複雑・ファジー小説
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- すばる【完結】
- 日時: 2021/04/08 20:57
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
- 参照: https://www.kakiko.cc/novel/novel2a/index.cgi?mode=view&no=5710
あいつが不幸になってくれたおかげで、僕は幸せでいられる。
だれかが死んでくれたおかげで、わたしたちは生きている。
◇
■ もくじ ■
1.『アオイ』>>1-5
2.『ミドリ』>>6-10
3.『スバル』>>11-16
本編>>1-16 あとがき>>17 あとがき(2)>>18
■ おもな登場人物 ■
雨宮 昴琉 …二十二歳、男。地元のレストランチェーンで働いている
相馬 葵 …二十歳、女。翻訳家になるのが夢。予備校生
相馬 翠 …アオイの母。未亡人
雨宮 千嘉 …スバルの四つ歳上の兄
■ おしらせ、その他 ■
2020年冬小説大会 複雑・ファジー部門で本作が銅賞をいただきました。
応援、投票してくださった皆様、ありがとうございました。
URL参照『祈りの花束【短・中編集】』にて掲載、本作の前日譚・番外編『Chika』完結済みです。
執筆開始 2020.8.22(書き直し二回目※)
執筆終了 2020.9.11
投稿 2020.9.13 〜 2020.9.28
イメージソング 『EGO』小林未郁
イメージエンディング・原作※イメージソング 『Time Forgotten』Brian Crain & Rita Chepurchenko
※あとがき(2)>>18参照
暴力表現や若干の性描写などがあるため、苦手な方は閲覧をお控えください。
また、本編中の文字化けは意図的なものです。ご了承ください。
- Re: すばる ( No.1 )
- 日時: 2020/09/13 22:37
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
あの頃から、ずっとずっと、死にたかった。手のひらを満たしていたちいさな幸せが、指の間からみるみるうちにこぼれていって、掴めなくなってしまったあの頃から。
いまさら失うものなんて、もう何もない。でもどうせ死ぬなら、ひとりぼっちより、だれかと一緒がよかっただけで。彼女を相手に選んだのは、遠回しにでもあいつを不幸にしてやりたかっただけで。
ほんのすこしの悪意と、力で、その願いはいともたやすく叶うのだと知った。
安いものだ。人の命なんて、死なんて、安い。軽い。僕はこれまで何に怯えていたのだろうか。なんだか笑えてくる。
腹や胸からあふれていく血をおさえようともせず。冷たい地に伏し、浅い白い息を吐きだすだけの彼女はもう、僕のことも、生の可能性すらも眼中にないようで。どうせなら、正当防衛で刺し返されたいのになあ。
僕もそろそろ追いかけようかと、ナイフの刃先を自らに向けた瞬間。
「やっと…………会えるん、だねえ」
消え入りそうに、うっすらと微笑みながらそう言う彼女の声が、聞こえてきて。頭の中の回路が、ぶつん、と切れてしまった。もうこれで、何度目になるだろう。
彼女の最期を見届けてから、ナイフを鞄にしまった。見上げた夜空はあまりに美しい、浅い闇で。
僕は、もっと深い闇が見たいから、
だから
いまは死ぬのやーめた。
◆
1.『アオイ』
僕のおだやかな日常生活に変化の兆しがあらわれたのは、十二月になったばかりの週末のことだった。
午後九時半。厨房のタブレット端末内にある僕の名前を退勤表示に切り替え、休憩室の一角で私服に着替える。仕切りのカーテンの向こうでは、僕と同じ年に採用された男子大学生が、いつものようにまかないの大盛りカルボナーラをすすっていた。
「素朴な疑問なんだけどさ、夜飯、いつもそればっかりで飽きないの?」
「飽きないっすねー。雨宮先輩が作るととくに美味いんですよ」
「……それはどうも、ありがとう」
マニュアル通りに作っているだけなのだけど。
「来週もお願いしますね〜」
ずずっ、ずっ、ずるるるるっ。
おまえは蕎麦でも食っているのか、と突っ込みたくなるようなすすりっぷり。それでソースも卵も飛び散らないのだから、尊敬に値する。
消臭スプレーを浴びてから上着を羽織り、カーテンを開くと、ちょうど同じタイミングで店長が休憩室へ顔を出した。
「スバルくん。アオイちゃんが来てるよ、二番の席」
「ありがとうございます」
裏口から出て帰る予定だったが、予想外の来客に進路を変更する。ホールに出ると、窓際の二人席、ソファ側に座る彼女が、ひらひらと手を振ってきた。ほかに客はだれもいない。夕飯時の賑わいが嘘のようだ。
「店員さんのおすすめはなんですかー」
「当店不動の人気ナンバーワン、ミートドリア半熟卵のせ、ですかねえ。味もコスパも良しです」
メニューの冊子を流し読むアオイに適当な返事をしてから、荷物をおろして向かいに腰かける。それからすぐに、ドリアが運ばれてきた。もう頼んでたのかよ。
わーあおいちゃんひさしぶりーなんかやせたー? おひっさーえーそお? と、力が抜けそうな会話がかたわらで繰り広げられている。アオイはもともと、ここで僕たちと働いていた一員なのだ。
「二人とも、ゆっくりしてていいからね。時間も時間だし、きょうはもうほとんど暇だから」
「ありがとう」
「あんがちょー!」
同僚が仕事に戻ったのを確認してから、ゆるやかに本題へと入った。
「どうしたのアオイ、こんな時間に?」
「最近生活リズムが乱れちゃってね。いま、わたしの体内時計は午後二時を指しているのさっ!」
この店はボケ要員製造所なのか。喉元まで出かかったツッコミは、お冷やとともに飲み下す。
「その調子じゃ、予備校もさぼってるでしょう」
「あ、もうばれた」
「なんかあった?」
「んー」
卵を崩して、ゆっくりと、ドリアを口に運ぶ。
わざわざ僕に会いに来たのだから、なにか話があるのだろうとは思っていた。
互いに連絡先は知っている。つまり、まあ、それほど重要なことなのかもしれない。こんな場所でいいのかな。
うつむきながら言葉を選んでいるアオイを、しずかに待った。有線で控えめに流れている、最近話題のJ-POPに耳を傾ける。こんど二人でカラオケにでも行こうか。なんて、考えて。
「ミドリが、殺された」
きっかり一分後。選ばれたのは、あやた……じゃなくて、わりと物騒な言葉だったのだけど。
「……だれ?」
「相馬翠。わたしの母親」
「え、お母さん、が、こ」
僕の反応に、アオイが眉をひそめた。声が大きかったかもしれない。
時間差で事態を理解する。
殺された、って。どうして。
「最近、ニュースで取り上げられてるでしょ。県内の連続殺人事件。狙われているのは若い女性ばっかり」
「まさかそいつに」
「それは、まだわかんない。だから司法解剖にまわされて、詳しく調べられるの。お葬式は当分先かなあ」
アオイは、淡々と語った。母親が仕事に行ったきり帰ってこなくなり、捜索願いを提出してから数日後に、警察から連絡があったのだそうだ。
殺害の翌日、中央公園の林の中に放置されていた遺体を管理者が発見し、持ち物から身元がわかったらしい。胸や腹に何ヵ所も刺し傷があり、その手口が先の殺人事件と酷似していたことから、同一犯の疑いがあるとして捜査が進められている、と。そこまで話しきって、大きくため息をついた。
「悲しいとか、思える余裕が心にない。疲れた」
なんだか空元気だな、やつれたなと、感じたのは気のせいではなかった。
彼女の家は母子家庭だったはずだ。父親は遠い昔に亡くなっていると聞く。最近成人しているし、諸々の手続きも、全てひとりでこなしてきたのだろう。僕のほうが二つ年上だけれど、同じことをやれと言われても、できる気がしない。実際、なんっにもできなかったもんなあ。母も父も兄もみーんな死んでしまった、六年前。
「大変だったね」
「うん」
「ごはんくらいなら作りにいくから、アオイさえよければ、連絡して。しばらく休んだほうがいいよ」
彼女には、返したい恩がある。高校生のとき、アオイの存在にとても救われたから。
あれ以上留年したら、学校はやめるつもりだったのだ。
だから、ほんの少しでも。できることがあればいいなと。
「………………すぅくん、スバルぅう」
「はーいはい。がんばったね」
ぼろぼろと涙をこぼしはじめたアオイが、両手を僕のほうにさまよわせてきたので、席をたって受け入れにいった。声を押し殺して泣いているその細い背中を、よーしよし、とさすり続ける。
ドリアはまだ半分以上残っていた。バイトの頃、仕事が終わるといつも賄いで頼んでいた、彼女の大好物。
頑張って、食べたんだろうな。
- Re: すばる ( No.2 )
- 日時: 2020/10/17 01:18
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
アオイと出会ったのは、十九歳の春、つまりは二度目の高校二年生になったときのことだ。僕の通う隣町の通信制高校に、アオイは入学してきた。十七歳になる、高校一年生として。
小さなビルの一室であるあの学校には、わけありな生徒たちがたくさんいた。怪我や病気で進学が遅れたり、勉強についていけなくなった人、普通制高校を退学せざるをえなくなった人、不登校や引きこもりの経験者。もう一度学びたいと門戸を叩く中卒の大人も、ときどきいる。僕もアオイもそんな、わけあり、のひとりだった。
はじめて声をかけられたのは、まだアオイが入学してきたばかりの頃。昔の知り合いに似ているといった感じのことを言われたけれど、僕にはまったくおぼえがなかったので、人違いだとあしらった。
二度目に声をかけられたのは、それから半年以上が過ぎてからだ。
校内行事で撮影係にまわることが増え、キャンパス内の壁には、僕の撮った写真がたくさん掲示されるようになっていた。一年生の宿泊行事のとき、死んだ親の形見である古いカメラを持っていったところ、写真を見た先生たちが任命してきたのだ。彼らのすすめで出展したフォトコンテストで初入賞した作品が、すこしのきっかけでアオイの目に触れ、そのおかげで仲良くなることができて。僕の写真を好きだと言ってくれたんだっけ。三年生に進級する頃には、趣味で撮った作品たちを彼女に見せるのが日常の一部になっていた。
ありがたいなと、思う。
正直僕は、学校生活をだいぶしんどいと感じていた。そもそも公立高校を一度退学していて、再入学してからも単位が足りずに留年するという、わけありの中でも一癖はある人間だ。撮影係を任されたときも、面倒くさいことになったなと、内心頭を抱えてしまったくらいなのだけど。僕の写真を、いつもきらきらした笑顔でまっすぐ褒めてくれるアオイの存在に、とても救われていた。いつのまにか、学校に行くことや他人と関わることが少しだけ楽になっていた。進路に悩んでいた僕をいまのアルバイト先に誘ってくれたのも、アオイだ。
だから僕は、身におぼえのない、自分とよく似ているらしい「すぅくん」になろうと思った。普段からすすんでそう呼ばれるわけではないし、ときどき彼女が「すぅくん」を望むくらいならべつにいいかなと思ったのだ。
幸い店長たちに気づかれることなく、アオイもすぐに落ち着いたので、残りのドリアを僕の腹におさめてからふたりで店を出た。十二月に入ったばかりだが、今夜はひどく冷え込んでいる。吐き出した息の白さが、いつもより一段と濃い。
「ごめんねスバル。わがまま言って、食べてもらっちゃって」
「へーきへーき。ちょうど小腹すいてたし、よかったよ。きょうは車で来たの?」
「ううん、バス。もうないから歩いて帰る」
「え、このご時世でそれはまずいでしょう」
きみは殺されたいのかい。そう訊いてしまいたくなる。
僕は自転車通勤だけど、二人乗りは交通ルールとか以前にそもそも自分がきついし、おたがい家も反対方向だ。へとへとになる未来しか見えない。ここは歩いてでも「送ってくよ」「いい」「……」なぜか急にご機嫌ななめな様子になり、ひとりで道に出てしまった。
出入り口のすぐそばにある駐輪場で、急いで鍵穴を探るものの、暗いせいでよく見えずなかなか鍵がささらない。
「アオイっ」
待ってよ、と声をあげても、彼女は走り去っていく。ようやく自転車を出せた頃には、その背中はずいぶん小さくなっていた。ツンデレ属性の持ち主でもないし、追いかけてきなさいよ、なんて意思表示には到底見えない。むしろ追いかければ僕が殺されそうな勢いだし。諦めよう。
首都圏内とはいえ、そんなものは名ばかりの淋しい地域だ。現に、まだ十時過ぎなのに人通りはないし街灯も少ないし、店の周りにも民家はあまりない。ここから南の方角、海のほうへ向かえば向かうほど、その傾向は顕著になっていく。
「まじで気をつけて帰ってよー」
南のマンションを目指し駆けていく後ろ姿に向かって、叫ぶだけにとどめておいた。
♪
お母さんは、どうして死ななきゃならなかったんだろう。
警察から連絡が来て遺体の本人確認をしたあとから、ずっとずっと考えていた。だれが殺したのか、よりも、なぜ死んでしまったのか、という問いが頭の中を埋め尽くしていた。考えていたらどんどん体が動かなくなってきて、なんにも食べたくなくなって、眠ることもつらくなった。なんだか中学生の頃の自分みたいで、わたしがどこにいるのか、わからなくなる。悲しいってどういうことか、わからなくなる。
三歳のとき、お父さんが死んでしまってから、お母さんは女手ひとつでわたしを育ててくれた。ひどく言葉が遅くても、叱ったりしないで待っていてくれた。わたしのせいで仕事をクビになっても、絶対に八つ当たりしなかった。
中学校でいじめられて、学校に行けなくなったときも、外に出られなくなったときも。
「アオイがいてくれるだけで、わたしは、きょうまで生きててよかったなあって思うの」
お母さんはよくそう言って、わたしを抱きしめてくれた。
そんな人にここまで育ててもらえて、わたしは幸せ者だと思う。お母さんの娘でいられて、よかったなあと思う。
いっぱいいっぱい、辛い思いをしてきただろうから。いっぱい、いっぱい、悩んできただろうから。両手に抱えきれないくらいたくさんのものをもらってきた分、こんどはわたしが、お母さんにたくさんのものをあげられるようになろう。二十歳の誕生日を迎えたとき、そう自分に誓ったばかりなのに。
最後のいってきますを聞いた朝、お母さんはあんなに元気だったのに。
どうして。
どうしてわたしだけが、いまもこうしてのうのうと生きているんだろう。
本当はわたしが死ぬべきだったんじゃないのかな。
布団のなかで朝になるまで毎晩考えていた。いきたい大学がようやく決まって、今年から通いはじめた予備校にも、受験が近づいているというのに足が向かなくなっていた。
きっとこのままじゃ、わたしはおかしくなってしまう。ひさしぶりの長い夢から目覚めてそんな危機感に襲われた。そして真っ先に頭に浮かんだのがスバルの顔だった。急いでシャワーを浴びて、着替えて、それだけでもうへとへとだったけれど。世界に馴染めるようにせいいっぱい身だしなみを整えて、バスに飛び乗った。
わたしの世界はどうしようもなく変わってしまったけれど、スバルは何も変わっていなくて。お母さんが死んでから、はじめて泣いた気がする。あんなに泣けるんだあって、すこしびっくりした。
でもやっぱり、スバルがお母さんのことを何も覚えていなくて、むかついてしまう気持ちのほうが大きかった。彼はなにも悪くない、そんなことは重々承知している。
「……うそつき」
頭と心と体が、てんでばらばらだ。走っていても歩いていても、足がふわふわする。
どこのだれかもわからない人間に殺されるくらいだったら、スバルが犯人ならよかったのに。わたしも彼のように、自分に都合の悪いことはぜんぶ忘れてしまえればいいのに。頭と心の間にある場所で、最低な考えが浮かんで消えていく。
数少ない街灯に照らされて、ため息が花のように広がった。立ち止まってあたりを見回しても、だれもいない夜があるだけ。こんな寒いさみしい夜に、痛みにたえながら死んでいったのであろう、お母さんを再び思った。
「あーおーいーちゃ「ひゃっ」
隣から、声がした。
「そろそろこっちの世界に戻ってきました?」
振り向くと、いつのまにかそばに停まっている黒の乗用車の窓から、若い男が顔を出していた。あんまりきれいに笑顔をつくるものだから、若干の薄気味悪ささえ感じてしまう。
見覚えが、あるような、ないような。
「なに、だれ?」
「ひどいなあ。雨宮千嘉ですよ。きみもスバルと同類なわーけ?」
「ああ……」
スバルの四つ歳上、つまりは二十六歳の兄。片手で数えてもおつりが来るほどだが、これまでに何度かの面識はあった。遠くから見れば、なんとなく似ていそうな感じだ。顔面偏差値はこいつのほうが高い。スバルが不細工だというわけじゃないけど。たしか彼は父親似だと言っていたから、チカは母親似なんだろうな。
「どの面さげて帰ってきたんですか。ここはもう、あなたのすむ場所じゃないはずですけど」
「べつにあいつのアパートには行きませんよ。ちょっと懐かしくて帰ってくるくらい、いいじゃないですか。アオイちゃんこそ、よくひとりで夜道を歩けますよねー」
完全に偶然だったけれど、よかった、スバルを振りほどいて来て。もしここに彼がいたら、文字通り発狂しかねないだろうから。
「おうちまで乗せていこうか?」
「結構です」
関わるだけ時間の無駄だ。帰って寝よう。眠れるかどうかは別として。
それに、知らない人に限らず、知っている大人でもかんたんについていってはいけません、って子どもの頃に習ったもんねえ。なにしろ、防犯ブザーを鳴らしても助けに来てくれる人なんかいないような地区に住んでいたし。
「殺されたんでしょう」
歩き出して数秒で、チカが大きな声をあげた。
「ミドリさんが、殺されたんでしょう」
思わず、振り返ってしまう。
連続殺人の被害者と、まだ決まったわけじゃない。それもあって、メディアでは匿名報道にしてもらったはずなのに。どうしてこいつが知っているんだ。
「五丁目のスーパーの近くなんじゃないですか、きみのおうち。ご近所の主婦が噂していましたよ。怖いよねえ、女の情報網って」
- Re: すばる ( No.3 )
- 日時: 2020/10/17 01:35
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
すこしコンビニに寄りたいと言われたので、車の中で待っていることにした。どう考えてもそこまで広くなくたっていいだろう、と思わずにいられない駐車場には、チカの車しか停まっていない。もしかして、店員はここに住んでいるのかなあ。……冗談だ。
FMラジオから流れる音楽が、さっきレストランで聞いたのと同じ曲だと気づく。この数か月、どこに行ってもこの曲ばかり流れているものだから、好きでもないのにおぼえてしまった。
「お待たせ。注文通りに買ってきましたよ」
「ありがとう、ございます」
ちいさなビニール袋を提げて帰ってきた彼が、温かいカフェオレの紙コップを手渡してくる。頼んだとおり、ちゃんと砂糖も入れてあった。チカはホットコーヒーの、わたしよりひとつ大きいサイズを買ったらしい。
先ほどスバルに事件のことを話したが、反応が芳しくなかったこと。高校生になって彼と再会したときからいままで、自分を思い出してくれたことは一度もなかったこと。それも含めて、これまでの一連の出来事はすべてチカのせいだと言っても過言ではないだろうと、さっき、つい感情のままに彼を責めてしまった。チカは黙ってわたしの話を聞いていた。
家族の不幸に、結果的にわたしまで巻き込む形になってしまったのは申し訳ない、とチカは謝罪した。「それだけは謝ります。ですが兄弟間の問題については、ミドリさんならまあともかく、アオイちゃんに口を出される筋合いはありませんよね」と。あくまでも平淡にそう言われて、わたしは途端に恥ずかしくなってしまった。その通りだ。お母さんはあのとき、不幸の真っ只中にいたスバルを救いだしたけど、わたしは何もしていない。口を出す資格なんて最初からないのに。
「さっきのことは気にしないでください。アオイちゃんの言うことは正論ですから。ミドリさんもきっとそうおっしゃるでしょう」
お詫びにカフェオレを奢っていただいてしまったものの、顔があげられない。
「もしよければ、僕らの実家に来ませんか。弟のアルバムなんかお見せしますよ。もちろん、彼には秘密ですけどね」
「え」
「本当はミドリさんに見せてあげたかったのですが、いろいろな意味で殺されそうでしたし、そもそも、もう……ねえ」
苦笑しながら暖房を弱めるチカを、見上げた。
まさか、それでこっちに帰ってきたのだろうか。
「どうかしましたか。あんまり美味しくなかったですかね、それ」
「い、いえ、なんでもないです。あのっ、明日にでもお邪魔していいですか? すぐ帰りますから」
慌てるわたしを、きょとんとした顔で見ている彼の視線が気まずく思えて、残ったカフェオレを一気飲みする。
「構いませんよ。僕も明日中に片付けたい仕事があるので、人の目があると非常に助かります」
ゆっくりしていってくださいね。チカはまたにっこりと綺麗に笑って、こたえた。
スバルがはじめに通っていた公立高校をやめて、編入してから、あの実家は彼の中でもう存在しないことになっているらしい。同じように記憶を書きかえ、両親とともに死んだことにされている兄がそう語る。
チカが県外に引っ越し、スバルも二度目の入学と同時に独り暮らしをするようになってから、ときどきお母さんが掃除しにいっていたのは知っていた。でもそれは初耳だ。家庭環境のことは、あえて直接訊いてこなかったから。
残された家財もほとんど手付かずなため、そろそろその処分も真剣に考えなければいけない。ハンドルを握りながらそんなことを話す隣で、ゆるやかに、けれども確実に膨らんでいく眠気にさいなまれながら、ぼんやり昔のことを思い出していた。
きのう、あんなに寝たのに。ちょっと睡眠負債がたまりすぎたかな。
※
六年ぶりの実家に担ぎ込んだアオイが目を覚ましたのは、日付が変わって三時間も過ぎてからのことだった。かつてのスバルの部屋に、適当に縛って閉じこめておいたものの、待ちくたびれてこちらまでうたた寝してしまう始末だ。カフェオレに仕込んだ眠剤、けっこう弱いはずなんだけど。
田畑に囲まれている辺鄙な地区の戸建てだし、百メートルは離れている近所の住民も、耳や脚の不自由な年寄りしかいない(まだ生きていれば)。けれども念のため、口にガムテープを貼り付けておいたので、事態を把握し呻きはじめた彼女に気づくのが少々遅れてしまった。
「仕事はとっくに辞めたんだ。俺の個人的な目的を果たすために、あの人たちに迷惑はかけられないからね」
アオイの荷物は黒いポシェットの中の、バスの定期、財布に入った数千円の現金とレストランのクーポン券、そして携帯電話だけだった。彼女の細い身体を床で転がし、うしろに縛った手の指で、指紋認証をかいくぐる。
何か言い返してくるが、どうだっていい。きちんと足も縛ってあるから、抵抗したって無駄なのだ。
「それにしても、母親が死んで自暴自棄だからって、あまりに無防備なんじゃない? 簡単に引っ掛かりすぎ。もうちょっと警戒心持とうよ」
幸い、SNSのアプリには暗証番号も必要なかった。昨日の二十三時頃、スバルで間違いないであろう人物から〈無事に着いた?〉とメッセージが届いている。とりあえず少しは休みたいし、準備もあるしで、既読無視することにして待受へ戻した。
僕が何をしているか、わかったのだろう。返事を送ったとも勘違いしているらしく、アオイがより一層激しく暴れだす。
「おまえさあ、拉致られてるって自覚ねーだろ」
それでもしつこく膝で足元に蹴りを入れようとしてくるので、ポケットに携帯をしまってから、彼女を押さえつけて馬乗りになった。
「俺、女なら誰でもいけるたちだから。あんまりうるせーと襲うよ。いいの?」
その言葉に、強気な目を向けつづけていたアオイが顔色を変え、すぐさま抵抗をやめた。自身の置かれている状況と、立場を、ようやく理解したらしい。
性暴力を受けることは、人間にとって最大の屈辱だと思う。身体的、精神的、経済的なそれよりよほど破壊力があって、老若男女が行使することのできる、最低辺の暴力。優越感や、刺激や快楽を得ることも、被害者の心や人生を壊すことも、口を封じたりその上で自分に繋ぎとめておくことも、すべてがほぼ確実に、手っ取り早くできてしまう。母親の手の中で精通を迎えた僕にとってそれは、身に染みるほど実感できることのひとつだ。
子どもの頃、学校の成績が少しでも下がると、母はヒステリックになって僕を叩いたり、無視したりした。でも好成績を維持していれば違う地獄が待っている。どちらを選んでも悪い方向に転ぶ。あの人は僕に対して息子以上の感情と、行き過ぎた期待を抱いていたのだ。狂っていると思う。
涙をため、怯えた目で見上げてくる彼女の顔が昔の自分と重なって、ひどく眩暈がした。
母を責めようとは思わない。死人を責めたところで、なんの言葉も返ってはこないから。
でも。
勝手に僕を歪めておいて、自分はあっさりと先に死んでしまうなんて。
ずるい。