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*15*
† 八の罪 “悲愴” (前)
「騎士になる覚悟は出来ていても、泣く子も黙る悪魔の親分に泥まみれにされる日が来るとは思いもよらなかったわ」
朝陽を浴びて向かい合う、イヴとルシファー。
「でもあれで勝ったと思わないことね」
最後まで強気な物言いではあるが、目元は笑っている。
「上等だ。其の言葉、悔やむこと無きよう腕を磨いておくが良い」
ルシファーも満足気に彼女を見つめた。
「わたし、悪魔ってものを勘違いしていた……もっとあなたのこと知りたい、本当のことを」
ルシファーの前へ歩み出ると、哀愁と情愛に満ちた眼差しでイヴは語りかける。
「騎士と悪魔が馴れ合う世に非ず。お前は騎士で在り続ける道を選んだ。なれど何れまた、相見える日が訪れるであろう」
真っ直ぐと見据えるその瞳は、彼女が初めて目にした時の威圧感は無く、どこと無く優しさが含まれている気がした。
「お別れ、あれで良かったのかい」
樹上より飛び降りると、アモンが声をかける。
「あの者のことだ。明朗に振舞うことで堪えているのであろう。戻るぞ、直にベルゼブブも起きよう」
「気丈なもんだねえ。若いのに」
荒野の果てに消えゆくイヴの後ろ姿を見遣って呟くと、彼女もルシファーの後に続いた。
時の流れと同様、川もまた、とどまることを知らずに流れてゆく。世間で何が起きようと、意に介さずに…………
「――また来たのか。この場所が随分とお気に召したようじゃな」
暗い水面を眺めたまま、長老は呼びかけた。
「未だ2度目だ」
響くルシファーの返答。村から距離のあるこの小川は、夜が訪れると一層に静けさを増す。
「我等について如何様に説明するか悩みでもしていたか」
「フフ……神眼の前じゃ誤魔化しようがないのう」
「否、此れは我が権能に非ず。推し測った迄のこと」
長老は暫し黙していたが、相手が腰掛けるのを察して付き合う気があると受け取ったのか、本題へと入った。
「旅人さんや、戦をするつもりかね」
「イヴも去ったことであるし、ソロモンは討つ。幾多の悪魔を使役するあの者と天使が結託した以上、地獄を内より脅かすやも知れぬ」
岩の上で脚を組むと、背後の旧敵はグラスを傾ける。
「今さらソロモンと関わりがあることを否定はせん。じゃが、わし自らそちを害そうというつもりはないゆえ、ご安心めされよ」
「然であろうな。俺も此の谷への恩を仇で返す気は無い。尤も……討ち損じた儘の貴様は来るべき時に手ずから引導を渡してやる所存であるがな」
ルシファーは幾何か表情を緩め、意気揚々と是を唱えた。
「そちが話のわかる者で良かったわい。わしの知っとる大天使長ルシファーはどんなに残酷でも自分なりに意味のないことはしない男じゃったが、悪魔となってもぶれぬ生き様、お見事じゃ」
「フン、世辞なら間に合っているぞ。……して、其の関わりとやらは例の童を巡って、か?」
「ご彗眼」
隠し通せないと悟ってか、半笑いで振り向く長老。
「久しぶりに昔話でもするかのう」
自身も岩に登り、背中合わせに座ると、竜族の生き残りは語り出した。
「まあ酒が美味くなる話ではないが、年寄りの戯言と聞き流してくれ」
少女は幼き日の記憶が曖昧であった。正しくは曖昧になってしまった、と言った方が適切かもしれない。物心ついた頃は幸せであった……否、あった様な気がする。だがしかし、遠き日の想い出は、重く長い苦しみの中で黒く塗り潰されていった。
「パパ、まだかなあ…………」
四歳の誕生日を迎え、父の帰りを心待ちにする彼女。
「もう寝なさい。パパ困ってる人を見ると放っとけないから遅くなっちゃってるのかも」
「やだ、パパ帰って来るって約束したもん! 絶対に絶対に約束したもん。パパが……パパが誕生日を、忘れるわけ……ないもん…………」
泣きながら飛び出してゆく一人娘を母も追いかける。
「ちょっと! 待ちなさい、あなたに何かあったらパパに……」
「あー! パパだー」
両の眼を輝かせ、駆け寄った。
「遅くなってごめんな、パパ急ぎ過ぎて転んじゃったよ」
痣の数が不自然に多いことを紛らわすかのように、ぎこちない微笑みを浮かべてみせる父。
「パパおそいから心配してたんだよ。寝ないでね、ずっとね、起きてたの」
「ハハ、そうかそうかー。パパがウソつくわけないだろ? 娘の誕生日は何があっても帰る、今までもそうだったじゃないか」
「あなた、怪我が……」
折れていない方の手を軽く上げ、妻を制する。
「これからも絶対に帰って来てね!」
「ああ、もちろん」
込み上げる血反吐を飲み下し、明るく装った声色とは裏腹に、娘の頭を撫でるその表情は哀しげであった。
「ごめん。パパ、プレゼント買えなかった……ごめんな」
「いらないもん、パパが帰って来てくれたからプレゼントいらない。パパが一緒にいてくれればプレゼントなんかなくていいもん」
「パパはいつでも一緒にいるさ。子供なのにプレゼントいらないなん……て寂しいこと言わないでくれよ。来年は、ちゃんとプレゼントも買ってくる……よ」
辛うじて絞り出した言葉に、大きく首を縦に振ると、無邪気にはしゃぐ娘。
「うんっ、パパ大好き!」
夜が更けると共に、家族の幸せな時間も奪われていった。
「パパなんでコート脱がないの?」
丸々とした彼女の目が、素朴な疑問を物語っている。
「ふふ……パパちょっと寒いんだ、風邪だから今日はひっくり返っちゃったのかなー」
椅子の下に赤黒い血溜まりが拡がってゆく。
「ねぇママ、なんで泣いてるの?」
「ママは泣き虫だからな、パパが遅かったから泣いちゃったのかな? 結婚する前から一人ぼっちにするとすぐ泣いちゃってたんだ」
「あー、パパいけないんだー! ママ泣かせたー」
「そうだな。好きな人を泣かせる男はダメだ。パパは悪い人だよな、まったく。ハハハ…………」
その晩、痛みを堪え、終始笑顔を絶やさなかった父は、妻子が寝付いた後、自身も眠りに就いた。そして、二度と目を覚ますことは無かった。
「パパ……ウソつかないって言ったのに…………」
噂によるとかの者は、農民が凶作で苦しむのを見兼ねて、税を緩和してくれるよう嘆願を繰り返していたと聞く。彼の死後、役人によって訴えを禁ずる札が立てられ、人々は手の平を返して悲しみに暮れる遺された二人に冷たく接するようになった。
(もう泣かない……泣いたところで今までみたいにあなたが戻ってきてくれやしないもの。これからは、泣かずに1人でこの子を育ててみせる……!)
泣き虫の母は強かった。なれど、残酷な世の流れは、懸命に生きる母子にさらなる牙を剥く――――