複雑・ファジー小説
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- アンソニー (完結)
- 日時: 2017/02/10 22:23
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
永遠って、なんでしょう?
- Re: アンソニー ( No.12 )
- 日時: 2017/01/09 16:29
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
次の日、今までそうしていたかのように、ぼくは持田に話しかけた。
「今日、きれいな空しとるよな」
「せやな」
持田も、まるでぼくとはずっと友だちでいたかのように返事をする。
これに驚いたのが、無関係の周囲だった。
昨日からどうしちゃったんやあいつ、と。視線と空気でそれをぶつけてくる。
いじめられている持田と、浮いているぼくが話している。それは小さな教室のなかでの大スクープだった。一緒に鉛筆を齧ってやる、とぼくが大きな声を出した日からまだ一日しか経っていないのに、すぐに噂が広まって、違うクラスのやつらが覗きに来るほどだ。
ぼくはべつにいじめられていたわけではない。瞳の色をからかう子もいたけど、それは低学年のときの話で、だんだんみんなも飽きて食いつかなくなる。今になってはぎゃくに女子たちが、異国の血が混ざるぼくの容姿にきゃあきゃあ言うようになった。男子たちから疎まれがちだけど、ぼくが女子に興味がないと彼らもわかっているので、遠巻きにぼくを異端視するだけで済んでいる。
教室で持田に話しかけるのは、ぼくの賭けだった。
昨日みたいに拒絶されるかもしれない。されてもかまわないと思ったけど、持田はけっこうさらっとしていた。
「鉛筆、噛んでないんやな」
「癖やねん。なんか噛んでないと、落ち着かん。教室とか特にそうや」
「おもろいな」
「アンソニーはさ」
持田があたりまえのようにぼくをアンソニーと呼ぶ。
他人からその名前で呼ばれるのは初めてだったので、少しこそばゆい。持田の掠れた、落ち着いている声で呼ばれると、なおさらお腹の奥が熱くなる。
「わたしと話しても、ええの?」
「ええやろ」
「なんか……見られてるやん」
だんだんその声が小さくなる。
そこでぼくはもう一度、周囲の人間というものを意識してみる。ぼくたちを見る好奇の目。「お前らカップルかよ」とはやしたてる者はいないが、そういう男子と女子の微妙な関係性を意図した感じだ。
「どうでもええねん」
心の底からそう思った。
最初からいなかったことにすればいいだけだ。
この世界はぼくたちのものだ。
「どうでもええねん。お互い、必要ないやろ」
ぼくの言葉に何人かが「なんやねん」と悪態をついたのが聞こえる。聞こえただけで、それらはぼくの心になにも印象を残さなかった。響くことも傷つくこともない。ただの雑音でしかない。
顔をあげた持田がまっすぐにぼくを見る。
この人となら大丈夫かもしれない──そう思ってくれていい。
「今日の空みたいやな」
「なにが」
「アンソニーの目の色」
その日の放課後。
ぼくは持田の住むアパートまで、彼女を送って帰った。ぼくの住む一軒家とは逆方向にある持田の家。それでもいい。口が乾くほどおしゃべりしたり、お互いの存在を感じなくなるまで黙っていたりしても、持田との帰り道は特別なものに思えた。
途中、認知症のミヤさんがよたよたと散歩しているところに出くわす。肌寒くなってきたけど、いまだに半袖短パンのミヤさん。「ぴーや、ぴーや、ぷーう」となにかを口ずさみながら歩いている。散歩なのだとミヤさんは主張しているけど、どこからどう見ても徘徊にしか見えない。
ぼくたち小学生はミヤさんを見かけると、視線を必ず自分の足元へ逸らす。なんだか見てはいけないような気持になるのだ。
「ぴーや、ぴーや、ぷーう」
ミヤさんと通り過ぎる。
持田はなにも言わなかった。
「持田のお母さんってどんな人なん」
持田のアパートが見え始めたとき、なんとなく聞いてみる。聞いてすぐにまずかったかなと思った。なんとなく持田の母親は、子どもに対してあまり良い影響を与えない人間なのだろうと察していたからだ。
「きれいやで」
「きれいなん」
「うん。ちっちゃいころから、きれいやってん」
「まぁ、持田を見てたら、なんとなくきれいやろなってわかるわ」
「あとな、遊んでくれる」
「そうなんや」
「うん。たまにお母さんが、わたしよりちっちゃい子みたいになるねん」
「ちっちゃい子か」
「せやで。ずっと泣いたり、ずっと笑ったりしよる。そういうとき、言葉通じへん」
「…………」
「男の人がな、来てくれるねんけど、ええねん。お母さん、男の人がおらんと、壊れてしまうねん」
「持田」
「…………なに」
「震えてんで」
そう言われてから気づいたみたいだ。持田の表情は強張っていて、肩が小刻みに震えている。真っ白い肌が余計に病的に映って、いまにも倒れそうだった。
「助けて、アンソニー」
言って、ふわっと抱きしめられる。持田の匂いがした。女の子に抱きしめられるという、人生で初の出来事だったけど、ぼくには、この子がぼくの一部であると思えてならなかった。バラバラだったものが、ようやく見つかって、こうしてひとつになる。それは心地いいものだった。
「ぼくが傍におったるよ」
持田は、ぼくの友達なのだ。
- Re: アンソニー ( No.13 )
- 日時: 2017/01/09 17:16
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
第三章 「オミとアノン」
藍島亜音という名前の読み方が最初にわからなくて、思わず「んん?」と唸ってしまった。
すぐに本人から「アノンって読みます」と説明されて、「ああ、アノンちゃん……なんだね」と変に納得をする。いや、納得もなにもそれが彼女の名前なのだから、こちらは名前なのだと受け入れるしかないのだが。
13歳のアノンは、本当に中学一年生ですかと問いただしたくなるほど落ち着いていた。
僕がバイトしている塾の体験入学に、彼女が母親と訪れたとき、思わず二度見してしまったほどだ。
大人っぽいなぁ、と。
変な下心があったわけじゃない。本当に、大人っぽいのだ。色気がある。
着ている服もそこらの中学生が身に着けているようなものではなく、子ども服でそんなもの売っているんですかと聞きたくなるほどシックだった。
前髪を伸ばしているらしく、肩の長さまであり、後ろ髪とほとんど変わらない。それを耳にかけていて、そこにはピアスが光っていた。
「小テストの結果がいまいちで、塾に行きたいと本人が強く言うものですから……。わたしは行かなくてもいいんじゃないかなと思っているんですけど……」
自分の成績に母親より敏感なんて珍しい子だ。
母親の言うことをじっと聞いているアノンは、喋らなければ本当に生きているのかと疑ってしまうほど、顔立ちが整っている。こういう子が制服を着て中学校に通っている…………なんだか想像ができない。
個別塾なので、生徒の二、三人をひとりが受け持つ。僕はアノンの数学と英語を担当することになった。月曜と木曜の週2回。一教科が60分。喋りやすい子ではない……と勝手に思っているので、正直アノンとの最初の授業が近づいてくるたびに、「大丈夫かなぁ、僕」と自分の身を案じた。
「臣さんって、昨日の夕方に映画館いた?」
「ああ、いたよ。見つかってしまっていたのか」
「一緒にいたのって、大学の友達なのかな」
「そうそう。ひとりムッキムキのやついたじゃん。そいつが、安く観られるチケット持っててさ。一緒に観たの」
「わたし、そのあとに上映される別の映画を観に行っていたの。声をかけようと思ったけど、楽しそうだったからやめておいた」
「全然よかったのに」
六月半ば。月曜日。
どうやら昨日、友人と映画を観に行っていたところを、アノンにばっちり目撃されていたらしい。プライベートを生徒に見られていたと知って、なんだか急にそわそわしてきた。いつどこで見られるかわっかんないなぁ。そんな僕に気づいたのか、アノンが笑う。口元に手をあてて、とても上品に。
意外、と言えば失礼かもしれない。
だけどアノンはけっこう喋りやすい女の子だった。
初めて授業を受け持って、一か月が経つ。緊張しまくりの僕に対して、アノンは超がつくほど自然体だった。
「自分ではできると思っていたのに、いざ点数を見たら稲妻くらっちゃって。これはやばいなって危機感を感じたの」
塾に行きたい理由をこう話していた。
身構えていたぶん、「なんだ。見かけよりずっと話しやすいじゃないか」と思い、いろいろなことを話すうちにお互いを「臣さん」「アノンちゃん」と呼ぶまでになった。
僕は生徒には気軽に接していきたいので、別の受け持ちの子も名前に「くん」や「ちゃん」をつけて呼ぶけど、こんなに早く打ち解けていった子は初めてだった。
「臣さんっていま何歳だっけ」
「えっと22歳」
「若いね」
「いやいや……あなたのほうが若いでしょうが」
「そうなんだけどね。わたし、年相応に見られないから」
そりゃそうだろうよ。中学生が普通「年相応に」とか使わねぇよ。
「モテモテだろ」
「男子たちとあんまり話さない」
「あー、わかる!僕、アノンちゃんと同い年だったら、絶対に話しかけない。話しかけられない!」
「なんでよ」
「だって自分が子どもだなって思っちゃうから」
周りがこの会話を聞いたら顔をしかめるだろう。塾講師と生徒のする会話ではない。だけど何度も言うけど、それほどアノンは大人びていた。中学生の繊細で複雑な心は、どういう意図を持って発して言葉だとしても、簡単に傷ついてしまう。そんなつもりではなかったのに、と。弁解する余地もなく。「話しかけない」だなんて言ったら、中学生は落ち込むだろう。
アノンは違う。ひょっとしたら、僕と同じ大学の女たちよりも賢いかもしれない。
「よく言われるんだ。大人みたいとか、落ち着いているねとか。だって、いろんなものに焦ったり驚いていたりしてちゃ、心が疲れちゃうじゃん。わたし、疲れること嫌いなんだよね」
数学を解きながらアノンが言う。
耳のピアスがきらりと光った。中学の先生にはバレていないらしい。頭髪検査のときに、こっそり外しているというのだ。
──ときどき、思う。
この子は、これからどういうふうに大人になっていくのだろう。
なにを見て、なにを知って、なにを感じるんだろう。
ふわりと桜の香りがする。アノンのボディクリームの香り。僕がその香りを好きでいることを、アノンは知る由もない。
- Re: アンソニー ( No.14 )
- 日時: 2017/01/14 23:21
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
「お前さ、そのうち間違いとか犯すんじゃねぇの?」
僕の話を聞いていた和也が、ノートパソコンから顔をあげる。
土曜日は二限目まで授業がある。それが終わって、友達の和也の家でレポートをしているときだった。
何気なくアノンの話を持ち出すと、最初はニヤニヤしながら聞いていた和也も、だんだん眉をしかめてくる。ついには、僕の顔をじっと伺ってくるようになった。
「いやいや、相手は中学生だべ」
「そうは言っても、それだけ色気のある子なんだろう。いまのお前の話聞いてるとさ、手を出す一歩二歩手前のような感じがするわけよ」
「ないない。その辺はちゃんとしてるし」
「その子の使っているクリームの匂いが好きとか、変態だぞ、お前」
心外である。好きな匂いぐらい誰にだってあるだろうし、桜とか桃とか、そういう花の香りに男は弱いと思う。そう主張すると、和也が苦笑する。
大学で知り合った和也は女性関係の派手なやつだ。同じ教育学部で、ゼミ室も一緒である。浮気はしないタイプだが、しょっちゅう付き合う女性が代わるので、周囲からは遊んでいると思われている。それでも気さくで話も面白い和也の周りには人が集まってくる。
対して僕は、それほど交友関係が広いわけではない。人見知りではないけど、女性とどう関わっていけばいいのかわからない。友人という関係ならいいのだけど、恋愛となるとどうしてあんなに面倒になるのだろう。だからしょっちゅう和也に相談しては、「おまえは高校生かよ」というツッコミを入れられている。
「中学生でもいろいろ経験しちゃってる子なんだろうな」
「やめろよ、そういうの」
「もうヤッてるんじゃねぇの」
アノンの横顔が浮かぶ。どちらなのだろうと、一瞬でも考えてしまった自分がひどく嫌になった。
「ヤッてるかもって考えただろう」
頭の中を見透かされたのかと思い、ドキリとする。
図星か、と和也がため息をついた。
「おまえさ、そうやって考えるのって、やっぱり女として見てるんだって。中学生、女の子、塾の生徒……それよりも先に、女っていう部分に惹かれてるんだと思うけどな」
「惹かれてるって……中学生だぞ?」
「年は関係ないって」
さっきは間違いを犯すとか言っていたくせに。
「正直さ、抱きたいって思うか?」
ぶっとんだ質問をされてパソコン画面におでこをぶつけてしまった。そんなに痛みを感じていないのに、耳の奥がじんじんする。
抱きたいって。
「和也ってバカじゃないの」
「いや真剣に聞いているわけよ。俺はおまえを心配してるんだよ、友則。友達が淫行で捕まったとかいやだぜ」
「ぜったいにないよ」
「じゃあ答えろよー。そのアノンっていう子とセックスしたいのか?したくないのか?」
「したくないというより、考えられないだろう」
「ちょっと考えてみろって」
さっきは僕がアノンに変な気を起こさないか心配だと言っていたのに。
ああ、だめだ。頭にちらつくアノンが、なんだかとても大人に見える。ほっそりとしている体つきも、凹凸がはっきりしている。薄い唇から漏れる吐息は甘く、薄く染まった頬も、伏せられるまつ毛も、どんどん鮮明になっていく。もっとこう、柔らかそうで───
「…………すっごく自分を殺したい気分だ」
「なに想像したわけ」
「ああもう……おまえ帰れよ」
「ここ俺んちな」
そうだった。僕よりちょっといいところにある和也のアパート。大学、塾、自宅を電車で移動している僕にとって、駅が近い和也の家は本当に羨ましい。和也のアパートから歩いて5分の駅に着くために、僕は15分間自転車をこがなきゃいけない。ゆるりとした坂道になっているので、駅へ行くまでの道のりがきつい。
ふと自宅にあるDVDの返却期限がいつまでだったかと不安になる。なにも予定のない休日に映画を観るのが日課だけど、あれを借りたのはいつだったっけ……。急に焦る僕を、和也が怪訝な顔で見てくる。訳を話すと「延滞料、すごいことになってたりしてな」と脅かしてくる。「帰るよ」と言うと、和也もやる気がなくなったのか、パソコンをそっと閉じた。
「けっきょくレポート、そんなに進まなかったな……。これ間に合うかな」
「間に合わせるしかねぇだろ」
予報では夕方、雨が降るらしい。
外を見ると曇り空が広がっていた。
- Re: アンソニー ( No.15 )
- 日時: 2017/01/15 00:16
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
家に戻って確認すると、やっぱり今日までの貸し出しだった。
また自転車に乗ってレンタルビデオ屋へと急ぎ、返却した帰りに、コンビニに寄る。
なるべく自炊を心がけているけど、やっぱり面倒くさい気持ちが買ってしまう。平日は時間がなく、休日は休みのときぐらいゆっくりしたいというのを言い訳に、ほとんどコンビニかスーパーのお惣菜で済ませている。ただ、料理ができないわけではなく、しないだけであると主張しておきたい。いったいだれにといった感じだけど。
コンビニの店員はいかにもやる気のなさそうなおじさんだった。土曜日の、昼なのか夕方なのかわからない、この微妙な時間帯のコンビニは別の世界のような気がする。みんな気怠そうだ。店員も客も。
人が出入りするたびに鳴る間抜けな音楽。カップラーメンを選ぶ僕の隣に、若い男が並んだ。若い、と言っても本当に少年だ。高校生ぐらいだろうか。髪を金髪に染めていて、眉毛はとても薄く、近くにいるだけで煙草の匂いがした。いかにも不良と呼ばれるような少年だった。少年は手を伸ばして、僕の目の前にある焼きそばを取り、レジに向かった。ズボンの後ろポケットに煙草のケースが入っているのが見えた。
ああいう存在とは無縁で育った僕は、大学生になったにも関わらず、不良風の高校生を見ると関わりたくないなと思ってしまう。どちらかというと地味に生きてきたのだ。和也みたいな派手な友人も、僕の周りでは本当に珍しい。もっとも和也は不良ではないのだが。
レジで会計を済ませているあいだ、おじさんの寂しい頭を見ていると僕も将来そうなる気がして、ドキリとする。そう思ってしまったことがなんだか申し訳なくて、おつりを渡されるとき、妙に長いお辞儀をしてしまった。
ビールとカップラーメンの入った袋を持って外に出ると、微かに雨の匂いがする。さっきより雲も厚くなっていて、太陽が隠れている。
ああ、降るな。
そう思ったときだった。
「臣さん?」
聞き覚えのある声が聴こえた。
そちらを見て、思わず、袋を落としそうになった。
「ああ、やっぱり、臣さんだ」
そこにはさっきコンビニに来た不良の少年と、アノンがいた。
少年もアノンも、煙草を吸っていた。
「だれ?」
「塾の先生」
「へぇ。本当に塾とか行ってたんだ」
「勉強したいからね」
言いながら、煙草を吸う。ゆっくり吐かれた煙が宙に漂う。
なにも言えない僕の視線に気づいた彼女が、少しだけ口元を緩ませる。そして煙草を持っていないほうの手を、そっと僕の唇に添えた。
「黙っててね」
なんだか、裏切られた気持ちで家に帰った。
どうして自分がショックを受けているのかわからなかった。アノンが煙草を吸っていることにか?それとも、あんな不良と親しそうだからか?いろいろと経験しちゃっているという予想があたったから?
もう訳がわからなかった。
とりあえず落ち着こうと思い、インスタントのコーヒーを飲む。そういえば喫煙者はコーヒーをよく飲むんだっけ。そう考えると、アノンの姿が浮かんで、胸が痛くなった。
なんだろうか。この気持ちは。中学生が煙草を吸っていることより、アノンがやっぱり和也の言っていたとおりの人間なのだろうかということに失望している。
あの不良と、いろいろ、してしまっているのではないか。
煙草まで吸って。もともと、「真面目」という雰囲気ではないから、塾に通いに来ているアノンを「意外」だと思っていた。けれど話をしていると、どこか滲み出る幼さが「やっぱり中学生だな」とも感じていた。
僕はアノンに理想を押し付けていたのだ。
大人っぽくて落ち着いていて、子どもらしさが感じられない子。
でも実は普通の中学生と同じなんだという、勝手な理想。
「中学生が煙草なんか吸うもんじゃねぇよ」
あのときそう言って叱ることができなかった。
黙っていてほしいと、仕草で、言葉で、表情で言われたのだ。僕は中学生のガキに先手を打たれた。本来なら大人として彼女を叱責しなければならなかったのに。あの子の放つなにかに抗うことができなかった。
大人として惨めだし、やられたという敗北感がすごい。
ただの塾の生徒なのに。
それ以上もそれ以下もないのに。
どうして僕はこんなに傷ついているのだろう。
月曜日。アノンはいつも通り授業を受けた。
お互いに土曜のことはなにもなかったかのように振る舞う。僕はぎこちなく、アノンは自然な感じで。あたりまえだけど、煙草の匂いはしなかった。僕の好きな、彼女の匂いがした。
授業が終わり、ほかの講師に「さようなら」とあいさつをして、アノンが出ていく。
僕もアノンの授業が最後だったので、奥で帰り支度をして、15分後に塾を出た。裏に停めてある自転車を取りに行く。夜の10時が過ぎていたので、辺りは暗かった。自転車の前かごにバッグを置き、ズボンのポケットから鍵を取り出していると、背中をとんとんっと叩かれた。
驚いて「うおっ」と声をあげてしまう。
慌てて見ると、帰ったはずのアノンが立っていた。
「驚きすぎよ」
「だれだってビックリするだろう。帰ったんじゃなかったのか」
「臣さんを待っていたの」
そう言われて、なぜ嬉しいと感じるのかわからなかった。
「僕を?」
「話がしたいから。臣さんの家に行ってもいい?」
「いやいや、きみ女の子でしょう。軽々しく男の家に行ってもいいとか言うんじゃないですよ」
妙に敬語になるのは、緊張しているからだとあとで気づく。中学生だと頭ではわかっているけど、アノンを相手にすると調子が狂う。ブレブレである。まんざらでもない、と思ってしまうのだ。
「コンビニの前で私と一緒にいた男の子、覚えてる?」
「あ、ああ、うん」
話が飛んだので一瞬わからなかったけど、確かに覚えている。あの不良少年のことを。
「あいつのことで、相談があるの」
「相談……」
もしかして、あの不良少年になにか弱みでも握られているのだろうか。実は無理やり付き合わされているとか。一緒にいて良い影響を受けることはなさそうな相手だった。煙草も彼に促されてやってしまっているのかもしれない。そう考えるとアノンがとても可哀そうに思えた。
僕にしか相談できないことなのかもしれない。親にも友人にも言えず、だれにも打ち明けられないことだったら、この子を救えるのは僕しかいない。
だって、まだこの子は13歳なのだから。
「助けてあげる」
いつの間にか僕はそう言っていた。
アノンの目が潤んでいるような気がして。
「きみを、助けてあげる」
- Re: アンソニー ( No.16 )
- 日時: 2017/01/28 06:36
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
自宅に招き入れることに抵抗がなかったわけではない。そこらのファミレスでもよかったんじゃないか。今ならまだ行先を変更できるんじゃないか。でも人目のつくところで塾の生徒と一緒にいるのは、少しまずいだろうし、保護者や他の生徒、大学の友だちに目撃されるといろいろ面倒くさい。僕の部屋に呼んでも、なにか起きるわけじゃない。だって、アノンはまだ子どもなんだから──。
明かりをつけて、「少し待ってて」と玄関で彼女に告げる。素直に頷くアノンを残して、僕は奥の部屋を簡単に片づけることにした。もともときれい好きな性格だから、ドン引きされるほど汚くはないけど、中学生にとって悪影響になるようなものは押入れに無造作に仕舞って──ああ、でも。そんなものないか。見られても困るようなものとか、これは子どもに見せられないものとか。…………ないなぁ。
部屋が蒸し暑かったので、クーラーと、ついでに扇風機もつける。
一分も経たずに玄関に顔を出して「いいよ」と言うと、「お邪魔します」と声が返ってきた。
なんだか妙な違和感がある。
僕の部屋に、アノンがいる……!
「えっと……座って」
「ああ、うん」
やっぱり僕のほうがぎこちない。
僕はベッドに腰かけようと思ったけど、なんとなくやめて、床に座る。丸いクッションをアノンに渡して、アノンはテーブルを挟んだ僕の向かい側に座った。
「オレンジジュースとか飲む?」
「いいよ。甘いの嫌いだから」
「アイスコーヒーは?」
「ミルク少なめでほしい」
言われて、コーヒーを淹れる。彼女の要望通り、ミルクを少なめにして。「ありがとう」と答えて、コップを受け取る彼女の小さな手にどきっとした。彼女は飲む前に、冷えたコップを自分の頬に押し当てる。水滴がつぶれて彼女の肌に吸い付く。扇風機をアノンのほうへ向けると「臣さんも暑いでしょ」と言われた。暑かったけど、僕のことはどうでもよかった。
「ちょっと、ラクな服に着替えてもいい?」
塾からの帰りだったので、サラリーマンのようなスーツだった。先に着替えるべきだったと心の内で反省する。アノンに待ってもらっている間に、脱衣所でスーツを脱ぎ、シャツとスウェット生地のズボンに着替えて戻った。アノンのコーヒーはなくなっていた。「おかわりはいる?」と尋ねると「いい。ごちそうさま」と彼女は答える。部屋はだいぶん涼しくなっていた。
「相談ってなに」
率直に切り出すことにした。
もともとそれを聞くために呼んだのだ。
だから、
「ああ。べつにないわよ」
と言ってのけたアノンを、僕はずいぶん間抜けな表情で見つめていただろう。
思考が停止して、動き始めるのに数秒の時間を要した。相談があるのだと彼女から言ってきたのに、それがないとなると、どうしてアノンは僕の部屋にいるのか。
「え……あるって言ったよね」
「確かにあるって言ったわね」
「じゃあ、どうしてここにいるの?」
「臣さんが、この部屋に呼んだからよ」
ずるい、と思った。
まるで子どもじゃないかと言おうと思ってやめた。アノンは子どもなのだ。
「ぎゃくにどんな相談をされると思った?」
アノンは楽しそうだった。
「いや…………変なことに巻き込まれていないだろうかって」
「変なこと?」
「ほら、一緒にコンビニにいた男の子が、なんだか不良っぽかったから」
「ああ、先輩か。あれはただの友だちよ」
あれはって。じゃあ他のやつらがいるのか。そう訊き返したかったけど、どの立場からこんなことを言おうと思っているのかわからず、けっきょく口だけがパクパク動いただけだった。
「臣さん、すごくショックを受けた顔をしてた」
「いつ?」
「コンビニで会ったとき」
「そりゃあ……ビックリするだろう。自分の生徒が煙草を吸ってるところを見ちゃったら」
「でも、黙っててねって言ったら、ちゃんと黙っててくれるんだね」
急にアノンの口調が艶やかに聴こえ始めた。
「私と臣さんの秘密ができたね」
なんで、こういう言い方をするんだろう。
僕をなんだと思っているのか。そもそも、大人の男の部屋に警戒もなく上がり込んで、どういうつもりなんだろう。中学生ってこんなものだろうか。言葉の端々に男を煽る挑戦的な甘さのようなものが含まれているのは、気のせいなのか。
「そういう言い方って、どこで覚えてくるの。ドラマ?漫画?」
こんな下手な切り返しで、彼女をはぐらかせるはずはないのに。
僕の質問に、アノンは初めて落胆した様子を見せた。
「臣さんって、つまらないよ」
言葉が、僕の頭をガツンッと殴る。
「私のこと好きなくせに、それを隠そうとしてさ。……なに見栄を張っているの」
ださくて惨めだよ、と。
アノンの口元が緩む。
「そういうのぜーんぶ、ベリベリッて、はがしたくなる」
ブウゥゥゥーン……
ブウゥゥゥーン……
扇風機の風で、アノンの長い髪が揺れる。ほのかに僕の好きな、桜の香りがした。これ以上この子をここに居させると、僕が僕でなくなるかもしれない。
「帰ってくれないか」
静かに言った。声が自分でもわかるほど震えていた。心臓がうるさいほど鳴っていることにいまさら気づく。
僕に帰れと言われても、アノンは特に表情を変えず、言われた通りに帰っていった。
彼女がいなくなった部屋で、ひとり佇んだ。
いつも寝起きしている部屋なのに、テーブルに置かれた空っぽのコップが、さっきいまでここにいた彼女の存在を色濃く主張している。それを実感したとき、僕は自分が勃起していることに気づいた。あれ以上、アノンがなにかを言うものなら、僕はベッドに彼女を押し倒して、自分の汚い欲をぶつけていただろう。
そんな僕を、彼女はきっと嘲笑う。
自分を犯す雄を見て、これがあなたの本性だと突きつけながら、アノンは笑い狂う。それを想像すると恐ろしかったけど、気持ちに比例して、興奮は冷め切らなかった。