複雑・ファジー小説
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- それでも獅子は吼える
- 日時: 2017/07/08 14:38
- 名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: 4xvA3DEa)
- 参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe
当小説はリレー企画「無限の廓にて、大欲に溺す」のスピンオフになります。
設定、世界観はあちらに準拠していますので、あちらから確認下さい。
- Re: それでも獅子は吼える ( No.22 )
- 日時: 2018/04/12 00:40
- 名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
- 参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe
クルツェスカの暑さとカシールヴェナの暑さはやはり違うと、やや倦怠感に苛まれる身体に鞭を打ち、バシラアサドは日々の仕事に取り掛かる。表向きは商人であるがため書類仕事が多く、帳簿をつけたりと金勘定も多々しているのだ。気だる気で目が醒めたばかりの死人のような顔をしながら、筆を走らせる。厭に整った文字が凄まじい勢いで羅列されていく様を見るレーヴァの視線は右から左へと忙しなく動き続け、内容を読んでいるようだ。
「ドレント商会……、ルカロス商会……、カワザキヤ……」
特に意味もなく、羅列された屋号や商会の名を読み上げるレーヴァであったが、ヴィムートにあるルカロスや、フソウのカワザキは見た事もないだろう。唯一あるとしたならば、クルツェスカに駐在しているドレント商会会長の娘、次期当主くらいだろうか。
「ミナ最近来ないよね」
「忙しいんだろうさ、多分」
アゥルトゥラとアレナルの間に存在するドレント湾。そこを拠点とし海運業を営むハシェミト一族。その後を継ぐミナ・ハシェミト。彼女がバシラアサドへフソウやヴィムートの中古軍艦を売り付けた張本人であった。彼女は所謂、武器商である。度々打ち合わせをしに、この部屋へと来ていたが、それが終えてからはぱったりと足を運ばなくなってしまった。バシラアサドへと向き合う時は悪い顔をした武器商、レーヴァと向き合う時は善良な大人。この二面性を持ち、世の中を渡り歩いてきた彼女にバシラアサドも一方的ではあるが親近感を持っていた。何故ならば己もそうであるからだ。武器という血と死、争いを齎す忌むべき代物を売るという事は恨みを買い、命の危険にも晒される事だろう。自身も同じ
経験をしている故の親近感である。
「もう来ないのかなぁ」
レーヴァは心底残念そうに呟いた。黄色の瞳が微か寂しさに揺れ動いている。もうミナ・ハシェミトが此方へと来る事はないだろう。何故ならば彼女はナヴァロの一族、その私兵達に武器供給しているからである。商売の機会だという理由だけでナヴァロに与した彼女は非常に分かりやすく、また商人らしくある。もしジャッバールがドレント商会で扱っているアレナル製の銃器を欲したならば、彼女は喜んでそれと金を交換する事だろう。ナヴァロは彼女が生粋の商人であると知りながら、自らの陣営に引き入れたのだ。幸いにも彼女はジャッバールに対する敵対意識、差別意識はない。そこがハイドナーとの決定的違いであった。味方だろうが、敵だろうが関係なく商いの相手とする。たったそれだけの話である。
「アイツは渡り鳥なのさ。どうせ気が向いたらまた来る」
気を付けるべきは彼女の商いを阻害しないように立ち振る舞う事であった。元来、ハシェミトはドレント湾へ侵入するロノペリ、フソウの海賊を迎撃するため国に雇われた海賊であった。故に今もなお海戦を行う能力だけは維持している。もし商いの邪魔をすれば艦隊同士の海上戦となるだろう。その経験がないセノールにとっては最も避けたい事柄であり、もし東伐とその時期が被れば、五都市同時攻撃が成らなくなってしまう。ハシェミトは敵にするべきではない存在なのだ。
「ふーん……」
いまいち納得いかないような生返事をするレーヴァは関心が薄れてきたのか、バシラアサドの机から離れ、ソファーに腰を下ろして平積みにされた本へと手を伸ばしていた。カンクェノ、ホムンクルスに対する推察と研究結果がそこには記されている。レーヴァが読んだ所で理解に及ぶ物ではない。バシラアサドとて、その超常たる内容は理解に苦しむ。無から有を生み出し、理知を持たない肉の人形を作り出す事が出来たなど信じられないのだ。
案の定、頭を抱えながら彼女はその本を読んでいる。その下はレゥノーラに関する文書、その下にはセノールの歴史書、更にその下は最近バシラアサドが趣味の一環として始めた料理の手順書があった。
「分からないだろう……?」
今にも唸り声を挙げ始めそうなレーヴァが何処となく愛しく、普段余り浮かべる事のない笑みが自然に浮かび上がる。冷ややかな引き攣りそうな代物ではない。ふと、これから自分がやろうとしている業罪は他人のこういった光景を奪ってしまうのではないかという恐れを抱き、罪悪感が湧き上がってくる。何故か苦しく、胸をきりきりと締め付けられるような痛みを伴う。
「母さん?」
「あ、あぁ。大丈夫。大丈夫……。少し暑くてさ」
レーヴァの不安げな表情は直視できず、書棚の方を向いて顔を見せないよう、見ないようにバシラアサドは答えた。クルツェスカとカシールヴェナの暑さは物が違う。レーヴァは理解していないだろうが、それらしい言い訳を述べ、バシラアサドは小さく溜息を吐いた。元々小柄な身体が更に小さく見えるのは気のせいではないだろう。わざとらしく暑さをアピールするようにサウィスの前を僅か開き、扇ぐように忙しなく動かしていた。精神的なストレスに苛まれているとは悟られまいと、誤魔化そうという魂胆が見え見えであった。尤もレーヴァはまだ子供である。そこまで察するような洞察能力は持ち合わせておらず、すぐに自分は何をやっているんだとバシラアサドは正気に戻り、僅かばかり開かれたサウィスの前を閉めるのだった。例え子の前とて肌を晒すのは美徳ではない。
「そっか、あんまり無理しないでね」
子に心配されるという事がどうにも歯痒く、彼女を些細とはいえ謀った己を僅か恥じ入り引け目を感じながら筆をただひたすら走らせてゆく。算盤を時折、弾けば少しずつ己の気持ちは落ち着いてくるのが感じられるのだった。
筆と算盤、捲られた頁だけが二人の間を取り持ち、完全なる沈黙を寄せ付けないでくれている。日は既に西に落ち掛け、厭に朱色を放つそれが窓から差し込んでいた。「もうこんな時間か」と、黒鉛で微か黒く染まった手を見ながら一人ごちる。レーヴァは睡魔の手によって本の海に叩き落され、文字の波の中で微睡むばかりであった。起こすのも忍びないと机に肘を付いて、その様子をぼんやりと眺めていれば、全く起きる気配もなく、静かに寝息を立てる彼女と本の海は宛ら一枚の絵のようであった。
手についた黒鉛を濯ぎに洗面所へといった行きがけの駄賃に、先日のルーイットやアースラにしたように鼻を摘まんでみようかという悪戯心が湧き上がりつつある。寝ている人間の鼻を摘まむというある種の殺人的行為は昔からよくやったものであった。唯一被害を間逃れているのは嘗ての友であるジャリルファハドのみ。彼は人前で寝ない。
「……許せ」
もう彼女を保護してから三年ばかり経つが彼女に悪行、狼藉の類を働くのは今が初めて。鼻へ向けて伸びる手を止めようとする自制心を抑えつけた悪戯心が、その手を加速させていく。遂に鼻を摘まもうとする、その時であった。一発の銃声が響き、壁を何かが穿つ。一瞬凍り付いた思考を引っ叩き、無理矢理に働かせ、まだ目を覚まそうとしないレーヴァへと覆い被さるようにして、バシラアサドは体勢を低め、頭を隠す。自分の身体の下で寝惚けたような声を挙げるレーヴァを触れるも血に濡れたような嫌な感触はなく、彼女も己も無傷だと分かり思わずバシラアサドからは溜息が零れた。弾痕は僅か一尺も離れていない所にあり、壁にめり込んで口惜しいと恨み言を吐いている。悪意の塊のようなそれを一瞥しながら、バシラアサドはレーヴァの背を押して、伏せながら外に出て、と耳打った。何があったか理解に及ばないまま彼女が、這い蹲って出て行く姿を見て、良い子だと笑みを湛え、壁に寄り掛かる。狙撃手相手に先制攻撃されたならば、反撃のためには索敵をしなければならない。それは自分の命を危険に晒す事と同義。最早、この戦は撃たれた段階でバシラアサドの負けであった。このような姦計を巡らせたのは恐らくナヴァロの一派。彼等も人を確実かつ、密かに殺める術をよく知っている。
「さて……」
窓の真下まで這い寄り、目前のテーブルにおいた花瓶に手を伸ばす。水が入っており、赤い花は未だ厭に艶めいていて、宛ら鮮血の如く。それを引き抜き、花瓶を窓へ置くなり、銃弾は花瓶を撃ち砕き、バシラアサドは頭から水を被るような状況となる。少し頭が冷えた、と冷ややかで、恐ろしげな笑みを浮かべながら彼女は肩を震わせているのだった。
- Re: それでも獅子は吼える ( No.23 )
- 日時: 2018/04/12 00:54
- 名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
- 参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe
狙撃手は未だ狙撃位置から離れようとしていない。二度の銃声により街はやや色めき立ちつつあり、外では手勢が騒がしく配置に付きつつある。開け放たれたままの扉の向こう側から心配そうな表情を浮かべたハヤが居たが、何ともないと手を振れば彼女は安堵したように胸を撫で下ろし、小銃を掲げていた。
「狙撃位置は?」
「分からん。西なのは確かだ。あとは……射入角を見てみろ」
弾痕は壁と床に一つずつ。弾痕は急に斜めに入っており、撃ち下ろされた事が見て取れる。此処よりも高い場所といえば数は少ない。必然的に狙撃位置は絞る事が出来るはずだ。
「時計塔だ。時計塔を隈なく探せ。捕らえたならば殺さず連れて来い」
獅子に牙を剥いたならば、牙で応じるのみである。低く唸るようなバシラアサドの注文にハヤも思わず引きつるような悪い笑みを浮かべて、踵を返していく。武門ではないというのに武門の兵よりも悪い顔をするとバシラアサドは鼻で笑いながら、兵達が駆けて行く足音を聞くのだった。遠くからはルーイットの怒号とやけに冷たくおぞましいハヤの声が聞こえている。これがナヴァロによる攻撃だった場合、彼等は二段、三段に構える事だろう。狙撃が初撃であるならば、次点は包囲。狙撃手を捜しに行った者達の帰路を絶ち、標的へ向けて来る。しかし、今此処には往来の目がある。ともすれば、その様な手段は取れない。最初の狙撃で確実に殺さなければ、仕留め切れないのだ。
どう報復を成すか、バシラアサドの脳裏にはそればかりであった。以前、商人とひと悶着あった際には間者の首を刎ね、胴は市場に並べて間者の首を商人の家へと送り届けた後に商人達へも同じような事をして敵を消してきたが、それでは今回ばかりは怒りが鎮まりそうにもない。一歩間違えば自身のみならず、レーヴァへ銃弾が減り込んでいたかも知れないからだ。狙撃手を捕らえたならば、未だ嘗てない程に残忍な見せしめを執り行う必要があるだろう。獅子の怒りはそれ程までに昂っているのだ。
時計塔の中には長く続く階段があり、それは上へと向かって延々と伸びていた。歯車が唸り声をあげ、それが彼方此方で反響しているているせいで時計塔の中は声が通り難く、また気配を捉えにくい。従って待ち伏せしての反撃するに適しているのだった。ルーイットの顔付が何処となく引き締まり、緊張が見て取れた。如何に屈強、強固な身体を持つレヴェリといえども銃弾を見舞われたり、鱗のない箇所を刺されれば死に至る。他の人間と違うのは致命傷を負ってから、死に至るまでの時間が長いだけだ。
「ラムザ。お前たちは出入り口を封鎖しろ。俺が見逃した奴等が居たら、半殺しにして捕縛だ。いいな」
「任せとけ」
ルーイットとラムザと呼ばれたレヴェリは拳を叩き合わせる。ラムザと数人のレヴェリ達は階下にて、小銃を片手に神経を研ぎ澄ましていた。厭に殺気立ち、近寄りがたいそのレヴェリの武人たちは皆がルーイットに匹敵し得る兵。彼等が時計塔の外へ顔を覗かせるなり、やけに目立つのだ。故に彼等が外に出たとしても、銃弾が飛んでこないという事はハヤが割り出した時計塔という狙撃位置は正しかったと判断出来る。
「……行って来る」
ルーイットは時計塔の中で小銃を扱う事は難しいだろうと、それを置き去りに腰に一振り短刀だけを残した。彼が駆け出し、階段を上り行けば、鉄板の入った靴底のせいだろか、歯車の唸り声の中、重く鈍い音が鳴り響くのだった。それは機械室にて息を潜める者達の耳へも確りと届き、黙示録、第四の騎士が青ざめた馬から降り、自らの足で地を歩いたかのような不吉な物に聞こえて仕方がなかった。
ある者は任務を遂行せんとライフルを構えたまま、ジャッバールの拠点へ睨みを利かせ、その傍らでは双眼鏡を手に観測。またある者は鉤のついた縄と散弾銃を一挺携え、息を呑む。そして、最後の一人は腰に騎兵用の刀を差し、傍らに小銃を置いて床越しに階下を睨み続けていた。刀の男は表情一つ変えず、足音が近付いてくるのを心待ちにしているかのようだった。
「ジェリド。さっさと撤収しないか? 狙撃手ってのは一発外したら任務失敗なんだ。それを此処に留まり敵に殺到させるなんて馬鹿のする事だぜ」
散弾銃の男の声色からは恐怖が感じ取れた。狙撃手は卑劣な存在。故に敵に捕らえられる事により、先に待つのは執拗なまでの責め苦の後の死のみである。それを知っていながら、この分隊を指揮するジェリド・ボーフォスは退避の命令を出そうとしない。恐怖から徐々に狙撃の精度が落ちつつある。平静を保っているのはジェリドと観測手のみ。その観測手とて、煙草を吸って気を紛らわせている。この状況は分隊の士気低下に直結し、次第によっては規律が乱れる。ジェリドと呼ばれた背の高い男は仕方なしと一つ、溜息を吐いた。
「傭兵は金と自分の命が全てだし、義に基づいて生きる生き物じゃない。まぁ、ベケトフの飼い犬みたいなもの居るけどさ。逃げても良いぞ。但し──俺が帰ってくるまで待っててくれよ」
小銃を置き去りにしたまま、ジェリドは機械室の扉に手を掛ける。扉の向こうからは足音が迫りつつあり、彼はそれを向かい討つ気でいると見て取れる。散弾銃の男は震える手を無理矢理に抑えつけ、ジェリドの背を見送るばかり。
「俺が死んだら、俺が負けそうになったら。それで俺ごと撃てよ。なーに幾ら蜥蜴野郎でも銃弾撃ち込まれた死ぬってもんだ」
それだけ言い残し、ジェリドは扉を閉めてその姿を隠してしまった。彼は帰ってくるのだろうか。散弾銃の男は自問自答を繰り広げ、彼が帰ってくると一人で僅かな金を賭ける。ポケットに入れた三枚ばかりの硬貨が小気味良く音を立てた。
ある者は階下へ目指し、ある者は階上を目指す。相互に否定するために、相互に血を流すために。目的はたったそれだけであった。故に彼等の歩みは止まる事を知らず、少しずつ昂っていく己に一抹の心地よさを感じている。人間の根底、深淵にあるのは闘争の愉悦である。人間が武器を持った時から、それは腹の中で育まれ、遺伝子の記憶として存在し続けてきた。故にどれだけ非武装、非暴力を謳い、平和を語る者であったとしても、血を流さざるを得ないのだ。もしそうでないとしたならば遺伝子上の欠陥を持つ人間成らざる不完全な生物。万物の霊長を名乗る権利すら持ち得ない。人でありながら畜生と同等の存在をなるのだ。
ルーイットとジェリド。彼等の間には語る言葉すらない。あるのは殺意ばかり。この男と対峙するのは幾度目であろうか、この蜥蜴と相対するのは何度目だろうか。この蜥蜴はヴィムートからカシールヴェナへ至り、獅子と共にクルツェスカを呑み込もうとしている。西からやってきた蛮族、野蛮人達は故郷を凌辱し、血の匂いを漂わせながら、影の中で生きている。ジェリドにはそれが許せなかった。
腰に差したサーベルの柄を握り、それを引き抜く。蜥蜴は丸腰、強固な鱗に刃は阻まれるだろう。故に狙うのは目である。視界を奪えば殺めるのは容易い。音を僅か置き去りにするような剣閃は中空を舞い、ルーイットを掠めていく。あぁ、やはりレヴェリには見えている。人よりも嘗て存在した魔物の側面が強いレヴェリのスケイラーはやはり化物でしかなく、彼等を亡ぼせなかった己の祖先を憎々しく思えば、剣閃は更に速度を増したような気がした。それでもルーイットを捉える事は敵わず、それどころか目が慣れてきたのか、間合いに入り込んでくる始末。 鼻先を掠めた切先。それを見送り、サーベルを持った右手を捉え、伸縮する爪が手首の肉に食い込み、血管を引き千切っていく。血が重力に引かれ、落ちていく前にジェリドの身体は無理矢理引かれ、壁に叩き付けられるなり石のような拳が彼の顔面を穿つ。飛びそうになる意識を何とか踏み止まらせ、左手を伸ばす。左手の先には短刀があり、引き抜かれ白刃を晒すなりルーイットの脇腹を穿つ。そのまま体重に任せて押すと鱗で阻まれるまで腹を裂き、血の流れを生み出すのだった。
ジェリドの身体を蹴り飛ばし、短刀を引き抜きルーイットはそれを鞘に納める。心無しか息が荒く額には脂汗が浮かんでいる。ジャリルファハドやシャーヒンといったセノールの小兵には出来ず、また、される事もないだろうという攻撃方法。予想だにしなかった一撃は形勢を引っ繰り返したのだ。
「ざまぁみやがれ! トカゲ野郎!」
仰向けに倒れたまま、首だけ起こしジェリドはさぞ愉快そうに高笑いしながら、右腕を大きく掲げ、中指を立てていた。遥か西方の大陸における侮蔑のサインをどこで覚えたのだろうか。
ジェリドの頬は鬱血と鱗による擦過傷と浅い切創が見られ、鼻血を垂れ流している彼であったがルーイットが負ったそれよりも怪我の程度は軽く、まだまだ意気軒高といった様子だった。刺創と切創が組み合わされた傷は確実に命を蝕んでいく。厭に生暖かい感覚が太腿を伝い、足元を汚してく。流れ出る命を堰き止める術は持たない。これ以上の闘争を選択する余裕などなかった。
深く息を吐いた後、ルーイットはジェリドを見据えて呪詛を吐く。
「お前等は鏖殺だ。一切の血を絶やす。誰一人地上に塵すら残さねぇ」
「あまりデカい口叩くなよ。デカいのはその図体だけで沢山だぜ。あぁ、蜥蜴野郎。てめぇの飼い主様の"猫"に言っておけ。そのすまし顔をぶっ壊して、中身全部犬に喰わせてから剥製にしてやるから、その黒い肌少しでも白くして待ってろ! ってよ」
悪辣で悪趣味なその言葉にルーイットは底が浅いと侮蔑するように鼻で笑いつつ膝を付く。自分の身体である以上、限界が来ているのは自分が一番よく分かっている。次第に大きくなる痛みの波が命のみならず、精神まで蝕み始めている。慢心という心についた贅肉が招いた結果に侮蔑の笑みを浮かべ、壁に手を付きながら、ゆっくりと立ち上がる。
「お、まだ動けんのか。やるねぇ。どうする、俺を殺すかい」
「余力を隠してる奴と殺し合う奴がいるかよ。馬鹿野郎が……」
踵を返し、引き返しつつあるルーイットを見てジェリドは高笑いをしていた。次第に離れていくルーイットを見送るなり、ゆっくりと立ち上がり、彼は階上へと引き返していった。階下からは逃げられない。レヴェリの群れがいるのは確実だからだ。
漸く引き上げてきたジェリドを見据えていたのは散弾銃の男。顔面が血塗れのジェリドが心配なのか、どこか落ち着かない様子だった。彼の手には鉤の付いた縄があり、今すぐにでも逃げたい意思が丸見えであり、それを見てジェリドはにやにやと笑いながら逃げて良いと合図を送るのだった。
良いと合図を送るのだった。
- Re: それでも獅子は吼える ( No.24 )
- 日時: 2017/01/28 21:47
- 名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: zh8UTKy1)
- 参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe
ルーイット・フォグナーの重傷は瞬く間にジャッバールの兵達の間に広がった。右の脇腹を刺された後、そのまま裂かれ切先の一部は内臓にまで達し、あと十数分応急処置が遅れていたならば落命していても不思議ではない傷であり、武働きに従事するのは難しくなってしまった。彼は言うなればジャッバールにおいてバシラアサドの直属の護衛であり、有事の際に即応する兵でもある。彼の負傷と一時的な離脱を受け、カシールヴェナからシャーヒンを呼び寄せる事で弱体化は間逃れたが、バシラアサドは気が気ではなかった。今の今までルーイットという比類なき者が存在したからこそ、彼が傍に居た時には、全く手を出されずに済んできた。それは何故かと言えば手を出せば人的損耗が生じ、報復に遭うのが目に見えていたからだ。しかし、今回の敵は手を出し人員的損耗が発生したとしても、それを全く痛手だと思わないだろう。彼等は目的のためなら、手段を選ばないのだ。自分たちと同じやり口、思考。これ程までに厄介だとは思わなかった。50年も昔の話となるが、ガリプは犠牲を厭わず、ただ只管、愚直な程に真正面からアゥルトゥラへと突貫し、多くの血を流しながらアゥルトゥラの前線を瓦解させた。当時最新式であったライフルを持っていたというのに、何故そんな無様な様相を呈したかが、今ようやく理解出来る気がする。死を恐れない兵は相手の心を殺すのだ。今、バシラアサドは敵がリスクを恐れないという事に対し、恐怖に似た感情を覚え、心を殺されかけているのだ。
「——アサド」
寝台の上に横たわるルーイットの傍らでぼんやりとバシラアサドは外を眺め、言葉など聞こえていない様子であった。上の空の彼女はどこなく儚げで、血の匂いや、手の付けられない悪心など一切感じさせない程に美しくあるように感じられた。今の彼女の肩を叩くのは、割れ物を壊してしまいそうに感じ、憚られて仕方がなかった。彼女とてセノール、サチの武門の一つジャッバールにて、戦に生きる術を収めた兵の端くれ。その上、ルーイットのような武辺一辺倒な武人が、そんな存在に対して、そんな事を思うのはおかしいと言われそうだが、バシラアサドにはそんな魔性に似たところがある。
「アサド」
「え? な、何さ?」
「……若い頃の素が出ているぞ」
はっと気づいた様子で小さく咳払いを一つ。伏目がちにルーイットを見据えていた。翳りのある瞳が微か揺れ動いている。何をそんなに動揺している。お前を守る者はじきに砂漠から来る。己が復帰したならば、守りは二倍となり敵は密に排される。矛と盾が揃うのだから喜べば良いだろうにと短絡的な思考に基づき、バシラアサドを僅かに嘲る。
「年を取っても変わらないな」
「互いにな。私もお前も」
嫌味を嫌味で返され、ルーイットは肩を竦めながら苦笑いを浮かべた。
あの狙撃の後もバシラアサドは壁に身を潜め、決して動かず未だ見られているという緊張と只管戦っていたという。刀剣を持った者が迫ってくる恐怖、緊張は武人ならば覚悟を決め、腹を括れば誤魔化す事は出来る。しかし、銃弾が齎す恐怖、緊張の類は払拭出来ないのだ。覚悟を決め、腹を括る暇すら与えられず、銃声が聞こえた時には自身の身体を穿ち、肉や骨、血管を吹き飛ばし、あ、と吐く間もなく命を奪うのだ。
「しっかし、ボーフォスの小坊主もやるようになったぜ」
「ボーフォス……、武家崩れの傭兵か。まだ生きていたか」
「いやー、あの坊ちゃんしぶとくてよぉ。普通なら死んでるような打撃浴びせたりしても生きてるし、突然銃弾ぶち込んでも生きてるからな。全然殺せないんだぜ」
「それでお前はこんな傷を負ったと」
ルーイットの左脇腹を悪戯な表情を浮かべて、バシラアサドは叩いて見せると彼は小さく呻き声を上げるだけで抗議の声は一つもなく、黙ってそうさせていた。抗議すればバシラアサドが面白がってしつこくなる事を知っているからだ。付き合いも長ければ、行動の規則性を読み取る事だって容易い。勿論限度はあるのだが。
「油断したって事だ。最近人間相手じゃなくてレゥノーラばかりだからな。あいつ等は外堀埋めてやりゃ勝てる相手だが、人間はやっぱ違うぜ」
「当たり前だ。馬鹿者」
傷を叩いていた手はいつの間にか動くのを止め、傷の上で握り締められていた。彼女の腕は小刻みに震え、力が込められているのが見て取れる。その腕には未だに取れない痣が顔を覗かせている。以前は紫だったそれもやや薄れてきてはいるが、バシラアサドの細腕に似合わないそれは何処となく痛々し気である。
「……お前こそ、手の傷はどうだ。それに腕の痣も」
「傷は水仕事をしていると痛む程度だ。腕はなんともない。あと一、二週間もすれば取れるだろう。治りの悪い体質でな。……そう私を案ずるな怪我人」
口調はいつも通り威圧的に感じる物だったが、声色は素の物であった。目には見えない動揺が確かに存在している。これでは二度と怪我が出来ないと僅か苦笑いを浮かべつつ、彼女の黒い髪に手を触れる。一瞬だけ驚いたように目を見開いていたが、それを咎める事もなく静かにルーイットへと視線を下ろした。
「おかしな所で死ぬなよ。レーヴァにも……、私にもまだお前が必要だ」
妙な事を言い出すバシラアサドに一瞬、ルーイットは戸惑いを抱くのだった。自分はあくまで一介の傭兵に過ぎない。ただただ一緒に居た時間が長く、苦楽を共にした回数が多いだけである。バシラアサドにとって必要なのは合点が行くのだが、レーヴァにとって己が必要だという事はよく分からなかった。バシラアサドの教育のせいか、レーヴァは年の割に聡明である。実の親ではない事など当の昔に理解し、親としての義務として育てられているのではなく、生かされているという事を理解している。経済的な側面を除いて、それ以外は自分でなんとかしようとしているのが証拠であろう。故にレーヴァにとってルーイットが必要だというバシラアサドの言葉は理解に苦しむ。
「この程度じゃ死にやしないさ。ま、危なかったがな。ヴィムートで狙撃食らった時よかマシだ」
バシラアサドの髪から手を離し、ルーイットは静かに語る。以前、見たことはあったが彼の背には大きく裂かれたような傷跡が残っている。ヴィムート南部からクルツェスカへと逃げるにあたり、ヴィムートの国境警備隊から狙撃を浴び、背中の肉を弾き飛ばされているのだ。彼はそれよりマシだとは言うが、負わされた傷は命にも関わりかねない傷なのだから、マシだとかマシじゃないとか、そういう次元の話ではない。
「少しは自分の身を案じろ。馬鹿者が!」
突然語気を荒げたかと思えば、バシラアサドは傷の上に置いた拳を傷に振り下ろし、すっかり気を抜いていたルーイットが呻き声を上げて悶絶していた。何故そこを叩くと文句が言いたげではあるが、呻き、唸るばかりでバシラアサドに対する非難はやはり一つも出ない。だがしかし、彼女はやってしまったとややおろおろした様子で、忙しなく視線を右へ左へと泳がせていた。何故こうも突然思慮に欠ける行動に出るのだろうかと、恨めし気に彼女へ視線を送れば、都合が悪そうに窓の外へと視線を送り、ルーイットから逃れようとしている。今思えばセノールはこういう人間が多い。普段は張り詰めた弓の弦や、研ぎ澄まされた剣のような危うさすらも感じさせる印象を宿す者が多いが、ある程度親しくなれば
何処となく抜けた行動を取る事がある。バシラアサドも例外ではない。
「いや……その……。すまない。私が身を案じるべきだった」
獅子は借りてきた猫のようにすっかり大人しくなり、ただでさえ小柄な身体が申し訳なさからやや萎縮し、余計萎縮して見える。珍しい物が見れたと痛む脇腹を抑えながらルーイットは苦笑いを浮かべるべていた。もうカシールヴェナから出てきて10年近く経つ。気のせいではなく明らかに肌の色はやや薄れてきているような気がした。セノールでも日焼けするのかと、思わず感心してしまう。
「なぁ、ルーイットよ」
何時もの声色がルーイットを現実に戻す。青い双眸が瞬き一つせず此方を見据えていた。その瞳に視線を合わせた途端に鼻孔を擽るのは争いの匂い、血の匂い。無論これは錯覚である。しかし、争いに身を置いてきた者達にしか分からない「それ」が確かに此処にはあった。
「我々はナヴァロと全面的な争いになる。これは間違いない。もう私がそうすると決めた」
先程の穏やかで、どこか抜けているバシラアサドの姿はそこにない。そこに居るのは孕み続けた悪心を産み出そうとしている青い目の獅子である。地上に常世の地獄を作るだろう。傷を忘れさせてくれるようなそれに蛇は声もなく嗤い、肩を震わせている。
「……傷が癒えたら私に力を貸せ」
言葉の弾丸は一度出たならば、二度と収める事は出来ない。今、此処に引き金は引かれてしまった。銃弾は蛇を穿ち、蛇はそれを言葉もなく受け入れるのだった。
ゆっくりと立ち上がったバシラアサドが、静か歩み寄ったのはルーイットの懐。しな垂れかかる様に身を寄せ、耳元で小さく「頼むぞ」と一言。返事も「あぁ」と短い物であったが、両者にはそれだけで十分である。
斜陽のクルツェスカにて、今悪心が聞こえない産声をあげるのだった。
- Re: それでも獅子は吼える ( No.25 )
- 日時: 2018/04/12 01:09
- 名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
- 参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe
武辺に偏り砂漠で血を流す事しか知らないシャーヒンは、物珍しげにクルツェスカの様相に視線をばら撒いていた。目が合った者達は視線を逸らし、まるで最初からそんな事が無かったかのように振舞う。特に老人はシャーヒンの腕に彫られたタトゥーを見るなり、視界に納める事すら忌憚するように踵を返していく。彼等の多くは腕や足が欠損している。手足を削いだのはハサンやガリプといった兵達である。敵味方が入り混じり、混乱を極めた戦乱の中で己の手足を奪った者の顔は覚える余裕はない。だが、しかし、顔ではなくその者達が腕に彫っていた槍に穿たれた六芒星は確りと覚えているのだ。元来、アゥルトゥラにタトゥーを施す風習はなく、セノールのそれは彼等からすると奇習であるが故に顔よりも鮮烈に記憶に残っている。
クルツェスカの道は石畳を敷き詰められ、カシールヴェナの踏み固められた赤土とは異なる感触に僅か戸惑いを覚える。この土地では歩き過ぎれば足を痛めかねない。よくもこんな場所にバシラアサドは住めるものだと感嘆の溜息を吐く。セノールは足元の砂すらも武器とする故、やや神経質なきらいがあり特に武門はそれが顕著である。余談ではあるが、カシールヴェナからクルツェスカへ来たばかりのバシラアサドも、この石畳に戸惑ったようだ。
「いかんな」
今まで通ってきた場所は頭の中に風景を記憶し、歩幅から大凡の距離を算出していたものの、如何せんシャーヒンには地理がない。ぼそりと呟かれた危惧の念は道が分からなくなってしまったと風に訴え掛けたものであった。気のせいではないだろう。彼の薄い表情に僅かの翳りが見て取れる。迷った事に対する不安ではなく、アゥルトゥラの憲兵に尾行されるのを避けたいからだ。西方交易路が使用されだしてから、セノールが対外的に出歩くことも多くはなったが、やはり此処はアゥルトゥラの都である。セノールというだけで注視され、如何にもな様相、風貌の者はやはり危険視される。そんな者がジャッバールの屋敷に出入りしているともなれば、ジャッバールに対する監視の目は強くなるだろう。ともすれば間接的に行動は抑制されかねない。ルーイットの負傷により、彼の替わりにバシラアサドの護衛として召喚されたというのに、ジャッバールの力を弱めては本末転倒。笑い話にすらならない。尤もリスクを厭わず密かに憲兵、密偵を消せというのであれば、応じる話ではあるがルーイットが負傷するような事態が起きた以上、人的なリソースを割く余裕もないだろう。
一目を避けるようにして路地を選び続ければ、いつの間にか貧民街へ入ったようで汚泥と埃に塗れながらも、厭にぎらついた目をした者達が目立つ。彼等は貧しく、見窄らしくみえたが、その中には正道を歩み、至極真っ当に生きている者達にはない力強さのような物もある。人間が人間たる所以、底辺であったとしても逞しく生きようという気力があるように感じられた。この者達を手勢として拾い上げ、安定した生活を約束させた上で兵として使ったならばどうなるだろうか。セノールには混沌は貧困から齎されるという教えがある。貧しき者は世を恨み、羨み、持たざる物を欲する。そこに血を流す術を吹き込み、得物を流せば富める者へと牙を剥く。そこに恩義を被せれば死すら厭わぬ兵となる。民を殺し、国すらも殺し、貧者を狂奔へと走らせるやり口であった。バシラアサドはその術すら使っている事だろう。セノールの慣習、文化を憎んだとしても、合理に富んだやり口を捨てる訳がない。捨てられる訳がない。善政の裏で悪事を成す。背反しあう事象は、薄氷で仕切られているのみに過ぎず、互いに背をぴたりと寄り添わせているのだ。ややもすれば"仕切り"すらないのかも知れない。
貧民街の住人達からの視線を一身に浴びてなお、知らぬ存ぜぬを決め込んで彼等の前を通り過ぎようとした時、彼等の中に幼い子の姿がある事に気付き、思わずシャーヒンの歩みは止まった。年端も行かぬ子供、それが此方を口を閉ざしたまま見据えているのだ。ただそれだけならば気にも留めない。だが、しかし、その子供は痩せ細り飢えと渇きに苛まれ、喘ぎ苦しんでいるかのように見られた。ふと、脳裏を過ぎり、重なるのは嘗ての外部居住区の者達。ガリプがなけなしの私財を擲ってまで養っていた者達である。彼等はガリプに組み込まれ、今は安定した暮らしをしているが、アゥルトゥラは未だ払拭出来ない暗部を抱えているように感じられた。闇を見て、黙したまま通り過ぎる訳にはいかない。彼は後ろ髪を引かれるような思いに足取りを止め、口を開く。
「ジャッバールの屋敷まで案内されたし。……今手持ちはないが、恩義は必ず返そう。皆で来てくれないか」
ぽつりぽつりと語る言葉はアゥルトゥラを救おうとする言葉である。先祖への非礼にあたり、敵対する者を救うという愚行はセノールとしての良心を痛める。しかし、今此処でこの者達を見捨てれば人としての良心を擲つ事となり兼ねない。人の形をした獣であったとしても良い。クィアットの再来、ヴェーラムの化身。そう揶揄される己ではあるが、目の前で貧苦に喘ぐ者は見捨てられない。ましてや子である。彼等は不思議な顔をしながらシャーヒンを先導していく。ぽつりぽつりと言葉を浴びせかけてくるが、シャーヒンは彼等に応じる事はなく、黙りこくったまま彼等の後を追うのだった。
「あら、シャーヒン」
ジャッバールの屋敷の扉を開けるなり、聞き覚えのある声が耳に飛び込んでくる。幼い頃から全く変わらず、ただただ喧しい女。ハヤであった。彼女は両手に抱えた山のような図面や書籍に押しつぶされそうになりながらも穏やかに笑っていた。その後ろには赤毛のアゥルトゥラが申し訳なさげに立ち尽くしており、視線が合うなりシャーヒンに会釈をするのだった。
「話は聞いてるよ、ルーイットの替わりだって? ──あぁ! そうだ! こっちはソーニアっていうのアゥルトゥラの学者。で……、そちらさん方は?」
一方的に話したい事ばかりを話してはシャーヒンに問いかける。昔から変わらない。話を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、最後には「ふーん」と全く興味がなさそうな返事をして終わり。それが目に見えて仕方ない。
「迷った俺を此処まで案内してくれた。礼をしたいのだが、食事と風呂を頼む」
「あぁ、そんな事? いいよ。あっちの建物の左側の扉。ハヤから通されたっていえば全部通じるから大丈夫」
全く警戒するような素振りも見せずに貧民街の者達を、あっさりと通してしまうハヤにシャーヒンは内心呆れながらも感謝の念を感じていた。彼女はお喋りで一方的だが、人と気立てと頭が良い。実のところ、ハヤを嫁に貰ったルトは羨ましがられている。尤ももう少し静かだったら良いのだが、と一言が付くのだが。
シャーヒンの小脇を通り抜けながら、貧民街の者達は口々に礼を述べていく。どう返答して良いか分からず、口を噤んだまま遂に全員の背を見送ったシャーヒンの表情は形容しがたく歪み、それを見たハヤが身を震わせて笑いを堪え、ソーニアと呼ばれた学者は困惑したように両者の間で視線を泳がせていた。
「なにがおかしい」
「いやー、アンタもそんな顔が出来たんだねぇって。ファハドみたいに表情作れない性質かと思ってたんだ」
「アレと一緒にするな。アレは少し……。いや、かなりおかしい。あんな砂漠のような男と一緒にするな」
「ふーん……。ま、いいや。ちょっと持って」
そうジャリルファハドを歪めたのはお前達ハサンのせいだと、内心毒づきながら、幾つかの図面をシャーヒンに押し付けるように突きつける。強さばかり求めてハサンの殺し方を体得しようとハサンの門を叩いたジャリルファハドも愚かではあるが、ハサンの個を殺す特性まで押し付け、歪めたのは如何なる物かとハヤは思い至るのだ。何よりバシラアサドがそうやって個を殺し、壊れていく親友を見て泣く姿を作り出すだけで怒りが沸き立ちそうになる。
「あっち。これをあっちまで運んで。そしたらお茶にしよう。とびっきりの良い奴があるんだ」
"良薬"は口に苦しという。クルツェスカの洗礼をシャーヒンにお見舞いしてやろうとハヤは内心ほくそ笑む。ソーニアには初対面の時に洗礼を見舞ったため、物凄い顔をしているに違いない。現に振り向けば、ややじとついた視線をハヤにぶつけている。二度目の"良薬"を見舞えば、彼女が傍らに持つ鈍器染みた分厚い本の背表紙で頭を叩かれないため自分と同じクィーフスから取り寄せたお茶を出そうと思案する。押し付けられた図書を黙って受け取ったシャーヒンはそんな事をされるとも予想せず、ハヤの傍らを歩むのであった。
- Re: それでも獅子は吼える ( No.26 )
- 日時: 2018/04/12 01:05
- 名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
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「あの、それ苦くない……?」
不安げな引き攣った笑みを浮かべながら、ソーニアは問う。ハヤのお茶は厭に苦い。彼女の意地の悪いもてなしは、ソーニアも一度見舞われた事があり、故に記憶に刷り込まれているのだ。ハヤ曰くあれは薬だという。何でも滋養強壮に効くというのだが、あんな苦くて延々と後味が引く代物を常飲出来るとは考えにくいと思っていたのが実情だった。だが、しかし。目の前のシャーヒンはどうだろうか。全く嫌がる様子もなく、平然と飲んでいるのだ。
「決して……、美味くはない」
彼の感想は正直……、といった所なのだろう。それでも表情に出さず、黙ったままそれを飲み干すと器を音もたてずにおいて、何やらハヤが鼻歌を歌っている方向を睨み付けるのだった。不味い物を出すなという不満がその視線には込められている。セノールという人種は生真面目過ぎて面白味と人間味に欠けると思っていたのだが、その認識は間違いだったのだろうか。少なくともハヤは一々おかしな事をしているし、目の前のシャーヒンは人間らしさをいきなり見せ付けて来る。認識は改める必要があるのだろう。
散々にハヤを心の中で甚振り、半殺しにまで持ち込んだのだろうか。シャーヒンは今度ソーニアへと視線を向けた。何故、アゥルトゥラが此処にいる。そう今にも問おうとしているようだった。彼は己の得物を隠そうとしないように、言葉を何かに包むことを知らない。
「何故、アゥルトゥラが此処に? お前もお前だ。我々が恐ろしくはないのか」
問い掛けにソーニアは僅か首を傾げながら、自らの口元に手を当てて、どう話して良いものかと少し悩んでいるようであった。濃いグリーンの瞳だけがシャーヒンを見据えている。
「私は本当のセノールがどうなのかを知っているからね。あなた達は正道から背くような事をした者達を絶対許さない。でも、それ以外には寛容でしょ? まぁ、自分たちの敵を排除しようっていう意識はアゥルトゥラやカルウェノと比べて強めだけどね」
「我々はシャボーにて生きているからだ。怪しきが寄らば殺め、敵が寄れば討ち滅ぼす。そうしなければ生きていけない。それは我々の本能だ」
故に彼等は西伐でたった七万の兵でアゥルトゥラ二十三万の兵のうち十一万を殺め、負傷者を入れると十八万人にまで到達させた。終戦間際、セノール方の兵はたったの二万。アゥルトゥラの士気は既に崩壊寸前となり、手負いで瀕死であるはずのセノールはそれでも全く怯む様子すらなかったという。半世紀前の彼等がそうあったのは、シャーヒンが言う「本能」なのだろう。過酷な環境、状況で他者を排してでも生き残ろうとする「本能」は人間よりも獣に近い物なのかも知れない。
「でも……、負けた」
「然り。だが、俺はアゥルトゥラを恨みはしていないさ。単純だ。我々が弱かったから負けたのだ」
淡々と語るシャーヒンに表情は薄く、そこには言葉通りに50年前の怨恨は見受けられなかった。普段、穏やかに語り、賑やかに笑っているハヤですらアゥルトゥラに対して怨恨を抱いているというのに、眼前のいかにも陰気な男はそんな思いを抱いていないと口にする。人は見かけによらないと感心しながら、ソーニアは彼の腕に彫られたタトゥーを見つめた。
「槍に穿たれた六芒星……。どこの武門?」
「サチのハサンだ。……アゥルトゥラにはクィアット、と言えば分かるかね」
クィアット・ハサン・サチはアゥルトゥラにとって最大の敵である。その次点にアゥルトゥラを散々に苦しめた当時のセノールの総大将であったディエフィス・ガリプ・サチが来る。クィアットは西伐中でもひたすらアゥルトゥラの背後を取り続け、兵站破壊や後方攪乱、指揮官暗殺などを遂行してきた。終いには西伐後も徹底抗戦を実施し、他武門の当主達が処刑、幽閉、利き手を切断するなど処罰を受ける中、アゥルトゥラと抗戦を繰り広げ、遂に撃退した者である。また彼はヴェーラムと呼ばれる魔物の化身だと言われると同時におかしな話があるのだ。西伐中、クィアットは8度討ち取られているはずなのだ。それでも尚、姿を現しアゥルトゥラを苦しめ続けた化物と呼ばれていた。
「砂漠の化身、不死身のクィアット、シャボーの亡霊、二つ足のヴェーラム……。私てっきりハサンってアゥルトゥラを脅すために作った架空の一族だとばっかり」
「きちんと存在している。お前の目の前に」
抑揚がなく、音像のはっきりしないセノール訛りが少しだけ入っている。そのせいかシャーヒンの唸る様な言葉は宛ら呪詛の如く。それが耳にするりと入り込んでくるのだ。背筋を冷たく冷え切った指先でなぞられたように、ぞくりとした感覚が身を震わせ、ソーニアはそれを紛らわせようと何時も着ているコートを脱いだ。生温かいクルツェスカの空気を心地よく思ったのは生まれて初めてである。
ソーニアからしてみればクィアットが何故8度も死んだ事になっているか知りたいが、聞いてしまっては踏み込んではいけない領分に踏み込んでしまうのではないのかと口を閉ざすのだった。
「我々は汚れ仕事をしただけに過ぎない。最たる誉れはガリプだ。彼等がアゥルトゥラの敵陣を突破した事は知っているだろう。ヴィムートが裏切らなければ我々は勝っていた。歴史は……、現状は違ったはずだ」
南北から挟撃を受けても退け、ただただ前進を続け、策など何一つ持たず決死の突撃を成し、アゥルトゥラ本陣へ直進するルートを切り開いた者達だ。彼等の攻撃によってアゥルトゥラは大勢死に、彼等も大勢死んだ。ガリプの死者は誰一人カシールヴェナを向いて斃れていなかったらしい。
「私の祖父も西伐に参加していたの。カヴェン・テテスクの城塞攻略にね」
「お前の祖父は手足はきちんと揃っていたか」
「いいえ。……でもどこでそれを?」
「ナッサルのやり口だ。城塞攻略には3倍の兵力、物量を要する故に業と殺さず、戦えない兵を量産し、兵力も物量にも損害を与える。大勢のアゥルトゥラがそこで手足を奪われたと聞いていたからな──」
それからシャーヒンは委細詳しくカヴェン・テテルスクの惨状を語り始める。砂漠は夕刻でもないのに赤く染まり、辺りは死体だらけで兵の指揮は瓦解しているが、地下に仕掛けられた爆弾を恐れて撤退すら侭ならず、一方的な殺戮が起きていたと。彼の語る言葉は祖父から聞き及んでいた通りであり、ソーニアは思わず真実だったと関心していた。
「随分とお喋りじゃない。シャーヒン」
盆にお茶の入った器を乗せながらハヤが通りすがり際に茶化していく。シャーヒンは鼻で小さく笑うだけ笑って、椅子にふんぞり返ってクルツェスカの斜陽に目を細めた。カシールヴェナのそれよりも色は淡く、直視していられる。
「そういえば、お前名はソーニアとかいったな」
「えぇ、ソーニア・メイ・リエリス。官職持ちのリエリスの者よ。メイはアゥルトゥラの古語で魔術師を意味して──」
「お前は俺の名を忘れろ。俺と話した事は忘れろ。さもなくば──」
さもなくば殺める。そこまで口から言葉が出掛け、シャーヒンは口を噤んだ。このクルツェスカで成すのは先代のクィアットのように密かな殺人。痕すら残さず、命を奪う。残すのは屍のみである。それを成すために生まれた砂漠の化身は内心ほくそ笑む。どれ程の血を流せば、その罪を洗い流せるだろうか。何時まで経っても洗い流せず、このクルツェスカを赤く染める時が来てしまうのだろうか。だが、シャーヒンからすればそれもまた良いのだ。血を流し続ければ、目の前で首をかしげて、不思議そうな顔をしているソーニア・メイ・リエリスをも殺める時が何れ来る事だろう。その時、心を凍りつかせる事が出来れば、己は至上の武人となるだろう。
ソーニアが不思議そうな顔をしながら帰った後、シャーヒンは篝火だけを傍らに暗がりに目を細めていた。砂漠と比べて厭に明るい。このクルツェスカでは夜目を働かせずとも暗闇が見えるだろう。故に彼の視界には怪しき者の姿が見えて仕方がなく、本能がそれを殺めろと囁くのであった。手には短刀、懐にはあの世への渡し賃を僅か。砂漠の化身は足音一つなく、それを追い始めるのであった。