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作者: 花音 (総ページ数: 23ページ)
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*15*
僕の部屋は六畳一間で、洗面所と風呂場は別にこじんまりとついているだけの小さな城だ。室内にあるのは食器棚と冷蔵庫、クロゼット代わりのパイプハンガーが大きなもので、後は炊飯器とか電子レンジとか――シンプルというか簡素というか、まあ最低限必要なものしか置いてない。
定位置――というかそこに収まるのが一番、部屋が広く見える――に置かれていたはずの冷蔵庫やパイプハンガーが、誰がどうしたらこういう状態になるのだろうか。
アパートの扉を開けた瞬間、出てきたのは溜息だけだった。
「……フラッシュバックかなぁ」
空き巣だってもう少しまともだろう。空腹に耐えかねた強盗でない限り冷蔵庫の中身を全て床にぶちまけるなんて真似はしない。大体の察しはつくけど洋服の類はハンガーから引きずり落とされていた。ポケットや引き出しを荒らした形跡もあり。
「カナ?いないの?」
出来るだけ優しい声音でココにいるはずの人物を呼ぶ。返事はなかった。
靴を脱ごうとして目の前に割れた卵の残骸を発見。こうなったら土足でいいか、と革靴のまま室内へ入る。制服のシャツには飲みかけた紅茶が見事に散らばっている。教科書とノートもドラッグを探したらしくページが引き千切られていた。
「カナ?いるんでしょう?――えーと、この部屋の状況よりも、僕は今君がいないことの方が困るんだけど?」
禁断症状のまま外へ逃げるのだけは勘弁して欲しい。
と、風呂場の方からか細い声が聞こえた。――そっちか。
卵を踏み、溶けて形を失ったアイスを踏んで洗面所へ向かうと、扉を閉めた風呂場から絶え間なく声が聞こえている。
笑い声のような独り言。
「――カナ!?」
嫌な予感がした。
静かに扉を開ける。
カナはそこにいた。
バスタブの中で子猫のように丸まっていた。
口が震える。
「どう……したの?」
カナは答えない。――否、僕の声など届いていない。カナの目に映るのはきっとちらちらと揺れるライターの炎だけだろう。跪いてバスタブの底を舐めるような姿勢の先に結晶の溶けた液体がカナの頭と同じように揺れていた。
裏切らないと約束したのに。
僕ではなく、友人になれるであろう彼ら達だけは裏切らないで欲しいと約束したのに。たった数日で君は、彼らの真心さえもそうやって燃やしてしまうつもりか。
――ふと、目の前のライターが気になった。
この部屋にライターなど存在していなかった。嗅覚を鈍らせるのが嫌で僕は昔から煙草を吸う習慣を身に付けていない。会ったばかりのカナも煙草やライターの類も持ち合わせていなかったはずだ。コンビニあたりで売られている百円ライターではない、小さな黒いそれにはいかがわしさを連想させる『HOTEL』の文字と名前が印字されていた。
「……カナ、カナ。僕だよ?判る?」
抑えろ、怒りはとりあえず内に押しやっておけ。カナがまたドラッグへ戻ってしまったことよりも今はライターの出所を聞く方が正しいはずだ。そう何度も自分に言い聞かせてバスタブの外からカナの背中をそっと叩く。
優しく、出来るだけ力を抜いて触れた筈の肩は電気ショックでも浴びたように突然撥ねた。
「こ……こないでッ!」
「カナ?」
がつん、とバスタブに背中を打ち付けてカナはがくがくと震えている。全身を棘のようにして、目に涙と恐怖をない交ぜにして――。
「僕は怒ってないよ?……ていうか、僕のこと、判る?」
「ち、ひ…ろ……」
「オーケィ。最悪の状況は免れてるみたいだ」
「あた、し……ちが…うの、ほ、ほしかったんじゃ、ない……」
ふるふると首を振りながら僕を見つめるカナに全身が総毛だった。カナに対してではない、その顔や腕に浮かんだ内出血の跡やぐしゃぐしゃになった洋服に。
「――ここに、誰か来たんだね?」
蒼く腫れた瞳から大粒の涙が零れ落ちていく。
「に、にもつを…とりに、いったの」
全身に残る打撲の痛みと恐怖からか、カナは嗚咽を交えながらか細い声で答えた。
「あいつ…あいつに、わかれようって……ど、どらっぐも、やめ、るからって……で、でも、後つけられてて…ココ、見つかって、殴られて、逃げたんだけど…あいつ、キメすぎちゃってて、訳判んなくなってて、切れてるからそんなこと言うんだって!あたしに!やだって言ったのにこんなトコ閉じ込めてドラッグ飲まされて!」
「カナ、落ち着いて。判ったから。もう大丈夫だから」
「ダメなんだよあたし結局!あいつに居場所知られちゃったし裏切らないって約束したのにキメちゃったしぃ!みんなに合わせる顔ないじゃん!もう誰もあたしのこと友達だなんて思ってくれないよもうあたしなんていない方がいいんだよもう死んじゃえば」
「死ぬのは許さない!」
搾り出すように僕は叫んだ。
「そこから這い上がるのがどれだけ辛いか、カナはそれを承知で覚悟を決めたんだろう!だったら死ぬのは許さない!僕がいる限り、僕の前にいる人間が死ぬのはダメだ!」
「ちひろ……?」
「生きてるんだから。生きている限り生き続けなきゃいけないんだ!――いいか、君は僕に『依頼』したんだ。ドラッグから救って欲しいと。僕がこの依頼を遂行するまで君は僕の傍にい続けなきゃいけない。僕の傍で僕の任務を果たすのを見届けなきゃいけないんだよ!」
目の前で散った命。
僕の甘えが原因で止められなかった悲劇。
「これは僕のエゴだ。僕には与えられた依頼を正確に遂行する義務がある。その為ならどんな代償も傷みも捧げてやる。――だから、死ぬな。あんたは悪くない。悪いのはコレだ」
足元でちりちりと焼け付くアルミホイルを握りつぶす。沸点に達した中身ごと。しかし傷みなど全くなかった。心の奥で温度のない静かな怒りが感覚を麻痺させていた。
「カナは悪くない。何も、何一つ悪いことはない」
「あたし……悪くないの?」
「全く」
「千尋はまだ、あたしを助けてくれるの?」
「当然。まだ依頼は終わってない」
「――……ありがとう」
ようやくカナの瞳に、口元に微かな笑みが戻った。安心したように息を一つ吐くと限界まで張り詰めていた糸が途切れたのか崩れるように意識を失った。
室内はぐちゃぐちゃなのでバスタブに寝かせ、慌てて使えそうなタオルや洋服を持ち込んでバスタブの下やカナにかけてやった。眠りながら泣き続けるカナは、まだ身体を震わせては「ごめんなさい」と呟いている。
――もう仮面は外そう。
この依頼の期限が迫っている。西島千尋の時間では間に合わない。
携帯電話を取り出して暗記している番号をプッシュする。同時にざっと室内を見渡してコール音を聞きながらカナの私物を探し始めた。
いつも持っているポーチの間からカナの携帯を発見したところで、僕の携帯も相手の声が聞こえる。
――珍しいですね。何か?
「ちょっと野暮用が出来ました。申し訳ありませんが手伝っていただけますか?」
――ご用命があれば何なりと。
携帯で会話をしながら携帯をいじる。リダイヤルにあった人物の名を伝えた。
「この男を至急、探してもらいたいんです」
――どのような関係の方でしょうか?
「僕の知り合いではありません。どこかの組のチンピラかその手下……」
一応チェックしていたメールの未送信ボックスを開いて言葉を失った。
そこには大量のメールが保存されていた。橋場さんへ宛てたもの、女史へ宛てたもの、滝沢へ宛てたもの、朝日奈へ宛てたもの。毎日、何時間かごとに打たれたメールは全て送信先が空白になっている。アドレスを交換していないのだから当然なのだけどカナはずっと誰かに縋っていたかったのだ。こんなにも自分を曝け出してまで――。
――西島さん?どうなさいましたか?
「……いえ、何でもありません。どのくらいで調べられますか?」
――今夜中には。
「遅い」僕は言った。「夕方。彼らが『動く』までにどうにかして下さい」
――畏まりました。
「それともう一つあります」
追加注文した方が難しかったかもしれないがこちらも夕方までにはどうにかしてくれるよう頼んで電話を切った。
相手の番号を消去して、僕は動き始める。
さあ、依頼を遂行しようじゃないか。