コメディ・ライト小説(新)

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Banka.
日時: 2019/06/11 03:29
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 君の声を思い出してから夏は始まる。遥か昔、僕は初めて恋をした。君の匂いは則ち夏の匂いだった。
 ようやく溜まっていた仕事が一段落したので、ふと伸びをしてみる。パソコンから目線を逸らすとカーテンが風で揺れていて、強烈なようで少しばかりの既視感を感じる。
 あれからどれほどの時が経ったのだろう。狂おしいほど、もう何が起きても絶対に取り戻せないほどの時が流れているのに、毎年夏が来る度に君を思い出してしまうことに未だに不思議になる。
 どこか物悲しく思えるのは、君という存在と、今の自分の生活とがあまりにもかけ離れていることだった。その差が単純に時間によるものなのか、それとももっと別の何かなのか、いつ分かるときがくるのか不明で地獄のようだ。
 君の存在そのものに現実味が日に日に消え失せていくのが切なく、今ではドラマなどの作り話と何ら変わらないようにすら思えてくる。……こんなことを言うときっと君は茶化して笑うだろう。僕のこの腐ったような日常に、君がいてくれたらどれだけ幸せなことか。

 僕らの青春は一瞬だった。光の速さで駆け抜けた日々は抜け落ちた記憶で溢れていて、そこだけが未だに心残りだった。もっと長く、もっと深く君という人間を感じておけばと、今でも後悔する。
 来年もまた夏が来る。その次もきっと来るし、それは死ぬまで毎年繰り返される。その度に僕は同じ追憶をするだろう。もはや償いに似た何かを。


>>1-3 >>6-20

イメージソング:夏の幻(GARNET CROW)

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Re: Banka ( No.16 )
日時: 2019/01/11 02:54
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「負けました」
 そう相手が頭を下げた瞬間、周囲が沸いた。急に近くで何人もの人達が声をあげ出すので普通にびっくりする。彼らは僕の勝利を喜んでくれているようで、何故なのか疑問に思いつつも、とりあえず一度礼をしてみる。目の前に相手がいるのにガッツポーズはマナー違反である。
「ありがとうございました」
 言うと、彼は笑顔で応えた。……悔しくないのだろうか。ここは決勝だ。ここまで来たら優勝したいと思うだろう、普通は。
「ここまで来て負けたのは悔しいけど、実力差が物凄かったから仕方ないね。全国でも頑張って」
 彼は椅子を立ち上がり、出口付近まで歩いていった。そこには親御さんらしき人が立っていて、その人は泣いていた。そしてそのまま抱き合う。周りの会話を盗み聞きして知ったのだが、彼は高校三年生らしい。これが彼にとって最後の大会なのだろうか。
 僕は間違っていない、とその光景を前にしても尚思えた。しかし、これがネット将棋だったらどんなに心が楽か。顔が見えるか見えないかだけでどうしてここまで変わるのか。

 そして、そのとき向こうで茅野が指しているのが目に映った。気づいたと同時に辺りのギャラリーが沸いていて、対局が終わったのだろうと分かる。僕は走っていた。ここまで本気で走ったのはいつぶりだろう。決勝戦と書かれたボードが机に貼られていることに気づいたのは、近くまで来てからだった。
「あ、先輩……」
 茅野は涙目だった。そして、ひどく消耗したように下を向いていた。これは、まさか。
 対戦相手の女子は真顔のままその場を後にしていった。僕は拍手するギャラリーの人達の間をかき分け、彼女の側まで歩み寄る。
「先輩、私、勝ちました」
 彼女はいかにも信じられないといった表情だった。自分が置かれている状況が理解できず、とりあえず平静を装っているように見える。
「おめでとう。あの対局相手の女子知ってる。去年二段とかだった気がする」
 僕はそう言いながら、投了図を見ていた。対局相手の駒台に乗る駒はぐちゃぐちゃに置かれていた。本来は対局終了後の感想戦が終わった後、駒を片付けるまでが所作なのだが、この大会に於いてそういうルールは特に無いようだった。
 投了図からは、両者の様々な感情が読み取れる。例えばさっきの対局でいえば、一方的に攻めきられ一手詰みの状態まで指してしまうほど「負けました」の言葉が言い出せないといった具合の分かりやすいものから、対局している二人にしか到底分からないような世界の話まで。
「この盤面、どう思います? 先輩」
 僕は口を押さえていた。茅野の玉は安全で、その上相手には綺麗に必至をかけているという、普通に見てみると茅野が勝っていそうに思える盤面である。しかし茅野の玉は詰んでいる。
 ……なんと残酷なのだろう。きっちり十七手である。飛車切りからの猛攻という、三十秒将棋の中では見つけるのが難しい順で、手数も長い。こんな詰みはこのレベルでは見える訳もないので当然といえば当然であるが、とにかくこの詰みを一目で読み切った自分が怖かった。



「かんぱーい!」
 いえーい、と茅野は僕の持つコップに自分のそれをぶつけてきて、中のオレンジジュースを飲み干す勢いでぐびぐび飲んでいく。その謎のテンションは一体何なんだ。
 ローテーブルに向かい合うように座っている僕らは、さっきその辺のコンビニで買ってきたお菓子とジュースをつまんでいる。
「僕の部屋来たはいいけど何もないでしょ」
「そうですねー。エロ本の一つぐらいあると思ったんですけど、意外となくて……」
 自分はいつからエロキャラになったんだ? と疑問に思いつつ、コップのコーラを飲む。
 まあ、それはそれとして、自分の部屋は本当に何もない。趣味といえるものは将棋くらいしかなく、ゲームも本も全く知らない。自分でもたまにこの部屋でやることがなさ過ぎて嫌になるくらいだから、他の人はもっとだろう。
「……でも、まあ私の家なんてもっと何もないですよ」
「えっ?」
 嘘だろ、と思った。流石にそのお世辞は無理があるだろう。

Re: Banka ( No.17 )
日時: 2019/01/29 23:49
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「とりあえず、お互い優勝おめでとうってことで」
 彼女が言うので、僕は吹き出してしまう。改めて口に出されてみると異常さが際立つ。同じ高校から男女一人ずつ出て、その両方が県大会で優勝するなんて、どう見ても出来すぎている。
 地味に色々と緊張して迎えた県大会だったが、思いの外あっけなく終わってしまって少し笑える。まあ、そのおかげで僕達は今、お祝い会みたいなことをここでやっている訳なのだが。
「先輩のほうの決勝はどうでした? 私のほうは割と競ってましたけど」
 うん、と唾を飲み込んでみる。最後に茅野の玉が詰んでいたことは、言うべきなのだろうか。
 言わないほうがいいに決まっている。そんなことまでして水を差す必要はないだろう。現にお互い優勝できたのだから、その事実だけで充分どころか満点だ。
「僕のほうは横歩取りで普通に勝ったな。上手く噛み合って五、六十手ぐらいで終わった」
「へー、やっぱり強いですね……。アプリとか道場以外にもどこかで指してたんですか?」
 彼女は嬉々として訊いてくるが、僕にとってその質問はタブーだった。
「一応他の所で指してたことはあるけど、あんまり答えたくない……。ごめん」
 彼女は少し驚いたような表情から、しだいに何かを察したような笑顔に変わる。「そりゃそうですよね。私だって隠し事してるんだから、先輩も隠し事の一つや二つぐらいありますよね。こちらこそなんか申し訳ないです」
 少し空気が悪くなる。やめてくれ、と思った。僕が全て悪いのに謝らないでほしい。
 僕のそれは隠し事なんていうレベルのものではない。きっと彼女とは隠す理由が違う。僕と彼女は全く別の人間だ。全てに於いて。
 言ってしまえば将棋の取り組み方からして違う。彼女はまさに完璧というか、誰も口出しできないほど真剣に将棋に打ち込んでいて、実際に結果を出している。それに比べ僕のほうはどうだ。ずるずると将棋を指しているだけだし、詰将棋なども全くやっていないから棋力は下がる一方である。

「先輩、やっぱり……」
「ん?」
 何かを溜めるように言う彼女は、言い切ることを躊躇しているようだった。
「夏祭り行きましょう。全国大会のちょっと前ですよね」
 すると、何かを決心したように彼女は言い切った。急にどうしたと聞こうとしたが、ふと嫌な予感がしてやめる。
 彼女は僕の目をまっすぐと見つめている。こんなこと、絶対何か理由があるだろうが、残念ながら普通に彼女と夏祭りに行ってみたい欲が上回ってしまっている。
 全国高等学校将棋選手権大会。由緒あるその大会は毎年開催地が異なり、今年は大阪で行われる。八月二十五、二十六日開催なので、ここから一番近い所の花火大会の一週間後である。
 女子とそういうものに行くのは、言うまでもなく初めてだった。二ヶ月も前の今から緊張している自分に、単純だな、と笑ってみる。



「こんにちはー、失礼します」
 教室に入り、頭を少し下げてみると、そこにいた人達も一様に挨拶を返してくれる。
 対局中の人達も中にはいて、彼らはすぐ集中モードに戻っていく。僕は静かに教室中央まで歩き、遅れて入ってきた茅野も同様に頭を下げる。
「よろしくー。……って女子いるんだ!」
「……え?」
 奥の椅子に座る顧問の先生から、あまりに意外な返事が来たので、つい反射的に返してしまう。
「あー、ごめんごめん。あまりにも女子部員が珍しくて。ほら、ウチなんて十人以上いるのに全員男子だからさ」
 ははは、と彼は笑いながら、椅子から立ち上がる。まあそれはそうだろう。将棋部なんて男女比率十対一でもまだマシなレベルなはずだから、僕達みたいに、男女半々というのが、いかに稀か。
「もしかして付き合ってるみたいな? いやー、流石高校生! 僕も戻りたいなー」
 テンションどうした、と笑っていると、後ろの彼女が「違います」と即答していて、地味に落ち込む。
 振り返ると彼女は僕を睨みつけていた。いや、そりゃそうなのだが、だからってそんな真顔で嫌そうに否定されて傷つかない男子はいない。

Re: Banka. ( No.18 )
日時: 2019/04/12 18:28
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「じゃあ、早速対局してみる? 手が空いてる部員も結構いるから対局相手には困らないよ」
 そう。僕達は今日、他校に練習試合をしに来ていた。場所は僕らの高校の最寄り駅から五、六駅ほど離れている場所で、尚且つ高校と駅がそれなりに遠いので、駅からさらにバスに乗ってここまで来ていた。なので、僕らがここに到着したときには既に夕方だった。
 奥の盤前に座る部員の人が手を振るので、茅野はそこまで歩いていった。僕ももう一つの空いた盤まで歩み寄り、靴を脱ぐ。畳だ。部員数から何から、僕らの将棋部とまるで違う。立地最悪な上、畳が外されている第二多目的室とは雲泥の差だ。
「ん? 君は……、もしかして県大会優勝した杉本さんでは?」
 盤の前に正座すると、対局相手の人は僕の顔を見るなり驚愕する。
「それに、彼女も女子部門で優勝した茅野さんだ! ……ってことは君達があの有名な個人戦男女総ナメした伝説の将棋部なの?!」
「えっと……、今気づいたの?」
 顧問の先生が半笑いで訊く。
「顔をよく見てませんでしたから。今日練習試合することは知ってましたけどまさかその高校とするなんて夢にも……」
 彼らは何か話しているが、僕には流石に気になって仕方ないことがある。
「え、僕らって有名なんですか?」
 言うと、話している二人が同時にこちらを向く。
「何言ってんの? 西峰高校将棋部っていったらめちゃくちゃ有名だよ。今や高校将棋界では知らぬ者がいないレベルで」
 マジか、と返そうとして慌てて口をつぐむ。確かに凄いことを成し遂げたとは自分達でも思っていたが、まさかそこまで名が上がってしまっているとは思いもしなかった。
 彼らは未だ嬉々として僕達のことを話し続けている。なんというか、恥ずかしい。
 彼の声はこの十五畳ほどの部室全体に響くほどだったが、彼女は既に対局に集中していて聞こえていないようだった。

「いやー、マジで強すぎて無理だー」
 対局相手は、投了した後天井を仰ぎながら言う。僕と茅野はあれから相手を入れ替えて何回か対局していったが、少なくとも僕のほうは一度も負けていないという状況にいた。
 他の盤で対局している部員の人達も次々に漏らす。
「普通に奨励会とか入れそうなぐらい強いよね」
「いや、そりゃ優勝する訳だわ。アマ三段とか四段の俺達でも歯が立たない」
 そんなに強かったのかと驚く。三段四段の彼らに一度も負けていないということは、必然的に僕はそれ以上ということになる。
 僕は何となく返す言葉に詰まり、茅野の対局を見に行こうと思い少し歩く。対局相手に褒められて、素直に謝意を述べるのならまだしも、謙遜したりお世辞を使うというのは、この場所では逆に失礼にあたる。

「負けました」
 それは茅野の声だった。遅れて対局相手も頭を下げる。
 盤面を見てみると、茅野がかなり圧倒されていて、相手の矢倉が手つかずのまま一方的に攻められていた。玉が詰んでいる訳ではないのだが、ここから勝つ見込みが全くないと思っての投了だろう。
「んー、ここは攻めずに玉を囲ったほうが良かったかもね」
「あ、はい……、本譜だとちょっと無理攻めっぽかったですもんね」
 終わるなり、二人はいきなり話し出す。これは感想戦というもので、開始から終局までの盤面を再現し、二人でそれぞれ感想を述べ合ったり最善手を検討することである。終わってから客観的に見つめ直すことで棋力向上が望めるという意味があり、太古から受け継がれている手法でもある。
「杉本さんはどう思います?」
「窓なんか見てどうしましたー? 先輩」
 二人が話しかけてくる中、僕は窓の外の空を見ていた。雨が降りそうな空だなと思って眺めていた。今日の天気予報では晴れのち雨だったが、今降るとは。
 感想戦は対局した二人でやることがほとんどだが、ときに第三者に意見を仰ぐのも重要である。盤のほうに目を戻してみると、彼らはとある一局面を考察していたようだった。先手中飛車対後手三間飛車という僕の目には奇異に映る将棋が、中盤で膠着状態に陥っているようだった。
「んー、相振り飛車は全然知らないけど、もうちょっと手を進めてみたほうがいいかもしれないですね」
 とりあえず手を進めさせてみる。このレベルだと、アマチュア高段者でもない限りほとんど終盤で勝敗が決まるので、そこを精査したほうが明らかに合理的だ。

Re: Banka. ( No.19 )
日時: 2019/04/30 00:51
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「この辺ですか? ここだと既にこっちが勝ちになってそうな気はするんですが」
「いや怪しいですね。桂成りから角打ちで飛車を素抜く筋もあるから色々と難しいと思います」
 自分も駒を動かしながら検討してみる。この局面はまだ怪しい。どこから茅野が劣勢になっていったのだろう。
 それから二人はまた駒をパチパチと動かし始める。凄いスピードで手を進める両者の手を見つつ、何かに気がついた僕は一瞬でその手を止めさせた。
「いや、ここ飛車がどけば後手玉が寄るから銀打ちで勝ってる気がする」
 茅野の手を物理的に遮ると、彼女は「ええ!?」としばらく驚いた後、一転して納得したように腕を組む。
 恐らく後手玉が詰む訳ではないが、必至がかかる上に先手のほうは詰まないのでこれで勝ちである。
「そうかー、こうされてたら茅野さんが勝ちだったのか……。じゃあ案外難しい将棋だったのかも」
 彼は感心したように壁にもたれ掛かる。盤をのめり込むように見つめる茅野と対照的である。

「……じゃあ、あと一局指して終わりましょうか。ほら、杉本くんとウチの山田くんの対局でも皆で観戦して終わりにしましょう」
 そう、顧問の先生はよく通る声で言った。よく分からない提案だったが、茅野と最後に対局した彼が山田といって、どうやらこの部で一番強いようだった。
 時計を見ると七時過ぎで、まだ終わるには少し早いような気もした。見るとちょうど他の対局も終わっているようで、ここが一番キリがいいと判断してのことなのかもしれない。

「じゃあ、やりましょう。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
 茅野はすぐに立ち上がり、今まで彼女が座っていた座布団に入れ替わるように僕が座った。
 部屋は窓外の雨音すら聞こえてくるほど静まりかえっている。振り駒で決まった手番で、先手の僕はすぐに指した。
「……マジすか」
 ざわ、と部屋が一瞬どよめく。目の前の山田さんも声が漏れる。ただ、すぐ真横で座る茅野は黙ったまま盤を見つめていた。
 この部屋の全員が僕の指す将棋に集中している。雨はしだいに強くなっているようで、静かな部屋に響く雨音も段々大きくなっていく。両者共が駒を盤に叩きつける度にその音はかき消え、それが何となく、心地よかった。


「うわー、降ってますね」
 外は土砂降りだった。知ってはいたがいざ見てみると迫力が凄く、こうして学校の昇降口から足を踏み出すことさえ辟易してしまう。
 昇降口には僕ら以外誰もいない。将棋部の部員も少しミーティングして帰るみたいなので、僕達だけ先に帰ることになった。
「なんか、ちょっとテンション上がりますね」
 へ? と思いながら彼女の横顔を見る。雨が降るとテンションが上がるというのはまあ分からなくもない。根拠は不明だが、どことなく現実味が湧かないというか、夢の中にいるような気分にさせられる感じは受ける。

 校門を抜けると、すぐバス停が見えてくる。
 僕らは縦に並んで歩いていた。傘が雨を弾く音でほとんどの音はかき消されていて、当然会話もなかった。
 靴が雨水を吸って濡れ始めている。彼女は傘の分だけいつもより少し遠くにいる。テンションが上がったとさっき言っていたが、それをぶつける相手がいない様子だった。

Re: Banka. ( No.20 )
日時: 2019/06/11 03:28
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「さっきの中飛車、見事でした」
 バス停が屋根付きだったことが幸いし、誰もいないベンチに腰掛ける。その声は低く、なぜか神妙な面持ちの彼女に不気味さを感じた。
「あ、久しぶりに中飛車でも指してみようかなって思って。ちょっと前に一通り研究したから知ってるんだよ」
「そうなんですね。どうりで強いわけだ……」
 ふと、ここで会話が途切れ、一層雨の音が耳につく。
 隣の彼女は何か言いたげだった。今思えば、それはさっき昇降口で話したときからそうだ。
 間が持たず用もないスマホをいじりながら、この雨はいつ止むのだろう、とでも考えてみる。

「……先輩、本当に三段とか四段なんですか?」
 数分後、バスがやって来て停車する。よし、と立ち上がると、後ろで彼女はまだ座っていた。そして怪訝そうな目で僕をじっと見つめる。
「な……、何言ってんだよ。本当に決まってるじゃん」
「だって先輩、棋力の成長のスピードが異常じゃないですか。気づかれないとでも思ったんですか? 私だってそんな馬鹿じゃないですよ」
 バスのドアが開くと、彼女はすぐに立ち上がり、立ち尽くす僕の横を抜け乗り込んでいった。僕を追い抜くとき、彼女は少し僕の目を見た。いや、恐らく見たのだろう。僕は目を合わせられずにいた。

「今日の対戦相手の方なんて有段者ばっかりじゃないですか。先輩が最後に対局した山田さんって人の棋力知ってますか? ネット将棋で五段らしいですよ。そんな人を軽くいなせるってただ者じゃないと思うんですが……」
 僕らはバスの最後列に座っていて、茅野は窓側の席で窓の外を見ていた。雨の水滴が幾つもくっついているようで景色が全く見えない。
 窓ガラスで反射した彼女の目が僕の目と合う。ついにこのときが来てしまったみたいで、そう思うと下腹部が震えるように痛む。流石に気づかれるのは時間の問題だと思っていたが、茅野の口からそれを切り出してくるのがまさか今だとは。
「ごめん。今まで嘘ついてた」
 言うと、彼女はゆっくりと僕のほうを見つめる。真剣な眼差しだった。
 バスは信号待ちをしていた。この雨はいつまで降り続けるのだろう。全く嫌になる。
「本当は一年ぐらい前はアマチュアのトップクラスにいたんだ、僕」
 アホらしい。こんなこと言っても信じるわけないよな、と思いつつ彼女の顔色をうかがう。
「なるほど……」
 彼女は納得したように腕を組み始める。信じるのかよ、と心の中で突っ込んでみる。
「それが、あるきっかけで急にモチベーションが薄れちゃって、将棋自体が嫌になって全部やめようとしたんだけど、それも叶わず何となくぐだぐだ続けてる感じ」
「だと思いました。……だって先輩、全然将棋の練習してないですもん」
 核心を突く彼女は未だ僕を見つめたままだった。僕はしだいにそれに恐怖すら覚え、その目二つが銃口のようにも見えた。
 彼女の言うことは完全にその通りだった。モチベーションが薄れる前は毎日のように家で将棋を指していたのだが、ここ一年ぐらいはずっと部室や道場以外で指していない。惰性で続けているという感じで、それがとても辛くもあった。
 だから、僕の棋力が上がったのは、将棋の練習をサボり続けた結果下がり始めた棋力が、今更少しだけ元に戻り始めていったというだけに過ぎない。
 ただ、自分で言うのもおかしいが一年前の自分は今とは比べものにならないくらい強かった。あんな鬼のような場所で研鑽を積んできたので当たり前ではあるが、文字通り僕はアマチュアのトップにいた。それこそ、もう少しでプロに到達するレベルまで。
 つい最近、家の本棚で詰将棋の本がふと目について、本当に久しぶりに読んだことがあったのを、ふと思い出す。そのときは純粋に楽しめたのだが、そういえば将棋を楽しいなんて思えたのはいつぶりだったのだろうと今にして思う。


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