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【完結】「秘密」〜奔走注意報!となりの生徒会!〜
作者: すずの  (総ページ数: 39ページ)
関連タグ: 推理 恋愛 生徒会 
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10~ 20~ 30~

*24*

 体育の時間だった。少し気分が悪い僕は見学を申し出て一階のトイレに向かった。体育館の一階には、大きなトイレの他、障害者用のトイレ、そして男子共に更衣室があるのと、柔道に使われる畳部屋なんかもある。その女子トイレに入った瞬間、あの独特な臭いを察知し、ゆっくり歩を進ませる。すっぱくてどろっとしているあの臭い……彼女は洋式の便器に顔を突っ伏し――吐いていた。胃液から何から全て吐いていた。
 どうして彼女だとわかったのか、と問われれば個室の扉を開けっ広げにしていたからだ、と答えるだろう。周りには彼女の吐瀉物と思われるそれが床にぽつぽつ散らばっている。もしかしたら吐きながらトイレに入ったのかもしれない。
 当初の用をたすという目的がすっかり吹っ飛んでしまった。考える暇など皆無だった。僕はとりあえず彼女が吐いている個室にゆっくり近づいてみる。
 怖いもの見たさというやつだ。この行為は普通、彼女に対する気持ちが一瞬にして消え去ってしまうかもしれないが、そんなこと僕は考えられなかった。彼女の気持ちが消え去るなんてことはまずありえないし、心の中に一瞬で出来た怪物のような好奇心をなんとか沈めたかったんだと思う。
 どうやら吐き終えたみたいで便器にまだ顔を突っ伏したまま、ぜえぜえと荒い息を繰り返していた。
 僕は彼女を刺激させないように、掃除道具入れのロッカーからぞうきんをとってくると、水でしぼり床を拭き始める。
 今思えばどうして自分がそんな行動に出たのか不思議でたまらない。物凄くタイミングの悪い時に居合わせ、衝撃的な彼女の姿に、気が動転してとりあえず床を拭こうと思ったのかもしれない。正直「想っているだけでいい。僕は行動になんか移さない」という僕の誓いは完璧に消し飛んでしまった。
 荒い呼吸が段々おさまり、周りの状況が判断出来るようになると彼女は、口元にまだ涎が残ったまま、困惑と疑問が入り混じったような瞳でせっせと吐瀉物を拭いている僕をじっと見つめてきた。
 僕が何者なのかきっと自分の記憶から掘り下げようとしているのだろうが、残念、彼女の中に僕の記憶なんてないのは僕が一番よく知っている。だって、記憶させた覚えなんてないから。
 床に散らばっている全ての吐瀉物を拭き終えると僕は彼女がさっき吐いたばかりの個室に入って行く。便器の中で水に浮いている吐瀉物に目を当てないよう、代わりに洋式のレバーを引いて流してやる。
「あんた、誰」
 これが、僕と彼女が初めて言葉を交わした瞬間だった。彼女の声は、もう蠟(ろう)がつきる寸前のろうそくのように頼りなく、か細い声だった。
 ずっと見ているだけだった彼女が今、僕の目の前で喋っている。僕は息を呑んだ。
「瀬戸さんは僕のこと、知らないと思う」
 必死に冷静を装いながら、声が震えないように気を付ける。
「なんであたしの名前、知ってるの?」
 心臓の心拍数が大きく跳ね上がる。
 ここでずっとあなたのことを見ていましたと告白できる勇気があれば、どれほど苦労しなかっただろう。
 何の躊躇いもなくじっと見つめてくる瞳に耐えかねて、僕は視線をそらす。
「有名だしね、瀬戸さん」
「悪い意味で、でしょ? わかってるわよ、そんなこと」
 瀬戸さんは唇の端だけで笑った。
 彼女がどうして下呂をしているのか、もうそんなことはどうでもよかった。
 問題は、目の前で彼女が僕の目を見つめ、僕と話をしていることだった。例えこの下呂の原因が人には言えないとしても、それでも僕は彼女と喋れるというだけで、嬉しく思ってしまったのだ。それくらい彼女と話したかった。この時間で、このタイミングで授業から抜けていないとだめだったのだ。
「まだ吐く?」
 個室の壁にだらしなく体を預けている瀬戸美桜を、見下ろし問うた。初めて視線と視線が交り合った瞬間だった。だけど、その名の通りそれは一瞬の出来事ですぐに彼女は視線をそらし、すくっと立ち上がってしまった。
「もう吐かない」
 僕を押しのけるようにして個室から出ようとする。彼女の金髪が僕の肩よりも上でなびいていた。
 彼女は僕がどう声を掛けようか、迷っている間に何回も口をゆすいだ。しかし、僕の視界から彼女の体が消えるのと、彼女がトイレから出て行くのはほぼ同時だった。
 片膝をつき、今度は扉付近でお腹を押さえうずくまる。
も う四の五の言っている場合ではなかった、僕は急いで彼女の元に駆け寄り、背中をさする。そして、背中をさすっている間、僕は咄嗟の出来ごとであっても彼女の体に躊躇なく触れていることに、驚いていた。そしてもう一つ、驚いてしまったことがある。
 彼女の背中を撫でようと、彼女と同じように屈んだ時だった。確かに見えた。制服の襟の隙間から、背中に大きな一本傷が。こんなところを自分自身で傷つけることは出来ない。ということは、誰かに乱暴されているのか――そこまで考えたところで、「水、水」と訴えかけていることに気付いた。
 僕ははっとしてこの恐ろしい考えを振り払い、靴もそのまま体育館の入り口から外へ出ると、右にある給水機で備え付けの紙コップに水を入れた。
 零さないように速足でまた戻ると、彼女の姿はなかった。一体、どこへ行ったのか、まさかあの状態のままどこかへ行ったのか、と頭の中で処理しきれないほどの膨大な思念が次々に飛び交ったが、しかし、その心配は杞憂に終わった。女子更衣室から手招きが見えたのだ。
 トイレの奥にある、誰にも使われていない女子更衣室だった。トイレの前を通り過ぎると、まだ彼女の吐瀉物が残っていた。後で片付けてあげよう。
 僕は、慎重に紙コップをうなだれている彼女に渡すと、彼女は一瞬で飲み干してしまった。
「まだいる?」
 と、思っていたよりもぶっきらぼうに聞くと、
「もういらない」
 案外、しっかりとした口調で彼女は答えた。
 僕はその様子に少しだけほっとした。
 普通、人が吐いているところを見ると自分も吐き気が催されるとか言うけれど、それは本当にその人が大事な人では断じてないと認識しているからに違いないな、と僕は彼女の吐瀉物を始末しながら思う。
 更衣室に戻ると、彼女はうなだれていた体を起こし、体育座りをしていた。手持無沙汰になった僕は彼女の隣へ、静かに、慎重に、腰を下ろした。
 シミ一つない、白い壁に視線を投げる。濃い霧のような沈黙が二人を包みこんでいった。
 何も喋らない彼女を横目に、僕は小さくため息をつく。先ほどの張りつめた緊張感から解放された、安堵のため息だった。
 トイレに行くと断ってから、既に何分が経過しているだろう、先生は怒っていないだろうか、と他のことにも意識が向いた時、
「もういいよ、吐かないから」
 唐突に、霧が破られたかと思うと、彼女のくぐもった声が僕の耳にゆっくりと届いた。しかし、その声と共にまた、嘔吐をする時の、あの特有の声が一緒に聞こえてきた。彼女の意思とは無関係に、体は喋らせまいとしていた。
「二度も吐く人を、放ってはおけないよ」
 真実だった。人として当たり前の選択、無難な選択だと思った。僕が、彼女のことを好きだから、そういう下心が一切なかったとは言い難いけれど、「もう吐かない」と言っておきながらすぐに二度目の嘔吐をするような彼女を僕は放ってはおけなかった。
 また背中をさすってやる。
「もう何も言わなくていいから」
 僕はまたぶっきらぼうな口調で、彼女にそう告げた。本当はもっと優しい声で言ってあげたいけれど、この状況でそんな器用なことが出来る程、出来た人間ではなかった。
「……いわないの」
 ぜえぜえと荒い息の中、彼女の声が聞こえた。
「ん? なんだって?」
 僕は彼女の口元があるであろうところに顔を寄せていく。まるで心臓の音を聞き洩らさないよう、神経を研ぎ澄ます医者のような気分だった。
「……先生に言わないの? 私がここにいるって」
 なんだそんなことか、と少し拍子抜けしてしまった。彼女が荒い息の中で聞きたいことはそんなことなのか。愚問だ。例え想っている彼女ではなくても、こんなことになっていたら言わないと思う。保健室に行かないということはそれなりに理由があるだろうし、他人が嫌がるようなことをしてはいけないと学校で習ったことがある。体調不良の人を無理に動かすこともない。余計、面倒になるだけだ。先生というものは、事を大きくすることにだけ関しては専売特許みたいなものだから。
「言わない」
 今度は少しゆっくりと言葉を発音してみた。ぶっきらぼうな口調が少しは改善されたはずだった。

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