する街、ゴムにて暴動が発生した。
 内容としては反皇帝、反王室を叫んだ何ら変わりのない、ここ最近としてはよく見る暴動とかデモの類いのはず……だった。

 だが、どうした訳かこの街での暴動以降、イラン各地でこうした運動は激しさを増していき、留まるところを知らなかった。

 公然と反皇帝が叫ばれる中。

『おいパルヴィーズ!! アレは持って来たか!?』

『当然だろ! 独裁者どもに食らわせる為だ!』

 ある日の事。俺たちはデモに参加していた。

 この時代に起きた石油危機により、国民の間で経済的な格差が生じ、その結果皇帝に対する不満が高まってきていた。
 幾度も発生するデモは最早日常茶飯事となり、不穏な影が見え隠れしていた。そんな時。

『君たちは搾取されている』

『奴は文化破壊者だ』

『伝統的なイスラムを蔑ろにする皇帝。こんな事が許されるか?』

『今こそザッハークを打倒し、貧富の差の無い新しい世を作ろう』

 ゆっくりと、だが確実に湧き出ていた不満がこの時、初めて爆発した。

 このような宣伝文句に、俺たち学生も進んで政治活動に身を投じることになった。

 俺は自作の火炎瓶を手にしては、三人の盟友にそれを手渡す。
 アリと、バフマンと、アッバース。
 彼らは、つい去年までは俺の中で"シーリーンとのロマンスを邪魔をする友人AとBとC"といった認識でしか無かったのだが、それを時代が変えてしまった。

『っしゃあああっ!! 見たか!? ちゃんと炸裂しやがったぜ! ざまぁみろ!』

 デモ隊のシュプレヒコールに掻き消される中、俺の投げた火炎瓶は前方で立ち塞がる軍隊の前で破裂する。狼狽える彼らを見て俺たちは叫んだ。
 それまで俺たちの日々に不安を与え続けていた秘密警察が、その類が無力でいる様は滑稽以外の何者でもない。


 俺は、俺の友人たちは文字通り命をかけてこの革命に参加した。大いに暴れ、叫び、狂ったように笑いながら。

 後にこの革命が成就してからも俺たちはアメリカ大使館に赴いてはやはり火炎瓶を投げつけては建物を破壊したりもした。

 ここに、後に"イラン革命"と呼ばれた民衆によって引き起こされ、民衆によって達成された国家の変革が成された。イスラム法学者の偉い人が改めて姿を現したその時、俺たちは喜びに沸いた。

 俺が医者になるという夢は絶たれた。だが、この先に平和が、幸福が訪れるとするならば惜しくはない。

 そう、思っていた。


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