コメディ・ライト小説(新)

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Banka
日時: 2018/10/16 02:35
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 君の声を思い出してから夏は始まる。遥か昔、僕は初めて恋をした。君の匂いは則ち夏の匂いだった。
 ようやく溜まっていた仕事が一段落したので、ふと伸びをしてみる。パソコンから目線を逸らすとカーテンが風で揺れていて、強烈なようで少しばかりの既視感を感じる。
 あれからどれほどの時が経ったのだろう。狂おしいほど、もう何が起きても絶対に取り戻せないほどの時が流れているのに、毎年夏が来る度に君を思い出してしまうことに未だに不思議になる。
 どこか物悲しく思えるのは、君という存在と、今の自分の生活とがあまりにもかけ離れていることだった。その差が単純に時間によるものなのか、それとももっと別の何かなのか、いつ分かるときがくるのか不明で地獄のようだ。
 君の存在そのものに現実味が日に日に消え失せていくのが切なく、今ではドラマなどの作り話と何ら変わらないようにすら思えてくる。……こんなことを言うときっと君は茶化して笑うだろう。僕のこの腐ったような日常に、君がいてくれたらどれだけ幸せなことか。

 僕らの青春は一瞬だった。光の速さで駆け抜けた日々は抜け落ちた記憶で溢れていて、そこだけが未だに心残りだった。もっと長く、もっと深く君という人間を感じておけばと、今でも後悔する。
 来年もまた夏が来る。その次もきっと来るし、それは死ぬまで毎年繰り返される。その度に僕は同じ追憶をするだろう。もはや償いに似た何かを。


>>1-3 >>6-12

イメージソング:夏の幻(GARNET CROW)

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Re: Banka ( No.8 )
日時: 2018/09/26 22:55
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「先輩は居飛車なんですっけ?」
「そうだね。三、四段ぐらいまでは振り飛車党もまあまあ多いけど、そこから上に行けば行くほど居飛車党のほうが多くなってくる。突き詰めれば居飛車のほうが勝ちやすいっていうのはあるかな」
「そうなんですね……、なんかちょっと損した気分」
 彼女の目線はいじっているスマホに終始向けられている。
 そういえば、最近の彼女はスマホをいじる姿が目立つ気がする。大方LINEやTwitterで誰かと話しているのだろう。友達か彼氏か知らないが。

「あ、先輩ってLINEやってますか? 交換しません?」
 突然言われて、少し驚く。もちろん僕の人生でそんなことを女子に訊かれたことはない。
「……まあ女の子と縁がない先輩だからこんなこと言われたことないでしょうけど」
 それは本当のことだったので、何か文句を言おうとしても声にならない。LINE自体一週間に一度ぐらいしか開かない上にほとんど家族としか話さない僕は結構ヤバい部類なのかもしれない。
「じゃあ、読み取って下さい」
 はい、と渡されたスマホにはQRコードが表示されていた。この方法はかろうじて知っていて、確かアプリ内のカメラでこれを読み取るというものだったはずだ。
「あれ」
 友達登録は完了して「みやび」というアカウントは確かに追加された。そこまではいいとして、左手に持つ、彼女のスマホのLINE画面がふと目に入る。
「都美、LINEの友達少ないね」
「えっ!? あ、それは……」
 彼女のLINEの友達は異常なほど少なかった。五人というと、僕より十近く下だった。僕ですらかなり少ない部類だと思っていたが、下には下がいるとは。
「いや……、違います違います。クラスに友達はそれなりにいるんですが、わざわざLINEで話すまでもないというか……。ほら、私とLINE交換できるのって選ばれた人だけですから少なくて当然なんですよ!」
 彼女は僕が持つスマホを奪い取り、まるで宝物を持つように抱きかかえる。分かりやすく慌てていて少し可愛らしい。……いやいや、可愛いというのは人として可愛いという意味で、女としてではない。確かに顔は美人かもしれないが、誰がこんな口の悪い何考えてるか分からない茶髪で遊んでそうな女に……。

「というか、先輩、今“みやび”って……」
「あ! ごめん、LINEの名前がみやびだったからそう呼んじゃった」
「あ、はい……、大丈夫です」
 彼女の様子はどこかおかしかった。見ると下を向いたままモジモジしているようで、当然ながらそんな彼女を見るのは初めてだった。
 僕含めてLINEの友達が五人というと、他は家族と、友達が一人か二人で埋まってしまうところだ。僕もほとんど友達はいないが、彼女の友達が少ないのはなんとなく意外だった。容姿がいいというだけでそういうのには苦労しないイメージがどこかしらある。
「あ、今の、言わないで下さいね。皆に……」
 彼女はひどくか細い声のまま、俯いたまま言う。ここまで弱り切ったような彼女はかなり稀なのではないか、と一瞬思った。
 友達五人、か……。実践できなくはないな。

「ほら」
「ん?」
 僕はスマホの画面を見せた。五人しか友達のいないLINEの画面を。
 僕も本来はそのぐらいまで削れるし、家族とあと何人かの友達だけで充分だ。友達が少ないなら少ないで別に困るようなこともないので、これでいい。
 実際、十人ほどの僕が消した連絡先とは、今はほとんど会話していないので不必要だった。
「……先輩も友達五人にしてくれたんですか」
 彼女の顔に生彩が戻っていくのが分かった。
「うん。僕だって友達いないからこのぐらいまで削れるよ。これで一緒だ」
 自分がとった行動に我ながら驚いてしまう。どうせまた後で悪口でも言われるのだろうが、それでも元気のない彼女を見続けるよりマシな気がしたのだろう。
 彼女の友達が少ないことなんて、僕にはどうでもよかった。僕だって少ないし、そんなこと、この将棋部に於いて何の意味もなさないことは明白だった。
 元気になったと思ったら、一転して彼女は泣きそうな顔をしていた。「おいおい」と茶化すように言うと、彼女はすぐに謝る。
「すいません……、先輩がそんなことをしてくれると思わなくて。嬉しいんです」
「それはよかった」
「キモオタの先輩でもそういうことできるんですね。ちょっと格好よかったですよ、悔しいことに」
 と思ったら、また一転して彼女は笑顔に戻っていた。ただキモオタは中学のときにやめたはずなのでそれはきっと誤りだろう。
 格好いい。それは女子に言われるのは初めての言葉だった。彼女は良くも悪くも表裏がなさそうなので、それが本心である可能性は高い。
「じゃあ、LINEでもよろしくお願いします」
 言われて、手に持つスマホを確かめてみる。そういえばLINEの交換もしていたのだった。彼女のプロフィール画像が猫なのが意外すぎて笑える。そういうものを愛でてそうな印象は全くないのだが。
 そういえば、交換したはいいものの、これからLINEで何を話すのだろうと思った。真っ先に思いついたのが将棋部の活動日の通達だが、逆に言えばそれぐらいしかない。

Re: Banka ( No.9 )
日時: 2018/10/03 01:04
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「とりあえず、大会までお互いに色々頑張りましょう」
 大会、と言われて思い出す。それはものの一週間後に控えていて、今から緊張してくる。
 全国高校将棋選手権大会。六月に各地で行われる県予選での男女優勝者が、八月に行われる全国大会への切符を手にすることになる。一応団体戦もあるのだが、僕達の部は部員が二人しかいないためそちらには出られない。
 県予選の日は、茅野が入部したときからちょうど二ヶ月と重なる。将棋を覚えて二ヶ月で大会に出るのは恐らくかなり早い部類だと思われるが、彼女なら全国大会とはいかないまでも、県予選でそれなりにいい成績をとってくれそうな感じはしていた。
「で、それが過ぎたらどこかで何かしましょう。親睦を深める的な意味で」
「何だそのハッキリしない約束。夏祭りとか?」
「それは却下します」
 早えな、とすぐに突っ込む。まあ予想はしていたが、実際に言われてみると地味に落ち込む。そしてなんか僕がフラれたみたいな感じになっていて意味不明だ。
 まあ当然だろう。彼女は、夏祭りなんて、彼氏かその少ない友達の内の誰かと行くのだろう。例え僕と行ったとしても楽しくないだろうし、共通の話題というか、そういうものが全くもって謎だから、まず何を話せばいいのか分からない。
 お互い、今のようにこうして学校の辺境で話しているのがちょうどいいに決まっている。この部室とか、そういう将棋関係以外の所で会うというのは、少し気まずい気がした。



「将棋道場行きませんか?」というのが、彼女からの初めてのメッセージだった。
 沈黙したままのトークルームの均衡を破ったのが彼女だという事実に、未だに驚いてしまう。そしてそこから今に至るまで何回かやり取りをした内、県予選の前日である今日に、駅前の将棋道場に行こうと約束したのだった。
 そして今、駅前の噴水で彼女を待っているという訳なのだが、いかんせん彼女が来ない。約束の時間を十分以上過ぎている。……なんかドラマとかでこんなシーン見たことある気がするが、まあスルーする。
 周りを見てみると、やはり土曜の昼ということでやはりカップルが多くいる。僕のように待ち合わせをしていそうな人も皆、キラキラ溢れ出る謎のオーラに包まれていて、自分がとても場違いなような気がしてならなかった。

「あ、先輩」
「え」
 駅のほうから小走りで近づいてきた彼女が僕を呼ぶ。強い風が吹き、ざわざわと音を立てる街路樹によって周りの喧噪をかき消す。一方僕のほうはというと、彼女の姿を見て絶句していた。
「先輩? 遅れちゃってすみません」
「あ、……ああ、いいよ別に」
 彼女の私服姿は尋常じゃなかった。真っ白なカットソーと青いショートパンツという割とシンプルな装いなのだが、その中に彼女の華奢さがいくらでも詰まっているような気がした。ここら一帯にいる誰よりも輝いていると確信を持って言えるし、学校で見る制服姿とは別の良さがあった。
 このままずっと見ていると意識が飛んでいきそうなので、立ち上がった僕はさっさと先を進もうと思った。
「ええ!? 可愛い後輩がせっかく私服着てきたっていうのに何もないんですか?」
 彼女はむくれるような表情で信号待ちの僕を追う。なんかキャラが変わっている気がするのだが……。
「いくら彼女いない歴イコール年齢の先輩でもそういうことはちゃんと言うべきですよ」
 あ、やっぱり茅野だ、と少し安心する。意味不明だが、今の彼女はどこか別人のような違和感で包まれていた。
「ごめん……、こういうときなんて言えばいいのか分かんなくて。ただ可愛すぎて直視できない」

Re: Banka ( No.10 )
日時: 2018/10/04 01:47
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「先輩……」
「ん?」声がどこか変だったので、すぐに振り返る。同時に信号が青に変わり周りの人々が歩き出す。
「そういう発言までは求めてないです……」
 茅野の顔は真っ赤になっていて、僕は不思議な気持ちのまま、自分が今何を言ったのか思い出してみる。
「あ! ごめん違う、何か心の声が言葉に出ちゃってた!」
 可愛すぎて直視できない、は流石にクサい。たとえ付き合っていたとしても言うのに躊躇するだろう。
 彼女はずっとその場で悶絶していて、言った僕の何倍も恥ずかしがっているようだった。しだいに信号が赤に変わると、道路で車が走り、駅のほうからやって来た人達がさっきと入れ替わるように信号に並ぶ。
「“心の声が言葉に出ちゃってた”って、フォローになってないですよ先輩……」
 確かに。正論すぎて言い返せないので黙っていた。

 信号を渡って少し歩くと、将棋道場はすぐに見えてくる。
「このビルの三階かな」
 普通のビルだ。全階にそれぞれテナントが入っていて、喫茶店とか書店とか色々興味をそそられる所は多いが、今は行かない。
 彼女はエレベーターのボタンを押す。エレベーターは今六階にあるから階段を使ったほうが早いと思ったが、彼女に従う。
「もうー、真面目に将棋やりに来たのに調子狂っちゃいますねー」
 彼女はうんざりするように吐き捨てた。まだ引きずってるのか、と笑う。
「ごめんて……」
「まあいいですけど。先輩のほうも何となくいい感じですね。上がボーダーのTシャツとネイビーのシャツの重ね着で、下が黒スキニーって意外とお洒落なの着るんですね」
 ああ、服を褒めればいいのか、と今更気づかされる。

 エレベーターには僕ら以外乗ってこなかった。
「先輩はよく来るんですか?」
「まあまあかな。週に一回は来てるよ。結構強い人いるんだよ、ここ」
 それを聞いた茅野はどこか緊張したように見えた。僕も最初に来た頃はかなり緊張した気がする。すぐ慣れたけど。
 あのときはまだ僕も級位者だったので、今の彼女と大体同じぐらいの棋力だ。この三級から初段ぐらいの棋力の人達が道場には一番多いので、戦う相手には苦労しないだろう。
 エレベーターが三階に到着するのは思いの外早かった。多分彼女にとっては心の準備が整うより先だったのかもしれない。
「お、夕一ゆういちくんデートかい?」
 エレベーターが開いた瞬間、向こうから声をかけられる。相変わらず早い。カウンターの向こうに座っている小太りのおじさんが声の主だった。
「将棋道場デートなんて聞いたことねえよ。高校で同じ将棋部の茅野さんね」

「よろしくお願いします」
「で、こっちが席主の鈴木さん。茅野はこういう所に来るの初めてらしいから、将棋アプリと同じ二級で登録してほしい」
 そう言うと鈴木さんは何やら紙をどこかから取り出し、ペンと一緒に彼女の前に差し出す。
「よろしく! じゃ早速だけどこの手合カードっていうのに記入してもらえるかな」
 はい、と彼女は書き始める。が、すぐに手が止まる。確かに、ここでしか見ないような紙だ。意味不明なレイアウトに、年齢や段位などを書く場所がいくつも散りばめられている。どうでもいいことだが、どうやらこの紙は全国共通らしいと最近知った。
「で、夕一くんの相手なんだけど、どうやら今の時間は同レベルの人がいないっぽいんだよねー。もうちょっとしたら来ると思うんだけど」
 そう、彼は僕にも手合カードを渡してくる。僕はすぐに書き切り、対局場のほうに歩いていく。こんなに三十人ほどいる中、僕と同棋力の人がいないというのはどこか変な感じもするが、まあ級位者の人との対局でも別にいいか、と諒解してみる。

Re: Banka ( No.11 )
日時: 2018/10/09 00:47
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「先輩? 私ももう対局していいみたいです」
「ん? ああ」
 既にカードを書き終えていた彼女は、後ろから僕の横を抜け、座って対局している人達を見つめる。
 彼女が今思っていることは大体分かる。この独特の雰囲気に圧倒されているか、将棋道場が騒がしい場所だということが予想外だったのか、対局している人の平均年齢が異様に高いことに驚いているか、自分と同性の人が一人もいないことに絶望しているかのどれかだろう。基本的に将棋道場はオッサンか子供しかいない。高校生は滅多にいないし、ましてや女子なんて、本当にいなさすぎて女人禁制だと勘違いしている人がたまに出てくるレベルである。
「というか先輩、話聞いてたんですけど、そんなに強いんですか」
「まあ、この道場では四段ってことになってるけど、あんまり自分と同じ段位の人いないね」
「先輩ってそんなに強かったんですか……」

 早速指してきます、と彼女が向かったのは、とあるご老人の所だった。
 僕はそれを「頑張れ」と送り出した後、彼女の対局が少し気になったので、遅れて少し遠巻きに彼女達が囲む盤を眺めた。そういえば彼女が他の人と対局するところを見たことがないし、単純にあの日からどれだけ強くなったのかこの目で確かめようとも思った。
 当の対局は彼女が初手を指したところだった。7六歩という、将棋の歴史上で最も指されてきた初手だが、駒を持つ彼女の手が思いの外拙いので対局相手の方も驚いたようだった。ネット将棋しかしない人は駒を持つことに慣れていない。実際の盤を前にすると違和感を感じて上手く集中できないなんて人もたまにいるようだ。
 それを見た老人は、少し怪しげというか、何かを企んでいるような表情で駒を持つ。何となく感じた不快感の謎は、二手目を指した瞬間に明らかになった。
 二手目4四歩。彼女も流石に動揺を隠せないようだった。久しぶりに見た手だ。僕は級位者の頃にこれを指されて負けた記憶があるが、今の彼女は対処法を知っているのか。
 手自体を説明すると、初手で角道を開けた手に対し、わざとその間合いに歩を伸ばしたというだけに過ぎない。つまり、角で取れるのだ。しかし次に飛車を4二に回る手が出てきて、この手で先手ははっとするだろう。角を逃げると飛車が成れるという寸法だ。
 結論から言えばこの展開は先手有利である。しかしそのためには定跡を知る必要があり、気づきにくい手も多いため、その場その場で自分が考えて対処しても絶対に勝つことはできない。有利ではあるが“知っていないと勝てない”戦法の代表であり、故にハメ手と言われる。
 こういうのは、棋力云々というより、知識をつけたり経験を積むしか指し方を覚えられないものなので、将棋を始めて一ヶ月ちょっとの彼女には酷だった。実際にも、彼女はかなり一方的に攻められて負けていた。

「……大丈夫?」
 道場の隅で、憔悴しきったような彼女は一人でお茶を飲んでいた。
「どうもこうもないですよ。五連敗ですよ? 五連敗。……絶対最初のあの人のせいで流れ悪くなりましたね」
 ここで彼女は大きな一口を飲み、ペットボトルのお茶をすぐ飲み干した。その五戦は全て見ていたが、確かに、思いの外今日の彼女は勝てていない。流れが悪い、とは科学的に何の根拠もないが、人と人との勝負である以上、やはり波はどうしても出てくる。そもそものメンタルがやられている可能性も低くない。
 まあ、それはそれでいいとして、こんな感じで終わってしまうと、明日の大会に重大な影響をもたらしそうだと危惧せざるを得ない。流れというのはよく分からず、本人が大丈夫だと思っていても実際は全く大丈夫ではないということがよくある。だから、彼女がこのまま帰って一晩ゆっくり寝たとしてもまだ引きずっている可能性は高く、逆に言えばそんな短時間で解消されるような悪い流れは大したものではない。そして、もはやそれはメンタルが弱いとかそういう次元の話ではなく、その人自身は何も悪くないので責めるのはお門違いである。
「どうする?」
「まだ指すに決まってますよ、自分のダメなところはうっすら見えてきましたし。それにこのまま明日の大会に出ても、なんだかすぐ負けちゃうような気がします。よく分かんないですけど」
 そう、彼女は空いた席に移動していった。すぐに対局相手が来て、お互いに礼をする。僕はそれをどういう気持ちで見ていればいいのか分からなかった。
 凄いなこの子は、と純粋に思った。こういう状況だと、萎えて帰ってしまったり、指し続けたとしても多かれ少なかれ自暴自棄になってしまっている人がほとんどだろう。それを、彼女は勝つまで続けるという選択肢をとった。僕が気づくのに何年もかかったことを、彼女は何となく、イメージだけであっさりと捉えていたのだ。冷静さといい、既に普通の高校生のレベルではない。

Re: Banka ( No.12 )
日時: 2018/10/16 02:35
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「夕一くん。やるかい?」
 後ろから声をかけられ、すぐに振り返る。やはり声の主は田辺さんだった。今来たのだろうか。
「あ……、やりましょう。今日まだ一局も指してないんですよ」
「ははは、彼女は知り合い? 筋はかなりいいね。君が熱視線なのも頷ける」
 田辺さんは笑いながら、つい今空いた席へと移動する。彼女の将棋を見逃してしまうのはどこか寂しいが、諦めるしかない。自分は自分の対局に集中しないと本末転倒だろう。
 彼の言うとおり、彼女の将棋は確かに筋がいい。たまに僕でもはっとするような手を指すが、どこかが惜しくて勝ち切れていない。序盤や中盤の指し方は比較的上手いが、終盤力がそれに比例していないイメージだった。このクラスだと序盤力より遥かに終盤力のほうが大事なのは明白である。
 指し手はまだ三十手ほどしか進んでいないが、既に彼女の作戦勝ちといったところだった。このまま優勢を保ったまま勝ち切ってもらえるといいのだが。

 僕が初手を指したとき、周りに何人か集まってくるのが分かった。この道場でのトップレベル同士の対局なので、田辺さんと指すときは毎回何人かギャラリーが集まる。
 彼もすぐに手を続ける。僕は茅野のほうを見、一呼吸し、指した。

 こちらの将棋はもう終盤戦に突入していた。もうあと十手以内にどちらが勝ちかはっきりしそうだが、今の時点ではまだどちらが有利か分からない。恐らくこちらが少し悪いような気はする。
 手番だった彼は鋭い手つきで指し、すぐ押したチェスクロックも少し動いた。これは一気に踏み込んだ手で、“詰めろ”という、分かりやすく言えば次僕が何もしなかったら玉が詰まされて負けるので、どうにかして受けるか相手の玉を詰ますしか勝ち筋がないという状態である。
 この手は正直読めていなかった。もう両者持ち時間を使い切っていて、秒読みに入っている。終盤のこんな場面で読んでいない手が飛んでくれば普通は負けるだろう。
 僕は持ち駒の角を持つ。周囲に幾人かいるギャラリーから声があがる。指す瞬間、ふと気配を感じた左後ろを振り返ると茅野が盤を眺めていた。僕の目線に気づいた彼女はすぐに盤に目線を戻すようにジェスチャーする。いや、この将棋はもう終わる。この空間で気づいているのが果たして何人いるか。
 5六角。

「負けました」
 田辺さんが言うと、周囲から拍手が起こる。将棋が始まって初めて見た彼は顔中汗まみれだった。もう四十分ほどやっているらしく、そう考えた途端一気に疲れがきた気がする。
「お疲れ様です!」
 後ろから肩を叩いたのはやはり茅野だった。そう笑う彼女に少し驚く。
「あ……お疲れ。で、茅野の対局は?」
「先輩の対局があまりにも長かったので、その間に私三戦もやっちゃいました。全部勝ちましたよ」
 そう目の前でピースする彼女を見ていると、しだいに強い感情がこみ上げてくるのを感じた。それは掴みどころのない感情だった。いいものなのか、悪いものなのか、それすらはっきりしない。分かったと思ったらやっぱり違っていたり、そういうのが何度も繰り返される様は恐怖すら覚えてしまう。
 自分が今何を感じているのか分からないまま、何かを吐き出したい欲を必死に押さえるので精一杯だった。


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