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*25*
「一番知らされたくない相手は、きっと先生だろうし、そんなこと率先してやらないよ」
彼女の息が段々と静かになっていく。
確かに、学年一のヤンキー中学生、瀬戸美桜が体育の授業も受けずに、ましてやこの健康状態で、先生に何も言わないのはきっと常人から考えれば間違っているのかもしれない。しかし、僕にとっては、大切な時間なのだ。例え彼女が僕に対して「親切な人」としか思っていなかったとしても。
彼女は僅か数分前の質問を再度繰り返した。
「あんた、誰」
数分前と違うところと言えば、彼女がしっかりとした口調で僕の目を見つめて言っていたことだった。本当はもっと聞きたいことがあるけど、この状態じゃ多く喋るのはままならないから最重要事項だけを聞いたという感じが、彼女の表情で見てとれた。
僕はゆっくりと息を吐くと、これ以上はないという程に忌み嫌う自分の名前を告げた。
「――橘涼」
この名前を聞いた最初の人の、次の言葉はもうわかっている。これは僕が実際に経験した経験則から基づくものであり、外れたことはない。きっと彼女はこう言う――男子みたいな名前ね。僕の周りの人は、十人中十人はそう言う。だから彼女もそう言うんだろうと、思っていた――。
「ふうん。なんだか噛みそうな名前」
自然と目が大きく見開くのがわかった。
「――何を驚いてんの」
違った。
「ねえ」
彼女だけは違った。
「ねえ、聞いてんの?」
彼女だけは――。
「何をそんなに驚いてんの?」
「……初めてなんだよ。『男子みたいな名前』って最初に言わない人は」
彼女はさっきの僕と同じような、なんだそんなことか、と言いたげな表情で僕をまた見つめ返してきた。
「何を言ってんの。そこらへんと一緒にしないでよね」
彼女の頬が、少し弛んだ気がした。僕は、その時の彼女の表情、今でも覚えている。
それから僕達は、週一でトイレのとなりにある女子更衣室でさぼるようになった。普通、体育は二クラス同時に展開されるから、教室を男女交換して着替えている。ここの女子更衣室を使うことはほぼなかったのだ。そして秘密の雑談が始まる。秘密の雑談と言っても、大抵は彼女が保健室に行きたくない程の傷をつけた時や、また体調が悪くなった時にここに来るといった、偶然的なものだった。僕もそれでいいと思っていた。こんな曖昧な関係しか保てないと思っていたし、もうここから僕と彼女が親密になるということはないだろうとも思っていた。僕が一方的な片想いだけで、彼女が近寄ってくるということはないはずだ。こんなにも世界が違う僕と彼女を、たった一度の偶然が引き合わせてくれただけでも有難いことなのだ。
非行少女と言われるだけあって、大抵の悪は全てあらかたやってしまっていた後だった。お酒、たばこ、不純異性交遊……両手では数えきれないほどの、事件を、まるで昨日の晩御飯の献立を言うみたいに喋ってくれた。僕にとってそれは壮絶な過去と言わざるを得ないのだが、彼女にとってしまえば常人とあまり変わらないのかもしれない。
それから、彼女は自分の生い立ちについての話を聞かせてくれたこともあった。
彼女は、大きな不動産屋の社長の娘として、厳しい教育を幼少のころから受けていた。彼女は姿形がよく、頭の回転もはやかったため、叔母や叔父、祖母や母や父といった家族にこれでもか、と愛されて――つまりはわがまま放題に育ってしまった。
人は自分が頑張らなくても寄ってくるし、何不自由ない生活をしていた。世界は自分中心に回っていると本気で思っていたらしい。彼女はこの時、純真無垢な幼い少女だったのだ。いつしかその幸福な日々が崩れ去り、厳しい現実が現れ、牙を剥(む)くことも知らずに。
彼女に集まってくるのは、何も母や父に選ばれた由緒正しき家柄のお友達ばかりではない、悪い奴らもいるのだ。それを何もしらない彼女は、小学校五年生にして、その悪い奴らにそそのかされて、たばことお酒を口にしてしまった。その瞬間、親戚中から、おじやおば、祖母まで彼女のことをまるで化け物のような目つきで見るようになったのである。
その瞬間、彼女はショックというか、衝撃を受けたらしい。
今まで優しくしていた友や家族や親戚までもが、掌を返すように態度が変わり孤独感を覚えた。人生初めての孤独感だったという。
「星回りなのよ」
彼女の口から聞き慣れない言葉が飛び出した。
「星回り?」
「そう、星回り。もうどこにも逃げられない運命なのよ。私がこうなることは全て仕組まれていたの」
彼女は、まるで怒る風もなく淡々と事実だけを述べていくように、淡々と口から言葉を発した。
「私がどうしてこんなことをするのかって思うでしょう? 不毛だとも思うし、何度もやめたいって思った。今度こそ、もう好きじゃない人とセックスをするのはやめようとか、お酒はやめようとか。でももうどうにもならないの。どうにもならないから、どうすることも出来ないのよ。私はね、あの時からなんだかおかしくなったのよ」
「あの時って……たばことお酒?」
「……ううん、もしかしたら私が生まれた瞬間にもう仕組まれていたのかもしれない」
僕は、彼女の背中に刻まれている一本傷を思い出した。
こんな突飛な話を、きっと誰しもが笑い飛ばすだろう。そんなことはあり得ない、と。どこにも逃げられない運命をもし信じてしまえば、それは自身で決定してきた全てを否定していることになる。星回りという言葉で、人生の決定を放棄しているのと同義なのだ。しかし、僕は頭ごなしにこんなことを言うつもりは毛ほどもなかった。
彼女の「星回り」という言葉を聞いた瞬間、何かが腹の中ですとんと落ちたような気がした。腑に落ちたと言った感じだった。何故、今まで気がつかなかったのだろう。自身の選択とは全く関係のない所で、どこにも逃げられない、自然とそうなっていた、いや、そうなってしまっていた――星回り。僕は彼女の瞳に自信を投影させた。きっと、僕の瞳にも彼女が映っているのだろうと思った。
「僕も星回りなのかもしれない……」
「え?」
彼女がなんて言ったの? と再度問いかける。しかし、その問いかけに僕が答えることはなかった。
僕の運命が、星回りが、忌み嫌い、憎み、妬むものだったとしても、彼女に出会えたからそれでいいのかもしれない。
僕は、ただ彼女の問いに笑みを返した。
彼女は何かを感じ取ったのか、何も言わず、同じようにまた笑みを返してくれた。
彼女は本当に、誰かに守って貰わなければ立てないような、そんな弱さを常に抱えていた。
そんな彼女を、僕が守りたいと思ったことだって一度や二度ではない。そうすることが出来れば、とも。きっと今の彼女に必要なことは、守ってくれる「誰か」なのだ。しかし、心の奥底でそうは思っているものの、行動に移すことは絶対に出来なかった。彼女は僕の心の中にあるどろどろとした執着心と嫉妬心が内在しているなんて――僕が友達以上の感情を抱いていることなんて――これっぽっちも考えはしないだろう。当り前だ、表の方に出すまい、出すまいとずっと気張ってきた努力の甲斐がある。僕は彼女と数十分だけでも笑っていられればそれでよかったのだ。
しかし、彼女に対する想いは日に日に強くなり、僕自身もう抑えきれなくなっていた。爆発寸前だった。四六時中彼女のことを考えてしまう。中途半端に関係を保ち続けているから、尚更独占欲が湧く。もっと、もっと欲しくなってしまう。だが結局は毎回、同じ所に帰結する。
僕のこの気持ちを受け止めてくれる訳なんかない。
彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ度に、今にも押しつぶされそうになっていた。
体育大会の練習が佳境に入る頃、三年生はこれで中学校生活最後ということもあって、本番間近の熱気は高まっていた。
しかし僕達は周りがどうだろうと相変わらず、いつのもように体育の時間をさぼるために嘘をついた。仮病の嘘ももうそろそろ底をついてきた。どうしようかと思いながらまたトイレの隣にある更衣室に向かう。僕は普段真面目に授業を受けているから、ただ体育が苦手としか見られていなかった。まさか、この学年一の不良とさぼっているだなんて、夢にも思わないだろう。