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*25*
僕の最初の記憶はアネモネという女性の、どこか狂気を孕んだ笑顔だった。
「ああ、目を覚ましたんだね!」
そう言って彼女は僕を抱きしめた。
「ここは……どこで、僕は……誰、なんだ……?」
僕はそう呟いた。すると、彼女は僕を抱きしめたまま囁いた。
「きみの名はアイビーだよ。アリスティドなんて名前、もういらないよね。そしてぼくはアネモネ。きみの恋人さ。
ああ嬉しいよアイビー、今日からぼくときみはずっとずっとずっとずっとずっとずーっと、一緒だ」
「そう、なのか……?」
訳が分からずそう尋ねると、嬉しそうにアネモネは言った。
「そうさ。でもきみはぼくがいるのに他の女と仲良くしてたんだ。ぼくは我慢してたのに、きみはいつまでもそいつと仲良くし続けるから、ぼくが怒って喧嘩になったんだ。
それで色々あって、きみは記憶を失くしてしまった」
少しアネモネの声が沈む。
「でも!きみはこうして生きている!それだけでぼくは幸せさ。ああ、本当に綺麗だ、アイビー。愛してる。心から、愛してるよ」
なぜか悪寒が走った。しかし、僕はそれを無視した。
「愛してる。ああ愛してる。愛してる愛してる愛してる愛してる」
延々と呪いのように囁かれる愛の言葉。なぜかそれがとてもおぞましいものに思えたが、無視する他なかった。
記憶が一切ない中では、彼女の言葉を信じる他なかったから。
それからアネモネと過ごした数ヶ月間、一度もアネモネの家の外には出られなかった。アネモネが禁じたのだ。しかしそれにも僕は従っていた。
正しい、普通のことだと思っていたのだ。アネモネ以外の人間と触れ合わなかったため、いつの間にかアネモネに洗脳されていたのかもしれない。
不便はなかった。欲しいものは全てアネモネが用意してくれるから。
アネモネの病的なほどの愛の言葉も慣れてきていた。慣れないと、とても生きていけなかったんだろう。
そしてある冬の日。
何か胸騒ぎがした。上手く言い表せないが、何か秘密がばれそうな時のような、嫌な緊張感を感じた。
その胸騒ぎは当たった。
どんどんどんどん、という乱暴な音が聞こえた。誰かがドアを叩いているんだろう。それと共に男の声も聞こえた。
「アネモネ、出てこい!お前を乳幼児殺害及び禁呪使用の罪で逮捕するッ!」
アネモネはやけに悠然としていた。そしてゆったりと微笑んだ。
「アイビー、気にしなくていいよ。変なでたらめを言ってぼくらを引き裂こうとしてるやつがいるんだ」
再度声が響いた。
「アネモネッ!もう既に家は包囲してある!大人しく出てこい!分かっているだろう、禁呪使用者には通常の法は全て適用されない!出てこないならばお前の家ごと破壊するッ!」
アネモネは依然余裕そうな笑みを浮かべたまま。僕は訳が分からずにアネモネに勢い込んで尋ねた。
「アネモネ!どういうことだよ!乳幼児殺害とか禁呪使用とか、何なんだよ!一体何したんだよ、アネモネッ!答えて「アイビー。きみは何も知らなくていいよ」
アネモネはそう僕の言葉を遮った。
完全に僕は混乱していた。ある意味ではアネモネは僕の唯一の指針だった。そのアネモネが____犯罪者?
アネモネは確かに執着心が強すぎるきらいはあるが、犯罪、ましてや禁呪を犯すほど腐ってはいない、そう、この日までの僕は信じていた。
ばきっ、と音がした。ドアが蹴飛ばされて壊されたのだ。そこから入ってきたのは、大勢の人がなだれ込んできた。
その人達に共通しているのは、茶色の制服と、黄色い花を象っている『正』と書かれた紋章だった。後で知るが、その人達は特殊な事件のみを扱う秘密警察だった。
「アネモネ!大人しく投降しろ!従わなければ殺してでも連れて行くッ!誰も非難はしないだろう。何たって、禁呪使用者だからなっ!」
男はアネモネを睨みつけながらそう言った。アネモネは、笑顔のままそいつを見上げ、やがて俯いた。
その次にアネモネがとった行動は、その場にいた者全員の度肝を抜いた。
____笑ったのだ。それも大声で。
「あはははははははははっはははははははははははははっははははっははははははははははっははは」
この時初めて、僕はアネモネが異常なんじゃないかと思い始めた。後からしてみれば、気付くのにあまりにも遅過ぎた。
箍が外れたように笑い続けていたアネモネだったが、突如ぴたっと笑うのを止めた。
そして、僕に覆い被さり、耳元でこう囁いた。
「死んでも離さない。『アイビー』の花言葉さ。それがきみの名前の由来だよ、アイビー」
嬉しそうに、それでいてどこか無邪気で、狂ったような笑顔でそうアネモネは囁いた。
ぞくっ、と、顔が引きつるほどの寒気が走った。恐怖が全身を支配する。
次の瞬間、アネモネは倒れた。狂ったような笑顔のまま。恐る恐る横を見ると、赤い血だまりが広がっていっていた。鈍い音を立ててナイフが転がっていた。
赤い血だまりを見て、可笑しいほどにすんなりと理解した。
____アネモネは自殺したのだ。僕にそれを呟いた直後。