複雑・ファジー小説
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- アンソニー (完結)
- 日時: 2017/02/10 22:23
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
永遠って、なんでしょう?
- Re: アンソニー ( No.17 )
- 日時: 2017/01/30 19:55
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
アノンは相変わらず自然な態度で授業に来ていた。
僕も努めて自然体でいようとするが、ふとしたときの彼女の横顔や、髪を耳にかける仕草に、いちいち目を奪われてしまう。アノンは僕の視線に気づいていないようで、たまに目が合うと「臣さん、起きてる?」と冗談めかして言うのだった。
正直、訳がわからなかった。
これほど意識しているのは僕だけだろうか。あの日、僕の部屋で、挑発的に煽ってきたのは、本当に目の前の中学生なのだろうか。大人をからかう子どもではなく、完全に男を誘惑する女の目をしていたはずなのに。
「私のこと好きなくせに」とアノンは言っていた。今まで裂けていた僕の内側を、ずりずりっと引きずり出し、勝ち誇ったようなあの表情。
──好きじゃねぇよ。
僕ははっきりと言ってやりたかった。アノンを犯しながら大人の怖さと、男の恐ろしさを植え付けながら、「おまえみたいなガキ、好きじゃねぇよ」って言ってやればよかった。そこまで考えて、やっと気づく。子ども相手になにをムキになっているんだろう、僕は。
「アホくさ」
塾のバイトがある木曜日の昼。
大学の食堂で大きくため息をついていると、和也が大げさに僕の顔を覗き込んでくる。
「なんか最近、疲れてねぇ?」
「あー……まあ、寝不足かな」
「レポート大変なん?」
「いや、それはいけてる」
日替わり定食はからあげだった。大きくて揚げたてのからあげを、和也が頬張る。僕もうどんをすすった。湯気が眼鏡を曇らせる。気分でたまに眼鏡をかけるけど、べつに視力が悪いわけではない。
「じゃあ、あの中学生絡みか」
「──声、でけぇよ」
「ああーやっぱりな。なんかあったんだろう。告白されたとか?」
「そんなんじゃない」
どちらかというと、アノンが僕の気持ちを引きずり出そうとしているのだ。変な方向に歪曲させて。
「なぁ、和也。僕の今までの話を聞いててさ、僕がその中学生を好きなんじゃないかって思ったか?」
「おまえが?」
和也が箸を止める。真剣に考えているとき、和也はすべての動作を一度停止させるのだ。
「うーん。いや、恋愛とかじゃなくて、性的な感じで見てるんじゃないかって思った」
「そうか……」
「まさか中学生を好きになったとか言うなよ」
「そんなこと言わないし、思ってもない……はず」
「おいおい。はずってなんだよ」
「言われたんだよ。私のこと好きなくせにって」
今度は激しくむせ始めた。忙しいやつだ。
数回胸を叩き、コップの水を飲んだあと、和也はせき込みながら僕の肩を叩いた。
「うっそ、やばい中学生だな!」
「それを言われて、腹が立ってさ。中学生になに言われてんだ僕はって」
「キレたわけ?」
「いや……怒れなかった。怒るっていうよりも」
あのとき力が出なかった。
アノンから言われたような「つまらない男」であるのかと思うと、自分のすべてを否定されたような気がして、辛かった。子どもの言うことだ、気にするな、と思われるかもしれないが、僕はあの言葉に傷ついていた。そして──たまらなく興奮した。
それを和也に言うと、さすがの和也も僕を「変態」と罵りそうなのでやめておいた。
「失望かな」
「──前から思っていたんだけどさ。友則は真っ当な人生を歩みすぎなんじゃない?」
「どういうこと」
「真面目ってことだよ。真面目で、平凡で、普通」
「それは、つまらないか?」
「つまらなくてもいいと思うけどな。ただ、そんなつまらない人間でも、実際はすごく面白いやつだったり、ヤバいやつだったりすることもあるんじゃねぇの。そいつが、自分の本質に気づいていないだけでさ」
自分の本質、という言葉に引っかかった。
もしかしてアノンが気づいているのは、僕の本質なのかもしれない。僕がアノンを好きとかそういうのではなく、もっと奥の、僕自身も未だに気づいていない部分。
平凡な人生だった。サラリーマンの父と専業主婦の母。特にグレていたわけでもなく、反抗期がなかったわけでもない。頭は良いほうだったけど、スポーツはそれほど好きではなかった。そんな子どもだった。恋愛も、奥手ではなかったけど、女性との距離感や気持ちがわからず、長続きしたことがない。でも浮気も、先輩に誘われた合コンにも出向くことはなかった。
つまらない、とアノンは言った。
あれは僕自身がつまらないと言ったのではなく、僕が本質をなかなか彼女にぶつけないことに苛立ったのではないか。
アノンは試していた。
僕がどんな獣になるのかを、試していた。誰よりも早く、見抜いていたのだ。
「気づいていなかったのか」
「え?なにが」
「僕は、中学生に蔑まれて勃起するようなやつなんだ」
そう言うと、和也が目を丸くさせた。自分の聞いた言葉が信じられない、といった顔だった。
知らないだろうな、だれも。
僕は変態だったのだ。
- Re: アンソニー ( No.18 )
- 日時: 2017/02/01 21:10
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
スーツを着て、テキストをめくりながら、間違い部分を丁寧に説明する。僕が話すことに素直に頷き、アノンは赤ペンを走らせた。きれいな字だけど、まっすぐに書けないらしく、ポロポロとこぼれるように枠線からはみ出していく。途中、それに気づくと、アノンはハッとした様子で、消しゴムで消したあと、もう一度、今度ははみ出さないように書く。
もうそろそろ期末テストがある。
それが終わると夏休みがやってきて、塾も夏期講習に入る。
僕は夏が嫌いだ。セミが鳴いてうるさいし、外に出るたび暑気で胸が苦しくなる。海やキャンプで騒ぎ、女と遊びまくり、挙句の果てに妊娠させただの警察に捕まっただの、色々な意味で経験値を上げてくるやつは毎年いる。僕はそんなやつを心の底からバカにしていた。自分の人生に汚点を残すようなことをして、それを自慢気に語るやつの心境がわからなかった。
アノンは今までどんな夏を過ごしてきたのだろう。
初めて煙草を吸ったのは、何歳のときなのか。ピアスを開けたのは?キスはもうしている?セックスは何歳で経験したの──。
「臣さん」
気づくと、アノンの顔がすぐ目の前にあった。
どうやら僕は考え込んでいて、フリーズしていたらしい。
焦点が合い、動揺していると、アノンは勝ち誇ったようなあの笑みを浮かべた。
「私のこと、見すぎだよ」
誰にも聞こえないような小声でささやく。
誘惑、しているのか。
「今日の夜、うちに来ないか」
僕も静かに誘った。アノンの目が大きく見開かれる。だけど、すぐに細めて、柔らかい表情で僕と視線を絡ませた。
「つまらないって言ったの、撤回するね」
「本当に?」
「お母さんには、先輩のうちに泊まりに行くって言うから」
目眩がした。
先輩というのはコンビニで一緒にいた高校生なのか。泊まりに行くことを親が許すぐらいなのだから、やっぱり付き合っているのか。子ども同士でなにやっているんだ、と耳の奥が熱くなったけど、そんなことを言うものなら、アノンはまた冷たい目で僕を見て「つまらないね」と吐き捨てるのだろう。
僕の家を覚えていたアノンは、先にアパートの前にいた。「あっちぃ」と呟きながら、うちわで自身を仰いでいる。近づいた僕に気づくと「臣さん、遅い」と言って笑った。二人で部屋に入り、僕はスーツを脱いでティーシャツに着替えた。
アノンは慣れた様子で冷房をつけ、冷気が届くところにペタリと座る。塾用のトートバッグを隅に置き、「そういえば、直接来ちゃったから、着替え持ってきてないな」と言った。
「僕のシャツを着ればいい」
「大きすぎでしょう」
「裸で寝るよりはいいだろう」
「裸でやるのに?」
喉の奥がヒクッと鳴る。唾を飲むと、ごきゅんっと音がした。
アノンは平然としている。そのためにここに呼んだのでしょうと、目で僕に問いかける。
「本当に13歳?」
当たり前だけど訊いてしまう。どうしてもここにいるのが、去年までランドセルを背負って小学校に行っていた子どもに見えないのだ。
「見えないねってよく言われるよ」
「いつから煙草とか吸ってるの」
「小5の秋。興味があったから」
「興味?」
小学5年生が煙草に興味を持つなんてことがあるのか。僕はクラスで誰が可愛いとか、ドッジボールで最後まで逃げ切るにはどうすればいいとか、給食の献立はなにかとか、そういうものにしか興味が持てなかった。
「好奇心が強いの。これをしたらどうなるんだろうとか、ここまでやったらまずいのかなとか……。煙草もピアスもお酒も、ぜんぶやってみようと思ったから。だけど、べつに自分から手を伸ばさなくても、そういうものは向こうからやってきたの。きっと、私がそういう人生を望んでいるんだと思う。無意識に、引き寄せちゃうの」
「──後悔したことはないの」
「ないわね」
からっとした口調でアノンが即答した。
「痛い目にもあったし、死ぬんじゃないかってこともあったけど、後悔はしたことがない。だって、それらをやっているとき、楽しいんだもん。ああ、生きてるって、感じちゃうの。べつに悪ぶっているわけではないのよ。不良になりたいとか、そういうのじゃなくて…………きっと、そういう世界で生きていきたいのよ」
子どもらしい世界ではなく、誘惑と地獄が重なっているような世界を好んでいる。
僕とは真逆の人種。
そこに踏み込もうとしている僕は、きっと、この子の世界にのめり込んでいるだけだ。引き返せるなら、引き返したほうがいい。どれだけ「つまらない」「臆病者」と言われても、逃げればいい。
だけど、アノンからそう思われたくない。
変な意地でもあるけど。
それだけじゃなくて──。
「塾の先生と寝るなんて、なかなか刺激的でしょう」
「──そういうのが、好きなのか」
「違うわよ。臣さんが、好きなのよ」
嘘つけ、と嬲りたかった。
そうしなかったのは、言った直後のアノンの瞳が無邪気な子どものそれだったのと、好きだと言われて不覚にもドキドキしてしまった自分がいたからだった。
- Re: アンソニー ( No.19 )
- 日時: 2017/02/02 23:18
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
アノンと初めて体を重ねた日から一か月が経っていた。
一学期の成績は142人中36位だったと、成績表をご機嫌で見せてくるアノン。私生活は派手だけど学校は真面目に行っていると言う。そもそもヤンキーになりたいわけではなく、「興味がある」という理由で手を染めているため、本人は至って真面目な中学生のつもりだ。それを成績で証明できたと、満足そうだった。
すでに夏休みに入っているため、大学の授業もない。中学校も一足早く一学期が終わっている。
アノンは夏期講習のない平日の昼間に、僕の部屋に来るようになった。それもあって、僕は夏休みの予定をまったくたてていない。好きなときにアノンが来られるようにしていた。
最初は僕の家にアノンが入る瞬間を、知り合いに見られていないかひどく気にした。だけどそんな偶然は起こる確率は低い。根拠もない自信が、アノンに会える喜びを上回っていた。
アノンは僕の家で宿題をする。そこらへん、きちんとしているのだ。根は真面目だと彼女は主張する。ただ、危ういものに手を伸ばしたくなる性分なのだと。
なんとなくそれがわかる気がした。
僕はどちらかというと、危険なものを避けていた。だけど、それは自身を抑えていただけで、実際はそういう世界を好む傾向にあったのかもしれない。人生のどん底、絶望というものを味わってみたい。
じゃなきゃ、中学生の女の子とセックスなんてしない!
「スリルがあるでしょう」
あるとき、アノンがこう言った。
八月の上旬。僕の家で昼間からセックスをして、風呂場でシャワーを浴びたあとだった。僕のシャツを当たり前のように着ているアノンは、ベッドの上で濡れた髪を鬱陶しそうにひとつに結んでいる。シャツは大きくて、アノンの太ももまでの丈になっていた。
「私とセックスしているのって、すごく刺激的でしょう」
「まぁ、年齢も年齢だしね」
「犯罪なのよ、これ」
「うん。わかっているよ」
「でも、楽しいでしょう」
頷いた。
楽しいというより、興奮する。中学生だけど、アノンの体はもう「女」だった。僕が触れると甘く声があがり、濡れた目で「もっと」とねだってくる。そのくせ、行為自体が終わるといつものサッパリした彼女に戻るのだ。
「私も塾の先生とヤッてるっていうのに興奮しているの。それだけよ」
もし僕との時間をつまらないと感じたら、彼女はこの部屋に来なくなるのだろうか。
そう考えると胸が痛んだ。
アノンにとっては退屈しのぎでしかないのかもしれないけど、僕はなんだか、とってもアノンを好きになってしまっているのだ。アノンがもっと大人になるまで待って、この気持ちを伝えようかと思ったけど、それでは遅い気がした。でも、いま伝えてもアノンは表情ひとつ変わらず「知ってるって」と、それだけ言うだろう。
「アノンは誰かを好きにならないのか」
そんなに難しいことを訊いたつもりはないけど、アノンはしばらく黙っていた。指で下唇をなぞっている。考え事をしているときの彼女の癖だ。
「好きだなんて、思ったこともない」
考えたわりに、答えは素っ気ないものだった。
「もし、私にその感情を教えてくれる人がいるなら、その人のために死んだっていいわ」
でもそれは無理ね、とアノンは付け足す。
どうして、と聞き返すとアノンは猫のような丸い目で僕を見た。
「人間の心ほど優柔不断なものってないし、恋愛ほど移り変わりあるものは、そうそうないから。……私の持論だけどね」
アノンの実年齢を疑ってしまうのは、この子の持つ考え方が独特だからだと思う。ドラマや漫画で仕入れた知識でも、大人がたらしこんだ入れ知恵でもなく、アノンという人間の視点がきちんとある。支柱がしっかりしていて、それに沿って生きている。だから、彼女はぶれない。
「否定してくれたっていいのよ。少なくとも臣さんは、私より長生きしているんだし。13歳のガキがなに言ってんだって、笑い飛ばしても怒らないから」
「アノンの生き方が好きだ」
「臣さんって私に洗脳されすぎ」
対して、ぶれすぎな僕の生き方をアノンは指摘する。
「アノンに魅力があるから」
「──あら、そう」
褒めたつもりだったけど、アノンは嬉しそうではなかった。ぎゃくに表情から一切の感情を消して、本当に人形のように固まってしまった。また変なことを言ったかと心配になる。アノンの表情が失せるのはこれまで何回かあった。考え事をしているときも黙るけど、そのときの彼女の様子は考えることを放棄しているようだった。でも言ったことは取り返せないから、なるべく気にしないようにする。
「ちょっと煙草吸ってくる」
ベランダに出る彼女を、ぼんやりと見つめた。
そういえば近所の人に見られるのが怖くて、ベランダに出ても屈んで吸うように頼んでいたけど、いまでは堂々と吸っているなと気づく。注意しようかと思ったけど、煙草を吸うアノンは僕を基準とした常識からあまりにも逸脱しすぎていて、現実味が湧かなかった。
お盆の前の夏期講習最終日。
夜の10時まで開いている自習室も、この日は生徒が早く帰り、9時には誰もいなくなった。
「臣くん、もうあがっていいよ」
塾室長から言われたので、タイムカードを押して、塾を出る。
夏期講習の日は、アノンも僕の家に寄ることを避けていた。関係を持ったとき、せめて塾の日だけは先生と生徒でいようとお互いに了承した。もっとも不自然な態度だったのは僕だけであったけど。
駐輪場に行き、自転車に乗って夏の道を走る。毎回思うけど車がほしい。スーツだから移動が自転車だと本当に暑くて大変なのだ。でも車を買ったところで維持費は大変だし、電車と自転車で事は足りるので、いまいち買う気にならない。物欲だけでおさまっている。
たまに肌にぶちあたる小さい虫の群れを手で払いのけながら、アパートにたどり着く。
自転車を停めて、外階段を登ろうとしたそのときだった。
「待ってたんだよなぁ」
声がした。
それが誰の声かわからないうちに、頭にがつんとした重みを感じる。
なんだ、これ。
後ろから殴られたとわかるまで、かなり時間がかかった。でも実際、そこまで時間はかかっていないと思う。ああ、殴られたのかと理解したけど、それがわかった途端に、どうして、なぜ、と疑問が次から次へと溢れ出て、情報処理に追いつかない。痛みのある頭部をおさえると、ぱっくり避けている感じがした。あと、手がヌルヌルする。
「あー、あー、もしもし。聞こえていますかねぇ」
「う……、うう……っ」
聞こえている、と答えたつもりだった。
でも声にならない。
ついでに呼吸も浅いことに気づいた。
「ごめんなぁ。俺、いま、キメちゃっててさぁ。まあ、こうなるってわかってはいたんだけどさぁ」
相手の声が雨みたいに降ってくる。汗が大量に噴き出した。股間が湿っている。この年になって尿を漏らしていた。死にたいと思った。
「おい、聞こえていましゅかねぇ」
次に、相手が何かを振り下ろして、僕の右腕が鈍い音をたてて、粉々に砕けた。砕けてはいないのかもしれないけど、絶対に自分の力では動かせないだろう。痛みって、こんなにぼやけた感覚だったっけ。痛いのか、苦しいのか、泣いているのか、焦っているのかわからない。
目の前で僕を見下ろしている少年は、アノンと一緒にいた男子高校生だった。
手に、木工用のハンマーが握られていた。
あれで殴られているのか。
これは……やばいな。
やっと、状況が、自分の置かれている状況が、わかった。わかったけど、もう、いろいろ手遅れかもしれないと諦めもついた。
「口開けろ」
「え」
「開けろって」
べつにそうする必要はないのに、言われた通りにする。痛みで頭がポンコツになっているせいかもしれない。そうでなくても、ぱっくりと開いた傷口から血がドクドク流れていて、使い物にならないのに。
口を開けると、少年はポケットから何かを取り出した。
小さくて四角いビニールの袋だった。
それを破いて、僕の口の中に、中身を入れる。サラサラとした、粉薬のようなものだった。
「うまいか?なぁ、うまいか?」
痛みのせいか、味がしない。
黙っていると、今度は腹を足蹴りされた。
階段に後頭部をぶつけて、ヒュッと息が止まった。
「あいつの中も、うまかったか?」
やっぱり、アノンの、
だめだ、頭が働かん。
だんだん、眠くもなってきたし、寒い。
夏なのに、おかしいな──
- Re: アンソニー ( No.20 )
- 日時: 2017/02/03 20:58
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
第四章 ふみとアノン
槙先輩と友達になってるって言うから、どうしたんかと思った。
関東からこっちに引っ越してきたっていうアノンは、けっこう美人さんで、きれいで、大人っぽい。実は私たちよりひとつ年上だったと知ったのは、高校1年の11月だった。同じクラスでも、私とアノンはよく一緒にいるけど、そういえば、アノンのことなにも知らないなと、このとき初めて感じた。
なんというか、あまり自分のことをひけらかさない子なのだ。
静かなわけでもない。よく笑うし、喋る。たまに子どもっぽいことも言うんやけど、雰囲気がどことなく同年代の子ではない気がする。大人っぽい、いろいろと経験してそうな子だ。
私は今まで付き合った男の人もいないし、女子同士のゴタゴタに巻き込まれたこともない、いわば普通の平凡な生活を送ってきた。過激な世界を好んでもないし、飛び込もうとも思わない。ゆったりとしているのが性に合っている。
そういう私にとって、アノンのような友達は、珍しかった。
アノンも私のなにを面白いと思っているのか、他にいっぱい派手な子がいるのに、ずっと私の傍にいた。理由を訊くと「落ち着くから」と答えた。それで十分だ。
だから槙先輩という、地元ではかなり有名な人と関わっていると聞いたとき、内心不安だった。
お弁当も、先輩と食べるって言うし。
私のこと嫌いになったんかなと思ったけど、どうやら違うらしい。
「アンソニーのことは、私もよくわからないの」
いっさい訛ってない美しい言葉で、アノンは槙先輩について語る。アノンはなぜか槙先輩を「アンソニー」と呼ぶ。呼ばせているのは槙先輩自身らしいけど、アノンも理由はわかっていない。
今日、私たちは二日ぶりに教室でお弁当を食べている。槙先輩は学校を欠席しているらしい。11月になって教室にも暖房がつけられ始めた。あったかいので、できればずっとここにいたい。
槙先輩の話は、聞いていて特に面白くはなかったけど、アノンと先輩の組み合わせが不思議で興味が合った。二人でなにを話しているのか、想像がつかない。
「でもお互いに惹かれるものがあったんでしょうね」
そういうことを恥ずかし気もなくさらりと言うところが、また格好良い。
話を聞きながら、「せやな」か「そうなんやな」としか言えない私は、だんだん自分の人間的な未熟さに羞恥心すら感じ始めた。
なんか、やばいんとちゃうんか、私。
惹かれあうとか、そういうのがわからない。
「風変りな人って聞いてたから、ちょっと心配やってん」
「大丈夫。確かに変わっているけど、ちゃんと自分自身を持っている人だから」
「なんか、すごいな」
「すごいの?」
「すごいわぁ」
なにがやねん。
自分でも思ったけど、口に出さずにおにぎりを頬張った。
「私、あんまりそういうのわからんから。アノンは私と同い年やのに、惹かれあうとか自分自身を持っとるとか、ようわかるなぁ」
「あー……私さぁ、ふみちゃんと同い年じゃないんだよね」
「へ?」
「いっこ上」
そこで初めて知った。
驚きすぎて、おにぎりを落としかける。衝撃が体を走って、固まってしまった。
それと同時に、なんで今やねん、とつっこみたくなった。
「中2のとき、学校に行ってなかったの。だから同級生と一年遅れて卒業したの」
「えっと……なんでなん」
「できてたの」
なにが?
「え、なにが?」
思ったことが、そのまま口に出る。
「子ども」
こども。
こ、ど、も。
子ども……!
私は思わず辺りを見回して、いまの話が誰の耳にも入っていないか確認する。その心配は無さそうで、ほっと胸をなでおろした。
すぐにアノンの方に向き直り、声のトーンを落として尋ねる。
「アノン、お母さんなん?」
「違うよ」
「え。でも、子どもができてたんやろ」
「そうだよ。13歳の秋の終わりにわかって、14歳で産んだの」
「じゃあ、お母さんやん」
「育ててないから、母親じゃないよ。すぐにあげちゃったし」
ますます訳がわからん。
いったん考えるのをやめて、「ああーなんか、だんだん寒ぅなったなぁ」と話題を変えてみる。不自然すぎる振りにも「そうだね」とアノンは答えてくれた。そこから、いつもの私たちに戻る。たわいない話をして、私の発した冗談にアノンが笑う。いつもの、昼休みの時間が過ぎていく。
だけど、どうしても考えてしまう。
考えてしまうのは、しょうがない。
「あんなこと言われたら、気になるやんかー!」
そう叫んでしまいたい。
実際、心のどこかがモヤモヤしていた。
家に帰って、あまりに突然すぎるカミングアウトに頭を抱えた。いや、べつに、私が悩んでどうするねんって話なんだけど。
帰宅して、お風呂に入ったあと、宿題をするためにノートを開く。でもなかなか進まない。
どうしてくれるねん。
アノンのせいや。
中学生で妊娠・出産というのも衝撃だったけど、子どもを捨てたというのもショッキングな話だった。本当にアノンに起きた出来事なのかと疑ってしまうほど。
確かにめっちゃ大人びているけどなぁ……。
同性だけど、たまに見惚れることがある。
気がつけばじっとアノンの顔を凝視している。べつに恋愛感情があるわけではない。きれいな顔立ちだなと、感心してしまうのだ。顔だけではない。雰囲気も、表情も、仕草もなにもかもが独特なのだ。それが美しさとうまく溶け合って、ひとつの作品みたいになっている。
藍島亜音という芸術作品。
なにをしても、「アノンだからしかねない」という妙に納得してしまう部分がでてくる。
アノンなら、子どもの一人や二人いても、おかしくないかも……。
「育てとらんって、言っとったな」
まだ子どもと呼べる年齢のときに、実子を手放す苦しい決断をしたのだろうか。そもそも相手の男はどういうやつだったのか。まったくわからないけど、きっと、私がこれ以上知ることはない。
「なんか、苦しいな」
私はアノンが好きだ。
だから苦しい。
アノンの過去に仄暗い影があると知って、傷ついている自分がいる。
槙先輩は知っているのだろうか。知っていて、友達になろうと話しかけたのだろうか。
- Re: アンソニー ( No.21 )
- 日時: 2017/02/05 14:46
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
次の日、私の体は悲鳴を上げていた。
朝から生理痛が非常に重くて、信じられないほどお腹の奥がキリキリした。本当に死にそうなほど痛い。涙を出す余裕がない。毎月訪れるこの痛みが憂鬱で、産婦人科にも行ったのだが、薬もきれた。もう一度あそこに行くのは躊躇われる。この年で行くには居心地が悪いのだ。
寒さで全身が冷える。ものすごく熱くて痛いのに、手先は冷たい。もうこれ以上は無理だというところで、教室から出た。
這うように廊下を歩き、保健室に向かう。
お母さんぐらいの年齢の、優しそうな保健室の先生が、心配そうに容体を訊ねてくる。「生理痛だ」と答えると、ベッドに案内された。横になって、しばらくすると四限目開始のチャイムが聴こえる。英語だったけど、50分の授業のあいだ、ずっと机に突っ伏しかねなかった。アノンから痛み止めの薬はもらったけど、効きそうにない。
目を閉じても眠れるわけがない。あー痛い。
じっとしているのが一番だ。
薄いカーテンで仕切られているベッドは、静かで、本当にいま授業が始まっているのかしらという気持ちになる。
なんとなく特別な時間のように思えた。
小学校のころ、インフルエンザで長く学校を休んだ。お母さんが雑炊を作ってくれて、みんながもう登校し終わっている時間帯に、ゆっくりそれを食べる。普段は見られない教育テレビを眺めながら、じっと家にいる。連絡帳と宿題と手紙を、近所の友だちが届けてくれるけど、移るといけないから、家の外でお母さんが受け取ってくれた。その手紙に書かれた、大きくてまぁるい「はやくげんきになってね」の文字。
そのときの感覚に似ている。
あったかい。
布団の中で丸くなる。
痛みは引かないけど、あの刺すような冷えが和らいだ。
目蓋を閉じる。眠気は相変わらず来ない。先生のタイピングの音、水槽の小さなモーター音、ストーブの灯油の匂いと、白いカーテン。
懐かしいな。
そう思ったときだった。
保健室の扉が開く音がする。誰かが入ってきた。
「先生、熱かもしれへん」
「あらら、ほんまや。ちょっと顔、赤いな。そこの体温計で熱、計ろうか」
「頭がガンガンすんねん」
「ちょっとそこ座り」
男子の声だ。
うちのクラスの人ではない。
しばらくすると、体温計が鳴る。
「38.2かぁ……。ちょっとうちの人に連絡してみるな」
「ぼく、一人暮らしやねん。だれもおらんで」
「ああー、せやったなぁ。でもひとりで帰るん、辛いやろ」
「頭がぼーってすんねん」
甘えた子どものような口調で男子が症状を訴える。
高校生にもなって、その子どもっぽい態度は引くわぁ……。
「じゃあ、アノンと帰るわ」
ん?
聞こえてきた名前に、より一層、聞き耳をたてる。
「いやいや。藍島さんやってまだ授業あるやろ。そんなん、あかんで」
「アノンの授業が終わるまで待っとくわ」
「藍島さんがおっても歩いて帰らなあかんやろう」
「けど二人のほうが心強いねん」
「──しゃあないなぁ。とりあえずベッドで寝とって。次の休み時間に藍島さん、呼んでくるから」
「ありがとう」
足音がこちらに近づいてくる。
カーテンの向こうの影が揺れる。隣のベッドがギシッと鳴って、そっちのカーテンが閉まった。
確かめられずにいられなかった。
確かめなくてもわかっていたけど。
「アンソニー?」
そこで彼の本名を呼ばなかったのはどうしてだろう。自分でもわからないけど、そう呼ぶことで、二人に近づけるような気がした。
「なんや?」
しばらくの沈黙のあと、声だけが返ってくる。
「アノンの友だちです」
最近まで彼女の実年齢を知らなかったけど、友だちです。そう付け足したら、なんだか嫌味っぽいし、喧嘩を売っているみたいだ。
アノンの友だち、と聞いて思い当たったのか、「名前はわからんけど、知ってんで、きみのこと」と先輩が言う。クラスでもアノンと一緒にいるのは私ぐらいなので、「一緒にいるやつ」ぐらいの印象はあるみたいだ。
「体調、大丈夫なんですか」
「世界がなぁ、回ってんねん」
「それは……辛いですね」
「きみはどないしたん?」
「えっと、腹痛です」
「それは大変やな。お互い生き抜かんとな」
初めて喋るけど、意外と普通の会話ができている。
アノンには言ってないけど(言った気もするな)、私と槙島先輩は同じ中学だ。
私たちの住む地区は広いので、北部と南部で分かれている。私は南部で、槙島先輩は北部だった。その二つの小学校の卒業生はだいたい南雲中学に通う。北部と南部のちょうど真ん中にある、生徒数の多い中学校だ。
中学に入学してすぐに、槙島という先輩の噂が耳に入った。電波系とか、ちょっと危ない人とか、知的障害があるとか。関わらないほうがいい、喋らないほうがいいと、私も処女区していたバドミントン部の先輩に忠告された。何度か学校で槙島先輩を見かけたけど、いつも病弱そうな女子と一緒にいた。
あれは、私が中1の冬だったと思う。
うちの中学に通う、持田キミという女の子が殺害された。
殺害したのは持田さんの母親の恋人で、無職の男だった。持田さんの顔写真を見て、すぐにピンときた。ああ、この子、先輩と一緒にいた子だ。
全生徒が体育館に集められ、校長先生の長い話を聞いた記憶がある。とても寒い日で、震えがとまらなかった。
アノンはきっとなにも知らないのだろう。
「アンソニーは、アノンを好きなんですか」
「好きやな」
即答だった。
飾り気のない、素直な言葉だった。
「アノンのことなんも知らんのに、好きって言えるんですか」
思わず口調が強くなる。
この会話が聞こえているはずの保健室の先生は、なにも言ってこない。いるのかどうかすら怪しかった。
「なんも知らんから、救われとるやん」
小さい声で、先輩が答えた。
カーテンの向こう側にいるので表情は見えないけど、きっと、困った顔をしているのだろう。
「ぼくも、アノンも、お互いのことなんも知らん。せやから、一緒におれる」
「知りたいとか、思わんのですか」
「知る必要がないねん」
「なんでですか」
「だって、知ったところで、なんもできへんからな」
頼りなく、弱々しい声。私が想像していた彼からは想像もできないほど、脆い。
「アノンのことを知っても、なんもできん。自分はなんもできへんなぁ……って、辛くなって終わるだけや」
「でも、わかってやらんとあかんなって、思わんのですか」
「思わへん。わかってやりたいとか、そんなん、どうでもええ。ただ一緒におるだけや」
──ああ、そうか。
この人からしてみれば、これが愛情なのだ。
支え合うわけでも、愛し合うわけでもなく、ただ寄り添う。孤独で不安なくせに、助けを決して求めない。助けようともしない。だからこそ惹かれてしまう。でも踏み込みすぎたら闇が深くて、自分が倒れてしまうかもしれない。それを避けるために、予防線を張って、一定の距離を保とうとする。
それはある意味、逃げでもあるし卑怯でもある。
持田キミがひどい虐待を受けていると彼が声を張り上げれば、なにかが変わって、彼女は殺されずにすんだかもしれない。
槙島先輩は彼女と一緒にいることは望んだけど、彼女を助けるつもりはなかったのだ。
私は違う。
知って、わかりたかった。受け入れて理解してあげたかった。
アノンの弱音を、全部受け止めて、優しく抱いて「辛かったんやな」と言ってあげたかった。だって、きっと、彼女を支えようとしていたものなんて、いなかっただろうから。
だけど。
この人のやりかたは、そんな綺麗なものじゃない。
この人は、孤独すぎる。