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第八章*アイビー*
ぼんやりと霞む天井が見えた。
私は一度、二度、と瞬きをした。だんだん天井が鮮明になってゆき、そこで私は思い至る。そうか、私、目が覚めたんだ。
アイビーを呼ぶため呼び鈴を鳴らそうと腕を上げ、驚いた。自分の腕が、骨と皮しかないんじゃないか、というぐらい細かったからだ。
試しに顔に手をやると、頬骨が浮き出ていた。脚を見ると、太ももとふくらはぎの太さが変わらないほど細くなっていた。
一体どのくらい寝ていたのだろうか。少し恐怖を感じながら呼び鈴を鳴らした。
アイビーはすぐに飛んできた。ドアが壊す勢いで開く。アイビーの顔に浮かんだのは、呆然、驚き、そして、今までにないほどの喜びと安堵だった。
「お嬢様っ……。よかった、です。お目覚めになられて……」
そしてアイビーは何度か目尻を拭った。
「アイビー、私は……、どれくらい寝ていたの……?」
声が掠れて、息のノイズめいた音が聞こえた。上手く声が出せない。
「……一ヶ月でごさいます。水分は摂取しないと命に関わるので、何とか飲ませておりましたが、お食事は……」
アイビーが目を伏せて答える。
理解するのに時間がかかる。それがじわじわと染み込むにつれて、さらに信じられない思いが増して、思わず私は囁いた。
「一ヶ月……ッ?」
「左様です」
アイビーの冗談だと思いたかったが、アイビーの表情は茶化すような表情ではない。
一週間ずっと寝ている、というのだけでも尋常ではないのは分かる。だが一ヶ月となると、むしろ、目を覚ました方が奇跡に近いくらいの異常さだろう。
少しずつ寝ている時間が増えて、一週間になり、そして一ヶ月になり……。次寝たら最後だ。ふとそう思った。
だって、一ヶ月ずっと寝ているのでも、生死の境を何度も彷徨うほどにぎりぎりだろう。次は間違いなく最後だ。
「……ねえ?アイビー、私の病気ってどういう病気なの……?」
私は何とか起き上がり、ベッドに腰掛けて、アイビーに恐る恐る問いかけた。
アイビーは、何度も逡巡するように口の開閉を繰り返したが、諦めたか、ふーっと長い息を吐いてから答えた。
「…………『灰病』と言うものです。これに罹った人は、緩やかな速度で体調が悪くなって行くそうです。最初は風邪に似た症状で、それが慢性化してきた頃に、異常な眠気が現れるそうです。そして眠りの延長のように絶命するといいます。
これには、特徴が四つあります。一つは、生まれつきの病であること。それと感染力があること。絶命時に体が灰のようになること。そして、治療法が存在しないことです」
アイビーの悪夢であってほしいような言葉をゆっくりと咀嚼し嚥下してゆく。私の病の特徴は四つ、なのか。
一つは、生まれつきであること。だから、私はこの部屋からずっと出たことがなかったのだろうか。
あとは、絶命時に体が灰のようになることと、治療法がないことと……、この二つは構わない。治らないことは分かってたし、死ぬときにどうなろうが構わない。でも、でも____、もう一つは聞きたくなかった。
「感染力が、あるって言った……?」
アイビーは昏い瞳で下を見つめて頷く。……ああ、何てことだろう。
「感染力は、強いの……?」
アイビーは苦しそうに顔を歪めて押し黙る。聞きたいような、聞きたくないような、よく分からない気持ちでそれを待っていると、アイビーはやがて、小さい声で言った。
「…………非常に強力でございます。感染している方の近くにいれば、一年も持ちません。また、感染している方の近くにいなくても、感染している方の愛用しているものを近くに置いておけば、五年から十年ほどで感染し、衰弱していく、そうです」
……だから、なのか。
ずっと抱えていた謎が、可笑しいほどに、悲しいほどに解けていく。
外に決して出られなかったのも、執事がすぐに「辞めて」しまったのも、一度、いや、昔にも覚えていないだけであったかもしれないが、料理人が大量に「辞めて」しまったのも、全部、全部、全部全部全部。
残酷すぎる現実に、どうしようもないほどの自己嫌悪が込み上げる。乾いた笑いが知らず知らずのうちに漏れる。
「そう。……全部、全部私のせいなんでしょう?私に仕えていた執事も、私の食事を作っていた料理人も、皆、辞めたんじゃないんでしょう?その『灰病』にかかって死んでしまったんでしょう?遠回しに言って気を遣わないでもいいのよ?
本当はアイビーもずっと私のことが嫌い、ううん、怖かったんでしょう?何で周りの人は私のせいで何人も死んでゆくのに原因の私は死なないんだって、何で生きてるんだって、何でさっさと死なないんだって、何で…………ッ」
半ば攻めるように問いかけ続けていると、アイビーは不意に私を抱きしめた。
温かい。すごく温かい。堪えきれずに嗚咽が漏れた。
何で。何でアイビーは。
「……何で。何で優しくするのよ。何で、私なんかに。私なんか、生きてる価値なんてない、それどころか、生きてても周りを殺すだけ、私なんか、私なんかっ「お嬢様は、何も悪くはありません……ッ。悪いのはその病、そうでしょう、お嬢様?」
震える声でアイビーは言う。
____ああ、何でこんなにも、アイビーは優しいんだろう。切ないような、それでいて温かいような気持ちが溢れた。
「それに、生きてる価値なんてない、などとおっしゃらないでください。貴女がいたから今の僕があるのです」
アイビーは私を少し離し、私の瞳を見てふっと笑った。その笑顔があまりにも優しくて、どうしようもなく切なくなった。
「何で……」
そう私が呟くと、アイビーは視線を彷徨わせた。
やがて、何かを決意したような瞳で私を見つめた。
「お嬢様。少し……、昔話を聞いてくださいませんか?」
アイビーの過去を、話してくれるのだろうか。アイビーは今まで頑なに過去に触れるのを嫌がっていた。軽々しい話ではないだろう。そう思って私は、首を傾げて問うた。
「……いいの?」
アイビーは笑った。
「ええ。……本当は、生涯誰にも話すつもりはありませんでした。しかしお嬢様ならば構わないと、そう思ったのです。……お嬢様は、ご自身のことを罪深い存在だとお思いになられていますが____、それは僕も同じでございます」
自責の念に溢れたような、笑っているのに辛そうな表情をアイビーはしていて、容易に声をかけるのは躊躇われた。
「僕の本当の名はアリスティド、そしてシネラリアという恋人がおり、母親との二人暮らしだった____そうです。シネラリアという女性とは、既に結婚が決まっていたとか」
なぜか他人事のように語るアイビーに疑問を覚え、
「何で、他人事のように言うの?」
と問いかけた。
するとアイビーは瞳に寂しげな色を宿らせた。
「他人事だからでございます。僕とアリスティドという人物は、容姿が同じだけの赤の他人です。……僕にはアリスティドとしての記憶が、ないのです」
記憶がない、ということは、
「記憶喪失なの?」
アイビーはかぶりを振った。
「いいえ。記憶がない、というのは語弊がありましたね。……『アリスティド』は既に亡くなっております。僕は、この『アイビー』という存在は、一人の女性の身勝手な欲と多くの命の上に成り立っているのです」
既に亡くなっている?多くの命に上に成り立っている?どういうことだか全く分からない。
「『アリスティド』には、婚約相手の他にも彼を愛している女性がいました。彼女の名はアネモネ。彼女は____、そうですね、一言で言えば狂気の塊のような女性でした。
『アリスティド』とアネモネがどのくらいの仲だったのかは存じません。ですが恐らく、知り合い、あるいは他人程度だったのではないか、と思います。
しかし彼女は『愛し合っている』と思い込んでいました。そして____」
アイビーは遠くを見るような目になった。アイビーの瞳には、驚くほど陰鬱な色が宿されていた。
アイビーは今、思い出しているのだろうか。昏い記憶を。思い出したくない過去を____