複雑・ファジー小説

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それでも獅子は吼える
日時: 2017/07/08 14:38
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: 4xvA3DEa)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

当小説はリレー企画「無限の廓にて、大欲に溺す」のスピンオフになります。
設定、世界観はあちらに準拠していますので、あちらから確認下さい。

Re: それでも獅子は吼える ( No.16 )
日時: 2018/03/28 09:42
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: QxkFlg5H)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 絶望の雨が白亜を穿つ。ある者はそれを浴び、全身を赤く染め斃れ行く。培った人生は刹那に奪われ、狂風に曝された小さな種火のように消え去るのみ。この地では燃え盛る事も許されず、ヴィムートの狂気の贄となるしか道はない。異形の武人はその地獄に身を浸し、それが世の常でならなければならないと偏向した思想を抱く。人間は女人の胎内を潜り井で、長い光明に塗れた陰鬱たる人生を送る。そして何れ灯火が消えた時、棺の中で永い眠りへとつく。それは万人に与えられた権利であるはずだ。だがしかし、己や輩は如何に。生まれながらにして、争いを与えられ、時の権力者の手足となり業悪を犯す。暴力と謀略に塗れ、真っ当な道など到底歩めず、唐突に訪れる死という休息に甘んじえざるを得ない。何故、俺がと憤る。何故、我々がと悲嘆に暮れる。争いに耐え得る力を持ったが故の試練なのだろうか。それとも争いに引き込まれてしまった罰か。生まれながらにして業悪を犯すようにと、宿命付けられたのだろうか。アゥルトゥラの経典には、人は生まれながらにして罪を持つとされる。ともすれば、大凡全ての人間は自分達のように生きる権利があるのだ。ならば、この道へと引き込むしかないのだろう。長く、終わりの見えない争いを望み、その果てに"光明に塗れた、陰鬱たる人生"を歩ませよう。異形の武人は行き着いた先の砂漠に、三匹の獣を見つけたのだ。業悪を孕み、自壊し掛けた眠れるしし。血と報復を渇望する武辺の彪。そして獅子の背を追う幼い虎を見た。獅子は自分が壊れる前に回りを壊し始め、彪は蛇の喉元を食い千切るべきと猛り狂う。虎は幼い故に理解しえなかった。三匹の内、一匹を手懐け蛇は事が成ると確信を得たのだ。



 ガリプ兵を主軸とするセノール内務軍を避け、吹き荒ぶ砂塵と責苦のような暑さの中、漸くカシールヴェナへと辿り着いた。民族皆兵を掲げる人種らしく、彼等の様相はアゥルトゥラのそれと比べると物々しく、男女関係なくそれぞれが帯刀していた。これが血塗れの勇名を持つ民族の末裔かと思えば、何処と無く空恐ろしくある。恐らく彼等はこの文化を捨て去る事が出来ないだろう。
 ルーイットからしてみるとセノールという民族が羨ましくあった。彼等は自らが信奉する宗教、神の教えに基づき、厳格かつ逞しく生き続けている。この生きる事すら許さず、不条理に他を律するような砂漠の中で、更に己を律し、己との戦いを繰り広げているのだ。故に彼等は強いのだろう、抑圧された生を歩み、血を流すべく時には自らその箍を叩き壊す。それを最も体感したのは、彼等に辛勝したアゥルトゥラであろう。銃で撃てども死なぬ限りは立ち止まらず、昼夜問わずして優れた用兵と士気の高さで反撃を浴びせられる。前線は瓦解し、兵站線は途切れ、彼等の攻勢を辛うじて押し留めるだけで精一杯であった。最終的には圧倒的な物量で長期戦に持ち込み、ヴィムート領内を通過し、カシールヴェナを直接叩くという寸法を取るしかなかった。それ程までに強く、戦に長けているのだ。だからこそなのだろう、不可侵を結んでいたはずのヴィムートがアゥルトゥラに手を貸したという事実に。更には勝機が見えた途端、物資支援を施し始めたクルツェスカのハイドナーに対し、怒り狂っているのだ。
「バッヒアナミル。お前は戦が好きか?」
 傍らで背伸びをしていたバッヒアナミルに問う。問いに普段の軽薄な雰囲気は消え失せ、物憂うような何処と無く大人びた表情をしている。若いセノールが感情を押し殺そうとしている時によくする表情である。昔のバシラアサドも時折浮かべていた。その冷たく、無感情にも見える様子は異質にも見え、彼等が砂漠の化身であるというのも納得がいく。荒れ狂う時は手が付けられず、穏やかな時はその片鱗すら見せやしない。
「そうですね……。俺達はそれしか知りません。戦うために生きて、戦って死ぬんです。ルーイット。アゥルトゥラは何故戦わないんですか? 戦わないなら何のために生まれてきたんですか? 人は何れ死ぬのに、戦わないだなんて生まれた価値がないです。五体満足なら力は誰だって持っているんです」
 矢継ぎ早に繰り出された言葉は偏執に取り付かれた、狂人のそれであった。しかし、これはバッヒアナミルの本音ではない。よく似た言葉を聞いた事があったからだ。
「アサドの口上か」
「えぇ。人は何れ死ぬのだから、戦わなければ生まれた意味がない。己との戦い、外敵との戦い。これを為さなければ生まれながら死んでいるのと等しい。無価値で無意味です。故に我々は東の民、アゥルトゥラを掃滅せんと力を蓄えているんです。そうして何時か怨嗟を晴らせ、私はその機会を必ず作るってね。扇動者としては天賦の才だと思います。人を貶し、怒りを沸き立たせた途端に矛先を外敵に向ける。そして、その背を押す。この言葉を聞いた時に"これはダメだ"って思いましたよ。アサドは放っておいたら勝手に死んでいってしまうって。だから、俺やアースラは砂漠からアサドを守っているんです。なんせ大好きな人ですからね。……クルツェスカでは貴方やハヤ達が守ってくれるでしょう?」
 バッヒアナミルの本心。それは戦いを望んでいる訳ではないと捉えられた。自分が戦うのはバシラアサドを守るため。それに限定されると。それ以外の目的や、思いは存在しえないと。それを察したルーイットは内心、悪態を吐く。この男は未来永劫、戦い続ける気など微塵もない、と。
「俺にはアイツを守れない。俺はどこまで行っても矛さな、敵を屠るしか能がない。盾には成れないんだ」
「それでも心強いです。……ありがとう。それと昨日はごめんなさい。どうにかしてたんですよ、その……アサドを貴方に取られたような気がしちゃって。アースラだってそうです。彼女に変わって謝らせて下さい。ごめんなさい」
「気にしてないさ」
 まさか謀られているとも思うまい。バッヒアナミルの穏やかな笑みからは信頼が感じ取られる。馬鹿な男だと嘲り笑うような事はせず、ルーイットは小さく頷くのだった。全面的な信頼はいつか身を滅ぼす。盲者が命綱を付けずに綱を渡るのと同じだ。この男は愚かしい。何も知らない道化にしか見えないのであった。




 セノールの首都であり、城塞都市であるカシールヴェナ。昨今の西方交易の成功が功を奏し、賑わいを見せていた。都市の正門から延々と露店が続き、そこを行き交う人々の群れが絶えない。最もアゥルトゥラの姿は無く、通りを歩む外国人といえばアレナルの者ばかりである。
「随分と人が増えたな」
「でしょ? アサドが出て行ってから、かなり息を吹き返したんだ。外部居住区はまだ厳しいけど、ラシードが治水整理と外壁建造に着手してるから、あと十年もすれば外部居住者って枠組みも消えると思うよ」
 アースラは笑みを浮かべて、嬉しそうに語る。ハサンの武門というのは、有事の際に従事する事柄に対し、割と感情を発露する者が多い。よく言えば分かりやすい、悪く言えば子供っぽい。彼女からすればセノールの人間が安定した生活を過ごせるようになりつつあるのが嬉しいのだろう。
「ハサンは何をしているんだ?」
 少し意地の悪い質問をしてみよう、とバシラアサドは口角を釣り上げながら問う。
 アースラは少し言い淀むよう、口を噤み、その歪みはそのまま目元まで登っていく。先程までの嬉し気な表情が一転していく様は面白く、アースラはやはり揶揄い甲斐があると再認識するに至った。彼女は中々口を開こうとしないのだが、視線だけはバシラアサドから離そうとしない。
「えー、畑……?」
「何を育てているんだ」
「香辛料……。四年前、土地を貰ってそれから栽培を始めたんだ。最近、軌道に乗ってきたし、皆の働き口が出来た。たまに手の空いたガリプが手伝いに来てくれるんだ」
「どうせファハドだろう。ヘサームの身では辛い、アミスはもう歳だ」
「軌道に乗ってきたおかげで生活も安定してきた。これ以上喜ばしい事はないよ」
 まだ二十歳にもなっていない者の言葉ではない。この様な者でさえ、民族のために出来る限りの事をしようとしているというのに、己はどうだろうか。西方交易路の整備は確かに成し得たが、全てが滅ぶようにと民族の敵のみならず、己の民族にまで悪心を向けているという事実が此処にはある。これにバシラアサドの業悪に塗れた心のような物が僅か痛む。
「上手く行くといいな」
「……いつか血腥い世界じゃなくともセノールが生きられる世界が来る事を願うよ」
 アースラに本心は伝えられない。彼女を傷付けるのは時期尚早。彼女は最後の最後まで謀り続けなければならないだろう。皆に悪心の種を得て、業悪を孕んだ己の姿は最期の最期まで見せられない。罪悪感、それを噛み殺しながらバシラアサドはアースラと共にハサンの屋敷まで歩み続けるのであった。

Re: それでも獅子は吼える ( No.17 )
日時: 2018/04/11 23:16
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 屋敷の出入り口、そこで掃き掃除をしている初老を少しばかり過ぎた男。それがアル=ハカン・ハサン・サチであった。西伐において無傷かつ、唯一処罰を逃れた先代のハサン当主、クィアットの息子、直系の血を引く者。そんなアゥルトゥラからしてみたら、仇敵ともいえる男が近くを過行く幼子を穏やかな表情で見送っている。彼は武門らしくない。それを見て、心成しかアースラの表情が緩んでいるのをバシラアサドは見逃さなかった。
「父上! アサドを連れてきました!」
 少し距離があるが、声を張ってアル=ハカンを呼べば彼は箒を肩に担いで、彼女を見据え、その傍らのバシラアサドの姿を見るなり、少し驚いたような表情を浮かべながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。それもそのはずである、嘗て自身が守った幼子は立派に成長し、久方ぶりに顔を見るのだから。
「おぉ、アサド。すっかり大人になって」
「私も三十路が近い故……」
 どことなくアル=ハカンの言葉が気恥ずかしく、バシラアサドは僅か目を逸らしながら応対すると彼は大袈裟かつ豪快に笑って見せた。人を一撃で壊し、殺め得るハサンの血を引く者とは思えない言動、立ち振る舞いにバシラアサドは何処となく辟易とした思いを抱き、彼を睨むように見るもその視線を往なすかのように笑みを向けられてしまう。
「アサド、そんな顔をするな。赤子の頃から知っている子がな、こうも立派になるとは嬉しい事じゃあないか。重畳、重畳。今晩は"積もる話"もあるんだろう? その時間まで休んだらどうだ」
「……えぇ、そうさせてもらいます」
「子供の考える事など分かりきっているがなぁ?」
 その一言にバシラアサドは静かに息を呑み、左の拳を握り締めた。恐らくアル=ハカンには全てを見透かされているのだろう、と。そうであったとしても、彼は言葉で直接聞きたいのだ。バシラアサドが己に伝えようとしている事、誰の力が必要なのか、そして何を成そうとしているかを。彼の穏やかな笑み、その人の良さそうな顔の裏には、確かにサチの武門の暗部を担う兵が存在していた。それに臆してなるものか、と獅子は言葉を続ける。
「……えぇ、遠慮なく」
「アースラ、しばしアサドの暇潰しに付き合っておいてくれ。俺はやる事があるのでなぁ」
「分かりました。……所でやる事とは?」
 アースラの問いかけにアル=ハカンは肩に担いだ箒を突き出して、にやりと笑みを浮かべた。言わずもがな単なる掃除であろう。察したようにアースラは苦笑いを浮かべて、小さく頷くとバシラアサドを手招きする。屋敷に上がれというのだろう。
「あぁ、アサド。そうだ、お前の護衛は何処行った?」
「ジャッバールに預けております。武辺者故、非礼を働かせる訳にはいかないと」
「そうかね、別段気にもすまい。立派な武人なのであろう? 一目見たいぞ、俺は」
「父上、彼は大変強く、手強い者でありました。恐らくはシャーヒンに引けを取らない者かと思います」
「……そうかね」
「父上?」
「気にするな、休め、休んでおけ」
 怪訝な表情を浮かべたアースラに向け、アル=ハカンはまるで犬猫でも追い払うように手を振った。彼女は解せないと言わんばかりに首を傾げるも、バシサアサドの手を袖を引き、屋敷の中へと消えていく。彼女達を見送り、アル=ハカンは小さく溜息を吐いて、軒下に腰を下ろした。
 バシラアサドの護衛、彼等の正体をアル=ハカンは知っていた。彼等は十年前に起きたヴィムート南部における、農奴達の反乱を鎮圧すべく、集められた傭兵であった。反乱を鎮圧した後は、ヴィムートの正規軍によって討ち滅ぼされるはずだった者達の生き残りであるのだ。彼等は云わば身代わりの山羊である。日向を恨み、日陰から嫉妬にも似た羨望の眼差しを向ける、悪心の群れである。故にアル=ハカンは彼等がシャボーの砂漠を越え、カシールヴェナへ辿り着いた時から警戒し続けていた。そんな者達に唆されたバシラアサドを止められなかった自分の咎を清算すべき時が来てしまったのだろうと、諦めたかのように小さく笑う。彼等が未だに健在であるならば、バシラアサドが成そうとしている計画は順調に進行しているのだろう。敗北はセノールの滅亡を意味し、勝利は混沌とした世の中を生み出す事となる。どちらの世となっても生き残り、血を繋げる。その布石を打つ時が来てしまった、とアル=ハカンは箒の柄を握り締めながら、吹き荒ぶ赤い砂を睨むのだった。





 一武門、名族の当主の居室とは思えない程に簡素な部屋。壁に立てかけられているのはハサンの者特有の背の無い鞘を持つ刀。先代のクィアットの代物もある。大勢の人間を斬り、殺めたであろう刀は整然として美しくもあり、得体の知れない存在感を発していた。いつぞや、仲違いする以前にジャリルファハドは語っていた。人を殺めた武器は朽ちないと。人の命を吸い永らえるのだと。
 ふと、腰に差した自分の刀が気になり、その柄に手を掛ける。何だろうというような表情で此方を見つめてくるアースラには、もしこのまま斬り付けられたなら、突かれたなら等という思考は持ち合わせていないようだ。それもそのはずだ、彼女は闇夜に紛れて一方的に命を奪う側の人間。攻撃される事など微塵も考えないだろう。尤も躱す事は容易く、反撃も容易なのだろうが。
「暫く使ってないからな」
 抜かれた刀を見て、アースラの表情は一瞬曇る。何か言いたい事があるのだろう。
「研ぎがなっていない、その刀はダメ。何も斬ってないから乾いてる。……そんなに銃がいい?」
「あぁ、そうだ。あれを使えば急拵えの兵でも騎士の一生、武人の一生を台無しに出来る。あれ程に有用な物はない
 まるで刀など要らない。そうとでも言うようなバシラアサドの物言いに再度、アースラは顔を顰めた。刀が要らない。それはつまりセノールの文化の否定。ともすれば文化すら不要とも言っているにも同義。文化が要らないとなれば、先人が培ってきた歴史、宗教をも否定している。武門の中でもハサンとガリプはそれらを重んじる傾向にあり、アースラは憤りにも近い思いを抱いた。
「アサド。……アサドもセノールだって事を忘れないで欲しい」
 静かに諭すように語り掛けるアースラであったが、声色のどこかには怒りのようなものが混じっている。そうか、今の発言をそう捉えられたかとバシラアサドはバツの悪い表情を浮かべながら、鞘に刀を納めた。真意は違う、セノールは今のままではならない。もっと先の新しい技術、文化、思想を取り入れなければならないのだ。尤もそれが出来ないから、一旦、セノールを滅ぼすまで闘争に駆り立てなければならない。過去を毀棄すればそれはアゥルトゥラのように、カンクェノの全容を見失うという馬鹿げた事を起こす発端ともなる。同じ轍は踏むべきではない。それが出来ていたからこそ、セノールは過去の全てを把握している。それは決して手放すべきではない文化だ。
「あぁ、それは忘れないさ。私はどこまで行ってもセノールだ。文明、文化、歴史、宗教、法、これらを先人が作ったのは私からしても誇りだ。だが……いや、止そう」
 決して忘れないで欲しい。己はどこまで行ってもセノールである。その言葉を聞いた途端、アースラの表情は一瞬緩むも、すぐさま小首を傾げていた。バシラアサドが言い掛けたのは、東伐の真意である。大勢のセノールを犠牲に民族の目を未来に向けさせる。敗れたならばそれまでの事。
「今何を?」
「忘れろ、いつか分かる」
「……はぁ?」
 諭され興味を失ったのか、アースラはバシラアサドの隣に座り込むと、大きく欠伸をしてみせ、そのまま倒れこむようにバシラアサドの膝へと飛び込んだ。唐突な出来事にバシラアサドは何のつもりかとアースラを見やるも彼女は、気の抜けた笑顔を向けるのみ。
「昔さ、よぉくこうしてもらったよね」
 声色はすっかり大人になってしまったが、突飛もない行動や、仕草の類は昔から全く変わっていない。アースラの額に手を這わせ、指先で黒い髪に触れた。不思議とバシラアサドの口元には微か笑みが浮かぶも刹那に消え失せ、表情が歪んでいく。
「……アサド?」
「もう戻れないのだろうな。私達は。……私は業悪を犯した、ハヤもだ。ナミルだってそうだ。故に相容れなくなった者も居る」
 嘗ての友に思いを馳せる。何方が間違っているのか。何処で間違ったのか。そんな事を思案するだけで頭がやや痛む。まるで思考を拒絶するかのように。
「大丈夫、いつか戻れるよ。うん」
 自身の額に伸ばされたバシラアサドの腕を掴み、アースラは瞳を閉じた。ルーイットに掴まれ、痣のようになってしまった場所が微か痛み、思わず顔を顰めたがアースラはそれを知る由もない。彼女の付け焼刃のような励まし。根拠のない慰みはバシラアサドに向けたのみならず、アースラが自分自身へ言い聞かせたのようにも思え、彼女をも苦悩させてしまったという事が申し訳なく、バシラアサドは溜息を吐いて苦し紛れに視線を窓の外へと移す。その先、アゥルトゥラと比べて幾分体躯には劣るが元気そうな子等が駆け回っていた。今、セノールはバシラアサド等の尽力で経済的に潤いつつある。更にはハヤの尽力により兵数では劣れど技術、練度これらがアゥルトゥラを遥かに凌駕している。日進月歩の如く、民族は快方へと向かい、安定して来ているのだ。それは武門とて同じ。幼い頃は貧しく、辛い環境であったが友のおかげで割と幸福に生きて来られた。過去に縋る訳ではないが、環境が良くなった今を昔のように心許せる者と生きていけたら、それは最上の幸福なのではないかと思え、再びバシラアサドは大きく溜息を吐いた。
「アースラ」
「なに?」
「少し疲れたろう。眠っておけ。私も少し昔を思い出したい」
 彼女に言い聞かせるように語ると、バシラアサドの腕を離して小さく頷いた。意図を察したのだろう。傍に居ろと語るまでもなく、離れずに居てくれるアースラへと言葉には出さずとも、感謝の意を唱えるのだった。

Re: それでも獅子は吼える ( No.18 )
日時: 2018/04/12 00:01
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 返り血を拭いながら、その男──シャーヒン・ハサン・サチは野盗の首を右手に握り歩む。首には背骨がそのままくっ付いていた。主を失った身体の背は開かれ、砂の上に投げ出されている。肉と肉の間には切断された肋骨の白が顔を覗かせ、滔々と湧き出た血が作り出す染みが砂漠にぽつり、ぽつりと、その存在を主張する。セノールの処刑の一つである「背開き」であった。背を背骨に沿って裂き、肋骨を切り離して、筋を切り取ったならば、腰のあたりから骨を絶ち身体から首を引き抜く。ハサンが得意とする「解体」を用いた最も残虐な処刑の一つであった。
「シャーヒン。大凡全ての野盗を排し終えた。近々此処にもガリプが来る。余り遣り過ぎるな。彼等とて戦果を上げねばならない」
 シャーヒンに語り掛ける彼は、その手に持たれた頭を見ながらその男は無感情に薄ら笑いを浮かべる。ガリプは戦果を望むような浅ましい者ではない。彼等はこの状況、惨状に苦言を呈するのだ。その要素の一つとなる惨状。シャーヒンの指は首の目に食い込み、首は血の涙を流している。
「ガリプの手を汚すまでもない。サチにハサン在り。我々はサチの暗部を担うのだ、故に大凡全ての外敵を殺める、ハサンはそう在らねばならぬ。ガリプが到着するまでに全員殺せ」
 眼窩から指を引き抜き、首を砂の上に投げ捨てるなりシャーヒンは溜息を吐いた。このシャボーの砂漠で悪事を働けば、全てを捕らえ片っ端から鏖殺するのが道理であり、常。人は追い詰められれば良心を投げ捨て、業悪の類を犯してでも生きようとするもの。しかし、この砂漠においては業悪を犯せば、その者の生きる権利を犯す者達が音もなく歩み寄るのだ。ともすれば、死を選ぶしかなく、強い者だけがこの砂漠においては生きながらえ正義となる。またそれがこの砂漠における正道である。
 眼窩を穿たれたこの者は隊商を襲い、水と食料、商人を三人ばかり拉致した後、身代金を要求した愚か者である。野盗の類に負ける弱い商人は生きる価値がなく、身代金の要求は棄却された。そして、この野盗は業悪を成したが故に生きる権利を失ってしまったのだ。そして今に至る。たかが十五人余りの野盗を殺めるためだけに十名のハサン、三十名のガリプが大挙を成した。それ程に砂漠で業悪を成すというのは許されぬ事なのだ。
 風の音に紛れて、断末魔や命乞いの叫びが彼方此方から聞こえている。それも次第に消え失せる事だろう。それを聞き付けてか、砂の上をやけに早足で進む男が一人、シャーヒン目掛けて歩み寄ってきている。彼の表情には怒りが見え、腰に差した刀に手を掛けていた。
「……シャーヒン!」
 低くありながら良く通る獣の吼え声のようなそれはシャーヒンの耳に飛び込んでくる。ガリプの偉大なる彪。権力を得ずとも良いと後継から身を引いた愚か者の男。それがついに眼前に迫り、怒気を露にしている。これが敵だったならば既に刀を抜いて、それを振るっている事だろう。互いに血を流す段階へと進んでいるはずだ。
「なんだ」
「この者達は法で裁くべき者だろう! 何故、此処で殺めた!」
「先人がそうしたように。我々セノールに仇成すならばこの砂漠では生きられない。鏖殺しなければ、この砂漠は平静を保てないだろう」
「抜かせ、一人で居るならばそれは仕方ない。だが、だがだ。隊を成し、数的有利を作っていながら、無闇に殺めるのか!」
「最終的には死ぬだろう。だから"侵略者"の血は甘いのだ。死に怯える時間を少しでも短くしてやるのが、我々砂漠の支配者の努めではないのか」
 ジャリルファハドは口を噤む。確かに野盗の類は例外なく極刑もしくは手足の腱を切り、砂漠へ投げ捨てる凌遅の刑が成される。即刻、首を刎ねられ死ぬか、苦しみ抜き砂漠で死ぬしか道はない。
「それとも何だ。ガリプよ。お前は人を殺めた事もないか。お前は幾度人の首を落とした。今更そのような温情を見せるな。見苦しい」
 彼は幾人も人を斬った。やれという命令一つで幾らでも人を斬った。もう四十も五十も斬ったのではないだろうか。侵略者の意を成す姓を持ちながら、彼がやっていたのは実質、処刑人。それが一軍を率いている現状、セノールも世の末である。
「……ガリプはもう退く。抗戦に遭い已む無く、と報告せよ。さもなくば、俺はお前を斬らねばならん」
「分かっているさ。俺を斬れるならばやってみよ、幼い頃のように半殺しにしてやる」
「もう思い通りにはならん」
 砂を蹴り上げ、シャーヒンに浴びせるなりジャリルファハドは踵を返して行ってしまう。既に断末魔の類は鳴り止み、首を掲げた者達がシャーヒンの元へと歩み寄ってきている。最早、法で裁くべき者は一人も居ない。その代わりに砂漠に残された胴体を目当てに巨大な猛禽が空を舞っていた。足元に置かれた首を手に取り、シャーヒンは輩へと視線を配る。皆が一様に血に塗れ、見苦しい様相を晒している。しかし、自分等はこれしか生き方を知らない。敵を屠り、地を血で汚し、血の河を骸と泳ぐ事しか知らないのだ。立ち去っていった彪とてそう。どれだけ清廉に生きようとしても、人という生き物は清廉に生きられぬ生き物なのだ。生来、清廉に生きる事を好まない生き物なのだ。水がなければ生きられぬ魚とて同じ、清廉すぎる水は好まない。故に大小の汚点と共に生き、死した時、それを漸く無に帰す事が出来るのだ。



 カシールヴェナの門を潜れば、既に日は地平に沈みつつあった。乾いた血が剥がれ落ちるように砂の上に落ちていく。それ程までに時は経った。皮袋に納められた首からは不快な腐臭が少しばかり立ち込める。もうじきこの首は焼かれ、砕かれた骨は砂に巻かれる。母なる地へと還るのだ。
「ジャッバールが帰って来ているな」
「……そうだな。俺には政は分からん、アレは賢しすぎる。顔を合わせたくもない」
 バシラアサド・ジャッバール・サチ。彼女は実妹と仲が良いが、何を話しているのかさっぱり意味が分からない。腹の中に悪心を飼いながら、己の業悪に悔恨の念を抱く半端者。冷徹な為政者として在ろうとしながら善政を敷き、暴力に基づき血を啜る大悪の権現。彼女が持つ二面、三面、四面それに翻弄されるのはシャーヒンからすれば堪ったものではない。ややもすれば彼女に飲まれる。獅子が大口を開けて、獲物を食らうが如く、己や己の家までも飲み込まれかねない。ならば政の分からぬ白痴を演じよう。政はどちらかといえばアースラの方が向いている。
「そう言うな。クィアットは武と智を持ち合わせた者と聞く。お前はクィアットの再来であるのだから、お前も彼のようにならねばなるまいよ」
「俺には荷が重い。ガリプとてそうだろうが、ヘサームが政をし、ファハドが兵を治め、軍を率いる。我々はそれが逆になるだけだ」
 自分勝手、身勝手な言葉であるというのは分かる。ガリプとは事情が違うのだ。ガリプは長兄であるヘサームが幼い頃から身を病み、兵として居られなかったが故、兄弟で政と戦を分け合った。しかし、ハサンは違う。両者共健在で、両者共どちらも出来る。そしてアースラは女の身であるが故に、いつまでもハサンに居る事はない。姓は失わずとも嫁ぐ。故にシャーヒンがハサンを継がなければならない。その重圧が苦で苦で仕方がない。人を殺める事には一瞬の良心の呵責が起きるだけで済むというのに、己が長らく家門を率い、生きるという事実に不快感を抱くのだ。
「ならんなぁ、シャーヒン。お前は一人ではなく我々のような手勢も居るという事を忘れてくれるな。有能な為政者は回りの者をよく使う者なのだよ。やはり青いなぁ」
「からかってくれるな。俸禄を絶つぞ」
「それは適わん。妻子に面目たたなんだ」
 そう輩は大声を挙げて品なく笑う。我々はいつまでもこうやって生きていられればそれで良い。それが良い。そう思え、現実を見遣る目を閉じたく思う。どれ程、拒絶しようとしても、何れは次の世代へと権力は移り変わる。それと共に重大なる責任もだ。逃れられない。逃れようと踵を返せば、生きる価値のない者と成り果てる。無駄に食らう飯はなく、無駄に飯を食らおう者なら口を縫われかねない。仕方なし、と瞳を伏せシャーヒンは笑い声の中、小さく鼻で笑うなり歩みを進めるのだった。




 落とした首を墓所に収め、彼の罪人を弔った後、シャーヒンはカシールヴェナの夜を歩む。人の姿は疎らで、煌々とした篝火の一つすら見当たらない。夜は美しく、何も存在しえないが故に星は厭に明るく、巨大な月は星々を取り巻きに、空に辿り着く事の出来ない人間を嘲笑っている。それでも彼女は太陽よりも穏やかで優しいだろう。太陽は己に近づく者を全て焼き尽してしまうからだ。であるならば、太陽の化身たるハヤブサの名を冠した己は、セノールに害を齎す者、悪意を持って近付く者を全てを討ち滅ぼさなければならない。そうある事がサチの武門の勤めなのだろう。例え蔑西の教え通りのセノールに成り果てたとしてもだ。
 漸くして街の中に入れば、人の営みが見えてくる。喧噪、灯り、それらはそこに人が息衝いていると実感させてくれる物であった。しかし、どうだろうか。そこに生きる人々はシャーヒンの姿を見るなり、息を呑み、戦々恐々とした様子でまじまじと見つめるのみ。ガリプのジャリルファハドのように親し気に声を掛けらたり、労わられたりとする訳ではない。シャーヒン自身、それを望む訳ではないが同じ血を引く輩から避けられるという現状に心痛を覚える事もあった。シャーヒンをセノール最強の兵と呼ぶ声はあり、先々代であるクィアット・ハサン・サチの再来と呼ぶ声もあった。しかし、それは同時にクィアットに付きまとった獣としての呼び名まで引き継いでしまったのだ。クィアットは嘗てまだ魔法や、魔物の類が存在した頃に実在した異形の獣「ヴェーラム」の生まれ変わりだとされた。その獣は獲物を弄び、食らう以外にも意味もなく殺め、快楽のためにも殺戮を成した化物である。彼はセノールを守るため、手段を選ばなかった。怪しければ斬り、悪ならば屠る。それは同族であろうが、外敵であろうが全く関係がなかった。故に彼は自身の愉悦のためだけに血を求めたのではなかろうか、と在らぬ誤解を生んでしまった。奇しくもシャーヒンもその途を辿りつつある。だが、しかし、クィアットはセノールの英雄であるとシャーヒンは考えるのだ。多くの武門が力尽き、彼等の指導者は刑罰を得て、ある者は死し、ある者は利き手を斬られ、ある者は幽閉された。しかし、アゥルトゥラと最後の最後まで争い、小規模ながら勝利を収め、遂に追討を振り切った。故にクィアットは戦後も当主として振る舞い続け、セノールの復興に尽力したのだ。彼が居なければ、今の若い者達がセノールのためにと狂奔、奔走する今はなかっただろう。己はクィアットの再来、ともすれば何れは「ヴェーラム」の生まれ変わりとも言われるだろう、果て無き悪名の先に影からセノールを導けて行けたならばそれで良い、と思えるのだ。
 


 人垣を割りながら、暫く歩み続ければハサンの門が見えてくる。門の脇にはジャッバールの物と思われる馬車が止められており、アゥルトゥラが古代より使っている巨大な馬が、耳を後ろに絞り、僅か歯を剥き出しながらシャーヒンを見据えていた。警戒されているのだ。「俺は馬にまで厭悪されるか」と諦観したような不格好な笑みを浮かべ、その馬と歩み寄っていく。次第に馬の耳が左右それぞれに動き出し、低く嘶き不安を露わにしていた。馬はよく人を見ている、しかし本質は察すことは出来ない。所詮は畜生の類である。鼻っ面を二度、三度と撫でつけると、すっかり馬は臆した様子で頭を垂れてしまった。何故かと己の手を見つめれば、渇いた血が指紋、掌紋、爪の間などにこびり付いているのだ。血の匂いを感じ取ったに違いない。よくも気付いた、よくできた畜生だと僅か感心し、シャーヒンは穏やかに笑みを湛える。それは武人らしからぬ物であった。
「漸く帰ったか。首尾はどうだ」
「……全てを討ち果たした。生存者は居ない。首は弔った。身体はすべて猛禽が喰らう」
「重畳」
 物陰に腰を下ろすアル=ハカンは穏やかに笑みを湛えながら、箒を抱えている。薄闇の中の彼はハサンの兵、死を齎す尖兵その物であり、日向に在る時の老いは全く感じられなかった。
「獅子が来ている。消すなら今ぞ」
 湛えた笑みと相反し、己の父が吐く言葉は恐ろしげに感じられる物だった。それでありながら、何処か悲壮が滲む。
「……ダメだ、父よ。アサドを殺してはダメだ」
 その言葉にアル=ハカンの表情が一瞬強張った。薄闇の中から、まるで飢えた獣に睨みつけられたかのような錯覚を抱く。これは己が敵に向けている物と同じ、気に留める事はない。シャーヒンの思い通り、次第にその表情の強張りは解け、彼は何時も通りの穏やかな表情へと戻っていく。
「暗愚ではなかったか。良かった」
「……あまり俺を試すな」
「笑え、笑って許せ。シャーヒン。家を別つ時が来てしまった、残念だがな」
 静かに、寂しげに笑ってみせるアル=ハカン。彼の口から出た「家を別つ時」その意味が理解出来ず、思わずシャーヒンは顔を顰める。何をするつもりであろうか。彼が現当主であり、ハサンを滅ぼすような事をしない限り、彼に刃を突き立てる気は微塵もない。何か思いあっての事だろう。真意を問うような無粋な真似はしまい。
 屋敷の中へ姿を消していくアル=ハカンの背は、どこか小さく見えた。鋭く研ぎ澄まされたような存在感はどこへと消え失せたのだろうか。彼の背を黙して追い、シャーヒンは改めて父の老いを実感するのであった。

Re: それでも獅子は吼える ( No.20 )
日時: 2018/04/12 00:20
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 己の膝を枕代わりに寝息を立てるアースラを度々見下ろしながら、バシラアサドはぼんやりと窓から夜空を眺めていた。星々は青白く光り、真っ黒なはずの空が微か白みを帯びている。月を中心に、夜の天空の世界は回っているのだろう。 溜息を吐き、語る言葉なくして漏れた感嘆の意。カシールヴェナの夜空は、クルツェスカのそれよりも遥かに美しい。空が厭に透き通っているからだろうか。
 現在、バシラアサドが住まうクルツェスカはアゥルトゥラの軍事的、商業的な要衝である。しかし、あくまで一介の地方都市にしか過ぎず、アゥルトゥラの首都であるエツェレスと比べれば遥かに田舎であるためか、星空も美しくあるのだが、カシールヴェナとはどうやっても比べ物にならない。砂漠を出るまではこれが普通だと思っていた。嘗ての縁以外にも良い物を擲ってしまったと、思わず苦笑いを浮かべた。
 アースラは己が人理が成り立たなくなる程に、争いを齎し、血を流しに流したとしても、今のように慕ってくれるだろうか。血こそ繋がっていないが、実妹のように扱い、あたってきた彼女は結果に何を思う事だろう。獅子を殺せば良かったと思うだろうか、獅子の首を削ぎ落とせば良かったと悔恨するのだろうか。悔い、詫びるような思いが、孕み続けた悪心をちくりちくりと刺し続ける。今ならまだ間に合う。今ならまだ引き返せる、だが今までやってきた準備はどうすると、温情と理知が悪心を刺し、業が悪心を狂奔させる。ややもすれば今のような葛藤を、自分は自壊していくまで抱き続ける事となるだろう。ならば、早いうちにどう進むかを定めなければならない。定まらなければ自壊の途を辿る。
 思考の渦に巻き込まれ、良心の呵責に責め立てられる。宛ら、針の蓆に座らせられ、石を抱かされたかの如く。彼女のくぐもったような青い瞳が微かに揺れ動き、今の心の内が露呈される。幸いにもアースラは未だ眠ったまま、今はまだ穏やかに生きていられる。今はまだ事が成されるような事はない。平静に、平穏に生きられる内はそうやって生きてもらいたくあるのだった。
「すまない」
 小さく消え入るように詫び、アースラの黒く柔らかな髪を触れる。部屋の外からは足音が二つ、それは次第に近く、大きくなり微か血の匂いが鼻腔に飛び込んでくる。いつぞやロトス・ハイドナーにぶつけた「血に飢えている」という言葉が脳裏を過ぎり、遂に人成らざる感覚を持ちえたかと苦笑するのだった。化物、化生への入り口は未だ超えていないと思っていたが、その入り口を既に越えてしまっていたようだ。
 部屋の前で止まった足音、足音を放ちながらも気配は感じ取れず、無から漂う血の匂いは不可思議な物であった。ハサンの領域に飛び込んだならば、こうもなるか。彼等は業罪を討ち払い、血で以って罪を洗い流す武門。しかし、己の業罪は誰にも明かさず、潔白を演じる故にこうもなろうと、バシラアサドは小さく鼻で笑いながら彼女を起こすべく、アースラの鼻を摘むのだった。




 鼻を摘ままれ、苦しいと唸るアースラが目を醒ましたのは、アル=ハカンやシャーヒンが部屋へと入ってくるのと同じタイミングであった。シャーヒンはアースラと瞳を合わせるなり、品性を疑うと戒めるような視線を投げ掛けられ、彼女は恥じらうように俯き、微かに顔を赤らめている。
「久しく」
 低く唸るようなシャーヒンの声に、バシラアサドはそこにジャリルファハドの姿があるかのような錯覚を覚え、無意識に唇を噛み締め、表情を歪めた。この男が、嘗ての親友を歪めた。個を殺し、慣習、血に隷属するように狂わせてしまった。民族の歯車にしてしまったのだ。バシラアサドには知る由もないだろう、シャーヒン自身も同じ道を歩む友を欲した事を。
「そんな顔をして……。まだ、俺が憎いか」
「……もう忘れたさ」
 眼前のシャーヒンは、ジャリルファハドを執拗に追い立て、幾度となく傷を負わせた。それを幼い頃、憎く思っていた。何故ここまで追い立てるか、何故そこまで彼を叩き潰そうとするか、理解に及ばず彼に向けた憎悪がいつの間にか古い文化や慣習に固執するセノールに向いていた。この男の存在もまた、バシラアサドを歪める原因となってしまった。
「そういがみ合うな」
 呆れ果てたように、アル=ハカンは笑みを湛える。そこには明らかな嘲るような思いがあった。それを感じ取ってか、アースラは実父をじっと睨み付けていた。バシラアサドは抑えろと彼女の太股に手を置く。
「バシラアサド、単刀直入に問おう。何を望む」 
 全てを見透かすようなアル=ハカンの視線、それはロトス・ハイドナーのような厭にぎらぎらとし、汚れきった欲の類は込められていない。だというのに、この不快感は一体なんだというのか。アースラの太股に置かれた手に僅か力がこもり、彼女は不安げにバシラアサドを横目で見遣り、その手に自分の手を重ねた。
「東を攻めるに際し、戦力として我が陣営に加わってもらいたい」
「アゥルトゥラを攻めて何をなすと?」
「砂漠より出で、民を安定した生活へと導くため。アゥルトゥラを掃滅し、彼等の土地を奪い取る」
 臆面なく、淡々と語るバシラアサドの様子にシャーヒンは感心したよう、小さく頷き、彼女の言葉に同意を示す。多くのセノールはアゥルトゥラに対する敵対心を持ち、半世紀も昔の出来事に対して、報復を望む。もし事が成され、アゥルトゥラを討つ事が出来ればセノールは漸く未来を向くだろう。過去に捕らわれた血腥い獣ではなくなる。アゥルトゥラが強い理由、それは肥沃な大地を基盤とした一次産業が盛んであるからだ。彼は飢えも、渇きも知らず、戦が起きれば更にその力は強まる。圧倒的な物量、それがアゥルトゥラ最大の武器である。故にセノールはそれを欲する。
「勝ち目はあるのか」
「……その為に私は業罪を成し、砂漠を出ていった。アゥルトゥラの物よりも優れた火器を始めとした兵器、ナッサルの兵や、ワッケンに伏せた私の優れた兵が居る。道もあれば、その道沿いにアゥルトゥラの兵も民も汚した。まぁ、兵站に不安はあるが攻め、討ち滅ぼしたアゥルトゥラから略奪する」
 軽量かつ堅牢な小銃、北の技術を基に作り上げた多銃身機関銃。研究、開発中ではあるが面制圧のための新型機関銃、砲を積んだ車両、艦船。兵器の質においてはアゥルトゥラを遥に凌駕し、兵の質は比べる事すら、おこがましい程に差がある。万が一を想定し、阿片を用いてじわりじわりと弱体化するようにも仕向けてある。後は数が必要となるのみ。
「ヴィムートはどうなる」
「ヴィムートは我々の味方だ。我々の持つ武器は彼等から技術供与を得て、作り上げた代物、十五年間に渡る鉱山採掘の優先権をちらつかせたならば、簡単に我々に対する不可侵ならびアゥルトゥラへの非協力を結ぶに至ったさ」
 外堀は既に埋め終えている。半世紀前も外掘りを埋めていたならば、アゥルトゥラに負ける事は無かっただろうと予測される。一方的に殺戮し、勝利を納めていた事だろう。
「……俺は武門、商人であるお前よりも、政を司るお前が怖い」
「奇遇だ。私はハサンが恐ろしくある。故に貴殿方を此方に引き込みたい。……断る選択はない。私の兵とナッサルを邸の外に伏せてある。此処で私を討ち果たしたとしともハサンも共倒れ。家が潰えるのは避けたいだろう?」
 嘘か、真か。既に臥せてあると語る兵が存在する可能性が払拭できない以上、今此処でバシラアサドを害し、殺めるわけにはいかない。彼女の血が流れるなり、己の血を彼女の血に混ぜ合わせる事となりかねない。
「……バシラアサドよ、その言葉偽りはないな」
「アゥルトゥラを討ち滅ぼすも、兵を伏せてあるのも真実。……ルーイット」
 龍蛇の武人の名を呼び、青い瞳が窓を見据えた刹那、鱗に覆われた手が窓枠を掴み、ゆっくりとその顔を覗かせた。暗闇の中、黄金色の瞳だけが厭にぎらぎらと輝き、シャーヒンは生まれて始めて抱く、感覚に胸の高鳴りを感じた。あれは悪魔の化身、その身は鋼よりも硬く、心はヴィムートの凍土よりも冷たく、不変。関わっていい者ではない。ややもすればあれは獅子に悪心を孕ませた悪魔なのではないのだろうか、と疑問を抱く。
「いつの間に兵を伏せた」
「……最初から私とアースラを追っていたさ。アル=ハカン、貴方も老いた。……して、返答は如何に」
 答えは元より定められた事、しかしアースラとシャーヒンは何を思うだろうか。彼等は行け入れてくれるだろうか。家を分かつという選択は残酷な代物であろうが、今それをなさなければハサンの武門は、真綿を締めるように殺されてしまうだろう。
「バシラアサドよ、よく聞け。一度しか言わん。俺とシャーヒンはお前に付こう、だがだ。アースラはガリプに付ける。万が一、我々が死んだとしてもハサンの血は絶やすわけにはいかんのだ」
「ガリプは敵だ。ややもすれば貴方は娘を手に掛ける事になる。それでもそうするか」
「時が来たら彪が俺を噛み殺すさ。もうアレには敵わん」
 静かに語るアル=ハカンの視線は、アースラを向いていた。事が起きたらジャリルファハドに守ってもらえ、事が起きたらジャリルファハドを頼れと目で訴えている。彼は喜捨の慣習に基づき、善良に動くだろう。
「アースラはそれで構わないのか」
「……父上がそう言うなら。ですが、父上。ファハドは優しいですから、父上を殺めるような事はしません」
 アースラは表情を見せようとしない。自己を殺そうと勤め続ける彼女であったが、殺しきれないのが彼女だ。アル=ハカンの隣で顔色一つ変えないシャーヒンとは対称的だった。故にバシラアサドはアースラを見ようともしない、残酷な選択に胸が微か痛むからだ。
「アレは──彪はそういう男だったな……。シャーヒン、お前に異論は」
「ない。……命のまま」
 淡々と語り返すシャーヒンはまるで機械のよう。明後日な方向を見つめたまま、関心など全くないという様子であった。シャーヒンが気にしていたのは、暗闇の向こう側から此方を覗くルーイットであった。彼にはあれが此方を見て、嘲笑っているように感じられ、不快感と不安感を覚えるのだった。

Re: それでも獅子は吼える ( No.21 )
日時: 2018/04/12 00:32
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)

 あの龍蛇の武人は、血を啜り、暴力を好む獣のような輩であろう。シャーヒンの視線がそれに釘付けとなるのは必然。腰に差した短刀に手が掛かるのも仕方がない話であり、柄を握り締めるシャーヒンを戒めるように、アル=ハカンは彼の脛を軽く蹴る。止せ、と。今此所で血を流そうとするな、と。
「東を攻めるにあたり、戦力規模ならび侵攻経路を教えろ」
 アゥルトゥラを攻めるならば効率の良い用兵を求められる。迅速な攻撃、制圧を前段とし、西方交易路と繋がる都市を拠点としなければ勝ち目はない。それもほぼ同時に成す必要がある。
「これを」
 バシラアサドが手に持つのは三枚ばかりの紙切れ。そこにはおおよそではあるが、戦力規模が記されていた。ジャッバールを主力に総兵力6万人余り、ライフル7万挺、ガトリング砲8000基、野砲1100門、戦車250輌。更には装甲艦6隻、砲艦8隻、輸送艦6隻、装甲巡洋艦2隻とアレナルとアゥルトゥラの間にあるドレント湾を封鎖、沿岸都市へと砲撃、上陸の準備までされていた。一国の兵力には及ばないが、初撃で大打撃を与え、アゥルトゥラを混乱させるのは容易いだろう。何より海を抑えられるのは良い。アゥルトゥラの反撃は西方交易路を抑えられている故に困難、海路を選ぶ必要がある。しかし、海すら抑えれるとあれば、シャボーの砂漠へ抜けるのが困難だろう。
「どこから艦を……?」
「多くはフソウから。ヴィムート製も少し」
 交易で一体どれだけ富を得たというのか。小国の兵力にも匹敵するそれにアル=ハカンは舌を巻く。
 次のページには侵攻予定地が記されていた。ルートは全て西方交易路に沿っている。行き先はシャボー砂漠から見て、北東の軍事的要衝「カジェンス」、現在バシラアサドが住まう商業的要衝「クルツェスカ」、その僅か南「コールヴェン」、そしてドレント湾沿岸域に存在する軍港を持つ都市「ラファンス」、首都「エツェレス」である。五都市同時多発的に攻撃されたとなれば、対応は後手に回るだろう。
「各地の貴族には毒を盛った。事が起きた後、即応を許さないようにな。剣を抜く前、民を治めねば動けまい」
 尤も攻められた後、その者達に未来はない。故に民を斬ったとて構わない。攻められ、兵が殺到した段階で、民もろとも駆逐されるのを待つしかないのだ。
「アル=ハカンよ、私はもうじき邸へ戻ろうと思うのだが」
「飯でも食っていかんか」
 先程までの固く、冷たい表情はなくアル=ハカンは穏やかに問う。幼い頃によく見た彼の表情。幼く、汚れも知らなかった頃ならば頷くだろうが、今は違う。
「毒を盛られては敵わない故」
 軽口を叩いて、バシラアサドは張り付いたような薄っぺらい笑みを浮かべ、静かに立ち上がった。窓の向こう側に何やら手で合図を出せば、外から男の声が聞こえていた。伏せていた兵達だろう。
 アースラを一瞥すれば、彼女は名残惜しそうな表情でバシラアサドを見つめていた。後ろ髪を引かれる思いであった。彼女とはまた暫く会うことはないだろう、次会うときは敵になっているに違いない。それが分かっていたからだろう。語る言葉、掛ける声はなく離れていくバシラアサドの背を黙ってアースラは見送るだけだった。
 
 
 カシールヴェナの邸には、元奴隷達を住まわせていた。彼等は此処で西方交易路の通行手形の発行や、交易路の管理、修繕に従事している。
 彼等はセノールとは明らかに肌の色が異なる。多くはヴィムート南部の元農奴達であった。今のヴィムートは政情不安定故に警察機関が機能せず、人身売買が横行している。レーヴァとてその類。
 元奴隷達が何やら声を掛けてくるが、バシラアサドは静かに笑うばかり、時折ヴィムートの言葉で短く返事している。彼等の言葉を聞いていない訳ではないと見て取れる。彼等から注文、依頼があれば、それに応じなければならない。人の上に立つならば、そうあらねばならない。
「随分慕われてるじゃないか」
「……私を恐れ、忌避するのは私の敵だけだ。私の下にいる内は傷すら負わず生きられる」
 傍らのルーイットは、その言葉に腹を抱えて笑っている。嘘を吐くな、と。ある者は廓に潜り、ある者は外敵と睨み合っている。その過程で血は流れているのだ。最近であれば、クルツェスカのナヴァロという貴族の一族との抗争である。ジャッバールは8人、ナヴァロは22人の死者を出した。しかし、法は金で歪めているが故に、あまり大事にはなっていない。
「俺等の血を忘れんなよ」
「お前達は血を流すのが仕事だろう」
 傭兵は血の産業。バシラアサドの言うことは尤もであり、ルーイットには返す言葉が見当たらなかった。彼の巨躯が遥かに小柄なバシラアサドの言葉により萎縮する。妙な光景であるが、これは常である。

 

 居室に戻りバシラアサドは漸く一息吐けると、一人掛けのソファに腰を降ろした。ルーイットにつけられた腕の痣もだいぶ良くなってきたようで、指で触れても大して痛む事はなくなった。自分で噛み、作った右手の傷は未だ癒えず、微かに膿み、熱を持っている。傷を乾かそうと、きつく巻かれた包帯を外せば、乾いた膿がペリペリと剥がれ、音をたてる。皮膚が引っ張られて微かに痛めば、傷から血が滲み出る。
 やってしまったと、ばつの悪そうな表情を浮かべながらルトから持たされた小さな鞄から救急道具一式を取り出した。消毒液を多めに掛け、乾いた膿を拭き取る。血混じりのそれを漸く拭き終えるなり、バシラアサドは天井を仰ぐ。最早、ジャッバールの直系は自分だけ、父も兄とその妻子も謀り全て殺めた。今、ジャッバールにおいて血を流せるのは自分だけである。ともすれば、自分を殺めたり、捕らえれば全ては頓挫する。カシールヴェナにはガリプ、クルツェスカにはハイドナー、ナヴァロなどの兵力を持った貴族。障害は多い。尤もハイドナーは恐れるに値せず、ガリプはカシールヴェナから出ない。今はナヴァロとの抗争となる。彼等を排するのは難しい。彼等はアレナル製の銃器で装備を固め、ハイドナーとは異なり完全に組織化、統制された「軍隊」を持っている。そして、それを率いるのは、奇しくも若獅子などと称される「レーナルト・ナヴァロ」彼はジャッバールからすれば脅威であった。武辺ではなく、政にも長けゆっくりとジャッバール包囲網を作り上げている。クルツェスカが幾度となく戦火に晒されていながらも滅びなかったのはナヴァロ一族の暗躍があったからである。今もなお邪魔するのだから、彼等は侮りがたく、東を攻める前に葬らなければならないだろう。
「……私も銃を握る、か」
 一人ごちるよう、バシラアサドは傷をなぞりながら瞳を伏せる。多くの人を間接的に殺めてきた。しかし、クルツェスカに入ってからは直接的に人を殺めてはいない。レーヴァの前で平静を装えるだろうか、レーヴァに悟られないだろうか。
 バシラアサドは諦めたような眼差しで、カシールヴェナの夜空を見つめるのだった。


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