複雑・ファジー小説
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- すばる【完結】
- 日時: 2021/04/08 20:57
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
- 参照: https://www.kakiko.cc/novel/novel2a/index.cgi?mode=view&no=5710
あいつが不幸になってくれたおかげで、僕は幸せでいられる。
だれかが死んでくれたおかげで、わたしたちは生きている。
◇
■ もくじ ■
1.『アオイ』>>1-5
2.『ミドリ』>>6-10
3.『スバル』>>11-16
本編>>1-16 あとがき>>17 あとがき(2)>>18
■ おもな登場人物 ■
雨宮 昴琉 …二十二歳、男。地元のレストランチェーンで働いている
相馬 葵 …二十歳、女。翻訳家になるのが夢。予備校生
相馬 翠 …アオイの母。未亡人
雨宮 千嘉 …スバルの四つ歳上の兄
■ おしらせ、その他 ■
2020年冬小説大会 複雑・ファジー部門で本作が銅賞をいただきました。
応援、投票してくださった皆様、ありがとうございました。
URL参照『祈りの花束【短・中編集】』にて掲載、本作の前日譚・番外編『Chika』完結済みです。
執筆開始 2020.8.22(書き直し二回目※)
執筆終了 2020.9.11
投稿 2020.9.13 〜 2020.9.28
イメージソング 『EGO』小林未郁
イメージエンディング・原作※イメージソング 『Time Forgotten』Brian Crain & Rita Chepurchenko
※あとがき(2)>>18参照
暴力表現や若干の性描写などがあるため、苦手な方は閲覧をお控えください。
また、本編中の文字化けは意図的なものです。ご了承ください。
- Re: すばる ( No.9 )
- 日時: 2020/09/21 13:52
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
クリスマスの日の朝、枕元にサンタクロースが来てくれた痕跡はなかった。お兄ちゃんはちょうど今月発売された新しいゲーム機とソフトをもらったらしく、早速一階のリビングで、ぼくに見せびらかすように遊んでいる。
サンタなんているわけねーだろ、と、去年のいまごろ、お兄ちゃんに言われた。その日から、ぼくのサンタさんは跡形もなくいなくなってしまった。
◇
『もしもぉし、みーちゃん? ミドリ? あたしあたしー』
「オレオレ詐欺の女版? 今どき流行んないでしょう」
『そんなことないって。あたしのお母さん、つい最近引っかかったばっかでさー。ワタシハダイジョーブヨーとか言ってたくせしてー』
「全然似てない」
『まじで? あっははは!』
楽しそうな笑い声が聞こえてくる。父の兄の娘、つまりはわたしのいとこであるなーちゃん……ナナミから、携帯に電話がかかってきたのだ。相変わらずなようで、何よりである。
「で、結局おばさんは振り込んじゃったの?」
肩と耳で携帯を挟みつつ、とりこんだ洗濯物を畳みながらたずねた。スピーカーホンにしようかとも思ったのだが、隣ではアオイが自分の服を畳んでくれていた。相手が何の用でかけてきたのかまだわからない以上、気を遣いたくもなるのだ。
『ギリギリセーフ、黙って銀行にいこうとしてたとこを、息子ちゃんたちがとめてくれて理由を聞き出したのっ! もーっ、ちょーデキる子達ぃ!』
「それはよかったじゃない」
『ほんとよー! 危うく二百万飛んでくとこだったんだから! それに比べたら、警察への付き添いくらいなんてことないわぁ』
さっきからわたしがクスクスと笑っているので、アオイは不思議そうにこちらを見上げてきていた。
『ってー、そんなことはどーでもよしこちゃんなわけー』
「だから古いって。それで、なにか話でもあるの?」
『あーん、今から言おうとしてたのに』
畳み終えた洗濯物を、タンスの中に詰めていく。
冬服は量のわりにかさばるから若干面倒だ。今年はニットを買わないようにしないと。
『きょうねー、その息子ちゃんたちを、叔父さんのとこに押し付けてきたのー!』
「えっ?!」
しかも、伯母さんを詐欺から救ったご褒美だと称して行かせたらしい。いいんだろうか。いろいろといいんだろうか。
予想外だ、やけにうしろが静かだなあとは思っていたけど。
『風のたよりがびゅんびゅん吹いてくるわけ。叔父さんとこ、無理やりアオイちゃん連れてこようとしてるんでしょー?』
「あぁぁあ、そうなの。もう、恥ずかしい……」
風の便りと言うより、本人たちが言いふらした結果だろうな、それは。
『これまで援助してくれてたわけでもないくせにねえ。あたし的には許せないからさー、そんなに暇なら三ヶ日までこいつらの面倒見てちょんまげ! って三人とも送りこんだわけ。たぶん今ごろお父さんに説教されてるよ、あの人たち。タブルパンチでさすがに懲りるでしょ。くらえ、長男パワー! がははは』
もはや清々しい。父親だから、夫だからと偉そうにする父は、兄である伯父さんや姪のなーちゃんには頭が上がらないなんて、おもしろい皮肉だ。
もう亡くなってしまった祖父もそんな人だった記憶がある。父と伯父さんは、違うものを食べて育ったのだろうか。おばあちゃんに訊いておけばよかったな。…………冗談だ、もちろん。
「二人とも、ありがとう。子どもたちもね」
『いーってことよ。おとんもあたしも、みーちゃんのこと大好きだから。もう、どーしてあたしに相談してくれなかったかなぁ』
「ごめん」
『頼人さん亡くなったときもそうだったでしょ。親がたよれないなら、あたしら使ってくれて全然いいのに。さみしーぞ、みーちゃん』
「ありがと、なーちゃん。でも、旦那さんと伯母さんに申し訳ないからさ。うちの両親に関わらせるの」
『そーお? じゃ、とりあえずはいつも通り、野菜とかお米とか送る程度に留めとくわぁ』
「ありがとう、ほんとに」
今度みーちゃんち遊びにいくねー、あ、もちろんひとりでだよっ。明るい声で言い残して、電話は切れた。今度、使ってる洗濯洗剤を聞き出して、たくさん買って送ってあげよう。
「アオイ」
腰を下ろして、呼んだ彼女の瞳が、じっとわたしの顔を見つめてくる。
ちょうど畳み終えた自分の服を抱えて、こちらに運んでくるところだった。
「おばあちゃんのところ、行かないで済みそう」
「ほんと?」
「うん」
「おかしゃんずっといっしょ?」
「うんっ」
文字通り、ぱあっと輝くような笑顔で、アオイが抱きついてきた。わたしはどんな顔をしていただろう。
久方ぶりの、クリスマスプレゼントをもらってしまった。
- Re: すばる ( No.10 )
- 日時: 2020/09/22 15:03
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
占いとかおみくじとか、あんまり信じるタイプじゃないけれど、今年になって気まぐれで引いてみた近所の神社でのおみくじは、生まれて初めての大吉で。その後再開した就職活動もとんとん拍子で進んだものだから、このままだと信じてしまいそうだ。
大晦日の夜、母から電話がかかってきて、アオイを引き取る件は見送ることにすると言われた。なーちゃんや伯父さんのことは何も言っていなかったけど、疲労を帯びた声色や、うしろから聞こえてきた子どもたちの笑い声ですべて察することができた。もう彼らのことで心配する必要はないだろう。
シングル家庭に理解のある新しい職場も決まって、とりあえずはふたりで生きていけそうだ。
静かに、新しい人生が始まろうとしていた。
「そっかー、よかったね、ふたりとも」
アオイは肉まん、わたしはカレーまん、スバルくんは餡まんを。雲ひとつない晴れた空の下、中央公園のベンチで並んで食べながら、いつものように話した。
「スバルくん、この九ヶ月間、ありがとうございました」
「いえいえこちらこそ」
頭を下げあうわたしたちを見て、アオイがおかしそうに笑う。かわいい。
「明日からお仕事が始まるんだ。週末とかお休みのときは、またこうやって一緒に遊べるといいんだけどねえ。どうかな、わたしの体力次第かも」
こうしてすこしは身体を動かす機会があったとはいえ、どこまで自分が鈍ってしまっているか、正直想像がつかない。彼らには申し訳ないが、あくまでもしばらくは仕事優先だ。
「いろいろと、ちょっとは不安だけど、頑張るから」
だれに言うでもなく、呟いていた。もしかしたら、天国にいるだれかさんかもしれない。
亡くなる前、彼は、将来べつの人といっしょになってほしいと言ってくれた。幸せでいてほしいからと。でも、わたしは結婚を幸福と結びつけて考えているわけじゃないし、何より本当は、まだまだ夫のことについて、ひとつの思い出としてきちんと整理をつけることもできていない。アオイの意思とかいう以前の問題なのに、こんな状態でほかの男性と向き合うことは不可能だ。すくなくとも、わたしにとっては。
整理、どうやったらつくだろう。もしかしたら一生つかないかもしれない。だれかと一緒になるにしろ未婚を貫くにしろ、この状態でいればわたし自身がつらいだけだ。悩みはそれ自体の重さより、抱えている時間の長さのほうがストレスになるんだって、昔、なーちゃんも言っていたっけ。
「あのね、ミドリさん」
食べ終わった餡まんの袋をたたみながら、彼が口を開いた。
スバルくんならなんて言うだろう。
これまで、わたしのしょうもない話をたくさん聞いてくれたスバルくんだったら、なんて言うんだろう。
「ぼく、ミドリさんを守れるようになる。大きくなったら、ミドリさんと、」
そのつづきを、聞いてしまう前に。
見たことのない高学年くらいの男の子が、突然どこかからやって来てわたしを突き飛ばし、スバルくんの腕を物凄い力で引いていった。
ベンチから落ちてしまったわたしは、相当な混乱と腰の痛みで、すぐには起き上がれなかった。
「おかしゃん、すぅくん!」
アオイの叫ぶ声に、一瞬、その男の子が振り向く。
毛糸の帽子をかぶっていたから、はっきりとは見えなかったけれど。わたしたちを睨む目元が、スバルくんによく似ていた。
たぶん、あれが彼の兄の、チカくんだ。
◇
「おにい、ちゃ、はなして!」
二人のいるところからずいぶん離れた、ぼくの自転車のとめてある駐輪場まで、彼は手を離してくれなかった。
乱暴に放り投げられて、アスファルトの上に転んでしまう。やわらかいジャンパーを着ていたからそんなに痛くはなかったけど、びっくりした。この一年で、すごく力が強くなったことに気がついたから。
「おまえ、もう二度とここに来るな」
「どうしてっ」
「殴る」
「お兄ちゃんに関係ないでしょ」
生意気だと、思われたのかもしれない。早速ほっぺをグーで殴られた。いひゃい。
「じゃあ、あいつらを殴ってやるよ。とくにおまえのだぁいすきなミドリとかいうババア、ボコボコにしたら面白いかなあ!」
いつものように、へらへらと笑った。
「おまえにはなーんにもできないんだよ。俺より馬鹿だし、力もないし、母さんにも嫌われてるくせに。俺に関係ないだと? ふざけんなよクソが。黙って俺の言いなりになってろ」
近くに置いてあった彼の自転車にまたがって、お兄ちゃんは吐き捨てるように言った。なんかもうめちゃくちゃだ。
でも、ふたりに迷惑はかけたくない。ぼくはお兄ちゃんの言うとおりに、自転車に乗って帰ることにした。
ミドリさんも、アオイちゃんも、頑張って前に進んでいるのに。ぼくは何も変わっていなくて、なんだか情けなかった。さっきミドリさんに言おうとしたことが、すごく恥ずかしい。
次の日から、公園にはいかなくなった。
◇
- Re: すばる ( No.11 )
- 日時: 2020/10/17 04:40
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
スバルくんを捜してみたけれど、ちょうど駐輪場から出ていくところで、ぎりぎり追い付くことができなかった。
あれから、ふたりで公園に行ってみても彼の姿を見ることはなく、彼からの連絡も一度もなかった。家に行ってみるべきかとも考えたものの、虐待がひどくなってしまったら、父親から引き離すことになってしまったらと考えると、怖くて行けなかった。そうこうしているうちに仕事も忙しくなってきて、職場やアオイの新しい保育園に通いやすいよう、年度の明ける前に、市内のマンションに引っ越しも済ませて。
縁があれば、またスバルくんに会えるだろう。最後に中央公園へ遊びに行った日、アオイはそんなことを、彼女なりの言葉でわたしに伝えてくれた。
それから長い間、わたしは彼のことを記憶の奥底に封じ込めていた。
■
3.『スバル』
高校一年生になった年の夏、父さんが、家族みんなで奄美大島にいかないかと提案してきた。母さんは二つ返事で、兄さんもしぶしぶ賛成して、八月にならないうちに計画は実行されることになった。
兄さんが昔落ちてしまった、第一志望の公立高校に合格してから母さんの態度は手のひらを返すように変わった。おかげで兄さんの僕への嫌がらせもなりをひそめて、多少は生活しやすくなったと感じる。ふたりのことを好きになったわけじゃないけど。
「なあ、スバル。おまえにプレゼントがあるんだ」
旅行に出かける三日前の夜、父さんが僕を部屋に呼んできた。僕や兄さんのよりも広くて、壁いっぱいに取りつけられた本棚には、建築関係や趣味の本なんかが綺麗に並んでいる。それ以外、床やデスクの上にはあまり物がなく、母の部屋と違って絨毯すらも敷かれていない。掃除が面倒だからといつか言っていた気がする。
デスクライトひとつだけの明かりの前で待っていると、部屋の奥から出してきたなにかを僕の首に提げられた。影になっていた父さんがどけて、それが何なのか、ようやくこの目できちんと認識する。彼が持っているのとはべつの、新品らしいカメラだった。
「入学祝い、ちゃんとしてやれてなかったから、それも兼ねてな」
「え、いいの? こんな、」
いっしょに渡された紙袋には、必要なアクセサリが入っていた。父さんも、そろそろ新しいものに買い換えたいと言っていたはずなのに。いいんだろうか。たしかに、中学に上がったくらいからときどき父さんのを借りて、ふたりで出かけた先で写真を撮ったりしていたし、いつか自分のものが欲しいなとも思っていたけど。
「最新のヤツじゃねえんだけど、勘弁してくれよ。さすがに値が張るんだわ」
「そんなの気にしないよ、つーかわかんないから。ありがとう、父さん!」
「使い方はそこまで変わらないはずだ、わからないことがあれば、説明書か俺に訊くといい。大事にしろよ」
もちろん、言われなくとも大切に使うつもりだ。
さっそく今度持っていって、たくさん撮ろう。そのためにいまから慣れておかないと。
改めて父さんにお礼を言って自分の部屋に戻ろうとすると「昴琉」やさしい声で呼び止められた。
「昔は、問題集や本か、お菓子を買ってやることくらいしかできなかった。しかも、母さんやチカに隠れてだ。ごめんな。あのとき、おまえの味方になってあげられなくて」
「……父さんが気にすることじゃないよ。それに充分、僕にとっては心強い味方だった」
力で勝てないのなら、違う方法で追い越してしまえばいい。小学生のとき、そう教えてくれたのは父さんだった。兄さんには劣るけれど幸い地頭は悪いほうではなかったので、それからずっと努力を重ねてきたのだ。
兄さんに教科書やノートに落書きされたり、破られたりしても、負けなかった。いい友達や先生にも恵まれたから、わからないことは分かるようになるまで彼らに聞いて、その代わりに、みんなが困っているときは助けになれるように行動した。
父さんは、僕が自分だけの力でここまで来たと思っているのかもしれないけど、それは違う。クラスのみんなや、部活や生徒会の友達や、先生や、父さんのおかげだから。
「だから、泣かないでよ」
「ばかやろっ、泣いてねーわ!」
涙でぐしゃぐしゃになりながら、父さんが笑う。
まさかこの三日後に、彼が死んでしまうことになるなんて。いったいだれが予想できただろう。
- Re: すばる ( No.12 )
- 日時: 2020/10/17 04:59
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
雨宮千嘉と名乗る男から電話がかかってきたのは、アオイが中学二年生のときの、秋の夜だった。弟の様子がおかしい、助けてくれと、男は切羽詰まった声で言う。
ショートメールに送られた住所を見て、わたしはようやく、その声の主がだれなのかを思い出した。
スバルくんの、お兄さんだ。
「アオイーっ、ちょっとお母さん出かけてくるねー」
「え、いまからぁ?」
部活の練習から帰ってきて、夕飯のカレーを食べ始めたばかりのアオイが、あんぐりと口を開く。わたしはとりあえず、食事は後回しだ。
何時になるかはわからないが、なるべく早く帰ると伝え家を出て、車を走らせた。呼び鈴を鳴らして玄関から出てきたのは、九年ぶりに、しかも初めてきちんと顔を合わせるチカ、本人だった。
■
七月三十日、空港に向かう途中、高速道路で事故に遭った。しつこい煽り運転の車を避けようと、父がハンドルを切って、それから……それからのことは、覚えていない。知らない病院で目がさめたときには、数日が経っていた。両親はもうこの世にいなかった。包帯ギプスその他でぐるぐる巻きになった兄と、それに比べればちっぽけな僕の外傷だけが、あの日の事故を現実だと物語るばかりで。
加害者はとうに死んでいた。他人の未来を、幸せを食い潰し、罪をつぐなうこともなく、だれよりもあっけなく。全身を打って、即死だったと聞く。家族の人たちに何度も頭を下げられたけど、謝って済むのなら警察も裁判所も必要ない。お金をもらっても、奪われたものが返ってくるわけじゃない。弁護士の人にそう言ったら、返ってこないからこそもらうんだよと言われた。
あの事故の影響で、車に乗ることを避けるようになった。兄さんよりも一足早く退院し、家へ帰るために乗ったタクシーの中でフラッシュバックを起こしたのが、きっかけだったと思う。今度は同じ病院の違う科に担ぎ込まれた。
そんな感じなので(どんな感じだ)自分を客観視しすぎてしまって、帰りに駅へ向かう道中は、笑いが止まらなかった。わりと元気だなー自分、まあこれからがんばるかー、なんて思っていたけれど、まあ。その調子で、正気でいられるわけがなかったのだ。
まず、久々の帰宅から一ヶ月分の記憶が吹き飛んだ。生活に必要ないろんなことが、突然できなくなった。
そうしてもう、退院から二ヶ月が経とうとしていた。学校にも行かず、自室の布団にこもって過ごしていたある日、なにかが弾け飛んだように感情が制御できなくなった。泣き叫び、幾度も自傷行為に及び、繰り返し再生される記憶から沸き上がる、強い後悔と怒りを体外に逃がすように、胃液を吐いていた。いつまでこんな悪夢がつづくのだろうかと。うつろな意識で考えていたのを、覚えている。
「スバルくんっ、スバルくんっ」
またいつものように記憶に苛まれていると、なんだか聞き覚えのある声がしてきて、僕をぎゅうと抱き締めてきた。このところ風呂入れてないんだよなー、申し訳ないなあと思っていたら、眠ってしまっていた。
気づいたときには、久しぶりに会ったミドリさんといっしょに、地元の病院の診察室にいた。僕の机の引き出しにあった古いメモを見つけて、兄さんが彼女を呼んでくれたのだそうだ。そういえば、なぜか医者が機嫌を悪くしていたっけ。
僕の状態が予想以上に悪いということで、高校は退学することをすすめられた。ちょうど留年の決まる欠席日数に届きかけていたが、来年の春までに治る見込みがまったくなかったのだ。
諸々の手続きはミドリさんに任せて、僕は再び引きこもりという名の療養生活に徹した。相変わらず発作がおさまらないからだ。どうして自分は生き残ってしまったのか。これから先の人生、兄さんとふたりで生きていかなきゃいけないのか。そんなの生き地獄だ。自動的に展開される思考が僕を蝕み、壊していく。
そうして、退院から三ヶ月になろうとしていた頃。僕を見かねたミドリさんが、ある日兄さんに言った。
「ねえチカくん、あなたの通ってる大学って県外だったよね。突然なんだけど、この家を出ていってもらえないかな? スバルくんが立ち直るまで、わたしが面倒を見るから」
半月後、兄さんが県外のアパートに引っ越していくと、必要な薬の量もずいぶん減って、僕の体調はたちまち回復し始めた。
頭の中では兄さんをあの事故で死んだことにして、彼に関する記憶の大部分を封じ、再構築していったのだ。
- Re: すばる ( No.13 )
- 日時: 2020/10/17 05:13
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
二月の中頃、隣町の通信制高校への入学が決まって、駅に近いアパートへ引っ越すことになった。それまで、引っ越しの準備といっしょに最低限の家の片付けもした。僕がこの家を出てからは、ミドリさんが定期的に掃除なんかに来てくれるらしい。そのため、大事なものはいまのうちに僕が片付けておいてほしい、と言われたのだ。
父さんの部屋で作業をした日、防湿庫や収納スペースの片隅で、彼の愛用していた撮影道具たちが見つかった。旅行には持っていかなかったのだろうか。あるいは、ミドリさんがここに戻したのか。少し考えて、前者の可能性のほうが高いなと結論づける。
事故に遭ったとき、僕のものはスーツケースの中でさらにバッグに入れていたせいか、運良く無事だった。けれどもあの日以来まともに触れてすらいない。一応引っ越しの荷物の中には入れたけど、しばらく使えないだろうな。
いろんなことを、思い出してしまいそうだから。
「ねえ、父さん、僕がもらっていってもいい?」
部屋の隅にでも、彼がいるような気がして。いいぞーと笑ってくれているような気がして。次の日、あの中央公園へ父の愛機を持って出かけることにした。久々すぎたのか、なんだかほとんど知らない場所のように感じたけれど、なぜだろう。
■
前期・後期それぞれはじめてのホームルームは、通学コースの生徒たちが学年ごとに時間を分けて集まり、先生から予定の説明を聞く。僕たち二年生はほかの学年ほど人数がいないので、いつにもましてキャンパスが静かだ。
同級生たちが過ごしているはずの日常から半年以上も離れていたブランクは大きく、なかなか苦しい一年間だった。勉強で困ることはなかったが、通学自体が体力を削ってくるのだ。甘え、などとかんたんに語れる次元の話ではない。
一年経てば多少は慣れるかと踏んでいたものの、今でも正直しんどい。学校行事に参加したくないと思ったのは生まれて初めてだ。結局そこそこ楽しんでいるのだが、毎回、帰宅後最低一日は寝て過ごしてしまう。
「なーなー、きみって雨宮きゅんだよねえ?」
七月の宿泊行事で、先生やOBといっしょに撮ってまわった生徒たちの写真を携帯で眺めながら、後期最初のホームルームが始まるのを待っていたとき。わざわざうしろの席から知らない男子生徒に軽く小突かれた。
月のはじめには転入生が大体ひとりはやってくる。彼もその一人なのだろう。転入生に初日から認知されるほどこの学校で悪行を重ねてきたようなおぼえはないが、振り返ってみた。
「あー、やっぱり雨宮きゅん」
笑顔で僕を見つめてくる彼は、地の色なのか日焼けや髪染めでもしたのか、小麦色の肌と金髪に近い長い茶髪の、主張がはげしい外見をしていた。耳にはピアスまでいくつか空いている。
この学校では私服登校が許されているし、事実僕を含めたほとんどの生徒がいつも私服姿だ。校則もそこらの公立高校より断然ゆるく、外に出る学校行事でもない限りは髪を染めていてもアクセサリーを身に付けていてもとくに指導されない。しかし、ここまで派手な外見をしているのもなかなか珍しかった。ここの生徒の半分近くは、放課後や自分の授業のない日にはアルバイトをしているので、必然的に落ち着いてくるものなのである。
「初対面で意見するのもなんですが、その変な呼び方、やめてくれません?」
「だって俺、おまえの兄さんと知り合いなんだもーん。雨宮チカって、スバルきゅんのお兄さんでしょお? 後ろ姿からもう似てるよねー」
ちりちりと瞼のはしが震えた。
「俺のねーちゃんが高校んときの同級生でさあ、いまでも付き合いあんのよ。ねえねえ、今度三人で遊ぼーよ、タピオカ奢っしー」
「人違いじゃないの。頭痛くなってくるから、ちょっと静かにして」
「はあ? なんだよその言い方、むっかつくなあ」
すこーん、と丸めたプリントの冊子で肩を叩かれる。おまえこそ何なんだ。音のわりに大して痛くもないし。
前の壁にかけてある時計がちょうど十一時を指して、同時に隣の職員室から先生が出てきた。チャイムなんてものは、ここに存在しない。
「はーいみんな、席につい……てるか。って、ほんとに少ないよなあ、一年生の半分もいない」
ホワイトボードの前で、僕を含めて全六名の二年生を見渡しながら、キャンパス長が笑った。
「まあ、これからもう少し転入生も来るかもしれないからな。雨宮の後ろのきみ、自己紹介して」
「ほーい」
うしろから椅子の引きずる音が大きく響いてきて、まわりの生徒たち四人の視線が集中する。僕は振り返らずに、彼の短すぎる自己紹介を聞き流した。
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