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*25*
† 十三の罪 “屠竜” (前)
(……なくしてしまえば、楽なのに…………)
なのにあの綺麗な紫色が忘れられない。思考が滅茶苦茶にされても何度でも浮かんでくる。もっとこの世界を見てみたかったな、と混濁している意識の中で後悔の念が絶えない。それでも自分は、今この世界を壊そうとしている。
あの綺麗に咲いた花を再び見ることは叶わぬ夢と消えてしまった。あの花の美しさを知らなかった自分なら、こんなにも苦悩せずに終われただろう。もう自分が誰であるのかも思い出せない。どす黒く塗り潰された頭の中には汚泥のような漠然とした破壊衝動に埋め尽くされている。けれども、そんなまともな判断力が残されていない今でも忘れられない花の姿。確かあの花の名は――アザミ。そうだ、ぼくの名はアザミ……!
(やっぱりまだ人間でいたいよ……せっかくこの世界にいたいって思えたのに……まだ終わりたくない、終わらせたくない。こんなぼくでも生きたい! 助けてほしい。おねがい……だれか――――)
「助けて、ぼくを……!」
虚空に響く、少女の切実な望み。
「ぼくを助けて! ぼくの、名前を呼んで……!」
「アザミーッ! 大丈夫か!?」
「デアフリンガー!?」
到着した一行が目にしたのは、惨憺たる光景であった。
「コイツぁ地獄よりよっぽど地獄らしい絵面だねえ…………」
アモンが顔を顰める。辺り一面に赤々と血が飛び散り、祭壇の中央に位置するアザミは、彼らの知っている姿ではなくなっていた。身体中を爬虫類の如き鱗が覆い、半開きの口より覗く歯は鋭く、目元には生気が見受けられない。
「ひどい……どうしてこんな…………」
少年は絶句する。
「みんな、ぼくはもう限界だ。ぼくがみんなを認識できるうちに逃げて……!」
無言で歩み寄るルシファー。
「……きみはひどいね、きみにアザミの花を見せられなければこんなにも終わりを受け入れられなくはならなかったよ」
少女は無理に笑ってみせる。
「終わり? 何を心得違えておる」
「自分のことは自分が一番よくわかるよ。ぼくなんかのために命をかけないで逃げて。きみたちを巻き込みたくないんだ」
「悪魔が誰かの為に命を賭す訳が無かろう。況してや此の身を差し置いて世界を滅ぼさせる等過ぎたる真似も赦さぬ。死なんよ、俺は。生きてお前を必ず止める。疾く済ませる故、案ずるに及ばず。そして共に帰るぞ。長老も落ち着いて眠れぬであろう」
間近で正対した。
「きみはぼくに生きる意味を教えてくれた。ぼくは……なにも返せてないね」
「見返りは要らぬが、生きると決めたのであれば全うせよ」
「そうだよね。このまま終わりたくなんてない……きみになにもできずに終わりたくない。怪物になんて、なりたくない……!」
大粒の涙が流れると共に、爪が鋭利に伸びてゆく。
「いやだ、いやだよ……ぼく怪物になんてなりたくないのに!」
彼女の意思に反し、その肩より生えゆく蝙蝠にも似た毒々しい両翼。
「これ以上はもうあぶないよ、はなれないと……! きみを傷つけたくない」
アザミの全身が脈動する。
「誰が何と云おうと、魔王たる我が身は何人の指図とて受けぬ。お前の内包する竜の血と云う概念のみを消す。案ずるな。世界が如何様に呼べど、お前は断じて怪物等ではないと此の魔王ルシファーが保障する」
彼女を抱き締めて囁いた。
「なん……で……あぶないって言ってるのに…………」
狼狽するアザミ。
「だめだよ! 逃げ――」
ルシファーの痩身に無数の棘が突き刺さった。
「え……そんな……いや!」
「無念に怒り狂っていると我が眼の告げる通りであるな」
薄い唇より鮮血が垂れてゆく。
「なんでだよ。逃げてって言ったのに……ぼくなんか化け物になろうとほうっておいて逃げればいいのに……!」
「フッ、斯様に人間臭く泣くことが出来るではないか。お前は此の世に一人しかいないアザミと云う人間だ」
咽び泣く彼女を抱擁して言い聞かせるルシファー。
「上に立つ者は責を負わねばならぬ。元より此の身が竜族を滅ぼしたことに端を発す因縁。今此処で俺自身が手ずから断ち切り、彼の者達の鎮魂とする……!」
アザミの背を抱き止めている掌が紫の魔力光を帯びた。続いて、臙脂色の燐光が周囲を照らし出す。
「この光は……!?」
「ソロモンの野郎がやりやがったか」
思わず瞠目するアモンたち。
「出でよ。今こそ禍根に終止符を打つ刻」
ルシファーが離れると、彼女は悶え苦しむ。
「アザミ……ッ!」
「待て。あれは…………」
弟をツェーザルが制止した。
呻くアザミより姿を現した紐状の光が続々と生きているかの如くうねり、束を成す。
「こっ……これが、竜の怨念……!」
先端に顔面らしき存在は無い。なれど、鎌首を擡げて眼下の魔王を睥睨しているように見える。
「……七つの大罪が一、憤怒。同じく大罪の“傲慢(スペルビア)”を象徴する此の身に、とくと示すが良い。怒れる存在に、安らかなる死を…………」
ルシファーの面前に紫の閃光が明滅し、十字架状に七つの魔力弾が浮き上がる。
「オブスクリアス・メテオ」
的確に竜の影を射抜いた。間髪入れずに翼を展開し、反撃を避けてゆく。だがしかし――――
「く……っ!」
怒り任せの咆哮による衝撃波が広範囲を襲い、ルシファーを吹き飛ばした。
「ご主人様ァ……ッ!」
地面に叩き付けられた主を案ずるベルゼブブ。
「……フッ。見事な一撃であったぞ。然れど惜しむらくは、其の一撃で此の身を仕留め損ねたことであるな」
赤黒く染まった外套を靡かせて立ち上がり、紫色に変化した眼を見開くと、一振りの大剣を顕現させた。
「あ、あの剣は……!?」
その禍々しさに見入る兄弟。
真打ち・魔王剣カルタグラ――相手の魂を斬るという、恐るべき権能を備えし刃。
「貴様のいるべき場は此処ではない」
またも猛攻が殺到する。鮮やかに空中を回転し、往なしてゆくルシファー。
「苦しいであろう。悔しいであろう。最期に謳え。古より剣闘士(グラディウス)達の生血を吸い続けし我が刃を以て鎮めよう」
黒灰の刀身が彼の瞳と同じく、紫に煌めいた。魔王は敵影を真正面に見据え、地表を舐めるようにして超低空を滑ってゆく。鞭の如く撓る尾を、その悉くを掻い潜って――――
「――“Ubi spiritus est cantus est(魂が在る処、唄がある)” さあ、貴様の唄を聞かせろ……!」
紫電を纏った魔王剣を振り翳して、懐へ飛び込む。
「グラディウス・レクイエム」
技の名を詠唱し、横薙ぎに斬り払った。悪魔による魂喰いの伝承が具現化された奥義。如何に対象が屈強であろうと巨大であろうと、意思ある者、心までもは堅牢にすることは出来ない……故に――――
「……もう休め」
一撃必殺。
「……概念を消された対象は、存在を留められず現世より消え去る」
勢いのままに数回転して着地したルシファーの握るカルタグラからは、妖しげな輝きは溶けるかの如く薄らいでゆく。そして、竜の思念体も空気と一体化するように透けていった。消滅と言うよりは“解放”されたかの如く安らかに…………
カルタグラを解除した彼の双眸が藍色に戻る。
「うわぁあああご主人様ぁあああ……!」
「おい大丈夫かい。珍しい」
駆け寄る両悪魔。
「大事無い。此の身に一矢報いようと云うあの者の強き思念が、遠く及びもせぬ筈の俺に手傷を負わせるに至った」
冷静に述べると、気を失っているアザミを抱き起こす。
「……ふぇ?」
目を開けた彼女は、暫し呆然とルシファーの顔を見上げていたが、状況を把握すると赤面して目を逸らした。
「重荷は下りたか?」
目を伏せたまま、僅かにコクンと頷く。
「やはりお前は人間であったな。あの狂気の淵にあって我が言葉を忘れぬとは」
一瞬、嬉しそうな照れ笑いを浮かべたアザミであったが、間も無く顔を曇らせた。
「けが……大丈夫? ぼくのせいでこんな……」
「気に病むことでない。俺は死なずにお前を止める、目的は完遂した」
涙を拭うアザミ。
「おかしいな、なんでまた涙が…………」
「生きて戻ってこれたと実感したのだな」
遠巻きに見守るツェーザルが口にした。
「生きろアザミ。斯様に泣いたり笑ったりと人間らしく生き続けるが良い」
珍しく柔らかなルシファーの眼差し。少女は沈黙を挟むと、両頬を紅潮させて仰ぎ見る。
「……もう一度、さっきみたいに抱きしめて…………」