複雑・ファジー小説

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すばる【完結】
日時: 2021/04/08 20:57
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
参照: https://www.kakiko.cc/novel/novel2a/index.cgi?mode=view&no=5710

 あいつが不幸になってくれたおかげで、僕は幸せでいられる。
 だれかが死んでくれたおかげで、わたしたちは生きている。


       ◇


■ もくじ ■

1.『アオイ』>>1-5
2.『ミドリ』>>6-10
3.『スバル』>>11-16

本編>>1-16  あとがき>>17 あとがき(2)>>18


■ おもな登場人物 ■

 雨宮あめみや 昴琉すばる …二十二歳、男。地元のレストランチェーンで働いている

 相馬そうま あおい …二十歳、女。翻訳家になるのが夢。予備校生

 相馬 みどり …アオイの母。未亡人

 雨宮 千嘉ちか …スバルの四つ歳上の兄


■ おしらせ、その他 ■

 2020年冬小説大会 複雑・ファジー部門で本作が銅賞をいただきました。
 応援、投票してくださった皆様、ありがとうございました。

 URL参照『祈りの花束【短・中編集】』にて掲載、本作の前日譚・番外編『Chika』完結済みです。



執筆開始 2020.8.22(書き直し二回目※)
執筆終了 2020.9.11
投稿   2020.9.13 〜 2020.9.28

イメージソング 『EGO』小林未郁
イメージエンディング・原作※イメージソング 『Time Forgotten』Brian Crain & Rita Chepurchenko
 ※あとがき(2)>>18参照



 暴力表現や若干の性描写などがあるため、苦手な方は閲覧をお控えください。
 また、本編中の文字化けは意図的なものです。ご了承ください。
 
 

Re: すばる ( No.4 )
日時: 2020/10/17 01:58
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)


 アオイを誘拐してから三日が過ぎた。
 おしゃべりで、僕に対して妙に強気に出ていた彼女も、二日目を迎える頃には完全に青菜に塩、といった感じだ。ううん……なんだかしっくり来ないけど、いいや。とにかくこれ以上塩をふりつづけたってしょうがないので、すこしの自由を与えることにした。
 鎖かなにかで動物を拘束して、逃げようともがけば電流をかける、抵抗しなければ何の危害も加えない。それを一定以上の期間つづけるとたとえ拘束を解いても逃げようとしなくなるらしい。学習性なんとかって、言ったっけ。違ったかも。人間でも同じようなことが起きると聞いたことがあるので、適当な判断だが縄をほどいた。まあ、それよりなにより、風呂に入れていないせいで臭かったからなのだけど。
 シャワーを浴びさせ、スバルの古着と最低限の食事を与えたあとは、再び弟の部屋で縛りつけておいた。あくまでも彼女は、僕が果たしたい目的のために存在する人質でしかない。自身の立場を忘れられても困ってしまうから。
 アオイはクローゼットにもたれ、窓の外の夕焼けを見つめている。何を考えているのかその横顔からは察することができなかった。母親のことかもしれないし、この部屋の主のことかもしれない。
 それにしても。
 ずっと無視を決め込んでいるというのに、スバルは一向になにも連絡してこない。もうこちらの準備は整っているというのに。しびれを切らす、とはまさにこういうことだ。無意識に、携帯電話とアオイの手をつかんでいた。

「なに、するんですか」

 ロックが解除されると同時に、彼女が振り向く。かすれた声でガムテープの貼り忘れをようやく思い出したが、例の学習性なんとかを信じることにしてそのままSNSを開いた。

「電話すんだよ、弟に」

 相手の動きがないのなら、こちらから向かっていけばいい。

「俺は、俺をあいつの兄だと認識させた上で、あいつを殺しにいきたいんだ」
「やめ……、やめてください!」

 通話ボタンに指をかけようとした瞬間、飛びかかられて、倒れこんでしまった。

「わたしは死んだっていいからっ、スバルに関わらないで! やなことを思い出させないで!!」

 つばをかける勢いで、叫ばれる。
 寒気がした。女に、自分の上に乗られるのは苦手だから。
 彼女はまだ何かわめき散らしていたが、耳鳴りがしてきて聞こえない。たまらず腹を蹴り飛ばして手近にあったタオルをその口の中に押し込んだ。

「びーびーうるせーんだよ、ほんとにさぁ」

 机のペン立てに、カッターナイフのあるのが見えたから。
 アオイに乗り上げて、錆びた刃先でその腕を切りつけた。ぎゃあっ、と動物の鳴き声みたいな音が聞こえて、白いパーカーの袖が裂けたところからじわり、色づいていく。同じように死にたい気持ちもどこからか沸き上がってきた。
 強引に彼女の服を下ろして、汗で湿った肌に爪を食い込ませる。嗚咽を漏らす表情を、直視できなかった。まあ、見る必要もないが。

「言ったことはちゃんとするから。その覚悟があるんだろ、おまえには」

 痛みでのたうち回るアオイを押さえつけて、吐き捨てた。最底辺の暴力を、おまえに振るうと。宣言なんて良心的過ぎたかもしれない。いまから殺しますよ、いまから襲いますよ、なんてふつうの犯罪者は言ってくれないもんな。相手の反応を楽しんでなぶり倒すようなキ××イならともかく。
 こいつを刺し殺していっしょに死んでしまおうかとすら思った。でも、今こいつと死んだって、どうせスバルは。どうせスバルは死なないし、あのときみたいに記憶を上書き保存して、僕のこともアオイのことも、都合よく世界から消し去ってしまうかもしれない。僕は、なんにも忘れることなんてできなかったのに。
 ちゃんと不幸になってもらわないと。僕から奪った幸せの分。だからそれまで、生きなくちゃ。"死にたい"を、なくさなきゃ。
 だから必死に、機械的にでも、塗りつぶして、沈めて、快楽を求める。
 僕も所詮、あの狂った人間の息子なんだなと思ったら、ことが済むまで涙が止まらなくなってしまった。


「もしもーし、スバルくん。相馬ミドリを殺した、雨宮チカっていう者なんですけどー」


       ※



「…………は? 兄なら六年前に死んでますけど。ご友人ですか? なんで、アオイの、」
『だから、おまえの兄さんだよぉ。頼むからさー、勝手にひとを亡霊にすんなー』

 どこか気だるげな、ねちっこい男の声が受話器から耳に伝う。わけがわからなかった。
 きょうは早上がりなので、休憩室でゆっくり、夕飯がわりのピザを食べてから帰り支度をしていたのだけど。携帯電話の通知ランプがいつもよりたくさん光っているので見てみたら、連絡の途絶えていた(既読はついたので、無事だろうと思った)アオイから五回も不在着信があって。何事かと思っているとまた携帯が震えたので、電話に出たらこの様だ。
 うしろでうめき声のような音が聞こえる。だれかが彼の近くで嘔吐しているのだと、すぐにわかった。ときどきレジ前で戻す客がいるのだ。とくに子どもが多いけれど。

『きみの大事なアオイちゃんを拉致っちゃいましたー。彼女を殺されたくなければ、今夜0時にひとりで海浜公園まで来てくださいねー、ひとりでだよーーーっ』
 
 一方的に通話を切られる。アオイを、兄さん、が、誘拐、した? いつ。どうやって。なんで、なんでなんで。
 眩暈がしてきて、ロッカーの前で座り込んだ。手にうまく力が入らず、携帯電話を何度も床へ落としてしまう。
 たしかにどうしようもなく、あれは兄の声だ。六年前、僕たち四人家族が巻き込まれた交通事故で亡くなったはずの、雨宮チカの声。

「どういう、ことだよ」

 僕は疲れているのだろうか。よくできた幻聴と妄想だな、小説一本は書けるぞ。そんなことを考えてはみたものの、最後に一瞬だけ聞こえてきた叫び声も、おそらくアオイのものに間違いなかった。
 現実逃避をしていても、しかたない。アオイを助けにいかないと。

「雨宮せんぱーい、なんかあったんすかー?」

 カーテンの向こうから、休憩に入ったばかりのカルボナーラくんこと、岸くんが訊いてくる。慌てて荷物をまとめ、靴を履き替えて更衣室から出た。

「なんでもないよ。 ……あれ、今日のメインはドリアなんだ」
「二食連続はちょっちきついですから、へへっ」
「相変わらずよく食べるよねー」
「食べ盛りなんです! これでも削ってるんすよ」

 爽やかな笑顔がまぶしい。今回のメニューは、海老サラダとミートドリアと日替わりスープとスパイシーチキン、のようだ。
 そういえば、内定をもらって論文も書き終えているからもう暇なんだとか言っていたっけ。それでシフトを増やしたのか。僕ならぜったいに遊び呆けている。カメラ片手に四十七都道府県全制覇! とか、引きこもってゲーム三昧! とか(それができる経済力の有無はさておき)。
 生前、父が酒を飲むとよく、公務員になれと口うるさく言ってきたのを思い出した。壁にかけられたシフト表を眺め、今月分の自分の給料をざっと計算して、息をつく。岸くんは、初任給でこの額を追い越してしまうんだろうな。
 僕には、そんな当たり前を叶えられそうにもない。だから素直に尊敬してしまう。

 退職代行サービスって、即日でも頼めるかな。

「改めて、おめでとう」

 チキンを頬張っていた彼が、目を丸くして振り返る。
 僕が死ぬことになっても、兄を殺すことになっても、アオイを取り返しにいかなきゃ。大好きなこの場所を、この人たちを、僕のちいさな世界を、守るために。

「ありがとう、ございます?」
「じゃあもう帰るわ。お疲れ様」
「あ、あのっ、スバル先輩!」

 休憩室の扉に手をかけようとしたとき、がたんっ、と椅子を蹴飛ばして岸くんが立ち上がった。
 スープが若干こぼれているのも気にとめず、まっすぐな笑顔を向けてくる彼に、特別な意図はなかったのかもしれないんだけど。

「また、先輩のカルボナーラ、食べさしてくださいね」

 ………………あー、
 ああああああもう。

「うん」

 しょうがないな!

Re: すばる ( No.5 )
日時: 2020/09/17 18:12
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)



 なーんて、自分で自分に格好をつけてはみたものの。公園までの道中、これほどまでに心細いとは想定外だ。
 街灯も、人や車の往来もない、ただ広いだけの道を早足で進んでいく。海浜公園も約束の時間も、すぐそこまで迫っていた。
 敵は一人だが、おそらく僕よりも腕力があるし僕の味方だってだれもいない。家を出るとき、カッターナイフでもハンマーでも、なにか武器を持っていこうかと一瞬心が揺らいだけれど。こんな僕をこれまで信用してくれていた岸くんや、店長たちを、正面から裏切るようなことはしたくない思いが強かった。
 とにかく全力を尽くそう。
 携帯電話をポケットにしまって、公園へ足を踏み入れる。松の防風林をくぐりぬけるとすぐに、月明かりに照らされるだいぶ背の伸びた兄と、以前よりさらにやつれたように見えるアオイの姿を見つけた。やっぱり幻覚なんじゃないかと目をこすってみたけど、ちゃんと影がある。現実だ。

「にい、さん」

 かすかな波の音に紛れて、こぼれる声が、震えていた。
 目を細めるチカの足下にいるアオイは、僕が昔持っていたのと同じパーカーと上着を着ている。縛られているわけでもないのに、彼女はチカから離れようとしない。誘拐されていたというのは本当だった。
 僕はさらに二人に近づいていきながら、たずねた。

「兄さん、どうしてこんなことをしたの。お金が目的じゃないんでしょう。アオイのお母さんを殺したっていうのは本当? もしかして、兄さんは連続殺人の犯人なの? どうして……生きてるの」
「まあまあ、焦るなって。そんなにいっぺんに訊かれても答えらんねえし」

 へらへら笑いながら、チカは答えた。
 喉の奥に、苦味がこみ上げてくる。いやなことを思い出してしまいそうで、背中に冷や汗が伝った。もう十分冷えてます、間に合ってます。

「その顔が、俺は昔ッから大嫌いなんだよ」

 左の頬に重たい衝撃があって、流れるように芝生の上へ転んでしまった。いきなりグーで殴るか、ふつう。なんか遅れてじんじんしてきたし、口の中切れてるし、血は不味いし、うわあいてえ。

「俺よりも馬鹿なくせに、要領ばっかりよくて、呑気に生きてきやがって。俺は毎日毎日、親と先生の期待に応えるために必死に勉強して、いい兄ちゃん演じて、血を吐く思いで生きていたのに」

 ああ、子どもの頃もそんなことを言われて、同じように殴られてたっけな。両親はもちろん気づいていたけれど、決して兄さんを叱らなかったんだ。兄さんのほうが、僕よりずっとずっと出来がいいから。むしろ加勢して悪口とか言う人だったもんな、母さんなんか。……いまさら思い出した。これって走馬灯だったりして。

「父さんたちが死んでから、俺、すっごく虚しくなった。なんであいつらは先に死んじまうんだよ、なんで俺はおまえと生き残っちゃったんだよ」

 そんなこと、僕にきかれても。
 加害者はあのとき即死しているし、家族連れの車を殺すまで煽るような頭のおかしい人間のすることなんて、理解のしようがない。あ、そういうことじゃないか。
 何度も身体を蹴られながら、殴られながら、ぼんやりしてきた頭で考える。冷静に考えていられるのは、そのおかげかもしれない。もし正気だったら、発狂していたはずだ。あの事故のあとから、僕の脳みそでは変なスイッチが入ってしまったようで、兄さんの関わる記憶は地雷でしかなくなってしまったから。

「父さんも母さんも、大嫌いなのに。まだ生きている自分のことが許せなかった。あのときから、死にたくて死にたくてたまらなくなったんだよ、俺は。だから、俺のことを好いてくる女たちをいままで何人も道連れにしようとしてきた。でもあいつら、最後には俺のことを異常者呼ばわりして、みんな離れてくんだ。結局は嘘つきなんだよ。すぐほかの男に股開いてるしなぁ」

 孤独な人だな、兄さんは。

「それなのにおまえは、俺を家から追い出して勝手に存在まで消して、何事もなかったように生きててさ、くっそムカつく。俺ばっかりこんな思いして死ぬなんてまっぴらだ。どうせならおまえを不幸に突き落としてから死にたかった、だからミドリを殺しに帰ってきたんだよお」
「アオイの、おかあさん? どー、して、」
「あいつさ、死ぬ間際に笑ってたんだ。やっと会えるねって。馬鹿馬鹿しくて死ぬ気失せたよ。そもそもおまえは何にも覚えちゃいなかったし……もう何度死ぬのを諦めてきたのかな、はは」

 なんだか会話が噛み合わない。僕の声が聞こえていないだけなのかもしれないけど。
 拳は止まなかった。そんなに殴り続けていたら、兄さんだってかなり痛いはずなのに。

「だけど、いまの俺にはアオイがいる。このままおまえを殺して、アオイとふたりで一緒にいくんだ。最初からこーすればよかったかなあ!」

 襟元をつかんで叫ばれる。やっぱり無茶だったかな、手ぶらでボス戦に挑むなんて。
 空のてっぺんに浮かぶ、満月の光がまぶしい。なんだか気が遠くなってきた。

「ばいばーい、昴琉」

 意識を手放す直前、兄さんの笑う顔が見えたのは、きっと気のせいじゃないだろう。


 

Re: すばる ( No.6 )
日時: 2020/10/17 02:24
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)

 お気に入りのブランコと大きなすべり台がせっちされている中央公園は、家からじてんしゃで二十分くらいのところにある。かぞくのだれにも負けないように早く家にかえって、かぞくのだれにも内緒で、ほうかごは毎日公園にあそびにいっていた。家の中はいごこちがわるいから。
 小学校にあがって、お兄ちゃんはよく、ぼくを叩くようになった。お母さんはそもそもぼくを無視するし、お父さんも、お兄ちゃんをおこらない。でもお父さんは、ときどきひみつでおかしとかを買ってくれるから、すこし好きだ。
 もうすぐやってくるゴールデンウィークに、お母さんとお兄ちゃんは二人だけでおばあちゃんの家に行くと言っていた。きょう、帰ってからのことを考えるとゆううつになるけど、ゴールデンウィークのことを考えればとても楽しい。何度でもすべり台にのぼれちゃう。 

「お? めずらしいかおぶれ」

 八回目をすべろうとしたとき、下の広場に、見なれない親子がいるのを見つけた。年少さんか、年長さんくらいの女の子と、そのお母さん(たぶんきっと)。女の子はなぜか地面にしゃがみこんでいて、お母さんはその子に話しかけているように見えた。
 しゅーーーーーーーーっ、とすべりおりていって、ぼくは女の子に話しかけにいった。

「ねーねー、いっしょにあそぼーっ。ぼく、雨宮スバルっていうの。小学一年生。きみは?」

 女の子は、もじもじしながら黙って目をおよがせていた。ぼくを見たり、お母さんを見たり、地面を見たり。いそがしそうに目玉を動かしている。口はつぐんだまま。
 お母さんが、ごめんねえ、とやさしい声でぼくに言った。

「まだおしゃべりが難しいんだ」
「ふーん」

 ようちえんの星組で、そんな子がいたなーと思い出した。コマ回しと鉄棒が、すごくとくいな男の子。

「この子は、相馬アオイ。年少さんよ。わたしはアオイのお母さんで、ミドリっていうの。よろしくね」

 はいっ、よろしくおねがいします! とおじぎでもしようとしたら、アオイちゃんがいきなり立ち上がって、ぼくの手をひっぱって走り出した。
 あんまり遠くにいかないでねー。ミドリさんの声が小さく聞こえたので、空いている手をあげて、へんじをしておいた。

「うおおおお、アオイちゃん、ブランコに乗るの?」

 走りながら、大きくうなずく。こういう風にならおしゃべりできるのか。

「ブランコはにげないから、ゆっくり歩いてこう! ころんじゃあぶないでしょ」

 あわてて言うと、アオイちゃんは急ブレーキをかけた。ぼくのほうが転びそうになってしまう。あぶないあぶない。
 息を切らすぼくを見て、アオイちゃんが楽しそうにわらっている。さっき座っていたとき、なんだかかなしそうに見えたから、わらってくれたのがうれしかった。

       ◇


 これは、彼ら三人の物語。
 今夜限りで鮮明に彼のもとによみがえる、無かったことにされた、三人の記憶。



2.『ミドリ』


「スバルくん、いつもここで一人で遊んでたの?」
「うん。ときどきクラスの子とか、ようちえんのときの友達とかがいて、いっしょに遊ぶこともあるよ」
「そうなんだ」

 夏休みが始まって、子どもたちもだんだん暑さになれてきた頃。
 砂場でお城をつくるアオイを木陰のベンチから見守りながら、近くのコンビニで買ったアイス(二人分の容器を引っ張って外すやつ)をふたりで食べて、話していた。
 アオイは歯にしみるのが嫌で食べないので、代わりに彼女の大好きなフルーツヨーグルトを選んだのだけど、心配になるくらいの速さであっという間に完食して、砂場に走っていってしまった。物心ついたときから食べるよりも遊んでいたいタイプだ。わたしもそうだった。

「アオイちゃんとミドリさんは、この公園にくるようになったの、最近だよね?」
「……うん。駅のほうに住んでるから、ここからはちょっと遠いの。前までは北公園によく行ってた。となりがアオイの幼稚園だから」

 じゃあすみれ幼稚園かー、卒園してもいっしょに西小に通えないんだね、とスバルくんがさみしげに呟く。なんだか微笑ましいし、ありがたい。

「いつもの公園には知り合いがたくさんいて、息苦しくてね。アオイも同じ組の子は苦手だから、ここならいいかなあと思って、来てみたの。そしたら、スバルくんが声をかけてくれた」

 大きな瞳で見上げてくる彼のやわらかい髪を、そっと撫でる。天使みたいな笑顔の子だと、あのとき、思ったっけ。
 アオイがいてくれるから孤独を感じたことはないけれど。少しだけ、心細かったことは、不安だったことはたしかだ。
 夫が病死してから、もう二年が過ぎる。見上げた深い青空には、あの日とそっくりな、高い高い入道雲が伸びていた。うだるような暑さと、近くの木々にとまる蝉たちの鳴き声が、時間感覚を狂わせそうだ。
 精密検査で、脳幹近くに悪性腫瘍があるとわかったときには、もう手遅れで。ほとんど苦しめずに逝かせられたことだけが、不幸中の幸いだったと思う。
 夫の死後、決意した。だれがなんと言おうとも、わたしの手で、娘のアオイを育て上げると。
 けれども世間はそう甘くなかった。ただでさえ子持ちへの風当たりが強い会社に、シングルマザーの居場所なんてあるわけがなく。アオイがよく体調を崩すため、遅刻や早退、欠勤を繰り返していたところ、結果的に首を切られてしまったのだ。よく一年以上も持ちこたえたなと、部長には褒められたけど、半分以上嫌味だろう。
 その後、もちろんすぐに次の就職先を探した。ざっと三十回は面接を受けに行ったが、結果は全滅。断られた理由も、ほぼすべて同じ。おまえにできることは何もない、何もするなとだれかから言われているような気がしてきて、一旦すべて諦めることにした。
 思えば、葬儀のあとからなかなかアオイに構ってやれる暇がなかった。しばらくはゆっくり休もう。アオイのそばにいてあげよう。贅沢をしなければ、保険金と貯金を切り崩してやっていける。いまは、それがわたしの仕事なのだと、自分に言い聞かせつづけた。あの子の言葉が遅いのは、事実だ。でも夫が倒れてから、それまでできていた簡単な受け答えすらも難しくなってしまったのだ。
 ストレスのせいだろうから、ケアを続けていけばきっとまた話せるようになる。そう医者は言っていたものの、もし一生このままだったらと考えると、不安で仕方ない。現に幼稚園ではほかの子どもたちからいやがらせを受けていると、担任の先生から聞いているし。
 「パパがいないからふつうの子と違うんだ」「赤ちゃんみたーい」ひどいときは、そんなことをわたしの目の前で言われた。本人は当然言い返せないからストレスが溜まるし、わたしは彼らの保護者に開き直られたり、逆ギレされたりで散々だ。若い女だから舐められるのかもしれない。
 …………もしあのとき、癌を患ったのが夫じゃなく、わたしだったら。夫じゃなく、わたしが死んでいたら。
 こうは、ならなかったのかなあ。
 そんなこと、スバルくんに話したって迷惑なだけなのに。

「ぼく、ふたりに会えてよかったよ。ミドリさんが生きててくれて、よかったなって思うよ」

 あの日と同じ、天使みたいな笑顔で言うものだから。

「ご、ごめんなさいっ、アオイちゃんのお父さんが死んでよかったってわけじゃないんだ!」
「わかってるよ。ありがとうね、スバルくん。ほんとにありがとうね」

 苦しくて、嬉しくて、涙が止まらなかった。

Re: すばる ( No.7 )
日時: 2020/09/19 18:30
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)



 十月の半ば頃、広告のチラシやDMに混じって、二通の手紙が自宅に届いた。
 ひとつは、スバルくんから。学校行事の関係で忙しいため、しばらく会えそうにないと書かれていた。何かあったときのためにと、念のため、住所なんかを教えておいたのだ。家族に知られたくないというので彼の連絡先は訊かないでおいた。いろいろと事情があるのだろう。
 問題は、二通目。
 ふたつとなりの県に住む母から、娘(彼女にとっての孫、つまりアオイ)のことについて話がある、近いうちに家へ行くという内容を長ったらしい前置きのあとに書かれた手紙だった。
 母は、わたしが仕事をやめていることも知っている。アオイを引き取らせろと言うに違いない。こんな生活じゃ可哀想だとか、将来が心配だとか、一見まともな理由を並び立てて。
 十一月の頭に母が来て、本当に同じようなことを深刻そうな顔をして語るものだから、おかしくて思わず笑ってしまった。もちろん真剣に聞けと怒られたけど「聞いてるから笑ってんのよ」父が本気でアオイを引き取ろうとしているから、その忠告と手助けになればというつもりらしい。この人に何ができるというのだろう、父にはいつもへこへこして逆らえないくせに。

「アオイの学校が冬休みになったら、お父さんも連れてくるから。ふたりでちゃんと話し合いなさい。いいわね?」

 見送り先の駅で無責任な言葉を残して、母は改札をくぐっていく。当日はどこか旅行にでも行ってやり過ごそうかな。どうせ図々しくうちに泊まっていくつもりなのだろうし。南の島とかどうだろう、予約とれるかなー。
 アオイは母の姿が消えるまで手を振りつづけていたけど、当の本人は振り返ってくれることも、もちろん手を振り返してくれることもなかった。本当は孫のことなんてどうでもいいんだろうな。世間体と自分自身を守りたいだけ。わたしが働き続けていたとしても、同じことだろう。
 そんな両親と暮らすのが、関わるのがいやで、家を出ていったのに。呪縛はそう簡単に解けないものらしい。
 どれほど抵抗したところで、この子が連れていかれてしまうのも、時間の問題なのかな。

「アオイ、帰る前にハンバーガー食べてこうか」

 きのうから雨の降り続いている空を見上げながら、問いかける。
 不安げな顔をしていたアオイが、だんだんと笑顔になって、水溜まりの上で跳ねだした。

「こらこら、お気に入りの長靴とスカートが汚れてもいいのかい」

 その頭をわしわしと撫でる。彼女は照り焼きバーガーが大好きなのだ。




「あれ、スバルくん?」

 一時間後、ふたりでアパートに戻ると、一階の角部屋のドア……つまりわたしたちの住む部屋のそばに、彼がぼんやりと座り込んでいた。とくに荷物はなく、髪も服もびしょ濡れで地面のコンクリートまで大きく染みている。傘を差してこなかったらしい。

「思ってたより、けっこー遠かったです」
「どうしたのよ、そんなに濡れて」
「……ふたりに会いたくなっちゃったんだ」

 弱々しく、スバルくんが笑った。
 それだけの理由で、ここまでするだろうか。わたしたちが帰ってこなかったらどうするつもりだ。

「はやく上がってシャワー浴びなさい。服が乾くまで、着替えも貸すから」

 鍵を開け、彼のタオルと着替えを用意しに部屋へ入ろうとした、そのとき。

「すぅくん」

 雨音に混じって、声がした。

「すぅくん、しゃむい、しゃむい」
「ははー、ほんとさむいよーアオイちゃ……ん?」

 スバルくんの手を握りながら、アオイが喋ったのだ。二年ぶりに。

*

「アオイちゃんの声、はじめて聞いたよ。そうぞうしてたより高かった」

 お腹いっぱいご飯も食べて、歩き疲れたせいか、となりで毛布にくるまって眠っているアオイの寝顔を見ながら、スバルくんが呟いた。両手でココアの入ったマグカップを持って、ときどきずずずっと啜る音が聞こえる。

「よほどスバルくんに会いたかったのかもねー、久しぶりだったから。わたしもびっくりしたわ。運動会と発表会と、夏休みに書いた作文の表彰式だっけ、どうだった?」
「無事におわったよ。発表会はかたづけをサボる子たちがいて、そのときだけだいらんとーだったけど」

 大乱闘か。ブラザーがスマッシュしちゃうのか。それは大変だ、ふっふっふ。
 夕飯を作るための前準備がひととおり終わったので、自分の紅茶を片手に彼のいるこたつの向かいに入った。そろそろ本題に入ろう。

「あらためて訊くけど、どうして傘も差さないで、いきなりうちに来たりしたの? 責めているわけじゃなくて、何かあったのなら聞かせてほしいの」
「……かぞくと、ケンカしちゃって。家を出たときはちゃんと傘も持ってたんだけど、ちょっとコンビニによったら傘立てからなくなっちゃったんだ。家には帰りづらいし、ミドリさんたちならアパートにいるかなって思って、それで、ここに」
「そう。おうちの人は、きょうはどうしてるのかな」
「お父さんはお仕事で、お母さんならいつも家にいるけど、ぼくとはあんまりお話ししてくれないから、その」

 アオイが敏感なこともあって、子どもに対してはとくにやわらかい態度を意識しているが、思考や心の声がだだ漏れだっただろうか。気まずそうに目を泳がせるスバルくんの表情を見て、確信する。
 夏休みの頃、彼には小学五年生の兄がいると聞いていた。母親に関しては虐待を受けている自覚がないらしく、同じようなことを以前から言っていたけれど、兄に関しては口をつぐむことが多かった。

「さっき痣を見ちゃったんだけどさ。ふだんから、お兄ちゃんに痛いことをされてるんじゃない?」

 驚いたせいで、マグカップが勢いよく机のふちにぶつかって、中味がこぼれてしまった。

「わっ、ごめんなさい!」
「だいじょうぶ。ちょっとだし、布団にはかかってないでしょう?」
「うん」
「ごめんねえ、誘導尋問みたいなことしちゃって」
「ゆー、じん……?」

 なんでもないよーっ、とにこにこ笑いながら近くに置いてあった布巾でココアを吸いとる。
 シャワーを浴びようとしていたスバルくんに新しい着替えを持っていったとき。背中に、しかも肌着で隠れる場所にたくさん痣があるのを見つけてしまった。最近できたものであろう紫のものから、ずいぶん古い、消えかけの茶色いものまで。
 鏡でも確認しづらいから、本人も気がついていないのかもしれない。今年は学校のプールも改修工事のせいで、一度も入れていないと言っていたし、友だちや先生が気づく機会もないのだろう。
 布巾を洗ってからこたつに戻ると、彼はすでに残ったココアを飲み干していた。

「あのね、あなたのお兄ちゃんがしていることはもちろん、お母さんがしていることも本当はいけないことなんだよ。わたしたち大人は、そういう子どもたちを守ったり助けたりしなきゃいけないの」
「ミドリさん……」
「ん?」
「このこと、ふたりの秘密にしておいてくれませんか」
「どうして?」
「お兄ちゃんのことがばれたら、今度はお母さんまでぼくをなぐるかもしれない。そうなったら、じどーそーだんじょってとこに連れてかれちゃうんでしょう? お父さんとも離れなくちゃいけなくなるのは、いやだから」

 父親は自分を殴らないし、無視もしない。だから父親だけは好きなのだと、彼は言う。わたしは両親とも嫌いだし、彼の気持ちを理解することは難しいけれど。ひとりだけでも家族に味方がいるのなら、もう少し様子を見てみてもいいかなと思った。
 それに、彼は強い。この歳で、ここまで自分の考えを言語化できて意見もはっきり言えるのだから、いざというときは自分で助けを求められるだろう。

「わかった。でも、ほんとに危ないと思ったら通報する」

 九年後、その判断を後悔することになるとは露知らず、わたしはスバルくんの要求を飲んでしまった。

「…………ねえ、ミドリさんも、何かあったの?」

Re: すばる ( No.8 )
日時: 2020/09/20 18:37
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)


 わたしばかり彼の事情を聞き出しておいて、自分ははぐらかすのもおかしいと思ったので、一連の出来事を素直に説明した。ちょうどアオイは眠っているし、幼稚園のママ友と違って、だれかに言いふらされる心配もないから。

「へー、おばあちゃんが……」
「アオイはきっと嫌がるだろうし、わたしもあの人たちにアオイを預けるのは嫌だけど、あの家なら経済的な幸福は約束される。学校は私立にも通えるし、この子の好きなピアノや水泳もいい環境できちんと学ばせられる。可能性を広げられる。将来のことを考えると、頭ごなしに否定するのも気が引けるんだよねえ。どうするべきかなあ」

 机に頭を乗せ、壁の時計を見上げる。もうすぐ三時になるころだった。
 この秋になって初めてつけた暖房の音に耳を澄ませながら、目を閉じる。不意に、以前の職場での、お局からの理不尽な扱いや、上司からセクハラを受けていた日々を思い出して寒気がした。大丈夫、ここには自分を傷つける人間はいない、彼らの悪意はもう届かない。言いきかせて、静かに深呼吸する。
 お局様は、過去に五年以上不妊治療を続けたが子どもを授かることができず、諦めたあとに夫側に原因があると判明した。それがきっかけで離婚したらしい。同僚から聞いたことがある。
 あの会社の息苦しさを作っている一因であり、一員であると、だれもが気づいていたのだろう。
 表面ばかり見て、子どものいる家庭がすべて幸せに思えるのかもしれない。働く母親が楽をしているように感じるのかもしれない。彼女の言動を見ているとそれがひしひしと伝わってくる。どんな背景があろうと、そんなものは身勝手なひがみだ。
 子を産むことだけが母親の役割や責任でもないし、育児や教育も、母親ひとりでするものじゃない。父親はもちろん、本来なら地域や社会もいっしょにするものだ。あの人にも、あの会社の人たちにも、面接で落ちた企業にも、わたしたちの気持ちはきっと理解できない。思い出すだけ無駄だ。
 アオイにも、スバルくんにも、こんな思いはさせたくないなあ。
 十年後、二十年後三十年後、社会はすこしでも明るいほうへ向かっているだろうか。そうすることを諦めてしまったわたしが言えることじゃないけど。

「どっちが幸せかなんて、アオイちゃんが大きくなってから決めることじゃないのかなあ」

 わたしだってそう思う。

「お金はだれでも稼げるかもしれないけど、ミドリさんと暮らす幸せは、ミドリさんにしか作れないし」

 わたしだって、そう思う。

「ミドリさんは、どうしたい?」

 未来が、わかればいいのにねえ。



       ◇


「ありがとうミドリさん。いろいろ良くしてもらって」

 すっかり服が乾いて、ぼくもべつに家出をするつもりでもなかったので、ミドリさんが家の近くに車で送ってくれた。玄関まですこし距離があるので、使っていないビニール傘(幸運にも、家から持ち出したものとよく似ていた)をちょうだいして、歩いていくことにする。へんきゃくふよーだと言われた。

「まあ、暇ですから。でも今度からはなるべく携帯に電話してね」
「はぁい」
「いい返事だっ」

 わしわし、と頭をなでられる。

「アオイちゃんも、ばいばい。明日からは公園に行けるからね」
「うんー」

 じゃあねーと手を振り合って、ドアを閉めた。
 さっきより強くなっている雨の中、ふたりの乗る車を見送ってから、来た道を引き返していく。お兄ちゃんは今ごろ中学受験のための家庭教師の先生が来ているから、部屋で机に向かっているだろうけど。見つかりにくいように念のため、わざと家を通りすぎたところで降ろしてもらったのだ。傘、もらっておいてよかったな。
 ぼくは帰ったら何をしよう。国語の教科書のつづきを読もうかな。
 学校に通うようになるまで勉強っていうものがこんなにおもしろいなんて思わなかった。知らないことをどんどん知られる。とくに漢字が書けるようになるのがおもしろくて、入賞した作文のごほうびでこの前、こっそりお父さんに上の学年の練習帳を買ってもらった。こんどは二年生の計算問題集もお願いしよう。塾にいくのはお母さんのきょかがいるし、お金もたくさんかかるから。
 最近学校でもはやっているアニメのオープニング曲をちいさく口ずさみながら玄関にあがって、手を洗ってからぼくの部屋がある二階まで階段をかけのぼった。
 ぼくの部屋があるということはつまり、お兄ちゃんの部屋もあるということで。

「さっきの車、だれ」

 ドアを開けようとしたとき、うす暗い、廊下のおくの窓際でたそがれていたお兄ちゃんが、きいてきた。ぼくは振り向いて初めてそれに気がついたものだから、ぎょっとしてしまう。

「お友だちの、お母さんに会ったから、送ってもらったの」
「……ふぅん」
「か、家庭教師の先生は?」
「来てねえよ。途中で事故渋滞に引っかかったんだってー」

 目を細めてへらへら笑いながら、お兄ちゃんはすぐそばの自分の部屋へもどっていった。
 ぼくも部屋に帰って、カギをかけてから、やっと手が震えていることに気がついた。


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