複雑・ファジー小説

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それでも獅子は吼える
日時: 2017/07/08 14:38
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: 4xvA3DEa)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

当小説はリレー企画「無限の廓にて、大欲に溺す」のスピンオフになります。
設定、世界観はあちらに準拠していますので、あちらから確認下さい。

Re: それでも獅子は吼える ( No.11 )
日時: 2018/03/27 01:00
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 昼間に裂いた右手、その傷を手勢の者に手当させながらバシラアサドは書面に筆を走らせる。嘗ての友、彪ではなく虎に宛てた書面。ガリプではなく、ナッサルという家門の者へだ。それはある品物を用意せよという内容で記されており、水煙管を煙草と共に通常の交易路で発送し、医薬品として芥子を香辛料と共にハイドナーの交易路に出せという指示書であった。
 己の血すら乾かぬ内に赤く燃え滾る鉄を打つ、野心に塗れた獅子は全てと心中を図る気であった。悪と罵られるならば、大凡身の回りの全てをその悪に染め上げ、共に地獄の河を渡り、三つ首の黒犬の股を潜ろう。
「……手当てが終わってからで良い。この書状をナッサルのバッヒアナミルまで送るよう」
「はいはい。しっかし、アサド。自分の手を噛み切る輩は初めて見たぞ」
「セノールたる物、これくらいの気骨を見せねばならないだろう?」
 バシラアサドの右手、親指の付け根には歯型がくっくりと残っており、裂けた皮膚から赤みを帯びた肉と筋が顔を覗かせている。痛みは先程から吸っている煙草のおかげで和らぎ、大して気にする程ではない。
「あんまりセノールをヤバい奴等だって宣伝しちゃいけないぜ。──よし、こんなもんだろ」
 バンテージの下にはガーゼ。ややきつめに覆われ、思うように手が動かない。傷を開かせないためなのだろうが、もう少しどうにかならないものか、とバシラアサドは己の手を見据え、手当てした者を眺めた。その男はバシラアサドと視線を合わせるなり、薄ら笑いを浮かべている。
「ルト。もう少しどうにかならんのか……」
「アンタ左利きだろ、別に困らんでしょ」
 ルトと呼ばれたバシラアサドよりも、やや年上に見えるセノールの男は、そうするのが一番だと言わんばかりに本質から逸れた返答をする。
 彼はジャッバールが連れて来た薬師であった。名はルト、姓はムミート、氏族はハザレ。平時では薬事を生業とし、有事においては医者の片手間まで担う。手荒いながらも的確で手早い措置が取れるため、武門からの信頼は厚い。また、尋問や拷問の類を担う家門でもあり、諜報や人攫いを得意とするサチのハサンと親しい関係にあった。その証拠にルトの姓であるムミートは、セノールの古語で「死を齎す者」などという物々しい意味合いを持っている。
「して、ルトよ」
「あぁ?」
「近々、件の代物がナッサルから届く。来月から忙しくなる。ハヤ共々、お前達には苦労を掛ける。頼むぞ」
「ま、気にしなさんな。俺もアイツも別に不満に思っちゃいないさ。アンタがやらなきゃいけない事はセノールのためになる事だ。アンタも身を粉にして、こんな大見得張ってんだし、俺等下々の者は支えに必死にならなきゃなぁ」
「……ありがたい。頼むぞ」
 ルトとハヤは夫婦関係にあった。セノールは家門に属し、氏族名を持つ者達は婚姻を結んだとしても姓や氏族名が変わらない。
 バシラアサドにはハヤとルトがどうも羨ましく思えて仕方がなかった。陳腐な言葉ではあるが、彼等の気だるげな関係の中には確かに愛という物が存在しているであろう。それは狂った獅子の目から見ても感じ取れた。この二人には己の悪行の片棒を担がせてしまっているが、終に訪れるであろう罰からは逃れさせてやりたいというのがバシラアサドの思いでもある。何れ彼等も子を為す。親もなく子だけで生きるのは辛い物があるに違いない。
「良いって事さ。アンタも大変だからな、ガリプの次兄。アレから協力得られんで、まともな兵も持てず終い。そのせいでセノール側での体制が磐石じゃない。故に此処では虚勢を張るしか出来んってな」
「……奴の話はしてくれるな。あそこまで頭が凝り固まった輩とは思わなかったのだ」
「サチも末が見えてるぜ。あんな若造が二万の兵の長ってのがなぁ」
 ガリプの次兄、サチの先鋒たる軍勢を率いるジャリルファハドは若いながらも、武芸百般に秀で、その戦略眼については西伐にてアゥルトゥラと激戦を繰り広げた、ディエフィスにも引けを取らない。ガリプの中では長兄でなかった事を惜しむ声すらある。しかし、彼はバシラアサドが起こした事件を糾弾し、関係を断ち切った。故にガリプからの協力は得られず、バシラアサドは手勢を多くは持てないのが現状。彼女の兵力はお世辞にも多いとは言えない。数が揃わなければ東伐を起こしたとしても勝てない可能性が生じる。故にアゥルトゥラ弱体化の布石を敷き終えた所で、これからは内部の兵力獲得に奔走する必要性があった。
「セノールの政争に加わるかい?」
「ならんな。それを為すならば、あちらで政変を起こし、先人を一掃しなければらならない。だが、事を起こせばガリプの兵に制圧されて終いだ」
 一番大事な所で躓くのではないかという不安がバシラアサドの何処かにあった。人は石垣、人は城、人は堀という。人の心は付いて来ない可能性はあったが、人の数だけは欲しい。ともすれば、別のあてを探る必要がある。
「人が足らぬのなら人ではないものを率いるまでよ」
 宛ら悪鬼の如く、中空を見据え一人ごちるバシラアサドに空恐ろしい物を感じながら、ルトは煙草に火をつける。人の兵が得られないならば、人ではないものを率いる。恐らくは七十六階にて見つかった文書に関わる代物。憶測するならばレゥノーラであろう。人が人を率いる事を止め、化け物の徒を率い、血を求めるための闘争に身を投げ込むのであれば、その長は最早人ではない。
「俺はアンタが恐ろしい限りさな」
 そう言葉を向ければバシラアサドは穏やかに笑って見せた。それが人の物ではないように見られ、ルトは思わず煙草の片側を噛み潰し、不快感ばかりの苦味に顔を顰めた。そんな顔をすれば人は尚更付いて来なくなるぞ、と口から飛び出しかけたが、それを飲み込む。
「汝の主を恐れるなかれ、屍衣を纏い、地を枕とする時も信ずるべし」
「俺、その説法嫌いなんだよなぁ」
「私は好きだ。戦に生きる者の心意気としては素晴らしいものではないか」
「……だからこそ、ガリプが欲しいってか?」
「抜かせ」
 本心を暴かれ、驚いたかのようにバシラアサドは瞳を見開き、ルトを見据えた。彼はバシラアサドと相反し、さぞ愉快そうに口の端を吊り上げて笑っている。
 ガリプはセノール内部での最大の敵と成りうる可能性があるからこそ、自らの陣営に加えたい。そして、彼等をジャッバールの手勢六千とルーイット率いる千五百のレヴェリ傭兵達と共に主力として据えたいというのが本音であった。そこまでしなければセノールは争いの道を選ばない可能性があるのだ。
「まぁ、いいや。兎に角……、悪知恵の働く獅子さんよ。風呂入ったらその手の傷はきちんと乾かして傷口を空気になるべく触れさせない事。さもなくば痕が残るぞ」
「……ハヤの手を見てみろ、奴の手はまるで武門の男のような手をしているではないか。私とて箔を付けねばなるまい」
「アイツは職人。アンタは商人。本領は頭を回す事だ。アイツとは根本の立場が違う。勘違いすんな、馬鹿野郎」
「私も武門の人間だと忘れてないか」
「はぁ? 武門って名乗るならファハドやらナミルみたいに一撃で人を殺せるようになってから言うんだな。刀の使い方の前に鋏の使い方から教えてやろうか? 刃物の第一歩だぜ。多少はマシになるってもんだろ」
 ルトに口汚く罵られ、バシラアサドの表情は翳る。昔からルトは誰彼関わらずに煽るような言葉を吐くきらいがある。故にバシラアサドへも昔からの好でそういった言葉をぶつける事がある。尤も彼の煽りは的を得ていて、言い返す言葉もないのが事実。
「ルトよ。暫く頭を低くして生きることだな」
「その傷で狙いなんて定まらねぇだろうよ。傷が治る直前にガリプに亡命してやらぁ」
 互いに軽口を叩き合い、穏やかに笑みを湛えている。この場にハヤも居たら良かったのだがと、バシラアサドは思案しながら過去に思いを馳せる。飢え、渇き、先人達に兵となれと嬲られたが友や、ハヤやルトといった他所の氏族の者達も慎ましく暮らしていた。野心もなく、これ程に有象無象に悩まされる事もなかった。何処で道を違えたか、と言葉もなく己に問うも答えはなく、問いは空虚なものと成り果てるのだった。

Re: それでも獅子は吼える ( No.12 )
日時: 2018/03/27 09:00
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: fExWvc7P)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 西方交易路の主要路となり、セノールの首都であるカシールヴェナとカルウェノの要衝となるクルツェスカを結ぶヴィエ・ワーディーは嘗ての西伐に於ける激戦地であった。八千名からなるセノールの武門と、一万四千名にも及ぶアルゥトゥラ兵が衝突した土地であった。尤も衝突と云っても実態は、雨に打たれながら四日間待ち伏せと、水攻めの用意をしていたセノールによる一方的な虐殺というのが実態であった。故にアゥルトゥラの七十代以上の兵役を経験した老人は、この地を忌避したがる。
「今日も雨か」
 荷馬車の幌の中でバシラアサドは低く唸り、小銃を強く抱き締めた。今日もまたセノールの民族衣装を身に纏っているが、いつもより色合いは地味で、意匠はなく、やや厚手な代物だった。カルウェノやアゥルトゥラと異なり、戦地にて鎧で身を固めるという文化のないセノールが身に纏う戦闘服である。
「アサド、知ってるか。此処は雨が降ればアゥルトゥラ兵が化けて出るんだぜ」
 幌を少しだけ捲り、外を見据えながらバシラアサドを揶揄うのはルーイットである。彼等もセノール同様に鎧という代物を忌憚する文化があった。レヴェリというのは多種多様に渡り、同じレヴェリと云っても様相や文化が全く異なるのだ。ルーイットのようなスケイラーと呼ばれる龍蛇の体を為す者達は、元来高山に住まい、武芸に基づく自己鍛錬を美徳とする。故に彼等には体の動きを制限する鎧を厭がるのだ。そもそも下手な刀剣は通さないその強固な鱗が鎧である。
「化けて出るならもう一度殺すまでだ」
 ルーイットに倣い、バシラアサドも幌を捲り外へ視線を遣れば、外は白けてしまう程に激しい雨に見舞われていた。少し窪んだ所は冠水しており、近々交易路として整備された街道まで水没する事だろう。
「そいつは良い。幽霊をぶっ殺すってのは一度やってみたかったんだ」
「二度も殺されれば、その苦悶や怨嗟も倍。我々の雪辱の程も知れるというものだ」
 その言葉に同乗しているルーイット以外の手勢は息を飲む。ごく一部のセノールを除いて、アゥルトゥラに対する敵愾心は非常に高い。西伐に負けた事に対する怨恨ではなく、蔑西政策に対する怨恨が原因である。負けたのは仕方なく、アゥルトゥラは勝者が敗者に課すべき罰を全て与え、敗者が示すべき矜持を示させてくれた。一切の加減などなく、対等な立場としてセノールを見た彼等の目は敗者の立場からしても賛辞に値する代物であった。
 しかし、その後の蔑西政策における言論による追討は対等な目線による者ではなく、一方的な代物でありセノールからのアゥルトゥラに対する評価を、ハイドナーと同じ位置にまで落としてしまった。また、蔑西政策におけるセノール像を戦後教育に使用したため、セノールに対する差別意識は払拭できなくなっていた。故にセノールは「大凡全てのアゥルトゥラは悪であり、老いも若きも、女も子も関係ない」と有事の際には全て殺めるとしている。蔑西政策における間接的な被害を、直接意趣返しするというのだ。
「我々はされた事を武力でし返す。恨みが巡らぬよう皆根絶やしにするのだ」
 アサドが発する狂人の戯言とも取れる、強い言葉は多くのセノールを狂奔へと駆り立てる。彼女がサチの中で最も力を持つジャッバールの当主であるというのもあったが、彼女は民衆を扇動する天賦の才のような物を持っている。また、自らも狂奔に身を投じているためか、そういった輩が集うのだった。



 雨音に彩られた静謐、それを時折打ち壊すのは遠雷の嘶きであった。宛ら銃声の如く、セノールの神経を昂らせた。セノールの遺伝的気質なのだろうか、彼等は外的要因により興奮しやすいきらいがある。西伐において不利を無視し、士気が異常に高かったのもそういった要因があったからとされる。
 荷馬車はもう少しでディエ・ワーディーを抜けるだろう。ディエ・ワーディーから少し行った所のオアシスにセノールからの迎えが来ているはずであり、彼等が築いた拠点で今晩は雨を凌ぎ、夜を明かす事となるだろう。
「これだけ降っても、一滴たりとも地中に残らないんだから砂漠ってすげぇよなぁ」
「……地下の水脈を通り、ハテム河へと全て注がれる。一部は地下の水脈を通って湧き出すがな」
 セノールの首都カシールヴェナは大河ハテム河の沿岸域に存在する。都の内部には砂漠だというのに、移動用水路として水を引き込んでいる場所もあるが、それでも飲用水や、農業用水として使用する事は出来なかった。それは近隣に存在する鉱山から流れる鉱毒が原因であった。その証拠にカシールヴェナ近隣の流域は水が青みがかり、魚が一匹たりとも生息していない。そんなハテム河も五十年前はセノール、アゥルトゥラ両軍の血で赤く染まっていたのだ。
 暫く馬車を走らせると布張りの格納庫と、幾つかのテントが見られた。その外には合羽を身に纏い、帯刀したセノールの姿が幾人かある。彼方も馬車の姿を確認したのか、布張りの格納庫を開き、早く入れと声を挙げて誘導している。その中には長い髪を結いまとめたセノールが一人。
「ナミルめ、態々出迎えに来ずとも構わんというのに」
 幌から顔を覗かせ、御者の肩を掴みながらアサドはその耳元で一人ごちる。御者は緊張したような面持ちでバシラアサドに視線をくべる。それに気付いたのか態と御者に視線を合わせ、小さく鼻で笑うと馬車の中に引っ込んでしまった。バシラアサドが居なくなった事から緊張が解れたのか、胸を撫で下ろす。
「──そのまま馬車を頭から入れても構わん」
 幌の向こう側から聞こえる声に御者は僅か跳ね上がり、驚いた様子で手綱を握りしめた。幌の向こう側から聞こえるバシラアサドのさも愉快そうなくぐもった高笑いが、雨音に掻き消されてゆく。



 鼻嵐を鳴らす馬の頬を手の甲で撫で、濡れた鬣に指を通すその男は周りのセノールよりも背丈が幾分高く、肌はそれほど浅黒くない。武人らしくよく鍛えられた身体つきであるが、顔立ちは穏やかで険しさなど一切持ち合わせていないようだった。
 彼の名はバッヒアナミル・ナッサル・サチ。サチの氏族において、勝者を意味するナッサルの姓を名乗る武門、その四男であった。彼等ナッサルは氏族社会を形成する以前、八世紀程前、内乱状態にあったセノールにおいて、恒常的に勝利を納め続けた者達の末裔である。彼等はアゥルトゥラの祖先から馬術を倣い、元々持っていた弓術で覇を成した。尤も騎兵組手などという理解に苦しむ技法を編み出した当時のガリプに打ち破られ、平定されるに至っていたが。
「……出迎えご苦労」
 幌から顔すら出さず、指先で僅かな隙間を作ってバシラアサドはバッヒアナミルを見遣る。彼は、はっと気付いた様子で両手を挙げて、何も持っていないとアピールしていた。何故か上げられた腕は左腕だけが三寸ばかり長い。
「何も持ってませんよ。実の姉のような人に危害を加える訳ないじゃないですか」
「……ファハドは殺しに来る」
 ナッサルの家はジャッバール、ガリプ両方と関係を絶たず今も尚、両者と良好な関係を結んでいた。故にバッヒアナミルがジャリルファハドからの命を受け、危害を加えてくるのではないかとバシラアサドは警戒していたのだった。
「アサド。我々三人の獣は何時までも姉弟喧嘩をしてはならないのです。共に歩み事を為す、それがセノールのためになるのですから……」
 獅子、彪、虎の名を冠する彼等。共に歩み、共に民族に尽くすという事を宿命付けられているのだ。故に今の状況は好ましくなく、バッヒアナミルは関係を改善させたい思いで一心であった。
「何を今更。私は毒と血を以って暗愚を屠った。私も何れそうならなければ、この業を身から下ろせん」
「ファハドが許してくれなければ良いんですけどね」
 バッヒアナミルはふと幌へと視線を飛ばす。視線の先に居たのはルーイットの姿であった。バシラアサドの守護者であり、恐らくレヴェリ最強の武人。ジャリルファハドは彼を「信無き武人」と嘲るが、彼の存在がバシラアサドを今まで生かしてくれた。
「あなたがアサドを守ってくれますよね。ルーイット」
 突然、振られた言葉にルーイットは小首を傾げながらも、刹那に意図を理解したらしく、牙を剥くような笑みを湛えて小さく頷くのだった。
 ルーイットには一つ思いがある。何れはジャリルファハドを殺めなければならないと。彼の狂刃はバシラアサドの細い身体を一刀の元に切伏せ、その命と首を容易く奪い去る事だろう。それはレヴェリの武人の矜持が許さない。守らなければならない者は何が何でも守らなければならない。何よりも、そう己を縛り付けなければ、面白く生きる事など出来ない。
「俺はコイツもそうだが、レーヴァの子守までさせられてる。案外、大変なんだぜ。ナミル」
「"父親"というのは一様にそうです。理想的じゃないですか」
 そうやってルーイットを揶揄し、彼は破顔するのだった。去年、彼がクルツェスカに来た時、聞いたレーヴァの言葉を覚えていたのだろう。異形の武人は俯き、気恥ずかしさを誤魔化すようにしている。
「……私がそう揶揄っても、いつもこうだ」
 バシラアサドはルーイットに歩み寄り、その鋼鉄のような胸を拳で軽く小突くなり格納庫の外へと出て行った。向かう先はテント。一刻も早く休みたいのだろう。その後姿はすぐにテントの中に吸い込まれ、格納庫の中にはバッヒアナミルとルーイットの二人だけとなった。途端、バッヒアナミルの顔付きが変わり、そこには笑みがない。ジャリルファハドのような伏せた感情から、滲み出る殺意のような物が感じ取られる。
「ルーイット、貴方はアサドを誑かしたのですから、最期まで責任を取って下さいね。じゃなきゃ俺が貴方を殺しますから」
 そう言って彼はルーイットの傍らを過ぎ去る。右腕と比べて三寸ばかり長い左腕が、ルーイットの肩に伸ばされ、その手は肩を掴む。優男のどこにこんな力があるのだろうかという程の力であった。
 雨から逃げるように虎はテントの中に隠れてしまう。一人残された龍蛇は、口角を吊り上げ肩を震わせるようにして笑っていた。その様子はまるで声帯を持たない蛇が愉悦に浸り、笑っているかのようだった。

Re: それでも獅子は吼える ( No.13 )
日時: 2018/03/27 19:54
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 テントの中では火が焚かれており、人体に有害な一酸化炭素等を通しやすい鹿の革で上部は覆われており、骨組みとして張り巡らされた木材の梁の上には雨漏りを防ぐために藁が敷き詰められている。有害な物は外に出し、熱は外に出さまいとする先人の知恵が確かに在った。
 久々だな、とテントの中を見回して、担いでいた小銃を立て掛けると、バシラアサドは焚火からやや離れた位置に腰を下ろした。馬車に揺られ続け、末端の諸兵らと共に板の間に据わり続けていたせいで、やや腰が痛む。慣れない事はするものではないと静かに苦笑いを浮かべる。
「アサド。何かありました?」
 セノールにしては背丈が高めなバッヒアナミルが、やや身を屈めながらテントの入口から声を掛ける。彼は相変わらず穏やかに柔和な笑みを浮かべている。つい先ほどルーイットに噛み付いたとは想像も出来ない。
「慣れない事はするものじゃない」
「はぁ……?」
 バシラアサドに何を言っているんだ、と言いたげに首を傾げながらテントの側面に凭れ掛かるように彼は腰を下ろす。濡れた髪を使い古された手拭で拭きながら、座ったまま火へと少しずつ近付き、火に向かって頭を垂れる。
「髪を焼くぞ」
「へーき、へーき」
 まだ齢にして二十になったばかりのバッヒアナミルは、時折軽い物言いをし、軽薄な印象を宿す事があった。普段は落ち着き払い、大人のふりをしているだけだと以前、ルトに馬鹿にされていたが強ち間違いではないだろう。しかし、どこかそんな彼が羨ましくあった。まだ仲違いする前、ジャリルファハドも「俺達にはああやって振る舞えない」と苦笑いをしながら、羨望するかのように呟いていた記憶が蘇る。
「……今年の芥子の栽培はどうだ?」
「物凄くいいですよ。果実も大きいですし。にしてもアゥルトゥラも大したもんですよね。アレから麻酔を作れるだなんて。感心です」
 バシラアサドが芥子を何に使うか知らないバッヒアナミルは目を輝かせながら、感嘆の意を示し、やや興奮していた。効力の強い麻酔があれば、戦時の荒療治に打って付けであり、苦しむ者を見て心を痛める必要もないからだ。幼い頃から知っていた弟分は随分と優しく育ったものだと、バシラアサドは目を細め穏やかに笑っていた。それに対し自分はどうであろうか。民族のためと嘯き、滅びへ向かって直走る。清廉たる者を踏み躙り、利用し、手を血で汚し、歩む道に血の足跡を付けるしか能のない輩。バッヒアナミルがどうにも眩しく、直視に苦しむ。
「我々は精々、種から油を出して染料に混ぜる程度だからな」
 セノールが身に纏う民族衣装や、絨毯といった工芸品、それらは天然の顔料と芥子の種から抽出した油などによって精製された染料を用いる。種と果実から出る樹脂を有効利用出来て、無駄がないと何故かバッヒアナミルは誇り高ぶっているような面持を浮かべていた。
「茎とか葉もどうにかしたくないですか?」
「……食うか?」
「それ良いですね」
「止めとけ」
 無知は罪とは言わないが、バッヒアナミルが為そうとしている事は馬鹿馬鹿しい。芥子の茎や葉にも阿片となりえる成分が含まれているだろう。とてもではないが、食用にするのは危険に感じられた。バッヒアナミルも冗談で言ったのだろうが「あんなものは食えない」と言いたげに大袈裟に首を縦に振っていた。
「まさか、お前」
「食べる訳ないじゃないですか」
 そう否定するバッヒアナミルであるが、どうにも怪しい所がある。彼は興味があれば何でも試す。虎の名を冠するも、好奇心に殺されかねない猫のような人物である。ややもすると無茶苦茶な事をし出すのだ。恐らくそれはナッサルの性というものだろう。バッヒアナミルの左腕が右腕よりも三寸長いのがその証拠である。彼等は強弓を放つために、押し手に幼少時から重石を付け人体の改造を行ってきた。セノールの身体では筋肉を太くし、筋肉量を稼ぐ事は難しい。それ故に筋肉を伸ばし、筋肉量を稼ぐ事を選択した結果であった。バッヒアナミルの父は勿論、三人の兄達も一様に左腕だけ僅かに長く伸ばされていた。先人達が無茶苦茶な試行錯誤をした結果であろう。
 一頻り言葉を交し合い、笑みを一瞬だけ浮かべるなり、彼は溜息をついて表情を引き締めた。叩き合っていた軽口は消え失せ、それに伴う柔らかな空気は絶える。
「アサド。事を成す時、後顧の憂いは任せておいて下さいね。我々ナッサルはガリプに敵わないにせよ、三日は戦えますから」
 事が起き、ガリプの足止めをするならばナッサルは滅ぶだろう。三日の後、ナッサルの兵は誰も残らないだろう。大凡全ての兵、手勢が全て砂漠に帰すこととなる。己自身もそうなる宿命と腹を据えているような発言にバシラアサドは小さく俯く。まるでバッヒアナミルはバシアサドの腹心算を見透かしているかのように語る。事が成ればセノールに未来はない。それが分かっているかのようだったからだ。争いの果てに死ぬのは武門の本望、それを成し、仄暗い未来から逃げるためにガリプとの争いを選んだようだった。
「そんな顔をしないで下さいな、アサド。……そうだ、酒を持ってきたんです。飲みませんか?」
 恐らく自分の表情に翳りがあったのだろう。バッヒアナミルを死へと赴かせてしまう罪悪感。また、多くの同胞を騙しているという罪悪感。それらは僅か残る常軌を逸脱していない正常な思考を侵し、人らしい感情を呼び起こしてくる。これから人が背負いきれない業を犯すのだから、そんな物は忘れてしまわなければならない。人ならざる思考を持たなければらならない。しかし、今はまだ出来ない。一時、そんな思いを忘れるために今晩は酒に酔ってしまおう。バッヒアナミルへと小さく首を縦に振るうのだった。



 馬車の格納庫、そこにルーイットの姿はあった。バッヒアナミルの言葉を思い浮かべながら、物思いに耽る様子は誰の目にも届かず、薄暗がりの中、彼は馬車の荷台に腰を下ろす。バシラアサドを守れなければ殺す、という彼からの殺意はひしひしと感じざるを得なかった。ふと脳裏に過ぎるのはガリプの次兄。政は余り身体が丈夫ではない長兄に任せ、己は内務軍に属しては配下の兵を纏め上げている。その男も、嘗てルーイットに敵意を向けてきた事があった。お前がアサドを狂わせた、お前が全ての元凶だと。
 ひしひしと感じるセノールからの敵対意識に、思わず口角が吊上がる。レゥノーラに対峙した時にぶつけられる、何の思考も伴わない殺意とは違い、複雑な念が絡み合った殺意。レゥノーラとは別の意味で噎せ返りそうになるような、冷たく研ぎ澄まされたそれを思い出すだけで血が騒ぐ。そういえばセノールとは殺し合った事がないと思いながら、馬車の荷台からゆっくりと降りた。いつの間にか雨音は消え失せ、テントの方からバシラアサド達の声が聞こえている。戻ろうと格納庫の扉を開けば、突き刺すように凍てついた砂漠の空気がルーイットを襲う。乾ききった代物ではなく、雨のせいで湿度を持っているため、砂漠らしからぬ寒さである。その中に紛れ込んだ妙な存在感に、ルーイットの黄金色の瞳が見開かれ、忙しなく動き出す。
 そんなルーイットの様子を見据える者が一人、砂丘から顔だけ出してほくそ笑み、足音もなく駆け出す。小柄な体躯に褐色の肌。この寒さだというのに右腕だけ露出され、左手には肘まで覆ってしまうような手甲が身に付けられていた。肌はやや浅黒く、黒い瞳からセノールだという事が分かる。腰には短い刀が差され、それは咄嗟に抜ける様にと鞘の背が切り開かれている。それが音もなくルーイットに忍び寄り、距離を詰めていくのだった。

Re: それでも獅子は吼える ( No.14 )
日時: 2018/03/27 20:46
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 暗闇を駆け抜ける者が異形の武人との距離を詰めていく。足音もなく、気配も捉えきれず、ルーイットの黄金の色の瞳は明後日な方向を見据えていた。暗闇の中からそれは牙を剥くような笑みを湛え、その痩身をルーイットの前に晒す。
「────速いな」
 いつの間に近寄られたか分からなかったが、戦くような表情は一切見せず、その者を見据え、口角を吊り上げ、牙を剥く。その者がセノールであるとは一瞬で判別出来た。しかし、目的は分からない。ただし、その者からは犇々と敵意、殺意の類が感じられた。野生の獣にもよく似た、その筆舌し難く、重苦しい雰囲気。まるでガリプの者と対峙しているかのよう。馬鹿でも分かる事だろう、これから殺し合いが起きるという事が。

 左の手甲が空を切り裂く。手首に仕込まれている鉤が青白い月明りを浴びて不気味に光り輝いている。この武器を使うのはサチの氏族の一握り、多くはハサンの武門であった。現にこの者もハサンの武門であるらしく、曝された右腕には六芒星を六角の先端から中心に向けて、貫く槍を模したタトゥーが彫られていた。六芒星は背徳者、背教者、異端を差し、それらを槍で貫くという事は殺害するという事である。であれば、この者はセノールからしたら背徳の罪を犯したバシラアサドの首を取りに来たと考えられる。何者かがバシラアサドのセノールへの一時帰還を漏らしたのだろうか。漏らすならば誰が漏らしたのだろうか。バッヒアナミルから情報が漏洩するとは考えにくく、脳裏を過ぎる猜疑心に苛まれながら、ハサンの者を往なし続ける。此処でハサンを殺めれば、恐らく彼等は報復を試みバシラアサドのみならず、セノール領に常駐しているバッヒアナミル、ひいてはナッサルにも危害が及ぶ事だろう。それはそれで面白い事ではあるが、悪手以外の何物でもない。ならば、このハサンの兵を殺めるのは得策とは言えない。無力化を図り、捕縛し交渉の材料、即ち人質とする事が妥当である。
 だが、この者を捉えきるのは一筋縄ではいかない。捕縛するために殺さないよう、加減した攻撃しか行えず、また八尺ばかりの巨躯であるルーイットに対し、このハサンの者は五尺程しか身長がない上に身が軽い。極端な身長差は大柄な者の方を不利にする。その上攻撃は素早く、重く急所を狙って人体を破壊する事に執着しているかのよう。一発が致命的となる以上、当てさせてから捉えるという事は難しい。
「良い兵、しぶとくて良いわ」
 ハサンの者が呟く。その声は落ち着き払っていたが高く、女のものだという事が分かる。月明りに照らされて、明らかになった顔はどこかで見たような顔。脳裏に浮かんだのはハイドナーに雇われていた砂漠から来たという女の傭兵。既に死んだ彼女を若くしたかのような顔立ち、身の丈、体格は此方が幾分か細かったがそれでも似通っているのだ。あの女が冥府から帰ってきたかのよう。
という女の傭兵。既に死んだ彼女を若くしたかのような姿。良く似ている。宛ら幽霊の如く。
「名は?」
「敵に応える名前なんてねぇよ」
「敵じゃない、ちょっとした戯れ」
 そう言い放ち、ハサンの者は砂漠の上に腰を下ろし、左手を覆っている手甲を外し、それを砂の上に放り投げた。腰の短刀こそ未だ差されたままであったが、殆ど丸腰のような状況であり、これ以上、このハサンの者が危害を加えてくるとは考えにくい。
「……目的だ、目的を言え」
 静かに語りかけるように問い詰めれば、ハサンの者はにたにたと薄気味の悪い笑みを浮かべていた。その薄気味悪い顔が雲の切れ間から、顔を覗かせた死人のような顔をした月と対面し、その薄気味悪さを更に増長させていく。
「我がち──もとい。我等が当主、アル=ハカンの命により迎えに来た。ガリプの者が野盗掃滅にと、戦っている地域がある故、カシールヴェナまで案内せよ、と。……ナッサルから聞いてないの?」
 何処か遠い目をしながら、ルーイットは腕を組んで物思いに耽るような様子を見せた。バッヒアナミルは言う事は立派であったり、確信を突いた事を言う事はあるが、本当に伝えなければならない事を頭から抜かしてしまう事が多々あった。また、人を謀るという事が出来ない人格でもある以上、バシラアサドに計略の類を仕掛けるというのはあり得ないはずだ。
「また、あの四男坊は大呆けをかましたのね。随分と楽しそうにしてるもの」
 どこか呆れたように、遠い目をしながら彼女はテントを見遣る。その中からは、やや上機嫌になり、猶更軽い印象を抱かせるバッヒアナミルの笑い声が聞こえている。時折、バシラアサドが相槌を打つようにして小さく笑っているような声も聞こえ、物珍し気にルーイットはそちらを見据えるのだった。
「……まぁ、良いや」
 彼女は別段気にする事でもないと一人ごち、懐から煙草を一つ取り出し、それを咥えた。ルーイットの視線が気になったのか、もう一本を取り出してそれを突きつけるようにして、勧めるが彼は首を横に振るう。嫌煙家なのだ。「そうか」と短く応じ、彼女は煙草に火を付けるなり口に咥えた。
「アサドはいつからおかしくなったんだろうね。私が幼い頃は真逆だったのに。私の父に毎日のように半殺しにされていたファハドを、涙目になりながら手当していたのが懐かしいよ
 その温和だった頃のバシラアサドは自分が殺してしまった。眠っていた獅子を目覚めさせてしまった等と口が裂けても言える物ではなく、ルーイットは明後日な方向を見遣りながら、小さく溜息を吐く。尤も今でもレーヴァに対しては、あの頃のバシラアサドが姿を現しているのだが、この女は知る由もないだろう。
「そうか……。まぁ、その、なんだ。お勤めご苦労。中に入れ、冷えるだろう」
「その言葉に甘えさせてもらうとするよ」
 ハサンの女は小さく張り付いたような笑みを浮かべて、手甲と短刀をルーイットに差し出した。敵意はないという現れなのだろう。その様子にルーイットは彼等の文化を垣間見る。戦う気がないならば、自分からその意思を示せ。意思を示した後、殺されるならば仕方ない事。一族が仇を討ってくれる。セノールの古い慣習が未だに息衝いていると感じ得ながらそれを受け取るとハサンの者は両手を挙げて、もう何も持っていないとアピールしてきていた。同時に張り付くような笑みを消し去り、冗談ではないとの意思表示をしてきている。浮かべる表情が逆だと内心、呆れながらもルーイットはハサンの者と共に歩み進めるのだった。



 テントの扉を開けると、一点に集まる視線が痛かった。 寒いというような抗議と邪魔だという文句が入り混じったそれと、酒の匂いに得も知れぬ思いを抱く。何をしていたというような呆れた視線をぶつければ、音のない抗議と文句は幾分収まったかに思える。
「アサド」
 刹那、ハサンの女が転がった鈴のような声をあげた。入口で立ち止まったルーイットの小脇を抜け、ハサンの女が二人の前に立てばバシラアサドの目が懐かしいものを見るようなそれに変わり、バッヒアナミルは何かを思い出したような表情を浮かべるのだった。背を向けているハサンの女が肩を震わせ、小さく笑っている。長らく会えなかった主人との再会を喜ぶも、待てと言われている犬のよう。
「アースラか。よく来た」
「砂漠の端で貴女を待つのも飽きた所よ。アサド。私がもう少し早く生まれていたならば、クルツェスカに付いていきたかった。渇望する日々がとても苦しかった、彼方の下ででハヤのように力を尽くしたかった、貴女の敵、一切合切を闇に屠り、物言わぬ肉塊にしたかった」
 心、精神、内面を病める者の廓に隔離された狂人の如く、己の思いの丈をアースラ(夜歩く者の意)と呼ばれたハサンの女が消え入るような声で矢継ぎ早に繰り出していく。その声には置いて行かれた恨みや、役に立てなかったというような悔恨の思い、一抹の思慕の情まで感じ取る事が出来る。穏やかな顔付でそれを見つめているバシラアサドは隣に座れとアースラを手招く。言葉一つ発さず、まるでそれが最初から正しく感じさせるよう、ごく自然にバシラアサドの隣にアースラは腰を下ろした。心無しか距離が近く感じられる。
「ガリプの兵が此処から東北東に約九里先、野盗掃滅のためにと陣地を構築している。指揮官としてファハドの姿もある、絶対遭わないように」
 不安を表情に露わにしながらアースラは語り掛ける。横目でバッヒアナミルを一瞬、睨み付けたのは気のせいではないだろう。彼はすっかり酔いも醒めたのだろう、普段の穏やかで柔和な顔を引き攣らせ、どことなく心苦しそうだった。
「ファハドとは争わんさ。今、ガリプと戦えば我々に勝ち目はない。人も銃も足らん」
「そういう事ではなく……憧憬する存在同士傷つけあうのが、この私には耐えられない」
 彼女の言葉通りであれば、バシラアサドのみならずジャリルファハドへも心酔している。随分と身勝手な理由で争うなという彼女へ、バシラアサドは苦笑いを浮かべながら小さく頷くのだった。バシラアサドとジャリルファハドへの憧憬、これは同じ憧憬であったとしても理由が異なる。獅子へは目的と手腕に対し、彪へは人格と厳格さに対してだ。争う気はない、安心しろ、杞憂だとアースラの頬を指先で触れるように撫でつける。その様子がまた退廃的に見えたのか、バッヒアナミルはまた別の気まずさに苛まれ、今度は顔を背け、テントと見合いながら酒に口をつけていた。どうしてこうもセノールは度し難い奴ばかりなのだと、ルーイットは後に漏らしたのは言うまでもない。

Re: それでも獅子は吼える ( No.15 )
日時: 2018/03/28 09:41
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: QxkFlg5H)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 昨晩の雨、凍てつくような冷え込みは嘘のよう。日が照り、砂の中から昨晩まで雨だった物が不快な湿気を齎す。テントの中にはアースラの姿しかなく、バッヒアナミルやルーイットの姿はなかった。
傍らでおかしな寝相で天井を仰ぎ、眠っているアースラ。寝ぼけ眼に写る彼女の寝顔からは刺々しい物言いをするような雰囲気は感じ取れず、幼き頃から余り変わっていないように感じられた。それに比べて己は悪辣が意思と肉体を持ったかのような代物。すっかり変わってしまったとバシラアサドは苦笑いを浮かべ、アースラの頬を指先で撫で付けた。彼女は未だ目を覚ます気配はない。久しぶりの顔をバシラアサドは思わずまじまじと眺めていた。何年、彼女と合わずに居ただろうか。最も多感な時期に、狂った己と共に過ごす事がなく良かったと、バシラアサドは内心一人ごちる。彼女は一向に起きる気配もなく、相反し目が冴えてきたバシラアサドは寝息を上げる彼女の頬を再び撫で付け、真っ黒な髪に触れる。変わっていないというのは嘘である。顔立ちは大人らしい。手の甲にも人を殺めた証である鏃のタトゥーが彫られている。夜を歩く者という名通り、どことなく蠱惑的な印象も出てきた。順調にセノールらしく育って来ている。ハヤのように今後も名前負けしないようにと、バシラアサドは小さく笑う。父兄を殺めず、ルーイットと共に砂漠から出ず、この者達と共に生きていたならば自分はもう少し、前向きに生きられただろうか。悔恨によく似た念が心苦しく、彼女はアースラの額を慈しむよう、指先で触れテントを後にするのだった。


 アースラを置き去りにテントから出れば、突き刺すような日差しと茹だるような熱気に襲われ、思わず顔を顰めた。バシラアサドの視線の先にはルーイットとバッヒアナミルが居り、彼等は馬車を出し出立の準備を進めているようである。何処と無く物々しい雰囲気があるのは気のせいではないだろう。
「もうじき起こしに行こうかと思っていたところです」
 近寄ってきて話しかけて来るバッヒアナミルの手には一挺の小銃。遠距離から人間を狙い、撃ち殺せるようにと照準器が取り付けられている。それはバシラアサドが使用するライフルである。自分の身はなるだけ自分で守れという意思の現れだろう。
「アースラはまだ寝ている。起こして来い」
 小銃を受け取りながらバシラアサドはテントの中を指差す。嫌な顔一つせずにバッヒアナミルはその中へと入っていく。テントの中からややくぐもった声が聞こえている。
「アースラの情報通り、ガリプの兵士が居るぜ。数にして五十弱ってところか」
「構わん。何事もなく砂漠を抜けるだけだ」
 そうルーイットの言葉を一蹴して、バシラアサドは小銃を抱きかかえた。争う気はない。争ったとしても勝ち目がない。ならば、静かに砂漠を抜けるだけの話。出来るだけ交易ルートに則った形で馬車を走らせ、カシールヴェナへと入るだけの事。何も難しい事ではなく、アースラという道案内も存在している以上、事が起こる心配は万に一つもない。
「ごめん。すっかり寝ちゃって」」
都合悪そうなアースラの声が背後から飛んでくる。大人びた口調、雰囲気を演じようとする彼女であるが、どことなく幼さが垣間見える。齢にしてバッヒアナミルよりも一つしか変わらないのだが、またバッヒアナミルとは違った方向で間が抜けているように思えて、仕方が無かった。
「構わんさ。私もさっき起きたばかりだ。アースラよ、道案内を頼むぞ」
「勿論、任せて」
 どこか張り切り、彼女は笑みを浮かべる。やはり犬のようだと、ルーイットは思いながら彼の配下であるレヴェリの傭兵達へ視線を配る。ガリプが近寄ってきたら殺せ、一切合切殺せ。殺したら死体をばらして砂漠に埋めろ。言葉もないがレヴェリの傭兵達は、ルーイットがそう語るだろうと憶測に容易かった。彼等は北方の雪深き地から下ってきた簒奪者の成れの果て。自らの悪行は万年雪の下へ隠し、血の赤は深雪の中へ。雪が砂に変わるだけなのだ。
「アサド、準備が出来たから乗って下さい。アースラ、走って追いつけますか?」
「私は乗れないの……?」
「案ずるな、乗れ」
 既に馬車の荷台に足を掛けたバシラアサドは呆れた様子でバッヒアナミルを見据えていた。幾らハサンのアースラと言えども、カシールヴェナまでの距離を走らせれば力尽きるだろう。尤もペースを配分し、小休止を挟めば出来ない訳ではない。故のアースラの反応である。分かりにくい冗談を吐くなと抗議を込めれば、彼は肩を竦めて馬車へ乗り込んでいく。それを皮切りにセノールの兵や、レヴェリの傭兵が次々と馬車へと乗り込み、日差しと砂塵を避けるために幌を広げ始めていた。
「アースラ、お前は私と来い。一番前だ。御者に指示を下せ」
「あの……、アサド」
 馬車に身体だけを向けて、乗る様子もなく彼女はバシラアサドを見つめていた。表情には何処と無く翳りがあり、どことなく不安の色が垣間見える。
「なんだ」
「……私がガリプと通じているとは思わないのか?」
「通じていたならば、晩に私を捕らえるだろう。それにだ。お前はファハドから指示が出たとしても、それを聞く事はないだろう。それに奴は私を殺す事を目的とはしていない。生きて捕らえ、セノールの法にて裁かれる事を望んでいるのだ。私の罪を白日に晒し、贖わせたい。たったそれだけの事」
「そっか、良かった」
 バシラアサドから信用されている事に安堵したのか、アースラは胸を撫で下ろし、小さく息を吐く。馬車のステップに足を掛ける事もなく、馬車に飛び乗るなり御者の傍らに腰を下ろし、バシラアサドへと視線を送り、穏やかに笑って見せた。厭に眩しい、それにバシラアサドは目を細め、相槌を打つのだった。



 馬車の骨組みに腰を下ろし、幌から顔を出しながらルーイットは双眼鏡でガリプの兵を睨み続けていた。彼等も既に此方に気付いているようで、視線を向けられている。その視線を向ける者の中には、ガリプの次兄たるジャリルファハドの姿もあり、そもそも彼はこの馬車がジャッバールの物であるとまで感付いている様子であった。尤も野盗の掃滅が最優先事項であり、ジャッバールの馬車を止めるような事はしてこない。
「ルーイット、ガリプの連中。こんだけ離れてんのに凄いな。空気が変わる」
「血が騒ぐだろう?」
「いや、そういう事じゃあないんだ。あれによくアゥルトゥラ勝てたなって」
 ルーイットの輩であるレヴェリの傭兵は関心の意を述べた。セノールの矛であり、盾である氏族サチ。その中でも最も研ぎ澄まされた矛たるガリプ。彼等は五十年も昔、西伐において最も勇猛に戦い、最も己の血を流し、最もアゥルトゥラの血を流した最上の兵である。その名は未だ途切れず、今も尚そこに在るだけで場の空気を乱す存在感を放つ異質さを持っていた。
「西伐もアゥルトゥラが北方交易路使えずに、砂漠で殺し合いだけしていたら負けてたんだ。軍は二割の兵力が敗れ去ったら構築出来ない。アゥルトゥラの損害は二割どころじゃなかった。三割とも四割とも言われてる。ま、セノールもそのくらいの被害を被ってたらしいがな」
「大量の銃が無きゃ一方的な殺戮って所さなぁ」
 西伐で戦争の仕方が変わった。その転換期となった戦争に高すぎる士気だけで挑んだ彼等はやはり異質である。思わずルーイットは呆れ返ってしまった。己は武芸を修めたが、高潔な武人ではない。どちらかといえば狡猾な卑怯者といった所だろう。故にガリプが理解出来ない。命をやり取りするならば、恐らく愉悦に浸れるだろうが、その時は全面的な争いが起きているに違いない。機会は一度きり、永遠の闘争など望めそうにない。
「永遠の闘争、紛争。血の泉が出来る世の中が欲しい限りだ」
 腹の中に買った悪心。頭の中に巣食う悪魔が呪詛のような言葉を吐き出させる。獅子が齎すであろう争い。勝ち負けも関係なく、血を流し続け高笑い出来る世の中は来るだろうか。その世界こそがルーイットの望み。己を使い捨てた体制、世界、それらの一切が滅ばず延々と虫の息で生き続ける泥沼のような世界。それを成すために獅子を守り、侵略者が跨った彪は何れ殺めなければならない。
 異形の武人は不気味に笑みを湛えるのだった。


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