ダーク・ファンタジー小説 ※倉庫ログ

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【新に】ゆめたがい物語【移転済み】
日時: 2012/12/04 00:50
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Jk.jaDzR)
参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view&no=10136

 新の方に移転

 今回の交渉の話、参考図書が全くなく、いつも以上にお粗末です。今後時間をかけて探していき、第二部での西郷隆の見せ場で納得いくものにしたいと思います。

 思えば、ちょうど去年の今くらい、夏休みの後半くらい、この物語の骨組みは出来上がりました。
 去年、高校三年生。受験生でした。志望校はC判定、模試によってはD判定だったものもありました。焦るというより、本当にいろいろな事が嫌になって、それでも諦められなくて。そんな頃に自然と出来上がった物語です。
 信じてひたすら突き進めば、現実のものとして手に入れられる。この物語の主題ですが、何より自分自身にそう言い聞かせる意味もありました。
 そういう過程を経て、出来上がった物語。ですから、今回銅賞というのをいただけたのは純粋に嬉しかったです。人気投票、実力を伴わない、様々な意見があります。しかし、このサイトに来て、つまり小説を書き始めてから五年目に入ろうとしている今、こういう結果を、この小説でいただけたというのは、私に取ってとても大きな意味があります。
 至らないところは多く、まだまだ未熟な小説ですが、これからもよろしくお願いいたします。 8月31日 紫

 諸々の記念>>41
 レポートが予想より早く終わってルーズリーフに書きなぐったのを動画にしただけです
 出来心。本当にごめんなさい……

 1200記念 >>44
 第二部で、主に出番のある、憲兵隊の西郷隆。たかし、でなくて、りゅうです。一部は下手するとこの次の話しか出番がorz



 ——春の夜の、儚い夢も、いつの日か、願いとなって、色を持つ。色は互いに、集まって、悪夢を違える、力となる。

 こんにちは、紫です。ゆかり、じゃないですよ、むらさきです。

 一年以上ぶりの書き直しじゃない小説です。
 と言っても、この物語はファジーのほうで書かせていただいている、ノーテンス〜神に愛でられし者〜の原型となった、小学生の頃考えた話を下地にして作りました。どちらかと言うと、こちらのほうが原型寄りです。
 ノーテンスが受動的な物語なら、こちらは能動的にしよう。あの物語で書けなかったことを書こう。そう考えているうちにどんどん形成されていきました。
 
 と言うわけで、構成ぐちゃぐちゃ、文章ボロボロ、誤字脱字がザックザク……と、まあ、相変わらずそんな感じですが、よろしくお願いします。

 アドバイス、コメント等、大募集中です!

 お客様(ありがたや、ありがたや^^
 風猫さん
 春風来朝さん
 夕暮れ宿さん

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Re: ゆめたがい物語 ( No.26 )
日時: 2012/03/23 23:59
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: Gv0sVNBw)

 お客様だ! 本物だ! 夢じゃな(略

 はじめまして、こんばんは、紫です

 以前から……もう、感動で感動で、外の雨は紫の涙です

 とぎどき、ゲームしながらふと考えるんですよね、これ、小説じゃなくてゲームだったらどうなるんだろうと……だいたいカオスです。
 美女は、怖いですね。絵的にも和服の優雅な美女って、何か威圧感を感じます

 そんなこんなで、ここのところ引っ越しとか入学準備だとかでワタワタしていて、更新速度も落ちそうな紫ですが、これからもこの物語におつき合いいただければ幸いです^^

 それでは、コメントありがとうございました!

Re: ゆめたがい物語 ( No.27 )
日時: 2012/03/26 23:37
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: AVqpQU0T)

 結局、少年は老婦人のかばんを持ったまま、彼女の用事がある病室までついてきた。
 白い壁に、白いシーツ。部屋では何人かの患者が一緒に入院していた。左右に二つずつ並んだベッド。その右出口側で寝転がっている短髪の青年は、老婦人が入ってくるのを見ると、静かににこりと微笑んだ。

「ばあちゃん、よく来たな。腰まだ痛いだろ」
「あんたが、国防軍の任務で怪我して入院したって聞いたからね。腰の痛みなんてどっかいっちゃったさ」

 老婦人はそう言いながら孫のベッドの横に腰掛けた。やや腰を気遣い、ゆっくりと。
 荷物持ちをしていたかの青い目の少年は、ベッドの上の青年に頭を下げると、老婦人にかばんを手渡した。二人とも、また先程と同じような、「ありがとう」と「パジャールスタ」という温かな異言語を交わしあう。
 一方で、ベッドの上の青年はそんな様子を不思議そうに見つめ、手すりにつかまって体を起こした。

「ばあちゃん、誰だい? この子」
「さっきバスで転びそうになったところを助けてくれてね、それからこうしてここまで荷物まで持ってくれたのさ。いまどき珍しい良い子だよ」

 青年は祖母の話を聞くと、まじまじと珍しい黄緑色の髪をした少年を見つめた。黙って、少し考え込む表情になる。もう一度、少年の青い目を覗き込むと、「ボルフスキー大尉? 違うか、いや、でも似てるよな」などとぶつぶつとつぶやいた。

「ボルフスキー?」

 少年は、その入院患者のつぶやきに目を丸くして反応した。青年は「何でもない」と身振り手振りを交えて伝えようとする。だが、外国人の少年は、伝わらなかったかのように難しい顔をしていた。
 その時、病室の戸が再び開いた。点滴を吊り下げておくガードルを引きずる音が聞こえる。しかし、その音もすぐにしなくなった。戸が、音を立てて閉まる。老婦人も、青年も、また少年も一斉に出入り口のほうを向く。
 そこには、青年と同じようなパジャマ姿の、十代の若者が口を開けて突っ立っていた。

「ボリス!?」

 パジャマの若者がそう叫ぶや否や、青い目の少年は満面の笑みを浮かべる。そして、次の瞬間には白い床を蹴って、出入り口のほうへ走っていた。その間に、うれしそうに何事か口にする。言葉の中に、“三笠”という大和人の名前が入っていたことだけは、シベル語を解さない青年と老婦人にも分かった。

「あの、東郷少尉殿の、お知り合いですか?」

 どうにかして状況を把握したい青年は、二人の挨拶らしき会話がひと段落したところを見計らって、遠慮がちに問いかけた。

「イヴァンの……ボルフスキー大尉の弟ですよ。ボリス=ボルフスキー、シベル軍の見習い士官で、今は中学一年生、だと思います」
「あ、やっぱりそうですか。どうも似てると思いました」

 青年はもう一度しげしげとボリスの顔を眺めると、ベッドから降りようとした。足を下ろそうとしただけで、治りきっていない腹の傷が痛んで顔をしかめる。
 青年の祖母はそんな無茶をする孫を心配し、肩を押さえて無理に寝かせようとした。だが、彼は応じず、半ば強引に立ち上がった。先程とは比べ物にならない激痛が襲い、思わず唸り声を上げる。それでも、ベッドの手すりにつかまって、意地で青年は背筋を伸ばして、ボリスをまっすぐに見た。

「正直、この前の任務で腹を撃たれた時は、死んだと思いました」

 青年は、痛みで顔を歪めながら、ゆっくりと口を開いた。
 先日の大捕り物。国防軍の下士官である彼は、腹に銃弾を受け、誰が見ても諦めるような、ひどい傷を負っていた。本人もまた、死神の足音を聞いただろう。
 だが、朦朧とした意識の中で近づいてきたのは、神にも等しい一人の軍医だった。

「でも、ボルフスキー大尉殿の、あなたのお兄さんのおかげで、こうして生きて、ばあちゃんと話せます。伝えておいていただけますか、大尉殿に。ありがとうございました」

 青年は、ボリスに、というより、その背後に感じる彼の兄に、深々と頭を下げた。
 黙って聞いていた三笠は、その言葉を忠実に訳して、少年に伝える。ボリスは微笑んで兄に助けられたという青年に頷いた。
 うれしそうで、また誇らしげな表情は、白い病室でさらにまばゆさを増していた。

Re: ゆめたがい物語 ( No.28 )
日時: 2012/03/31 23:31
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: AVqpQU0T)

 かの国防軍下士官の青年、その斜め前に、三笠のベッドがある。横には木製の机があり、膨らんだビニール袋が無造作に置いてあった。
 また、そこは窓際であるため、広々とした海がよく見える。遠くのほうには小さな貨物船が確認でき、それと同じくらいの大きさに見えるかもめが、真っ白な翼で真夏の青空を切りながら、窓の前を横切っていった。
 ベッドの上で胡坐をかくと、三笠は微笑を浮かべながら、小さな丸椅子に座る黄緑色の髪をした少年を見た。

「よく来たな、ボリス。一人でか?」
「はい。兄さんも竹丸さんも、えーっと、その、忙しくて」

 ボリスは何故か目を泳がせながら、しどろもどろのシベル語で答えた。これでは、母国語でない三笠のほうが、ネイティヴのシベル語を話しているようだ。
 三笠は親友の弟の表情をじっと観察する。雲の陰りで窓からの日差しが弱くなった。

「二日酔いだな、うん、大丈夫、お前のせいじゃない」
「ごめんなさい、僕、兄さんがちゃんとした生活をして、竹丸さんや三笠さんに迷惑かけないように、シベルから来たのに。僕が寝てる隙を突いて……どうしよう、竹丸さんにも迷惑かけちゃった」
「……うーん、むしろ、竹丸先輩は、楽しんでると思うけどな」

 どこまでも鬱々とした、真面目な少年の懺悔。三笠の小さな突っ込みは、窓の外を飛ぶかもめの声でかき消されたのか、まるで耳に入っていないようだった。
 ボリスは、不意に懐から女神の彫られた木の玉を取り出す。先日、彼の兄であるイヴァンが、戦死したムイ教徒たちに捧げた葬送の礼で使ったものとよく似ている。
 何やら、複雑な印を結んだり、ぶつぶつと呪術の如くつぶやき始めたり、信心深い少年は完全に別の世界にいた。他の患者達は、見てはいけないものを見るかのように、先程の老婦人も含めて、一斉に目を逸らした。
 このままでは、盛大な儀式を始めかねない。危機感を持った三笠は、横にある机の上に乗っかっていたビニール袋を引っ掴んだ。

「ボリス、“たこ焼き”食うか?」

 三笠は、異様な雰囲気をかもし出している少年に、極力笑顔を維持できるように、神経を研ぎ澄ませて口を開いた。
 彼が来る少し前に、隣のクラスの友人、安倍ほたるが見舞いがてら持って来てくれたのだ。どうやらかの地獄の補習、デスマッチが終わったその足で来たらしく、その顔には女子高生には不似合いなほどの疲労の色がくっきりと出ていた。
 プラスチックの容器を開けると、冷めていてもすぐにそれと分かるソースの匂いが、病室中に広がった。各ベッドからは、「安倍屋だ」という飢えた声が飛んでくる。——この病室は、国防軍人が占拠しているのだ。さすが、国防軍御用達のたこ焼き屋。
 懺悔に忙しかったボリスも、やはり成長期の少年である。食欲に勝つことはできず、玉を懐にしまって、プラスチックの容器を覗いた。

「何ですか? それ」
「“たこ焼き”だよ、“たこ焼き”。えっと、ど忘れしたな、シベル語で“たこ”ってなんていうんだったかな」

 三笠は少し考えると、机の引き出しに手を伸ばした。そして、中から適当にメモ用紙と鉛筆を取り出す。言葉が分からないときは、万国共通である絵で伝えよう。コミュニケーションの基本であった。

「こういう、ほら、海にいる、八本足で……」

 不必要なほどリアルタッチなたこの絵。細部まで細かく、どこの図鑑をコピーしたのかと疑いたくなるほどの上手さだ。国防軍少尉東郷三笠、美術の成績は実のところ、小学生時代から常に学年トップ。
 だが、その無駄なこだわりは、ただ気色悪さをプラスしただけであった。
 
「ぼ、僕、遠慮します!」

 椅子から突然立ち上がって窓際の壁まで逃げたシベル人の少年。体の底から震え、いつの間にか先ほどの女神の彫られた木製の玉を取り出している。……悪魔祓いの儀式でもするつもりだろうか。
 三笠はそんな彼を横目に、爪楊枝をビニール袋から出すと、たこ焼きを一つ口に放り込んだ。

「美味いぞ」

 その言葉に、ボリスはさらに拒絶反応を大きくし、青ざめた顔でたこ焼きを指差した。

「こんな悪魔みたいなの、僕絶対食べれません! てか、シベル人は食べませんよ」
「んー、イヴァンの奴はうまいって言ってたけどな」
「兄さんみたいな変人と一緒にしないでください! 僕は女神に仕える身、悪魔なんて食べれません!」

Re: ゆめたがい物語 ( No.29 )
日時: 2012/04/07 23:15
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: AVqpQU0T)
参照: http://mb1.net4u.org/bbs/kakiko01/image/211jpg.html

 言ってしまってから、ボリスは己の言い過ぎに気付いたようだ。
 椅子に座り、消え入りそうな声で「ごめんなさい」と頭を下げる。彼は基本的に礼儀正しい紳士であるが、その一方で熱心なムイ教徒でもあるのだ。
 シベルをはじめとしたムイ教圏の文化と、大和国の文化とではそりが合わないことが多い。彼の兄、イヴァンは宗教に無頓着だが、むしろそう言う人間のほうが少数派である。

「今度、店長に言って“たこなし”で作ってもらうよ。悪いな、俺も無理に勧めて」
「……何にも、壁もなく楽しめる兄さんが羨ましいです。僕は、大和語だってほとんど分からないのに」

 ボリスは、そう言いながら膝の上で自分のこぶしを強く握り締めた。その間にも、三笠は黙ってたこ焼きを食べ続ける。
 窓から入ってくる日差しが、少し強くなった。ちょうど、ボリスの背中を明るく照らす。窓の外の青空。三笠は爪楊枝を置いて、その澄んだ色を目に映しながら、口を開いた。

「イヴァンも俺も、八年前に会ったころは、身振り手振り、それから絵で描き示しながら、意思疎通を図った。結構勘違いだらけだったな。喧嘩ばっかだ」

 今となっては、懐かしい記憶であった。イヴァンは十三歳、三笠は八歳。その出会いは、ただの偶然だったかもしれない。たまたま、大勢いる中から、二人は同じ部屋になった。
 それは、柔道の合同強化合宿だった。

「母さんが、シベル留学の経験者だったのが救いだった。文法習って、今度は言葉の壁なんかなしにあいつと話すんだって、そう思ってた一年後の合宿で、イヴァンが同じように片言の大和語を話せるようになって現れた時は、大声で笑いあったな」

 そう語る三笠の表情は、かつてボリスが見たことがないほど、晴れ晴れとしていた。この頃は、イヴァンも、また三笠も、今のような強い願いによって現れる“チカラ”を手にする前の、ただの見習い軍医と小学生であった時代だ。
 三笠は、視線を澄み渡る青空から親友の弟へと向ける。たまに見せる、どこまでも優しい表情。少年の一番好きな顔であった。
 ボリスは、強く握り締めていたこぶしを解き、白いレースのカーテンを締めながら、ふと心に浮かんだ疑問を口にした。

「……三笠さんは、どうやってそんな、シベル人もびっくりなシベル語が、しゃべれるようになったんですか?」
「ん、それは簡単だ。イヴァンの奴の長電話に毎日付き合えば、嫌でも語学力は身につくよ」

 嫌味にも聞こえるその答え。だが、決して非難の色はない。三笠は、カーテン越しの淡い日差しの中で、目を細めて笑っていた。

「語学力も勉学も、しっかり身に付けろよ、ボリス。維持費が掛からない上に、それで稼げることもあるからな」
「三笠さんらしいや」

 三笠の言葉に、ボリスは思わず声を上げて笑った。
 守銭奴三笠。天才として名高い三笠は、国内外の軍隊でこう揶揄されることが多い。若すぎる才能への、嫉妬や妬みも多く含まれているのだろう。
 だが、当の彼はそんな評判は気にしない。そして、同じようにボリスもそういった類の話は徹底的に無視している。金への執着心の裏に、何か強い思いを感じ取っていたのだ。

「やっぱり、兄さんが羨ましい」
「語学力か? イヴァンもお前と同じ歳からはじめたんだから……」
「いいえ、やっぱり何でもないです」

 ボリスはそう言うと、もう一度ひとしきり笑って、椅子から立ち上がった。淡い日差しに照らされた顔は微笑んでいる。だが、どこかその明るさの中に、薄い影を落としていた。

「お見舞いに来たのに逆に励ましてもらって、すみませんでした。ちゃんと治るまでおとなしく寝ててくださいね、仕事とか、こっそり抜け出しちゃだめですよ」

 保護者のように、あれこれと釘を刺してベッドから立ち去るボリス。もちろん、ほかの入院患者一人ひとりに頭を下げていくことを忘れない。
 かの老婦人にシベル語で分かれの挨拶をすると、両手で病室のドアをゆっくりと開けた。廊下に響くガードルなどの雑音が、遠くから響いてくる。最後に、病室のほうを向いて一礼すると、音を立てることなく、少年は丁寧に閉ざした。

「抜け出すな、ね。何で、あの兄弟はこうも、痛いところをついてくるかな」

 そう大和語でつぶやくと、爪楊枝を再び手に取り、三笠は残りのたこ焼きを食べ始める。
 かもめの音すら聞こえない。白い病室は、時が止まったように静かだった。


 ※URLは参照400記念です、といっても結構経ってしまいましたが……

Re: ゆめたがい物語 ( No.30 )
日時: 2012/04/18 23:03
名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: AVqpQU0T)

 海岸病院の待合室。青いソファが何列か並べられているそこは、総合病院の縮図のような場所である。
 幸も不幸も知る。老若男女、様々な人が、それぞれ違う表情をしてソファに腰掛けては去っていくのだ。ある人は退院の喜びに顔をほころばせ、またある人は悲痛な面持ちで下を向いて座り込んでいる。
 ボリスは三笠の病室を出た後、そんなソファにしばらく座り込んでいた。目前で、バスが出てしまったのだ。右手には先程自販機で買った缶ジュースを握り、左手は特にすることもなくひざの上に乗っかっている。
 白衣の医師が、何度か目の前を通っていった。ボリスはその後姿を見て、思わず深いため息をつく。
 
「……兄さんも、本当は」

 シベル語のつぶやきは、誰にも聞かれることなく、アナウンスの音に混じって溶けてしまった。
 ボリスはゆっくりと顔を上げて、前の柱に掛かっている時計を見た。バスが来る十五分前。根が真面目で慎重な彼には、ちょうど良いくらいの時間だった。
 最後にもう一度、近くの医師の後姿を一瞥すると、少年は息を大きく吐きながらソファから立ち上がった。結局缶ジュースを開けることはなく、渋い茶色のかばんの中にしまい込む。
 出口に向かって歩き出そうとすると、何故今まで目に入らなかったのか。座っていたソファの後ろにある机の上には、薄紅色の花が鉢に植えられていた。あでやかで美しい花、という感じではない。控えめで、傍にそっと置いておきたくなるような可愛らしいものだった。

「何て、いうんだろ……」

 思わず手を伸ばし、花びらにそっと触れる。すると、薄紅色の花弁が一枚、はらりとその手のひらに降り立った。ボリスはじっと見つめる。思った以上に、それは柔らかく、儚げなものであった。
 花びらだけでも持って帰りたいが、このままかばんに入れてしまっては、いずれ押しつぶされてしまうだろう。
 そう考えたボリスは、先程の缶ジュースを取り出して一気飲みした。口の中に、甘いりんごの香りが広がる。
 それから、缶を捨てることなく近くの男子便所に向かうと、中を綺麗にすすぎ始めた。
 そして、トイレットペーパーで先程の花びらを丁寧に包むと、りんごジュースの缶の中に入れ、かばんの中にそっとしまった。家に帰ったら押し花にでもしようと、そんなことを思いながら。
 それは、いよいよ帰ろうと、先程の花をもう一度見たときであった。

 ——寂しい、暗い、助けて。

 頭に響く音。霧の向こうから聞こえてくるような、はっきりとしない声だった。かろうじて女性の声であることだけは分かる。
 ボリスはハッとして、周りをきょろきょろと見渡した。だが、近くの人は誰一人その声に気付いていないようだった。患者もその家族も、医師や看護師までもが、助けを求めるその声に耳を貸さずにいる。

 ——誰か助けて。

 その声が聞こえたとき、ボリスの足は自然と病棟のほうへと向かっていた。どこから声がするのかは分からない。だが、何とかしなければと思うほど、体は勝手に動くのだ。
 エレベーターではなく階段を使って昇っていくと、響いてくる声はさらに大きなものとなっていた。
 白く長い階段。踊り場の窓からは、まばゆいばかりの夏の日差しが差し込み、節電で切っている電灯の代わりを果たす。その光の中、何度も声に気を取られて躓きながら、少年はどこまで行くのかも知らずに足を進めていた。

「何が、どうなってるんだ」

 そうつぶやきながらも、足は止まらない。助けを求められている。その事実が大きかった。七階までの階段で、一度大きく転んで背中から数段落ちた。とっさに、自分の体ではなくかばんを庇う。花びらに傷を付けたくなかったのだ。
 やっとのことで辿り着いた七階。これも節電故か。三笠のいた三階とは、比べ物にならないほど暗いところだった。
 不思議なことに、受付はあるものの、全員が都合よくボリスを見ていなかった。ある人は電話に集中し、ある人はコーヒーを淹れて、またある人は日誌をつけていた。もしかしたら、この階まで階段で上がってくる人はいないから、油断していたのかもしれない。
 ボリスはあの声を聞きながら、誰にも遮られることなく、七階のとある病室の前で立ち止った。入院患者の書いてあるはずのプレートは真っ白で、どんな人がいるのかさえ分からない。
 
 ——誰か、来てくれたの?

 ドアに手をかけると、そんな声が聞こえた。先程までの悲痛な感じとは違い、少しばかり明るさと喜びが感じられる。
 暗い廊下の、一番奥の部屋。忘れられたようなその部屋で、彼女はどんな様子でいるのか。
 ボリスは、そっとドアを開けた。


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