複雑・ファジー小説
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- それでも獅子は吼える
- 日時: 2017/07/08 14:38
- 名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: 4xvA3DEa)
- 参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe
当小説はリレー企画「無限の廓にて、大欲に溺す」のスピンオフになります。
設定、世界観はあちらに準拠していますので、あちらから確認下さい。
- Re: それでも獅子は吼える ( No.1 )
- 日時: 2018/03/19 23:17
- 名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
- 参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe
愛用の煙草を燻らせ、獅子は算盤を叩く。小気味良い音だけが部屋の中に響き、彼女は薄っすらと固く、どこかぎこちない笑みを湛えた。今月の収益は大きく、先月の物を遥かに凌駕している。カシールヴェナを拠点とし、東西南北に存在する国々、地域との交易は上手く進んでいるのだ。己の雇う人々へと利益を還元する事も容易いだろう。彼等と直接的に言葉を交わす事は少なく、彼等の表情は分からなかったが少しばかり色のついた給料に喜んで貰えたならば、良い事である。
「まだ仕事ー?」
獅子の傍ら、歴史書を読みながらそう問う少女は獅子と正反対な自然で、穏やかな笑みを浮かべている。獅子の青い双眸が彼女へと向き、伸ばされた手は少女の髪を優しく撫で上げる。その手の人差し指と薬指には紫のリング状のタトゥーが彫られている。
「少し、少しだけ忙しくてね」
「そんなに?」
「あぁ、沢山稼げたから」
他愛もない返答に「ふーん」とだけ素っ気ない相槌を打ち、彼女は再び歴史書へと目を通し始めた。頁がはらはらと捲られ、夥しい量の文字を彼女は読み取っている。随分と聡明に育った、と獅子は先とは違った笑みを一瞬だけ湛え、帳簿へと筆を走らせる。
「母さん、この人って母さんのお婆さん?」
「レヴィナ・ジャッバール・サチは私の大叔母。私の母はアリィーザ。もう七年前に死んだよ」
「……このディエフィスって人は?」
「それはガリプの人、レヴィナの従兄弟。西伐で負けて処刑されちゃった」
「それじゃ────」
「クィアット。それは私達を教育した人。私達の先生よ、先生」
「ふーん……まだ生きてるの?」
「分からない。居なくなったから。……レーヴァ、もうそろそろ寝なさい。私もすぐ寝るから」
少女の名はレーヴァというらしく、彼女の手元から歴史書を奪い取り、それを自分の膝の上に置いた。彼女を青い瞳がじっと見つめている。時刻は既に午前の一時を回っている。子供が起きていて良い時間ではない。寝ろと嗜められ、彼女は灰色掛かった瞳で見つめ返すも、ばつが悪くなったのか視線を逸らし溜息を吐いた。
「うん、寝る。母さんも早く寝てよ」
「あぁ、分かってるよ。レーヴァ、おやすみ」
「おやすみ」
ぐいっと身の乗り出し、獅子の首筋へと口付け彼女は笑いながら寝床へ向かっていく。ひらひらと振られた手へと己の手を振り返せば、彼女は寝室へと消えていった。血が繋がっていないというのに、自分の子供の頃とよく似てるな、と思えば自然と笑みが毀れる。胸の底から込み上げる嬉しさに言い得がたい幸福すら覚える。
レーヴァを招き入れたのは三年前の事。彼女は奴隷の子として売られており、読み書きも出来ず、言葉も覚束なかった。恐らくはヴィムートの言葉だろう。あのまま買わず、奴隷商達を駆逐していなければ、今頃は死んでしまっていた事だろう。誰も拾う骨すらなく、その肉は犬の腹の中である。現実と世界という物は残酷な物である。あのままでは苦痛に塗れた短い生を送るしか選択肢は無かっただろう。ややもすると苦痛すら感じ得ない不幸に苛まれていた可能性もある。
「────アサド、バシラアサド」
ドアの向こう側、控え目なノックと共にくぐもった男の声が部屋の中に響く。その声に今までの笑みは失われる。賢い獅子の名を呼ばれ、賢いというよりも狡猾な獅子の表情が浮かび上がる。血と暴力を好み、それを是としているかのような筆舌し難き、恐ろしげな物であった。
「入れ」
短い言葉に呼応する様に開かれたドアの向こうには偉丈夫が立っていた。両腕にはタトゥーが彫られ、右頬から首が鱗に覆われている。人の形をしているだけの化物と言っても過言ではない。彼の瞳は不気味な黄金色を宿し、厭に輝いて見えた。その異様からレヴェリの者であると考えるに容易い。
「ルーイット、何の用だ」
「廓の奴等のお使いって所かね。ほら」
ルーイットと呼ばれた偉丈夫は一枚の書面をバシラアサドへと突きつける。それを一瞥するなり、彼女は頷いて机の上へと置いた。
「勝手に買ってくれば良いだろうに。態々報告しなくても良い」
「だろうなぁ、それは口実だ。──レーヴァにこれを」
机の上に置かれた書面を握り潰し、彼はある物を取り出した。それは赤い宝石をあしらった髪飾りである。ランプの灯りを受け、それは濃すぎる赤を主張している。まるで血のようなそれはレーヴァの白金のような髪に映える事だろう。それを受け取り、バシラアサドは目を丸くしている。
「ただの武辺者だと思っていたが、案外趣味が良いじゃないか。これを何処で?」
「廓さ、廓のずっと下だ」
「魔具だろうな」
「あぁ。恐らくな、そうだとしても綺麗なもんだろ」
ルーイットはそう笑っていた。魔具と呼ばれる嘗て魔法が痕跡した証、魔力を込めそれを引き出しながら魔術師が使った道具である。賢者の石と呼ばれる触媒、その血のような赤は美しく、紅玉にも引けを取らない。
「アゥルトゥラの貴族は婚礼にこんな宝石をあしらった指輪を貰うそうだ、羨ましい限りだ。どうだ私にくれやしないかね」
「止めてくれ、レーヴァに毒され過ぎだ」
「毒されてなど居ないさ、底意地が悪いのは昔からだ」
レーヴァは獅子を母と呼び、この男を父と呼ぶ。それに悪乗りしたバシラアサドにルーイットは気恥ずかしさを感じていた。尤もそうなったのはルーイットの立ち振る舞いのせいである、レーヴァへと世話を焼き、バシラアサドには出来ない事をしてくれている。まるで本物の父のようにだ。バシラアサドからしてみれば、何処かレーヴァが羨ましくもある。物心ついた頃には父は老い、数少ない友人の中で最も親しかった彪は戦地を駈けずり回る内、自分よりも遠い所へと行ってしまった。その背は遠く、道を違えてしまったのだ。
「レーヴァはもう寝ているんだろう?」
「さっき寝ろとな」
「少し遅かったか……」
そうやって残念がる姿はやはり実の父親の様で、もう少し早く帰って来られたら良かったのに、と彼は苦笑いを浮かべている。武辺者特有の硬く、不器用な笑顔に目を奪われ、バシラアサドは思わずにやけてしまいそうになりながらも奥歯を噛み締める。
「そんな形だが子供は好きかね」
「……いいや、ヴィムートに居た頃。ロクな子供を見た事がない。あぁ、酷いもんさ」
「飢えに飢え、病みに病み、死に死に生を望むべくもなし……か。老いも若きも無かったのだろう」
「そうだ、地獄。地獄って奴さ。ガキが干からび、凍みた親の足を食ってる。とんでもない地獄だ────」
だからこそ、俺には望むべく物がある。そう言葉を繋げそうになりながらも、口を閉ざしルーイットは項垂れ、静かに笑っていた。何時の間にか算盤を叩く手は止まり、気分が乗らない事を知るとバシラアサドは帳簿を閉じた。ぱたんと乾いた音が静まり返った部屋の中に響く。
「あぁ、そうだ。さっきはああ言ったがきちんとお前にも用意している、ほら」
彼が取り出したのは先とは間逆の真っ青な石が嵌った指輪だった。少し草臥れては居るが、磨けば良いだけの話。口元が少しだけ緩みつつあるのを感じ取っていたが、それを受け取りバシラアサドは小さく頭を縦に振る、気恥ずかしさを誤魔化すための軽口を思い浮かべば、矢継ぎ早に言葉として露にするのだ。
「たまには雇い主を労わってくれたようで何よりだ」
「やっぱりやらなきゃ良かったぜ、全く」
売り言葉に買い言葉。視線すら合わせず、軽口を叩き合うもそこに険悪な空気はない。静かで穏やかな時間が流れ、普段の緊張を忘れさせてくれる。静かにランプの火が揺らめいていた。
- Re: それでも獅子は吼える ( No.2 )
- 日時: 2018/03/20 00:36
- 名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
- 参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe
穏やかな空気、時間が流れる夜半。錫で出来たグラスに酒を注ぎ、少しずつ口へと運んでいた。時間は既に午前の三時を回っており、色街が近いというのに喧騒は消え去り、やけに静かであった。長椅子でふんぞり返っているルーイットは身動き一つせず、微かに寝息を立てており兵士らしい引き締まり、精悍な面持ちは存在しない。随分と気を緩めていると思えば、自分もこんな姿を曝しては居ないだろうかと、微か頬に熱が宿る。
「……セノールの兵は人前で寝ない」
頬の熱を取り去りたく、言いがかりを付けるかのようにルーイットを戒める。常に兵は兵らしくあれ、そんな家訓が脳裏を過ぎると、それに付いて来るように十代中頃の"彪"の姿を思い出す。彼は決して人前で眠らず、眠るとしても得物を抱えたままであったらしい。最早習性として刷り込まれてしまったのだろう、可哀相であったがそんな思いを彼には遂に伝えられなかった。それが今でも心残りである。
全く起きる気配が見られないルーイットを見つめながら、仕方ないと先程まで自分が羽織っていた上着を多い被せた。女物の香水の匂いがするだろうが、別に気にする事でもない。そもそもこの男はそんな所を気にするような者ではない。やはり起きる様子はなく、呆れながらさも当然のようにルーイットの鼻を摘むと、彼は呻きバシラアサドの手を振り払った。
「おやすみ」
鱗が生えた右頬を手の甲で撫で付け、バシラアサドは脱衣所へと向かっていく。セノールのサウィスと呼ばれる民族衣装を脱ぎ、籠へ投げ込むと矢継ぎ早に肌着を脱ぎ捨てた。鏡に映る身体にはタトゥーが掘られ、両手の人指し指と中指、背と腹には鏃のような意匠が点在している。ジャッバールの家人を識別するタトゥーであったが、レーヴァには幾度なく問い質されたものだ。何故、こんな物を彫っているのか、と。セノールの人間以外には理解されない風習、習慣。それが幼子に理解されるはずもない。同時にもしレーヴァが真似したがったりした場合、どう断るべきか等と考えながら、浴室の壁に据え付けられた蛇口を捻る。冷水に息を呑みながら汗を流す。砂漠では恵まれなかった水、乾きに苦しみながら熱望した水だ。何時もの事ながら、これに苛まれるとは子供の頃は思ってもいなかった。次第に水の冷たさに慣れ始めたが、目はすっかり冴え、僅かに回っていた酔いも醒めてしまった。丁度良いとやらなければならない調べ物を消化し、このまま朝まで起きていようと自分に言い聞かせた。
入浴を済ませ、部屋に戻るも相変わらずルーイットは寝息を立てており、沸き立つ悪戯心に負け、彼の鼻を再び摘んだ。先程と同じように呻くと当然バシラアサドの腕を掴んだ。思ったよりも力が強く、中々離そうとする気配が見られない。再び鼻を摘み、右の頬を軽く叩くとルーイットは漸くバシラアサドの腕を離した。細腕は鬱血していたが、爪は出さなかったようで傷がないのが幸いであった。もし傷を負わせたともなれば、彼は厭に余所余所しくなる事だろう。身内との仲間意識は強く、自分の過失で仲間が負傷したりすると気に病む事が多い。そういった面ではデリケートなきらいがある。仲間を誤射した時には三日ばかり落ち込んでいたのも記憶に新しい。
「やってくれたな」
我が身に降りかかった災難は、己で招いた災難でもある。ルーイットを怒るべく、叩き起こす訳にもいかず腕を摩りながら、机の後ろの書棚を眺めた。廓の七十六階から回収された文書、それをある学者が翻訳した物が並んでいる。"錬金術の真髄"、"パラケルススの遺産"、"五大元素論"、"開かれた真理"等、目を引くタイトルばかりであったが、その中で最も薄く、背表紙すらない文書を手に取った。"七十六階文書"と仮題されたそれはルーイットが"ベルゲンの書斎"と呼ばれる区画から回収してきた代物だ。翻訳にはソーニア・メイ・リエリスという学者を用い、ある程度は翻訳が進んでいる。内容は既に失われた人造人間の精製法と思われるが、アゥルトゥラの古語と比喩を用いた文章を書き、この世界には存在しない植物、金属などを図として記述している故に解読は図らず、バシラアサドは頭を抱えていた。カルウェノに頼むともなれば、所有権を争う事になろう。それは忌むべき事であり、まかり間違っても廓の管理者を自称するハイドナーの者達には見せられない。
一字、一語、一文と解読を進めては居るものの、賢者の石を要する程度しかやはり読み取れず、賢者の石という文言の前にも意味不明な枕詞があり、尚更バシラアサドは頭を悩ませる。賢者の石を何らかの技法を以ってして、精製しなおすのか、それとも通常の賢者の石とは違う何かがあるのだろうか。全てが謎であり、レヴェリの古語を学んだ時のように全てが手探りであった。やはりソーニア・メイ・リエリスに解読を委託するしかないのだろう。尤も彼女一人を雇うのは安い話である。困窮した生活を送らないように経済的に支援するだけで、幾らでも翻訳してくれるのだ。他力本願は見っとも無いが、仕方ない話である。ソーニア宛の書面を綴り、あと吐く間もなく文章が出来上がっていく。
一頻り書き終え、筆を立てるとバシラアサドはゆっくりと背伸びをした。冷えた身体は温まりつつあり、僅かな睡魔が忍び寄ってきている。大きく欠伸をして、ランプの燃料バルブを少しずつ閉じ火を小さくしていた。ランプの中で揺らめくそれは儚く、拭けば一瞬で消えてしまいそうだった。
髪留めを外し、腰の直前まで伸ばされた長い髪を下ろす。金細工に青い宝石がはめられたそれは母の形見であるが、宝石の名は分からない。先程、レーヴァに送られた髪飾りと対を成すようなそれにルーイットの意図を感じ、やはり小洒落ていると感心を覚えた。彼は自分とレーヴァが親子だと認めてくれているようだ。有り難い話だと思いながら、寝室の扉を開けばベッドサイドにレーヴァが佇み、窓の外を眺めていた。まだ起きているのか、と頭ごなしに鹿用な事はせず、彼女の隣に腰を下ろすと肩を抱き寄せ、静かに問う。
「何かあった?」
「……カンクェノが光ってる、ほら入り口のところ」
レーヴァの言う通り、遠く廓が僅かに輝いて見えた。地上に残る廃墟となった遺跡に、何の変化も見られないが地下への入り口は青白い光りを発していて、カンクェノに住まうようになってからの九年間、このような事は初めてであった。
「綺麗」
バシラアサドの感想は稚拙でまるで幼子のよう。相反し、レーヴァは難しい顔をしながら彼女の肩に頬を摺り寄せて、不安を吐露する。
「なんか嫌な感じ、下で何かが動いているような……」
声色は僅かに震え、恐れ戦いているようだった。まるで奴隷として売られていた頃のよう。彼女の様子にバシラアサドは不安を抱き、カーテンを締める。これ以上、廓を見せ、不安を覚えさせないためにだ。
子供には大人の理解が及ばない、超自然的な感覚があるという。これもそういった感覚に基づく一過性の物なのだろう。他の子にもこんな事があるはずだ。子の親をする知り合い、友は持たぬが故に分からないのだ。
「寝よう」
再びベッドに腰を下ろすと、レーヴァをそのまま引き倒すようにして抱きしめた。今見た事は忘れろ、と小さく彼女の耳元で囁き、背を撫でる。そう願うバシラアサドも彼女の様子に落ち着けずにいたが、自身の不安は押し殺し彼女の気分が晴れるよう、そう願い続けるのだった。
暫く経ち、レーヴァは眠りに堕ちたようで寝息を立てている。彼女を撫で付け、その柔らかい髪に名残惜しそうに指を這わせるとバシラアサドはゆっくりと身を起こし、カーテンの隙間から顔を覗かせた。廓は光りを放たず、街には酒に溺れた愚か者と、先のない娼婦の姿や浮浪者などがポツポツと見えるだけだった。
「────アサド」
不意に背後からの声に身が跳ね、ルーイットは心外だと言わんばかりの表情を浮かべて、バシラアサドを見据えていた。彼の黄金色の瞳は鬱血している腕に向けられており、視線に気付いたのか捲れた寝巻きの袖を慌てて下ろした。
「悪かった、帰る」
彼は言葉短く、それ以上何も語らずに踵を返した。寝てしまった事に対して謝ったのか、腕を鬱血させてしまった事に対して誤ったのかは分からない。彼もまた兵であり、武辺者。言葉足らずな所がある。彼が出て行き、それ程、間を置かずに鍵を閉めてバシラアサドはベッドに戻る。レーヴァは眠ったままで、穏やかな寝顔が見える。ルーイットには悪い事をしてしまったと思いながら瞳を閉じると、睡魔はすぐに襲い掛かってくる。抗う事なく、身を任せていると意識は暗く、闇へと堕ちておくのであった。
- Re: それでも獅子は吼える ( No.3 )
- 日時: 2018/03/26 02:12
- 名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
- 参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe
目が覚めるも傍らに愛娘の姿はなく、彼女が本の頁を捲る微かな音が聞こえている。朝から勤勉な事だと、横たわりながらバシラアサドは薄っすらと笑みを湛えた。彼女が知識、知恵を得て行く姿は尊ざる得ないものだ。これが親心というものなのかと理解は出来なかったが、彼女が何かの教えを請うのであればその手助けをするべきだろう、と静かに歩み寄る。
「おはよう」
「やっと起きた? おはよ」
彼女の嗜めるような視線はバシラアサドには向いておらず、壁に立て掛けられた時計に向いている。間もなく正午を迎えようとしていて、完全に寝過ごしてしまったと気恥ずかしさを覚えた。開け放たれた南側の窓からの日差しに目を細めながら、レーヴァの隣に腰掛ける。彼女の手元にある書物、その頁は丁度、セノール八氏族のうちサチの氏族を紹介していた。勿論、バシラアサドがそのサチの氏族の者である事はレーヴァも知っている。サチの主力を担うジャッバール。先鋒、斥候を担い道を切り開くガリプ。敵陣深くへと侵入し、中枢へと打撃を与えるハサン。騎兵に依る突撃、兵站輸送を担うラシード。そして、後方支援、砲撃などの専門的兵科を担うナッサルである。所謂"武門"と呼ばれる存在である。
「……どこか気になる所はある?」
「ううん、特にないよ」
武門の実態など、この本の中には取り上げられていないだろう。生存圏を広げるための尖兵。民も兵も関係なく、ただただ殺め、焼き払う。そんな暴力の化身のような者達の末裔である。捕虜は取らず、首を刎ねては屍を弔わずただただ侵略を続ける。そんな事実をレーヴァに見られるのは余り良い事ではない。恐らく、彼女が何れそれを知る事も来るのだろうが、まだ知るには早い。
「母さん、眠い?」
「少しね」
「……早く寝ないから」
その通りだと、ぐうの音も出ず返す言葉もない。苦笑いを浮かべつつ、彼女の白金の髪を撫で付けた。最近のレーヴァはこうやってバシラアサドよりも優位に立ちたがる。これは自立に繋がる心理的な要素である。尤も今こうして髪に触れられ、撫で付けられているのを嫌がる訳でない彼女に自立はまだまだ来ない事だろう。
「腕……どうしたの?」
「さぁね、何だろう」
とてもではないが真実を彼女に伝える気にはならなかった。自分の悪行が原因で、ルーイットに握られ鬱血したなどと自分の恥を曝し、彼にも申し訳ない。寝間着を脱ぎながら、背伸びをしては着替えを済ます。
「ちょっと下行くよ、ハヤのところ。支度してきなさい」
何時もの椅子へと腰を下ろした。慌しげに身支度へ奔走する彼女の様子を一瞥し、机の上に置かれた一枚の書類へと目を通す。未知のレゥノーラについての報告書だ。人語を介すような仕草を見せ、集団を率いる。更にはそれは武装しているという。予てより存在が報告されていた人間より変質したレゥノーラだろうか。元々ランツェールと呼ばれる個体が存在こそしていたが、それと同一の個体とも予測される。どうあったとしても学者や傭兵、引いてはジャッバールの脅威となる事も予測される。彼等の身の安全を確保するには更なる技術の発展、研鑽。そしてその結果を配備する必要がある。そうすれば彼等の命を守ると同時に、自らの願望を叶えるのも容易い事だろう。
「終わったよ!」
「レーヴァ、これを」
身支度を整え終えた彼女を呼び寄せると、怪訝な顔をしながら近づいて来る。昨晩、ルーイットが廓から持ち帰って来たそれを彼女の髪へと付け、机の上に置かれた小さなが鏡を彼女へと向けた。彼女は興奮気味に喜んでいるようであり、色々と質問が飛んで来る。それに答えながらバシラアサドは目を離せなくなっているのであった。真っ赤な賢者の石が陽に曝され、輝いている。それは妖しくあり、年端も行かない少女には相応しくないように感じられるのだ。ふと、思い出したように母の髪飾りを陽に曝すも、それは輝く事もなく、くすみ暗い青のままである。どこまでも対照的だと、自嘲せざる得なかった。
「さて、行こうか。今日は遅くなるかも知れないけどいい?」
「いいよ、あそこ好きだし」
煤に塗れ、火薬の匂いが漂うあの場所を好きだとレーヴァは語る。確かにあそこに雇われた鍛冶工や、設計技師らからはまるで現人神のように、持て囃されて扱われている。自分を邪険にしない人々を嫌う理由はない。だからこその好意である。
「何時も通り奥には来ないように」
「分かってるけど、何でなの?」
「……んー、汚れるから」
「別に良いよ」
「洗濯するのは私だぞ?」
工房にレーヴァを連れて行く事はあるが、その奥へは立ち入らせたくない。何故ならば人を殺める道具を作っているからだ。あの手合いの代物は人の匂いに感付くなり、触れる気など無くとも何時の間にか傍らへと擦り寄り、その身を握らせるべく危機を呼び込む。そして、何よりあの場所は自身の武器商人としての側面を出さざる得なくなってしまうのだ。開発への口出し、小銃の実射。商人ではあるが、その顔立ち、顔付きは人を殺めようとしている兵のそれと何ら遜色はない。愛娘にはまだそんな顔を見せたくはないのだ。
「行こうか」
ドアの向こうにはセノールの商人や、私兵たちが得物を携えて闊歩している。通路の奥ではルーイットが大量の小銃を担ぎ、カンクェノへ向かう支度をしていた。バシラアサドと目が合うなり、少しだけ都合悪そうに視線を外した。
「おはよう」
「もう昼だ、昼。何時まで寝てんだよ」
声を掛けられ、立ち去る訳には行かず彼は歩み寄ってくる。何時まで寝ているのか、と苦言を呈した彼であったがバシラアサドを全く見ておらず、僅かに曝された腕の鬱血した箇所を見ている。
「少し寝過ごしてしまってな、起こしてくれても良かったのに」
「一回起こしに来たんだぞ、だってのにお前は俺に蹴りを呉れやがった、そりゃほっとくだろ……」
「それは悪い事をしたな」
軽口を叩き、ルーイットの鳩尾を鬱血した腕の方の拳で叩いた。彼は少しだけ戸惑った様子で「はぁ?」とらしくもない声をあげていた。
「もう良いか? 馬車待たせてるんだよ」
「父さん、カンクェノ行くんだよね、気を付けてね」
「……あぁ」
短く返事をしてルーイットは立ち去っていく。彼等がしている事は廓での学者の護衛、そして開発した装備の実地試験であった。北方の大国、ヴィムートから得た銃器の技術を独自発展させ、近隣諸国と比べ物にならない圧倒的な平気を開発していく。それをセノールが装備する事で、他国よりも優位に立つ。そうある事で西伐後に齎された飢え、乾きとの縁を断ち切る。表向きはそうであるのだが、最終的な目標は違う。
「母さん?」
「あぁ、ごめん。行こうか」
ルーイットの後を追うように階下へ降りていく。荷を持ちすぎたかれたが門扉の前で右往左往していた。鍵束から当てはまる鍵を探し出せないようだった。呆れた笑みを浮かべながら、彼の知りを軽く叩いては鍵束を奪い、鍵を開いた。扉を軽く蹴ると、軋み、唸りながら扉は開かれた。間抜けな武人を一瞥すると彼は苦笑いを浮かべながら、外へと出て行った。
茹だるような暑さ、一部を除いた工房の職人達はぐったりとしていた。その多くはバシラアサドが解放し、手元に置いた元奴隷達である。相反し、きびきびと仕事をこなしているのはセノールの者達であり、彼等の表情にも疲労の色が見て取れる。彼等はこの程度なら問題ないと健在を主張するのだが、疲労は能率を悪くするだけである。元奴隷達はバシラアサドを見て、振る舞いを正そうとしていたがそれを制し、休んでくれと指示を出す。
「ハヤ」
「こんにちは、ハヤさん」
ハヤと呼ばれたセノールの女の表情にも疲労の色が見える。何故か彼女の表情は恨めしそうであった。図面と向き合い、算盤を叩いていた彼女は立ち上がり、バシラアサドの眼前へと迫る。
「……アサド、計算終わらないよ。手伝って欲しいんだけど」
「お前の畑に私を引き込むな」
「ほんと冷たいなぁ……もう」
ハヤ、セノールの古語で「上品」を意味する名である。名前負けしてしまったのか、そんな品性はなく感じられた。家門を識別するため、首の右側面に彫られた三つの涙滴状のタトゥーが目を引く。爪紅と魔除けの意味で目尻へと施された赤い化粧も相まって、派手な印象を宿す。余り化粧気のないバシラアサドとは従姉妹だと言っても信じられないだろう。更には彼女の方がバシラアサドより、一つ年上なのだがそれらしい所はなく、寧ろバシラアサドの方が年上に見られる。
「取り合えず、例の動作確認させてくれない?」
まともにハヤに取り合わず、バシラアサドは用件を伝える。彼女もまたそれに取り合わず、横目でレーヴァを見るなり、彼女の前にしゃがみ込んではその手を握る。
「相変わらず可愛いなぁ。アサドの子供の頃とは大違い、何度アサド達に泣かされたか……」
「母さんに泣かされたの?」
「……ハヤ、ある事ない事吹聴するならただでは済まさないぞ」
「あぁ、そうだった。あんま怒らせちゃあいけない。泣かされ──やめて!」
バシラアサドに脇腹を小突かれ、ハヤはくすぐったそうに身を捩り、妙な動きをしていた。やはり名前負けしてしまっているようだ。
「レーヴァ、少し空けるから。此処から先には来ないように」
「うん、分かった」
レーヴァを置いて二人は部屋を後にする。ハヤがそんなレーヴァを見て「聞き分けの良い子、誰かとは大違い」などと余計な一言を言い放つため、バシラアサドは彼女の右耳を引っ張る。扉の向こうからはハヤの抗議の声が聞こえ、レーヴァは何事だろうかと小首を傾げながら、机の上に広げられた小銃の図面を見つめるのだった。
- Re: それでも獅子は吼える ( No.4 )
- 日時: 2018/03/26 11:32
- 名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: mJV9X4jr)
- 参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe
ハヤの着ている上着の胸ポケットには、不自然な膨らみがあった。そこには耳栓一式と試製された銃弾が五発込められていた。胸ポケットに無理やりバシラアサドは手を突っ込み、それを取り出して眺める。弾頭に窪みや切り込みが入った物もあった。この窪みや切り込みが入った銃弾は、鎧などを貫く目的ではなく、生身の人間に当て、身体を効率よく破壊する事を目的としており、標的の奥深くまで入り込み、人体組織を引き裂いてしまう。これはまだ構想段階にある銃弾であり、バシラアサドが試し撃ちしたい代物ではなかった。彼女のお目当ては弾頭が完全に金属で皮膜されたそれだった。
「そう、それ。小銃と例の機関銃共用なんだ」
「……それでどんな感じだ?」
バシラアサドの言葉遣いは良識的な母親、和やかな女性ではなく、一武門を率いる当主のそれと変わっていた。声のトーンもいつもよりやや低く、それにハヤは哀れみにも似た感情を抱く。彼女が普通に育てられたならば──セノールではなくアゥルトゥラや、カルウェノだったならば、狡猾と残忍の間の子が服を着て歩いているような存在にならなかったのでは、と常々思い抱くのだ。
「薄い鉄板くらいなら抜くよ、人間の身体は……そうだなぁ、完全に抜けないね」
「そうか」
定盤に置かれた小銃を手に取り、 槓桿を引いた。そして、薬室を見据える。彼女は射撃前に必ず、この動作を行う。一種の慣習のようなそれは、砂漠で使う場合に必ず行うようにと、教育され身についた代物だ。それは砂漠の砂の心配がない、アゥルトゥラ領内でも行っていた。曰く、これをすると平静を保てるからとの事だった。やや上体を反らし、左手の甲を銃身の下に置き、右頬を銃底へと押し付ける。そして軸足となる右足を真っすぐに伸ばし、照星と照門を覗いた。
「様になるじゃん」
バシラアサドは最近、剣は愚か、銃すら握っていない。それでもそういった代物を持てば様になる。鋭い視線、この表情に敵意と殺意が篭れば思わず吐き気を催してしまいそうな程に、精神は緊張し、体は硬直する事だろう。まるで獅子と対峙したかのように。
「……だろう?」
右足を軸に体を回転させ、そのまま銃口をハヤに向けた。じゃれ付くような意地悪そうな笑みを湛えている。それに呼応するようにハヤは掌を銃口へ押し当て、冷ややかな笑みを浮かべている。尤もその笑みはバシラアサドが薬室に弾を込め、 槓桿を押し込んだ段階で引きつった物へと変わったのだが。
「冗談は止しなよ」
僅か震える抗議の声はバシラアサドの耳に届いていないのか、彼女の指は引き金に掛けられ、笑みが徐々に獲物を前に、嬉々とした猛獣のそれに変わっていく。
恐れ戦いたハヤの顔色が青褪め始めると、自分はそんなに信用ないのだろうかとバシラアサドは相変わらず銃口を向けたまま、ハヤを追い込む。遂に彼女は壁伝いに腰を抜かし、おかしな体勢で目を瞑っているのだった。
「……遊びすぎたな」
再度、 槓桿を引いて排莢し、バシラアサドは無理やりにハヤの右腕を掴み、どうにか立たせるのだった。椅子に手を付きながら彼女は悪態を吐く。
「冗談じゃないよ、ホント……」
「撃つ訳ないだろう。余り身内殺しをしたくはないんだ」
「一人でも殺したら同じでしょ」
「まぁな。毒か銃かの違いだけだ」
そう軽口を叩き合い、バシラアサドは先ほどと同様の構えを取った。彼女の構えは競技射撃の物に近い。一発、一発銃弾を放つ毎に銃口は跳ね上がるが疲れにくく長時間の構えに適し、長時間の戦闘、立射に適している。砂漠では伏射や膝射で、砂丘や礫の向こう側から射撃を加え、敵からの射線を減らす事を求められた。バシラアサドも同様の教育を受けてきたはずだというのに、それでも立射をする。アゥルトゥラで覚えたのだろう。そして、恐らくはその術を何度か振るったに違いない。彼女の構えは厭に自然で、何処か血の匂いがしている。
「標的まで九丈。当てられる?」
「……勿論」
再び薬室に弾を込め、 槓桿を押し込めた。バシラアサドの視線の先に置かれているのは、鎧を着せられた人型の標的であった。頭と心臓に赤で目印が描かれている。目印に命中したならば、ハヤが語る理想、一射一殺を成せるだろう。
「耳栓入れるよ」
「あぁ……」
銃を構えたバシラアサドはいつもより言葉数が少なくなり、必要最低限の受け答えも短くなる。極限まで集中すしている為である。曰く、一発撃つたびに人間は銃声で精神を乱す、自分の銃声も、敵の銃声も等しくして同じ。ならば磨り減る集中の嵩を増やすだけとの事である。
耳栓を取り付けながらハヤは自分にも耳栓を付け、バシラアサドの傍らの机の上に、銃弾を十発ほど置いた。そして、首から吊り下がる眼鏡を掛けた。その刹那、銃身はわずかに跳ね上がり、火を吹き出す。銃弾は直線を描きながら、空気を切り裂き、人型の頭を穿つ。あれが生身ならば骨の欠片と脳髄を撒き散らしながら、暫く地面をのたうつ事だろう。そうして赤黒く、汚れた染みを作りながら、命を溶かしていくのだ。一つ深呼吸をし、一発。また深呼吸して一発。そうして銃が全て無くなったた時、ようやくバシラアサドは銃を下ろした。耳栓を外し、それを投げ捨てる。辺りには硝煙の焼け焦げたような鼻につく匂いが漂う。
「扱いやすいな。ただ、もう少しだけ、装薬量を増やしてくれ。人を殺めるには良いが、レゥノーラには足りないかも知れん」
「うーん、 施条の減耗が早くなるんだよね。小銃は大した問題じゃないんだけど、機関銃がね」
「銃身強度に不安が残る物を作るな。第一、砂漠で使えるのか?」
「あー……いやぁ、うん」
駄目出しに言葉を濁すハヤだったが、今の言葉で改善策を考える事だろう。機関銃の薬室に砂を入れないためには、仮に砂が入っても動作するためには何をすべきか、とハヤは頭を回し、俯いてしまう。昔からハヤは思考の回転と共に身体が停止する悪癖があった。一つの事を集中してやるという事が難しいのだろうか。尤もその頭で良い物を導き出してくれるため、信頼に置ける。
「ハヤ」
「……ごめん、ごめん。砂塵対策は部品に遊びを持たせれば良いとして、強度をどうやって保とうかなんてさー」
「ゆっくり考えろ、暫く時間が掛かっても構わん」
ハヤに小銃を手渡し、バシラアサドは人型の標的を見据えた。あれが人ならば、既に死に絶えている事だろう。この小銃を五十年前に使えていたならば、西伐で負ける事はなかっただろい。砂漠を赤く染め、血肉で肥沃な土地となるまでアゥルトゥラを殺められた事だろう。そこにガリプの勇猛な兵士が突撃していくのだ、勝てないはずがない。先日見た老人はバシラアサドをセノールだと見るなり、顔をしかめた。老人には右足と右手がなく、それはガリプの「纏わりつく斬撃」を浴びた証だ。それが故にセノールを恨み、セノールを忌避する。もし、五十年前セノールが勝っていたのならば、老人の視線は恐怖に染まった物だっただろう。
「アサド?」
「……大した事ではないさ。余りレーヴァを待たせるのも忍びない。帰ろうか」
「はいはい。取り合えず改善提案早い内に上げるから。盲印で簡単に承諾して頂戴」
バシラアサドは小さく頷き、踵を返す。どことなく足取りは軽く、強張っていた表情は穏やかに見える。彼女の後姿は戦場に向かっていくガリプの者によく似ていた。民族を守り、導くための闘争に生き、血を流し合いながら死へ駆け寄っていく。今何をしているか分からない弟分達によく似た姿。彪は元気にしているだろうか、などと考えながらハヤはバシラアサドの背を追うのだった。